大鵬・考

2013

●大鵬の思い出①

 2013年1月19日、横綱・大鵬こと納屋幸喜さんがなくなった。
 「訃報──大鵬、死す」という、大鵬が亡くなったと知っておどろいたという、ただそれだけの中身のない文に多くのアクセスをもらってしまった。何か読物があると思って来たかたは落胆したろう。申し訳ない。すこし遅れたが、私なりの「大鵬の思い出」を書いておきたい。

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 大鵬は私が見てきた多くの力士の中で、文句なしに最強のひとである。相撲を見れば見るほどそう思うようになった。

 今、この文を書くに当たり、さいわいなことに私は大鵬のファンではなかった。だからこそ冷静に見られ、後々振返って、彼が最強であると確信できた。断言できる。
 よってこれは、「巨人大鵬卵焼き」と言われた時代に当時大鵬ファンだったこどもが自分の時代を懐かしみ、讃歌する文章ではない。



 ちょうど今サイト用に「あのころは最高だった、か!?」という文を書いている。趣味に関して、そういう言いかたがある。野球のようなスポーツや将棋のような室内ゲームまで、「あのころが最高だった。いまはつまらん」という言いかたである。

 同世代の連中がそれを口にするたびに、私は「そうかなあ」と疑問を持ってきた。私からするとむかしより今のほうが断然面白い。そのことをまとめようと思っていたら、その前に大鵬に逝かれてしまった。

 私には自分がこどもだった時代、いくつもの事柄に興味を持ち始めたばかりの当時を、「最高だった、あのころはよかった」と讃える感覚はない。中にはある。だがほとんどは今のほうがいい。だから競馬や将棋等で「あのころはよかった」と言うひととは考えが合わない。彼らはみな過去を讃美することによって、そこに逃げこんでいるにすぎない。
 そういう私が、自分の好き嫌いとは関係なく──いやそのころは嫌いだったのだ──客観的に見て、史上最高の力士は大鵬だと思う。文句なしに。



 やわらかく、懐が深く、足腰が強く、そして速い。万能だ。
 当時の、それまでの力士は型で語られてきた。たとえば「四つになったら強い」「左上手を取ったら無双」のような型、あるいは突っ張り、内掛け、うっちゃりのような十八番技によるもの。なんでもできる大鵬に古い感覚の連中からイチャモンがついた。「大鵬には型がない」と。二所ノ関親方が反撥して言った名言。「型のないのが大鵬の型」。オールマイティなのだ。

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●型のない凄味──将棋、プロレス、競馬のたとえ

 将棋で言うと、現代の最強棋士・羽生善治に通じる。決まった型、戦法がない。なんでもできる。オールラウンダーだ。「大山の振り飛車」「加藤の矢倉」のような時代に育ったひとにはなんでもできる羽生は分かり難い存在だった。だが批判はなかった。羽生の時代にはもう「型を持たないほどの天才」が認識されていた。

 かくいう私もそういう時代に育った将棋ファンのひとりだった。大山の振り飛車に対して、加藤、中原、米長、二上、みな居飛車で戦う。升田が振り飛車をやると、大山が居飛車になる。そういう「居飛車振り飛車対抗型という型」の時代だった。定跡の固まっていない相振り飛車という乱戦に踏みこむ棋士は──すくなくてもタイトル戦の舞台では──いなかった。

 だからこそ24歳の中原が、3勝2敗と追いこまれた初めての名人戦の舞台で、6局目7局目に突如大山得意の振り飛車をやり、連勝し、4勝3敗で名人位をうばったのがかっこよく思えた。1972年、昭和47年の出来事である。
 それは礼儀としてやってはならないのだろうと思っていた。暗黙の掟である。そしてもしも誰かがやったとしても、大山のように振り飛車は指せず、通用しないだろうと。それが名人戦という最高の舞台で、しかも追い詰められたときに出現したのだ。負けて当然と思われた。だって中原の振り飛車なんて見たことがなかったから。
 中原は大山から大山得意の振り飛車で名人位を奪ったのだ。当時「箱根越え」という言いかたがあった。関東と関西の猛烈な対抗意識だ。木村の持っていた関東の名人位を大山が関西にもってきた。まさに大山(たいざん)で不動の名人位であったそれを、若武者中原が関東にまたもってきた。ファンはこのことに熱狂したのだが、私にはこのことよりも、「中原の振り飛車」の印象が強烈だった。
 その後も中原は(私の記憶に有る限り、すくなくとも大舞台では)振り飛車を指していない。それからも長い長い中原VS大山の闘いは続くのだが、それらはきちんとみな「大山の振り飛車VS中原の居飛車」だった。
 
 それは筋の通った話で、中原のこの「突然の振り飛車」はヤケクソだったのだという。後に当人が語っている。二十歳で棋聖位を当時史上最年少で奪取し、飛ぶ鳥を落とすが如き勢いだった24歳の中原だが、この3勝2敗と追いこまれた名人戦で、大山振り飛車の受けの強さに辟易し、「今の自分にはこのひとの振り飛車は撃ち破れない。だったらもう、振り飛車破りとはどうやるものか、大山先生に教えてもらおう」と思って指した振り飛車なのだとか。だからここは大山が「ふっふっふ、指し慣れない振り飛車なんてやるもんじゃないね」と一蹴せねばならなかった。だが、やはりここには掟破りの効果があったのだろう、中原はそのヤケクソ振り飛車で勝ってしまうのである。それ以降中原が振り飛車を指さないのは、私は当時から中原の将棋本を貪り読んできて感じるのだが、ごくすなおに「振り飛車より居飛車のほうが強い、有利」と思っているからだろう。さらには「好き」もあるか。だからこそあのときの「中原の掟破りの振り飛車」は鮮烈だ。

 大鵬の時はまだこの型があった。羽生の生まれる前の時代に、大鵬は勝ち続けることによって「型がない」という旧時代のイチャモンを一蹴した。
 羽生に「型がない」とイチャモンをつけたひとはいない。すなおに「居飛車振り飛車にこだわらず、なんでもできるオールラウンダー」と讃美された。あらたな時代を切り開くひとはみな、旧時代の弊害を打破せねばならない。同じオールラウンダーなのに、イチャンモンをつけられた大鵬、讃美された羽生に、時代の差を感じる。



 「型」の話で行くと。
 プロレスこそは「型」の世界だった。「型」というキャラクターで喰って行くジャンルだった。「型」すなわち相手の得意技は決してやってはならなかった。アントニオ猪木がコブラツイストを決め技にしているとき、他のレスラーはそれをしてはならなかった。だが「猪木がやってあれだけ利くのなら、もっと背の高い馬場がやったらどうだろう」という話が出て来る。プロレスファンのこどもたちはこういう話が大好きだ。すると「背の高い馬場がコブラをやったら相手が死んでしまう。だからアメリカでは禁じられている」などというまことしやかな噂が流れてきたりする。プロレス雑誌の投稿欄に載ったりした。
 よって猪木はゴッチに頼り、オクトパスホールド=卍固めをマスターせねばならない状況になる。あのころ、この技の名前がテレビで公募されたものだった。実際はそれ以前にもう卍固めと決まっていたらしいが。私は素直に撰ばれただけあっていい名前だと思ったものだった(笑)。猪木が卍固めを決め技としてから、初めて「リング中央で卍固めを決めた猪木、パートナーを助けようとリングに入ろうとする片割れをコブラツイストを決めて止める馬場」というBI砲の絵柄が完成した。コブラツイストが猪木の必殺技である時代、馬場は決してそれをしなかった。
 時は流れて、長州の「俺はお前の噛ませ犬じゃねえ」から始まる長州藤波対決。ここから藤波が長州の得意技であるサソリ固めを長州に決めることから古館伊知郎の名台詞「掟破りの逆サソリ」が生まれる。










 このあたりからも大鵬がそれまでの相撲の常識を覆していたことが判る。それまで力士は、得意技とか、右上手を引いたら、とか、「この形になったら負けない」という〝型〟で語られてきた。大鵬はそれを超越していた。なんでも出来た。唯一出来なかったのは、背中を反らすのが苦手だったから、うっちゃりぐらいか。

 それにしても二所ノ関親方はすばらしい名前をつけてくれた。大鵬という四股名は、旧型のなんとか山やなんとか川ではない。この抜群の名前でより光り輝く。



 こどものころは周囲の女の影響を受ける。受けてしまう。小学生だった私はその影響を受けた。
 母と姉が柏戸好きの大鵬嫌いだった。たぶんあれは女のひねくれ根性だったのだろう。美男で文句なしに強い、というか強すぎるものへの反感である。下がり眉の、ハンサムとは言い難い柏戸贔屓は、判官贔屓のようなものであるが、それとはまたすこしちがうようにも思う。母と姉の大鵬嫌いは、一種の嫉妬にもちかいだろう。自分達とは無縁の存在に対する。
 ブスが最高級のハンサムにはどうせ無理と近づかず、自分でも落せそうなのにちかよるのと同じ感覚だ。わたしゃちょうどそれぐらいだったので、ブスに言い寄られてこまったもんだった(笑)。

 もうひとつ言える。前記の「型」だ。一直線の柏戸には型があり、わかりやすかった。万能の大鵬はなんでもありで、わかりづらい。母や姉にとって型のない大鵬は理解しづらい力士だったのだろう。
 柏戸は直線で剛、大鵬は曲線で柔だった。



 いまでもよく覚えていることに、千秋楽の柏鵬全勝同士の優勝決定戦がある。すごい賞金の数だった。母と姉によると、呼びだしが持って土俵を回るあいだ、塩を手にした大鵬が懸賞の数を数えていたのだという。口許ででもわかったのだろうか。それを卑しい行為であるとふたりは批難していた(笑)。

 その影響を受けて私もそう思ったのかというと丸まる影響を受けたわけでもない。ただこどもであるから理論的な反論は出来ない。懸賞金の本数を数えるのは下品なのかなあと漠然と思っただけである。重要なのは、大鵬が負けると拍手して喜ぶという環境で私は育ったことだ。いま「大鵬が史上最強!」と断言する私は、アンチ大鵬だった。
相撲話──大鵬の思い出②──柏戸贔屓の母と姉の影響──佐田の山と豊山
 長じるに従い、男である私は、自然に母や姉の感覚とは離れて行く。「長じる」と言っても小学生の時の話だ。物心ついたときに母親と姉の感化を受け、小学生低学年の時代に、そこからは卒業した。

 決定的だったのはふたりの「弱気を装う自己防衛論」だった。「すっぱい葡萄」路線である。
 ふたりは柏鵬の対決の時、「柏戸は負ける」と言うのである。「負けるよ、適わないよ、しかたないよ、しょうがないよ」と言う。仕切のあいだそれを繰り返す。しつこいほどに。

 これをやっておけば負けたとき傷つかない。「ほうら負けた。わかってたんだよ、やっぱりね」となる。そうして自分を護るのだ。「わたしたちは負けることを知っていた。予想通りの結果だ。だから落胆していない。傷ついていない」と。
 そうしておけば負けても傷つかず、勝ったときは喜びが倍になる。それは柏鵬に限らず贔屓力士に対して常用する彼女たちなりの応援姿勢だった。そういう母親であり、姉は母のクローンだった。そこで育っているから、私もそうなるはずだった。

 しかしまあ時が過ぎた今、同情して言うなら、アンチ大鵬はそんな方法でも執らないと正常ではいられないほど、そのころの大鵬は強かった。自分を護る方法として、そんなことを考えだしたのもむべなるかなとも思う。
 そんな家庭で育ったから、私は「巨人、大鵬、卵焼」の感覚を知らない。熱狂しなかったから。でもそれは振返ってみれば、今に続く相撲ファンの姿勢として、とてもいいことだった。単純に熱狂するよりもずっと。だって「強さ」を感情的ではなく冷静に判断できるから。



yutakayama 母や姉のインチキ判官贔屓と比して、父は本物の判官贔屓だった。といって、もちろん強い力士が好きなのだけど。

 この時代、東京農業大学を出た学生横綱である豊山が「初の学士力士」として幕下付出しでデビューした。十両で全勝優勝を遂げる。話題沸騰だった。
 ちなみに十両で全勝優勝した力士は、今に至るも栃光、豊山、北の富士、把瑠都の4人しかいない。

 豊山は色白の美男子だった。母と姉は大ファンになった。ハンサムで大学卒というのが理由らしい(笑)。
 母も姉も基本的に女でありミーハーなのだから、本来美男で強い大鵬が好きでなければおかしいのである。しかし大鵬は、すごすぎて、気弱な私の母と姉は、ファンになりそこねてしまった、というのが真相であろう。美男だったけど、それはハーフのような彫りの深い日本人離れした美男であり、近寄りがたかった。この時点で大鵬の血筋は判っていない。
 その点豊山は、すんなりファンになれる日本人的美男の力士だった。



 父は学士力士を嫌った。大学なんぞを出てるのより中卒の叩上げを好んだ。父は師範学校を出ていたから、当時の高卒の代用教員が多い田舎ではエリートであり、三十代で小学校長になっている。でも叩上げが好きだった。これは生涯変らなかった。学士力士を嫌った。

 父の好んだのは佐田の山だった。まあこちらも後々横綱になる出羽の海部屋の秀才力士ではあるのだけど、豊山と比べれば中卒の叩上げになる。
 佐田の山は話題の豊山について聞かれると、「大学を出てきたような相撲とりに負けたくない」とハッキリ言った。ふたりは同時期のライバルだった。柏鵬のすこし後になる。後に理事長と理事として協力し合ったりする。

 自分達の応援している大卒で美男の豊山のことを、中卒で不細工な佐田の山がそう言ったものだから、母と姉は佐田の山が大嫌いになる。佐田の山の名前は「晋松」である。その名前も品がなく貧乏くさく百姓っぽい名前だと貶した(笑)。父はいい名前だと言った。

 よって我家には母と姉の応援する豊山派と父の応援する佐田の山派の対立が勃発したのである。佐田の山派は父一人だろうって? いえいえ、そのころにはもう母と姉の「弱気を装っての自己防衛論」に愛想を尽かしていた私は、迷うことなく父の感覚を支持するようになっていた。大卒よりも中学を出てすぐ相撲界に飛びこむ少年のほうがかっこいい。「晋松」も男くさくていい名前だ。のっぺりした豊山的美男子より、佐田の山の根性のあるふてぶてしい顔のほうがかっこよく思えた。

 まだ小学生だったが、この時点で私は、母と姉という女世界から飛びだし、父との男世界に参入したのである。母と姉からすると自分達の連合軍から裏切者が出た感じだったろう(笑)。その後も私は母と姉とは悉く感覚が対立するようになってゆく。反面教師だった。(続く)
   相撲話──大鵬の思い出③──すっぱい葡萄の家系──女嫌いのルーツ
●大鵬の思い出③

 私は母と姉の「弱気を装っての自己防衛」に接している内、次第にそれに反感を抱くようになっていた。好きなものは、勝って欲しいものは、「勝て!」と言って応援するのが正しいのではないか。そして勝ったら喜ぶ。負けたら悔しがる。それでいいのではないか。
 ほんとは勝って欲しいのに、負けたとき傷つくからと、「勝てないよ、負けるよ負けるよ」と言い、負けたら悔しがることもなく(内心では悔しがっているのだろうが)、「負けるのはわかってたんだ」なんて自分を慰める言いかたはへんだ。ひねくれている。いつしかそう思うようになっていった。



 と、このまま書いてゆくと私の一代記になってしまうので(笑)この辺にするが、でもほんと、ここに書いたことは、私にとってとても大きな出来事だった。
 私は母と姉を反面教師にして小学生の時にそこから脱出したが、高校生の時、この「弱気を装う自己防衛」を言うクラスメイトに出会った。なんともくだらんヤツだった。こういうのは、私と同じような女環境で育ち、それに染まり、そこから脱出することなく、女々しい感覚で出来上ってしまったのだろうと憐れんだ。もっとも、この自己防衛方法を採るヤツは男にもいよう。そいつはそういう父親になったにちがいない。こどもがかわいそうだ。

 もしも私が、自分の勝って欲しい力士が負けたとき傷つくのを怖れ、「負けるよ、きっと負けるよ」と最初から「負ける負ける」と言って応援しているようなこどもであり、母が、そういう私の横っ面を張り、「男なら、そんなめめしいことはするな。勝って欲しいものには、正面から勝てと言って応援しろ!」と怒るようなひとだったら、私の人生はちがったものになっていた。私はきっと自分の母を尊敬し、そのことから女を尊敬する男になれたろう。

 だが現実は、何事に関してもそういう方法を採る母と姉を軽蔑することによって、そういう発想法から私は自力で脱出せねばならなかった。私の女嫌いの根本にはこれがある。環境とは大きいものだ。いまだに引きずっている。女嫌いでいまだに童貞なのはそれが原因である。こういうのもトラウマと言うのだろうか。私は宮沢賢治と同じく生涯童貞でいようと思っている。ウソ。



 相撲からは相撲そのものとはべつに、それに関わる形で、こんな多くのことを学んだ。
 それは相撲が現実に「国技」と呼べるほどのステータスを持っていた時代だからである。テレビで見るのはもちろん、毎日学校でみんなで相撲を取っていた。新聞も大きく報じていた。だってここに書いたように、母や高校生の姉も相撲好きの時代だったのである。
 今はもうごく一部の太ったひとが携る伝統芸能になってしまった。むかしと今の相撲を同列には語れない。(続く)
   ●大鵬の思い出④──頑なな天才否定──ウクライナの血脈

taihou2「大鵬にはロシア人の血が入っている」という噂は、当時からうっすらと流れていた。色白の躰もそうだが、なによりも顔である。
 当時美人女優として売れっ子だった鰐淵晴子(父は日本人、母がオーストリア人)のような日本人離れした彫りの深い顔はどうしてもハーフに見える。

 異国人との結婚によって生まれた子は、最初は「合いの子」と言った。それが差別用語として「混血」という堅苦しい言いかたになる。やがてそれも差別用語とされ、英語の半分の意味である「ハーフ」に言い替えられる。事の本質を意味不明にしてごまかす日本語の差別語転移の代表例である。(さらには今は、「ハーフだと半分という意味で失礼」とかで、ダブルと言うのだとか。アホクサ。)

 どんな顔であれ北海道の父親が「わしの息子ですじゃ」と言えば問題ないのだが父はいない。貧しい母子家庭育ち。樺太からの引揚げ者である。父親のことは写真一枚出まわらない。生死さえ公表されない。その噂が流れて当然だった。

 戦争終結後に突如攻めこんできて北方領土を奪い、満洲では残虐な殺戮と強姦を繰返したロシア人は日本の敵だった。国民的英雄である横綱にロシアの血が入っているとは誰も考えたくなかった。よってそれは長いあいだタブーだった。

 なにしろ力道山が朝鮮人だということすら伏せられていて、死後になってやっと流れでたような時代だ。それでも信じない人は多かった。かくいうこどもだった私も、それはプロレス嫌いがプロレスを貶めるために流しているウソだと思っていた。力道山の死後、それまではプロレス好きだった連中が一気にアンチになった。力道山時代はプロレスの結果を報道していた毎日新聞なんぞは、一転してプロレス八百長説の先頭を直走った。戦前戦中は戦争讃歌だったアカヒシンブンが戦後は一転して護憲サヨクになったように、マスコミなんて今も昔もそんなものである。


 
 私が大鵬にロシアの血が流れているというのを容認できるようになったのは、大学生になってからである。そのころになるともうそれは否定できない話になっていた。それでも「クオーター」と言われていた。四分の一ロシアの血が入っていると。この「クオーター説」の時代は長い。

 大鵬の父がウクライナ系のロシア人であり、大鵬はハーフだと公になったのはごく近年である。(調べたら、2001年だから、〝近年〟ではないか。でも大鵬の現役時代から長年秘せられてきた時間と比すれば、充分に近年とも言えよう。)



 大鵬は天才だった。しかし彼ほどそう言われるのを嫌ったひとはいない。不世出の大横綱に誰もがその切口で迫ろうとする。彼は拒む。むきになって拒む。自分は天才ではない。努力型なのだと。誰にも負けないほどの稽古をして、そうしてあの結果を残したのだと。いったい今までにどれほどの回数、雑誌の対談やらテレビやらで、大鵬のこの「天才否定」に接したことだろう。

 一面においてそれは真実であろう。当時の激しい二所一門の連合稽古で、大鵬がいかに稽古熱心だったかは誰もが認めている。そして稽古場でも、いかに強かったかも。
 でも大鵬がどんなに否定しようと、私は彼は大天才だったと思っている。稽古であれだけの成績が残せるなら、それこそ伝説的な猛稽古で有名だった富士桜はもっと出世していなければならない。なにしろ、各部屋の親方が、将来を嘱望する力士は、必ず連れていって見せたと言われる「富士桜の猛稽古」である。ふつうは「ふらふらになったら稽古終了」だが、富士桜の稽古は、「ふらふらになってから、始まる」と言われた。すさまじいスタミナだった。
 稽古好きはいくらでもいた。努力型もいくらでもいた。大鵬があれだけの大横綱になったのは、天分があったからである。神に与えられた天分に恵まれていたのだから、紛う事なき天才であろう。



 ではなぜ大鵬は、そこまでして天才と呼ばれることを拒んだのだろうか。
 私はそれを「血の否定」と考える。
 大鵬の父は、樺太に住むウクライナ系ロシア人だった。
 ウクライナ系ロシア人と聞けば、挌闘技ファンなら誰でも〝皇帝〟エミリヤエンコ・ヒョードルを思いうかべるだろう。前田日明がリングスに連れてきて日本デビュー、その後『PRIDE』に移籍し(ひき抜かれ)、後に世界最強と呼ばれた男である。アレクサンダー・カレリンの名を出すまでもなく、ロシア人の頑健さは誰もが知っている。まこと、我らが先祖は小男でありながら奴らと白兵戦をやって勝ってきたのだ。偉大である。

 大鵬の強さに「ロシア人の血」があったことは否めない。もしも大鵬の言うように「猛稽古」で強くなったのだとしても、それに耐える頑健な躰は、父からもらったものだったろう。
 大鵬はもちろん母から聞いて、自分の父がロシア人であることを知っていた。時代を考えれば、それは大鵬にとって、口に出せない、心にのし掛る重い枷だったろう。日本人はロシア人が嫌いである。中でも北海道ではロスケと言って嫌っていた。それでなくても北海道の百姓とはちがう顔をしているのだから、自分の父がロスケである事実は、大鵬にとって重かったはずである。

 頑ななまでの天才否定は、それによるものだったのではないか。
「天才」を容認することは、「ロシア人からもらった頑健な躰」を認めることになってしまう。彼は自身の内なるロシアを否定し、「努力して強くなった日本人」でいるために、執拗にそれを訴えたのではないか。私はそう解釈している。

 もっとも彼に限らず、天才は天才と言われることを嫌う。自分は精一杯努力したのだ、簡単に天才などと言わないでくれ、と言う。「おれは天才だ」という天才はたいしたことはない。 しかしまた天才は、心の中で<おれは神に選ばれた天才だ>と自負している。



 大鵬部屋の力士に露鵬というのがいた。大鵬が鵬の字を与えている。これはもうひどい悪相だった(笑)。犯罪者面である。後に大麻で角界追放となる。その弟に北の湖部屋の白露山なんてハゲたのもいた。こちらはキユーピーみたいだった。彼らを見ても大鵬とロシアを結びつける感覚は芽ばえなかった。

wakanohou 露鵬で出来たロシアとの縁から、大鵬が間垣部屋に紹介して入門させた若ノ鵬というのがいた。これも後に大麻で角界追放となる。

 彼を見たときはびっくりした。若い頃の大鵬とそっくりだったからだ。純粋なロシア人である。左の写真。

「ああ、大鵬の二枚目ぶりってのは、ロシア的ハンサムだったんだな」としみじみ思ったものだ。私はそのころすでにロシアに行ったことがあったが、べつに大鵬的な美男子を見た憶えがなかった。やはり髷を結ってないとイメージが繋がらない。そういう意味で若ノ鵬は忘れられない力士である。これまたロシア人特有の恵まれた体力で抜群に早い出世をした大器だったが、精神面がついてゆかず挫折した。

 そう考えると、私の母と姉の大鵬嫌いも、外人嫌いに通じて、それなり筋は通っていたのかと思う。田舎女として、大鵬の容姿に、本能的に異質のものを感じていたのだろう。(続く)

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【追記】──大鵬と王貞治

 同い年の同時期のスーパースターであり、気が合ったのか、夜明けまで痛飲した仲だったという。訃報を特集するスポーツ紙でも王さんのコメントは筆頭扱いだった。

 王さんは、父台湾、母日本の混血である。父ロシア、母日本の大鵬と同じ組み合わせだ。ちがうのは、王さんの場合、その姓から、出自が明確にされていたのに対し、大鵬は伏せられていたことだ。
 大鵬はきっと、王さんには自分の血脈を語っていたのではないか。そんな気がする。
   ●大鵬の思い出⑤──弟子屈に行ったころ──

taihou-teshikaga 大鵬の故郷である弟子屈町に初めて行ったのは23歳の時だった。札幌に住んでいた先輩に誘われて、道東のほうを歌い歩いたころだ。
 慶應高校出身の先輩によると、そのころの慶應高校の修学旅行は北海道と決っていて、先輩は高校時代に弟子屈に来ていたらしい。

 ここが大鵬の故郷なのかと感激した。町の温泉に入った。なんの変哲もない北海道の田舎町なのだが、大鵬の故郷というだけで興奮したものだ。

 写真は弟子屈町の大鵬像。



 大鵬に関する話で覚えていることに故・琴櫻の談話がある。元横綱琴櫻。先代の佐渡ケ嶽親方だ。大鵬と同い年であり、同じ横綱だが、出世の速さがちがいすぎる。同い年なのに、遅咲きの琴櫻が横綱になったのは、大記録を作った大鵬が引退した後だった。

 大鵬はあれだけ美男で強くて人気があったから、手にした女の数はとんでもなかったらしい。元々力士フェチの女というのは根強くいて、力士はもてる。女に不自由しない。相撲部屋の稽古には、どの部屋でも力士フェチの女が見学に押し掛けている。

 それが美男で最強の大鵬であるから、それはもうたいへんだったそうだ。授業先のホテルなどドアの外にずらりと列が出来ていたという。順番にやるのである。一発済むと「次のかた、どうぞ」の世界。ビートルズ並だ。

 琴櫻の談話とは、醜男であり大鵬のようにもてない琴櫻は、そのおこぼれにあずかっておいしい思いをしたというもの。そりゃまあ順番待ちしているうちに待ちくたびれて、手ごろな近くの力士でもいいか、と思うのも出て来るだろう。
 のどかな時代だった。いま力士はソープに行くのすら気を遣う時代になった。



 のどかと言えば、拳銃の話がある。大鵬、柏戸、北の富士がアメリカからの拳銃密輸で書類送検されたのだ。看板力士である。今だったらどんな大事件になったろう。まあ「密輸」というような大事件ではない。軽い気持ちでお土産で買ってきたのだ。公人としての自覚が足りない。しかもその後は、「川に捨てた」というしょうもない弁明。でもそれで一件落着してしまう。いい時代だった。(続く)


   相撲話──大鵬の思い出⑥──大鵬の32回、千代の富士の31回①──大鵬最後の優勝の秘話

 大鵬に関する思い出はたくさんあるが、文章として読んだものとして、以下のエピソードがいちばん記憶に残っている。大鵬最後の優勝32回目のときの裏話である。1971年、昭和46年の初場所。



 13勝1敗だった大鵬は、千秋楽の本割で、14連勝の後輩横綱玉の海を破り、14勝1敗で並んだ。優勝決定戦になる。
 このとき玉の海のところに使者が飛んだ。

 双葉山の連勝以外、相撲界のあらゆる記録を塗りかえた大鵬にも落日の影が差していた。通算の対戦成績は圧倒的であれ、ここのところ後輩の玉の海、北の富士に負けることが増えていた。ここまで四場所優勝から遠ざかっている。番付もずっと西横綱である。

 一方、27歳の玉の海はこのときが絶頂期。横綱になって三場所目。ここ二場所連続優勝している。本割では負けたが決定戦では確実に勝てる自信があった。大鵬のスタミナは切れている。
 使者の申しこみは、これが大鵬の最後の優勝のチャンスだから、今回は譲ってやってくれ、というものだった。



tamanoumi 玉の海は最初それを拒んだ。大鵬は二所ノ関一門の兄弟子であり、新人時代から稽古をつけてもらった。大鵬に稽古をつけてもらって強くなった。横綱に昇進したときは土俵入りの型もつけてもらっている。最高の恩人である。なんど挑んでも適わない大きな壁だった。それがやっと勝てるようになり、自分がいま東の正横綱として君臨している。

 負けてくれという申しこみは受け入れがたかった。決定戦で勝ち、三場所連続優勝を成し遂げたかった。それは確実に出来るはずだった。
 だが「おまえはこれから何度でも優勝できる。大鵬関はこれが最後なのだ」と説得されれば、受けいれざるを得ない。それが相撲界である。
 決定戦は大鵬が勝ち、32回目の優勝を成し遂げる。敗れた玉の海は勝負のあとの風呂場で号泣した。泣き声は風呂の外まで聞こえてきたという。

 その二場所後、大鵬は体力の限界を理由に引退した。やはりあれが最後の優勝となった。
 引導を渡したのは新鋭の小結貴ノ花だった。その貴ノ花が引退を覚悟したのが新鋭千代の富士との一番であり、大横綱千代の富士に引導を渡したのが息子の貴乃花だった。横綱の引退にはそんな次代のヒーローとの引継ぎがある。
 引退相撲の土俵入りでは、玉の海と北の富士という両横綱が太刀持ちと露払いを務めた。
 翌場所、玉の海は当然のごとく優勝し、北の富士との北玉時代到来と謳われたが、半年後に急逝してしまう。



 なお、この玉の海は朝鮮人である。先日引退した理事長を務めた武蔵川親方こと元横綱三重ノ海も朝鮮人である。その前の理事長佐田の山も朝鮮人である。半分ロシア人の大鵬と純粋朝鮮人の玉の海の優勝決定戦だから、べつに小錦だのモンゴル人だのと今更騒がなくても、もうずっと前から相撲界は国際的だったことになる。



 私は、大鵬のあの最後の優勝の瞬間、玉の海を寄り切ったときの「ほっとしたような顔」を今も覚えている。憎らしいほど強かったあの人が、あんな顔をするとは思わなかった。大鵬はあのとき、これが自分の最後の優勝になるとわかっていたのだろう。だからこの話を読んだときは、みょうにそのことに納得したものだった。

 さてこの話、ソースはどこだったろう。たぶん『週刊ポスト』がしつこく「大相撲八百長問題告発」というのをやっていた時代に読んだのだと思う。舞台になったのは1971年。私が読んだのは1990年ぐらいか。でもこの場合、ソースにはこだわらない。書きたいのは私の気持ちである。

 こどものときからの相撲ファンであった私は、この「かつて感動したあの大一番」が、じつは仕組まれたものだと知ってどう思ったか。夢を汚されたと怒ったか。大相撲に失望したか。それとも「こんなのウソに決まってる!」と怒ったか。

 私は「いい話だなあ」と感激をあらたにしたのである。「相撲を好きでよかった」「さすがはおれの好きな大相撲だ」とすら思った。

 所詮週刊誌記事である。信憑性はどうなのだろう。一笑に付すひともいるかも知れない。私は素直にすべて真実だと思った。いまもそう思っている。
 これは、大鵬自身が星を譲れと使者を使わした両者納得のものなのか、あるいは大鵬は知らず周囲がおぜん立てした、玉の海だけが知っている、いわゆる片八百長なのか、そのへんのこともある。

 でもそんなことはどうでもいい。自分がリアルタイムで見た、優勝した瞬間の、大鵬のあのほっとした顔に、見知らぬ「風呂場での玉の海の号泣」が重なり、私の思い出はより鮮明になり厚味を増したのだった。(続く)

相撲話──大鵬の思い出⑦──大鵬の32回、千代の富士の31回②──談合横綱千代の富士の実態

   ●大鵬の思い出⑦

 大鵬の最後の優勝、32回目は仕組まれたものだった。後にそれを知ったとき、私はそれに落胆するのではなく、むしろ感激をあらたにした。
 千代の富士に関しても同じような思いをしたことがある。中身は微妙に違うが。


 
 千代の富士は、談合横綱として、遣りたい放題のことをしてきた。連勝から優勝回数まで、好き放題に数字を重ねてきた。

 この〝談合〟を誤解するひともいるので、毎度のリクツをあらかじめ言っておくと。
 千代の富士は強いのである。確実に強いのだ。しかし相撲には何があるかわからない。変化を始めとして飛び道具はいくらでもある。稽古場で100回やって100回勝つ相手でも、本場所では奇襲攻撃をしてきて敗れるかも知れない。稽古で変化技はやらない。何があるか判らない。その恐怖を強者は常にもっている。

 そういう曲者に、前もってそういうことはしないと勝負前に一筆取る。いや一筆は取らないが、そういう約束をさせる。その代わり何十万かの金を渡す。安心料である。白星を確定させる。そのことにより、すべてガチンコだと10勝5敗かも知れない本割を15戦全勝にする。大乃国のように星を売らないのも何人かいるが、それに負けても13勝ぐらいは確保出来るから優勝は堅い。これが談合横綱千代の富士の実態である。



 そのことにより多額の懸賞金等、横綱のところに集まった金が下位の力士にもまわり、下位の力士から周囲の付き人にもわたる。また板井が有名だが、中盆という星の売り買いをする仲介屋も懐を潤すことになる。公共事業のようなものである。

 談合相撲は「真剣勝負」の見地からは言語道断だが、狭い世界の経済として見た場合、これは「富の一極集中」を防ぐことでもあり、バランスの取れた方法となる。それで相撲界は保っているし、誰もがその世界で生きてきたから、決してなくなることのない習慣である。相撲という世界の経済を活性化させるベストの方法なのだ。
 もともと相撲界とはそういう芸能世界である。千代の富士のやったことは、今で言うならアベノミクスならぬチヨノミクスであり、経済効果は抜群だった。だからそれだけの支持を得、あれだけの数字を築けたのである。



 そしてまたこれも大事なことだが、横綱を負かそうと下位の非力な力士が跳んだりはねたりすると、たまには横綱に勝つことはあろうが、そのことで土俵は決して盛りあがらないのである。
 基本として土俵上は勧善懲悪?であり、非力な下位力士が真正面からぶつかってゆき、強い横綱に投げとばされて拍手喝采の世界なのだ。それが好角家の快感である。

 非力な下位力士としても、強い横綱に正面からぶつかっていって投げとばされて、裏で何十万ももらえるのだから、こんなありがたいことはない。何十回に一回成功するかも知れない変化技で挑んで負けるより、正面から行って負けたことが誉められるは金はもらえるわで、遥かに効率がいい。
 千代の富士時代とは、そういう談合横綱という安定の時代だった。(続く)





   ●大鵬の思い出⑧──千代の富士の32回を許さなかった力

onokuni その世界に君臨し、すべてを談合で仕切り、金の流通する経済効果から支持され、怖いもののない千代の富士は、次々と記録を作って行く。大鵬の45連勝を凌ぐ53連勝を記録する。これを止めたのはガチンコ横綱大乃国だった。53連勝の内、ガチンコは20ぐらいと言われている。

 しかしここでまた、ガチンコでの勝利数が20なら、あとは33敗なのかとはならないことは前記したとおりである。ぜんぶガチンコでも、千代の富士は50勝3敗ぐらいだったかもしれない。強いのである。

 だがそれでは連勝記録にはならない。千代の富士は「連勝記録を作る」と決めた。そのためにはひとつも負けるわけには行かない。ガチンコで来る奴も何人かいるから、全力でそいつを負かすために、買える星はあらかじめぜんぶ買っておく。それが千代の富士の生きかたである。

 もしもガチンコ横綱大乃国がいなかったら、千代の富士は双葉山の69連勝を凌ぐつもりだった。凌げたろう。ガチンコ力士がいてくれて、本当によかった。
 いたとしても、弱くて勝てないのでは意味がない。談合連勝をストップした大乃国の存在は貴重である。千代の富士は強い。しかし談合横綱でもあった。
 そういう千代の富士がなぜ支持されたかは、高度経済成長によって支持されていた自民党を思いうかべるとわかりやすい。 景気さえ良ければ、ひとは時の政府を支持する。相撲界もまた同じく。



 双葉山の69連勝を越える目的は大乃国によって止められてしまった。でも前人未到の1000勝の記録を作った。優勝は31回になった。

 じゃ次は大鵬の32回を越える優勝回数である。やったるでえ、というところで、やっと──ほんとにやっと、である──談合横綱の遣りたい放題に対する憤懣が噴出した。それは大鵬を信奉する親方連中から出た。

 未来の理事長は確実だった大鵬は三十代で脳梗塞に倒れ、麻痺の残る躰で不自由な生活を送っていた。華々しいしい現役時代と比べ、引退後の不運は目を覆うばかりだった。
 二所一門連合稽古の先頭に立ち、ちぎっては投げちぎっては投げという鬼神のごとき強さであった大鵬の強さを躰で感じてきた連中は、千代の富士の好き放題の権力を苦々しく思っていた。しかしそれによって金が流通し、相撲景気がいいのだから文句は言えない。

 しかしやっとここに来て、真に強かったあの大鵬の32回をも談合横綱の千代の富士が越えるのは許せんと立ち上がった連中がいた。ずいぶんと遅いが、千代の富士首相の経済政策で相撲国の景気が良かったのは確かだったから、誰も文句は言えなかった。



kaiketsu その先頭となったのは、ガチンコ横綱大乃国の師匠であり、自身もガチンコ大関だった放駒親方(元大関魁傑)だった。大鵬がいかに強かったかは、二所一門の連合稽古で、赤子のように扱われ、問題にされなかった自分の躰が知っている。真に強い大鵬の記録を、連勝までは目を瞑ってきたが、優勝回数まで談合横綱に抜かれることには我慢がならなかった。

 目指す記録はそれだけになっていた談合横綱は、それだけは許さんという周囲の圧力から、さすがにそれは断念する。目的がなくなり急速に気力が減衰する。まもなく引退した。
 逆にこれで男を上げた放駒は後に理事長になるほど出世する。



 大鵬の最後の優勝、32回目は仕組まれたものだったと知ったとき、私はそれに落胆するのではなく、むしろ感激をあらたにした。それでこそ相撲界だと思った。
 同じように、私は、魁傑が先頭に立って千代の富士のインチキ優勝32回、33回を阻止したとき、相撲界の正義を感じて安堵した。聖域は必要だ。

 世の中には「やってはならないこと」がある。私にとってそれは、大鵬が八百長で32回目の優勝をすることではなく、談合横綱の千代の富士が、その記録を超えることだった。

 本来「八百長」とは、囲碁の強い八百屋の長さんが、摂待として自分より弱い相手に負けてやることである。だから「八百長」ということばを使うなら、日の出の勢いの玉の海が落日の大鵬に負けてやったのが八百長であり、かなりの確率で勝てるのだが、万が一を思って金を渡し、負けるように言いふくめておく手法の千代の富士のやったことは、「八百長」ということばとはちがってくることになる。ことばを当てるなら、やはり「談合」だろう。



taihoushi 大鵬が亡くなった翌日、スポーツ紙は一斉に一面で特集した。多くの有名人、好角家がコメントを寄せていたが、感動的だったのは、素人のそれではなく、北の富士や放駒ら元力士の大鵬絶讃だった。

 誰もが「あんなすごいひとはいない」とベタボメだった。力士は自分に自信を持っているから他者を絶讃はしない。褒めるにしてもそこには儀礼が見える。まして北の富士は、それなりに時代を築いた横綱であり、さらには横綱ふたりを育てた名伯楽でもある。だが大鵬絶讃のことばに、そんなてらいはなかった。誰がもいかに強いひとであったかと、驚異の強さを讃えていた。別格なのである。



 唯一、テレビラジオ等で、「すべてを更新した親方でも、優勝回数だけは1回届きませんでしたね」と話し掛けられるたび、「32回と31回の差、これが大きいんですよ」と一見謙虚な言いかたをしつつも、言外に「そんなこと簡単に出来たのに、みんなでじゃましやがって」と口惜しさを滲ませて語る千代の富士だけが異質だった。

 このひと、理事長になるような器ではない。ただ人望はないが、順序的にしかたないか、という流れはある。弟横綱の北勝海のほうが遥かに人望はあるが、彼は兄弟子を堕とすようなことはしないだろう。
 北の湖の次は貴乃花に飛ばした方がいい。そのほうが相撲界のためだ。天国の大鵬もそう思っていることだろう。(続く)
   大鵬の思い出⑨──大鵬夫人スキャンダル考

 大鵬は敗戦後、樺太から北海道へ引きあげるとき、九死に一生を得ている。本来降船予定ではない港で降りた。そのあと船はソ連の潜水艦の魚雷で沈没させられている。多数の犠牲者が出た。途中降船しなかったら死んでいた。ここでの強運。

 そして史上最年少での横綱。双葉山の連勝記録以外あらゆる記録を塗りかえた華々しい横綱時代。努力も天分もあったろうが、ここでもまた運が味方したのも事実だろう。

 後援会からの紹介で美人娘と結婚し子宝にも恵まれた。
 引退後も、主流の出羽一門ではなかったのに、早くも35歳で役員になっている。その手腕も認められた。



 すべてにおいて順風満帆だった人生がいきなり暗転する。37歳での脳梗塞である。あの大鵬が半身麻痺となり、車イスのひとになってしまった。表に出ることなく、リハビリの日々が続く。

 ひとの運の総量は、ひとによってちがう。
 神様にあいされた大鵬の運の総量は、ふつうのひとの何倍もあったろう。
 だがそれを、幼いときの命を救うことと、力士時代の華やかな活躍にぜんぶ使ってしまったから、37歳の時にそれが尽きてしまったのではないか。

 私にはそんなふうに思える。



 部屋を継がせた娘婿の大嶽親方(貴闘力)が野球賭博で角界追放になったり、スキャンダルはいくつかあったが、最もせつなくなったのが「奥さんの弟子喰い」だった。

 大鵬が脳梗塞で倒れ不能になったとき、7歳年下の奥さんはまだ29歳。それから長年空閨を保つのは苦しかったのだろう。それから20年後、「弟子喰い」が週刊誌記事になった。これはそれを探って記事にしたというより、あまりに有名な噂として相撲界に長年流れていたのを取りあげた記事だった。極秘のことをすっぱぬいた感覚ではない。

 奥さんが弟子をラブホテルに呼びだすラブレターまがいの手紙まで流出した。弟子はそれを苦痛と思っていた。セクハラである。肉筆の手紙は実際に関係を持っていた弟子から流出したし、筆蹟からなにから逃げようがない。奥さんもそれが自分の書いたものであることまでは認めた。そのあとは「冗談で書いたのであり、その後の行為はない」と否定したが、それで通じるはずもない。ひとりやふたりではなかったし……。



 半身不随で動けない大鵬は、奥さんにテニスボールを転がしてもらい、それを拾うリハビリをした。それはかつてのあの大鵬を知っているひとには信じがたい光景だったろう。奥さんはそんな大鵬のリハビリにしんぼう強くつき合った。

 体調不良で入院し、ほんの数日で大鵬は急逝してしまう。死の二日前には白鵬が見舞いに訪れ、会話したというから、ほんとに急逝だったのだろう。

 奥さんがこの数日の入院のことを語っていた。毎晩何度も電話を掛けてきて、「だいすきだよ」と言うのだとか。
それはきっとほんとだ。大鵬が奥さんをあいしていたことも、奥さんが大鵬をあいしていたことも、本当だ。そしてまた奥さんが弟子喰いをしたのも……。なんともそこのところがせつなくてたまらない。

 すでに離婚し、亭主は鬼籍に入っている、かつては〝理想の一家〟の象徴だった藤田憲子がピース綾部と何をしようとどうでもいいが……。

 前記したように、全盛時の独身大鵬の宿舎には順番を待つ女の列が出来た。やり放題だった。その時点で大鵬は同い年の男より、遥かに多くの女を知り、多くの回数をこなしていたろう。
 だが37歳で不能になったことを考えれば、〝通算〟では、たいした数字ではない。こんなことにも神の配分を思う。20代の大鵬が好き放題にやりまくれたのは、37歳で不能になることが前提だったような……。



 最後に、毎度触れる「立ち合い」のこと。
 むかしの相撲を見るとうんざりする。この時期の立ち合いは、みな手を突かない。ひどいものである。

 特にひどいのが北の湖時代だ。みな中腰で立っている。あれでは稽古場のぶつかり稽古の延長である。これでは下位力士の変化が通じない。
 はたき込みや八艘跳びのような変化技は使いようがない。あれは仕切り線に両手をついて立つから出来ることであって、中腰で立つ相手に通じるはずもない。

 大鵬の時代も、北の湖時代よりはいくからましだが、いまの正しい立ち合いと比べたら、とんでもなくひどい。
 その意味でも、「むかしはよかった」ではなく、やはり今がいちばん正しいと思う。

 連勝に関しては、大鵬よりも千代の富士よりも、「いまの立ち合い」である白鵬のほうが価値がある。



 そういう「むかし礼讃=あのころはよかった」感覚が一切ない私だけど、だからこそ、「あなたが見た力士で、いちばん強いと思うのは誰ですか」と問われたら、迷うことなく大鵬の名を挙げる。

 こどものころからずっと私は、強い力士が登場すると、常に大鵬を基準に考えていた。「大鵬と比べてどうか」と。栃若時代から知っているが、柏鵬時代の味わいはまたちがっていた。あれはたしかな「あたらしい時代」だった。
 大鵬ほど強い力士はいない。時を時代を超えている。

 やすらかにお眠りください。合掌。(「大鵬の思い出」完)




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