2017

藤井聡太・考

撰ばれたひとの持つ〝運〟についての考察
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藤井の持つ生来の強運について                 「愛知県生まれ」という強運──東京対大阪という歴史の挟間で
●「愛知県生まれ」という強運
──の前振りの「東京対大阪」

▼出生地による期待値

 藤井は愛知県瀬戸市の生まれである。ご両親はこちらのかた。隣には祖父母が住んでいる。このおばあちゃんが聡太くんに将棋を教えたことが始まりになる。

 さて、愛知県のことを書く予定が、WWWFやセントライトにまで逸走してしまったので、阪神大賞典のオルフェーブルのように今から本題で追いこむ。



 将棋界には今も昔も「東と西」、「東京と大阪」がある。木村義雄と坂田三吉の時代から。いやきっともう、もっとむかし、江戸時代始めに「将棋名人位」というものが決められたときから、大阪人は悶々としていたのだろう。

 将棋連盟の歴史はこちら。
 将棋の名人についての歴史はこちら



 将棋連盟の歴史について、冒頭部分をすこしだけコピペして進行。

 将棋連盟の沿革

1924年9月8日 - 東京で専門棋士を擁していた東京将棋倶楽部(関根金次郎派)・将棋同盟社(土居市太郎派)・東京将棋研究会(大崎熊雄派)の三派が合同して東京将棋連盟を結成。名誉会長に関根、会長に土居が就任。

1927年 - 関西の棋正会(木見金治郎派)も合流して日本将棋連盟となる。

1935年 - 第1期名人戦が開始するも、神田辰之助七段の参加権を巡った内部対立が起こり、花田長太郎・金子金五郎両名が除名され、後を追って退会した棋士たちと革新協会を設立する(神田事件 )。騒動の責任を取って幹部は総辞任し、会長不在となる。

1936年 - 将棋連盟と革新協会の2団体を統一し、将棋大成会となる。神田も名人戦に参加。
1937年 - 第1期名人戦が終了。木村義雄が実力制の最初の名人の座に就く。

1947年 - 名称を日本将棋連盟として、会長に木村義雄が就任。




▼名人位を巡る東京対大阪の確執──の流れ

 将棋の名人位は、慶長17年(1612年)に神君家康公が家元の棋士に扶持を与える「将棋所」を設け、初代・大橋宗桂が一世名人を名乗ったことから始まる。当然、名人位を世襲する大橋家伊藤家も江戸にある。

 上にあるように、1927年、昭和2年に、東京と大阪の将棋組織が合併して全国的組織の日本将棋連盟が誕生。ここでやっと「日本一を決める組織」の下地ができた。

 十三世名人関根金次郎が世襲ではなく「実力性名人制度」を打ち出す。英断だった。

 その前、この関根名人に挑み、最強の座を争っていたのが大阪の阪田三吉
 ゃっと念願の実力で成れる名人制度ができたが、関根に代わって覇者の座をあらそう関根の弟子の名人候補・木村義雄は32歳、阪田はすでに67歳、老いていた。両者の対決「南禅寺の決戦」は木村の勝ち。阪田はもう全盛期ではなかったが、逆に言うと67歳にしてなんと強かったことか。最盛期ならどうなっていただろう。



▼木村名人の東の時代

 実力性第一期名人を決めるリーグ戦は9名で行われた。
 東の土居市太郎、金易二郎、花田長太郎、木村義雄、大崎熊雄が関根門下。金子金五郎は土井門下、関根の孫弟子になる。西の代表は木見金治郎。この7名に、あれやこれやあって、西の神田辰之助(阪田の弟子だったり土井の弟子だったりする)と東の萩原淳(土井の弟子。関根の孫弟子)の2名を新八段として加えた9名のリーグとなった。東が7名、西が2名と偏っている。この辺にも大阪の不満はくすぶっていたろう。
 最初の7名に西の神田を八段にして参加させるかどうかで揉めた際、関根門下の花田と金子が神田の味方をして連盟を脱退している。そういう観点からは、東西の勢力は7-2ではなく、5-4で拮抗していたとも言える。統一機構ができるまで、できてからしばらくは、どこもかしこもこんなふうに揉める。これらの揉め事の裏には、それぞれの棋士を応援するアサヒシンブンとマイニチシンブンが絡んでいた。日本の歴史を歪ませているのもそうだが、新聞とは罪深いものである。当時は今よりももっともっと影響力があったのだろう。

 1937年(昭和12年)、2年半のリーグ戦の結果、木村義雄が実力性の第一期名人となる。木村は後に名人位を五期防衛(それが条件)して実力性の第一期永世名人・十四世名人となる。

 木村名人に挑戦する第二期リーグ戦には阪田も参加したが挑戦者には成れなかった。もう70だ。ここで阪田は表舞台から消える。没したときはほとんど記事にもならなかったと言われている。阪田の人気は、後の戯曲や歌「王将」によって復活する。阪田は被差別部落出身の文盲である。



 ここから大阪の悲願は、阪田が成れなかった名人位だ奪取となる。打倒木村を目ざすのは、上の沿革にもある大阪の名門・木見金治郎門下の升田幸三大山康晴に託された。

 1937年から五期連続防衛して十四世名人となった木村は6期目に塚田正夫(花田長太郎門下)に敗れる。塚田が実力性第二代名人となった。まだ関東の時代。その塚田に西の大山が挑戦する。塚田防衛。
 塚田から木村が奪還。復権である。大山、升田の挑戦を退ける。まだまだ関東の時代。

▼大山・升田の西の時代──打倒木村

 1952年(昭和27年)、ついに大山が木村を破って名人となる。大阪悲願の「名人位の箱根越え」である。木村は「良き後継者を得た」の名言で引退。
 その大山を破って兄弟子の升田が名人になる。史上初の三冠独占(名人、王将、九段)を達成する。大山が升田から名人位を奪還し、今度は大山が三冠を達成する。それからの長い長い大山の無敵時代。五冠王。大阪のファンは我が世の春だったろう。将棋イコール大山だった。しかしあまりの勝ちっぷりと、素人にはわかりづらい強さで、将棋人気が高まったとはいい難い。人気は大山よりも素人にもわかりやすいカッコイイ将棋を指す升田にあった。木村の東の時代に続き、大山が初の「西の時代」を築いた。



▼中原の東の時代──打倒大山

 1972年(昭和47年)、中原が大山から名人位を奪取する。史上最年少、24歳の名人誕生だった。20年ぶりに名人位が箱根を越えて東京にもどってきた。ここから中原による東の時代が始まる。

 中原の師匠は高柳敏夫、高柳の師匠は金易二郎、その師匠が関根金次郎、中原は関根金治郎名人の曾孫弟子になる。関根の曾孫弟子が無敵大山から覇権を東に奪いかえした。

 無敵・大山、天才・升田の二枚看板で長年我が世の春を謳歌した大阪ではあったが、大山の天敵・中原が登場して一気にタイトルを東に奪われた。大山はあいかわらず強く、勝ちまくっているのだが、中原にだけは弱い。中原は五冠王大山のように、タイトルを独占してゆく。西の期待、内藤(阪田の孫弟子)、有吉(大山の弟子)も活躍し、一時はタイトルを奪ったりしたが、中原時代を瓦解させるだけの力はなかった。東は米長、大内も活躍を始めた。〝将棋界の若き太陽〟中原の強さの前に、西のファンは切歯扼腕する。



▼谷川という西の期待──打倒中原
 中原時代はまだまだ続くと思われた頃、西に「史上二人目の中学生棋士」が誕生する。谷川浩司である。ついにあの中原から名人位を奪う可能性を秘めた西の期待の星が登場した。しかも師匠は若松政和、その師匠・藤内金吾は阪田三吉の一番弟子、愛弟子である。伯父師匠は中原打倒が叶わなかった内藤國雄。まさに阪田の悲願を叶えるために、中原打倒のために生まれたような存在である。升田・大山が西の将棋連盟を率いていた木見金治郎一門の流れなら、谷川は、関根金次郎十三世名人、木村義雄と闘い、名人に手の届かなかった阪田三吉の系譜である。西の期待を一身に背負った谷川は、順位戦を順当に昇段し、二十歳の誕生日前にA級八段となる。翌1983年、挑戦者となり、史上最年少21歳の名人となる。1972年に東に渡った名人位を12年ぶりに西に取りもどした(1977年は契約問題で名人戦非開催)。



──ひふみんの立ち位置──

 ここでまた「史上初の中学生棋士──神武以来(このかた)の天才」と呼ばれた加藤一二三九段の立ち位置を考える。

 加藤は福岡出身、学校は京都の高校卒業、東京の早稲田大学中退、である。師匠は西の南口繁一九段だが後に東の剱持松二九段に替えている。これまた晩年になってからの師匠交代という奇妙な話だった。南口批判は聞いていてあまり気持ちのいいものではなかった。
 九州出身で、西の奨励会出身だが、史上初の中学生棋士となり、今も記録である毎年昇段による「18歳でA級八段」となってからは、東京在住の「東の人」である。といって「東の人」とも思えない。
「在住」で言うなら大山名人も東京に居を構え東京で活動したけど、感覚的にはいつまでも「西の人」だった。故郷の倉敷を大切にし、「大山名人杯・倉敷藤花戦」もある。後に青森を第二の故郷として深く関わったが(行方尚史が弟子となるのもこの流れだ)、大山が「西の人」であることに異論はなかろう。

 将棋には、根本にこの伝統的な「東西対決」がある。それを「つまらん」「無意味」「時代錯誤」と感じるひともいるかも知れない。私は大好きである。競馬の世界のそれも好きだ。お笑いも。
 東西対決、端的に言えば「東京対大阪」だ。これってやっぱりおもしろい。よって、この感覚を肯定して話をすすめる。加藤にはこの東西感覚の要素が稀薄なのだ。これで「九州色」が強かったらそれはそれでおもしろいのだが、それもない。神武以来の天才は狭い日本の東や西なんて感覚を超越しているということか。

 18歳でA級八段となった加藤は二十歳で大山名人に挑戦する。神武以来の天才が大豪大山に挑戦ということで大きな話題になったことだろう(こどもだったので知りません)。だが定番の東西対決という図式では語れないし、出身地からの西西対決という感覚でもない。新旧対決という形だったか。とはいえ大山もまだ37歳である。

 加藤は42歳で悲願の名人位に就く。二十歳の初挑戦から22年、三度目の挑戦、分の悪い中原から大激戦を制しての奪取だった。私はこのころ熱心な将棋ファンだったけど、このときの思いは、ただひたすら中原さんが負けて落胆しただけだった。加藤がここで名人になることに何の意味があるのだろうと思った。とてもこれで時代が代わったとか、加藤時代の幕開きとも思えなかった。
 この年A級に昇った谷川は、来期の中原名人への挑戦を夢見ていた。幼い頃から中原打倒を期待され、期待通りに育ってきた。だが目の前から中原名人は消えてしまった。どれほど落胆したことだろう。私は当時『将棋世界』と『近代将棋』を愛読していたけれど谷川の発言を記憶していない。Wikipediaの谷川の項目には以下の文がある。

谷川は、この最終局の解説会(東京・将棋会館)で解説役を務めていた。結果は加藤の勝ちとなったが、谷川は当時の心境について「加藤先生には申し訳ないが、中原先生に名人のままでいてもらわなければ困ると思っていた。(解説役を務める立場なのに)加藤先生の勝ちとなったときには呆然とした。」との旨を語っている。(別冊宝島「将棋王手飛車読本」)

 翌年、谷川が挑戦者となって勝つ。21歳の史上最年少名人である。加藤の名人は一年のみで終る。



 名人となった谷川の「一年間、名人位を預からせて戴きます」という謙虚な一言は話題となった。それは自分がまだ名人位に価するほどの棋士ではないという谷川の人柄から出た名言だが、もうひとつ、「中原から奪わなければ名人ではない」という意識も大きかったろう。それこそ小学生の時から、中原から名人位を奪うことを、自身も周囲も期待して来たのだから。
 加藤名人、谷川挑戦者の名人戦は、始まる前から誰もがもう谷川乗りだった。神武以来の天才と呼ばれ、昨今は「ひふみん人気」の加藤だが、さして人気のある棋士ではなかった。

 奨励会時代から「中原を倒すのはこれ」と言われていた谷川が期待通りに名人になった。あさはかな私はこれで中原時代はもう終ってしまうのだと思った。だが中原は加藤に名人位を奪われて三年後、谷川から名人位を取りもどす。その三年後、谷川は宿願だった「中原から奪う名人位」を叶える。谷川が「名人になった」と実感したのはこのときだったろう。それは本人もそう述懐している。今度こそ中原と谷川の力順位は決定的になったと私は思った。それは私だけではなく多くの中原ファンの気持ちだったはずだ。なのに中原はこの二年後、もういちど谷川から名人位を取りもどすのである。感涙ものだった。43歳での復位である。このときインタビューで中原の言った「同世代のひとたちに、すこしは勇気をあたえられたのではないか」のような発言は心に染みた。(心に染みた名言が「のような」はなさけないが、ま、大意にまちがいはない。「元気」だったかな、「励ましになった」だったかな、そういう意味です。)


▼打倒谷川を早めた谷川の価値──羽生世代の擡頭
 21歳で史上最年少名人になった谷川は、大山や中原のように長期政権を築くはずだった。大山や中原よりも長い政権になるはずだった。ところが短命に終る。




















板谷四郎、板谷進 1974年 板谷進の弟子が杉本昌隆 板谷四郎の弟子が息子の板谷進、石田和雄、石田の弟子が佐々木勇気
木村義雄、木村義徳 1978年



木村の弟子に花村元司














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この壁紙は
http://www.geocities.jp/shogi_e/haikei/backtop.html
より拝借しました。

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