誤用に憮然とする……

「ことば」の項目に「忸怩」や「憮然」等をUPしていたが、何度も「憮然」のことを書いたりするのでここにひとつにまとめた。割り切ればいいのだが、どうにもまだ迷っている。

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忸怩(03/11/17)

 以前も書いたことだが、どうもこの言葉の使い間違いが気になる。きょうも『週刊ポスト』を立ち読みしていたら出ていた。

《じく‐じ【忸怩】ヂクヂ 恥じ入るさま。「内心―たるものがある──『広辞苑』》
《じく‐じ【忸怩】じくじ(ヂクヂ)〔形動タリ〕自分の行いなどについて、自分で恥ずかしく思うさま。「内心忸怩たるものがある」──小学館国語辞典》


 なんて引用をするまでもなく、「恥ずかしい」である。ところがこの「じくじ」という音が影響するのか、どうにも「ぐじぐじと悩む」のような意味に誤用されている。この『週刊ポスト』の記事でも、前後から判断して、どう考えてもそれは「恥ずかしい」ではなく「ぐじぐじ悩む」の意なのだ。正しい「恥ずかしい」だと意味が通じなくなる。
 まさかこの用法が一般化し、あたらしいもの好きの辞書が「最近ではぐじぐじ悩む意にも使う」なんて載せることはないと思うが……。どうにも気になる。


なし崩し(04/1/22)

 最近のことばブームで、このことばに悪い意味がないことがよく指摘される。ことばクイズに出題される常連でもある。しかし相変わらず長年の誤用で、どうしても「なし崩し的に」と言うと、ズルズルとだらしなく、うまく相手を丸め込んで、正を悪に変えてしまうという意味での使いかたをされている。

1 借金を一度に返済しないで、少しずつ返してゆくこと。
2 物事を一度にしないで、少しずつすませてゆくこと。少しずつ徐々に行うこと。(国語大辞典(新装版)小学館)


 のように意味は「すこしずつすませる」であり、悪い意味はない。印象的なのはどの辞書を引いても真っ先に「借金」の字が出てくることだ。本来そのことに使われていたコトバなのであろう。
 私自身長年誤用していた者なので立派なことは言えないが(長年誤用していたからこそ気になるとも言える)、どうにもこの「忸怩」と「なし崩し」の誤用は目につく。いや耳につく。鼻につく。

 前記の国会中継でも野党側の小泉政権攻撃にやたらとこのことばが出てくる。きょうも社民党のヨコミツという役者上がりが質問していたとき、なんどかこれを使っていた。それは「なし崩し的に憲法を変えようとしている小泉政権は許せない」ノヨウナ言いかただ。正しい使いかたならべつに問題はないのだが、どう考えてもそれは「物事を一度にしないで、少しずつすませてゆくこと。少しずつ徐々に行うこと」の意ではないだろう。なにしろそれでは攻撃や非難にはならない。あきらかに彼は「わからないうちに小ずるい方法でいつの間にかこっそりと憲法を改悪しようとしている」の意で使っているのである。社民党の思想からもそれに決まっている。やはり彼は誤用している。

 その他テレビ等でもよく耳にする。そのたびに気になってならない。ここまでもう誤用が浸透してしまうと修正は不可能だろう。なにしろコトバというのは大勢の人が使っていたらそっちのほうが正しい意味になる性質がある。テレビでしゃべっているタレントのほとんど全部が「ら抜き言葉」なのだから、そのうち「ら抜き」という意識すらなくなるに違いない。私もこんな無用なこだわりは捨てたほうがいいのかも知れない。聞いた人のほとんどがそう解釈するのならそっちに行くべきなのだ。

 たとえば「なし崩し」に本来悪い意味がないからと、ある人の「すこしずつ徐々に行ったこと」(=善行)に対してこの言いかたをしたなら、「あいつはおれが一所懸命やったことをなし崩しと言いやがった」と憎まれるだろう。そのことのほうが遙かに大きな問題になる。

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 誤用憮然の定着率(04/9/30)

 憮然とは、下記のような状態である。
ぶ‐ぜん【憮然】
〓失望してぼんやりするさま。失望や不満でむなしくやりきれない思いでいるさま。「―たる表情」
=広辞苑より

 ひとことで言えば「しょんぼり」である。
 ところがこのことばは、憮然=BUZENという音(おん)の影響なのだろう、ムスっとした様、憤慨した様子に使われることが多い。明らかな誤用なのだが、それはもう歯止めが利かない状態のようである。

 数日前のサンスポにこんな小見出しがあった。「朝青龍 憮然敗」。
 「憮然敗」というのもまたいかにもスポーツ紙らしい造語だ。本来の意味からはこれは、横綱・朝青龍が負けてしょんぼりしていたということになる。だが彼の負けず嫌いの性格や、それに反発する記者の感覚からして、決してそれではあるまいと想像がつく。おそらくアレであろうと。記事を読むとさもあらん、負けた朝青龍が記者の質問に対してひとことも口を利かずムッとしてふて腐れ、それでもしつこく質問した記者に怒りくるって汚い言葉を投げかけた、という内容だった。それが「憮然敗」の内容である。そしてそれが本来の「しょんぼり」とはズレた「憮然」の解釈であることは言うまでもない。

 しかしスポーツ紙ならまだよかった。なにしろ私レヴェルでも毎日のようにその過ちに気づくほどである。スポーツ紙がいかにバカであるかはバカよりちょい上のうすらバカの私が、自信をもって言いきれる。なにしろ書いている現場の連中をよく知っている。あの連中が書いている記事だから、それはそれでそこそこなのである。

 ところが産經本誌でもそうだとなると病は深刻だ。産經新聞の一面、小泉改造内閣発表、翌日の記事である。繰り返すが「一面のでっかい記事」なのである。そこで細田官房長官が今回の顔ぶれ、山崎拓の総理直属を知ってどう思ったかに関して「ぶぜんとして答えた」とある。それはもうどう考えても官房長官は事前にそれを知らされてなく、「ムッとして、ふてくされて答えた」なのである。絶対に「しょんぼりして答えた」のではないと言いきれる。
 筆者の心遣いなのか「ぶぜん」とひらがなにしてあった。これは含みがある。おそらく筆者も憮然の正しい意味ぐらい知っているのだ。しかしここで、ヤマタクの登用を知らされていなかった、ちょっと線の細い細田官房長官のムっとした気分を顕すために、「ぶぜん」以上のことばを思いつかなかったのだろう。だから憮然とし、そしてひらがなにした。

 ことばは時代とともに変って行くものである。それをことばの本義とするなら「本来の意味」などどうでもいいともいえる。
 憮然や忸怩が、BUZENやJIKUJIという音(おん)の響きから、本来の意味を離れた使われかたをし、そしてそれが通常となって行くのなら、べつに言語学者でもない私が、蟷螂の斧を振りかざす必要などまったくないのである。流れに身を任せればいい。



 気になるのは、今後私が忸怩という今では「ぐじぐじ悩む」の意味になってしまっている言葉を本来の「恥じ入る様」に使ったり、憮然という今では「ムッとしてふてくされる」の意味になってしまっている言葉を本来の「しょんぼりする」の意に使ったとき、解釈違い=筆者の無智という解釈=をされるのではないかという恐怖(?)である。

 そしてまた思うのは、雑文書きなんてのは芸者と同じだから、「世に流されろ」なのである。「恥じ入った」様子を書きたくて「忸怩たる想い」と書く。だがそれでは「うじうじ悩んだ」ととられてしまうのではないかと思い、書き直す。だったらもう最初から世間に準じて「忸怩=恥じ入る」は捨て、「忸怩=うじうじする」派に転向すればいいではないか、そう思えてくる。言葉とはそういうものなのだ。だって「人と人のコミュニケーションの道具」なのだから、「本来の意味」なんて価値がない。通じることが基本だ。通じることとは常に多数決が正義なのだ。

 この「最後の踏ん張りどころ」は難しい。突っ張るべきか否か。それは尊敬する高島先生は元より、基本的に学者方面であるchikurinさんにもわかってもらえない、商業雑文書きの苦しみである。国語の先生であるchikurinさんは正しい用語使いをし、間違っている連中を嗤える立場にいる。さあて、どこまで突っ張れるだろう。

【附記】
 というとこで「新宿・夏の死」という船戸与一の短篇集を読んでいたら、船戸も「憮然とした」と、どう考えてもムッとした様子に使っていた。機を見るに敏な広辞苑が「本来は失望してぼんやりする様だが、現在では不快に対する反発の意にも使用する」なんて載せるのは時間の問題のようだ。

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 勘違い「憮然」の定着(05/3/25)

 ことばが誤った使い方をされていると何度か書いてきた。代表が「憮然」と「忸怩」である。誤って普及している原因はその「Buzen」と「Jikuji」という音にあるのだろうとも。
 私は、正しくとか、本来は、とかには興味がない。ことばは通じればいいと思っている。なのにこれらに関して気にするのは私がそれを文章で使ったとき、違う意味に取られてしまう可能性が高いという現実的な問題があるからである。
 バイトの面接に落ちた少年が、河原にたたずみ沈む夕日を憮然として見ていた。
 のような書きかたをしたなら今の時代、十人中九人までが、そのことに腹立ってムスっとして夕日を見ていたと取るのではないか。それを「しょんぼり」と果たしてどれぐらいの人がわかってくれるだろう。あるいは「この物書きは憮然ということばの使いかたがおかしい」と思われてしまうかも知れない。

ぶ‐ぜん【憮然】
〓失望してぼんやりするさま。失望や不満でむなしくやりきれない思いでいるさま。「―たる表情」
〓あやしみ驚くさま。
『広辞苑』より

 ここ一二年、それが気になって目にするたびにこの人はどっちだろうと考えた。「サンデー毎日」で読んだ中野翠のエッセイが意識して読んだ十数人の中では唯一正しく使っていたように思う。もちろん私はサンデー毎日なんてクソ週刊誌は立ち読みすらしないから、これは父を病院に連れて行ったとき待合室で読んだのだ。それは隣村の「医は仁術」の先生のところだったから去年の六月以前になる。あとはもう船戸与一の小説を始めとして、どこもかしこも「ムッとした」「ブスっとした」の意味で使われていた。
 「なしくずし」や「姑息」の誤用と同じくこれはもう止まらない流れだろう。

 きょう、玉乃島と露鵬の取り組みで、露鵬が早く立ってしまい玉乃島をいきなり張っていった。これは誰でも不愉快になる。いきなり横っ面を張られるのだ。そのまま相撲になれば張り返したりも出来るが立ち会いのやり直しだから張られ損になる。相手は相撲を始めたばかりの露鵬だ。年下であり異国人である。根性が悪いことは顔からもわかる。ハリウッド映画に出たら殺し屋だ。ほんとに悪人面している。そいつにいきなり横っ面を張られ玉乃島がムッとした。そりゃするだろう。でも私はこの力士も嫌いなのでどうでもいい(笑)。

 嫌いなこのふたりが今場所は絶好調で白鵬と琴欧州という好きな二人が大負けである。以前父と一緒に一場所三千円で参加していた大相撲トトカルチョ「ファイター」をやっていたら今場所は最悪だった。それはともかく。
 いきなり露鵬に横面を張られ、ムッとして睨み返した玉乃島をアナが「玉乃島、ブゼンとした表情です」と言ったのだ。いきなり年下の遙か後輩に横面を張られてしょんぼりしたとは思わないだろうから、このアナもこのことばを勘違い解釈しているのは間違いあるまい。

 NHKラジオの午後三時過ぎから毎日そういうことばの特集を聴取者とのFAXやりとりをメインにやっているコーナーがある。こういう誤った解釈のことばやフャミレスや喫茶店での気味悪い日本語等が取り上げられる。この番組でいまの熱心なラジオリスナーはFAXが必須と初めて知った。昨年の一時期毎日のように聞いていた。

 まもなくやめてしまったのは、そこにあるのが比較的年配のかたからの意見で構成される今の日本に対する鬱憤のように感じられたからだった。いやそれは決して鬱憤ではなく、日本語が乱れていると嘆きつつも正しい日本語を使い若者を啓蒙してゆこうという建設的な人たちの場だったかも知れない。いずれにせよ私は、鬱憤を聴いて同調し憂さが晴れるわけでもなければ、まして正しい日本語を若者たちに伝えてゆこうのような感覚ももっていなかったから、すぐに違和感を感じ始め一週間ほども聴いたらもう煙たくなり、それからはむしろ敬遠するようにすらなってしまったのだった。事実、父の病院へ向かうとき、偶然流れてきたので聴きたくないと切ったことが何度かある。それはNHK的なものへの生理的な反感である。

 NHKの真面目さと、それによるおもしろくなさというのはどうにも受け入れがたい。中でも生真面目な人が無理矢理ダジャレを言って白けさせるようなへたな娯楽性がたまらない。「人を傷つけないように気を遣った健康的な冗談」とでも言うのか。冗談はブラックになればなるほどおもしろい。NHKの娯楽は最近またブームのアルコールの入ってないビールみたいである。私がNHKテレビを大相撲中継以外観ないのもそういう理由による。朝の連ドラや大河ドラマはもちろん「シルクロード」とか「プロジェクトX」もダメである。そのルーツを探ってゆくと、子供のころに観た紅白歌合戦のあのわざとらしい応援合戦とやらに対する反発から来ているように思う。その他「若い季節」とかのヴァラエティ番組を含めとにかくNHKって嫌いだった。

 ラジオのまじめに日本語を考える番組、というか一コーナーはきっと今も続いていてごく一部の熱心なファンに支持されているのだろう。
 そこの先生役はNHKのヴェテランアナだった。大相撲ファンにも日本語に神経質な人が多いから、もしかしたらきょうのアナの「ブゼン」には使いかたを間違っていると抗議の電話をした人がいるかも知れない。
 これはもう止められない流れのように思う。時折憮然をムッとした意味に使い、表示を「ブ然」としている人を見かける。こういう人は正しい使いかたを知っていて使い分けているのかなと思ったりする。単に憮然が使い慣れない字だから使わないだけかもしれない。スポーツ紙の記者にはこんなのが多い。
 NHKアナに対しては、人間的にはつまらなそうな人ばかりだが、この種のことに関してはとてもしっかりしていると信頼していたから、きょうのアナの表現には心底がっかりした。
 もしかしたら抗議の電話がありアナが謝るかも知れないからあすは注意深く聴こう。といっても十両の取り組みが始まる早い時間に言ってしまうだろうから聴けないか。出来るなら玉乃島の相撲のとき「きのうの取り組みで私が玉乃島の表情を憮然と実況してしまったのですが視聴者のかたからお電話をいただき」と言ってくれると理想的なのだが。
(05/3/25)

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 吉川潮の「江戸前の男──春風亭柳朝」を読んでいたら、柳朝の葬儀に談志が駆けつけるシーンがあった。師匠の小さんとは大げんかの末に落語協会を脱退している。協会の幹部はみな談志を無視する。それに続いて、「小さんは破門した弟子だから憮然として目をそらした」とある。葬式だからしょんぼりの解釈もあろうがなにも破門した弟子から目をそらすのにしょんぼりする必要もない。やはりこれも「むっとした」とか「ふてくされた」の意なのだろう。

 作家はともかくNHKや新聞までその意味で使っているとなるともう「誤用」を超えている。あたらしい辞書がどう書くか見物である。私もすなおに流されるべきなのか。しかしそれにも忸怩たる思いがする。憮然……。
(05/4/15)

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 藤沢周平全集を通読した。ほとんどの作品は読んでいるがなぜか「用心棒日月抄」を読んでいなかった。理由は簡単で、このタイトルからよくある「かっこいい侍のパターン」を想像してしまったのである。典型的食わず嫌いの勘違いになる。今回手にしてみたらいかにも藤沢作品らしく充分に下級武士の貧乏苦労が描かれていてまさに私好みだった。

 この作品の中にかなり頻繁に「憮然とする」「憮然として」が登場するのである。それもみな「むっとした」の意である。どう考えても「しょんぼり」ではない。敬愛する藤沢さんもそうだったのかと落胆したあと、むしろそれどころか彼なんかがこういう作品で使うことによってこのことばの間違いを普及させたのかも、と思った。

 全集を読み進むうちにおもしろいことに気づいた。というのは、その後このことばは彼の中から消えてゆくのである。
 かってな推測をすると、日本語には珍しい「BUZEN」という響きにはだれもがいちど魅せられる(?)のではないか。そうして誤用する。「日月抄」のころの彼がそうだったのだろう。そうして、読者からの指摘かなんかで彼は気づいたのだ。それで封じた。「日月抄」の時期の連発と、そのごのきれいに出なくなるのを比べるとそうとしか思えない。
 封じることが作家としての誠意だったのだろう。どんな経緯であれそれが出てくると気になってしまう当方としてはその後の全集に出なくなったのでほっとした。
(05/7/20)




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