ひとつはひとつ




『作業記録』より転載。数字は日附。
( 02/11/28)
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『お言葉ですが…』論考-縦書き横書き」に書いたように、私もこのホームページのような横書き文章では、なるべく努力して「25日」とか「150円」とか書くようにしている。そのほうが読みやすいし、漢数字のようにくどくならない。世の中がどうしようもなくそっちに流れているなら、自分なりに合わせようという気持ちもある。「縦書き横書き」に書いたが、現実問題として今後私の書く商業文章がそう表記されるようになってしまう可能性はかなり高いのだ。

 だが固定している表現をそうする必要はあるのだろうか。そのことに悩む。たとえば「一日」を「1日」と表記する必然はあるのだろうか。この場合、「一年は365日である」との文を受けたなら、「1日」は単位としてそう書くべきなのか。さらにはこの場合ならもう「1年」「1ヶ月」とすべきなのか。

「3年は1095日である」のような場合は、テーマが数字になっているからこれでいいのかもしれない。横書きの中国ではその表記に統一されている。中国では新聞等も「1週間」は「1星期」と表記されている。
 一週間の場合も、1年は52週から、「27週目の月曜」とか「35週の土曜日」のような表現が連続するなら、そうしたほうがいいかもしれない。わかりやすい。

 自分のことで考えてみる。私がこの表現を使用するのは、一週間、二週間、三週間、程度であろう。四週間は一ヶ月だ。まず二十七週間とか、三十五週間とかは使わないから、一週間以外も、3週間、4週間にせず漢数字表記でいいと思われる。



(02/12/1)
 土曜の深夜、フジテレビのニュースを見ていて、テロップに驚いた。鳩山さんの発言が「少なくともその内の1つを実現したい」となっていたのだ。「ひとつ」「一つ」どっちでもいいが、とうとう世の中は「1つ」の時代になったのか。頭が痛くなった。あ、もちろん鳩山さんの責任じゃない。テロップを作るテレビ局の問題だ。

 思い出話。私がビデオ制作に関わっていた四半世紀前はこのテロップを作る専門の会社があり、発注するのが面倒だったものだ。画面にテロップを入れることがまだ難しい作業だった時代である。もちろんテロップなんて専門用語は業界人しか知らなかった。私のいた会社はそれの制作にTBSの下請け会社を使っていた。下っ端の私はよく発注と受け取りに赤坂のTBSまで行かされた。今じゃコンピュータで瞬時にして作れるんだろうな。よくしらんけど。だって電気店なんかにあるあの値段のビラだって昔は作るのたいへんだった。専門の技術がいった。今あれがパソコンで簡単に作れること、それ専用のソフトがあることは知っている。

 若いアンチャンネーチャンが作ったテロップだからとも言えるけど、テレビ局は規定で動く。一覧表がある。となると今は、「ひとつは1つ」と指示書があるってことなのか。なんともやりきれない気がする。



 岩波書店から出版されている、<もっと知りたい ! 日本語>というシリーズものがある。今現在四冊出ているが、そのうちの一冊「ケジメのない日本語」を書いた影山太郎氏は、横書きでこの書を出した。他の三冊は縦書きである。私は同じシリーズの中に、縦書きのものと横書きのものがあることには、ちょっと違和を感じたが、これは影山氏の強い希望なのだろう。

 氏は、著書の中で、というか、書の題名にそれが如実に現れているのだが、日本語を「ケジメのない」という発想で、その言語の本質を規定しようとしている。これは、よく言われてきた、日本語は論理的な言語ではないとか、日本語は主語を明確にしないから曖昧な表現に終始するものであるとか、いわゆる欧米語と比較しての、自虐的な言語観の延長にある見解だ。日本語には日本語の論理の中での整合性がある。それを他国の言語観と比較して、その価値を論じることは間違いである。性質の違いを論じることはできても、それを価値にまで敷衍するのはおかしい。

 氏は例えば、「少年は湖でおぼれたが、無事助けられた」という表現で、「おぼれる」という動詞による表現を「ケジメがない」と考える。つまり、英語で「おぼれる」に該当する動詞は、drownだが、drownは「水の中で窒息して死ぬ」という意味なのであって、語の意味する境界は明確だが、日本語の「おぼれる」は、水中でもがくという動作と、その結果死ぬという動作のどちらをも表し得て、境界が不明瞭で、「ケジメのない」言葉だと指摘している。
 しかし、私に言わせれば、それは日本語の「おぼれる」はそのような動詞なのであって、別段それを英語のdrownと比較して、性質の違いを論じるだけならよいが、境界が不明瞭だ(からケジメがない)と価値判断をそこに付与する必要はないのだ。

 最近では、このような自虐的な言語観を持ち出す人は、あまりいなくなってきたものと思っていたのだが、やはり影山氏のような人がまだいるのだとちょっと驚いた。氏の横書きスタイルもそんなところから来ているのか。
 氏が日本語の本質を説明しようとしている理屈はよくわかる。しかし、その規定の仕方を「ケジメのない」という言いかたで表そうとするところに、いささかながら反発を感じる者である。




(02/12/2)
 それを読んでいる内に自家撞着に気づいた。私は「ひとつを1つ」としたフジテレビのテロップに不満を述べているが、これは普段私の言っていることと矛盾すると気づいた。

 和語の「ひとつ」は「ひとつ」と表記するしかない。漢語を当てはめた「一つ」もアラビア数字を当てはめた「1つ」も、「輸入された言葉を和語に当てはめた」ことでは同じである。「一つはいいが1つはいやだ」というのは、「英語かぶれはイヤだが漢字かぶれはいい」とするのと同じで、それはおかしいと言っている私の持論に背くことになる。

 田中康夫の英語多用(公僕をpublic servantと言うような)も、二子山部屋の大関横綱昇進時における応答の四文字熟語濫用(一意専心とか色々あった)も、よそ様の言葉はえらいと考える日本人のアイデンティティであり、共にかっこわるい。そのかっこわるさの本質は同じである。

 しかしながらまだまだ漢字信仰の強い一般では、田中のそれに反感を抱き、二子山のそれをなかなかいいではないかと思う人のほうが多いだろう。二子山部屋の場合は、さすがにあまりに不似合いな唐突さゆえ失笑を招いていたが、それでもごく一般的に、四文字熟語を使うと正しい日本のインテリと感心し、英語多用はアメリカかぶれと眉をひそめる風潮はある。この場合、英語濫用をかっこいいと思う人は最初から論外である。そういう人を想定してこの文を書いていない。

 私自身は英語濫用に反感を抱いてきた者だが、高島俊男さんの影響により、漢語乱発も基本的には外国語崇拝の同じようなものなのだと目覚めたわけである。ここのところのバランスの取り方はむずかしい。ある意味、公僕という言葉から脱出しようとpublic servantと使う田中は、支那に毒されてきた日本に正しい感覚をもたらそうとする希望の人とも言えるのである。実態は単なる白人かぶれであろうが。どの程度のひとかは「なんとなくクリスタル」でわかる(笑)。

 漢字をより高く評価する人は、日本の文化との関わりの深さを主張するだろう。英語は明治以後でしかない。だが肝腎なのはこれからだ。社名が漢字を辞めカタカナやアルファベットになってゆく時代である。それは単なるかっこつけではなく、資源もなく、貿易立国として生きる道しかないのだから、白人各国との貿易のためにわかりやすい横文字社名にするのは必然の選択なのである。TOTOもINAもそれで成功した。TOYOTAもSONYもしかり。渋谷新宿で周囲を見渡せばカタカナとアルファベットばかりだ。今までの「漢字」にこだわるのも大切だが、そのことに執着するあまり適切な判断を見誤ってはならない。

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 難しいことを論じるアタマはないので手っ取り早くまとめると、「ひとつ」は「1つ」でいいのだと思う。それが時代の要請だ。言葉は記号としての価値も大きい。鳩山さんが言った「よっつのうちのひとつは実現したい」は「4つの内の1つ」としたほうが、視覚的にも伝わり、効果が大きい。それでいいのだ。

 私自身は、ひとつ、ふたつを大切にしたいと思うし、これからもそうしてゆくけれど、現実にはイチ、ニと数えるほうが早くて便利だ。「ジュウ」を「とお」とまでは言うが、「ジュウイチ」を「とおあまりひとつ」とはやっていられない。漢字輸入以前に作られた和語はまだるっこくていけない。と同時に、競馬などでよくやるのだが、9番(キュウバン)を音の似た10番(ジュウバン)と間違えないように「ここのつ番」と言い変えたり出来る日本語を愛しいと思う。

 ひとつはひとつであり、「一つ」も「1つ」も同じである。英語に偏る愚を語るのと同じく漢語へのそれも同等に意識して行かねばならない。(03/5/14UP)




 数年前の『お言葉ですが…』単行本を読み返していたら、高島さんが大新聞の数字表記について、当時亡くなったジャイアント馬場の「十六文」を例にとりつつ書かれていた。高島さんは十六文と表記すべきと思うが16文が多かったよし。

 そこで知ったのだが、毎日新聞は現在すべてを算用数字で統一しているのだそうな。くっだらねえ〜と思った。すべての縦書き文章で、ワープロ用語で言う「半角縦数字」が使われているわけだ。「縦書き横書き」の中で悪しき例として引用した左写真のような文章で統一されているのである。
 以前はこれが出来るワープロやエディターは画期的なものだった。一太郎もこれが出来ると売りにしていた時代がある。

 高島さんの文は、高島さんが読んだ版では、その毎日新聞が十六文と表記していてうれしくなったが、違う版で見たらしっかり16文になっていてがっかりしたというものだった。



 現在この種のことに関しては、産經新聞が難しい旧字であっても著者の思惑を尊重するようにしている。
 文春は週刊誌であっても縦書き文章での算用数字濫用は避けていて好感が持てる。
 世の流れがどうなるのかわからないが、私は「縦書き横書き」でも書いたように、左写真のような文章は書きたくない。志を同じくする新聞社や出版社があることは心強い。

 私が「天声人語の英訳が受験問題に出るから」と親に頼んで替えてもらうまで、我が家は毎日をとっていた。高二のときだったか。以後の毎日の凋落は言うまでもない。ここまで落ちると誰が予測したろう。今じゃ「マイナーな朝日」になってしまった。ひどい新聞なので以後読んだことがない。今回のことは高島さんに教えてもらって知った。そんなことをしていたのか。今後も読むことはないだろう。




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