2003


03/11/4
IQクイズ


 いよいよ九日は投票日だ。選挙前最後の「TVタックル」を楽しみにしていた。社民党のバカ議員でも呼んでハマコーにボロクソに言ってもらいたかった。先週の上田哲のいいかげんさには嗤った。なにを血迷ったか「わたしは憲法を変えてはいけないなんて一度もいったことはありません」だって。三宅さんも大笑していた。ハマコーが「おまえなあ、自分がなにをやってきたか覚えてないのか」。上田「おまえと呼ぶな」なんてやってた。なんともハマコーさん、痛快である。
 番組表を見るとそれがない。「世界中で話題のIQ番組を特番で」となっている。とりあえず7時から9時48分までそれを録画にして、その時間は仕事をしていた。

 翌日、火曜の昼。ひといきついたときに見ることにした。のってはいない。つまらなかったら、というか自分にあわなかったら、すぐにでも消す体制でいる。本当は見たくない。それでもこういう時間にみるちょうどいい録りためたヴァラエティ番組が切れていた。
 最近とみに反応の遅さが気になっている。
 インターネットのフリーソフトに「英語をクイズ形式で学べるもの」があった。アナログ回線の身には大きな容量だがダウンロードしてみた。パッと英単語がでて「この意味は」となる。四択だ。むずかしい単語ではない。しかし制限時間が5秒しかない。アルファベットの単語を読みとり、4つの選択肢を確認しつつ選ぼうとすると時間切れになってしまう。すぐに次の問題が出てくる。同じ展開になる。時間切れになるぐらいならと適当なものを選ぶ。間違いのブザーが鳴る。屈辱で顔が熱くなる。なんてことを繰り返しているうちに英語力認定の20問は終り、「20問中11問正解でした。あなたの英語力は××です。くじけずに勉強しましょう」なんてメッセイジがでる。落ち込む。
 ここで悔しいのは間違った9問もすべて知っているものだということだ。5秒に追われあたふたして違うのを押してしまう。押した瞬間、ちがうCじゃなくDだと思ったりする。誤答のブザーが鳴る。それが次の問題に悪影響を残す。認定問題だから全問正解しても中三レヴェルぐらいなのだろう。それを間違えるのだから悔しい。
 英語力はむかしはあった。使わないので落ちてなくなった。欧米に旅行するようになってからがんばって復活した。チェンマイ一辺倒になってまた落ちた。もう英語の能力は無惨なものだと自覚しているから知らない単語が出てきても傷つかない。「へえ、そうなんだ、これってそういう意味なのか」と素直な感動し感謝する。知らないものは覚えればいい。その点に関してはいつだってすなおである。そうではなく知っている単語なのに反射神経が鈍くて答えられないことに傷ついた。よって以後、そういうものは遠ざける(笑)。このフリーのソフトを立ち上げることはなかった。なにも5秒以内に四択はできなくても、じっくり考えさせてくれれば選択どころかなにもなくても正しい答が言えるのだ。急ぐ必要はない。こんなものにはもう関わらんと思った。

 私の場合、生涯勉強だと決意しているから無知は恥じていない。その証拠にこのホームページでもさんざん自分のバカぶりをさらしている。必要なものはそう悟ったとき勉強して手にすればいいのだ。遅すぎることはない。今の私は英単語能力など中学生レヴェルだが受験生のころは辞書一冊が真っ赤になるほど記憶していたのだ。必要になりその気になればもういちど詰め込めばいい。何事に関してもそう思っている。平然とバカぶりをさらしていられるのは自信家だからである。そのうち妙に利口ぶるようになったら、「あ、このひと終ったな」と愛想を尽かしてください。
 無知であることで全問不正解でもまったく傷つかなかった。それこそあらたな学習意欲が燃え上がるってもんだ。ところが誰でも知っているような簡単な問題なのに反射神経が鈍く、おろおろして不正解が多いことには大いに傷ついたのだった。

 それを前提として、さてこの番組である。私は小学生中学生の時のテストでIQは極めて高かった。高かったからこそよくわかる。あれもまた「反射神経」である。ひとつの図形を出し、以下の中からこれと共通の図形を選べ、とか、5個の図形を記憶させ、それを見せずに次のページに進み、6個の中から前のページになかったものをひとつ選べ、なんてやる。それは誰でもじっくり考えれば出来る問題だ。要は時間だ。瞬時に解いてゆかねばならない。制限時間内にいくつ出来るかを競わせ、それでIQという数字を出す。諸外国で話題になりいくつもの国で高視聴率を稼いでいるというこの番組(クイズ・ミリオネアと同じようなものか)も、IQテストである限り、むかしのそれとたいして変わりはあるまい。とすると、中学生レヴェルの英単語ですら惨敗して落ち込んだ私が、この番組でまたやけ酒でも飲みたくなるような情況に追い込まれる確率は極めて高い。見ないほうがいい。と思いつつ、せっかく三時間も録画したものだからと再生した。いつでも「つまらん」と言って切れる態勢のままで。

 結果として、まだ半分しか見ていないのだが、意外なことに私は最高の成績を獲得したのである。全問正解はもちろんだが、なによりおどろいたのは制限時間が20秒あるのにどの問題も2秒とかからず即答でき、残りの18秒を待つのが退屈でたまらなかったことだ。どうやら英文字の読解には時間がかかるが日本語ならまだまだ速やかに頭に入ってくるようだ。前半が終ったその時点でスタジオに集った大学生、教師、格闘家、タレント等の百人前後の人に全問正解者はもうほとんどいなかった。かなりよい成績と言い切れるだろう。
 そこでテープを止めた。「よおし後半もがんばるぞ」「こうなったらおれのIQはどれぐらいなのかぜひとも知りたい」とは思わない。見ていてつまらん番組だった。司会の古館もうるさいし、いくら成績が良くてもまったくつまらない。せっかく前半で間違いなく並以上であるとの成績がでたのだ。「おれもまだまだ捨てたもんじゃない」と、このへんでいいだろうと割り切ってヴィデオを止めた。

 これは「逃げの姿勢」なのか? と自問する。そうじゃない。私は見始めたときからこの番組に反感を持った。こういうことをする「感覚」「発想」が好きじゃないのだ。では、なぜ好きではないか? その理由を考えていたら「人間ドック嫌い」にたどり着いた。
 もう何十年も前になるが、五木寛之が人間ドックについて、「人間はどこかわるいところがある。それと仲良くつきあってゆくものであり、すべてを点検して悪い箇所を探し出す感覚はウンヌン」と書いていた。「車検」のように人間の体を点検して、こことここの部品が古くなっていたので交換しました的な発想への反発である。私は自己流で漠然とそんなことを考えていた時期だったので、この考えには強く共鳴した。五木さんが佛教に傾倒してゆくころの話である。私もそれに倣った。
 人間は誰も体の中にガン細胞を持っている。それが早く出てくるかどうかの話だ。体の中のそれ、それになりうる可能性のあるもの、それらを全部切り取ってしまって健康に生きるのだというのよりも、ガンも身のうちと割り切り、「まだ出てこないでくれよ、もうしばらくなかよくやろうや」と考えるほうに私は惹かれる。

 IQテストをやり、結果を五角形だか六角形だかのグラフにし、「××方面にすぐれているけど、△△方面が弱いですね、これって事務系の人の特徴で」なんて分析することに意味があるのだろうか。いやあるんだろうけど、それを嫌って近寄らないのも自由だ。自分の存在を五つだか六つだかの要素に分けて分析するなんて気分のわるい話である。私はそっちを選んだ。それは人間ドックに入り、「心臓と腎臓はだいじょうぶですが、膵臓と胃が弱っていて、肝臓の数値が……」とやるのと同じだからだ。

 何週か前のキョセンのエッセイに、あと二ヶ月で日本を離れるので、誰それに紹介してもらった××大学病院だかどこかで全身を検査し(この紹介してくれた誰それ、××病院、××先生と固有名詞をあげてさりげなく持ち上げるのも彼の世渡り法のひとつである)、どことどこが悪いがそれは齢だからしかたないし、あとはこれこれこうで、これでしばらくはだいじょうぶ、安心してもどれるノヨウナコトが書いてあった。
 それを読んで、外国と日本を往復する飛行機の機体検査のように感じた。それが彼の感覚だ。生きるとはそんなことではあるまいと私は思う。しかし現実にはキョセン派のほうが多いか。言えるのは彼は西洋的、私は東洋的な発想ということだ。毎週『週刊現代』にあれやこれやを書いてはいらだっている彼の根元は、彼の西洋合理主義、西洋的な数値的割り切りが日本という国には通じないからなのだ。「なんでこんなことにみんなは気づかないのだ」と彼はいらだっている。だけどそれが彼の大好きなオーストラリアやカナダとは違う日本という国のそもそもの主体性なのだ。日本には八百万の神がいる。一神教感覚で割り切れるはずがない。彼を好きな人にキリスト教信者が多いのは極めて暗示的である。ほとけさまのほうがええでっせ。
03/11/9
バレのおもしろさ──アッコにおまかせ


 開票速報は午後八時からなのだがきょうはもう朝からテレビはつけっぱなしである。パソコンに向かいながらBGM的にテレビを流していたらこの「アッコにおまかせ」が始まった。ちょうどお昼か。
 ズラリと問題が並んだパネルから自分にも解けそうな簡単な問題を自分たちで選んで答える。五人全員が正解したらご褒美だ。キョセンの番組等と違って答を作ってないのが見えて笑える。解答者は和田、勝俣、出川、あびる優、TBSの男子アナ。
 あびる優が「埼玉県の県庁所在地は?」を選ぶ。四人が「大宮市」と答える。あびる優の答は「はくさい」。「名物と間違えた」って、ほんと笑える。正解は「おおみや市」だから全員外れ。私は雑でいいかげんだがこれぐらいには引っかからない。現役の局アナが外れたのは問題だろう。
 誰が選んだ問題だったか「シーザーの言った名言、××は投げられたの××は?」。あびる優「シーザーって誰?」。かわいい娘はなにやっても許されるんだよね。それでいい。三人正解。和田だけ「サジ」で外れ。
 印象的だったのは勝俣州和がしっかりしていたこと。「絶■絶命」や「危機一■」の穴埋め問題もただひとり正解していた。対ではなく体であること、発ではなく髪であることは初歩の問題だ。こういうのを見ていると「おれも思ったほどバカではないと」と思えて自信が湧いてきていい。って、そう思うようになったらおしまいだって(笑)。これも現役のアナ(三十代男性)が外したのは恥ずかしいだろうな。勝俣と出川のイメージなんて、勝俣のほうがハンサムだがタレント的には同じ感じがする。彼も以前とんねるずの番組でいじめられ役だったし。でも頭の中身はそうとう違うなと今回確認。まあプロレス・ゼロワンの解説を聞いていても頭がいいなとは前から思っていたが。
 
 この番組(このコーナー)でいちばんおもしろいのは、じつは「ワダアキコの假面がはがれること」なのである。ワダはあのような形で芸能界に君臨している。といっても紅白歌合戦なんて私は四十年近く見たことがないから彼女が司会をしたのも見ていないしどれほど大物なのか実感はない。逆にデビュー当時を知っているから好意的だった。
 むかし彼女が「私の両親は読み書きが出来ない」と言ったときは、両親は学校にも行けない貧しい家庭に育ったのだろうと、思い切ったその衝撃の告白にも好意的だった。後に単に両親は半島から渡ってきた在日朝鮮人なので日本語の読み書きが出来ないだけと知るのだが。そのころはまだ彼女の素性も本名の「金福子」も知らない。そうして彼女は弟を拓殖大学に進学させ、自分も「ワルで高校を中退してしまったから、誰にも負けないぐらい読書はしている」と公言していた。「どんな本でも濫読するけど、でもタナカヤスオだけは読まない」もよかった。またまた私は好意的だった。

 しかしこの番組のこのコーナーで、とんでもなくバカなのが次々とバレて行くのである。「消費税を何パーセント」に15%と答えたり、前記のの「サジ」もそうだし、絶体絶命、危機一髪も間違えている。これじゃ「誰にも負けない読書家」とは言えまい。
 番組の中で何度も「これじゃ芸能人がいかにバカか世間に知らせてるだけじゃない」と本気でいいわけをしつつ焦っていた。そのバカさ加減も出川やあびるだと持ち味になるが、姉御肌、親分肌を演じ、政治経済的な話題にもつっこむワダの場合はイメージ上プラスには作用しないだろう。
 番組の冒頭でここ一週間の話題を振り返る。北朝鮮の万景峰号の寄港を伝えるニュースの時は歯切れが悪かった。これはちょっとおどおどしているのが見えて気の毒になった。彼女のワンマン番組だからこのコーナーはそのうちなくなってしまうかもしれない。出川やあびるのとんでもない答を正解したワダがなじるのが正道なのに一緒に間違えているのだから笑いにならない。はらたいらみたいに答を知りたがらないように願う。

その後の話──11/16日
 きょうは午後に「高橋尚子のマラソン」「エリザベス女王杯」、深夜に「PRIDE」がある。いやその前に朝「報道2001」、「日曜討論」「サンデープロジェクト」がある。サンプロはだいきらいだから普段は見ないのだがきょうは小沢一郎が出るので見ねばならない。あの失礼な田原総一郎は大物が来るとこびへつらう。自民党系でもそうだが今回は民主党の小沢だから和気藹々でやるだろう。同じ時間に「NHK将棋」がある。夕方は「大相撲」だ。これじゃ一日中テレビの前にいなければならない。とんでもない日だ。
 朝から予定通り進行。小沢をすこし見て、父を公民館まで送る。帰ってきたら小沢は終っていた。
 NHK将棋を録画にしてサンプロの続き。新潟の選挙戦のドキュメント。保守王国に民主党の女が当選。名前はなんとかマキコ。偶然だと思ったら越山会後援者の父親が田名角栄の娘の名に倣ったのだとか。性格はどうだ? 画面からだと目立ち根性、ごり押しとそっくりの雰囲気だ。これは民主党の勝利というより自由党の勝利。それとクリハラ(だったか?)は抵抗勢力だからね。亀井派か。総裁選の時はあれほど小泉政権をボロクソに言っておいて急に切り替えても間に合わない。落ちて当然。ぼくは保守派支持だけど保守一色でも水は腐るから新潟もひとりぐらいはいたほうがいいだろう。

 正午にマラソンスタート。それを見つつどうでもいいTBSの「アッコにおまかせ」を覗く。というのは先週書いた《常識クイズをまったく答えられず、『これじゃ芸能人がみんなバカだって世間にさらしてるようなもんだよ』と本気で言っていたワダの態度》が気になっていたから。あれは決して冗談でも軽口でもない。心底いやがっていた。そしてそれはもちろん他者のためではない。自分のことを気にしていたのだ。彼女がやりたいのは若手やお笑い系の無知を笑い説教する大御所の役目だった。放送作家からこの企画が出されたとき、彼女は自分がそこまで無知とは自覚していず(むしろ物知りと勘違いしていたはずだ)、自然な流れとして物知りで年配の自分が若手やお笑い系を圧倒することになると判断して賛成したのだろう。
 ところが答えられない。ヤラセなしだから自分のバカが世間に見えてしまう。なにしろ十八だかの天然ボケキャラあびる優ですら答えている常識問題が出来ないのだ。これはまずい企画だと本気で焦っているのが見えた。それが先週。
 あ、思い出した、先週の問題。「シーザーの名言、××は投げられたの××とは」で、ワダが「サジ」、あと勝俣、出川、局アナが「サイ」で正解、あびる優が「海に」でこれも爆笑。「海に投げられた」って、寒かったら風邪を引く。真冬だったら死にまっせ。と、あびる優のおかげで場内爆笑なのだが、じつはいちばん惨めだったのは、勝俣や出川も答えられた「サイ」を「サジ」と間違えていたワダなのだった。シーザーが「サジは投げられた」って、それじゃ名言にならん(笑)。あびる優の答に会場大爆笑の中、ワダの焦っていた表情が印象的だった。

 すると今週、このコーナーが見事になくなっていた。なんとなくそんな気がして興味のない番組なのにマラソンの合間に何度も覗いたのだ。これも先週ワダが本気で焦るという、いいところを見たことになる。何週か続いていた企画のはずだが、先週のあまりのお粗末さにワダ自身からあれはまずいからやめようと提案があり企画変更したのだろう。いきなりその時間に「新コーナー」がスタートしていた。それが「オヤジギャグダジャレなんとか」ノヨウナモノ。なぞなぞである。チラっと見ただけだがひとつだけ覚えているのは、《「あいうえぱお」はなんと読むか?》。答は「あいうえおの中に餘計なぱがあってじゃまだから、ぱがじゃま、パジャマ」だとか(笑)。こんな子供用のなぞなぞ企画に替えていた。これならワダが答えられなくてもイメージに傷がつかないわけである。
 こちらとしては彼女にそんな賢いイメージはもっていないのだが、多読濫読の読書家を自認するあちらとしては重要なのだろう。そうだねえ、若いOLなんかは、「ねえねえ知ってる、ワダアキコってすんごいバカなのよ。このあいだね」と口にするのかもしれない。誰でも自分が知っていることを自分よりも物知りと思われる年配者が知らなかったら吹聴したくなるものだ。なんだか恥ずかしいものを見たようで、こっちまで気恥ずかしくなった。

さらにまたその後の話──04年1月11日
 時が流れると人の傷は癒えるのであろうか(笑)。そしてまた、過去の傷を消したいと願うのであろうか、よせばいいのにこのコーナーが新春特別とかで復活した。
 出された問題は「2+3×4」。
 この問題が出されたとき、思わず私は隣にいた妻を見た。おそるおそる尋く。答はいくつだと。妻は即答した。「14」。このときの晴れ晴れとした私の気持ちがわかっていただけるだろうか(笑)。青空に光が舞った。さああとは解答者の答だ。
 またも和田がやってくれた。「20」。
 いつものよう、和田、勝俣、アナ、浜口(よいこ)、あびる、の内、見事に和田と浜口が20と書き、あとの3人は14だった。バカで売っている浜口と和田が並ぶってのがいい。そしてまたいつものように「だってさ、これ忘れちゃうよ、子供の頃だもの、習ったの」と言いわけがみっともない。
 そのあとの「200円のものを買ったら消費税がついていくらか」でも「215円」と書き、いかにも和田らしさを見せてくれた。数ヶ月前に15%と書いて恥をかき、「よおし、これで覚えた」と言っていたのは大嘘だった。
 これでまたこのコーナーはしばらくなくなるだろう(笑)。

11/15
世界バリバリバリュー──読み違い


 録画しておいた「世界バリバリバリュー」を見る。水曜日のものか? 内容を一新して、先週は府中刑務所内部、今週は横須賀基地と米戦艦内部がテーマ。タイトルと内容がずれてきた。たいへんだなイーストも。先週の府中刑務所は受刑者の生活紹介。しかも案内がヨネスケ。まったくつまらない。どこが「世界バリバリ」なんだか。「もしかしたらおもしろいかも」と予約録画リストに入れてあるのだがもう削除しよう。

 今週の一問に「横須賀基地内の自宅で地元の日本人小学生に英会話を教えている軍人夫人。週1回、月4回の1時間授業。生徒数は40人。この夫人の月の収入は?」というのがあった。このことを書きたくて取り上げた。
 自慢じゃないがこの種のクイズ番組でぼくは正解率が高い。この問題でもまずはこう読んだ。「いろいろと障害のある基地のこと。地元との軋轢を軽減するために、これは一種のヴォランティアであろう」と。基地内の軍人夫人が地元の小学生に英語を教えているのである。親睦である。お金はどうでもいいことだ。「小学生ひとり月千円。40人で月4万円」と考えた。
 出演者も同じ感覚らしく、一番高いので8万円。これだと月ひとり2千円か。これぐらいはとるかな。安いのは8千円。一回50円、月200円。会場に失笑が湧いたが、う〜む、これもあるなあとぼくは思う。なにしろ目的は地元との交流なのだ。ただ同然でいい。でもあまり安いと大勢来るだろうから40人限定をどういうふうに選ぶのだろう。いずれにせよ安いはずだ。
 正解が出る。なんと「月64万円」。1回1時間4000円、月16000円の月謝。40人で64万円。このババア! 日本でなにやってやがんだ。善意とか好意なんて考えたおれが甘かった。アメ公、ゴーホーム! 横須賀のガキも、こんなとこに行くんじゃねえよ! さすがに司会のシンスケを始めスタジオからも高いの声が出ていた。まったくなあ、一所懸命働く日本人が月20万、30万稼ぐのに苦労しているのに、なんでアメリカ語を話すだけのこの女が片手間で英語を教えて64万円も稼ぐんだ。詐欺じゃねえか。腹が立つ。
 ヴィデオを止める。おしまい。そのうち別番組を上書きするのでこの後どうなったか知らない。いやあ気分が悪くなった。

 ところで今、「よこすかきち」と打ったら「横須賀キチ」と出て、れいの『書き屋のためのATOK辞書』が「キチをマニアに書き換えるように」と指示してきた(笑)。以前マンガ「釣りキチ三平」がやり玉に挙げられていた。「釣りマニア三平」か(笑)。「狂」もいけないんだろうな。馬券狂なんてのも「馬券マニア」と呼ばなきゃならないのか。でも馬券狂だとそのまま馬券狂の意味になるけど、馬券マニアだとなんか馬券の蒐集家みたいだ。従う気はないので関係ないが。
03/11/18
大学の知名度、宣伝効果


 これもずいぶんと前から書こうと思いつつ書かなかったテーマになる。東大のことを書いたついでに書く。

 選挙の票読みのプロとしてフクオカマサユキなる人物が出てきたのはいつだっか。来るべき選挙の前、開票時、選挙後、選挙といえばこの人というぐらい頻繁にテレビメディアに登場した。まるで選挙専門のうれっこタレントである。いつしか肩書きに「白鴎大学教授」とついている。毎回毎回登場するたびにその肩書きがテロップとして出る。当時M先輩と飲むたびに、「あの人ひとりで大学の名が世に知れわたった。すごい宣伝費になるな」「だって白鴎大学なんて誰も知りませんものね。どこにあるんでしょう(笑)」と話しあったものだった。

 それって何年前のことだろう。つい昨年、チェンマイでその答を知る。Bさんと政治のことを話していたときだった。Bさんはゴルフ派の年配のかた。ぼくはそれまでさして親しくなかった。ところがホテルが一緒になり、これということなくロビーで世間話をしているうちに思想信条が極めて近いと知り一気に意気投合した。この種のことは人を絶縁させる面もあれば遠い人を一気に近くしてもくれる。チェンマイの『サクラ』と『宇宙堂』の違いは、店主による保守とサヨク系の差でもある。ほとんどの出入り者はそんなことに興味はないのだが、たまに盛り上がるとその違いが明確に出る。ぼくが『サクラ』派になったのも自然だったろう。『宇宙堂』のナベちゃんは毛沢東あたりも痛烈に批判する常識的な人だけれど全体的には両店はそんな傾向にある。
 Bさんと話していたら、いったいどこでどうなったのか話がフクオカさんのことになり、ぼくが「いったいあの白鴎大学ってのはどこにあるんでしょうか」と軽口のつもりで言ったら、Bさんが「あれは茨城にあるの。下館のほう。うちの娘が通っている」と言ったのだった。おどろいた。初めてその所在地を知った。でもこれはまだ未確認情報である。ほんとに茨城なのかどうか調べてみよう。今までもいくらでも調べられたが興味もないのでどうでもよかった。ホームページに名を出すのだからいいかげんなことは許されない。今夜どこにある大学なのか調べよう。
 書きたいのは、それぐらい無名の大学が、テレビタレントのフクオカマサユキの存在により名前だけが一人歩きしている現状についてである。

 選挙の票読みで有名になったフクオカを白鴎大学がスカウトしたのだろう。どれほどギャラを支払ったか知らないが知名度を上げる意味では何億何十億の価値があった。いつもいうことだが高校野球がなかったらぼくはいまだにPLも天理も智辯も知らなかった。石川の星稜なんてのもそうだ。星稜高校は野球で名を売った当時はレヴェルの低い私立高校だった。それが野球で名を売り、私立獨自の思い切ったことがやれる進学コースを設置し、今では石川の進学校としても名を馳せてきている。私立高校の経営方針としては理想的と言える。私の地元の常総もそうなるかな(笑)。
 白鴎大学の場合、「あのフクオカが教授をしている大学」という以外なにも浸透していないから単なる知名度をあげただけの段階だが、それでもこの宣伝効果は大きかった。最近テレビで見るフクオカには「立命館大学客員教授」と肩書きがついている。白鴎はどうしたのだろう。この場合の「客員」とは、フクオカは頼まれてなったのか、ステップアップしたくて頼んだのか。なんとも半端な肩書きで気になる(笑)。しかしまあ世の中はよくできているもので、先進的な存在として一時代を築いたフクオカセンセーだったがテレビ局が億の金を使って本気で票読みをするようになったら存在価値がなくなってしまった。時代の寵児であったのはたしかだけれど。

 北朝鮮の拉致問題が表に出てからテレビで見ない日はないというぐらい有名になったのが拓殖大学の重村教授。重村先生が拓殖大学のイメージアップに貢献した価値は計り知れないだろう。拓殖や国士舘の右翼っぽい部分に知的な色合いをつけた。ああいうのは卒業生はうれしいだろうな。かくいうぼくの心の中でも拓殖はだいぶイメージアップした。
 拓殖はイメージの内容はともかく知名度だけはあった。白鴎とは違う。その点「第二の白鴎大学」とでも呼べるのが山梨学院大学。同じく北朝鮮問題で頻繁にテレビでコメントするのが宮塚教授。テロップで「山梨学院大学教授」と出る。これがどれほど宣伝効果があるかというと、私なんか「山梨学院大学」は記憶していたが宮塚さんの名が出てこなかったほど。書こうとして思い出せない。するとさすがによくしたもので目の前のホワイトボードに「宮塚」とメモしてあった。大学名は書いてない。自分の記憶力として大学名は大丈夫だが人名は忘れるなと意識していたのだ。えらい。自分で自分をほめてやりたいと思います(by 有森。元ゲイのガブリエルは元気か)。

 無名の大学の知名度を上げたという点でフクオカさんと宮塚さんは同じようだが違っている。白鴎の場合、知名度を上げようとフクオカさんを大金でスカウトしてきた(推測だが間違いあるまい)のに対し、山梨学院大学の場合、拉致問題によって北朝鮮がクローズアップされ、たまたま事情通の宮塚教授が重宝されたのだ。
 ぼくの場合、拓殖の重村さんは以前からオピニオン誌で知っていたが宮塚さんは知らなかった。失礼ながら北朝鮮研究が山梨学院大学で重用されていたとも思えない。これは時代が宮塚さんにスポットライトを浴びせたということだろう。大学側からするとひょうたんから駒だ。いい宣伝になったと小躍りしたことだろう。民間会社だったら特別ボーナスを支給するパターンである。とりあえず両大学とも名前だけは世に知られた。若者が進学したい大学になるか否かはこれからの課題になる。がんばってください。

※ 調べました白鴎大学。茨城じゃなくて栃木ですね。小山市だからたしかに下館あたりと近いか。ぼくとは最も遠い県内になる。大学院から女子短期大学までもっている総合大学のようです。
所在地 〒323-8585 栃木県小山市大行寺1117 TEL (0285)22-1111 
道順 JR宇都宮線小山駅下車,西口から徒歩15分。スクールバスもある
教員数 教授53・助教授15・講師92(常勤9・非常勤83)。うち外国人教員12
学生総数 男2,297・女1,166,計3,463
新入生総数 951
大学院 経営学M・法学M
11/20
「トリビアの泉」韓国のテレビ局に抗議文


 韓国で始まった「トリビアの泉」をパクったと思われるそっくりの番組にフジテレビが抗議し、韓国側は獨自の企画だとすっとぼけているという話。くだらん。
 なにがくだらんかと言えばもちろんフジテレビだ。日本のテレビなんてパクリばかりじゃないか。キョセンなんて「クイズダービー」「ハウマッチ」「こんなものいらない」と、すべての番組がアメリカのパクリである。オリジナリティなんてかけらもない。それにアメリカはケチをつけてきたか。見のがしてくれたろう。さすがに最近は「サバイバー」のように金を払って真似するようになったが。「クイズ100人に聞きました」なんて司会のセキグチヒロシの机に寄っかかる態度まで同じだった。
 韓国が真似したなら日本のテレビも真似されるぐらいの番組を作るようになったかと鷹揚に構えればいい。日本のテレビ番組で外国に真似されたのは「アメリカ横断ウラトラクイズ」だけ、と言われている。

 ただし相手が韓国だから、時が過ぎると平然と「日本が真似した」と時間を超越して言い出したりする可能性もある。なにしろ「むかし日本人が神社に参るときはどんな格好がいいかと聞いてきたので、頭の上に靴を乗せてこんな格好にしなさいと教えてやったら本気にして、それで日本の烏帽子が出来た」と悪質なデマを未だに子供に教えて笑いものにしている国だ。京都に修学旅行に来た韓国の高校生はガイドの言うそれを聞いて嗤っている。そういう歴史的なことまで踏まえて抗議したなら認めてもいいが。
12/8
 TVタックル──大竹のおろかさ、たけしの計算

 テレビに出てサヨク発言をしている慶應の教授・金子勝ってのがぼくと同い年。なお、髪の毛はぼくのほうがある(笑)。
 おれはあのころこいつと同じキャンパスにいたのだろうかとかねがねイヤーな気分でいた。あまりに不愉快なので調べてみたら東大卒とわかった。よかった。いかにも東大的なサヨクである。慶應にあんなのはいない。まあこいつも小難しいこと以前に顔が嫌いだ。なんだかこれですべて押し切れそうだな。人は顔が命だ。男の思想は顔に出る。女のしあわせも顔に出る。



脱線・学歴話
──東大優越感、芸大コンプレックス
 そのことから脱線して延々と二時間、自分の劣等感について書いてしまった。ぼくの本質論。やっと書き始めた。近日中に別名でUPします。要するに東大には入れるだけの成績をとったことがあるのでなにも感じないが東京芸大に入れるだけの芸術的才能はなかったので、東大コンプレックはないが芸大コンプレックがあるってだけの話ですが。



 さてTVタックルの話。
 オータケマコトのこと。あまりにお粗末だ。どうしようもない。不勉強なバカが勘違いしていると罵りたくなる。ただしそれを気の毒だと思う気持ちもある。それは、この番組におけるオータケの立場とは「愚かなたけし」の影武者だからである。
 国連だとか国としてのあり方とか、そういう大義を語るテーマがあるとする。そういうとき庶民派代表のオチャラケとしては大向こう受けを狙う発言が必要だ。いわば高尚な話題をお茶の間レヴェルに引きずりおろす手法である。むかしコロンビアトップライトの漫才はそれをテーマとし、そこからトップは国会議員になった。くだらん藝人議員の走りである。そんなものが今時必要だと思えないのだが、たけしは今もそれが不可欠と思っているらしい。
 『週刊ポスト』連載の彼風に喩えるなら、「イラク復興に何十億とか、国連常任理事国になるための根回しとか、いろんなことをいうけどさ、おいらたちにいま必要なのは不景気で晩酌の酒を二合から一合に減らしてるって現実なわけで、それを安心してまた元の二合飲めるようにしてくれるんなら、小泉さんでもカンさんでもどっちでもいいんだっての。ジャンジャン」ノヨウナ発言をする役だ。くだらん。テレビの前のおやじやおばさんからの拍手を期待したそういう発言がほんとにいま必要なのだろうか。たけしはそう判断しているらしく、いまだにその構成を崩さない。

 たけしは最近のそういう自身の発言が時代とズレ、空回りしてきたあやうさを悟って一歩退いた。アンカーマンのように安全な立場に引っ込み、発言は無難な締めのことばのみとした。これは「ここがヘンだよ日本人」でも使った手だ。まことにもって賢い。ボロは一切出さず、口数が少ないことによってポテンシャルを高めた。
 しかし番組としては三十代の時の彼のように、ひとこと多いぐらいの軽薄な問題発言を欲しがっている。プロデュースする立場として彼もそれが必要と判断している。この番組においてたけしの一部分としてその役割を担うことになったのがオータケだった。大阪風に言うなら「安物(やすもん)のたけし、あるいはバッタもんのたけし」である。そのためだけに起用された。しかしスベっている。
 しばらく前までエンディングは、出演者の帰ったスタジオで、たけしとオータケがたばこを吸いながら番組をまとめるという趣向だった。これもたけしの発案か。不評なのでやめたのだろう。最近は目にしない。正解だ。いい形で盛り上がったものもぶちこわしになる。ひどいエンディングだった。ファンであるこちらが「それはやめたほうがいいよ、たけちゃん」と思うものはスッと下げるから、まだまだ彼の世を見る目は生きているのだろう。

 冒頭に「それを気の毒に思う気持ちもある」と書いた。「たけしのやるべき、いわば汚れ役を代わりにやらされている」のならこれは気の毒である。仕事であるからむしろ「おいしい」と言うべきか。大スターたけしの庶民の味方である部分を引き受けられるのだ。オータケに拍手喝采の人もいるのだろう。自民党や民主党の議員が世の中の根本である大切なことを語っているときに、「そんなことよりも大切なのはおれたち庶民の生活なんだよ。毎日すこしでもやすいものをと思って晩ご飯のことで苦労している主婦の気持ちがあんたらわかってんのかよ」なんて言うツッコミをするオータケに、これこそ本物の庶民の味方だと思っている視聴者もいるのかもしれない。なら気の毒などと思わず思いっきり批判していいのか。

 たけしにとってはありがたい存在だろう。それは「小泉さんにとってのヤマタク」だ。ヤマタクが幹事長として有能だったとは思わない。切れのいい発言をしたとも思わない。でも小泉さんからするとアブナイ懸念のあるものはまずヤマタクに発言させ、その反応を見てから自分の発言を選んでいた。防御壁であり打たれ役である。こちらの思う以上に小泉さんはヤマタクを認め感謝している。YKKとはいってもあれはカトーでは出来ない役だった。同じような思いがたけしにもあるのかもしれない。オータケがバカをさらしているのを見て、その反応から世を判断しているのか。なにしろこの番組、めちゃくちゃ路線変更してきた。

 ノウミソの出来がオータケとは大違いだから同じ感覚とは思いたくないが、『週刊ポスト』や『SAPIO』を見ると、かなり色あせてきている。なぜあんな仕事をするのだろう。一度世のトップに躍り出た人は怖くて引くことが出来ないとも言う。だがポストならまだ「総理大臣なんて誰がなっても同じだよ」と酒を飲んではくだを巻く読者が支持しているのかも知れないが『SAPIO』は違う。ぼくはこれに進出してきたとき新たな語り口を開発したのかと期待したのだが、残念ながらポストの「だっての。ジャンジャン」の延長でしかなかった。最新号でも「社民党を無形文化財にして」なんてやってるが笑えない。それを笑えるほどノンキな時代じゃないんだ。きまじめに正面から社民党を弾劾せねばならない。真面目に話し合っているところにやってきて、無理矢理冗談を言って笑わそうとして、浮き上がってしまっている。なんであんな仕事をするのか。わからん。
 ひとつだけプラスの効用を考えるなら、世の中にはスターの追っかけというのがいる。あるいは全面的に支持する信者だ。そんな彼らが、「『SAPIO』なんて読んだことないけどたけしが書いているなら」とそこだけでも立ち読みするようになれば、いつしか他も読むようになるだろうし、とその期待は出来る。それはともかく。

 オータケがたけしのそういう役目を代役で演じているのは確かなのだが、あまりに内容がお粗末だ。前記したように「おれたちにとって大事なのは酒やたばこの値段なんだ」とか「政治家なんて誰がなっても同じ、しんじられねーよ」なんてレヴェルの時代ではなくなった。この番組もいい形でレヴェルが上がった。彼はそこを勘違いしている。庶民とはそういうものであり、そう言いさえすれば巷のおじさん、おばさんから拍手をもらえると思っているのだ。これは時代の読み違えである。
 役目として気の毒とかそういうことではなく、単なる「勉強不足」なのだろう。元々センスがないと言ってしまったらそれこそ気の毒なのでコトバを抑えるけど。庶民派代表を演ずるには、小難しい知識などなくてもいいから、とにかく人の顔色(=視聴者の感覚)をうかがうことにだけは長けていなければならない。なのにハマコーのような人が、こういうことを言うほうが受ける、この番組の視聴者が自分に望んでいるのはこういう発言だろうと見抜いているのに、藝人のオータケがズレまくっているのだから、やはりお粗末としか言いようがない。

 初めて彼を見たのは「お笑いスター誕生」のシティボーイズだった。当時からいまに至るまで、奥のある藝人だと思ったことはない。安易にまとまった場を壊したり、流れを変えたりする毒を発射することで存在価値を示してきた人なのだろうが、それは若者向けヴァラエティ番組(代表が「夕焼けニャンニャン」か)程度の番組で発揮される毒であり、試行錯誤の末、きわめて完成度の高い獨自の地位にまでのしあがってきた「TVタックル」では無理のように思える。
 下世話な例で喩えると、二十歳のアイドルがキスもしたことはありませんと言うのに、「そんなこと誰も信じちゃいねーよ」と言って会場を笑わせ、アイドルを泣き顔にさせるのが彼の存在価値だった。それと同じように、政治を扱った番組で「政治家が真面目に国のことを考えてるなんて国民は誰もおもっちゃいねーよ」とさえ言えば認めてもらえると勘違いしているのがいまの彼なのではないか。国民は彼よりも先を行っている。そこから見えるのは、成長をやめた男のみっともなさでしかない。
 それが計算だったなら見事なのだが、そうでないのは、それさえ言っておけばと主張したことに反論され、小心な彼の目が泳いでしまうことで明白だ。その意味ではまちがいなくガチンコである。

 こんなおどけ役も必要とたけしがおもっているならそれはそれで番組なのだからしかたないが、他にもっと適役はいないのかと思わずにはいられない。

附記・2ちゃんねるのマスコミ板を覗いたら、同じようなことを言っている若者(推測)が大勢いた。同じくぼくの意見のように、「たけしがズレてきている」と指摘しているのも散見された。
 オータケのそれが計算尽くでないことが哀れである。ダンディ坂野や江頭が不器用故に浮いてしまうのはお笑い番組だからほほえましいのだが、この種の番組でのそれはちょっと正視できないほど哀れだ。



TVタックル御一統様通信簿 ──2ちゃんねるよりコピー


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【ネット界に於ける言論人ランキング:市場調査マスコミ部門2003-4-Rev1】

+5000【優】: 屋山太郎、松野頼三

+4000【良】: 内田健三、浅川博忠

+3000【佳】: 江畑謙介、加藤寛、三宅久之

+2000【可】:飯島清、井沢元彦、猪瀬直樹、大前研一、大宅映子、川本裕子、木村太郎、金美齢、国谷裕子、小林吉弥、重村智計、中西輝政、西尾幹二、森本敏

+1000【騒】: 草野厚、小室直樹、櫻井よしこ、俵孝太郎、竹村健一、浜田幸一、早野透、細川隆一郎、宮崎哲弥


-1000【煩】: 内橋克人、岸井成格、小林節、堺屋太一、中村慶一郎、西部邁、本多勝一、矢野絢也、山田厚史

-2000【虚】: 岩見隆夫、江川紹子、小林よしのり、下村満子、田原総一郎、テリー伊藤、早坂茂三、宮川隆義

-3000【妄】:上田哲、小川和久、大江健三郎、川村晃司、金子勝、佐高信、高野孟、寺島実郎、鳥越俊太郎

-4000【屁】:有田芳生、植草一秀、久米宏、榊原英資、田岡俊次、高橋源一郎、筑紫哲也、野中広務、舛添要一、宮台真司、山崎養世

-5000【糞】:井筒和幸、大谷昭宏、大橋巨泉、関口宏、田嶋陽子、福岡政行、森永卓郎、吉田康彦

-8000【蛆】:石坂啓、姜尚中、紺谷典子、田中真紀子、田中康夫、森田実


[感想]だいぶ前に出回ったものだが、多くの人が指摘しているように、ランキングとしてはかなりおかしい。西部邁とホンダカツイチが並んでるなんて馬鹿な話はない。ホンダは-8000だろうし、タナカマキコなんてただの感覚論でしかない。せいぜい-1000だ。入るべきなのに入ってない人も多いし、セキグチヒロシなんてのは敢えて入れるほどのものでもない。改訂版が出て欲しいところだ。どなたかの作ったものをコピーして文句を垂れていてもしょうがない。自分で作るか。
03/12/21
 『笑点』──永遠なれ!

 妻が木久蔵を気味悪がるのでおもしろくてたまらない。これは今年二月の初来日で初めて見たときからそうだった。ことばがわからずに接すると、日本人には「人のいいおとぼけキクちゃん」も、男色を始めとする闇が透けて見えるのだろう。
 こちとらは身にしみこんだ日曜夕方の習慣なので、競馬に出かけていない在宅のときは毎週見る。妻もそれがすりこまれてきたようで、日曜夕方になると、またあれかとイヤな顔をする。それがまた楽しい(笑)。

 円楽は重度の糖尿らしく見るからに病人。ろれつが回らず、司会進行にも切れがなく、いつ居眠りを始めるかと冷や冷やさせる。なかなかスリリングな番組である。歌丸より先だな、円楽が。
 『笑点』と言えば三浦綾子のヒット小説「氷点」をパロって(おっ、サボるに続いてパロるも使うと確認。でもみっともないな、やめよう)談志の考え出したタイトルだ。まあ談志がケツをまくった番組だから筋は通っているか。いまは「あんなくだらん番組」とハッキリ言っているし。でも談志が選挙に出たときは全員で応援していた。円鏡なんかも選挙カーにいた。
 司会者は初代の談志からマエダタケヒコ、ミナミシンスケと変ってきた。円楽も当時は解答者のひとりとして、「星の王子様」とか「湯上がりの男」なんてやっていたのに今じゃあのていたらく。小円遊と歌丸の偽装ケンカもなつかしい。コチラクとか、けっこうみんな死んでいる。


 「大の『笑点』ファン」は嘘だな。けっこう見ていたのは高校生時代か。話題の高視聴率番組でもあったが、とにかく当時は娯楽番組が少なかったので演芸番組はすべて見ていた。大学生時代は見ていない。ダサい番組の典型と思った。まあそんな反発の時期だ。長髪にベルボトムジーンズだもんな。毎週競馬場に通い詰めていた二十代後半から三十代の時は長年見ていなかった(見られなかった)し、ここ十数年は外国暮らしが半分だった。今週で1896回とかそんな感じの数字が出ていたがいったいそのうちの何回を見ているのか。半分あるかどうか。それでも帰国して、いつものようこれを見ると、毎度変らないそのありように、ああ日本にいるんだとしみじみ思う。ほんとにその価値を知ったのは外国に出るようになってからか。熱愛ではないが親しい友人だと思っている。

 たとえば紅白歌合戦が来年からなくなることになりましたと聞いてもまったくなんの興味もないが(世間は時代の節目とか大騒ぎするだろう)、『笑点』が円楽死亡により打ち切りとなったら、さみしく思う。自分が生きている限りあり続けて欲しいと願う数少ない番組だ。そう思っている日本人は、関東、東北の年配者を中心に、かなりの数にのぼるだろう。円楽が死んだときが大きな転換期となる。死亡はともかく、週に二回の人工透析との噂も聞いたし、司会からの引退は間近だろう。もうすぐ達成する司会二十周年を花道として欲しい。それを目指しての痛々しいまでのがんばりだと思う。そこからが難しい。続けて欲しいものだ。

附記・「三浦綾子の『氷点』」を最初「原田康子の」と書き、なんとなく不安になって調べて書き直した。原田康子の「挽歌」とこんがらがっていたらしい。間違えてもすぐに誰かが指摘してくれたろうが、自分で気づいてほっとした。

附記2・その「氷点」を検索していたら、「氷点」というタイトルのホームページをやっている人がいた。お笑い系サイトらしい。「ホームページタイトルを三浦綾子さんの『氷点』と関係あるかと問われるがそれとは無関係」と反発気味に書き、「テレビの『笑点』を意識した」と、これは得意げ(?)に書いていた。こういう人は『笑点』は「氷点」からとったと知ったら赤面するだろう。こんな勘違いもある。
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