2012
2011/11/5  競馬大好き<きっこさん>──ホワイトフォンテン単勝配当のウソ

 以前<きっこさん>は公営ギャンブルを否定し、パチンコのような個人バクチを好んでいました。2年前のエリザベス女王杯で12万円の馬連を100円当ててから突如競馬好きになります。そのことから「ほんとうは幼い頃からずっと競馬好きだったわたし」という設定を無理矢理追加します。

 いまではメールで親しくやりとりしているらしい競馬好き作家の重鎮・石川喬司さんを「競馬の師匠」とまで呼んでいます。石川さんも「親孝行」な<きっこさん>が大好きのようです。ここのところ放射能が来るよお、こわいよお、と布団を被ってブルブル震えていた<母さん>は行方不明ですが(笑)。



 <きっこさん>の創作した競馬好き少女の物語。
1976年、4歳の時に<父さん>と一緒に行った東京競馬場が<きっこさん>の競馬の原点です。そこで<きっこさん>さんが薦めた芦毛馬ホワイトフォンテンの単勝を<父さん>は千円買います。レースはAJC杯。

《あたしがまだ4才か5才のころのことで、その日は「AJC杯(アメリカンジョッキークラブカップ)」っていう競馬が行なわれてたそうだ。それで、父さんは、あたしを連れて府中の東京競馬場へ行ったんだけど、レース前にパドックで出走馬を見ていたら、あたしが灰色の馬を指さして「あのお馬さんがいい!あのお馬さんがいい!」って言ったもんだから、父さんは、自分の予想した馬券の他に、その馬の単勝馬券を1000円買ったそうだ。この<u>1000円の馬券が7万円以上になって</u>、そのゴホウビとして、あたしは、帰りにどこかのレストランで、チョコレートパフェを食べたそうだ。》2008年3月29日の日記。

 おそらくこれが初出。創作日(笑)。石川喬司さんとのメールやりとりから石川さんや寺山修司を検索し、智識を積み重ねての創作と思われる。いかにも「過去の調べ物をして、こんなの作りました」って感じの駄作。この「物語」も、「ホワイトフォンテンと父さんの想い出」が表だとすると、むしろ裏の「あの日、石川先生も競馬場にいらっしゃったんですね。もしかしたらすれちがっていたのかも」という有名人へのすりよりがより重要なテーマとなっている。

 石川さんのようなひとはこんなお話に弱い。ころっとだまされる。優駿エッセイ賞でも審査委員長としてこんな作風に率先して大賞をあげてきた。<きっこさん>はジジーコロガシがうまい。自分もジジーだからツボがわかるのだろう。
 でもこの駄文、あまりにベタな設定だ。優駿エッセイ賞に応募しても一次審査で落ちる。優駿エッセイ賞のすべてを知りつくしたグランプリ受賞者の私が断言する(笑)。いや絶大な権力を持つ石川さんの力で無理矢理佳作ぐらいになれるかな。駄文の全文はここにあります。
 "http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2008/03/post_478b.html"

 石川さんをうまくだましたこの話がよほど気に入っているらしく、その後も頻繁に出てくる。厳選した日記のみを撰んだ書籍版にも収めている。私は検索ベタだし何より面倒なのでここにはみっつ(元文をいれるとよっつ)しか例を挙げないが、たぶんもっともっと登場しているだろう。なにしろ原点(笑)だから。

《お待ちかねの「アメリカンジョッキークラブカップ」、略して「AJC杯」がやって来るので、しばらく神秘のパワーを充電してたあたしは、モンローブロンドのような美しい脚でスックと立ち上がり、久しぶりの「エヴァンゲリオン予想」を楽しもうと思ってるんだけど、そんなマチカネタンホイザも1994年に優勝してる「AJC杯」は、あたしが4才馬だった時に、父さんに連れられて府中競馬場へ行き、あたしの「あの白いお馬さんがいい!」のヒトコトで、<u>父さんにホワイトフォンテンの単勝を<b>特券</b>で獲らせた思い出のレース</u>でもある》2010年1月19日の日記。

「設定」は、「成人してからの<きっこさん>が<父さん>に会い、自分の4歳の時の話を<父さん>から聞いた」ということになっている。「きっこがあんまり何度もあの馬がいいって言うから、父さん、ホワイトフォンテンの単勝を特券で買ったんだよ。そしたら70倍もついてなあ」と<父さん>が話したのだろう。という「設定」。

 ここで初めて「特券」ということばが出て来ます。当時は200円、500円、千円の三種類しか馬券のない時代、千円券を特券と呼びました。公営ギャンブルの「専門用語」です。あと「マンシュー」ね(笑)。
競馬のことを知らないのに、競馬にすりより、じつは幼い頃から競馬が好きだったという「設定」を<きっこさん>は2008年3月から始めるわけですが、このときはまだ勉強不足で「1000円買った」と書いています。2010年1月にはその後の勉強が実を結び「父さんに特券で取らせた」と専門用語(笑)を使っています。あ、「獲らせた」でしたね。漢字に凝る<きっこさん>の文は正確に再現しないと。この辺に<きっこさん>の競馬勉強の成長が見えてほのぼのとしますね(笑)。

《今から30年以上も前のこと、物心ついたころのあたしは、父さんに連れられて行った競馬場のパドックで、白くて可愛い馬を見て、「あのお馬さんに乗りたい!」って言った。あたしの言葉を聞いた父さんは、その馬の単勝を特券で買った。スタートからトップに躍り出た白い馬は、他の馬たちを大きく引き離したまま、空を飛ぶようにゴールした。幼かったあたしの目には、まるで背中に翼の生えたペガサスのように見えた。 父さんの買った単勝の馬券は、7万円以上になった>》2010年10月24日の日記。

「あのお馬に乗りたい」というあたらしいフレーズが出て来ます(笑)。
「空を飛ぶようにゴールした。幼かったあたしの目には、まるで背中に翼の生えたペガサスのように見えた」ってのもベタだなあ。「幼児が初めて競馬を見て感激したらどう感じるか!?」と知恵を絞ってもこれしか浮かばない貧困な発想。というか、こういう表現をすれば本物に思われるという浅はかさ。

《「AJC杯」と言えば、今まで何度も書いてきたように、今から35年前の1976,年、第17回のレースを父さんに連れられて府中競馬場まで観に行ったあたしは、1頭だけで白くて小さかった馬、ホワイトフォンテンをひと目で気に入り、父さんに「★おのお馬さんがいい!」って言って、その馬が1着でゴールを駆け抜けるシーンを目撃した。ちっちゃかったあたしは、「はじめてのおつかい」ならぬ「はじめての予想的中」ってワケで、あたしの予想でホワイトフォンテンの単勝を特券で買った父さんは、1000円が7万円になったってワケだ》2011年1月23日の日記。

 完全な嘘話なので書くたびに微妙に内容が変化しているのが笑えますね。一貫しているのは「千円が7万円」です。

註・「★おのお馬さんがいい!」
<きっこさん>は私と同じカナ入力である。「テレビ」を「テレピ」と誤打鍵するようなのはカナ入力独自のミスだ。この「あの」を「おの」とするのはカナ入力ではありえない。たぶんケータイからアップした文なのだろう。



 ミニにタコ(by田代まさし)が出来るほど聞いた<きっこさん>の「ホワイトフォンテン話」だが、<b>当時のことを記した私の資料「中央競馬レコードブック PRC刊」では、ホワイトフォンテンの単勝は1820円になっている。「単勝を千円買って7万円の配当」とはどこから出て来たのだろう。

 成人してから<父さん>に聞いた話という「設定」だが、競馬好きの<父さん>は間違えない。単勝18倍と70倍じゃあまりに違いすぎる。

 枠連が72倍である。9頭立て8番人気のホワイトフォンテンが1着、前年の菊花賞馬4番人気コクサイプリンスが2着。なんでこんなについたのかというと、その他のメンバーが豪華すぎたからだ。それはこのあとに書く。

 そのうちここを読んだ<きっこさん>は話を造りかえるでしょう。本命をコクサイプリンスにして、馬券を枠連にすれば辻褄が合います。そのポイントは騎手の中島かな。

《父さんの本命は前年の菊花賞馬コクサイプリンスだった。なんでも鞍上の中島啓之という騎手が父さんは大好きだったという。大人気のハイセイコーやタニノチカラを破って有馬記念を勝ったのも中島だった。関西馬のキタノカチドキが単枠指定というのになって大人気だったダービーでも、父さんは関東馬のコーネルランサーを応援した。勝てないと思っていたけど、それでも応援した。だって父さんはチャキチャキの江戸っ子だから。とにかく関東馬を応援するのだ。そのコーネルランサーが勝った。キタノカチドキを破ってダービーに勝った。そのときの父さんのよろこび。このとき父さんの中で中島啓之は世界一好きな騎手になった。
去年の菊花賞も断然関西馬有利だったのに中島が穴馬のコクサイプリンスで勝った。成人してから喫茶店であったとき、父さんは中島騎手の想い出を熱く語っていた。その中島さんは、それから数年後にガンで亡くなってしまう……。
 コクサイプリンス本命の父さんは、あたしがあまりにホワイトフォンテンを薦めるものだから、コクサイプリンスからの枠連に無視していたホワイトフォンテンを追加した。それが見事的中。父さんの買った千円の枠連は7万円になった。》

 とでも直されるでしょうね(笑)。すごく苦しい、かなり苦しい。

だって<きっこさん>は競馬なんか好きじゃなかったんだから。2006年にはこんな文を書いています。

《ホラャララ団がやってる闇のカジノとかだって、通常のテラ銭は10%なのに、国が許可してるギャンブルが25%ものテラ銭を取るなんて、 どう考えてもボッタクリだ。

 その上、競馬って、八百長が多過ぎる。あたしの知り合いで、競馬雑誌の編集者がいるんだけど、その人から、ある厩舎の調教師たちがやってる八百長の実態を聞いて、あたしは呆れ果てた。

 八百長に利用されてる馬たちもかわいそうだし、こんなもんにお金を賭けるなんて、それこそ、北朝鮮に送金するのよりもアホらしいと思った。
2006年7月29日の日記より》

 でましたね。ボッタクリに八百長。ボロクソですね。4歳の時の<父さん>との思い出を繋ぐ競馬のはずなのに、中学生の時には毎月必勝法を考案していたほど大好きな競馬だったのに……。これを読んだら石川喬司先生はなんと思うことか……。

 得意の「知り合いから聞いた話」も出ました。そんなバカな競馬雑誌編輯者はいません。作り話なのが見え見えです。

「北朝鮮に送金するよりアホらしい」ですか。今そこまで否定した「こんなもんにお金を賭ける」に夢中のようですけど。まあ競馬をやらないときもパチンコ狂いで北朝鮮に送金の手伝いはしてましたよね。

 冒頭に赤字でみっつ掲載した「ホワイトフォンテンと<父さん>の想い出。競馬大好き<きっこさん>」と、この赤字の「競馬を憎むほど大嫌いな<きっこさん>」。どっちがほんとかと言えばそりゃもちろんこっちでしょう。

 以上で本題は終りです。言いたいのは「<きっこさん>がくどいほど書いているホワイトフォンテンの単勝70倍はまちがい」ということ。<きっこさん>は競馬なんか大嫌いであり、それらは捏造だということ。それだけです。

 以下は競馬好きオヤジのただの昔話なので競馬マニア以外はおもしろくありません。読まなくていいです。

============================================

1976年1月25日 第17回AJC杯>



 豪華なメンバーだ。コクサイプリンスはカブヤラオーが二冠を達成した前年の菊花賞馬。牝馬はテスコガビーが二冠制覇だから春の四冠はみな関東が制していた。鞍上は四冠すべて菅原! そしてラスト五冠目の菊花賞。関西はロングホークに夢を託した。カブラヤオーさえいなければ世代2番目はロングホークだと。僚馬ダービー2着のロングホークもいる。

 だが関東の伏兵コクサイプリンスが制覇する。鞍上は中島啓之。タニノチカラを破ったストロングエイトの有馬記念、キタノカチドキを破ったコーネルランサーのダービー。まさに関西への刺客だった。
関東馬クラシック五冠全制覇。このあと暮れの阪神3歳ステークスで、杉本清アナが「見てくれ、この脚、これが関西期待のテンポイントだ!」と名実況するのは有名だが、それはこの関東に五冠ぜんぶもって行かれた悔しさから出たものだ。来年こそは関西のテンポイントだと。

 そのコクサイプリンスが勝った菊花賞で1番人気だったのがイシノアラシ。4着に破れるがそのあとの有馬記念を7番人気で勝つ。この「菊花賞で1番人気になって敗れる。人気が下がったそのあと有馬記念を勝つ」というパターンをイシノアラシですり込まれていたから、私は後のシルクジャスティスが買えた。同じく菊花賞を1番人気で敗れ4番人気で有馬を買った4歳馬である。

 フジノパーシアは前年秋の天皇賞馬。まだ11月末、いまのJCの週に天皇賞(秋)が開催されていた。もちろんまだJCはない。府中3200メートル秋天トライアルは今と同じく毎日王冠、オールカマーだが、最重要トライアルは2500メートルの目黒記念だった。
 このころ三田祭と秋天開催日がかぶっていた。渋谷場外で馬券を買ってキャンパスに向かう。当時渋谷はふだんは「500円単位」だったが八大競走の日は「千円単位」になる。競馬会はいつも高飛車だった。「金のないひとは買ってくれなくてけっこう」という姿勢だ。だから私の馬券の思い出はこんなにむかしなのに常に千円単位になる。いま3連単フォーメーションを100円単位で買っていることが不思議な気がする。
私は音楽サークルで歌っていたがそこを抜け出して競馬研究会のブースにゆき、モノクロテレビで観戦した。フジノパーシア、カーネルシンボリで決まって的中した。3着に牝馬のトウコウエルザ。枠連しかないから3着に意味はないが。

 有馬では当然のごとく秋天を勝ったフジノパーシアが1番人気。そして勝つのがイシノアラシ。みな関東馬である。若駒も古馬も八大競走で勝てないのだから関西びいきの関西人・杉本アナがテンポイントに絶叫したのもよくわかる。名実況も背景がわからないと理解できない。あれはテンポイントに肩入れしただけの実況ではない。東高西低が裏にある。

 トウコウエルザはオークス馬。秋にビクトリアカップ(エリザベス女王杯の前身。まだG1認定されていない)も勝っているから今で言うなら二冠牝馬だ。有馬でも3着に来ている。私の友人にトウコウエルザが好きで好きでたまらないのがいて、トウコウエルザを思いつつオナニーをしたと言っていた(笑)。残念ながら私にはそこまでの想像力がなく今に至るも未体験だ。鞍上は〝牝馬の嶋田〟。

 ハーバーヤングはカブラヤオー世代。ダービー3着、菊花賞はコクサイプリンスの3着。今で言うならドリームパスポート的な馬。大好きな種牡馬セダンの仔。鞍上は岡部。若かった(笑)。
私のダービーはカブラヤオー・ハーバーヤングが本線だった。好きだったなあ、種牡馬セダン。ダービー馬コーネルランサー、天皇賞馬アイフルの父だ。後にダービー馬・サクラチヨノオーを応援するのも母父がセダンだったからだ。

 ヤマブキオーは中山記念を始め今で言うG2、G3をいっぱい勝っていた名脇役。G1には届かない。父はパーソロン。私のいちばん印象的なレースは、秋の府中のオープンで元返しにちかい人気のハイセイコーを破ったレース。今で言うならG1を勝つ前のカンパニーのようなタイプ。

 なんとも豪華なメンバーである。前年のグランプリホースがいて、前年の菊花賞馬がいる。ともに古馬となって1戦目。前年の秋天馬、グランプリ2着馬の1戦目である。有馬3着の二冠牝馬も古馬となっての1戦目だ。菊花賞馬の参戦で、ある意味有馬より豪華になっている。それら人気馬をすべて負かしてホワイトフォンテンが逃げ切った。大波乱である。「単勝千円が7万円になった!」と「設定する」のも解る気がする。

 当時のAJC杯は、年が明け、前年の覇者たちが始動するレースという趣があった。ハイセイコーやタケホープも年明け古馬となっての第一戦にここを選んでいる。価値ある重賞だ。このメンバーを見るとそれがよくわかる。
 いまはまだ1月ということから一流馬は動かない。春天を目指して動き出すのはもっとあとだ。

---------------

 インターネットで、むかしの競馬を調べて知ったかぶりをするのは簡単に出来る。有名馬、大レースに関しては、素人玄人入りまじって名馬物語が溢れている。私もYahooにけっこう書いた。仕事として。それらのエッセンスを呑みこめば、にわか競馬通一丁上がりだ。2ちゃんねるでも高校生が自分の生まれる前の名馬、昭和51年のトウショウボーイのことを「見てきたかのように」熱く語ったりしている。

 ところが意外に金額のことはむずかしい。おそらく「逃げ馬ホワイトフォンテンが好きだった」という文章はインターネット上にたくさんあり、AJC杯や連覇した日経賞、あるいは若駒の時のダービー(ハイセイコーと同期)のことを書いた文もあるのかもしれない。両親の名やエピソードも知ることができる。でもAJC杯の単勝が18.2倍だったと書いてあるものは皆無なのだろう。もしあったなら1日18時間ネットをやる<きっこさん>が見逃すはずがない。

 Wikipedia等でも着順や出走レースを知ることは出来るが配当はわからない。ホワイトフォンテンはたいした馬ではなかったが「白い逃亡者」と呼ばれた個性派逃げ馬だったからWikipediaにも載っている。でも配当まではない。もちろん日経賞の単勝万馬券のような派手なことは書いてある。だがあのレースの平凡な配当、単勝18倍ということをインターネットで知ることは意外にむずかしい。盲点か。私もそのために仕事用の資料を引っ張りだしてきて確認した。



 そのことから推測すると、すべてネットから情報を得ている競馬初心者の<きっこさん>がライター用の資料である「中央競馬レコードブック」のような本をもっているはずはないから、35年も前のことだし解るヤツもいるはずがないと適当に7万円と吹いたような気がする。単勝70倍と18倍じゃぜんぜん違うが、これぐらいが適当かとやっつけ設定(笑)をしたのだろう。多くの読者がいるのに今まで指摘されなかったのは、そんな古い競馬を知っている読者がいなかったからだ。

 そもそも<きっこさん>は競馬嫌いだったから読者にも競馬ファンはすくない。Twitterでも「競馬の話を始めるとリプライが減る」と書いていた。私はその流れを見たいのだが「彼女」をフォローしていないので見られない。ほんとうはフォローして観察すべきなのだろうがどうにもあんな薄汚いものをフォローする屈辱に耐えられない。
 運よく誰にも指摘されないから悦に入って何度も何度も平然とウソを書きつらねて来たわけだ。なんとも滑稽である。結果として消せないほどの過失となったから、こちらからすれば大正解だ。1回だけなら直して知らんふりも出来るけど、うんざりするほど同じ事を繰り返し書いているから消せない過去になる。



 8万人ちかいフォロワーを誇る<きっこさん>だが、それを指摘できるひとがいたとしたらメルトモ(笑)の石川喬司さんぐらいか。石川さんは当時の現場にいたのだ。私もいた。私は4歳のかわいいかわいい<きっこさん>と擦れちがっているのかな(笑)。私はホワイトフォンテンなんて最初から消しだから大外れだったけど。
このとき学生の私は一階の普通席で観覧。石川さんや寺山は最上階の『優駿』貴賓室だ。私が優駿エッセイ賞を縁として競馬文章を書くようになり、その貴賓室で石川さんに挨拶するのはこれから10年後になる。そのとき寺山は死んでいた。大好きなミスターシービーの三冠を見ることなく。初めて貴賓室に行き普通席で見る競馬とはちがう世界があることを知った。
 あの「物語」は、「石川さんや寺山修司が競馬場にいた」ということから逆算して創られたものだろう。

 石川さんは単勝が70倍ではないことぐらい覚えている。当時もいまも単勝70倍は大穴だ。まして枠連しかない時代である。トウショウボーイ、クライムカイザーという単枠指定馬2頭が消え、テンポイントすらも消えての無名のグリーングラスが勝った昭和51年の菊花賞大穴でさえ単勝52倍である。単勝70倍がいかにすごいことか。石川さんは確実に記憶している。

 なのに石川さんはメルトモのこの致命的な失敗をなぜ指摘してやらなかったのだろう。その理由を、私は、石川さんは「きっこの日記」を熱心に読んでない「雰囲気ともだち」なのではないかと推測する。ほんとに親しいなら、そんなのすぐに注意してやるはずだ。

 ここで「80代の年寄りだし、35年も前のレースだし、そりゃ無理」と思う人がいるかも知れない。そうではない。競馬は年を取れば取るほどむかしの細かいことが鮮明に浮かぶのだ。最近のことは忘れるが(笑)。私なんか去年、いや今年のクラシックの勝ち馬すら思い出すのに苦労するが、学生時代の競馬の事なんて、そりゃもう微に入り細を穿って資料いらずで滔々と語れる。前記AJC杯の出走馬のことも資料などいらない。もっともっといくらでも書ける(笑)。
 石川さんにとっても亡き寺山や虫明らと一緒に見たレースであり、石川さんも競馬作家として最高に脂が乗っていた時期だ。「あのホワイトフォンテンの単勝はそんなについてないですよ、頭数もすくなかったし」と指摘してやることは容易だったろう。

 それをしていないのは、石川さんと<きっこさん>は、うす~いトモダチだからだろう。<きっこさん>が有名人の名を自分に都合のいいように使うのは有名だが、おそらく石川さんも、自分になついてきて持ちあげてくれる<きっこさん>を、そこの部分だけ気持ちよく利用していて、「きっこの日記」を叮嚀に読んではいない。「先生のことを書かせていただきました」とメール連絡が来たら、自分が登場する回だけ読むとか、その程度なのだろう。

 もしも私が<きっこさん>の友人だったら即座にまちがいを指摘してやった。あるいは、アンチとして、きちんと日記を読んでいたならすぐに気づいて指摘する文を書いていた。でも私が「きっこの日記」を週一で読むようになったのは、「彼女」が競馬を始めた2年前からなので、「ご存知のようにあたしが競馬と出会ったのは」のような形で何度か目にしていたが、ボケっと眺めていただけなので今まで気づかなかった。

 私は「幼い<きっこさん>がホワイトフォンテンを<父さん>に奨めて、<父さん>が特券で単勝を買って大儲けした」という「いかにも」な作り話を「単勝で大儲け」から、「ホワイトフォンテンが逃げきって単勝万馬券になった1975年の日経賞」と勘違いしていた。

 あのときのAJC杯は9頭立てと少頭数であり、逃げ馬はホワイトフォンテンだけだった。低人気だったが逃げ馬ファンは多いから、そんなにとんでもない配当ではないことは記憶していた。今だって9頭立てで単勝万馬券はまずない。案の定、調べてみたら9頭立て8番人気でも単勝は18.2倍だった。適正である。
 1976年のAJC杯ホワイトフォンテンの単勝配当は18倍であり、<父さん>が千円で7万円を手にすることはありえない。



 その後も<きっこさん>は、<母さん>と離婚したため、月に一度しか会えなくなった<父さん>との会話を弾ませようと、中学生の時には「単勝をぜんぶ買うという必勝法」とか、自分なりの必勝法を毎月考えては<父さん>に提案したりする。競馬は<きっこさん>と<父さん>を繋ぐ、大切な共通の趣味だった。

<きっこさん>は長年の連載日記で競馬のことを書かなかったけど、じつは4歳の時から今に至るまでずっと競馬が大好きだった……。というウソの自分史。

 このあとどんな形か知らないけど石川喬司さんと知りあい、メールのやり取りをするようになり、とにかくもう有名人は大好きな<きっこさん>だから、いきなり2008年の「ペガサスが飛んだ日」(冒頭でリンクしてある文)という創作になり、やがて2006年に書いた文なんかもう忘れてしまい(笑)、こどもの時からずっと競馬が大好きだったという別人格を創りだすことになります。ほんとビョーキだな。息をするように嘘をついて、自分の築きあげた虚構のビルで迷い、嘘と現実の区別がつかなくなっているのだろう。

 ひとは自分の生きてきた道を否定できません。忘れられません。もしも<きっこさん>に、本当に4歳のときのホワイトフォンテンのことや、競馬好きの<父さん>と語りあうために独自の必勝法を考え出したりした中学生時代の「競馬歴史」があったなら、上記赤字のような文章には絶対になりません。どんなに大嫌いだとしても「あたしも中学生のころ、<父さん>に気に入ってもらおうと競馬に興味をもっていたことがある」ぐらいは入ってしまいます。あちこちの文章に出てきてしまいます。あれだけ中身のない長文をこれでもかというぐらい毎日書いてきたのだから隠そうとしても出てしまいます。隠せません。

 なのにこの文章にはそういう過去の「におい」がぜんぜんありません。そりゃそうです。これが本音であり真実だからです。<父さん>との競馬の思い出なんてものはカケラも存在せず、心底個人バクチのパチンコ・麻雀・花札が好きであり、競馬は嫌いだったのですから。「こんなもんにお金を賭けるなんて、それこそ、北朝鮮に送金するのよりもアホらしい」と思っていたのですから。2008年まで。あとからみんな辻褄を合わせようと作り上げた話です。でも辻褄があってません(笑)。

 作り話なのです。それも三流です。<きっこさん>風に表現すれば「便所虫の田舎者の与太話」です。
「単勝をぜんぶ買うという必勝法を中学生時代に考えて父さんに話した」なんてのもベタだなあ。送ってもらった石川さんの本から知って、ご機嫌取りに作ったのだろう。石川さんはこの手の必勝法とかの話も大好きだ。この辺、ほんとに気に入られる小細工はうまい。そしてジジーは見事に転がされる。まあジジーのほうにももうすこし足腰を鍛えろと言いたい。森光子はいまでもスクワットをやっている。



 これから有馬記念まで、いまは競馬に夢中の<きっこさん>は土日は競馬のことをツイートしまくるのでしょう。メルトモの石川喬司さんも登場するんだろうな。あれこれウソがこぼれるのが楽しみです。

来年のAJC杯は1月22日。また「<父さん>は単勝千円を7万円にした」って書くのかな。今から楽しみだ(笑)。
2012/11/14
●高名な作家の名競馬随筆にはけっこうまちがいが多いという話


 高名な先生方の競馬随筆には、けっこうまちがいが多い。それがまた意外に「トンデモ」なのだ。いくつか例を挙げる。原文を引くと誰のことかわかってしまうので私流にアレンジして書く。

●その一
 某先生の競馬に熱中していた時代の話。「天皇賞でのAとBの一騎討ち馬券を買った。配当は210円だった。その馬券は払い戻しせず大切にした」
 複数のエッセイに何度も登場するいい話である。競馬に熱中していた時期のスターホースへの思いが伝わってくる。AもBも八大競走をいくつも勝った歴史的名馬だ。繰り広げられた名勝負は名高い。ともに天皇賞を勝っている。
 しかし……。



 AとBが一緒に天皇賞に出たことはない。春にAが勝つときBは出ていない。当時は勝ち抜け制であるから、Bが勝つ秋のときAが出ていることはありえない。出られない。だから「天皇賞でのAとBの一騎討ち馬券を買った」というのは先生の記憶違いになる。しかし先生は御自分の記憶に自信があるのか、何度も随筆でそれを書いてやる。気づいたひとはいなかったのだろうか。

「210円」という数字はなんだろう。AとBの天皇賞一騎討ちはなかったが、この両雄の1,2着で決着したレースは多い。朝日杯、ダービー、オールカマー、目黒記念。それらのレースとの勘違いか。
 だが、それらを克明に調べてもレースの配当金に210円はない。200円、220円とかがあったらそれとの勘違いですむのだが、460円とか520円とか数字が離れているので「たぶんこのレースと勘違いしたのだろう」というこじつけも無理だ。先生は記憶に刻まれているこの「210円」が気に入っているらしく、他の随筆でも何度もこの数字を書いている。田中角栄が演説の中に細かな数字を織りまぜ、そのことによって説得力を持たせ〝コンピュータつきブルドーザー〟と呼ばれたたように、「天皇賞、歴史的名馬A,Bの一騎討ち、配当210円」は、最後のこの210円で、より真実味をおびる。しかしそんな一騎討ちもそんな配当もないのである。
 感動的ないい話も、あちこち、というかぜんぶ先生の勘違いなのだ。



 さらには「私が競馬に熱中したのはAやBやCが活躍していた時代である」とあり、そのAとBの天皇賞一騎討ち馬券を最後に競馬から足を洗った、となっている。だがCがクラシック戦線で活躍して話題になるのはAとBの名勝負数え歌が終った次の年なのである。これまた矛盾となる。最後の勝負をして、馬券からきっぱり足を洗った翌年に活躍した馬を好きで応援したことになっているのだ。
 記憶とはいいかげんなものである。

---------------

●その二
 某先生の場合。夏の福島競馬で競馬初体験。福島は奥さんの故郷。毎年夏はそこで過ごしていた。暇を持てあまし、やったことのない競馬場とやらに出かけてみる。
 その日のメーンレース。オープン戦。そこでDという馬と出会う。オープン馬だ。八大競走で2着したことがある。今で言うG3の重賞は勝っている。ムラ馬だがここでは格が違う。まあ何があろうと夏のローカル競馬で負けることはあるまいと周囲の競馬ファンが言っている。

 まったく競馬を知らない先生だが、みなの言うそれを信じて初めて馬券を買ってみた。Dから何点か。当時の馬券は6枠連単制。ところがDはEという無名の格下馬の2着に敗れる。連単馬券だから先生の馬券はハズレである。周囲は惨敗したDに憤っている。馬券初体験の先生だが、「なんでEごときに負けるのだ」と憤然とする。

 それから数ヵ月後、あのDが天皇賞を勝ったと知る。さらに翌月、今度は有馬記念も勝ったと聞く。「なんだよ、福島であんな格下馬に負けたくせに」と先生は思う。このことをきっかけに先生は次第に競馬に熱中して行く。ほろ苦い馬券初体験を綴ったいい話である。
 しかし……。



 先生が夏の福島競馬場で目の前で見たDは6歳(今で言う5歳)のときである。その年の秋にDは秋天と有馬を勝つのだから。だがDは3歳(今で言う2歳)のとき福島で3戦しているが、その後福島では走っていないのだ。いったい先生の見たDとは何だったのか。
 なにかの勘違いだとしても、それが何なのか説明のしようがない。なぜならDの戦歴にEという馬と走って2着したこともまたないからである。先生はDが5枠、Eが7枠で連単の結果は7-5だったと書いているが、6枠連単制であるから、この7-5という言いかたもおかしいことになる。これは今で言う馬単の結果だ。
 細部の勘違いではなく、話そのものが成立しないのだ。いったい、なにをどう勘違いしたのか……。(いうまでもないが随筆ではDもEも実名である。)



 さらに、このことは本気で主張しておきたいのだが。
 この先生のありえない妄想随筆が掲載されたのは日本一有名な共同馬主クラブの会報だということである。その編集長を知っているが、ずいぶんと雑な仕事をすると呆れた。先生の勘違いはしかたない。ひとの記憶なんてそんなものだ。だが専門家の編集者がこの文章をそのまま掲載したことはあまりにお粗末である。『競馬四季報』でDの成績をチェックすれば先生の勘違いに気づいたろうし、そういう確認をするのが彼の仕事ではないか。

 これが掲載されたとき、Dは有名馬だから、おそらく共同馬主クラブに出資するぐらいの競馬ファンなら一読して気づき、抗議が殺到したと思われる。しかも細部のまちがいではなく、ここまで「存在しない話」になると繕いようがない。先生はありえない妄想随筆を書いて恥を掻いたが、それは担当編集者にほんのすこしの心遣いがあったら防げたことである。ひどい編集部である。先生に同情する。



【追記】──その後、関係者に質問し、いまだに誰もこのことに気づいてないと知る。先生ご本人もだ。「誰も」ということは有りえまい。熱心なDのファンで気づいたひとはいたと思う。でもわざわざ高名な先生の競馬初体験記の勘違いは指摘しなかったのか。過去の有名な事件を穿り返したのかと思ったら、事件にはなっていないようである。

【追記】──8枠連複制と6枠連単制
 先生の「当時の福島は6枠連単」に興味を持って調べてみた。私は「競馬場によってちがった時代」を知らないからである。すると、昭和38年(1963)に8枠連複制が始まるのだが、それは出走頭数の多い東京、中山、阪神、京都でのみの実施だったと知る。たしかに、当時の福島の重賞を見ると、6頭立てなんてのが多いから、これは8枠連複よりも6枠連単のほうが配当的にもおもしろいことになる。JRAのすべての競馬場で8枠連複になるのは昭和44年(1969)からである。これに人気馬の取り消し問題から絡み、昭和49年(1974)に「単枠指定制度」が出来る。これは馬番連勝が全国発売になった平成3年(1991)に廃止される。

---------------

●その三
 某先生の場合。新人作家時代の随筆。幼い頃、大好きな父に連れられ毎週のように競馬場に通った。当時の馬券は6枠連単制。父が1頭を選び、息子も1頭を選んでの枠単一点勝負。めったに当たらないが、どちらかの選んだ1頭が絡むことが多かった。すると来たほうが来なかったほうを責める。冗談半分のの親子喧嘩。そして親子は笑いあう。たのしかったあのころ。たまにではあるが大穴を的中することもあった。そのときは帰宅前に料亭に寄って大御馳走。でも女のいる店に行ったため母は不機嫌になり……。それが私の競馬の原点という、今はない父を偲ぶいい随筆である。

 しかし……。
 先生は大作家になってから、新人時代に書いたこの随筆のことを忘れてしまったのか、対談に登場し、「ぼくの父は単勝しか買いませんでした。その他の馬券は一切買いませんでした。絶対的な単勝派でした」と明言するのである。先生、それじゃあの「親子で1頭ずつ撰んで枠単を買った」というほろりとする名エッセイは……。

 これは惚けたのでも記憶違いでもない。新人時代、うけようとして、ついついおもしろい話を作ってしまったのだろう。どうせついた上手なウソなら最後まで突き通して欲しい。でもまあ記憶は忘れるものだから……。

---------------

●その四
 某先生が競馬を好きになったのは昭和30年代の末、シンザンのころからだった。それから10年、ハイセイコーが出現する。日本中が注目し、にわか競馬ファンが増えた。先生はそれにうんざりする。以前はパドック最前列で馬を細かくチェックしたのに、今ではパドックは素人で賑わいそれもかなわない。ブームを怨んだ。自然に競馬場から足が遠退いた。

 先生が再び競馬場に通うようになったのはキタノカチドキが出現してからだった。ひさびさに現れた関西の大物である。ここのところ関東に連続して取られているダービーを関西に取りもどす期待もあった。無敗で皐月賞を制する。さあ、ダービー。ダービーの応援には府中まで出むいた。だが期待のキタノカチドキは関東馬コーネルランサーの3着に敗れる……。

 いい話である。古いものを好むファンは、ブームにより殺到する素人により場の雰囲気が壊れることを嫌う。ハイセイコーブームで白けたというオールドファンは多い。先生もそのひとりになる。
 しかし……。



 ハイセイコーは昭和47年に大井でデビューし、48年の春に中央に移籍する。ブームが始まるのはここからである。正しくは、昭和48年の、弥生賞、皐月賞、NHK杯と連勝したあたりだろう。大井から全勝である。注目度ではダービーがピークだ。だがここで敗れたからこそ、さらなるファンを増やすことになる。翌49年の有馬記念で引退。むかしの5歳、今の4歳暮れである。

 さて、ハイセイコーブームにうんざりして競馬から離れていた先生が再び競馬にのめりこむことになるキタノカチドキ。デビューは昭和48年。ハイセイコーと同じく全勝でダービーに向かい、ハイセイコーと同じく3着に敗れるのが翌49年。50年の有馬記念で引退している。

 つまりこの両馬、1歳違い。昭和49年は、5歳(いまの4歳)となり天皇賞や宝塚記念で活躍する古馬のハイセイコーとクラシック戦線で活躍し、皐月賞と菊花賞の二冠馬となる4歳(いまの3歳)のキタノカチドキの年だった。両馬の活躍年度が一緒なのだから、先生の「ハイセイコーでうんざりし、数年休んで、キタノカチドキでまた燃えた」は勘違いになる。ただしこの両雄は一度も闘っていないから、それは十分にあり得る勘違いだろう。他の先生のように一席ぶった名勝負がありえない話とはちがうから、勘違いの罪は軽い。

---------------

 たかが競馬の思い出話である。どうでもいい。ひとの記憶なんてそんなものである。だけどこういうことを確認すると、高名な先生方が書いている、たとえば「戦争中の思い出」なんて話も、けっこう眉唾なんじゃないかと思えてくる。ひとは記憶を、自分に都合のいいように変る。

 そう思ったので、競馬ネタだが、あっちではなくこっちに書いた。


inserted by FC2 system