おもひで裏話


Round About Keiba(第13回 93年11月号 掲載)

■荏原町駅前
 このような形式の作品をなんと呼ぶのだろう。エッセイのようだが基本構成からして嘘だし、ディテールもだいぶ架空が混じっている。地名や駅名のような部分は事実であり、なによりすべて本音で書かれてはいるのだが……。フィクションで構成されたエッセイとでもいうのか、本人もよくわかってない。

 たった十年前でしかないのに、今となってはあまりに思い出深い事柄が多い。ひとつひとつ振り返ってみたい。読んでいる人には興ざめかもしれないが──といってもサトシとyutakaのふたりしかいないのだが(笑)──、本人にもそれなりに思いのある作品なのである。

 最初の「荏原町駅前のうどん屋」の「会話内容」はほぼ完全な実話である。よく覚えていないのだが(お恥ずかしい)、このうどん屋でのことがきっかけとなり、セロニアス・モンクの名曲「Round About Midnight」に引っかけて、この「競馬ファン(ライター)が様々な場の競馬に接して考える」という手法を思いついたのではなかったか。

 ぼくは関東人でありながらむかしから関西うどんが大好きだった。いま(03年)讃岐うどんブームで、あのしこしこしたおいしい麺が手軽に買えるようになってうれしい。当時もさがせば関西風のうどんを食える店はいくらでもあったのだろうがそこまでの食通ではないし、なにより男が食い物のことでうるさいのはみっともないという風土で育ったから、その種のこだわりとは縁遠かった。関西人に関東のうどんは色が真っ黒でどうのこうのとボロクソに言われると不愉快だったけれど、塩味のきついあの関西風のうどんが大好きでもあった。

 ぼくは東京に三十二年住んだが(過去形であることにしんみりする)ごく一部の場所しかしらない。品川と目黒だ。目黒も5丁目で品川区との境界ギリギリだったし、最寄り駅はもう品川区だったから、品川にしか住んだことがないと言っても過言ではない。学生時代に住んでいた武蔵小山のアパートから先日までいた旗の台まで、三カ所の住まいはすべて歩いて三十分以内だった。我ながらずいぶんと偏っていると思う。この三カ所にもよくおどろかれる。三年間で五カ所引っ越したなんて人からすると三十二年でたった三カ所は驚異的らしい。それはぼくがものぐさであることにも関係あるが、それ以上にすべての面でいい場所だった。もしも東京中をよく知ろうと何度も引っ越したとしても、きっとまたここにもどってきていたろう。この推測には自信がある。でなきゃいくらなんでもこんなに長くはいられない。

 先日送られてきた雑誌(アサ芸の「貧乏自慢」のコーナー)で、カイヤ(川崎麻世夫人)が結婚して来日し、ぜんぜん亭主に仕事がなかった頃、戸越銀座に住んでいたと語っていた。そこで英会話教室を開いて食っていたという。売れるまで七年暮らしたという戸越銀座を、地域も人々も含めて絶賛していた。隣町である。生活範囲にはいる。暮らしやすく、人情もあり、安全で、いい地域である。カイヤの褒める気持ちが素直にしみこんできた。
 ぼくにとっても品川は過去になってしまった。

 東急田園都市線(今は大井町線)荏原町駅は二カ所目の住まいの最寄り駅になる。三カ所目に引っ越してからも、よくここで降りては歩いていた。最寄りの池上線荏原中延駅よりはすこし遠くなるが慣れ親しんだ地だったし、そうして歩く散歩も楽しかった。その理由のひとつにこのうどん屋がある。

 この店は改札から数秒というもろに駅前の誰がどう考えても駅の立ち食いうどん屋と思う立地条件にあり、いかにもそれらしい狭い店構えだった。なのに味はあの透明スープの塩味、しこしこ麺の関西風だったのである。うまいうどんだった。当然のごとく値段も駅前の立ち食いうどんよりもずいぶんと高かった。仕事途中のサラリーマンが、あの真っ黒汁にふにゃふにゃの立ち食いうどん200円のつもりで入ったら、素うどんで400円ぐらいしたからけっこうおどろいたのではなかったか。

 その代わり、パートのおばさんが私服でやっているような立ち食いうどんとは違って、カウンターの中の店主はきちんと白の調理姿で、白の調理帽もかぶっていた。そこはかとなくプロっぽかったのである。
 偶然ここを発見したとき、ぼくは小躍りした。そのころぼくの知っているうまい関西うどんの店は渋谷に一軒あるだけだった。しかしうまいうどんを食うためにわざわざ渋谷まで出かけて行くというようなことは男としてよしとしない。うまいうどんを食いたい。だが電車賃を掛けてわざわざ出かけて行くなんて自分は容認できない。今風(?)であるかないかは、けっきょく、ここの差なのだろう。「わざわざ出かけて行く自分」に、うっとりするか、みっともないと毛嫌いするかである。他の原稿でもたびたび書いているが、流行りのラーメン屋に並ぶ人は、並ぶことをかっこいいと思っているのだ。こんなぼくと考えが合うはずもない。

 ここを知ったのはこの原稿を書いた年のさらに十年ぐらい前だろうか。偶然見つけ、週に一度ぐらい、ふらっと思いついたように通うようになった。当時、自転車に乗っていた。たまらなく食いたくなって自転車で駆けつけたこともあった。
 それでもぼくは、どんなところでもそうなのだが、よけいなことはしゃべらないから、店の人と親しくなることはなかった。調理人らしく角刈りにしたごま塩頭の頑固そうなおやじと、ちょっと太めの気のよさそうなかあちゃんがやっていた。おやじは競馬が大好きらしく、土日に行くと必ずラジオの競馬中継が流れていた。カウンターには競馬新聞が拡げられている。常連と競馬の話で盛り上がっていることも多かった。

 初めてそれを知ったときは新鮮だった。というのは、ぼく自身が競馬狂であり、しかもガチガチの競馬場派であったから、土日は競馬場に通っている。週に一度ぐらい行くその日は、いつも平日の午後だった。客のいない時間を見計らって行く。おやじが大の競馬好きであること、競馬好きの連中がよくたまっていることを知るのは、その店を知って相当の時間が経過してからだった。のちに考えれば、毎日必ず『東スポ』が買われていて、競馬面が開かれていたりとか、推測できる要素はいくつもあったのだが、人と競馬を語ることに興味のないぼくは気づかなかった。おやじと常連の競馬談義を聞き、熱心な競馬ファンであると知るのは、競馬物書き業が忙しくなり、競馬場に通えなくなってきた土曜日のことだった。

 ぼくは競馬の話には加わらず、いつもそこに置いてある「プレイコミック」や「漫画サンデー」を読みつつ、天ぷらうどんか五目うどんと、サッポロビールを一本飲むのが常だった。当時もう少なくなりつつあった大瓶であることもうれしかったものだ。そうそう、その日の出たばかりの『東スポ』がよくおいてある(なにしろ隣がキオスクだ)のも魅力のひとつだった。出たばかりの『東スポ』を読みつつ、うまい関西風五目うどんとサッポロピールである。それはぼくの理想とする天国にかなり近い情況になる。いま書いていてよだれが出てきた。
 そんな感じの不定期の無口な客ではあったが、適当に通い詰めていたから、一応ぼくは常連のはじっこぐらいには位置していたろう。一切会話を交わしたことはなかったが……。

 そんな日々が十年ほど続いて、文章の舞台になる。
 シンガーソングライター土方から放送作家兼肉体労働者を経て、やっとぼくは放送作家兼競馬ものかきで食っていけるようになりつつあった。週に一度通っていたその店も、仕事が忙しくなってきて、月に一度ぐらいになっていたころだ。



「あれ書いたの、おたくでしょ」
 いきなり太めのかあちゃんから話しかけられた。それが最初の会話になる。
『競馬ゴールド』誌に「Round About Keiba」が掲載されて二週間後ぐらいだったか。いつものようぼくは五目うどんにサッポロビールを頼み、「プレイコミック」を読んでいた。注文の品が出来上がる。いつもならどんぶりをおいてスッと下がるかあちゃんが、この日はぼくのそばで、もじもじと佇んで口を開いたのだ。
 常連の誰かが『競馬ゴールド』を店にもってきて、ここに登場しているのは間違いなくこの店だと話題になり、すぐに犯人(?)はぼくだとみんなで噂し合ったという。よくわかったものだ。きっと「あいつだよ、ほれ、たまに来てよ、おとなしくマンガ読んで、ビール一本飲んで帰る奴、きっとあいつだよ!」なんて感じだったのだろう。

「だってうちに来る人で、こんなこと書きそうなのおたくしかいないし」
 ぼくは悪戯を見つけられた子供のようにどぎまぎしていた。わるいこと(?)は出来ないものである。まさかこんなにあっさりとばれるとは思っていなかった。自慢じゃないが衣類には凝っていない。どう見てもその辺の地元工場(こうば)から昼休みに飯を食いに来たという風体なのだが、全身からにじみ出る智性は隠せないのであろうか(笑)。
「はあ、どうも、すいません」
 そんな感じで肯定した。

 どうやら誰も怒っているわけではなく、むしろ店も含めてマスコミに登場したことを喜んでいるらしいと知った。俎上に挙げたおおぼらを拭きまくっていた男も怒ってはいないようだ。ほっとする。あの箇所で次第に彼の話に飲み込まれて行く学生風の男は作り物である。だが彼が店主相手に拭きまくっていたほら話はほとんどそのまま採録しているのだ。よかったよかった。安心した。
 ただ最初の時は、まさかそういう形で自分たちがマスコミに登場するとは思っていなかったから、常連が「てえへんだ、てえへんだ!」と本を片手に飛び込んできたらしい。それにしても、よくもまあすぐにぼくだと断定できたものだ。ほんと、わるいことはできない。

 そうしてぼくは初めてそのかあちゃんと話をした。
 混んでいる店が嫌いなぼくは外から店内を確認して、いつも空いている時間を選んでいた。どんなに食べたくても混んでいるときは遠慮していた。こんな奴が行列に並ぶはずがない。この日も、他に客のいない昼下がりだった。混んでいて忙しかったらかあちゃんも話しかけてこなかった(こられなかった)ろう。

 関西風のうどんを作るおやじに東北なまりを感じていた疑問が氷解する。やはり福島の生まれで、修行のために関西に行ったのだという。かあちゃんも関東人だ。あちらで知り合い結婚して東京にもどってきた。かってな推測だが、関西が合わなかったのだろう。関東人同士でくっついて関東にもどってきたが、出した店は修行で覚えた関西風の味だったということか。しっかりした味と常に白のうわっぱりと前掛けを身につけている姿勢が、おやじのきちんと修行した職人の誇りを感じさせる。
 ふと、おやじのいないことに気づく。しかも思い返せば、ここ数ヶ月、見ていないのではないか。入院していると知る。病名は語らないが、なんとなくかあちゃんの表情に沈鬱なものを感じた……。



 次から次へと仕事が舞い込み忙しい日々が続いた。しばらくこの店にも行けなかった。忙しかったこと以外にもうひとつ理由がある。稼ぎのよくなったぼくは、なにも遠回りしてそこに立ち寄ったり、自転車で駆けつけたりしなくても、渋谷新宿のうまいうどんを食えるようになっていた。友人に連れられて新宿のオカマバーを梯子して、深夜にタクシーで帰宅していたりしていた。
 昼に仕事をして、夜は仲間と飲み歩く。その店は午後八時ぐらいには閉めてしまうから、酔ったあとに寄ることもない。そうして数ヶ月が過ぎた。

 この文章の構成は、順不同であり、言うまでもなく一日の出来事ではない。それこそ一年、いや数年の中のいくつかの出来事を、一日に詰め込んで創ったものだ。
 競馬会の図書室で調べものをした帰りではなかったか。ぼくはずいぶんとひさしぶりにそのうどん屋を訪ねた。午後四時ぐらいだったか。
 ちいさなことだが時が過ぎると忘れてしまいそうなので自分のためにメモしておこう。当時のぼくは池上線に乗り、五反田経由で渋谷新宿方面に仕事の打ち合わせに出かけることが多かった。遊びも学生時代からずっとそっち方面だ。このうどん屋のあるのは大井町線の荏原町駅だから逆方向になる。仕事帰りにここに立ち寄るのは、新橋銀座方面に出かけたとき、山手線ではなく京浜東北線を使って大井町経由で帰ってくるときに限られていた。そうしてちょうどこのころ、専属のようになっていた『優駿』と縁を切り【油来亀造 YUKI KAMEZO】の名で民間雑誌にもばりばり書き始めた頃だったから、めっきり競馬会のある新橋方面に出かけることも少なくなっていた。このこともここと疎遠になることの一因だった。



「あら、おひさしぶり」
 あの一件以来、声を掛けてくるようになったかあちゃんがぼくの顔を見てほほえんだ。ぼくもあれ以来、常連用のカウンターにすわって競馬の話をしたりするようになっていた。
 カウンターの中に、面差しがおやじと似た、ひょろっと背の高い青年がいた。
「息子さん?」
 と、かあちゃんに尋く。
 先月、おやじが亡くなったと知る。胃ガンだった。やはりそうだったのだと思う。前回会ったとき、かあちゃんには覚悟の色が見えていた。胃ガンは抗ガン治療の効かないやっかいな病気だ。

 おやじが亡くなると、それまでわるさをしていたひとり息子が、いきなり店を継ぐと言いだし、まじめになったのだという。言われてみると、なんとなくまだやんちゃをしていたころの面影が残っている。かあちゃんとぼくの会話を聞いて照れくさそうにそっぽを向いた。
 病院でも週末の競馬を楽しみにしていたおやじは、次第にそれすらも興味を示さなくなった。そのときにいよいよかと覚悟したとかあちゃんは言った。

 やがてぼくは、すっかり田舎の人となり、いつしかこの店とも縁が切れてしまった。もう何年行っていないのだろう。
 近いうちに訪ねてうまいうどんを食ってきたい。たぶん、息子ががんばって今も存在しているはずと確信している。(03/9/30)


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