人生の結論


 先日、初期の『お言葉ですが…』を読み返し、あらためて当時の充実ぶりに感嘆した。まさに何十年ものあいだ熟成されていた知識が堰を切ってほとばしるようで、圧巻という以外ことばをもたない。昂奮もさめやらぬその夜、出版されている高島さんの著作はすべてを読破したはずだが、もしかしたらまだマイナー出版社のものがあるかもとインターネットで検索をしてみた。

 私のようにかってに高島さんを師とあがめているかたが多く、そういうホームページがたくさんあると知る。ネットを通じ、見知らぬ人に親近感を持つ瞬間である。どこともリンクしていないこのホームページだが、もしもするとしたら、同じく「『お言葉ですが…』をテーマにして展開しているサイト」となろう。

 そんな中、兵庫県相生市でホームページをやっているかたのサイトを見つけた。高島さんの文章が載っているらしいのでいってみた。相生は高島さんの出身地である。そこの地元情報誌なのであろう「相生ライフ」というのに高島さんの寄せた文章が、このホームページに再掲されていた。地元出身の有名人であるから、こういう接点もあるのだろう。読んでみた。なかなかこれは興味深い文章だった。
 以下はそこからの引用である。




http://www.page.sannet.ne.jp/mahekawa/index.htm
「相生ライフ」 2000年1月2日号より

だれもがすることはするな         高島俊男

 中学生のとしごろというのはこどもが少年になって自我ができてくる時期で、この時期の環境がほとんどその後の人生を決定するのではないかとおもう。

 わたしは昭和24年、できてまもない那波中学校にはいった。まだ千尋にあったころである。

 あとでかんがえれば戦後の教育制度改革の混乱期だったのだが、先生にはめぐまれた。いまでもなかまがあつまると当時の先生がたのはなしをしてなつかしむ。

 わたしがもっともつよい影響をうけたのは、2年生、3年生と国語をおそわり、3年生では級担任でもあった故大ケ瀬幹人先生である。当時はたちをすぎたばかりのわかい先生だった。わたしの人生のおおすじはこの先生にきめられてしまった、とおもっている。

 いまでも、先生のいわれたことを何百もおぼえている。いっぺんにはでてこないが、おりにふれてヒョイとうかぶ。無論すべて、国語の授業とは直接関係のないことばかりである。

 友人たちが一様につよく記憶にとどめているのは、――あるとき先生が「わるいこととしってわるいことをするのと、しらないでするのと、どっちがわるいか」とたずねた。みんな「しってするほうがわるい」とこたえた。先生は、「いや、しらないでするほうがわるい」といった――という件である。先生は逆説がすきであった。

 わたしがもっともつよく影響をうけたのは、「だれもがすることはするな」ということだった。

 ただし先生がこのとおりいったかどうかはおぼえていない。むしろ「ベストセラーはよむな」とか、「だれもがいく名所旧蹟へいったってつまらない」とか、「みんなが受験勉強をするのならきみがすることはない」とかの個別のことばを綜合して、「だれもがすることはするな」というメッセージとしてうけとった、ということだろう。

 以後50年、このことばにしたがってあるいてきた。しかしこれをひとにすすめる気は毛頭ない。あきらかにソンだからである。

 わたしの人生は失敗であったが、なぜ失敗におわったかをかんがえてみると、その出発点にこのことばがある。つまり大ヶ瀬先生は私をしくじらせた元兇であるわけだが、しかし生涯にであったおおくの先生がたのなかで、一番なつかしい先生であることにかわりはない。ひとは、自分にトクをさせてくれたひとばかりをなつかしむわけではないようだ。




 この文章が単行本に収録されることはないだろう。もしもインターネットがなかったなら、私などはまず絶対に触れることのない文である。それがこうして読めるのだからなんともありがたい時代である。

 それにしても相変わらず高島さん、ひらがなの多い文章(=漢字を使わない)である。知らない人が読んだら、この人はかなり知的レヴェルが低くあまりに漢字を知らないと呆れるだろう。そうするだけの思想的基盤を知っているこちらからするとそれが痛快なのであるが。

 疑問に思ったのは「2年生」「3年生」「50年」という算用数字の部分。高島さんがこんな数字の使い方をするとは思えない。「相生ライフ」の規則でかってにいじったのか。それともこの引用した人が変えたのか。気になる。

 この文章を引用し、再掲した人は高島さんのファンではない。彼が愛しているのは相生市という故郷である。このホームページのテーマは「相生市讃歌」となろう。よって、このふるさと讃歌になっていない高島さんの文章には批判的である。この人もここに登場する高島さんの恩師を知っているようで(このかたもそれなりの年配者である)、「高島さんはソンをしたと書いているが、私は先生のこのことばでトクをした」と反論気味に自分の経験を書いている。
 以下は私の感想である。


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 これはなんの中身もないつまらない文章である。こういう形の短文では高島さんの能力は発揮されないし、また高島さんも発揮しようとも思わないのだろう。無内容な駄文と言える。手抜きとは思いたくないが。
 この文章を掲載したホームページ主催者も、これといった中身もなく、彼が期待したのであろう郷土愛もなければ、恩人に対する心温まる逸話もない──いやむしろ感謝すべき恩人に弓を引いているような話に──かなりの反感を持ったものと思われる。
 客観的に見た場合、まさしくその通りであろう。「『お言葉ですが…』の高島俊男さんが書いたもの」という前提を抜きにしてみたら、これは「相生ライフ」に限らず、その辺の雑誌に載る短いエッセイとしても、悪文駄文に属する出来具合である。

 しかし「『お言葉ですが…』の高島俊男さんが書かれた文」を前提として見れば、かなり興味深い文になる。いかにも高島さんらしさにあふれているのだ。
 高名な絵師の描いたラフなスケッチがあるとする。その真贋を巡って議論が白熱したりする。それにたとえるなら、これは間違いなく高島さんの文である。やたらひらがなの多い文はもちろんとして(それは簡単に真似できるものであるが)、ここにある「ひねくれぐあい」こそが高島さんの真骨頂だからだ。それにしても見事である。ここまで「高島さんらしさ」を突っ張ってくれると爽快感さえ感じる。ただしそれは熱心なファンだからであって、『お言葉ですが…』を知らない多くの読者は反感を抱くのが自然であろう。

 なにがすごいといって、高島さんは文章を書いて金をもらう(もらったと思う。ただじゃないでしょ? いくらそういうミニコミのような出版物でも)のに、商売相手の意図をまったく無視している。「相生ライフ」という出版物がどのようなものかは知らない。想像はつく。間違いなく地元の文化紙のようなものだ。

 編集者が高島さんに望んだのは「相生讃歌」であろう。「大学生になってから東京に出たが、このごろは故郷が恋しくてたまらない」でもいい。うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川、の風景礼賛でもいい。欲しいのはそれだ。高島さんはこの当時、週末に相生に帰って幼なじみと痛飲するのを楽しみにしていると書いていた。だったら竹馬の友讃歌でもいい。どんな形でもいいからそれは、地方である相生を褒め称え、読者であるそこの住民をきもちよくさせることであったろう。
 編集者から願われたテーマは「人生で、忘れられないひとこと」か。あるいは「恩師の想い出」か、「人生で影響を受けた人」か、いずれにせよ望まれていたのは、「心温まるエピソード」であり、「できればホロリとさせてくれ」だったはずだ。

 高島さん、もののみごとにぜんぶ裏切っている。一応金をもらって書く原稿だから、望まれたよう「心に残るひとこと」も「恩師の想い出」も書いてはいる。あくまでも「一応書いてはいる」だ。なにしろその先生のひとことを聞いたために人生を失敗したと言い切っている。その先生と出会ったばかりに人生を失敗したが、いちばんなつかしい人であることにはかわりないと、ヤケクソ気味に結んでいる。いや決してヤケクソなんかじゃなくて、これが高島節なんだけど、高島さんを知らない普通の人がこれを読んだら、ヤケクソとか居直りとしかとれないし、登場する先生の遺族が読んだら皮肉と採るだろう。

 ヤケクソでもなければ皮肉でもない。孤高のひねくれ仙人である高島さんのごく日常のものいいである。高島さんのファンからすると自然な文章であるのだが、私は売文業の一員として、これはとんでもなくすごいことだとあらためて感嘆せずにはいられない。
 私が同じような発注を受けたなら、腹の中では高島さんと同じ事を思っていたとしても、文章はもっと丸く収めてしまうだろう。それが商売ってもんである。かといって私だって、自分の単行本の中でなら人には媚びない。自分の考えをきっちり言う。問題はその使い分けだ。それをするのが商売人であり、ある意味それでこそプロと言える。

 なのに高島さんはそれをしない。波風立てずに適当に丸く収めるべき(簡単に収められる)地方新聞へのの寄稿短文でも姿勢を変えない。その点、メディアによって態度を使い分ける私のような大部分の物書きは、俗物であり姑息となる。一面常識人とも言える。一方、高島さんは、常に筋を通す傑物ではあるが、偏屈な常識知らずとも言える。まことにファンとしては、思わずうなってしまうような駄文であり名文であり迷文であった。
 それがひとつの感想。もうひとつある。これも心に残った。

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 高島さんがご自分の人生を「失敗だった」と言い切っていることである。なんともこれには胸が痛んだ。
 東大経済学部を卒業してから、社会人になって金を貯め、文学部に入り直し、大学院に進んで念願の中国文学を専攻した高島さんにとって、「失敗」ではない人生とはなんだったのだろう。東大閥の象牙の塔の中で自分を中心とした中国文学を展開することだったのか。権威となることだったのか。

 その辺の主流路線から外れるに至る経緯は未だにお書きになっていないので詳しくは知らない。それでもたまにポツリポツリ出てくる過去の話で、一流とは言い難い地方大学の講師としてあちこちで仕事をしていたことがうかがい知れる。私の田舎の茨城大学へも週に一度ずつ講義に通ったことが書かれている。東京から水戸まで通うのはけっこう難儀だったろう。それは学者として真ん真ん中を行くことからすると「失敗」だったのだろうか。いや、だったのだろう。間違いなく。
 自分のことを自慢しない高島さんだが、「水滸伝」に関する著作では、自分の研究は日本でも最先端のはずだから安心して読んで欲しいと堂々と言い切っている。学会の感覚からすると、高島さんは野に落ちた賢者なのだろうか。

 私自身は、学者として不遇だった高島さんが、その間にため込んでいた厖大な知識と、決して主流ではなかった鬱屈不満が、『お言葉ですが…』という場を得ることにより(それ以前に発刊された本も抜群におもしろいが)まさに最良の形で展開し、世の中に流布されていったと思っている。「大成功」になる。
 高島さんのすばらしさ、すごみは、東大教授になっていたらうまれなかったものであろう。それを愛読者として、かってに師匠とあがめているひとりとして、僥倖と思うのだが、ご自身ははっきりと「私の人生は失敗だった」と言い切ってしまっているのである。この感覚の差はきつい。

 たとえばスポーツ選手は、なんらかのケガによって選手を断念し、その転向が明と出て副業のビジネスで大金持ちになったとしても、後々まで「あのときケガさえしなければ」と、人もうらやむ生活をしながら、いつも歴史に名を残す選手としての自分を夢見るのであろう。「こんなはずじゃなかった」と。
 高島さんの感覚も同じなのだろうか。東大教授になり中国文学の権威となったとしても、いまほど全国津々浦々の人に慕われ、敬われることはなかったろう。エッセイストとしていくつもの賞を受けた。文庫本の解説で目黒孝二さんが書いているように、博識と名文の絡み合いは「奇蹟的な結合」だった。いい人生だ。なにが気に入らないのか。結婚をしなかったからか。子がいないからか。

 かといって、ここに私が書いているようなことをご本人が言い、「大学に残らなくてよかった。いい人生だ。しあわせである」なんて書いたら高島さんらしくないことになる。それに対する反発もうまれよう。負け惜しみととる人もいるだろう。
 なにより凡人が、自分を納得させるために、平々凡々な自分の人生だったが、これはこれでよかったのだ、自分はとてもしあわせだったと口にするのは、聞いていて気持ちのいいものではない。私は周囲にそういうのばかりがいる凡庸な環境に育ったので毛嫌いする感覚が強い。なのに高島さんのように言い切られるとまたおろおろしてしまうのだから小人は始末に困る。
 そう考えると、高島さんとしては、こう書くしかないともなるのだが、尊敬する人から「私の人生は失敗だった」と言い切られると、なんとなくこちらはたじろいでしまうのも現実である。

 私自身は、腹の中の本音はともかく、人前でこうは言い切れない。書けない。と考えると、こう言い切れるのもまたそれなりのものを遺した人の達観とも感じてくる。
(03/6/1)





 後日調べてわかったのだが、「相生ライフ」というのは、地元の印刷会社が無料で新聞に挟んで配布しているミニコミ紙だった。






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