●たまにはライバルを、と
この雑誌は平成三年(1991年)の秋に出たものである。
書いたきっかけは、いつもオグリ側だったので、逆側からも書いてみたいと思ったからだった。
雑誌からの読み取り原稿なので、とんでもない誤字が多くてまいった。
末宗瑞男厩務員の苗字が「未完」になっていた。これはまあ勘違いしやすいからしょうがないとして、その他、ずいぶんと手直しに時間を食った。高機能の読み取りソフトを購入すべきのようである。
今秋(03年)、ちょうどJRAのCMで武豊がスーパークリークのことを語っていたらしい。スポーツ紙で読んだ。さんまと一緒に出ているやつか。見ているのだが、漫然と眺めているので、語りの内容までは覚えない。
とにかくこの馬に関しては、武豊のことば「初めて惚れた馬」に尽きる。GTを42勝している武の最初のGT制覇である。それはこれから何勝しようとも変らない。
1988年 |
11月6日
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菊花賞
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スーパークリーク
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1989年
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4月9日
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桜花賞
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シャダイカグラ
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4月29日
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天皇賞(春)
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イナリワン
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6月11日
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宝塚記念
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イナリワン
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10月29日
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天皇賞(秋)
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スーパークリーク
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1990年
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4月29日
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天皇賞(春)
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スーパークリーク
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5月13日
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安田記念
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オグリキャップ
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12月16日
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スプリンターズS
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バンブーメモリー
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12月23日
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有馬記念
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オグリキャップ
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1991年
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4月28日
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天皇賞(春)
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メジロマックイーン
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1992年
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4月26日
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天皇賞(春)
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メジロマックイーン
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1993年
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4月11日
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桜花賞
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ベガ
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4月18日
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皐月賞
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ナリタタイシン
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5月23日
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オークス
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ベガ
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6月13日
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宝塚記念
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メジロマックイーン
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1994年
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4月10日
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桜花賞
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オグリローマン
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9月4日
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佛・ムーラン.ド.ロンシャン賞
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スキーパラダイス
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12月4日
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阪神3歳牝馬S
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ヤマニンパラダイス
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1995年
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5月14日
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安田記念
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ハートレイク
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5月21日
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オークス
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ダンスパートナー
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1996年
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5月26日
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オークス
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エアグルーヴ
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11月3日
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菊花賞
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ダンスインザダーク
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1997年
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5月11日
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NHKマイルC
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シーキングザパール
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7月6日
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宝塚記念
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マーベラスサンデー
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10月26日
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天皇賞(秋)
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エアグルーヴ
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1998年
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4月12日
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桜花賞
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ファレノプシス
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6月7日
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日本ダービー |
スペシャルウィーク |
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8月9日
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佛・モーリス.ド.ギース賞
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シーキングザパール
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10月25日
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秋華賞
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ファレノプシス
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1999年
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5月2日
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天皇賞・春
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スペシャルウィーク
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6月6日
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日本ダービー
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アドマイヤベガ
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10月3日
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佛・アベイユ・ド・ロンシャン賞
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アグネスワールド
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10月11日
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盛岡・マイルCS南部杯
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ニホンピロジュピタ
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10月31日
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天皇賞・秋
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スペシャルウィーク
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11月28日
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ジャパンカップ
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スペシャルウィーク
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2000年
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4月16日
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皐月賞
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エアシャカール
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7月13日 |
英・ジュライC |
アグネスワールド |
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10月22日 |
菊花賞 |
エアシャカール |
2001年 |
5月5日 |
NHKマイルC |
クロフネ |
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10月7日 |
佛・アベイユ・ド・ロンシャン賞
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インペリアルビューティー |
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11月11日 |
エリザベス女王杯 |
トゥザヴィクトリー |
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11月24日 |
ジャパンカップ・ダート |
クロフネ |
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12月16日 |
香港・香港ヴァーズ |
ステイゴールド |
2002年
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5月26日 |
日本ダービー |
タニノギムレット |
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7月4日 |
大井・ジャパンダートダービー |
ゴールドアリュール |
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9月23日 |
盛岡・ダービーグランプリ |
ゴールドアリュール |
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9月29日 |
スプリンターズS |
ビリーヴ |
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10月13日 |
秋華賞 |
ファインモーション |
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11月10日 |
エリザベス女王杯 |
ファインモーション |
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12月29日 |
大井・東京大賞典 |
ゴールドアリュール |
2003年 |
2月23日 |
フェブラリーS |
ゴールドアリュール |
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7月8日 |
大井・ジャパンダートダービー |
ビッグウルフ |
2003年 |
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エリザベス女王杯 |
アドマイヤグルーヴ |
● 文章から思い出
最初の「京都新聞杯」の項に「5着まで優先出走権があった」と書かれていておどろいた。そうだったのか。それとスーパークリークが神戸新聞杯で3着に入っていながら出走権が確定していなかったことにも首をひねった。ぼくの感覚では、あの二つの新聞杯と関東のセントライトの三つの菊トライアルは、みな3着までに入れば菊への優先出走権が取れたように記憶している。この当時に間違って書くはずがないから文章のほうが正しいのだろう。
今じゃその菊花賞の最も重要なトライアルであった京都新聞杯そのものが、春先のなんだかわけのわからん時期に移動してしまった。
皐月賞とダービーの合間には、重要なNHK杯(2000メートル)があった。皐月賞敗退組の巻き返しや、皐月賞に間に合わなかったダービーの伏兵が台頭する場だった。それがNHKマイルカップという外国産馬を中心としたマイルGTになってしまい──それはそれでよいことだろうが──そういう楽しみかたをした来たこちらとしては楽しみが激減した。
京都新聞杯の移動も、それと同じような失望である。トウショウボーイ、ハギノカムイオー、タケノコマヨシのように、二つの新聞杯を連勝した馬が、「3000の本番ではどうか」と考えるのが楽しかったのだ。NHK杯はまだGTに生まれ変ったから救いがあるか。わけのわからん存在になった京都新聞杯は、かつて輝いていたからこそなんともあわれである。
スーパークリークの天皇賞・秋に、「大外枠から武豊が一気に切り込む」という表現がある。そこでは「大外枠の不利など武は意識していなかった」となっているが、じつはおおいに意識していたからこそ、そんな乱暴なことをしていたのだった。
まったく同じ事をして、より頭数が多くなり(14頭→18頭)切り込みの角度が深いために、不利を受けた何頭もが落馬寸前になる事態を引き起こし、1着失格となる翌々年のメジロマックイーン事件を引き起こした。
この原稿を書いたとき、私はまだ、武豊のとんでもないラフプレーによる天皇賞・秋1着失格事件を経験していない。あれを見ていたらいくらなんでも、「大外枠の不利など気にせず一気に切り込む」とは書かないだろう。
いま思えば、あんな無茶をしなくても、得意の不良馬場だったし、マックイーンは勝てたろう。すなわち武がまだ若かったのだ。武の好きなコトバに、「強い馬はなにをやっても強いんです。マックイーンならスプリンターズステークスだって勝てた」というのがある。私もそう思う。ナリタブライアンの高松宮杯のころに言った一言だったか。
スーパークリークの菊花賞で、楽勝なのに武はむきになって鞭を入れてしまう。これはGT勝利未体験の若者なのだからしょうがない。でもそれから時が流れたスペシャルウイークのダービーでも、初めてのダービー勝利に意気込んで同じ事をする。あの冷静沈着な神の申し子も、あがって夢中になってしまうときがあるのだとほほえましい。
当時彼ら若手のラフプレーは大きな問題となっていた。競馬レースをクルマで言うなら、それまでは礼儀と長幼の序をたいせつにする流れだった。位置取りが決まっていた。そこに、あのオートバイによるクルマの群れを縫って走るような乱暴な走りが登場する。それが武豊世代だった。「あぶない、あいつらはなにを考えているんだ!」とヴェテランから非難が殺到したのも当然だった。
歩道を歩いていると、後ろから来た自転車が、人と人の間を縫うように走って行き、ひやっとすることがある。それをやっている中学生ぐらいの連中は、ゲーム感覚で、歩行者はそのまままっすぐ歩いているものと思っている。そうではない。よれたり、立ち止まったりする。よって事故が起きる。
若手騎手がやったのはこれだった。馬もまた生き物だからよれたり減速したりする。ヴェテラン連からのこの抗議はもっともだったと思う。危なかった。無責任に言えば、見ていておもしろかったとも言えるが。
それまで4角から一気に仕掛ける場合は、必ず迷惑を掛けないように大外に持ち出すのがルールだった。しかし武はレースを経験して、そういう場合いつも内がポカっと開くのに、なんでコースロスのある大外に行くのだ、内を抜ければもっと簡単ではないかと素朴に思ったのだろう。これが武の必殺戦法「イン突き」になる。いわばコロンブスのタマゴなのだが、「仲間に迷惑を掛けないよう、一気に仕掛けるときは必ず大外に持ち出す」というセオリを忠実に守っていた世代には、とんでもないやりかただった。
対照的に思い出すのは、南井ナリタブライアンのダービーである。あれは、コースロスのある大外を回り、誰にも迷惑を掛けず、それでも大楽勝という、昔風の乗り方による最高のかぶきだった。
この天皇賞前における伊藤師、武の自信満々コメントは今思い出しても強烈だ。伊藤師は「うちの馬を負かせる馬がいるなら見てみたい」と本当に言った。どう考えてもまだチャレンジャーの時にである。たいしたもんだ。あれでおおいに盛り上がった。
だけどあの天皇賞は、ヤエノムテキに前をふさがれたオグリキャップの不利が最も印象的な出来事になる。
当時、権威ある天皇賞をオグリキャップとあの馬主にやってはならない、なんとしても阻止しろとの命があり、西浦ヤエノムテキは、そのために選ばれた刺客だと言われた。翌年、その論功があってヤエノムテキは天皇賞を勝たせてもらった、悲運の南井は、やがて大きな褒美(三冠騎手)をもらうだろう、と。それを信じたくなるようなオグリキャップの不利だった。
柏台牧場の長谷川敏場長とはこれ以後も今までおつきあいがある。正確に言うと、この原稿の取材の何年も前(オグリやクリークの現役時代)に知り合っていて、このころはもうツーカーの仲だった。「そのうちスーパークリークも書きますから」と言っていた約束を、この原稿で果たした。
長谷川さんの始まりは、早稲田の演劇青年だった。黒沢映画のスタッフ時代に、撮影時に使用した馬に惹かれて転職し柏台牧場の場長となる。都会の演劇青年が、いわゆる180度の転身になる。このスーパークリークの大成功で柏台牧場を円満退職し、碧雲牧場を開場する。
柏台牧場時代は多くの使用人の上にいた長谷川さんだが、碧雲牧場になってからは家族での運営となった。映画青年時代に出会った都会的なきれいな奥さんも、馬の世話をするようになった。男の子三人も手伝うようになった。この辺のことは、バブルがはじけたあとの中小規模の牧場経営がいかにたいへんかということで、『優駿』で吉沢譲治がレポートした。どうでもいいような「早稲田卒の演劇青年」という経歴を書いたのは、結局私が今にいたるも親しくおつきあいをいただいているのも、大学の後輩に当たる吉沢さんが懐いて親しくなったのも、そのことが大きな要素だからである。
つい先日、見知らぬ民主党の都議候補から手紙が届いた。何事かと思ったら「長谷川さんからご紹介をいただいた」となっていた(笑)。たいへんなんだねえ。
柏台牧場の社長の相馬さんは文中にもあるように福島県のお殿様の家系である。いま柏台牧場は、相馬さんが生産から手を引き、社台の分場となったのだったか。消滅してしまったのは残念である。ただその後の時代を見ると上手な引き際だったようにも思う。
配合相談役としてナイスデイにノーアテンションをつけることを提案した岡田繁幸さんは、いまや競馬ファンなら知らぬ人のいないマイネルの総裁である。いつ会っても魅力的な人だが、私は縁あって岡田さんが競馬業界の立志伝中の人物として有名になる前──ダービーでグランパズドリームでダイナガリバーの2着するころ──に出会うことが出来た。それがなんともうれしい。
餘談ながら明石家さんまの競馬好きは、このダービーを「グランパズドリーム、じいちゃんの夢か、ええ名前や」と気に入って当てたことから始まる。奈良の幼少時代、彼はじいちゃん子だった。このじいちゃん、晩年はボケてしまい、ポットにまで「おはようんさんで」と挨拶していたという話が好きである。彼のひょうきんさはじいちゃんからもらったものらしい。
一昨年だったか『優駿』に書いたが、マイネルが大成功する前の岡田さんは、ガソリン代節約のためにディーゼル車を買い、それで日高中を走り回っては、弱小生産者の生産したマイナー血統の傑物を発掘してきては活躍させ、名をあげた。あの最弱のダービー馬と言われたオペックホースの子を発掘してきてオープン馬にまでするのだからその慧眼はすごい。その話をしたら、「いまじゃこんなガソリンばらまくようなでっかいクルマに乗ってるのにね」と遠い目をした。
マイネルからはみ出した馬を奥さんの岡田美佐子さんに馬主名義をとらせ馬主にしている。冠号「コスモ」である。その一頭であるコスモサンビームがGT朝日杯を制し、表彰台に髪の白くなった美佐子さんを見たときは、時の流れを感じたものだった。それにしても、社台から三億で買った馬(カーム)が走らず、種牡馬転用(実質廃用)となってアイルランドにもどったザグレブの仔がGTを勝つのだから、いかな天才岡田さんでも、競馬だけはわからない。
スーパークリーク5代血統表
伊藤修司調教師に会ったのはこのときが初めてだった。もともとぼくは『優駿』でも牧場方面が主体で調教師と騎手方面はうとい。熱心に話してくださるすばらしい人物だった。
調教師というと、大金持ちの馬主と接する鼻持ちならない連中=フリーランスのライターになど鼻も引っかけない、というイメージがある。実際そういう話をかなり聞いていた。自然にそうなってしまうものだろうし、それを当然と解釈する私は、かといって自分がそういうことで不愉快にはなりたくなかったから、そっち方面の取材は避けていたのだった。それでもこなさねばならない仕事はいくつかあった。それまで何人かの調教師、騎手を取材して、不愉快な目にあったことは一度もない。でもそれは競馬会の機関誌『優駿』の仕事である。たとえばタマモクロスのオーナー(当時八十代半ばの高齢)は、スポーツ紙の記者は門前払いしていたが、私だけは自宅の中に呼び入れてあれこれ話してくださり、記念品までいろいろともたせてくれたものだった。それもこれも『優駿』だからである。
しかしこのときの取材は、エロ出版社の増刊号である競馬本である。アポは編集部が取ってくれたが、冷たい対応をされてもしょうがない立場でもあった。新潟競馬場の出張馬房だったろうか、だからこそ伊藤師のあたたかみのある応対はうれしかった。
近年になって浅見調教師、境調教師等にお話を伺う機会があった。みなさんすばらしいかたばかりで、食わず嫌いで仕事を制限していた自分をつまらないヤツと思ったものだった。これは悪い意味でのアマチュア時代の名残で、アマチュア馬券ファンにとって調教師は、打倒すべき(?)敵だったからである。
同期の馬としてサッカーボーイの名が出てくる。あの世代、最初にマスコミを賑わせたスーパーホースだった。私はまだ彼がデビュ前に吉川良さんを訪ねていった社台ファームで、大沢場長から話を聞く機会があった。自ら乗って馬を仕上げる大沢さんは、「乗っていてゾクゾクする馬に初めて出会った」と語っていた。営業トークではない。ごく普通の世間話の時だ。それほどサッカーボーイとは凄い馬だった。気性の荒さといいやわらかな全身のバネといい、なにもかもが飛び抜けていた。だが資質が栄冠に結びつかない。4歳でマイルチャンピオンシップをちぎって勝つという栄光は得たが、潜在能力はそんなものではなかった。
一方でまた、「最強のマイラー」資質であったから、菊花賞を避けたのも事実。いわゆる「速い馬」であった。それが名だたるステイヤ系種牡馬を押しのけ、サンデー産駒すらも凌いで、ナリタトップロード、ヒシミラクルと2頭の菊花賞馬を送り出すのだから競馬はおもしろい。これは同じく「速い馬」であったマルゼンスキー産駒の最初のGT馬がホリスキーだったことにも通じる。
オグリキャップ1着、タマモクロス2着、スーパークリーク3着(失格)、サッカーボーイ4着、夢のような有馬記念だった……。私は中山で、タマモクロスの生産者と一緒に見ていた。
尚、「速い馬」とは故・野平祐二調教師がサクラユタカオーを評して言ったコトバである。その意味するところは、ルドルフ的絶対的強さではなく、「とんでもなく速いスピードの絶対値を持っている馬だが、勝負弱い、なんらかの缺陥ももっている馬」であろう。
ところが種牡馬として大成するのは、ユタカオーでありサッカーボーイであり、その「速い馬」が圧倒的に多い。今後もこの傾向は変わらないだろう。「強い馬」であったオペラオーの産駒はどうなるのか、興味が持たれる。
サッカーボーイ全成績
結びに使った「スーパークリークとミルキーレディの仔」は、記録にあるもので3頭誕生している。記録にある、とは「中央デビュした馬」という意味になる。残念ながら大物は誕生しなかった。デビュまで行かず、あるいは脚部に難があって地方競馬入りした馬が、もっといる可能性はある。これは牧場で台帳をみないとわからない。
それでも3頭もいるということは、関係者がいかにこの組み合わせに熱心だったかの証明となろう。2頭の仲の良さは作り話ではない。
1992生 ミルキーロマンス (母 ミルキーレディ)
1994生 マチカネアマノガワ (母 ミルキーレディ)
1995生 スーパーフミ (母 ミルキーレディ)
スーパークリークは15億円という高額シンジケートを組んだが、種牡馬としては大失敗だった。中心となったのは「育ての親」である荻伏レーシングであった。一口持たざるを得なかった友人の苦労も間近に見ている。一時は隆盛を誇った荻伏レーシングも今はない。ある意味、荻伏牧場の倒産は馬産地における最も衝撃的な事件だったか。
オグリキャップは種牡馬としては失敗だった。今後も大活躍した内国産馬の高額シンジケートはかなりの危険を孕んでいると言えよう。中でも、外国産牝馬に高額種牡馬のような血統的裏つけのない活躍馬──スーパークリークやオグリキャップのような──は要注意である。
馬主の木倉氏は典型的なバブル成金であった。武豊騎手との絡み等、いくつかおもしろい話も書けるがみなあまり愉快なことではない。今は落魄している。ここは省くのがあちらに対してもマナーであろう。
以上は本論と関係ある「原稿を読み返して思い出したこと」になる。それとは関係のないすっかり忘れていたこともよみがえってきたので、苦い味だが書いておこう。
「オグリキャップ写真集」におけるKという女編集者との確執は書いたことがある。彼女に私の原稿を無断でいじられ、それでは私の文章ではないと、印刷直前に私はデザイナー事務所に駆けつけ、表紙から自分の名を削除させたのだった。それは「オグリキャップにはなにもなかった。なにもなかったのである。」のような繰り返しの部分を、無断で「なにもなかった」だけにされ、文章のリズムを崩されたから、というのが記憶している憤懣になる。今回これを読んで、「スーパークリークの有馬記念3着失格はおかしい」と書いた意見等も削除されたのだと思い出した。あらためて腹だった自分に納得する。
しかし今思うのはべつのことだ。あれは「Song for You!」という当初からの予定のタイトルで出すと主張して譲らず、表紙にも自分の名を入れるべきだった。まずそこで引いてはならなかった。いちばん強い立場にいたのは、オーナーから直々に指名された久保カメラマンと著者の私だった。Kなどいてもいなくてもいい存在だったのである。正当に戦い自分側の主張を通さなかった自分をつまらないやつだと思う。
その後も、単行本のタイトルを「始まりの時」と主張したのに、編集者にこれでは意味がわからないと言われ、妥協して「春が来た」にしたとか、気弱の悔いは山ほどある。こういう失敗だけは二度としないように気をつけよう。
闘いの方向は、懸命に身を引く闘い(?)ではなく、そこに居続けるようとするものでなければならない。
まあそれを考えればひとりの狂人から逃げているこのホームページのありかたももろにそれになってしまうのだが……。
(03/12/23記入) |