2007
07/1/1
マイ唐辛子携帯



 東南アジアを歩いたことによって味覚が変った。唐辛子好きになった。
 あまり自覚はなかった。数年前、競馬関係の友人と焼き鳥を食べるとき、私がたっぷりと七味をつけているのを、彼が珍しそうに目を見張っていることで気づいた。焼き鳥に七味、あるいは一味をつけるのは自然だが、私は普通の人と比べたらたっぷりとまぶしていた。タイにはまる以前の私がそれを見たなら、「なんなんだ、こいつは」と思ったかもしれない。彼の視線が恥ずかしかった。そうして自分が並はずれた唐辛子好きになっていることを自覚した。

 自覚が遅れたのは場が少なかったからだ。私は焼き鳥にはこだわるので不味そうなところでは食べない。競馬関係の友人とは毎週のように飲むが府中でも中山でも店が決まっている。そこにはうまい焼き鳥がなかった。
 そのころ田舎住まいの私が食べる焼き鳥は、お気に入りである軽トラック屋台のおじさんの店だけだった。そこで買ってきてたっぷりと唐辛子をふりかけて食べる。ひとりである。隣に猫がいた。振りかける唐辛子の量が尋常でなかったとしても指摘する人はいなかった。

 妻が来日して一年以上暮らしたが泰族の妻からすると私の量は並だったのだろう、指摘されることはなかった。妻は私の唐辛子好きを好ましく評価しており、地元の名産である唐辛子を雲南から持参し、大柄な真っ赤な唐辛子を砕いて自家製の一味をたっぷりと作ってくれた。思うに真の唐辛子マニアはこのときから始まったのか。うまい唐辛子だった。

 いやしかし私はまだ一味よりも七味が好きで、料理には妻の一味を使ったが、焼き鳥の時にはハウスのこれを愛用していた。

 唐辛子に関して我ながら助かったと思うのは、市販の安製品であるこれで充分だったことである。わさびに関してうるさくなってしまっていたので、これで満足できる自分は気に入っていた。貧乏人がへたに味に目覚めるのは不幸である。世の中、高いものが美味いように出来ている。

 当時田舎の家で、そのおじさんのところのヤキトリで晩酌をするのは週に一度ぐらいだった。その一回でこの小瓶をほとんど使ってしまう。屋台で焼き鳥を買うことと、おじさんの軽トラが駐車して営業しているコンビニでこの唐辛子小瓶を買うことはペアの行為だった。いつも二瓶ずつ買っていた。たまに、さあ焼き鳥を食べながら晩酌をしようと思ったら唐辛子が切れていることがあった。すると私は焼き鳥が冷えるのもかまわず写真の七味を買いに出かけた。田舎であるからそんなこともクルマに乗って出かけねばならないのである。私にとって焼き鳥と七味は密接に繋がっており、七味のない焼き鳥を食べる気はなかった。

 わさびのない刺身を食べる気もないし、カラシのないシューマイ、ラー油のないギョーザにも興味はない。調味料の重要性をしみじみ感じる。
 たいしたことのない醤油ラーメンも胡椒をひとふりするとそれだけでうまくなったような気がする。当時高価でやりとりされたことをなるほどと思う。胡椒を使うことを覚えたら、それがないともう料理ではなかったろう。

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 自覚が遅れたもうひとつの理由は、酒を飲む友人がタイ関係に多かったことにもある。momoさんやらいぶさん、イチローさんは私を見て「すげえトウガラシ好きだな」と思っていたのだろうか。すくなくともそこには競馬関係の友人のような驚愕の視線はなかった。あったらすぐに気づく。それは私以上の唐辛子好きを大勢見ているだろうから当然だ。

(これはどこかに書いていると思うが)友人のヒロさんがバンコクで女に惚れたことがあった。イサーン出身のゴーゴーバーのおねーさんだった。27歳で初めてバンコクに出てきたというほんとにもう素朴な農家の人で、ゴーゴーバーの隅で地味な水着を来て、踊るというより恥ずかしげにただ体を揺らしていた。こういうタイプに日本人が惚れ込んでしまうのはよくあることだ。
 三人でタニヤの日本ラーメン店に行った。そこで彼女は初めて食べる味噌ラーメンに表面が真っ赤になるほど七味を入れ、おいしそうに食べた。上掲小瓶の半分ほどである。味噌ラーメンに唐辛子は常道だ。彼女の味覚は正しい。私もこれはもう三十年以上前から必ず入れる。それでもそれは異様な量だった。「この店にタイ人が多くやってきたら唐辛子代がたいへんだ」と店の主人に同情した。

 タイにいれば私は普通だった。田舎ではひとりで晩酌をしていた。タイ関係の友人と飲むときは目立たなかった。M先輩にごちそうになるときは魚関係が多く焼き鳥とは無縁だった。競馬関係の連中とは毎週のように飲むが、まずい居酒屋であり焼き鳥はなかった。
 そう考えてくると、競馬関係の友人(長年お世話になっているYさんのことなのだが)に驚嘆の目で見られ、自覚できたことはさいわいなのかもしれない。あれは新橋の店だった。

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 それから私は自分がかなりの唐辛子好きであるらしい(になってしまった)と自覚した。
 昨年半年ほど関わった会社の友人達と食事をするときなど、自分から「いやあ辛いのが好きでしてねえ」とあらかじめ口にしたりした。

 その同年配の友人にはラオス人の彼女がいて三人での食事だった。場所は「なか卯」である。
 脱線するが先日見たバラエティ番組で芸能人常識問題として「これはなんと読むか」とこの「なか卯」が出題されていた。昨年の会社に関わらなければこんな店にはいることはなかったし私は読めなかったろう。まず関わることのない店だった。私はあわただしい食事、混んでいる店での食事が嫌いなので吉野家のような店にはいることはない。「なか卯」というのもオフィス街の昼食時に混雑しているチェーン店だった。そう考えると半年のバイトはそのままだったら体験しないことをあれこれと教えてくれた貴重な期間だったのだとあらためて気づく。

 なか卯は大阪でうどんから始まった店らしい。腰があってうまいうどんだった。また行ってみたいものである。大のうどん好きである私は彼らと一緒に行くたびにうどんを頼み(と敢えて書くのは関東ではこの店でも牛丼の方が人気メニュだった)たっぷりと七味を入れて食べた。同年配の友人は私のようには入れなかったが彼女が辛いものがすきだったこともあり、自力でラオス語まで習っている人だったから、格別注視されることもなかった。
 そのとき私は卓上に置いてある七味が気に入らず、初めて「マイ唐辛子」を携帯したいと思った。


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 真っ先に思い浮かべたのがこれである。最近こればかり愛用している。スバゲッテイを炒めるときもこれをたっぷりと使う。おでんを煮込むときも使う。スーパーで買ってくる白菜の漬け物などにもたっぷりと振りかける。真っ赤な色が鮮やかでうまそうだ。辛いものが苦手な人は寒気がするか。とにかくもうこればっかりだ。切れないよう常に五袋は用意している。110円とはいえ消費量が多いのでたいへんである。大袋はないものか。中身はたった5グラムだからなあ、商売は儲かる。

 本来私は七味好きであり一味は嫌いだった。

 つまり、これが嫌いで、こればかり使っていた。
 かといって浅草等で売っている量り売りの本格的七味が好きかというとそうでもない。あれはたまに味噌汁にひとふりしたりすると香ばしくていい雰囲気だが、焼き鳥にたっぷりつけてたべるものでもない。それは当然であろう。なぜならあの七味は肉食をしている日本人が考えたのではないからだ。
 大の日本酒贔屓の人には「日本酒はどんな食事にも負けない」と肉を食べるときにも日本酒の人がいるが、あれはどうなんだろう。日本酒は肉を食うことを前提にして作られていない。私は肉を食うときはビールやワインの方がいい。

 一味嫌いはその唐辛子があまりうまくないからだった。写真の「雲南唐辛子」という真っ赤な輪切り唐辛子は、一味であるが充分にうまいのだった。
 言わずもがなだがこの場合雲南は関係ない。これがかりに「北朝鮮唐辛子」だったとしても私は同じ事を書いた。妻が雲南人であり私がその地に親しんでいることとこれを贔屓にすることはまったく関係ない。私は身びいきはしない。たまたま味覚が合ったということである。


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 加ト吉のこれ が大好きである。冷凍技術はすばらしい。かつてこんな本物の味を手軽に味わうことは不可能だった。腰のないゆで麺か乾麺しかなかった。これを使って作る自分のうどん以上にうまいものもそうはない。スーパーで買ってきたエビ天、イカ天ををのせたり、柚子を刻んで入れたりすると絶品である。

 とはいえ食事は家の中ばかりではない。外で食べることもある。
 駅の立ち食いうどんは基本としてゆで麺であるからまずい。でも最近はそれすらもピンキリであり、中にはなかなかうまい麺の店もあると知った。近辺のまずい駅をいくつも経験し、最近合格点の店をいくつか見つけた。さぬきうどんブームで今までのゆで麺とはまた違った腰のある玉を使ったうどん屋が「駅ナカ」に増えつつある。

 立ち食いうどんを食う奴が、ポケットから「マイ唐辛子」を出してふり掛けていたら異常だろうか(笑)。まだやったことはない。そのうちやるつもりでいる。


 朝鮮漬けの思い出

 唐辛子ネタのついでに朝鮮漬けの思い出を書いておこう。

 姉の嫁いだ家が北朝鮮からの引き上げ者の家だった。あちらではおおきな呉服屋をやっていたという。敗戦濃厚となってすべてを投げ出して帰ってきた。姑は後々までこのことに関する戦後補償を口にしていた。
(それは当然として、なんでこの一家がアサヒ新聞を取っていたかがわからない。今もアサヒである。姉は感化されてすっかりアサヒ的なヒトになってしまった。
 と書いて赤面する。当時生意気盛りの高校生の私はアサヒシンブンを崇拝し、我が家の新聞をアサヒに替えてもらったのだった。そのころの私は中国人や朝鮮人に会ったら土下座して詫びなければならないという日教組の教育に染まっていた。すなおに反省の心を持って書かないと、まるでむかしからアサヒの嘘を見抜いていたようなことになる。恥ずかしい。猛省。)

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 餘談ながら、よく「蒋介石総統の恩」という言いかたをする。いやむかしは頻繁にした。常識のようでもあった。
 共産党に追われ本土から逃げてきた蒋介石は、タイミングよく日本の敗戦があったものだから苦労せず台湾の主となった。その蒋介石が敗戦の民である日本人を皆殺しにせず帰国させてくれた、なんとありがたい、その広い大きな心に感謝する、という発想である。むかしはほんとにどこでも耳にしたものだ。

 時が流れ今では正しい解釈がなされている。日本人が営々と築き上げた台湾という財産を蒋介石はなんの苦労もなく丸々手にした。金銀財宝はもとよりインフラ等すべてである。この時点で世界一の金持ちになったと言われている。現在では「広い大きな心」ではなく、日本の財産を手にして世界一の金持ちになったことに浮かれ、さっさと日本人を追い出して縁を切りたかった、自分のものと確定したかった、というのが定説になっている。
 朝鮮の場合も日本人の遺した金銀財宝や、インフラ、教育政策が、のちの南北朝鮮にとっていかに大きな功績があったかは言うまでもない。それは李氏朝鮮時代の庶民の生活と比べれば一目瞭然である。

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 姉の嫁いだ家では毎年冬になると朝鮮漬けを作った。それまでの主役は田舎に住む祖母であった。戦争で亭主を亡くし看護婦をしながら息子を大学まで出した姑は最初からこの仕事には関わっていなかった。祖母から見て、長女の長男の嫁ということであり、以後姉がその主役になった。季節になると祖母が田舎からやってきて姉を指導した。姉が25,姑が50,祖母が70ぐらいのときか。そうして姉は毎冬、親戚に配る分を含め、いくつもの大きな樽に朝鮮漬けを漬ける役目をしょった。
 私は当時高校生。その樽のひとつが我が家にも運ばれてきて私はキムチなるものを初めて経験した。

 初めて食べたそれは何と言ってもニンニク臭かった。なにしろ運んできた義兄のクルマがしばらくのあいだニンニク臭さが抜けないぐらいだった。
 高校の教員をしていた義兄が初めて買ったクルマはホンダのN360だった。それに義兄と姉と姑が乗って我が家にやってきた。子供が出来てサニーになりローレルになり、高校の校長になったときはセドリックだった。生真面目な小市民の年譜通りの人である。

 白菜のあいだにニンニクやニンジン、コブ、その他多くの具が入っていたが、祖母から伝えられたというその朝鮮漬けのいちばんの特徴は秋刀魚が入っていることだった。その地域(京城の近く)のキムチの特徴らしい。
 そうして毎冬届く朝鮮漬けは我が家における冬の風物詩になった。姉にとっては毎冬の重労働だった。

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 さてこの朝鮮漬け、致命的な缺陥があった。まず製作者の姉、その亭主が辛いものが苦手だったのである。さらには子供が二人生まれた。その娘達が幼稚園、小学生にあがるころにはその味に合わせる。(子供達は臭いといって食べなかったように記憶しているが。)
 よってこのキムチにはトウガラシが入っていなかったのである。いくらかは入っていたのだろうか。とにかくまったく辛くないキムチだった。当時の私は今のようなトウガラシ狂にはなっていない。それでもそのキムチが致命的に何かが闕けている物足りないものであることはわかった。
 姉が毎冬どれほど苦労して漬けていたかはよく知っているが、後に東京に出て本物のキムチをピンからキリまで味わうキムチ好きとしては、どうにもこれがおいしかったとは今も言い難いのである。それこそ「わさび抜きの寿司」のようなものだった。

 我が家においても、嫁いだひとり娘がそれだけの苦労をして毎冬作るものだから、父母は楽しみに待ち、礼を言って樽を受け取っていた。お返しもしていた。だがその期待度は年ごとに落ちていったように思う。朝鮮漬けというものがそれに馴染んでいない田舎のじじばばにとってさほどおいしいものでなかったことは想像に難くない。毎冬樽の中のそれは食べ残り酸っぱくなっていった。
 といってもしもそれがトウガラシたっぷりの本物だったなら私の父母が楽しめたかどうかとなるとわからない。辛すぎると敬遠したように思う。父母も辛いものが好きなわけではない。
 東京に出て本物のキムチを知った私は、たまに帰郷して辛くないそれを口にするたび、こんなのは朝鮮漬けじゃないと思ったが、姉の苦労を思えばさすがにそれは口に出せなかった。

 今もあれがトウガラシたっぷりだったならどういう味だったのだろうと思う。ぜったいにうまかったはずだ。期待と想像でよだれが出る。手間暇をかけた豪華な朝鮮漬けであった。そもそも祖母(当時70前後、98まで生きて大往生した)が京城で漬けていたときはどんな味だったのだろう。そのころからトウガラシ抜きだったのか? そんなことはあるまいと思うのだが……。

 姉は今年も漬けたのだろうか。父の死後、交渉がないので知らない。数十年にわたって送り続けてきた親戚縁者もみな鬼籍に入った。若嫁だった姉も孫のいる齢になった。本来ならお袋の味として真っ先に贈る嫁に行ったふたりの娘もそれを好まなかった。手法を習おうともしなかった。
 もう止めたように思う。姉はやっと長年のくびきから解放されたのではないか。もしも今も姉が作っていたとしても、もうすぐ京城からの伝統の味が消えるのはまちがいない。後継者がいないのだから。


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