呉智英さんの『ゴルゴ13』論争
2000  註・この文章は2000年に書いた『T-Thai(定タイ)騒動』という文章の中で、「T-Thai騒動とゴルゴ13論争は似ている」として書いた「ゴルゴ13論争」の部分のみを抜きだしたものです。

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 『ゴルゴ13』とは、『ビッグコミック』誌に既に30年近く連載されている人気コミックである。もう十数年前になるだろうか、ここで有名な〃論争〃と呼ばれるものが勃発した。

 それは評論家の呉智英(くれ・ともふさ)さんが、『週刊宝石』誌上で『ゴルゴ13』の批判をしたことから始まった。マンガ評論もする呉さんが、書評のページでコミックを論ずるというなかなかに斬新な企画だった。
 そこで呉さんは、二十年にも及ぶ連載(当時)の中でも屈指の名作として評判になり、掲載後半年を過ぎても未だに読者投稿欄に傑作と称える投書が掲載されるその作品に対し、シナリオの缺陥を指摘したのである。

 この書評が『ビッグコミック』の読者投稿欄で取り上げられ、ゴルゴファンの反論が掲載された。
 呉さんは、それに対し『ビッグコミック』誌に投稿をして再反論する。ここから『ビッグコミック』誌の投稿欄を舞台とする、数ヶ月に及ぶ呉さんと読者による論争が始まったのである。



 素材となったのは世界の穀物市場をテーマにした作品だった。主役となる日本人元商社マンの人物像もよく描かれた水準以上の作品だったと言えるだろう。
 呉さんが指摘したのは、スナイパー(狙撃者)である『ゴルゴ13』ことデューク・東郷(以下、ゴルゴ)の、その作品への関与の仕方だった。その日本人商社マンからの依頼を受けたゴルゴは、金塊を積んだ列車を橋の手前で停めるために登場する。鉄橋に仕掛けたマグネシウム爆弾を遠方から狙撃して煙を上げさせる。そのことに気づいた運転手が列車を停め、という関わりかただった。

 この部分に関して呉さんは、「何千万円も払ってゴルゴを雇わなくても、タイマー付きの爆弾でも仕掛ければすむことであり、ゴルゴの登場は無意味である」と断じた。「こんな作品を名作だと騒いでいる読者はおかしい」と。

 最初の『ビッグコミック』投稿欄の読者反論は、「この作品には前作がある。それを読んでいないと、この作品の魅力は判らない」というものだった。
 それに対して呉さんは、「前作も読んでいる。前作があるからといって、この作品の缺陥を埋め合わせることにはならない」と、前作のあるエラリー・クイーンの作品などを例に挙げ反論した。ごもっともである。

 次は「完璧の上にも完璧を期すためにゴルゴに依頼したのだ」という投稿だった。
 それには呉さんは、「完璧を期すなら、ゴルゴの狙撃によって立ち上った煙に、機関士が〃偶然〃気づき、鉄橋の手前で〃偶然〃に列車を停めるなどという連続する偶然に頼らず、時限タイマーを仕掛けた方がよほど完全である」と返した。



 こうして幾度ものやりとりがなされる。圧倒的に読者側が不利だった。それは後に記す『ゴルゴ13』という作品の特性にある。やり玉に挙がった作品は良質のコミックであり、全体的には優れたストーリィだった。ただゴルゴの登場する場面に関して言えばやはり不自然だったろう。それは缺陥であり呉さんの指摘は正しかった。

 が、それはどうでもいいことでもある。読者は『ゴルゴ13』という作品を楽しめさえすればそれでいいのだ。
 私も第一回からの読者だが、やり玉に挙がっているその作品をすばらしいと絶賛する気もなければ、かといってストーリィに缺陥があると抗議する気もなかった。餘暇の時間に読んで楽しむ。それだけである。たいがいの読者はそうであろう。人生における主役は自分自身なのだから。

 ところが世の中にはマニアックな人がいる。熱烈なファンとは、清濁併せ呑むというか、ちがうな、えーと、あばたもエクボか、とにかく全部が好きなのである。すべてに好意的なのだ。どんな些細なことであれ、ケチをつけられるという、そのこと自体が許せないのである。大好きな『ゴルゴ13』にケチをつけられたと逆上した一部読者から、『ビッグコミック』誌には、手を替え品を替えたゴルゴ擁護論が続々と寄せられた。次々と新たな論客も現れる。が、片っ端から呉さんに論破され、やがて読者側は、次第にヒステリックになって行ったのである。

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●『ゴルゴ13』の特性

 ここでこの論争の出発点となった『ゴルゴ13』という作品の特質について説明する。

 この作品は、当初はスナイパーである彼が活躍する活劇コミックであった。例えば「難攻不落の要塞に立てこもっている麻薬組織のボスを、ゴルゴがいかにして狙撃するか!?」というようなストーリィである。「500メートル離れた機内にいるハイジャック犯を射殺する」なんてのもあった。彼の超人的な狙撃技術を楽しむものだったのである。

 しかし何年も連載していればその種のストーリィは枯渇してくる。そうしていつしかゴルゴ本人は、《世界的歴史的事件を扱う『ゴルゴ13』という物語の中の、狂言回し(=ワンポイント出演)のような役になっていった》のである。このことにより『ゴルゴ13』は、長寿マンガへの道を歩みだした。いわば「サザエさん路線」である。



 長寿マンガには、二つのパターンがある。『サザエさん』のように、時代が変わろうとも決して齢を取らず、永遠にそのままのルックスを保つものと、『あぶさん』のように、リアルタイムで齢を重ねて行くパターンだ。

 『あぶさん』型の長所は、読者と時間を共有して行くことにある。
 二十五歳で南海に入団したあぶさんこと景浦安武は、連載開始当初から五十歳になる現在まで、作品中をリアルタイムで生きてきた。恋愛、結婚、子供の誕生と、すべて現実の時間と同じに進行し、ついに昨年はダイエーの優勝という、連載開始から二十五年、宿願の感激に結びついたわけである。
 昨年の優勝時、誰におめでとうを言われても泣かなかった王監督が、泣きじゃくる水島新司氏(『あぶさん』の作者)を見たら、不覚にも涙をこぼしてしまったというちょっといい話があった。
 今年の『あぶさん』は、成長してプロの投手となった息子との対決で盛り上がっている。第一回から読んでいる熱心な読者(かくいう私がそうなのだが)からすると、嫁さんとの出会いから知っているわけだから、この対決には格別の思いがある。

 この『あぶさん』型マンガの最大の魅力であり、同時に缺点となるのは、リアルタイムで生きる主人公が齢を取ってしまうことにある。超人を主役にした場合、体力の低下が問題となる。もっとも水島氏は『野球狂の詩』の岩田鉄五郎の頃から年寄りプレイヤーにご執心だったから、きっと景浦は、水島氏が書き続ける限り現役でいるだろう。



 ゴルゴの場合は、齢を取り体力が落ちることは致命的な問題となる。
 よって『ゴルゴ13』は、主人公の肉体を、いくら時が流れても年を取らない『サザエさん』型にした。当初は『あぶさん』型の予定ではなかったのかと思われる。こんなに長期連載になるとは作者のさいとうたかを氏ですら思っていなかったのだ。ご本人もそうおっしゃっている。既に〃読者のもの〃となってしまったゴルゴは、今では作者ですら連載を終了出来ない特殊な存在になってしまった。

 連載開始時、知的肉体的に男の最も充実した時期として、ゴルゴは「三十代半ば」に設定された。それから三十年である。本来ならもう還暦を遙かに過ぎ、超人的活躍は無理の齢になっている。それでは連載がおぼつかない。ゴルゴは年を取らないことになった。今もデビューの頃と同じ容貌でいる。三十年経っても三十代半ばのままだ。

 ルックスは変化しないが、ストーリィの展開には大きな変革があった。ゴルゴを『サザエさん』型と決定した(連載続行のために決定せざるを得なかった)頃から、ゴルゴは次第に脇役になって行ったのである。

 体面上は今でも主役である。文句なしに主役を演じている作品もないではない。だが初期の頃と比べると、その存在と活躍の場は明らかに脇役になっている。
 連載開始から数年間は彼が主役だった。彼のためのストーリィだった。それが連載十年を過ぎる頃から、東西の冷戦に代表されるような政治的筋書きの中で、ゴルゴは一場面だけの特別ゲストのような存在になって行くのである。
 この形式を取ることによってゴルゴは永遠になった。劇画『ゴルゴ13』は、この世に大事件が起きる限り、いくらでも描き続けることが可能な不死鳥のようなコミックになったのである。なにしろ政治的歴史的大事件に材を取った作品を描き、その曲がり角に、ポンとゴルゴを置きさえすればいいのだから。

 前述したように、初期のゴルゴは難攻不落の城にこもる敵を狙撃するというようなスーパーショットがテーマだった。それが形を変えて、政治的出来事が中心のストーリィの中で、脇役として顔を見せるだけになって行く。極端な場合など、最後の一ページまで登場しなかった作品もある。

 説明のために、私が『ゴルゴ13』脚本の例を作ると、台湾に侵攻し武力制定しようと画策する過激派中国軍将校がいるとする。こういう場合のストーリィは、中国と台湾という二つの中国の、政治的背景と権力争いを述べることを中心に展開する。その過激派将校がいよいよ台湾に侵攻しようとした瞬間、謎の銃弾(もちろんゴルゴの狙撃)によって倒れ、その計画は水泡に帰す。
 現在の〃二つの中国〃のバランスは保たれた。ゴルゴの雇い主はアメリカか。いや、武力制定をまだ時期尚早とする中国政府首脳だった。
 と、こういう作品が最近の『ゴルゴ13』の主流になっている。ストーリィのメインであり大半は、中国と台湾という二つの中国に関する物語である。主役はその過激派の将校であり、それを取り巻く政治的状況だ。読者は『ゴルゴ13』という作品を楽しみつつ、現在の中国に関する政治的権力的状況を学習することになる。
 今の『ゴルゴ13』とは、ゴルゴを進行役にした一種のうんちくマンガともいえる。

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●正当な批判と感情的反撃

 呉さんが週刊誌上で手厳しく批判した作品も典型的なそれであった。世界の穀物市場を扱ったうんちくマンガであり、ゴルゴの登場は、いわば附けたしなのだ。
 ここで大切なことは、呉さんは『ゴルゴ13』を第一作から読んできた大のゴルゴファンであるということである。コミックに批判的な人ではない。
 呉さんの主張とは、「『ゴルゴ13』には名作もあれば駄作もある。私は『ゴルゴ13』が大好きだ。だが現在、大傑作と絶賛されているこの作品は、どう考えてもそれほどのものとは思えない」ということだった。そして「それを絶賛している読者はおかしいのではないか。ほんとにゴルゴの魅力が解っているのか」と。
 この「読者」という存在を指摘(=刺激)したことがこの論争のポイントとなる。

 制作者のさいとうプロは呉さんの指摘を理解していたように思う。近年の『ゴルゴ13』は、政治的出来事が主役となり、肝腎のゴルゴは脇役に回っていた。それらの作品の中でも、このやり玉にあがった作品は、主役の日本人元商社マンのキャラが生きている分、本来の主役であるゴルゴの出番は少なかった。登場する必要がなかった。このストーリィのテーマは、世界の穀物市場という場において、過去に一敗地にまみれた日本人元商社マンが、ありとあらゆる権謀術数を使って穀物メジャーに対し復讐を成し遂げるというもので、実はゴルゴは出てこなくてもよかったのである。でも出演しなくては『ゴルゴ13』でなくなってしまう。だから不自然不必要な登場の仕方をした。

 呉さんはそのことを指摘した。「不自然な形でゴルゴが出てくるのは、この作品が『ゴルゴ13』という名前の作品だからである。それ以外のなにものでもない」と。
 呉さんの指摘は正しかった。さいとうプロは、苦笑しつつ受け止めたであろう。「そりゃそうだよ、だってゴルゴ13なんだもの」と。
 だが、「こういう駄作を名作と崇めたてまつる読者はバカだ」と書かれた読者側は収まらない。誌上での論争は次第に作品から離れ、感情的になって行ったのである。



 感情的とはなんだろう。それは本筋から離れることである。相手を罵倒することが目的となり、本来のテーマなどどうでもよくなることだ。
 大好きな『ゴルゴ13』にケチをつけられた。次々と読者が反論したが、それもまた論破されてしまった。悔しい。このままではすませない。どうするか。呉さんの意見などもうどうでもいい、なんとかして呉さん自身を否定しようとするのである。それが〃感情的〃という方法だ。

 読者のひとりが「三流評論家」という言葉を使い始める。「三流評論家には『ゴルゴ13』のすばらしさなんて解らないんですよ、ネェみなさん、もう三流評論家を相手にするのは止めましょうよ」と。典型的なテーマをずらした感情論の構図である。

 さらにエスカレートすると感情の押しつけである。「わたしはゴルゴが好きなの。大好きなの。あんたみたいな三流評論家に何にも言われたくないの。誰がなんと言おうとあたしはゴルゴが大好きなのよー、キーッキーッ」という投書だ。
 もちろんこれは女性である。さすがの呉さんもこれには苦笑するしかなかった。この女性が物笑いの種になったのは言うまでもない。

 ここにいたって編集部が介入し、この論争はいちおう引き分け(?)ということになる。しかし見る人が見れば明らかに呉さんの勝ちだった。ファンというものの盲目的な愛情の醜さばかりが目立った論争であった。


 後に呉さんはこのやりとりを、単行本『バカにつける薬』の中に収録している。私は双葉社から出ている元本しか持っていないが、たしか今は文庫本になっているはずなので、興味のあるかたは読んで欲しい。この他にも珍左翼との論争など、笑えるものがいっぱい詰まっている。

(2000/6/15 湖の見える自宅にて)
 
   
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