智弁なのに日鐵


         (雲南で見かけたさくら。さくらはいいなあ。)

『お言葉ですが…』に「全部ベンの話」という一章がある。「弁当」の語源を探ることから様々な「ベン」の字の話へと拡がってゆく。


 戦後の漢字制限が、
「区別するという意味の

「ことば、言論の意味の

「花びらの意味の

「編むという意味の

「処理するという意味のベン」

など異なる字を、すべて「」に統一してしまったのだそうだ。ひどい話である。



 このむずかしい字を呼び出すために時間を掛け苦労したので、ちがいをわかってもらうため、大きく表示しました(笑)。
 これらの漢字の中で「処理する意味のベン」だけ、ATOKの辞書にはあり、パソコン上で表示できるのだが、テキストエディターやホームページ作成ソフトに貼りつけると?になってしまい表示できなかった。)

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 ぼくらの多用する「弁」は、「かんむり、帽子」のような意味であり、上記の様々な「ベン」をすべて「弁」の字にしているのは、意味のない当て字のようなものであると高島さんはいっている。

 なるほど。花弁は「花瓣」が正しかったのか。弁はかんむりとか帽子の意味だから、モンゴル人の「弁髪」はこれでいいのかと思ったら、「辮髪」が正しいと知る。かんむりとか帽子のような髪ではなく「編んだ髪」ということらしい。まあワタシはベンパツといってもプロレスラのキラー・カーンしか思いつかないレヴェルだ。

 戦後教育ですべてを「弁」の字で覚えてきたぼくが、これからこれらの漢字を正しく使いわけていくのはちょっとしんどい。「辮髪」という字を今後使うことがあるどうかわからないが、その意味と違いぐらいは理解しておこうと思う。



 でもこういう問題はテクニックとして意外に面倒だ。現実問題としてぼくの書いた文章に「ベンパツ」ということばが登場し活字になるとしたら、それはキラー・カーンこと小沢正志さんのことを書いたプロレスエッセイだろう。そこで誰もが知っている「弁髪」を正しく「辮髪」と書いたなら、かえって奇妙な感じを与えることになる。文章の流れがそこで一時止まる。読んでいた人のプロレス的空間で遊んでいた思考も止まってしまう。「なんだろ、この字は」と。そして「なんでこの書き手はこんな字を使うのだろう」と。
 正しい漢字を正しく表記はしたが、プロレスエッセイを気持ちよく読ませるということでは、かしこい文字使用法とは言えない。むしろ愚かである。どっちを優先すべきなのだろう。高島さんに啓蒙されて、これからこの種の問題に相当に悩みそうだ。

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それら「ベン」の話の中に、「高校野球の智辯和歌山は、なぜ智弁ではなく智辯なのか」という読者からの質問がある。
 その理由を高島さんは「智辯とは佛教語で智慧の働きと言論のはたらきという意味であるから……。」と、好意的な美しい推理をして結ぶ。
 そうして週刊誌上での文は終ったわけだが、ここからがその後の出来事が紹介される単行本ならではのおもしろさになる。《あとからひとこと》に智辯高校関係者からの手紙が紹介され、「なぜ智辯か」の真相が報告される。智辯高校を開設した宗教法人辯天宗の開祖・大川智辯から来ているとのこと。人名だったのだ。このことに鼻白んだらしい高島さんの感想も笑えて楽しい。

 それにしても、いつも思うことなのだが、高校野球の存在というのは、広告費に換算したらどれぐらいのものになるのだろう。高校野球がなかったら、ぼくはPL学園も智辯学園も未だに知らなかった。金沢の友人のところの星稜も、ぼくの地元の常総も同じだ。莫大な広告費になるのだと思えば、新設私立高校が高校野球に熱心になるのは当然のことになる。連日大新聞やテレビでその名が報道されるのだから。そしてまたそのことから生じた歪みも多い。そういうことを指摘するコーナーではないので矛を収めるが。

 ぼくは高校野球に興味がないので新聞紙上でわざわざむずかしい漢字の「智辯」と表記されていたのかどうか知らない。いや、されていたから投稿がありテーマになっているんでしょうけど。



 ただこの種の問題に関しては前々から興味があった。
 競馬に「皐月賞」というのがある。漢字の「皐」が新聞社の制限する字に当たったらしく、「五月賞」では意味がないし、いくらなんでも「さ月賞」はないだろうと、スポーツ紙などは「さつき賞」という表記をし始めた。十五年ぐらい前のことになる。

 ぼくは当時、このことに疑問を呈した文章をJRAの機関誌『優駿』に書いた。固有の名称である「皐月賞」を自分たちの漢字の問題からかってに「さつき賞」にするのはいかがなものかと。
 同様にスポーツ紙は「如月賞」等を「きさらぎ賞」のようなひらがなに変える方針を採った。ぼくはそれにも「今までのように如月にきさらぎとカナが振ってあれば、これできさらぎと読むのかと覚える人もいる。それは競馬から学ぶ文化といえるのではないか。その可能性をなぜなくしてしまうのか」と書いて反対した。

 実際のところぼくは、「飯豊」という地名など正しく読めなかった。これが「いいで」と読むことは、競馬に「飯豊特別」というレースがあり、スポーツ紙の出馬表に「いいで」とカナが振ってあって覚えたのだ。二十歳のころである。競馬がこんな形で役立つことだってある。そういう可能性を残しておくべきではないのか。むずかしい漢字はなんでもかんでもひらがなにするのではなく、カナを振っても漢字で通すべきものがある、というのが当時のぼくの考えだった。

 いまは高島さんの影響を受けて、漢字を多用することにむしろ懐疑的なのだが、その辺の心境の変化はおいおいここで書いてゆくことになる。

 ということでぼくは、「智辯学園というのは固有名詞だから、漢字制限のあるマスコミでも、むずかしい辯の字が使われている」と高島さんの本で知ったわけである。ところが。



 昨夜、高校野球のドラフト会議に指名選手がいたとかでテレビに智辯学園の名が出ていた。テレビ東京の深夜のニュース番組だった。でもそこでは「智弁」になっていたのである。今までなら見逃したそんなことも、『お言葉ですが…』の影響があり目にとまった。
 それを表示していたのはドットで表す電飾掲示板だったから、ドット数の問題で智辯の辯が表示できなかったのだろうかと思った。が、その下の方にあった「新日本製鐵」の株価の項では、きちんと旧字で字画の多い「鐵」の字が表示されていたのである。だから表示能力の問題ではないようだ。


」の字というと、何十年も前に読んだ井上ひさしのエッセイを思い出す。旧字の「鐵」は、構成部分を分けると「〃金〃の〃王〃なる〃哉〃」という字なのである。「金の王なるかな」である。実にめでたく雄々しい意味の字になる。それが代替えの「鉄」だと「〃金〃を〃失う〃」になってしまうのだ。いくらなんでもこれはひどいではないかという内容の随筆で、新字と旧字というものを考えるきっかけを与えてくれた印象的な作品だった。

 それ以後どうも鉄の字が気になってならない。コミック誌の「週刊モーニング」に「あいしてる」というマンガがあった。主人公の名は「鉄馬」と言う。鉄の馬とは主人公の大好きなオートバイから来ている。でも当時、馬券狂だったぼくには、「金を失う馬」と読めてしまい、夢中になれなかったものだ。これが「鐵馬」だったら話は違っていた。作者はタレント大竹まことの双子の兄弟だった。

そういう時代を経て、製鉄会社が社名に「鐵」の字をもどしたのは当然だったろう。

証券会社も「證券」の登るという字に縁起を担ぎ、一般では「証券」とされても、自分たちはかたくなに「證券」を使用し続けていたところが多い。株は登らねばならない。しかしこれも単に「ショウ」という音が同じだからと安易な略字である。

 テレビ東京の「智弁」表記は、「辯」の字の用意がなかったという単純な理由だと思う。高校野球の中継もしていないし毎年智辯学園からドラフト高位指名の選手が出るわけでもない。数年に一度しか使わない字である。用意もなかったろうし、最初から「智辯」という旧字に対するこだわりもなかったかもしれない。
 一方、日本経済新聞がバックのテレ東は、株式ニュースは専門分野であり、新日鐵は日々頻繁に使用する社名である。だから正しく旧字で社名を表記した。ただそれだけの差なのであろう。

 きょうドラフトの結果を一斉に報じたスポーツ紙はきちんと「智辯」と表記したのだろうか。それとも簡略な智弁で手抜きしたのだろうか。もしそうなら、そのことに智辯学園は抗議したのだろうか。妙に気になった。(01/11/20)





翌日スポーツ紙を三紙ほどのぞいたら、みな「智弁」になっていた。一般紙は確認していない。
 きょう(12/3)「クイズ タイムショック」に智辯和歌山高校がチームとして出ていて、きちんと「智辯」になっていた。こういう場合はそうしてくれと主張するのだろう。






写真は雲南省景洪で見かけた洋服屋の看板。しゃれた女性用の高級品を売っている店だったので、日本的に言うならブティックとでもなるか。店名から推測すると「麻製品専売」とも思われるのだが、どうだったのだろう。景洪は暑い地なので、涼しい麻製品専門の店があってもおかしくはない。

 ここに使われているのは、上記のいくつもの「ベン」の中から、

「編むという意味の

である。なんでもかんでも簡体字にしてしまい自分たちの作ったすばらしい文化をぶちこわしにしている中共だけど、この字はまだ残っていたのかとすこしだけ感激した。あ、でも「辮」の字の真ん中の「糸」の下が略されてるね(笑)。でも日本の「ぜんぶ弁」にするよりははるかにまし。みっともない簡体字を連発する中共が、これらを残したということは、それだけ「それぞれのベンの字」に意義があるということだろう。当用漢字(いまは常用漢字)の枠はくだらんことだ。さいわいネットではいま漢字が自由に使える。
(02/2/9)

【附記.3】──今ごろになって気づいたこと──2014/11/15

 いくつもの「ベン」の字についてブログに書いていた。たしかずっと前に《『お言葉ですが…』論考》にも書いたなと思いだし、じつに十数年ぶりに自分のサイトのこの文を読み返した。そして【附記】のこの「麻花辮」を」を見かけた。どうも「麻の服の専門店」の意味ではないような気がする。

 調べてみると、「麻花 マーホア」は「かりんとうに似たお菓子」であるらしい。下の写真である。じゃあ上の看板はなんなのだろう。わからない。



 さらに調べてやっとわかった。「麻花というお菓子」は、ねじり菓子で、「麻花辮」とは、そんなふうに編んだ髪形のことだった。つまりは「辮髪」と同じ使いかたになる。
 日本的に言うなら「〝ポニーテール〟という名前のブティック」という感じか。




 その後、表示能力が上がり、2009年には  もこのように表示出来るようになりました。ほんとうにうれしい。他項で書いていますが、傣族が表示できるようになったのは感激でした。それまでは「泰族(正しくは泰はニンベンつき)」と書いていました。(09/12/5)


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