ヴェジタリアンへの長くて遠いいいかげんな道

2008夏~



始まり
 そういう傾向は割合早いときからあったように思う。
 私はこどものときからプロレスや大相撲が大好きだった。大きくて強いものがすきだった。だがかといって自分がそういうものになりたいとは思わなかった。そういうものになりたくはないが、なりたいものはあった。仙人である。私は筋骨隆々のプロレスラーにはなりたくはなかったが、そのプロレスラーを指先一本で動かなくしてしまう仙人にはなりたかった。それが私の「最強への道」になる(笑)。

 肉を食ってバーベルで鍛えボディビルダーのような躰になることは興味がなかった。かといってそういう苦しいトレーニングを嫌うのではない。中国の山奥で仙人になるための修業が厳しくても、それに耐えて頑張る気持ちはあった。肉に興味はないが薬草には興味津々だった。アメリカのジャクフードより中国の山奥に憧れた。

 学生時代、私と同じく大のプロレスファンであった後輩のIJとこの話をしたときのことは今も覚えている。IJは「へえ、なるほど」と珍しいものを観るように目をした。村松友視さんは「男はみんなプロレスラー」と言った。男はみんなプロレスラーなのであるが、どういうプロレスラーになりたいかはまたちがってくる。IJはすなおに強く逞しい男に憧れた。その後彼はそういう形で体を鍛えている。彼には強い男にはなりたいが、それが現実的なアメリカ型ではなく中国の仙人という私はおもしろかったのだろう。



 というようなことで、私は肉をばりばり食って、やる気満々になって、という感覚は若い頃からあまりなかったのである。
 いまヴェジタリアンになりたいなあと、半端な試みをしているのだが、流れとしては若い頃から一貫していたことになる。

こども時代  私は茨城県の生まれ育ちだ。茨城の場合「肉」と言ったら「豚肉」になる。牛肉を初めて食ったのは上京して大学に入ってからだ。まったく無縁だった。
 鶏肉も普通だった。私が小学生のとき、中学生の兄が鶏をつぶした。もちろん親の許可を取って、我が家で飼っていた鶏をつぶして食うということになり、それに兄が志願したのだ。
 5歳年上の兄は、世間的におとなしく穏和なこどもと思われており、次男の私がきかん坊のように解釈されていた。しかし兄弟の感覚で言うと、兄はおとなしそうでありながら動物の解剖等が好きであり、私はそういうことが大嫌いだった。このときも兄は鶏を殺すということに快感を覚えていたようだ。後に兄はウサギが死んだときも嬉々として解剖し、皮を剥いで座蒲団カヴァーを作っていた。長じて医薬品会社に勤め、ガンの開腹手術に立ちあったとうれしそうに語るひとになる。

 鶏の首を抑えつける。手伝わされる。こども時代の5歳上の兄には絶対服従である。鉈で兄が鶏の首を切った。頭を切りとられた鶏は、首から血を噴水のように噴きあげつつ数歩走って倒れた。こども時代の鮮烈な思い出である。
 私はケンタッキー・フライドチキンが好きなのだが、いつもああいう形の鶏肉を食うたびに、首を切られる鶏を思い出す。

 とはいえ肉はうまい。こども時代の私は、肉が御馳走だった時代のふつうのこどもとして、肉という御馳走が食卓に並ぶのを楽しみにしていた。
 つまり、いま私は肉を遠ざけ菜食主義になりたいと思っているのだが、それはそれなりに肉を食い、食えるような環境になり、あらためて生じてきた発想であることを確認しておかねばならない。



 近所では豚を飼っている家も多かった。いや近所ではない。近所で豚を飼われたら臭くてたまらない。何キロも離れた家だからよかった。
 そういう家の飼育現場を見せてもらうと、豚という殺されるために生きている動物に対する感慨が浮かんだ。豚は一度に10匹以上の子を産む。子が母の父に縋る姿はいつみてもあいらしいものだ。とはいえ残飯で育てる豚は汚く臭い。屠殺される(いま屠殺ということばは禁止用語で辞書登録しないと使えない)現場を観ていないので、さほど感情移入はしなかったが。

 こどものころ、私はふつうに肉を食っていた。当時も今も好き嫌いは一切ないし、すなおに肉はうまかった。それでも心の片隅に、そういう「人間というもの」をいやだなあと思う気持ちはあった。このころ食物連鎖ということばを学んでいる。草を草食獣が喰い、それを肉食獣が喰い、肉食獣は土となって草に喰われるという連鎖には納得できた。そんな中、人間だけが快楽のために肉を食っていた。
 さいわいだったのは田舎の学校ゆえ屠殺場の見学とか、どこかの小学校でやったような「豚を飼育して殺す(売っただけだが)」のような進んだ教育がなかったことだ。こどものころあれをやられたら、私は肉を食えないこどもになっていた。喰えないことと、喰えるし、好きだけどやめるのは根本的にちがう。

学生時代  東京に出て生活が変る。酒を覚えた。この当時よく食っていたヤキトリは正しくは「ヤキトン」だろう。豚だ。煮込みというものもこのころに知った。豚の内臓である。お金があるときの贅沢に焼肉を知る。これは牛肉。
 前記、ケンタッキー・フライドチキンもこのころ知っている。鶏肉のまともな料理を知らなかったので(ケンタッキー・フライドチキンをまともな料理と言ったら怒る食通もいるだろうが)なんとうまい鶏肉だろうと思った。

 田舎の食生活は貧しかった。それは経済的な貧しさとは関係ないように思う。父は小学校の校長だったし家は土地持ちだったから決して貧乏ではない。謙遜しても中の上以上だったろう。しかし母が料理嫌いのうえ、父はみそ汁と納豆と漬物があればいいという粗食のひとだったので食卓はさみしかった。肉料理とは縁がなかった。
 豚カツや親子丼のようなものも東京に来てからやっと日常的になった。

 二十代の私は肉が大好きだった。こどものころ自由に喰えなかった分、好き勝手に喰える環境がうれしく機会さえあれば喰っていた。牛の生肉刺身であるユッケを初めて喰い、大好きになったのもこのころである。

目覚め
種類  ヴェジタリアンにもいろいろあると知った。
 とりあえず私がなりたいのは牛、馬、豚など四つ脚動物、哺乳類を食わないヴェジタリアンだ。そういう限られたヴェジタリアンの分野?もありのようだ。鶏は許されるらしい。これならすぐに成れるからと今、その路線を歩んでいる。

 問題は魚だが、いまのところこれは許してもらうことにしている。魚がないと私は食の楽しみがなくなってしまう。
 とはいえ魚でも、あの「生け作り」「姿作り」ってのは悪趣味だと思う。「まだ動いている」なんてことに何の意味があるのか。
 柳葉魚のような小魚を丸かじりするときも罪の意識を覚える。

 魚の生け作りでもイヤなのだから、牛、豚、羊、鶏の丸焼きなんてのはもうダメだ。ただし、肉好きということで切り身の焼肉しか知らない若者には、姿を残したままの丸焼きから切りとって食うスタイルは、いい勉強になるだろう。



 完全な菜食主義者(ヴェジタリアンにも種類によりいろいろ呼称があるようだがそういうことにはあまり興味はない)は、動物の肉はもちろん鶏卵のような卵類も食わない。これはまあ当然だ。卵は動物その物だから鶏肉をやめたら卵もふくまれる。

 さらにはバッグや靴からも動物の皮を排除するという。これはすごい。私は革靴、皮バッグは好きだからこの実行はキツいなあと思う。ただそれでも気に入った牛革のバッグを持って歩くとき、「これは殺された牛の皮だ」と思うことは多々あった。特に1着だけある革ジャン(韓国に往ったとき安いので記念に買った)は、着るたびに牛の皮を着ていると意識せざるを得ず(だって重いから)ここのところ着なくなってしまった。これはまあ自然の流れで、重い革ジャンのような衣類は、事故のときに役立つバイクライダー等を除けば、特別に「おれは皮の衣類が好きだ」という意識でもない限り、街の中で着るには意味がないのである。私は1着も持っていなかったので韓国で記念に買っただけで、革の衣類を生活から排除することは簡単だ。

 しかしまあミンクやテンの毛皮コートを着る連中ってのは悪趣味だと思う。極寒の地に暮らすひとにとってはあれは最高の防寒着だから生活必需品だけど、冷煖房完備の都会で着る毛皮にはまったく意味がない。高価という権力のアピールだけだ。ヤクザが無意味にデカいクルマに乗るように、悪趣味にもいろいろあるが、都会の毛皮着用はその中でも最悪だ。それはファーと呼ばれるアクセント衣類であっても思う。死んだ(殺した)動物の毛皮を意味なく衣類にするのは気味が悪い。



 矛盾するようだが、カヌー冒険家の野田知佑さんが死んだ犬のガクを毛皮にして着用している感覚はわかる。これには賛否両論あったが野田さんは一緒に旅をし冒険をしたガクが死んだとき、その皮をベストにして着用している。私には出来なかったし、また機会があったとしても出来ないけれど、16年共に暮らした愛猫の毛皮があったなら、やはり野田さんと同じようにどこに行くにも一緒だろう。



 菜食主義者には、さらに厳密に「植物の命を奪わない一派」もいるのだとか。つまり果樹のようにもぎって食べられるものだけを食し、根っ子からひき抜いて命を奪う形では食わないのだ。それで食糧は足りるのかと心配になる。米や麦は例外にしているのだろうか。これは私には無理だ。

 ともあれ今、「四つ脚動物は食べないヴェジタリアン」に近寄りつつある。
 牛は前々から避けたかったので牛丼も焼肉も食べなくて平気なのだが、とんかつやカツ丼はたまに食べたくなって困る。
 いまのところ鶏肉はいいことにしているので、肉を食いたくなったら鶏肉なのだが、健康食として勧められるように鶏肉は脂身がすくない。肉の旨さとは脂身なのだとなしみじみ思う。

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 Wikipediaから下の一覧をもらってきた。

可食物による主なベジタリアンの表
名前 動物肉 魚介類甲殻類 乳製品 蜂蜜
ラクト・オボ・ベジタリアン ×
ラクト・ベジタリアン × ×
オボ・ベジタリアン × ×
ヴィーガン × × × ×

 そうか、乳製品とハチミツがある。どのジャンル?も魚貝類はだめなんだな。でも魚貝類がだめならぜったい卵はだめにすべきと思う。孵化するときに見ればわかるけど、あれは動物そのものだから。肉を食わなければ乳製品はOKとする感覚はわかる。恩恵として受けとめるのだろう。ハチミツもわかる。最後のいちばん厳しいヴィーガンというひとたちは何を食うのだろう。
 私もいずれ鶏肉もやめるから、そのとき卵もやめよう。その代わり乳製品とハチミツはよいことにする。

歴史  ヴェジタリアン発祥の地はイギリスであり、欧米諸国の中ではパーセンテージでもイギリスがいちばんなのだと知る。ふうむ、そうなのか。

 Wikipediaから引用。

インドでは国民の31%がベジタリアンである。その他にアジアでは台湾が10%と多い。欧州ではイギリスが最も多く、2000年の調査では国民の9%がベジタリアンである。アメリカ大陸では、2000年の調査では、合衆国の成人の約2.5%が肉類や魚類を一切摂らず、ベジタリアンとしての食生活を維持している。同年の調査でカナダでは成人の約4%がベジタリアンである。





この壁紙は
http://www.aoiweb.com/aoi2/back4-4.htm
より拝借しました。

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