2017

藤井聡太・考

撰ばれたひとの持つ〝運〟についての考察-2-1
    ←ひとつ前──藤井聡太・考──その1-書き始めるまでの長い道のり
藤井の持つ生来の強運について                 「愛知県生まれ」という強運-
●「愛知県生まれ」という強運
──の前振り

▼出生地による期待値

 藤井は愛知県瀬戸市の生まれ育ちである。ご両親も愛知県のひと。将棋の勉強も愛知県で、した。これがまずは強運だ。藤井聡太物語と愛知県は切っても切れない重要事だ。
 といっても将棋に興味のないひとには──将棋に興味のないひとがここを読んでいるとは思えないが──なんのこっちゃとなろう。先ずはその辺から説明して行く。これってけっこう、いやかなり重要なことだと、いやいやこれは、私見ではなく絶対的重要事だと思っている。藤井聡太は愛知県抜きでは語れない。

 そういや私は瀬戸市に行ったことがない。あの瀬戸物の瀬戸市である。聡太くん効果で瀬戸の観光客も増えるか。聡太くんが瀬戸市の名誉市民になるのはいつだろう。今年か来年か。市はすぐにでもあげて「聡太くん効果」を期待したいところだけど、聡明なご両親が鄭重にお断りするパターンだね、きっと。



▼加藤九段を枠外とする理由──日本初の三冠馬セントライト

 藤井以前の四人の中学生棋士は、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明である。

 最初の中学生棋士であり、藤井に破られるまで史上最年少棋士だった加藤は福岡県出身、京都の高校を出て、東京の早稲田大学中退である。この福岡・京都・東京のあたりが、今回の「愛知県という強運」のテーマにつながる。

 加藤一二三九段は、文句なしの大棋士である。いかに偉大な棋士であるかは、このWikipediaを読んでもらうとして。



 だがこれから語る「愛知県の重要性」というテーマに、加藤はあまり関係ないので枠外とする。以下は加藤を枠外とする説明になる。

 加藤は今「ひふみん」の愛称で人気者だ。ふだん私はテレビを見ないけれど、関心のあることをネットで見つけるとすぐに確認するので、マツコ・デラックスの番組での加藤は早い時期に観ている。
 加藤がいかに畸人で奇妙かはNHK杯戦を観ているひとなら誰もが知っている。あれは昭和40年代末か、もう50年代だったか、勝負が終盤に入り、激昂した加藤が、顔を真っ赤にして、立ち膝になり、何度もズボンを引きあげ、咳払いするあまりの滑稽さに、記録係の蛸島さんの笑いが止まらなくなってしまったことがあった。時計は山下さんか。あれはツボにはまったらたいへんだ。口を抑え、必死に笑い声を封じようと涙を流して苦しむ蛸島さんと、その前で立ち膝でズボンをずりあげる加藤。いまも思い出す。

 マツコの番組を見て感じたのは、芸能人による「変わり者老人いじり」ということだった。加藤を知らないひとには「ヘンなじいさん」として、とてもおかしかったことだろう。アクションもへんだし、体形も愉快だし、声もかん高い。クイズ問題を出題すると言って、似てもいないモノマネや形態模写でヒントを出しつつ、ついでに答も言ってしまい、爆笑されていた。

 私はすなおに笑えなかった。加藤が、前歯の缺けた口を開けて一所懸命にしゃべりつつ、笑い者になっている。棋士・加藤一二三を好きではないけれど、あれだけの実績のあるひとが、将棋を知らない連中に笑いものにされているのを見るのは、将棋ファンとして愉快ではなかった。

 ところでこの加藤の「歯缺け」が長年私は不思議だった。前歯がないことは貧乏人の証左である。みっともない。白人国だったら仕事にも差し支える。だが前歯には保険が利かないから低所得肉体労働者はみなもう前歯が缺けている。三十代四十代でも前歯のないのがいる。
 加藤がそのはずがあるまい。なぜ治さないのか。そもそも加藤ほどの立場のひとが、なんであんなに抜けるまできちんとしなかったのか。先日その理由を知った。人気者になったので、あるインタビュアーが正面から問うたのだ。すると歯を挿れるのが嫌いで、いまのままが好きなのだそうだ。やはり変人である。

 でもまあ本人が「わたしはね、七十を過ぎてブレイクしたんですよ、フォッフォッフォッ」と「ひふみん人気」を喜んでいるのだからそれでいいのだろう。
 私はずっと加藤一二三という棋士が好きではなかった。その理由は藤井聡太が好きであることと関連するから、その視点からの比較という形であらためてまた書くことにしよう。ともあれ今から「出身地」という視点から中学生棋士五人を語るのだが「加藤は枠外として四人で語る」ことを御了承願いたい。



▼中学生棋士になった時代、棋界のシステム

 五人しかいない中学生棋士から加藤を枠外とするのは、基本は「出身地」なのだが、彼が中学生棋士になったのが1954年=昭和29年であることも関係している。次いで谷川が中学生棋士になったのが1976年=昭和51年、加藤以来22年ぶり。羽生は1985年=昭和60年、9年ぶり。渡辺は2000年=平成8年、15年ぶり。そして今回の藤井が2016年=平成28年で16年ぶり、である。

 加藤が十代の頃はまだ将棋界も混沌としていた。NHK杯戦がラジオだった時代である。でもそれはそれで、いま興味のある一局がネット中継されず、2ちゃんねるへの有志の書きこみで一手を知ってハラハラドキドキするのと同じく、手元の盤に駒を並べ、ラジオからの中継で一喜一憂した時代もたのしそうだ。

 しかし中学生棋士の活躍としてまとめる時、加藤の昭和29年と谷川の昭和51年には大きな隔たりを感じる。一方、谷川の昭和51年と藤井の平成28年には、さほどの差を感じない。前者の差が22年、後者が40年だから、私の感覚に苦笑なさるかたもいることだろう。だがそれが私の感覚だ。それを前提に話を進める。

 私は、こどものころから自己流将棋はやっていたが、棋書を読み戦法を知り、本格的に興味を持ち始めた時期は昭和四十年代半ばである。連続18期名人位を保持していた48歳の大山から24歳の中原が名人位を奪うあたりだ。このとき加藤は31歳。18歳でA級八段となり二十歳で名人位に挑戦した一流棋士だが大山に勝てなかった。「加藤の勝てない大山を中原が倒した。当然加藤は中原にも勝てない」という図式はこのあとも続く。やがて1982年、42歳の時に中原から名人位を奪うのだが、翌年、21歳の谷川に奪われる。一期のみの名人。史上最年少名人・谷川浩司の誕生に寄与?している。



▼名人位移動とWWWF

 私はこの交代劇で、ニューヨークのプロレスWWWFのことを思った。強く強く「似ているな」と感じた。WWWFは、チャンピオン交代劇にワンクッションで短期ヒールチャンプを置くのである。つまり長期ベビーフェースチャンプを次の世代のベビーフェースチャンプが負かして戴冠、ということはしない。ベビーフェース同士が戦ってはファンが戸惑うからだ。繋ぎがうまく行かない。よって、長年時代を背負ってきたベビーフェースが世代交代をするときは、まずヒールに負けて王座から陥落する。その憎たらしいヒールチャンプを負かし、前代のベビーフェースチャンプの仇を討って、あたらしいベビーフェースが新時代を作るという流れだ。新チャンプを前代ベビーフェースチャンプも祝福する。ファンは、あたらしいベビーフェースチャンプに引き継がれる。これだとベビーフェースチャンプ好きにストレスがたまらない。WWWFはそういうやりかたをする。

 私には、ベビーフェース中原の時代からベビーフェース谷川時代に移るのに、ワンクッションヒール加藤の名人位があったように思えた。ベビーフェース同士の中原と谷川は戦わないのだと。それは名人挑戦者として谷川が名乗りを挙げた時に思った。「ああ、こういうふうに時代は変るのか」と。結果は見事にそうなった。加藤の名人位は一年のみだった。

 これはあの加藤が中原から名人位を奪った「七番勝負なのに、4勝3敗・1持将棋・2千日手、実質十番勝負」という歴史的名勝負を冒瀆する戯れ言と良識あるかたから御叱りを受けるかも知れない。この加藤戦と「3勝3敗のあと、持将棋を挟んで、最後の最後に大内が詰みを逃して敗れた八番勝負名人戦」は、あまたある中原名人の激闘譜の中でも白眉であろう。それをこともあろうにあのWWWFのチャンプ交代劇と並べるとは冒瀆にもほどがある。でも「WWWFみたいだ」と思ったのだからしょうがない。どんなに無礼でも個人的真実だ。

 うれしい誤算もあった。私がそういう読みかたをしたのはつまり「中原時代の終焉、谷川時代の始まり」としたからである。だが中原は終らなかった。そこからの中原、谷川というベビーフェース同士の激闘のいかにすごかったことか。大好きな中原さんを、中原世代の将棋ファンのくせに、名人を失っただけで「中原時代は終った」とした自分を愧じた。



▼最初の三冠馬はシンザン?

 日本の三冠馬は、戦前、昭和16年のセントライトが初代、昭和39年のシンザンが二代目である。
 高度経済成長時代の象徴となる東京オリンピックの年に誕生するのだから、シンザンもまた「撰ばれたものの運」をもっている。前年、三冠を目ざす菊花賞で史上最高の支持率83.2%(ディープインパクトもこれには及ばなかった)を得た二冠馬メイズイが敗れた翌年である。高い人気を誇り期待されていたのに三冠馬に成れなかったメイズイ、調教師・武田文吾にすら軽く見られていたのに、己の力でのしあがっていったシンザン。

 以下、昭和58年のミスターシービー、翌59年のシンボリルドルフ、平成6年のナリタブライアン、平成17年のディープインパクト、平成23年のオルフェーブルと続く。
 セントライトからオルフェーブルまでの合間は、23年ぶり、19年ぶり、連続、10年ぶり、9年ぶり、6年ぶり、になる。さすがにこれぐらいの馬名はまだ空で書けるな。万が一まちがっていたら恥ずかしいから確認しよう。うん、まちがいない。ミスターシービーとシンボリルドルフの三冠馬対決を観たとき、「これって生涯ただ一度の体験になるのかな」と思ったけど、ほんとにそうなりそうだ。もっとも、見たことのないひとよりは恵まれているか。

←シンザンの写真と言えば、これ。切手にもなった。1989年第100回天皇賞記念。郵便局まで出かけてシートで買った。もうみな使ってしまったけど。切手をシートで買ったのはあれが最後か。
 これは画だけれど、そっくり写真を模写している。元写真はモノクロだった。これを撮った老カメラマンのかたに生前一度だけご挨拶したことがある。「あのシンザンのクロスした脚がかわいいんですよね」と言ったらニッコリ頬笑まれた。いまも覚えているすてきな笑顔だった。




 加藤九段はセントライトだと思うのである。輝かしい史上初の中学生棋士だが、他の四人とすこし環境がちがう。
 セントライトの勝った皐月賞該当レースは1850メートルだったし、皐月賞なんて呼び名も附いていない。菊花賞も。まだ優駿牝馬(オークス)が秋に開催されていた時代である。セントライトを日本初の三冠馬とするのはちょっと強引な感じがする。これって「外国には三冠馬という言いかたがあるそうだ。それを言うなら日本だってセントライトはそれになるんじゃないか!?」という発想で作られたような気がする。昭和16年のセントライト陣営に「イギリスで誉れ高い三冠馬になろう!」という意識はなかったろう。日本の実質的な最初の三冠馬は、競走体系が整ってから誕生したシンザン、でいいように思う。

 競走大系に多少の瑕疵のあるセントライトとちがい加藤九段にそれはないが、それでも四段になるシステムや当時の棋士数から、他の四人とはすこしばかりちがうような気がするのである。これが上記の「加藤・谷川の22年に時代差を感じる──谷川・藤井の40年にはそれを感じない」の理由になる。
 もちろん藤井と戦うことにより「明治生まれ、大正生まれ、昭和生まれ、平成生まれの棋士と戦った二世紀を跨いだ史上初の棋士」(囲碁の世界にはすでにいる)となった偉大さは平伏するほどなのだが、これから書く「藤井が愛知県に生まれた強運話」からは外れてもらう。まあ加藤さんはこれからも何度もこの文章に登場するから今回ぐらいはお休みでいいだろう。

 前書きを書いているだけで、肝腎の愛知県のあの字も書かないうちに紙数が尽きた。そりゃWWWFだのセントライトだの書いてりゃそうなるわな(続く)

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【追記】──今日、8月4日、藤井聡太は菅井七段に負けて公式戦3敗目を喫した。完敗だったらしい。まだ菅井には勝てないだろうと思っていたが……。棋譜を見ていない。早く確認したい。

 永瀬(非公式戦)、豊島(非公式戦)、佐々木、三枚堂、菅井と、先輩達が意地を見せる。羽生もAbema TVの「炎の七番勝負(非公式戦)」では敗れたが、直後の獅子王戦(映画「3月のライオン」完成記念対局、もちろん非公式戦)では完勝している。そうでなければおもしろくない。だが藤井は、一晩寝る毎に強くなっている。上位陣と当たるこれからが楽しみだ。
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この壁紙は
http://www.geocities.jp/shogi_e/haikei/backtop.html
より拝借しました。

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