「たかが××、されど××」という言いかたがある。あれは何なのだろう。たかがと自らおとしめるのであるから、何かと比較して劣等感をだいているのだろう。だがすぐにされどと居直るのだから、けっきょくは自信をもっていることになる。
 なんといってもこの表現が好きだったのは、元巨人軍の江川卓さんで、あのかたは「たかが野球、されど野球」から「たかが巨人、されど巨人」となり、とうとう「たかが江川、されど江川」まで行ってしまった。一芸に秀でた人の、理想と現実が理想通りに進展しないことによって生じた人生の歪みが、これだけで考察できる味わい深い使用法である。
 どうやらこの表現は、社会的な位置、俗に言う 〃市民権〃というものに対して存在するものであるらしい。最近では邪道プロレスと言われるFMWの大仁田厚がこの言葉を乱発している。一方、日本では上流階級とされる医者とか弁護士がこの表現を使うことはあまりないようだ。

 競馬フアンにもこの表現を好む人は多い。プロの文章はもちろんアマチュアのサークル誌等にも、必ずといっていいほど「たかが競馬、されど競馬」とか「たかが馬券、されど馬券」のような言いかたが氾濫している。私には、この感覚が解らない。自分の好きなものはそれだけで最高なのだから、世間の評価になどこだわる必要はないのである。私は三十有余年熱烈なプロレスファンとして生きて来たが、そのことを隠したことはない。世に〃隠れプロレスフアン〝というのが数多くいるそうだが、私は常に〃闘うプロレスフアン〃であった。私からすると隠れプロレスファンなんてえのはプロレスファンとは認めない。もっとも、隠れるということや、自分の好きなものを「たかが」とおとしめることにはマゾヒスティックな快感もあるのであろう。そういう人たちの〃嗜好〃は認めてあげねばならないのかもしれない。好きなものは好きとしか言えない単細胞な私には一生無縁の世界であるが。

●ヤジをとばす心理
 ヤオチョー、バカヤロー、金返せのようなヤジを、プロレス会場でも競馬場でも、私は未だかってとばしたことがない。それは、その場にいることが自分の選択であり、ヤジをとばして否定することは自分自身の選択を否定してしまうことになると思うからだ。
 叫びたくなるときは何度かあった。たとえば地方競馬場。午前中からかたい配当が続いている。メインレースが荒れなければつまらない。荒れるだろうと豫想するのが自然だ。だが断然人気の逃げ馬がいる。力の差からいってこの馬でどうしようもない。馬もできている。負けることは考えられない。それがなぜか不自然な出遅れ、最後方からの競馬。直線激しく追い込んで来たが届かずの3着。達複大波乱というような場面である。場内には口汚い怒号が充満している。喉元までヤオチョーという言葉が出かかる。だが言ったらおしまいなのだと自分に言い開かせる。言ってしまったらその場はスッキリするが、後々まで苦いものを引きずることになる。

 馬券を買うということは、出遅れはもちろん落馬や競走中止の可能性も買っていることである。自分の思ったようなレースにならなかったから、自分の馬券が外れたからといってヤオチョーと叫ぶのは、あまりに情けない。自分の否定になる。なるベく私はそういう発想をするようにした。
「このレースはどうなることが全体の理想であるか?」
 そう考えることによって的中率は上がったし、上記のようなレースを事前に豫想し、ぴったりと当てはまったときは独特の快感があった。前記「午前中からかたい配当が続いている」と書いている。一日の平均連複は2000円前後になるのだ。それは統計でも出ている。午前中かたいレースが続き300円、400円なら、だからこそ午後は5000円、6000円が出るのだ。そう考えねばならい。
 次第に私はそういう視点で競馬を見ることが苦痛になり、ルドルフとの出会いをきっかけに元の素直なフアンに戻るのだが……。

 もしも私が競馬に対してヤオチョーと叫ぶことがあるとしたら、それは当たり馬券なのに払い戻しをしてくれなかった時だけである。
 ヤジをとばす人達、ミホシンザンと柴田に外れ馬券をぶつけた人達に、私は批判的であったが、それもまた競馬なのではないかと思うようになった。愛煙家であった頃、私は比較的マナーの良いスモーカーであったが、競馬場の中でだけはポイ捨てをやった。自分はバクチに来ているのだというちょっとハスに構えた感覚が、そういうマナー違反をさせたのである。競馬会は、タバコを吸い殻入れに捨てること、外れ馬券をくずかごに捨てること、そういうマナーを守りましょうとキレイゴトを唱えるよりも、競馬場が〃おとなの遊園地〃なのだとしたら、むしろディズニーランドのように、くずかごのない環境を作るべきだという気がする。それだけの利益もたっぶりあげているはずだ。

 そうこう考えている内に、私にとっては競馬場もプロレス会場も生きるということに直接問わる聖域のようなものだから、ヤオチョーと一度たりとも言ったことはないが、一般の人には日頃のストレスを解消する遊びの場なのだから、勝ち負けに一喜一憂して、ヤオチョーでも金返せでも叫んだ方が精神衛生上いいのではないかと思うようになった。自分の選んだ会社で、嫌いな上司をバカヤロ-と言えないのだから、せめて遊びの場である競馬場では、自分の選んだ騎手や馬に好きなだけ馬苦雑言を浴びせるのも遊びの特権なのでほないかと。それが娯楽場である競馬場の存在価値であり、寺山さんの言った「もうひとつの人生」なのだろうと。

 そう考えるようになってからは、口汚いヤジに心優しく接せられるようになった気がする。
 でも矛盾するようだが、やはりヤジをとばしているような奴はくだらない人であろう。会社の中でキチンと仕事をしている人は、競馬場でも口汚いヤジをとばすことはない。自分で選択し、自分で購入した馬券の当たり外れで、他者に罵りの言葉をはくような人は、会社では上司や同僚や部下に、家庭では女房子供に責任転嫁をするような、小心の小物であると思う。さいわいにも身近にそういう人間がいないので確認はできないのだが。

●八百長告発の視点
『週刊ポスト』は大相撲の八百長告発をする大義名分に、「プロレスならともかく大相撲は国技であり」と、「文部省が管轄している団体でありながら」を大相撲をもちあげることを謳い文句とした。最近の話題でいうなら、琴錦が二人の女性と付き合っていたということなど、金と人気のある若者の形態としてごく普通のことである。単なる有名人のスキャンダルに過ぎない。それを〃国技〃と〃文部省管轄〃で格上げし、これは単なるスキャンダルではないのだ、看過できないのだ、許せないのだと意味付けをする感覚は厭味だ。
 プロレスも相撲も入場料を取って見せる勝負事として全く同次元のものである。告発されるとしたら、それはただひとつ、おもしろいかおもしろくないかの視点であり、裏で談合がどうのこうのというのは客にとってどうでもいいことである。

 武豊騎手が琴錦的なことをしたなら、週刊誌はここぞとばかりにとびついてくるだろう。そこでは「国民の血税」とか「農林水産省管轄」が謳い文句となるのであろうか。騎手が非難されるのは、あくまでも騎乗技術に関してのみのはずである。週刊誌の女性スキャンダル記事を背景に、若手騎手にパドックで汚いヤジがとぶ……それは決して遠い日のことではない。
 そういう告発記事のような仕事をしている人と知り合う機会があったのだが、彼から感じたのは、ねじれてしまった視点の哀しさだった。なんとも気の毒に思ったものだ。

 相撲や競馬に限らず森羅万象この世のものは、ヤオチョーと思って見ればすべてヤオチョーである。彼らの競馬を見る目は、いわば〃警察官の視点〃とでも呼ぶべきものだ。競馬という〃街〃には、楽しく美しいものがたくさんある。青空、街路樹、公園で遊ぶこども、それを見守る母親、語り合う恋人たち、ベンチでくつろぐ老人、そんな街の美しさをすべて無視して、「どこかに怪しい奴はいないか」という視点で見ること、それが警察官の視点である。
 彼らの発言は「競馬会はけしからん」ということに集中して行く。競馬会の不備をなじることで自分を主張する。この方法だけで競馬を語るようになってしまった人は不幸だ。まず基本中の基本である競馬が楽しめない。始めに楽しみがあるはずだ。日本共産党に関して「香辛料のようなものだから無ければ困るが、主食にはならないもの」というどなたかの名言があったが、ケチをつけることを主張の中心にしている人はつまらない。

 桜花賞のイソノルーブルの落鉄事件で、競馬会のシステムを糾弾し、またも「かわいそうで涙がとまらなかった」という粗末な観戦記が巷に溢れたが、問題はただひとつ、イソノルーブルが落鉄しなければよかったのである。それが基本だ。落鉄したイソノルーブル(の関係者)が悪い。バクチとは、そういう可能性までも買うことのはずである。1番人気のイソノルーブルを思い切って馬券の対象から外した人は、彼女の落鉄により自分の読みに快哉を叫んだであろうし、もちろん逆の人もいただろう。それがバクチなのだ。人間でいうなら、マラソン出走直前に愛用の靴が壊れたようなものである。それで急遽用意した不慣れな靴を履いて負けた。悲運か、不運か。それは肝腎の本番前に壊れるような靴を履いていたこと、また同等の換えの靴を用意していなかったミスを責められるべきなのであって、第三者が「かわいそうに、かわいそうに」とその敗戦を涙して語ることではない。

 ミスターシーピーが三冠を達成する菊花賞の3コーナーで、ホリスキー、ミナガワマンナで菊を2勝している菅原は、「吉永、いまだ。ここで行かなきやダメだ」と叫んだという。その助言を聞いた吉永とシービーは強引にまくって行って快勝する。三冠秘話、友情の美談として伝えられるこの話も、菅原の単勝をもっていた人(すくなくとも何千万円の単位でいたはずだ)から見れば「人に教える暇があったら自分で行けよな」というヤオチョ一になってしまう。八百長とは所詮そんなものである。



●想い出作り症候群
 ミスターシービーの三冠馬券を払い戻しせずアルバムに張っているファンがいると聞いた頃から、厭な世の中になって来たと思ったものだった。日陰者だったコレクション・マニア、今で言うオタクがこのころから台頭して来る。当時私は「そのうち『ミスターシーピーの三冠単勝馬券、十万円で売ります。額面は100円。天皇賞も加えた四冠は適価で』なんてのが競馬雑誌の読者広場に載ったりして」と冗談で書いていたのだが、オタクが跋扈する今の世の趨勢では、あながち冗談とも言えなくなって来た。馬名入り馬券の発売により、そういう流れには益々拍車がかかるのだろう。

 競馬雑誌の投稿欄には、これみよがしに「この馬券はお金には変えられないよ。おまえの想い出のために、ずっと引き出しの奥にしまっておこう」というような自己愛的な文章があふれている。あの傾向は絶対におかしい。
 想い出とは目的ではなく結果として生まれるものである。ところが今は、想い出を作るために行動するというように本末転倒してしまっている。馬券を払い戻しせず取っておくのは自由だが、それこそが競馬ファンの理想的姿というような主張は狂っている。

 私はマティリアルの京王杯オータムハンデの単勝を取った。スプリングステークス以来の勝ち星であり、そしてそれが最後のレースになった。ダメであろうことは岡部が下馬してからの、何度も何度も振り返りながら検量質に戻って行くあの様子を見れば誰でも判ったことだ。すぐに馬券を払い戻して友人達と酒を飲んだ。思いつく限りのマティリアルの話を、決して湿っぽくなることなく、みんなでした。
 彼がスプリングステークスを勝ったとき、私は『優駿』誌の取材で札幌にいた。なんとかレースを見ようと街中を駆け回り、やっとパチンコ屋前の街頭テレビで見る。
「ミスターシービーしちゃったよ」と後で岡部が珍しくおどけた鮮烈な追い込み劇だった。

 その日、関西ではダイゴアルファが毎日杯を圧勝する。杉本アナウンサーが「自信をもって関東に送り出せます」と叫んでいた。関東のスタジオでは鈴木淑子さんが「自信をもってやって釆てください」と応えていた。

 メリーナイスの勝つダービーじゃダイゴアルファとマテイリアルで有り金全部勝負して、ダイゴアルファがズブズブになって沈んで行くのを見て腰が抜けたっけ。
 後にタマモクロスの取材で、タマモクロスの母親・グリーンシャトーの面倒を見ていた、今は引退した厩務員を栗東町まで訪ねて行くと、その方が偶然にもダイゴアルファの担当者で、グリーンシャトーそっちのけで大いに盛り上がったものだった。

 マティリアルを語り、3歳時それを相手にしなかったサクラロータリーの強さを語り、同期生のサクラスターオーを、バナレットを語り、「今夜はオレに任しておけ」と言ったはいいが、単勝2万円の払い戻し金ではだいぶ足が出た。

 私の手元にはマテイリアル最後のレースの当たり馬券はない。それでも机の奥深くしまってある人よりも、アルバムに年代別に整理している人よりも、あの最後のレースの夜に、たしかな時間をもったという自負はある。競馬の楽しみ方は人それぞれであり、もとより人様に意見を言えるような立場ではないが、馬券は正当に払い戻し、そのお金を使って楽しんで欲しいと願う。想い出は後から付いて来るものである。


1989年9月10日。京王杯オータムハンデ。マティリアル2年半ぶりのウイニングラン、そしてラストラン。

●悪役馬主待望論
 むかし羽田空港に到着したディック・ザ・ブルーザー・アフィルスやクラッシャー・リソワスキーは、テレビカメラに向かって人差し指を突き出し、憎々しげに唇を歪めて言ったものだった。「バーバ、アイノーキ、今度の試合がお前たちの命日になるだろう。棺桶を用意して待っていろ!」と。ご存じのように馬場は今も現役であり、猪木(外人はアイノキと発音することが多い)は国会議員であり、棺桶が役立つことはなかった。ほんとに用意したかどうか知らないけど。

 脱線するが、今の様式美に満ちた馬場のファイトをバカにする人がいるが、全盛期の馬場を知っている私達には、ただ存在するだけで嬉しいのである。身長2メートルを越す巨人レスラで、全盛期の馬場ほど動きの速かったレスラはいない。今も彼が現役でいるということは、競馬に例えるなら、毎年ダービーにカブラヤオーが出てくるようなものなのだ。齢をとったカブラヤオーは、スタートと同時にダッシュよく飛び出し1コーナーまでは先頭で行くがそこで息切れし、あとはもうヨレヨレになる。若いフアンは失笑する。
「なんだよ、あのカブラヤオーつていうジジー馬はよ、毎年毎年出て来やがって。どうせ1コーナーまでしかもたないくせに」と。
 それを開きながら私達は「パーカ、カブラヤオーがどんなに強かったか、おまえら知らんだろ」とほくそ笑む。現在の馬場に対する想いはそういうもので、プロレスを嫌いな人がどんなに今の彼のスローモーな動きを監したところで、私達が傷つくことはないのである。(しかしカブラヤオーなら、今でもダービー勝てそうな気もするな。)

 オグリキャップの馬主は、どうせあれだけ悪役にされていたのだから、思い切ってブルーザー&クラッシャーのようにテレビカメラに向かって毒づいて欲しかったと思う。
「いいか、おいビンボー人ども! オグリキャップは俺様の馬なんだよ、オレが馬主なんだ。煮て食おうと焼いて食おうとオレの勝手なんだよ。悔しかったら馬主になってみな、このビンボー人どもめ!」

 とまあ、これぐらいやって欲しかった。するともう「オグリンはわたしたちみんなの馬よ!」とか言ってるネーチャン達はまなじり吊り上げて狂乱の猿山、キーキーギヤーギヤーしてたいへんであったろう。
 だが、である。もしもここまでやったなら、ほとんどの週刊誌は≪許せない、馬主の暴言≫などとやるだろうが、そこであらためて「馬主とは何か!?」ということも明らかにされるはずである。

 オグリキャップの近藤さんは、GI優勝という感激を味わいたくて年間3億円ものリース料を払ったのである。それで外野から言いたい放題ではたまらない。馬は馬主のものである。だから馬の主という。勘違いしているガキ共に世の仕組みを教えるためにも、あえて悪役に徹して欲しかった。だが当時近藤さんは悲しそうな顔で、「オグリキャップは私の馬ではなく、フアンのみなさんの馬ですから」と言っただけだった……。

 プロレスと競馬には共通点が多い。それは不確定要素が多いということである。競馬はバクチとしては、ずいぶん不安定なものだ。プロレスと競馬の対局にいるのが、厳密なルールに縛られたボクシングであり、バンクの中を人力だけで走る競輪である。
 不確定要素が多いということは、それを楽しむために豊かな感性が必要ということである。立花隆のような品性も感性も智性も下劣な人間(注)にはプロレスは理解出来ない。プロレスファンに感覚勝負のミュージシャンが多いこと、ボクシングファンに緻密な足で調べるタイプのノンフィクションライターが多いことは、決して偶然ではない。本来多岐に亙る視点から自由に語れる娯楽の王様・競馬に、早稲田で演劇をやっていたというようなナメタジっぼいライターが多いのは大いなる間違いであった。現在活躍している若手ターフライターにプロレス好きが多いこともまた、極めて自然な世の流れである。

 ところでまさか「プロレスなんかと競馬を一緒にするな!」という人はいないだろうと思う。そういう人がいる限り、競馬ファンのたかがとされどの日々はまだまだ続くのである。


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 編集部注:今年の大宅壮一ノンフィクション賞は井田真木子氏の『プロレス少女伝説』が受賞したが、選考委員のひとり立花隆氏はこの選定に猛反対。「プロレスのような品性も感性も智性も下劣な…」と発言して話題となった。
(競馬主義91年冬号)

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