−2005

05/3/21
 貴ノ花の病状
 『週刊現代』に二子山親方(初代貴ノ花)に関するレポートというか、ノンフィクションが載っていた。十数年間藤島部屋から二子山部屋を取材してきて、今はなにかの擦れ違いにより数年前から出入り禁止になっているノンフィクションライタの書いたもので、週刊誌に載る原稿としては最高高水準だった。
 どうにも二子山親方というと初代若乃花のイメイジが強い。彼が親方としても初代であり一時代を築いたのだから当然である。初代貴ノ花は藤島親方となって安芸乃島、貴闘力、貴ノ浪、若貴兄弟を育てた。このは藤島親方がいちばんしっくりくるのだが、それも親方株の売り買いで今では武双山が名乗っているのだから適切とは言えまい。かといって貴乃花は息子のものだし、この人をなんて呼んだらいいか困る。とりあえず彼の現役時の四股名、貴花で進める。なお息子は貴花である。
 すでに「もって一ヶ月」と言われてから気力だけで二ヶ月保っているような状態で明日にも訃報が届いて不思議でない状態のようだ。その前に書いておこうと筆を執った。

 貴ノ花は中学時代水泳選手として好記録を連発し将来のオリンピック候補だった。だが「水泳では飯は食えない」のセリフとともに角界入りする。今だったら水泳で飯が食える。北島なんて億の金を稼いでいる。時代が時代だったら貴ノ花は誕生していなかった。当然後に続く息子二人も。
 すでに弟を一人入門させてものにならなかった経験をしている若乃花は二十二歳年の離れた弟の入門を拒んだ。ちなみに若乃花、貴ノ花の父は結婚生活二十二年間のあいだに子を十人作り貴ノ花が生まれた年に四十三歳で亡くなっている。二十一歳の時から二年にひとり作ってきた計算になる。いいなあ、こういう人生も。天国の相撲桟敷で息子や孫の活躍を楽しめたことだろう。いや長兄の若乃花は父に早く死なれて弟妹を食わせるためにたいへんな苦労をしたらしいから気楽に語っては失礼か。

 入門に当たって兄弟の縁を切ると宣言した。竹刀で叩きまくる猛烈なしごき。他の弟子たちにも自分の弟扱いはしなくていいと宣言した。どれほどいじめられたかは貴ノ花の述懐に詳しい。兄弟子たちは親方に叱られしごかれた鬱憤を顔が似ているからと貴ノ花を殴って憂さを晴らした。そうして時が流れ、大関貴ノ花の初優勝。優勝カップを渡す若乃花の目に涙が光った。

 とここまでは知識としてもっていた。見てきた。『週刊現代』で読んでなるほどと関したしたのはこのあとのこと。週刊誌記者の書いたいいかげんな記事ではなく長年取材している人のものだけに説得力があった。
 二十二歳も年が離れていて同居したこともなく(物心ついたときはもう大関クラスか)兄とはとても思えない親方から、貴ノ花はそういう形の愛のしごきを受けた。父の愛を知らない貴ノ花は、二十歳で結婚して作った二人の息子が入門し親方という立場になったとき、かつて兄から受けたのと同じような形で息子たちに接した。竹刀が折れ、時には木刀ですら折れるほどの打擲だったという。そういう形でしか息子に接する方法を知らなかったのだ。それが愛情だと思っていた。

 一時は理想の家族とまで言われ、いまバラバラになってしまった一家を、長年取材してきたこのライタは、貴ノ花のそういう生い立ちによる愛情表現のへたさ加減という視点から語る。おそらく亡くなったら本にまとめるのだろう。奥さんだった憲子さんをやたら讃える視点がすこし気になった。それから推測するにそちらとは今も近しいのだろう。憲子夫人は当時から両親と義絶していた。今もそうである。こんな親子もそうはいない。初代若乃花と貴ノ花は二子山の親方株の譲渡を三億円で行い、これが後に脱税問題に発展する。角界の金銭問題が焦点を浴び初代若乃花の名誉は地に落ちた。兄弟間での三億円のやりとりだ。普通の兄弟ではなかった。そういう意味では彼らを「理想の一家」と讃えることには最初から無理があった。
 若貴の、大相撲史上初の、そして今後もまずあり得ない兄弟による優勝決定戦は明らかな無気力相撲だった。真相は貴乃花の片八百長であり若乃花はそれを知らなかったという。後に知って激怒する。貴乃花に兄に負けろと指図したのは父貴ノ花だった。それらの積み重ねですべてが瓦解していった。貴乃花の洗脳騒動もすなおに理解できる。双葉山が新興宗教に凝ったように勝負の世界にいる人は心のよりどころを求める。その傾向は小兵ゆえ怪我に悩んだ貴ノ花が現役時に何度も改名していることでもう顕れていた。息子がああなったのも自然の流れである。今も十代のころの明るい少年だった貴乃花を思い出す。彼を今の陰気なおっさんにしてしまったのはマスコミの責任も大きいが、やはり貴ノ花が父として不器用だったことが最大の原因なのだろう。

 貴ノ浪の断髪式に病院から駆けつけた貴ノ花は土俵に上がることにも難儀していた。呼び出しの手を借りよろけるようにしてあがった。あまりの痛々しさに場内は固唾をのんだ。ひどい容姿だった。浮腫んだ顔には死相が浮かんでいた。しかし誰もが驚いたのはその歩くことにも難儀している父を冷たい目線で無視する息子貴乃花だった。その数日後に貴乃花はFAXでマスコミに父の病状を報告し、手を握ると握り替えしてくることに親子の情愛を感じると書いた。誰もそれをほんととは思うまい。
 亡くなる数日前の私の父がそんな状態だった。もう昏睡状態なのだろう。きょうあすにも訃報が届く可能性がある。貴ノ花の人生はしあわせだったのだろうか。息子二人が横綱になるという歴史的快挙は今後もまず絶対にあるまい。息子のこどもたちは坊ちゃん嬢ちゃん学校に通い相撲には進まないようだ。貴ノ花が孫について語っていたのは、「頼むから絶対に相撲取りにはしないでくれ」だった。息子二人が力士になったために勝ち負けに一喜一憂し毎日胃の痛くなるような暮らしをしてきたのに孫にまでそんな思いをさせられたら自分は死んでしまう、と真顔で語っていた。息子二人が華やかに活躍する時代、貴ノ花はそれを誇らしく思うよりも、いつも薄氷の上に立っているようなつらさを感じていたらしい。そういうものなのであろう。それが彼なりの子を思う心だった。
 初代若乃花から始まった花田家の絢爛豪華な相撲歴史も横綱貴乃花引退で幕を引いた。病院にずっと付き添っているのは現在貴ノ花が交際中の四十代の女性だという。籍を入れていないから葬儀の場では弾かれてしまうだろう。憲子夫人は来ないのか。葬式は兄の初代若乃花がが仕切るのか。長男か。陰気な貴乃花は涙を流すのか。家族のしあわせとはなんなのだろう。わからん。優秀な子を作ったことで貴ノ花は男の中の男であり英雄だが、ひとりの父親としてしあわせだったのか。
3/25
 鵬の字流行り
 大鵬以後、鵬の字を使った活躍力士は海鵬だろう。今場所は好調で10勝をあげている。たぶんその間に何人かはいたのだろうが、すくなくとも幕内に定着してそれを意識させたのは海鵬で間違いないはずだ。しかも「たいほう」と響きが似た一字違いの「かいほう」だから目立った。私も取り組みを観ない内から凄い名前の力士だな、名前負けしないといいけど、と思ったものだった。実際に観たら期待したような逸材ではなく、お相撲さんらしいいい力士だったが、小柄で地味だった。大鵬部屋でもないのになぜこの名をと思った疑問は先場所調べて、父の「海鵬丸」という漁船の名から取ったと知って解けた。それにしてもあの史上最強の横綱に大鵬とはよくぞ名づけたものだ。大錦、小錦のように江戸時代から続く由緒ある名を継ぐのもいいけれど、こういうふうにかっこいい名前を一代で不動の大名跡にするのはもっとかっこいい。不動の名にしたらかかっこいい名なのだろうという言いかたも成り立つが、伝説の大鳥である大鵬の名はやはりかっこいい。

 その後、鵬の字の力士がすくなかったのはあまりに偉大な大鵬に遠慮したのだろう。いや、大鵬の強さにあやかろうとぞくぞくとデビュしたがみなつぶれていったのかも知れない。とにかく海鵬のように幕内に定着してそこそこの活躍をする力士はいなかった。海鵬なんて名も大鵬が伝説の力士になったからこそつけられたものだ。

 初場所で、今年は酉年だからと鳥の名の力士を取り上げていた。そのときも過去の力士にあまり鳥の名で活躍した人はいないと言っていた。そのことからも

たい‐ほう【大鵬】
[荘子逍遥遊「鯤之大不知其幾千里也、化而為鳥、其名為鵬」] 一とびに九万里ものぼるという想像上の大鳥。
鵬。おおとり。「―の志」(『広辞苑』より)


 はすばらしい四股名だが相撲歴史的にはさほどの名ではなかったことが判る。大錦、小錦はみな横綱になっている最高の四股名である。期待の力士につける。これを継いだ昭和のふたりがなれなかったのは皮肉だ。

 鳥の名をもった力士で最高なのは大鵬と紹介されたあと、現役の霜鳥の名が上がる。これは本名である。そうして海鵬、白鵬、露鵬と鵬の字をつけた三人が紹介される。大嫌いな露鵬だが大鵬部屋であり大鵬もロシアのクウォーターだったから、これらの中では流れ的には露鵬がいちばん正当な四股名になる。
 このとき幕下にいたのが今場所十両にあがり怪我で途中休場した千代白鵬である。この名はちょっとみじめだ。千代白鵬のほうがひとつ年上だし初土俵や四股名はどっちが先か知らないが、競走馬のサクラエイコウオーとグラスエイコウオーのような安易さで千代白鵬が気の毒になる。私なら今からでも改名すべきと思う。
 幕下に流鵬というのがいるときょう知った。しばらく鵬の字が流行りそうである。
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