支那人と朝鮮人




ぼくの文章には支那人、朝鮮人という言葉が使われている。それは共に正当な言葉遣いである。「支那人」に関しては言語的にも歴史的にも文句なしに正しいのでなんの問題もない。
 高島さんが『お言葉ですが…』の中で、数ペエジ読んだだけで投げてしまうくだらない本の例をいくつか挙げていた。その中に「東中国海」と、とにかくシナという表記を几帳面に中国に直している一冊があった。くだらんよねえ。そういう気の遣いかたをするだけで、そいつの書くものがおもしろくないことがわかる。
 近年の日本では中国側のいちゃもんで「中国人」と呼ぶのが通例となっており、「支那そば」なども規制されている。そのことの是非に関しては多くの文献が出ているから私のような浅学非才が知ったかぶりをする必要もないだろう。インド語の期限からヨーロッパでのChina、日本語の支那まで、すべて明確に説明されている。なんの問題もなかった一般的呼称のそれを差別用語であると火をつけて盛り上げたのは朝日新聞をはじめとする日本のサヨクマスコミだった。彼らのすごいところは火のないところに煙を立て続けていることだ。正に国賊である。
 とにかく、支那人というのはどこから見ても正しい呼称になる。

中国人という漠然とした呼称ではなく、他民族との明確な一線を引くために支那人と使いたいと思いつつも、軋轢を起こしたくないと思う向きは「漢民族」という方法を用いている。旅行作家の下川裕治さんなどもこの方法のようだ。かなり苦しい方法ではある。ぼくもこれにすれば丸く収まるのだが、一般的な呼称である支那人があるのに、この前の戦争前後におけるごく短い期間での蔑称の意味合いを前面に押し出して騒ぐサヨクのいいなりになってこの言葉を封じてしまうのは不自然に思える。もしも「漢民族」という言いかたをするなら、世界の多くの「××人」もまた民族名で正確に呼ばねばならなくなる。安易に言い換えるより、これが通常使用になるよう努めるべきだろう。支那人は支那人と呼ぶのが正しいし、そうすることで女真族の国である(=支那人の国ではない)清や、そこに建国した日本の傀儡政権であった満洲国(洲にはサンズイをつけましょうね)に対する正しい歴史認識も生まれてくるのである。

Chinaは支那であり、Chineseは支那人でいいのだが、朝鮮人に関しては多少引っかかるものも感じている。それは現在ぼくの親しい韓国人が、朝鮮というコトバを嫌っているからだ。彼らと接するときは韓国と使うようにしている。それでもやはり民族的には韓国民族ではなく朝鮮民族と呼ぶのが正しいので、こんな時もなんとなくもやもやしたものを感じてしまう。

「相手がいやがっていることをしないというのなら支那も同じではないか」と言われそうだが、それはすこし違う。中共に統一されている中国と違い、朝鮮は韓国と北朝鮮に分断されているからだ。いや、中国も90%以上が支那人であるが、武力で併合されているチベットの解放のためにも、支那人と呼ぶ必要性がある。
 ぼくの韓国の友人たちが朝鮮というコトバを嫌うのは、差別語云々以前に北朝鮮との関係からなのである。自分たちはあの獨裁国家の北朝鮮の人間ではない、自由主義国家の大韓民国の一員であるという誇りから朝鮮と呼ばれることを嫌う。もちろん根底には朝鮮というコトバに対する日本人の蔑視感情を意識した面もあろうが、すくなくともぼくの友人との間における問題点は北朝鮮との線引きになる。

 それは台湾人が中国人と呼ばれるのを嫌い、私たちは台湾人ですと言うのとはまた違う。朝鮮民族という正しいものがあり、二つの国に分かれてしまっている不幸によるコトバの制御なのだ。純な台湾人は支那人ではなく台湾人であるが、純な韓国人は純な朝鮮人であるのだから。

 好きな人たちと気まずくなりたくないから朝鮮人というコトバは彼らの前では抑えている。早く朝鮮半島が統一され、ひとつの朝鮮国となり、晴れてこのコトバを無用な気配りなしに使用できる日が来ることを願っている。だってぼくの大好きな朝鮮美人は朝鮮美人であり、韓国美人でも北朝鮮美人でもないのだから。


 
餘談ながらNHK教育テレビにおける語学講座、「ハングル語講座」というタイトルもこの影響を受けている。「朝鮮語講座」とするのが正しいのだが、すると韓国側が文句をつけてきて、かといって「韓国語講座」にすると北朝鮮関係者が文句をつけてくるので、意味不明の「ハングル語」になってしまった。ハングルは文字の名であって言語ではない。この辺にも分断された半島の不幸が影を落としている。

さらにまた餘談ながら、韓国人はハングル語に絶大な自信を持ち、自分たちの誇る文明と主張するのだが(ずいぶんと外国で韓国人と話してこの言いかたをされた)、ほんのすこし歴史をさかのぼれば、ハングルは庶民だけが使う下等な文字であった。それはそのわかりやすさからも一目瞭然だ。高等とは難しくわかりにくいことであった。長年中国の属国として生きてきた朝鮮の貴族があがめ奉っていたのは漢字だった。歴史的事実になる。中国や日本に対する誇り、突っ張りからハングル一本に絞ったのは明らかな文化的ミスであろう。

 韓国文字も日本と同じように、漢字とハングルを混在させるとわかりやすく読みやすい。文章に気品が生まれる。この辺のツッパリも、「日本は中国に教えてもらった(自分たちを通じて学んだ)漢字を未だに使っている。自分たちは純粋に自分たちだけで作り出したハングルを使っている」という日本に対するライバル心が関係している。なんとも時代の生み出した癒えない瑕疵が痛い。日本にたとえるなら「たしかに支那から漢字は教えてもらったが自分たちはそこからひらがな、カタカナを生み出した。それが日本の文化だ。これからはもう日本語はすべてカタカナ、ひらがなだけで表記しよう」となってしまったようなものだ。これは明らかな文化的不幸になる。

大好きな韓国との不幸を思うたびに、いつも歴史的なひとつの假定をしてしまう。日本が併合しなければ間違いなく李氏朝鮮はロシアの植民地になっていた。日本が朝鮮半島に進出したのは対ロシアとの関わりからである。もしも朝鮮が日本が併合する前に一度ロシアの植民地になっていたら、ロシアが植民地である朝鮮のインフラ整備をしたり、植民地の人民に教育を受けさせたりするはずはないから(それが通常の植民地政策であり、日本の同一化政策が特殊になる)、ロシアを追い出して朝鮮を併合した日本に対して、台湾の人々が今でも親日的であるように、違った歴史が生まれただろう。まあ、朝鮮半島をロシアが制圧していたら第二次世界大戦の勢力地図そのものが根底から変ってしまうから意味のない假定ではあるが。





さて、書きたかった本題はこれからである。ぼく自身の支那人と朝鮮人という名称の使用については、以上のように腹をくくって書いているから、ぼくとしてはなんの問題もない。抗議にも対応できる。怖いのは誤解だけである。その誤解が生まれるような小さな事を知ったので、それを書いておきたかった。

 ぼくのところに時折「こんなもんがありましたよお」とインターネットの記事を送ってくるお節介クンがいる。タイ関係のサイトや2ちゃんねるなどでぼくの悪口が書かれていたりすると、それをコピーして教えてくれるのだ。ありがたいときもあれば、よけいなことをするとムッとすることもある。だれだって褒められればうれしいし貶されれば不愉快になる。この人が送ってくれるほとんどは、どうでもいいようなサイトにおけるぼくのどうでもいいような悪口であることが多い。

 あるタイ関係サイトに頻繁にぼくの名前やこのサイトのアドレスが登場しているらしい。そこの主催者はいかにも面識のあるようにぼくの名を出しては、このサイトのぼくのファイルのアドレスを書いたりしているらしい。ぼくはその人に会ったこともないし彼が意識しているように彼のサイトを読んだこともなければ引用したこともない。まったく興味のない人である。

 今回お節介クンが、そのサイトの文章を引用し、ぼくにそれをどう思うかと尋ねてきた。言いたいことは判る。
「支那人とか朝鮮人とかの呼称をこいつも使っている。思想的にあんたと同類でしょ」と言いたいのだ。

 最初は無視していたが、次第に「おれって、こういうのと同類と思われているのか」と思ったら背筋が寒くなってきた。この小文はそれを言いたいがためのものである。ぼくの文章をマジメに読んでくれている数少ない人にだけは、そういうのとの違いを解ってもらいたい。そう思って書いてみた。



 お節介クンがコピーし転送してきたそのどうでもいい短文の要旨は「おれは中国人と朝鮮人と大阪人が大嫌いだ」というものだった。その嫌いな順番として「支那人←鮮人←大阪人」と書かれていたのである。その他にも何度かこの表現があるので「鮮人」というのは誤字脱字ではないようだ。そりゃそうだ、そんなことば辞書にはない。明らかな意図で書く以外あるはずがないのだ。
 こんなのと一緒にされてはたまらないと、ぼくは急いでお節介クンに自分の考えを書いたメイルを送った。彼が解ってくれたかどうかは疑問だが、以下同じ事を書く。



ぼくは今まで述べてきたように「朝鮮民族はあっても韓国民族というのはない。朝鮮半島はあっても韓国半島はない。朝鮮半島における人々のことを語るとき、朝鮮人と呼称するのが妥当であろう」と、このコトバを使うその使用意図を説明してきた。
 ぼくが、支那人、朝鮮人という呼称を使うのは、それが歴史的に正しい呼称だからであって、彼らを見下したり蔑視したりするのに使っているのではない。

 このぼくとはなんの関係もないタイ関係のサイトをやっている人が、彼の嫌いなものの順番として「支那人←鮮人←大阪人」と書いているのは彼の自由である。ぼくとは関係ない。それは人の好き嫌いの順番だ。
 ただお節介クンのような人に、支那人、朝鮮人のような言葉を使うことにより、こういう人とぼくを同種の人間と考えられることだけは避けたい。どうかここを読んでいる人はそこのところを理解して欲しい。これは似て非なるものである。

 「鮮人」とは朝鮮人を蔑視するために作られた用語である。いわばジャップと同じようなものだ。ジャパニーズを略してジャップだからジャップと呼ばれても気にしない人はどうでもいいが、普通の日本人ならこう呼ばれると不愉快になる。同様に、朝鮮人の略である鮮人とは、差別のために作られ使われてきた言葉なのである。こういう言葉は使ってはならない。由緒正しい正当なことばである支那人、朝鮮人とはそもそもの生い立ちからして全く違う。歴史認識を同じくしている朝鮮人は、韓国籍の人でも、「私たち朝鮮人は」のように自称する。でもどんな人であれ、間違っても自分たちのことを「鮮人」とは言わない。あたりまえだ。悪意ある日本人によって作られた悪意のことばなのだから。

 ぼくはこんなものはただの一度も使ったことはないし、こんな言葉をホオムペエジというだれもが自由に閲覧できる場所で平然と使う無神経な人(いや、意図的だから無神経とは違うか。もっと悪質で低レベルだ)と同列に扱われたくないのである。



「放送禁止用語」が話題になり始めた二十数年前、井上ひさしが文藝春秋に書いていた。
 彼は、どんな言葉にもそれなりの価値があり、それを禁じてしまうことは文学的に許されないことだと規制に反対していた。そのとき彼が端的な例として挙げていたのがこの「鮮人」だった。それだけこの言葉は、戦前戦後を知っている人には強烈なものなのであろう。徹底した戦後民主主義者である井上にとって最も意識する言葉であったのか、あらゆることばを規制してはならない、とした後、彼はこう書いていた。

「では、もしも私の友人が鮮人というコトバを使ったらどうするのか。私は彼と絶交する。彼を軽蔑する。二度と口も聞かない。そんなコトバを使うヤツは許せない。だがそれでも、だからといってそのコトバを封じてしまってはいけないと思うのだ」と。
 ここにおけるテーマは「言葉の規制」である。禁止用語に関してだ。その最も苛烈な例として彼はこの言葉を引いている。

 ぼくはそれまで「鮮人」という差別用語を知らなかった。このとき初めて知った。その後も使ったことはない。今後もないだろう。
 このタイ関係のホオムペエジを作っている人がどんな意図でこの言葉を使っているのかは知らない。確かなのはこんなコトバは「めくら=盲」さえも禁じてしまっている今のIMEにあるはずがなく、あえて明確な目的意識でもって作らなければ使えないということだ。ぼくも今「朝鮮人」と打ち、そこから毎度「朝」の字を消して使用している。そのことを考えると、この人が、明らかに朝鮮人を蔑視する目的であえてこのコトバを使っていることは間違いない。とするなら、彼の場合は、その前にある「支那人」というのも、いわゆる中国人を蔑視するための呼称として使っているのだろう。大阪人に対しても、假に「阪人」なんて蔑視用語があったならきっと使ったに違いない。

 どんな言葉を使おうとそれは彼の自由である。誤解しないで頂きたいが、ぼくは彼にそんな言葉を使うなと言っているのではない。そんな言葉を使うのをいけないことだと意見しているのでもない。見知らぬ人にそんなことを言える資格もなければ、前述したように関わり合いたくない他人である。彼がどんな言葉遣いをしようがそれは彼のかってである。どんどんこれからも使っていけばいい。それだけで「お里が知れる」というヤツで、彼自身の品性が疑われるだけである。

 言いたいのは、こういう人と、ぼくが使っている「支那人」「朝鮮人」は違うということだ。それを親しい人にわかってもらいたい。願いはそれである。どう違うかは、それぞれのサイト内の文章を読んで判断してもらうしかない。
(02/11/12 日本)




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