総武線水道橋駅、後楽園場外馬券売り場近くのビル。
 会議室の中央に並べられた長机。パイプ椅子に座った三十人ほどの男達。様々な風貌、年齢。共通なのは手に手に競馬新聞を持っていること。学生風の若者は憧れの人に会えることに目を輝かせている。頭の禿げた老人は、最後の頼みの綱にすがるかのように、うつむいて目を閉じている。受講料は二万円。
 スポーツ紙の片隅に載った広告を見て、それぞれは集まって来た。競馬は仕組まれている、走る前から勝ち馬は決まっていると主張し、売れないと言われていた馬券本をベストセラーにまでのし上げた男・高本公夫に会うために。
 昭和60年の秋。


●まるで鉱夫のように
 私が初めて高本さんの本を手にしたのは、昭和57年の秋、後楽園の黄色いビル一階にある本屋でだった。場所柄ここにはあらゆる馬券本がそろっている。『サラブレッドと話のできる男』という、なかなかしゃれたタイトルに魅かれて私はその本を買った。馬券で億の金を稼ぐ男の実在を懸命に主張している文章は妙に迫力があった。それはノンフィクション形式の本だった。それをきっかけとして、『馬券革命』『馬券大戦争』と、馬券本が連続して発売になる。私は高本さんの本を次々と読み漁っては実戦に使用してみた。大当たりもあった。大外れもあった。いつしか次の本の発売日を心待ちするようになっていた。
 そのころの高本さんの方法論は、現在のレース名や馬名等に勝ち馬が暗示されているという"暗号馬券"ではなく、極めてオーソドックスなものだった。といってもそれは多くの情報が溢れている今現在から見ればであって当時は正に革命的だった。

 馬の体型、爪の形、腹目の見方。決め手は馬の"目"。休み明けの馬体重増の牡馬は狙い目、雨の日は胴短の小型馬、三段階、五段階仕上げ等、斬新な馬券戦術ばかりだった。すくなくとも、毎日スポーツ紙を読み八大競走を十年以上欠かさずやって来た私にとって、それまでどこからも得ることの出来なかった知識だった。一日二万円の儲けを目標とする。目標を達成したら後のレースには手を出さず見学。そうすれば月に60万円の収入になる。億万長者になれると大言壮語せず、そういう地道な馬券生活を披露することに、単細胞な私は真実味を見ていた。

 大競走に"参加費として馬券代を収めるだけだった私は、自分にどれだけ的中馬券を見抜く能力があるのかと、高本さんが実践しているというその通りに、平日は南開束、土日は府中・中山と、毎日競馬場に通い始める。高本さんの本に「東京はその気になれば毎日競馬が出来るダイヤモンドの街」という一節があったが、ちょうど私の住んでいる品川は、大井競馬場に10分、川崎競馬場に40分、船橋、浦和にも一時問で行けるとい最高(最悪?)の場所にあった。高本さん信奉者の中でも、私ほど忠実に高本さんの戦法を実行した者はいないはずだ。

      *

 定刻の午後六時を十分程過ぎたころ、受つけのあたりがザワめき、主役が登場した。茶の三つ揃いに身をつつんだ高本さんが、汗を拭き拭き壇上に上がる。高本さんは、いきなり大声で切り出した。
「馬券で損をする奴は、バカです!」
 いっせいに全受講生がうなだれた。
「いや、あの、みなさんがそうだというのではなくて……」
 意外な受講生の反応に高本さんがしどろもどろになった。講師としては「東大なんか怖くない!」「オーッ!」という予備校的なノリを計算して言ったのだろう。「馬券で損をする奴はバカだ!」「オーッ!」「オレ達はいつだって勝ち組だ!」「オーッ!」という予定だったと思われる。しかし現実に負け続け、わらにもすがる思いでここまでたどり着いた受講生にとって、それは冷徹な事実の指摘にすぎなかった。

 気を取り直して、高本さんは言う。
「この会場に……」
 そこで言葉を切り、鋭い目線で会場を嘗めるように見回す。
「中央競馬会の方が来ていらっしゃると思いますが、どうか私のような者のやることですから、寛大に見逃していただきたい」
 張り詰めた気が会場に満ちる。だれもが自分たちのお金を吸い取る悪代官・中央競馬会に敵意をいだいていた。高本さんはその組織に一人で闘いを挑む正義の味方なのだ。果たしてこのとき競馬Gメン(これは実在する)が本当にいたのかどうかは解らない。ただこの一言で、会場の雰囲気が庄屋様の家で百姓一揆の相談をする農民的にまとまったのは確かである。(やるだよ。やるしかねえだよ。庄屋様、オラもう我慢なんねえだ。)受講生の心はひとつになり、会場の熱気がヒートアップする。
 みんなの疑惑のまなざしが、いかにもそれ風にキチンと背広を着た男に注がれる。男は、オレじゃないオレじゃないとでも言うように、顔の前で必死に手を振る。
 盛り上がってきた。禿げ頸のじいさんまで身を乗り出して聞き入っている。

 
    *

 昭和58年から60年まで私は毎日競馬場に通い詰めた。それまでの大レースの時だけ観戦に行く楽しみとは違い、それは難行苦行に近いものだった。遊びも度を越せば苦痛になる。前日に自己流の予想文を書く。競馬新問は一レース毎にコピーして、コピー紙を大判ノートに張る。当たっても外れても詳細な反省文を毎日レース毎に書いた。よくやったものだ。いま思えば全く実感がない。それでもたしかに私は、千日間競馬場に、1レースから最終レースまで通ったのだ。それは当時の新聞と日記が証明している。正確に言うと、夏場のローカル開催が始まると土曜日が休日になった。南開東4場は“ギャンブルホリデーと称して土曜日の開催を休んだからだ。夏場に、明日は土曜日だ、明日は休日だと思うことは安らぎだった。勝手に競馬場に通い詰めて難行苦行だの安らぎだのと言ったら、日々皆勤している勤め人の方に叱られてしまいそうだが、当然こういう生活をすることによって生じる歪み、報いはすべて経験している。キレイゴトで済むはずがない。未だ書く気にはなれないが……。

 それでも通い続けたのは、それなりに収穫があったからだ。競馬はすぐ答が出る。自分が「最高に仕上がっている」と判断した馬が、人気薄ながらブッチギリで勝つ快感。その逆の突き落とされたような敗北感。人生に構成力を持たない人間にとって、剃郡的なギャンブルほど血を奮い立たせてくれるものはない。
 私には高本さんの言う競馬の正体などどうでもよかった。むかし将棋に凝った時のように、馬券を当てることにどれぐらいの才能があるのか知りたかっただけだ。興味の基本の自分だった。「年に20本万馬券を釣り上げるのが馬券生活者の掟」と高本さんが書けば、何とかそれを達成しようと努力し実現した。

 高本さんは何かに追われるように変貌しつつあった。高本さんを追うもの、それは高本さん自身である。目新しい発想で世の中に飛び出した高本さんは、常に新しい切り口を求められ、発表し続けねばならない立場になっていた。古館伊知郎風に言うなら"必勝法開発の自転車操業"である。八枠の八つの色に始まり、花札、誕生石、トランプ、十二支と的中馬券の道を模索し、ついには漢字の解釈にまでたどり着く。このころから「競馬の演出者は調教師」という主張も「調教師はただの下働き。真の演出者は競馬会の奥にいる頭脳集団」と変る。

 競馬場に通い詰めていた私にも転機が訪れていた。
 あれは、大井の『潮風特別』というレースだった。私の本命は、8枠の人気薄牝馬カーネルクイン。昭和49年に関西の大物・キタノカチドキを迎え撃つべき、束の総大将だったカーネルシンポリの娘だ。カーネルクインへの連複はすべて高配当。何点かに絞ろうとして、馬体からの判断で真っ先に消したのが4枠のミナトセブン。それを締め切り直前に「潮風……ミナト」と連想し買い足すと、直線でカーネルタインを交わしてミナトセブンが1着になる。連複の1ー8は万馬券。
 このとき私の頭に最初に浮かんだのは(今度の高本さんの本にはこのレースが載るな)ということだった。以前なら会心の笑みを浮かべただろうに、何十回目かの万馬券を取った喜びは全くなかった。心の中で何かがハラリと剥げ落ちた瞬間だった。


●競馬の仕掛け人のベールが
 講習会が終った。「やっぱり高本先生ってスゴい人ですね、果てよかったなァ」
 エレベーターの前で学生風の男が話しかけて来た。だが高本さんの代筆が出来るはどその方法論をマスターしていた私にはこの講演会に目新しい発見はなかった。既に私の中で、高本さんの方法による競馬は終っていた。
 競馬に埋没して私があるのではない。私という主人公が、多くの趣味のひとつとして、競馬を手の平でもてあそんでいるのだ。だったら、最も自分の好みの方法で楽しむのが正しい。高本流の馬券修行をして得た結論は、ゲームとして冷酷に競馬を見つめ的中馬券を手にすることよりも、外れてもレースに想いを込めて、気分良く泣けるものを好むという自分自身の性格だった。最初で最後の高本公夫講演会への参加は、私なりの高本さんへの挨拶だった。もしも一年前の参加だったら、私は最も熱心な質問者になっていただろう。そのまま弟子になり馬券本を書いていた気がする。

 アパートに帰ると、九月末に投稿した中央競馬会機関誌『優駿エッセイ賞』に2着入線したという連絡が束ていた。高本方式に凝り馬券に熱中した男が、また元の単純な競馬ファンにもどるという話を書いた生まれて初めての応募だった。
 そして私は、高本さん言うところの"敵陣営"である競馬会内部の仕事をするようになって行く。


     *

 初めて〃敵陣営で仕事をした時から四年が過ぎた。
 最近思う。競馬会は本当に高本さんの敵なのか、高本さんは競馬会にとって好ましくない存在なのか、と。
 根室生まれの高本さんの実家は網元だったという。父親は競馬で何億もの金を失い、模造日本刀で割腹自殺未遂を決行したという。だから高本さんは、自分を"競馬復讐者"なのだと宣言した。だが競馬復讐者であるという高本さんが、現実に残したものはなんだろう。それは競馬の正体を暴くという論理の、結果としての"馬券売り上げの向上"なのだ。復讐ではなく、援護なのである。

 競馬という遊びの取っ付きにくさは、血統、距離適性、脚質、展開、人脈等の様々なファクターによる入門することの難しさにある。やってはみたいが、どうしたらいいか解らないというものである。それを、とくに後期になってからの高本さんは、「餘計な知識などはいらない。カタカナさえ読めれば、小学生程度の頭さえあれば、誰でも的中馬券を手に出来る」と主張した。そのことによって、今まで難しいものとされていた競馬を身近なものにした功績は計り知れないものがある。馬券売り上げに換算したなら、どれほどの巨額になるだろう。

 競馬は仕組まれていると主張することにより、高本さんは競馬のイメージをおとしたと言う人がいるかも知れない。しかし競馬会にとって最も大切なものは馬券の売り上げである。誰もが「見ているだけで楽しい」と馬券を買わなくなったら競馬はなくなる。オグリキャップの稼ぐ賞金も、武豊騎手の年収一億も、すべて馬券の売り上げから出ているのだ。假に「仕組まれている」と主張したことが一時的に川の流れを汚したとしても、すぐにそれは浄化される程度のものでしかない。

 問題となるのは競馬に興味を持たせるまでのプロセスである。一度興味を持たせてしまえば、自分たち人間が悠久たる血の流れの中に存在するのと同じように、その何倍もの速さで命の宿命を繰り返している競馬のおもしろさに魅せられて行くことは必定である。馬を水辺まで連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ないという無理強いの無意味さを諭したことわざがあるが、あたらしい競馬ファンを作るには、水辺まで連れて行くことが難しいのであって、一度連れて行ってしまえば、後は自分から進んで自分の方法で水を飲み続けるようになる。
 だから後々、たとえば海外の競馬や血統に詳しい新進気鋭の競馬評論家が、「最初に競馬に興味をもったのは、実はタカモト方式だったんですよ」と、照れ臭そうに告白する時代が必ず来るだろう。高本さんの真の偉大さはここにある。きっかけを作った功績だ。

 グレード制を導入した昭和58年以降、競馬会はふたつの大胆なイメージ・チェンジ作戦を展開した。ひとつは「人と馬の300年ロマン}に代表される表路線・ロマンへのいざないである。
 もうひとつが、競馬の根幹である馬券売り上げの増収という裏作戦、すなわちそれは「馬券なんて難しくありませんよ。誰にでも当てられますよ」というアビールである。この裏作戦のために選ばれた二人の優秀な工作員、それが陽の井崎脩五郎氏であり、陰の高本公夫氏だったのではないかというのが私の妄想なのだが……。
(『競馬主義』 91年春号)

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