おもひで裏話


第1回 あがった思い出

 ある日、友人の競馬作家・鶴木遵から、共同馬主クラブの会報にエッセイを書かないかと電話が入った。1992年8月のことだ。よろこんで書かせてもらうことにする。私の知らない「キャロットクラブ」という組織の「Eclipse」という名の会報だった。これは日食という英語であるが競馬関係の場合はみな欧州の伝説的名馬の名前から来ている。
 後に「亀造競馬劇場」を単行本にして出版するコスモヒルズ社も鶴木が紹介してくれたものだった。彼には感謝することばかりである。恩返しをせねばといつも思っているのだが、なかなかそんな機会がない。

 手元に保存してあるのは以下の17回分である。17回目は最終回ではないようだ。何回で終ったのか記憶にない。すくなくともあと数回分はあるはずなのだが。
 元原稿がないのでスキャンして原稿起こしをしている。面倒な作業だが十年以上読み直していなかったので新鮮でもある。


 記念すべき第一回の元本がない。見かけた覚えがあるのでそのうち出てくるかもしれない。でもそれは東京の住まいでであり、引っ越しのとき誤って捨ててしまった可能性も高い。
 内容はよく覚えている。「あがってしまったこと」だ。もうすこししゃれたタイトルだったと思うが(笑)。
 最初に「今まで人と会ってあがってしまったことが二回ある」と切り出し、一回目がプロレスラのドリー・ファンク・ジュニアであると述べる。ここでまた「余はいかにしてあがりしか」を詳しく書きたくなるが、それはぐっと我慢して先に進む。やはりプロレスのことをもっと書いておかないとだめだな。それを書いておけばこんなときも「××を参照」と出来る。
 このときも競馬に関係ないプロレスの話を延々と書いて不評だったらしい。10枚ぐらいのエッセイで前半をプロレスの話ばかり書いた記憶がある。

 そうして二番目にあがった経験として杉本アナと会ったときのことが出てくる。原稿の出来はわるくなく、悔いはないのだが、その「杉本アナに初めて会ってあがったときの状況」は、今思い出しても冷や汗ものでちょっと書くのが辛いのだが……。

 それは、『優駿』に掲載される、杉本アナと騎手を引退して調教師になったばかりの岩元市三調教師との対談だった。岩元は騎手時代、しつこい競馬で大穴をあけるので「マムシのイッチャン」と呼ばれていた名物騎手だ。その場に競馬ファンから競馬ライターになったばかりの私が、菊花賞取材のついでに、そういう取材があると編集者から聞いて、そこに行けば杉本さんに会えるとくっついて行ったのだった。おじゃま虫である。場は京都の料亭だった。

 対談の仕事とは無関係の見学者だから、最初はおとなしくしていたが、なにかのきっかけで、長年のあこがれの人であった杉本さんにちょっとした質問をしてしまった。いわゆる競馬ファンなら誰もが聞いてみたい「あの名台詞の生まれたとき」である。今でこそとんねるずの番組を経てヴァラエティ番組の常連となってしまった杉本さんだが、当時は関西テレビの局アナであり、その他の仕事はしていない。めったに出会えることはなかった。「杉本清名実況」とか「名台詞集」なんてのが出るのはずっと後だ。それもまた私と同じようなあこがれを抱いていた後輩のライターが企画したものだった。そのときの私は、それこそ十年以上ため込んできた聞いてみたくてたまらない質問である。これがいけなかった。

 岩元騎手の栄光は昭和57年のダービーをバンブーアトラスで勝ったことだ。その唯一とも言える栄光話と新人調教師としての抱負を聞き、しばらくの間が出来る。そこにちょうどうまく私の質問がはまった。杉本さんからいろんな名台詞の裏話を聞きたいのは、私と同じぐらい、いや私以上に杉本ファンである編集者もカメラマンも同じだった。
 また杉本さんも、自分が十年以上前に放送したことを、一言一句間違いなく覚えている関東の競馬ファンがいるなんてことをまだ知らない頃だから、即座に反応してくれた。よって私の質問がきっかけになり、いつしかその場は、「杉本アナとファンの集い」と化してしまったのだ。本来の主役である岩元新調教師を無視してである。

 楽しい時間を持ち、料亭の外で杉本さん、岩元調教師と別れ、昂奮さめやらぬまま三人で京の夜を飲み歩いて、後に気づく。岩元調教師にとんでもなく失礼なことをしてしまったと。まさに冷や汗三斗であった。短気な人なら、いったいここはどういう場なのだと席を立っていてもおかしくない状況だった。
 しかしいま思っても岩元調教師は立派な人で、下積みの苦労が長かったからか、私たちの質問が、杉本さんを中心に、テンポイントのような有名馬や、武邦彦、福永洋一のような有名騎手の話に偏る中、決して不快な様子も見せず、脇役騎手としての貴重な話を聞かせてくれたのである。
 後に、テイエムオペラオーの調教師として脚光を浴びたとき、同慶の至りであった。

 このエッセイでは字数の制限もあり、岩元調教師への非礼等には触れていない。プロレスラでドリー・ファンク・ジュニア、競馬アナの杉本清さん、あがるという経験とは無縁の私が、文句なしにあがってしまったのはこの二人だったと、そういう内容の第一回目だった。

「競馬まいぺんらい劇場」とタイトルをつけ、以下のような画像に説明文を書いて「まいぺんらい」の説明をしている。



 タイに狂っていた時期である。恥ずかしい。ま、いまとなっちゃよき思い出だ(笑)。
(03/9/9)
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