風呂の中で読む
 数年前から「風呂の中で本を読む」たのしみを覚えてしまった。最初、抵抗があったが割り切った今では、四季を問わず日々かかせないたのしみである。これも高島先生の影響になる。高島さんはそんなことは書いてない。やってないと思う。しかしまちがいなく私にはこれは高島さんの「お蔭」なのである。わるい言いかたなら「せい」になる。それは「本をどの様に扱うか!?」からきている。




 高島さんの「読書法」にあった「本の扱いかた」は衝撃的だった。たしか『お言葉ですが…』シリーズではなく他の著書に収められた「読書法」だったように思う。ぜんぶ読んでいるのでそのへんはごっちゃだ。いま確認した。『寝言も本のはなし』巻頭の「わが読書法」にある。

 まず高島さんは、最近の図書館の本の所蔵のしかたについて苦言を呈する。近年の図書館の本はカバーの上からラミネートしてある。帯も話題になったものは、内側に綴じてラミネート処理してある。本屋で見かけるのと同じくそうしてくれるのは私のような素人にはありがたいのだが、高島さんからするとそれは邪道なのだとか。本はそれらをぜんぶ取り除いて裸のまま所蔵するのが正しい方法らしい。きちんとした図書館ではいまもそうしているはずと言う。なのにそうではなくなったのは図書館が「無料貸本屋」に堕してしまったからなのだとか。

 耳目を集める評判作には、高名なイラストレーターが描いて話題になるカバーもあれば見事なコピーによって際立つ帯もある。それらをぜんぶを愉しむことに慣れている私のような俗物には、「そんなものはぜんぶジャマ。買ってきたら、箱も帯もカバーもぜんぶ捨てる。紐も切る」という高島さんの意見は斬新に思えた。学術的な調べものをするのが本来の用途である図書館を考えればそれが正論なのだろう。ご指摘通り図書館を「無料貸本屋」と思っている私には耳の痛い話でもあった。

 でもなあ、この『寝言も本のはなし』のカバーは南伸坊さんだ。高島さんの本の装丁(高島ファンなら〝装釘〟と書くべきか)を南さんに頼んだってのはいいセンスだよねえ。高島さんの愛用する赤青二色エンピツを斜めに配置し、左上にタイトルと著者名というデザインは、高島さんの本を引き立てている。これを取り除いて捨ててしまえと言われても無理。私の購入した高島俊男さんの本の魅力に、このカバーも大いに役立っているからだ。

 「本はたいせつにするもの」と思って来た私には高島さんのようなことは出来ない。相変わらずカバーも箱も大事にしている。それでもここのところ高島さんの影響で、外出するときは裸にして持って行くことが多くなった。慣れてしまうとたしかにカバーはじゃまなのである。書名をひとに見せないのは日本人の常らしく、むかしと比すとずいぶんとすくなくなったが、今でも電車の中で本を読むひとはいる。みなスマホを見詰めている中で、うつくしい娘が本を手にしているのを見るとうれしくなる。いまでもカバーをつけて書名を見えなくしているひとが多い。まことに「カバー文化」とは言い得て妙だ。カバーの附いている本に、さらにカバーを掛けて本の題を目かくしする。私もまたそんなことをしてきたから、今、カバー類をぜんぶ取って身軽にして読むのは快適と知る。

 それは「本が傷む」ことでもある。高島さんの影響で私が変ったのはここになる。高島さんは、寝転んで読むために分厚い本は適度な章ごとにバラしてしまうらしい。重くて腕が疲れるからだ。この解体話はなかなかに迫力がある。きちんと製本された新品の本を、カバーもみな取りさり、バキッ、ベリッという感じでバラすのである。そうして薄くて軽くて寝転んで読んでも負担にならない何十ページかに分ける。それから上の『寝言も本の話』の表紙画になっている赤青エンピツで線を引いたり意見を書きこんだりして読書する。結果、あれこれ書きこまれて原形を留めないほどボロボロになった本ほど自分の本だという実感が湧き、いとしいという。日々大量の本を買いこむ高島さんは、一ページも読まずに「こりゃだめだ」と判断し抛りだすのも多いというから、気に入らない本ほど状態がいいことになる。いとしい本はボロボロにしていいのだ。いや、いとしい本はボロボロになるはずなのだ。何度も読みかえしいじりまくるのだから。

 「あれこれ書きこんでボロボロになる」「そのボロボロさこそがいとしい本」というのは逆転の発想だった。私は「いとしい本はボロボロにできない」と考えていた。

 私は食事の時も活字がないとだめなほうだ。それが昂じて風呂の中で本を読むのもたのしいとは気づいていた。しかし大切な本をいためるのは心苦しい。よっていたんでもいいもの、『週刊文春』『週刊新潮』のような週刊誌、『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』のようなタブロイド新聞(さすがに大判の『東スポ』は風呂の中ではきつい)を読むことが多かった。湿った新聞は捨てるが、週刊誌はそのままほってある。湯気に当たり、みな波うって脹らんでいる。週刊誌はキオスクで買い、電車の中で読み、そのまま捨てるものだった。それがあの事件以来、駅にはごみ箱がなくなってしまったから、捨てるに捨てられず持って帰ることになる。もともと週刊誌なんてのは気に入ったいくつかの記事を読むものだ。読まない部分が多い。読まずに捨ててしまう。でも持って帰るようになってすこし事情が変った。ほったらかしておいたものを風呂の中で読むと、特に数ヵ月後れで読んだりすると、「ああ、あのときここで特集していたのか」と自分には無縁のものと思っていたが、そのときにすでに接していたことを知ったりする。それはそれで学習だ。私は猟奇的殺人事件のようなものに興味がない。世間が大騒ぎしていても関わらない。テレビを見ないから無縁でいられる。猟奇的事件は猟奇的であり猟奇的でしかなく、どうでもいいのだが、でも中には、後になってから誰かの意見を目にし、「なるほど、そういう解釈も成りたつのか」と思ったりするものもある。風呂の中で読む数ヵ月遅れの週刊誌でその全体的な流れを知ると、おためごかしのもっともらしいコメントが連続する中で、刮目すべき切り口をその時点で発信しているひともいると知ったりして勉強になった。



 週刊誌でそうなのだからオピニオン誌ならもっとだろう。ということで月後れならぬ年後れのオピニオン誌を風呂の中で読む。おもしろい。オピニオン誌は捨てずに保っている。保っていてよかったと風呂読書で確認した。

 たいせつにしている将棋雑誌も読むようになった。最初はかなり抵抗があった。一応手の届くところにタオルを置き、右手の指はそれで水気を取り、なるべく濡らさないようにして読むのだが、それでも水滴が点いてしまう。みなふやけてふにゃふにゃになり波うってきた。しかしこれは高島さんの言うようにたしかにそのことで「いとしい本」になった。私は二十年三十年前の『将棋世界』『近代将棋』をたいせつにしてきた。しかしそれは単に並べていただけだ。ふるいのをたまに手にして読み、「このときはまだ大野源一九段は現役だったんだな」「おお、このとき羽生はまだ奨励会か」なんて思ったりして愉しむ。しかしそうしてたいせつにしていて何の役に立とう。もっともっと手にすることのほうが大事なのではないか。本だってそのほうがうれしいはずだ。どんな形であれ「読まれてこそ本」である。ということで風呂に持ちこんだ。みな湯でふやけてしまいひどいことになったが、それらを手にする機会はかつての何倍にもなった。そりゃそうだ、風呂は毎日入る。夏場なんて四五回入る。そのたびに手にしているのだ。こうなってくると、本棚にきれいに並んでいた購入したままの将棋雑誌が、次第にみなふやけた波打ち状態になってくるのさえたのしくなってきた。

  とうとう『お言葉ですが…』も、その他の高島さんの本も「風呂場読書」の対象になった。
 あらためて、まことに風呂場読書に適した本であると感嘆した。読むたびに新鮮な発見がある。「このことを勉強しておかないと。忘れないようにメモしておかないと」と風呂から飛びだしてメモすることも多々ある。私の場合の「メモ」とはPCに打ちこむことだから、高島さんの本を風呂場読書するようになって、裸でPCに向かうことが増えた。メモしてからまた風呂にもどる。また発見があり裸でPCに向かったりする。しかしまあそれにしてもなんというコストパフォーマンスの高い本なのであろう。それは碩学の先生が、一篇執筆に調べ物をたっぷりして書いた作品なのだから、同じ『週刊文春』連載エッセイでも、ハヤシマリコやシイナマコトとは深みがちがう。

 大好きな作家に筒井康隆や藤沢周平がいるが、彼らの小説を手にすることはない。風呂場読書に小説は適していない。といってエッセイ類もつまらない。ウンチク本もつまらない。マンガはきっとたのしいと思うのだが、みな〝自炊〟してPCに挿れてしまった。私のタブレットは防水ではないから持ちこむ気はないが、假りに防水の新製品を買ったとしても、いまのところ風呂場読書にタブレットを持ちこむ気はない。でもあれか、防水スマホでそれをやっているひとは多いのかな。あれだけスマホ中毒が多いのだから、「風呂スマホ」も多いのだろう。



 ありとあらゆる観点から、高島先生の本は風呂読書に最適である。
 と書いて矛盾に気づく。風呂読書に最適な本とは、ゆったりと風呂に浸かりつつ、風呂も読書も楽しめる本なのではないか。本が、風呂の愉しみをジャマしてはならない。それは風呂読書に適さない本である。私にとって高島さんの本は、何度も読んでいるのに、読むたびに刺激され感応することが多く、風呂から飛びだして裸でPCにメモしたりするのだから、逆に「最も風呂読書に適していない本」なのではないか。しかし私にとっては最適なのだ。これは「何を求めるか」の問題だろう。きれいに起承転結がついて、ほろりとさせるような良いエッセイがあるとする。風呂読書にいちばん向いているのはそれだろうか? 風呂もたのしみ、いいものを読んだという心地良い満足感もある。一般的にはそうなろう。でも私は風呂読書でそういうものを読みたいとは思わない。やはり「勉強せねば、メモしておかないと」と風呂から飛びだす刺激を与えてくれる高島さんの本が最高なのだ。

 それは「これがこうなら、じゃああれはどうなんだ!? という発想の飛躍をさせてくれる本」ということである。『お言葉ですが…』のテーマそのものに毎回感応して考えているわけではない。高島さんが書かれていること、たとえば「文語体の歌を口語体の発音でする歌唱の無意味」のような部分を読んでいるとする。「『さすらう』とは書くが、発音は『さすろー』が正しい。なのにこの歌手は『さすらう』と表記その物の発音をしていて聞き苦しい」のような箇所を読み、イギリスロックとアメリカロックの発音のちがいのことを書こうとして書かないままだと気づいて、裸で飛びだしメモするのである。「芋づる式」というのが適切かどうかはともかく、高島さんの本から受ける刺激は次から次へと無限なのだ。



 『お言葉ですが…』から、『寝言も本のはなし』、『ほめそやしたりクサしたり』『本が好き、悪口言うのはもっと好き』『漢字雑談』『漢字と日本人』『中国の大盗賊』まで、文庫本、新書本、ソフトカバーはみな風呂場読書をしてふやけている。いまのところ対象になっていないのは、『お言葉ですが…』単行本、連合出版の『お言葉ですが…別巻』シリーズ、『メルヘン誕生』ぐらいである。これはハードカバーで重くて風呂場読書には向かないからだ。外国に持って行くのに「別巻」も文庫化してほしいが無理なんだろうな。それはわかっている。売れ筋じゃないものね。

 『お言葉ですが…』は、週刊誌連載よりも読者からの反応「あとからひとこと」を収録した単行本のほうがおもしろく、さらにその単行本への意見を追記した文庫版がよりおもしろい。単行本はきれいなままだが、風呂に持ちこんだ文庫版は、以前から勉強になる部分に蛍光ペンで印をつけたりしていたから、それが風呂の湯気で滲んだりして、まことに「いとしい本」になった。いくらいとしくても、ちょっといたみすぎのような気もするので、入手出来るいまのうちに、文庫版全部をもう一部ずつ揃えておこうと思う。

 もしも高島さんに「先生の本を風呂場で読みまくっているものですから、みな湯にふやけてふにゃふにゃになってしまいました」と報告したなら、先生は苦笑しつつも「それでいい」と言ってくれるように思う。
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