←ここね、「鳥たち虫たち」がテーマです。 高島さんの『お言葉ですが…』から題材をもらって書くのは、ほとんどが単行本からである。時にはもっと古い95年頃に書かれた素材をテーマにしたりしていることも多い。 その程度の時間で褪せてしまうテーマではないのから発表時期はあまり関係ないのだが、なんとなく遅れているなとすこしばかり後ろめたく思っていた。そのてん今回は早い。なにしろ書いている今が02年5月9日、テーマは昨日発売になった号のものだ。 毎週こんなことをするのも可能だが、それじゃ単なる高島さんフリークになってしまう。なにより『お言葉ですが…』がおもしろいのは、高島さんと読者のキャッチボールであり、たまにそこに混じる暴投だから、一段落した単行本、二段楽した文庫本のほうがより楽しめるし、こちらも深く問題に関われるのである。 なら今回はなぜこんなに早く反応したのかというと、テーマが自分にとって切実な問題だったからである。
なぜこの話が印象的だったのかというと、高島さんのおっしゃっている「明確にすればいいというものではないだろう」という西洋語や中国語、日本語を比較した、連載当初からの指摘に、自分もまた感じるところが前々からあったからである。が残念なことに、それは高島さんの意見とはまったく逆の路線だった。高島さんの意見は、日本語が英語的なものから影響を受けて、英語的文章になってゆくのはみっともないというものだった。これもまた戦後民主主義の影響が大だ。それをごもっともと思いつつ、現実のぼくは、高島さんの嫌うような文章を書く傾向に陥っていたのである。なぜなのだろう。自分でもよくわからないが。 うまい例を出せないが、とりあえずで書くと。 男二人が会話しているとする。「おれは彼に言った」という文があるとする。高島さん的な感覚では、現場にいるのは二人だけなのだから、「おれは言った」で十分となる。「彼に」はよけいなひとことである。厳密にはそんなものすらいらず、会話体を重ねて行けばいいのだが、それはとりあえずの例なのでご了承願いたい。そういう「彼に」などを必要としないのが日本語の良さであり、よい日本語の文章となるわけである。 で、ぼくはどうかというと、さらさらと「おれは言った」と書く。しかし後で読み返し、これでは誰に言ったのかわからないなと「彼に」を附け足すというようなことを、なぜかここ数年、癖のようにやっているのである。それはこのホームページ上の文章でもそうだ。後藤さんのホームページに書いた「チェンマイ日記」を自分なりに手直ししてここに再掲しているのだが、それらの手直しとは、一言で言えば、「おれは言った」に「おれは彼に言った」と「彼に」を附け足す作業になる。本人は細かな心配りをしたつもりでいるのだが、見ようによってはくどくなり味わいを殺しているだけかもしれない。 「おれは言った」は対象の存在を省いている文学的文章である。「おれは彼に言った」は、明確に相手を指名し、勘違いされないようにした評論的文章である。英語的だ。順序としては、学校教育を受けた几帳面な青年が「おれは彼に言った」と書いてきて、文章書きに慣れるに従い、「おれは言った」という手法を身につけてゆくのが筋だろう。なのにぼくは逆のことをしている。そのことが妙に気になっていたから、今回の『お言葉ですが…』のテーマは目についたのだった。 --------------- 「たち」に関してもまったく同じだ。 文中で高島さんは、「敵機来襲!」と例を出し、日本語ではこれが一機で来たのか百機で来たのかわからない。かといって「敵機たち来襲!」というのもへんだと言っている。 この高島さんの「日本語はもともとそんなものなのだから気にしなくていいのだ」ということを理解しているのに、なぜか近年やたら気にしてきた自分がいた。さすがに「花たち」「鳥たち」ほどひどくはないが、「これではひとつかふたつかわからないか」と考え、ほんとうはどっちでもいいのだが、誤解を招きたくないと、二つと限定して書くようなことをしてきた。ぼくの文章においても「たち」の使用は毎年右上がりで増えている。書いていてたびたび本人がそう感じるのだから間違いない。ある意味では今という時代と伴走しているとも言える。でもそんなものは望んでいない。 これを機に、立ち直りたいと思う。 そういう傾向に陥るのは、一種の自信喪失である。「誤解されないようにしよう。失礼なことをしないようにしよう。みんなに好かれよう」というおどおどした態度とも言える。それは政治家や司会者が連発する「させていただきます」というバカ丁寧な言いかたにも通じる。必要以上に丁寧に言っておけばいいだろうという発想は、間違った失礼な使用をして叱られるよりも罪が軽いだろうという、最初からの逃げの姿勢である。バクチで言うなら、「勝たなくてもいいから負けたくない」というのと同じで、勝ちたくてやるのだから、「なにがなんでも勝ちたい」と思わなきゃ嘘になる。 自信を持って道の真ん真ん中を歩いてゆけば、多少の粗忽さは、誰もが許してくれるものだ。真にみっともないのは、人とぶつかったりして迷惑をかけまいと、道の端々をこそこそと歩いていて、自分で足を滑らし崖下に落ちてしまうことだろう。 ということで、今週も勉強になりました。感謝。 (02/5/9) ============================================ しんじがたいほど乱発の時代──07/8/10 高島さんの『お言葉ですが…』から刺激を受け上記を書いたのは五年前になる。 その当時の私はこの「問題」を他人事として受け止めていた。「ひどい時代になったものだ」と嘆きつつも現実感はなかった。だから私なりの意見である文章も切実な怒りというよりも「英語コンプレックス」の視点が中心になっている。 それから時が流れ、ここのところ毎日のようにテレビや街中で、この不自然な「たち」を耳にするようになった。そういえばそのことを書いたことがあったなと思いだし開いてみる。私は五年前に高島さんの随筆からこのことを知り上記の文章を書いた。そのことで自分なりに消化したつもりでいたのだが、今回このページを開き、じつはまったくそうでなかったことに気づいた。当時の私には、これは「ことばに関する問題」でしかなった。つまり観念的である。しかし今、私は極めて日常的な不愉快としてこれに接している。 毎日のように買い物に行くスーパーでもひっきりなしに流れている。「さあ、暑さ本番。夏はビタミンが大切。そんなあなたのために夏の野菜たちが勢揃い」のように。 テレビのナレーションにも多い。夏休みであるから団体行動が多い。「たち」の乱発の季語は夏か。 意図的な使用法を感じる。いわば一種の流行りことばだ。民間での流行りことばではなく、ちょいとしたコピーライターや構成ライターが気に入って多用しているのだろう。ピンキリで言うとかなりしたのほうになる。 今までは使われなかった「物品」に対して、なんでもかんでもやたら「たち」をつける。表現を変えるなら戦法である。「野菜たち」「お肉たち」を自然に受け止める若者もいるだろうが、違和感を持つ年配者も多いはずだ。戦法ならそれも効果がある。「やあねえ、お肉たち、だって。なんで肉にたちをつけんのよ」と思わせれば、それはそれでもう成功なのだ。それを計算しての多用になる。それは一般の人々が自然に使用しているのよりも、テレビからスーパーで流れる店内宣伝まで、広告メディアからの流出であることからも解る。 となると影響を受ける人たちもいるわけだ。 関わり合いたくない世界である。 ことばは変遷して行く。しかたない。救われるのは近しい人にいないことだ。 それでも毎日スーパーで耳にするのでかなり嫌悪感が増している。 ============================================ 「鳥」は「Birds」か!? 餘談ながら思い出したので。 昨年夏、縁あってアルバイトをした会社で、そのかたわら社長夫人に頼まれて、中学生と小学生の家庭教師をした。そのときの出来事。 中学生の長男が英語が全く出来ず、ごくごく簡単なところから始めなければならなかった。立教の中学生。小学校も立教なのだからすでに英語はやっていると思ったが、まったく出来ない。惘れた。 日本語で単語を言い、口頭で応えさせ、次にスペルを書かせる。 そんな単純なやりとりの中に「鳥」があった。 「鳥」と言うと彼は「鳥はえーと、バーズだから」とつぶやきつつ「Birds」と綴った。私が鳥はBirdだよと言う。もちろん目の前の教科書にも辞書にも「Bird」となっている。でも彼は「××先生が、鳥はいつもいっしょにいるからBirdsと覚えろと言いました」と誇らしげに応えた。日本語の発音もバードではなくバーズになっている。 私は彼が尊敬しているらしい立教中学の先生がそう教えたのだからとよけいなことは言わなかったが、果たしてこれはどうなのだろう。すくなくとも英単語の書取問題で「鳥」と出たとき、「Birds」とSをつけたら誤りにされるのではないか。立教中学では正解扱いなのか。 高島さんのおっしゃる「日本語ではあいまいな単数と複数」の問題を含んでいる。日本語には「鳥」しかない。それが1羽も100羽も表す。英語は1羽だとBird、2羽以上はBirdsだ。 「鳥たち」とはお粗末な日本語だ。でも「鳥」が「Bird」、「鳥たち」は「Birds」と教えるなら、有効な日本語?でもある。 印象的なことだったので、昨今の「たち」連発から、昨夏のそのことを思い出した。 いずれにせよ願うのは、周囲の親しい人にこの「たち」連発が出ないことである。
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