2017

藤井聡太・考

撰ばれたひとの持つ〝運〟についての考察-1
書き始めるまでの長い道のり        ディスプレイ問題の解決と藤井四段の敗戦  
●書こう書こうと思いつつ書かないままに時は過ぎ行く

 ずいぶんと前から藤井聡太四段のことを書こうと思っていた。将棋ファンとして、この稀有な天才に出逢えたよろこびを自分流に記して置きたい。百年に一度の逸材なのだ。
 昨年、8月と9月に奨励会三段リーグのことを書き、無事史上最年少四段になった祝いを書こうと思いつつ、書かずにいる内に年が明け、Abema TVの七番勝負を始め、その対局全てを観戦しては感嘆している内に、無敗の連勝が始まったものだから、あれよあれよという間に彼は全国的大スターになってしまった。
 こうなるとますます「いつから書くか」が難しくなってくる。

 一応、下にあるように、去年の8月に「三段リーグ」のことを書いてアップしている。四段昇段を決めた9月にも書いた。問題はそのあとだ。



↓2017年『将棋世界』3月号。表紙初登場。プロデビュー戦の相手、最年長棋士加藤一二三九段と。
 『将棋世界』の表紙を飾ったのも間違いなく〝史上最年少〟だろう。


 聡太くんは2016年10月にプロ棋士となった。デビュー戦、加藤一二三九段との竜王戦の前に書こうと思った。2016年12月24日。デビュー戦の相手が現役最年長であり、聡太くんに更新されるまで最年少記録を持っていた加藤九段との年令差対決は話題になった。デビュー戦がこの組合せになったこと自体奇蹟である。仕組まれたものではない。これまた強烈な運である。熱心なクリスチャンである加藤に取って、自分の最年少記録を塗りかえた少年との対戦がクリスマスイヴなのは記念になったことだろう。
 これはすごい一戦だった。藤井から加藤の十八番である矢倉に誘導し(「せっかく加藤先生と対戦できるのだから矢倉で教えて欲しかった」と後日語る。好感度アップ!)、攻撃の飛角銀桂全軍躍動する加藤に攻めるだけ攻めさせ、あわや木っ端微塵に粉砕されるという形にまでなり、そこから先手矢倉の守りの要7八金にヒョイと6九銀を引っ掻ける。それで一手勝ちなのだ。背筋が顫えた。なんという将棋を指す少年だろう。

 書こう書こうと思いつつ、ひたすら驚嘆して書かないでいるうち、それを詳しく解説した『将棋世界』が発売された。鈴木宏彦さんの書かれたこの観戦記が絶品だ。これはあとでスキャンして(たとえそれが違法であろうとも)ここに転載して読んでもらおう。切り口といい知識といい、佐藤康光の感想の引用といい、完璧な観戦記だ。あんなにわくわくしつつ読んだ観戦記も記憶にない。
 でもそれと私の個人的感想文はまた別。どんな粗末なものであろうと私は私の感覚で書いておかねばならない。いつ書こう。タイミングをうかがう。

 加藤戦から負け知らずの連勝が始まった。新人の連勝記録は10連勝。それを達成する前に書こうと思った。まだ間はあった。「達成したら」ではない。「達成する前に」である。4月4日、そうこうしている内に11連勝して「新人連勝新記録」を達成してしまった。またチャンスを逃した。

 なら連勝記録が止まったら書こうと思った。今度は「止まる前に」ではない、「止まったら」だ。13戦目の千田翔太六段である。これは強い。将棋ソフトを駆使した独自の棋風で高勝率を誇る23歳。棋王戦挑戦者となり渡辺棋王を追いこんでいる。まだ千田には勝てない。ここで連勝記録が止まる、そしたら書こうと思った。するとなんと千田まで破ってしまった。強い。その後も止まらない。今度は「連勝が止まったら書こう」と思った。すると不滅の記録と言われた神谷八段の記録を塗りかえる快進撃。じゃあ三段リーグの13勝5敗はなんだったんだ、となる。

 と、出遅れ出遅れで書かないまま、ここまで来てしまった。
 目の調子がわるかった。これも大きい。将棋文章だけ滞っていたのではなく、目玉不調により、著しく書く文章量が減っていた。23インチのディスプレイで文字を大きくしてなんとか書いてはいたが思わしくない。もっと大きなディスプレイを購入しようと計画した。そう思うと、「それが来るまでやる気になれない」になる。また遅れる。



 さて、では去年の9月から最近までずっと10ヵ月もうじうじしていた文を、今日7月28日からなぜ書き始めたか、だ。
 何と言っても大きいのは「4kディスプレイ」である。これを導入して、目の心配もなく好き放題に書ける、うれしいなあ、ということは別項に書いたのだが、実はこれが初めて体験する初期不良品だった。その判断に戸惑い、でっかい箱を返却し、修理されてもどってくるまでたいへんな苦労をした。臺灣ラブすこし下がる。やっともどってきて、満足できる4kディスプレイ環境が整ったのは7月25日、一ヶ月をむだにした。その意味では、それほどの日にちを置かず、すんなり書き始めたと言える。それだけ4kディスプレイはたのしい。23インチでフォントのポイントを大きくすると表示字数がすくなくなり、こどものノートみたいで白けるのだが、4kで43インチあるから、大きな文字でもたっぷり表示できてせせこましさがない。がぜんやる気になってきた。

 もうひとつの理由は、藤井フィーバーがほどよく治まってきたことだ。とんでもない天才少年棋士の登場に、将棋ファンの藤井熱はますます燃え盛っているが、一般的には連勝が途絶えてだいぶ落ちついた。今後世間的に騒がれるのは、史上最年少のタイトル戦挑戦者になったときだろうから、しばしの平穏がある。今後の対局者を見れば、いかな天才少年でも「もういちどの連勝記録」はないだろう。来年再来年はともかく、すくなくとも今年、またしても二度目の新記録連勝街道、はないように思う。もちろんあったらそれはそれで愉しいから期待しているけど、これからはB1、A級の精鋭が待ち受ける。いやもう既にAbema TVの企劃で、深浦、佐藤康光、羽生とA級棋士に3連勝したけど、今度はみな力が入ってくる。彼の強さだと、それでも3勝1敗ペースで勝ちすすんで行くだろうが、さすがに連勝記録はどうか……。

 このふたつの理由がほどよく噛みあって、私なりの「藤井聡太・考」に手をつけた。書きたいのは彼のもつ「運」についてだ。



 段位はすぐにあがって行くだろうし、今更「聡太くん」も失礼だから、以下、敬意を込めて「藤井」と呼びすてにする。

 三段リーグのことを書いたころ
●初めてサイトに書いたころ──三段リーグ終盤


 昨年、3回ほど藤井聡太少年をテーマに書いた。
 最初は「藤井聡太くん、史上最年少四段なるか!?」と題して2016年8月16日にアップした。
 藤井が加藤一二三の記録を62年ぶりに更新し、史上最年少棋士になるためには、今期初参加の奨励会三段リーグを一期抜けせねばならなかった。半年間、一回限りの勝負である。豊島将之が、佐々木勇気が弾かれた「史上最年少棋士、加藤一二三、14歳7ヵ月」の壁に挑戦する。
 その「一回限りの三段リーグ挑戦」も、いよいよ大詰め、9月3日の最終戦(一日に二局指す)を残すのみとなっていた。藤井はすでに4敗している。それでもトップなのだが、5敗が三人いて、三人とも順位が上だった。初参加の藤井は27位である。頭ハネを喰う可能性が高い。なんとしても最終二局を連勝し、4敗のままでゴールせねばならない。

 私がそこに書いたことの一部。
この文章は本来4月に書くつもりだった。遅くとも第一弾を、注目の三人(後日註・里見、西山という女性ふたりのこと。こちらも実現すると史上初になる)が5勝1敗で乗りきった前半戦を5月末に書き、8月に書くこれが最終局直前の第二弾の予定でいた。

 ここのところ目の調子がわるく、サイトもブログも更新が滞ったまま抛りだしてある。だがなんとしてもこれは「今のうちに」書かねばならなかった。あいかわらず目は不調で文章を書くのがつらいがなんとかがんばった。その間なんどかATOKが「入力時間が長くなっています、すこし休みませんか」と声を掛けてくれた。この程度のものでもあっと言う間に一時間二時間と経過する。

「今のうち」とは「9月3日より前」ということだ。9月3日に、もしも聡太くんが四段昇段したなら、将棋マスコミはもちろん、それ以外をも巻きこんで大フィーバーになる。おそらくNHKニュースでも取りあげるだろう。棋戦を主催している翌日の新聞もこぞって書くはずだ。『週刊文春』『週刊新潮』はもちろん写真週刊誌にも載ると思う。なにしろ62年ぶりの記録更新なのだ。

 そうなってから、「いやあ実は私も注目していたんですよ」と書くのはかっこわるい。いかにも話題のニュースに便乗したかのようだ。私の知りあいにもいるが、ニワカ将棋ファンが知ったかぶりでブログに書いたりするのはみっともない。『将棋世界』で聡太くんの昇級昇段を追い掛け、三段リーグの対局日の夜は、連盟のサイトで発表される前に2ちゃんねるにUPされる結果を心待ちにしていた身としては、そういうヤカラと一緒にされたくない。長年の将棋ファンとして、「ずっと前から注目していた」「今期の三段リーグは毎回ハラハラしながら結果を待っていた」ぐらいは主張したい。そのためにはなんとしても「今のうち」が必要だった。
 というわけでなんとか仕上げた。目が疲れた。チカチカする。さて9月3日はどうなるか。聡太くんのファンにとっては深夜にUPされる結果をやきもきしながら待つ一日となる。

 風呂で読む『将棋世界』  

●三段リーグの着目点

 この時点でも「早く書かないとみっともないことになってしまう」と焦っている。当時から今に至るまで毎日のようにそればかり思ってきた。

 私の書きたい「藤井聡太論」は、彼の持つ「運」についてである。そして未だぐだぐだし今日まで遅れてしまったのは、すべてこの「書くタイミング」が理由になる。今回やっと書きだしたのだが、あらためて去年このことを書いておいてよかったと思う。これがなかったら、これすらも今から振り返って書かねばならない。書いておいてよかった。



 左の奨励会三段リーグ星取表は、『将棋世界』2016年9月号のものだ。発売は8月3日。つまり紙メディアでは当時の最新情報になる。

 注目は27位の藤井と、25位の里見、28位の西山である。
 女流で初段になったのは里見が初めてだった。記録的には蛸島がいるが、あれはご褒美だった。実力でなったのは里見が史上初である。これには将棋連盟から報賞金百万円が出ている。そのことですら感激したのに、西山がそれに続き、一時は追いぬき、今ではこの三段リーグにふたりで在席している。なんともはや感激である。こんな時代が来るとは思わなかった。オルフェーブルがキズナが、凱旋門賞を勝つかも知れない、という昂奮に似ている。



 スキャンしたこのページが、ところどころ滲んだりふやけたりしているのは、風呂の中で『将棋世界』を読む楽しみを覚えてしまったからだ。以前は本類を大事に大事に扱っていたが、今では私淑している高島俊男先生の影響もあり、「本はボロボロになるまで読むのが愛情→本もそれでよろこぶ」と考えるようになった。よって私の所有する本は、『将棋世界』を始めみなふやけてしまった。それでいいのだと割り切っている。しかし今回このページをスキャンするにあたり、ふやけて波打っていたので苦労した。肝腎の藤井の成績のあたりがぼやけてしまうのである。スキャナーの上に拡げた『将棋世界』に重石のように何冊も本を置いて、やっと撮れた。こんなもの一枚スキャンするのにもけっこう時間を喰う。本気でサイトをやるのもたいへんだ。十八年頑張ってきたが、目が疲れるようになってからは更新が億劫になっている。それでもこうして書くのだから、それだけ藤井聡太は特別な存在になる。そりゃもう全国的熱狂らしいから(テレビを見ないのでワイドショーの様子は知らないのだが)当然だろう。



 この期の注目は、史上最年少棋士を目ざす藤井と、里見香奈、西山朋佳というふたりの女性だった。序盤の二日(一日二局指し、二週間に一度)、里見、西山は4連勝の出だし、対して藤井は早くも一敗を期してしまった。女性ふたりのあまりの好調に、私は史上最年少より、むしろ史上初の女性棋士、かもと思った。

 紙メディアでは『将棋世界』の画像が最新だが、将棋連盟のサイトによる三段リーグ表では、上に載せたように、最新の結果が見られる。藤井が4敗でトップのまま最終二局に臨んだことは知っていた。

 好調だった女性二人が沈んで行く中で、持ちなおしてトップに立ったのはさすがである。しかしこれは私だけではなく将棋ファンは誰もが口にしていたことだが、この時点で4敗は並みの強豪ならともかく、「あの藤井にしては」負けすぎだった。もっともっとぶっちぎりの成績を願っていた。さいわい他者も成績が悪いのでトップに立っているが、好調者が多かったら、リーグ戦の期がちがっていたら、必ずしもあがれる成績とは言えなかった。ここで連敗して昇段できず、そのショックから翌期もダメ、そのままズルズルと……。豊島も佐々木もそうなって沈んだ、それが地獄の三段リーグである。私は期待しながらも、その可能性も考えていた。
 9月3日、三段リーグ最終日、初戦を敗れる! 史上最年少記録、ピンチ!
●三段リーグ最終日、藤井ピンチ!

 そして最終戦、2016年9月3日。朝からパソコン前でスタンバイである。まるで自分が指すように意気込んでいる。藤井聡太、加藤一二三の記録を抜いて史上最年少はなるのか。
 昼、「注目の9月3日、初戦を敗れる! ダメなのか!?」をアップ。

 私は冒頭の9月3日に書いた文で《聡太くんのファンにとっては深夜にUPされる結果をやきもきしながら待つ一日となる》と書いている。奨励会の将棋だから中継などあるはずもない。そう思っていた。だがいまこの時代、そこに出入りしている関係者が2ちゃんねるの将棋板やツイッターで最新情報を教えてくれるのだと知る。偶然それを知り、「深夜にUPされる結果をやきもきしながら」ではなく、9月3日の日中に、最新情報を見ながら結果を待つことになった。
 情報提供者の正体探しのネタもあり、「同じ奨励会員」でほぼ間違いないようだった。まあ、そんなことができるのは、そこに出入りできる奨励会員か将棋担当記者に限られているが。



 それにしてもありがたい時代だ。PCに向かって作業しつつ、デュアルディスプレイの片方にずっと2ちゃんねるの将棋板の「藤井聡太応援スレ」を掲示していた。情報が刻刻と書きこまれて行く。朗報を聞きたい。豊島や佐々木がダメだった殻を打ち破り、渡辺以来の中学生棋士(渡辺は正確には中学を卒業してすぐ、になるらしいけど)誕生を見たい。引退間近の加藤一二三の記録を抜いて慾しい。天才から天才への引継ぎだ。佐藤天彦が羽生から名人位を奪った。ならその佐藤を倒す新勢力の擡頭を見たい。PC作業をしていても気が気でない。

 しかし、むかしならあり得なかったリアルタイム情報に感謝しつつも、そこはさすがは2ちゃんねるである。ガセを流して遊ぶ連中が跡を絶たない(笑)。「うわあ、聡太、負けた!」「聡太、投了!」なんて書きこみがある。「マジ?」なんて応答がある。すると今度は、「よし、聡太、勝った! 昇段決定!」なんて逆の書きこみがある。玉石混交でわからない。だが、どうやら、午前中の一戦は負けたようだ、となる。ガセ情報で遊んでいた連中も引っこみ敗戦が確定した。

「午前中の一局に負けて5敗」。唯一4敗だった彼は5敗になった。もしも4敗の三人がみな勝っているなら、5敗4人で並んだことになる。他の三人の順位は、1位、5位、7位。ふたりしかあがれない昇段に向けて、順位27位の藤井は最悪の局面となったことになる。
NHKが速報! 史上最年少棋士誕生! 
●藤井、昇段! 史上最年少記録更新!

 午後の最終局。対戦相手は西山朋佳。こういうのも〝運〟だろう。藤井にも、西山にとっても。西山が女性初の棋士になれるかどうかわからないが、「あの三段リーグ、藤井聡太三段の最後の相手」は、西山にとってプラスに作用する。

 このころになると2ちゃんねる将棋盤を通じて5敗だった他の三人の結果も解ってきた。
 1位の大橋は勝って5敗となり、負けて5敗となった藤井と並んでのトップとなった。最終局で負けても6敗。順位が1位なので、ふたり昇段の内のひとりの座を最終局を待たずに決めた。昇段である。
 5位の池永は負けて6敗。最終局はないので成績は確定した。27位で5敗の藤井が負けて6敗になった順位が上なので昇段、藤井が勝ったら藤井が昇段。
 7位の甲斐も午前の対局に負けて6敗。最終局に勝ち、藤井が負けても、同じ6敗で順位が上の池永が昇段となる。つまり昇段の目は消えた。それに落胆したのか最終局も落として7敗でリーグを終える。7位の甲斐が勝って5敗を堅持していたら、藤井は最終局に勝っても、昇段は「同じ5敗の甲斐が負けた場合」と他者頼みになっていた。甲斐が負けた。これで自力昇段の目が出た。これまた藤井の強運としか言いようがない。

 藤井は、勝てば自力昇段だ。負けて6敗になると、5位の池永が6敗で終了しているので池永が昇段。ここは勝って決めたいだろう。
 勝たねばならない。勝てばいいのだ。勝てば13勝5敗、唯一の5敗でトップ昇段となる。勝った。これで通算13勝5敗。トップの成績で史上最年少で昇段した。誰もがあそこにだけは二度ともどりたくないと言う第59期の三段リーグは、こんな形で幕を閉じた。。



 急いで「史上最年少記録、更新! NHKが速報!」をアップする。テレビを見ないのでNHKが速報したのは知らなかったが、そこはそれネットの時代、複数の新聞社のお知らせを受けとる設定をしているので、なにもしなくても次から次へと情報が押しよせる。すぐにネット上からNHKニュースを見て確認した。こどものころから今に至るまで一貫してNHKが大嫌いで一切見ない私からすると不思議なのだが、新聞社が速報ニュースで「NHKも速報で流す!」と伝えている。

 私は、藤井の昇段を願い、一日中ネットに張りついていたが、心の一部には「どうせまたダメなんだろ」の気持ちもあった。特に午前の一局に負けて5敗になったときは落胆していた。順位27位で1位と7位のふたりと同じ5敗になってしまったのだ。ところが1位の大橋、7位の甲斐も負けて6敗となり、またもただひとりの5敗で単独トップになってしまった。そして最終局での勝利。ずいぶんとハラハラドキドキさせてくれる。



●13勝5敗の明暗

 それにしても強運だ。自力となった最終局を自力で勝ったのだから運ではなく実力のようだが、1位と7位が勝っていたら届かなかった。ライバルがこけてくれるのが強運なのだ。
 最年少三段記録は藤井が中学一年10月で更新するまで、豊島将之と佐々木勇気の持つ中学二年4月だった。
 小学生の時から大器と期待されていた豊島は、三段リーグに5期かかり、四段になったのは高二だった。
 佐々木は中学二年の後期から三段リーグに参加する。1期か2期で卒業すると、加藤、谷川、羽生、渡辺に続く史上5人目の中学生棋士にある。厳密には渡辺は中学生棋士ではなく「中学卒業と同時に棋士」であるが、現在はそう判断するようなので、私もそれに従うことにする。「中学卒業と同時に棋士」になれるかどうかの3期目、佐々木は最終戦で菅井に敗れて昇段できなかった。昇段した菅井の成績は15勝3敗。史上5人目の中学生棋士になりそこねた佐々木の成績は13勝5敗だった。同じ13勝5敗でも、史上5人目の中学生棋士になれなかった佐々木、加藤一二三の記録を更新して史上最年少で中学生棋士になった藤井、ずいぶんと運が違う。佐々木は次の期に昇段する。16歳1ヵ月でのプロ棋士はこれら5人に続く今も6番目の年少記録である。しかし16歳1ヵ月がニュースになることはない。あのとき佐々木が5番目の中学生棋士になっていたら、『将棋世界』や(当時はまだ発刊されていた)『週刊将棋』等で大々的に取りあげられたろう。スポーツ紙や週刊誌でも話題になったにちがいない。13勝5敗の明暗は大きい。

 その佐々木と藤井が、岡崎将棋祭りで対局した。2016年5月1日。奨励会三段、中学二年生の藤井は7月19日が誕生日。まだ14歳になっていない。対する佐々木は21歳。この非公式の矢倉早指し戦がまたとんでもなく充実した一戦だった。史上最年少三段の前記録保持者にして史上5人目の中学生棋士になりそこねた佐々木五段が勝ったが、どちらに転んでもおかしくない熱戦だった。この一手20秒のお好み対局で、ここまでの将棋を指せるふたりに感嘆した。この棋譜は『将棋世界』に載ったので並べてみた。すばらしい。思えば、私が藤井の棋譜を並べたのはこのときが初めてになる。まあどんなに天才少年と伝えられようと奨励会員の身分だから棋譜は世に出まわらない。後にリアルタイムで藤井の将棋を観戦したり、棋譜を再現したりして、そのあまりのおもしろさに驚喜するのだが、雰囲気だけで知っていた天才の本物のすごさを目の当たりにしたのはこの棋譜になる。銭の取れる将棋である。

 この将棋のすごさに感激したからこそ、この対局の4カ月後に史上最年少で昇段した藤井の強運と史上最年少記録更新を言祝ぎつつも、13勝5敗という成績には不満が残った。上記のよう、佐々木はこれで昇段できなかったのだ。
 これは私一人の感覚ではなく多くの将棋ファンがそうだったろう。プロ入り後の無敗の快進撃のとき、どれほど多くの「こんなに強い藤井が5敗もした三段リーグってなんなんだ!?」が書きこまれたことか。
 強烈な昇段の記  
●強烈な「四段昇段の記」

 上は、藤井聡太新四段の昇段の記。『将棋世界』2016年11月号掲載。いま「望外」「僥倖」と齢に相応しくない言葉づかいが話題の藤井だが、この昇段の記もすごい。

 半年に一度『将棋世界』に掲載されるこの「昇段の記」は、「地獄の三段リーグを抜けだしてほっとした」風味になることが多い。機会があったらまたそのいくつかを載せて比較してみたい。いや失礼だからそれはないか。
 プロ四段という出発の時に、それは一見弱気と取れる。出発の地点でゴールのようなことを言ってはならない。だが誰がそれを責められよう。苦労話を読んでいて「よかったねえ」と涙ぐむことすらある。小学生から中学生のアマチュア四段、五段という天才達が集い、さらにそこから選別が始まる。年齢制限がある。天才と呼ばれた小学生中学生が、やっとの思いで三段リーグまでたどり着く。その前に退会してゆく少年も多い。平均して18歳ぐらいで三段リーグに入り、一期でも早く抜けだしたいと願う。「なんとか二十歳までに」。半年間の三段リーグ。昇段は上位2名。思うように行かず、22、23と、年齢制限の25歳が近づいてくる。



 私が奨励会のシステムを正しく理解したのは昭和50年だった。当時の年齢制限は30歳である。「31歳の誕生日の前まで」になる。この制度により退会の日が近づいていたのが当時奨励会三段だった鈴木英春さんだった。研究熱心で言行も容姿も目立つ、ある種の名物奨励会員だった鈴木さんに『近代将棋』がスポットを当てた。いわゆるドキュメントの主人公に撰んで、毎号その日々を追ったのだ。なんとしても年齢制限までに四段になろうと鈴木さんはがんばる。仏門に入って修業したりもした。『近代将棋』はそれを追った。制限の日々が次第にちかづいてくるのは、毎号読んでいるこちらも胃が痛くなるような感じがした。それでも私は、鈴木さんの四段昇段は適うものと思っていた。ハッピーエンドであろうと。だが願いは適わず、昭和56年に鈴木さんは年齢制限で退会する。十代からひたすら将棋だけを指してきたひとが、三十歳を過ぎて世に抛りだされてどうなるのだろう。他人事ながら、その残酷さを思って身震いした。鈴木さんは後にアマ強豪として活躍し、『月下の棋士』の鈴木永吉のモデルとなっている。
 年齢制限が30歳から25歳になったのはよいことだろう。また「二十歳までに初段」という制限も好ましく思う。それなりに区切りの時を設けるのは必要だ。と同時にまた、年齢制限ギリギリでの昇段の記にはももらい泣きする。瀬川、今泉のような退会したひとの復活も感動する。



 相撲とりは十両にあがって力士、将棋指しは四段になって棋士である。十両前は、三段以下は、ただの志望者、予備軍でしかない。
 昇段の記のほとんどが、前半はその苦しかった時代の回顧、そして後半はくじけそうになったとき世話になった人々への感謝、そして結びは「これからもがんばります」となる。

 だが藤井のこれはちがう。「正直、負けまいと思っていた」なんて書きだし、初めて見た。中学二年生とは思えない文章そのものも秀でているが、ここにはまず姿勢として、微塵も「出発点にたどりついた」「ほっとした」のような立ち止まり感がない。誰もがとりあえずはほっとするこの場で、この少年はもう先に先に行こうとしている。そりゃあ誰だってプロ棋士をめざしたのだから、ここからが勝負だと思っている。それは解っている。でもまずは将棋を覚えたころ、小学生時代の入門から振り返り、「やっとここまで来ました」とひと息吐き、それから思いきって大言壮語をしたり、あるいは謙虚に日々の前進を誓ったりする。だがまずは「ほッとひと息」だ。藤井にはそれがない。



●昇段の記──伊藤果八段と木村一基八段の強気

 今も覚えている昇段の記に、伊藤果八段のことがある。
 1950年生まれの彼が四段になったのは1975年、25歳の時だ。中原名人と同じ高柳門下。3歳年上の中原名人は、18歳(彼が21歳)の時に四段になり、1968年、21歳(彼が24歳)の時には棋聖位を獲得している。昭和50年、25歳で四段になり、やっとスタート地点に立った伊藤は、自分が遅咲きであることは自覚していたろう。それでも『将棋世界』の昇段の記に「名人にはなれないだろうけど、必ずタイトルはひとつ取る。これはみなさんに約束します」と強気に書いた。今も覚えている。印象的な強気の宣言だった。結果、取れなかった。挑戦者にもなれなかった。詰将棋作家として名を売った。娘さんも女流棋士になった。伊藤さんが「昇段のとき、あんなこと言ったけど、おれ、タイトルは取れないな」と覚悟したのは何歳の時だろう。
 
 印象的なものをもうひとつ。1997年に、23歳で遅めの四段デビューとなった木村一基八段は、テレビ東京の早指し新鋭戦で、新四段としての抱負を島田アナに訊かれ、「棋士となった以上は名人を目ざします」と言った。テレビで見ていても顔を紅潮させて言っているのがわかった。その強気が感動的だった。
 23歳という遅咲きデビューの棋士は、タイトル戦に登場することすらない。やはり活躍する棋士は、中学生ではなくても十代で四段になっているのだ。なのに木村は、最高位の名人位を目ざすとテレビ番組で宣言した。強気極まりない。失笑されると判っていても、訊かれたらそう応えようと決めてきたのだろう。あのときの木村の顔はいまも覚えている。木村はその後、23歳デビューの遅咲き棋士としては驚異の勝率勝数をあげ、竜王、棋聖、王位、王座のタイトル挑戦者になっている。残念ながらまだタイトルには届いていない。伊藤はもう引退したが、〝千駄ケ谷の受け師〟の異名を取る木村はまだまだ一線級だ。タイトルを取って欲しいと心から願っている。



●詰将棋の天賦

 地獄の三段リーグを史上最年少で一期抜けしたのだから、藤井の強気は当然かも知れない。でもそれは伊藤八段や木村八段から感じた強気とはまたちがっている。なんだかもう見ている世界がちがう気がする。藤井は「地獄」なんて思ってもいないのだろう。

 それは小学生で詰将棋チャンピオンになったような場数経験から来ているのだろうか。それにしてもこれ、とんでもないことである。私は、彼の将棋大会での優勝歴を見てもおどろかない。今までにもいた地方の天才少年としか思わなかった。現に奨励会で苦労している小学生名人は多い。だが、いくらなんでもこれは凄すぎる。信じがたい。隙間狙い、隙間優勝ではない。ディフェンディングチャンピオンの3連覇した宮田敦史六段や、詰将棋作家として名高い優勝経験のある若島さん(京大教授)たちをくだしているのだ。伝え聞くところに拠ると、解き終って退室する時間が、とんでもなく早いのだかと。『将棋世界』に浦野八段の話が載っている。第一ステップ、5問で制限時間は90分。20分ほどで藤井が立ち上がったのでなにかアクシデントがあったのかと思ったとか。解き終ったのだ。二番目に解き終り退出したひとの時間は57分だったという。ぶっちぎり独走なのだ。怪物である。

 三段リーグ1期で四段昇段の成績を修めた棋士は、小倉久史、屋敷伸之、川上猛、松尾歩、三枚堂達也、藤井聡太の6人のみである。

 しかしそんな詰将棋の天才にしては「三段リーグ13勝5敗、最終戦で決着」という昇段は、地味である。18戦全勝であがってほしかった。いやここは地味でも一期で通過する強運を賞讃すべきなのか。この三段リーグの時期は、これからいくつもの「藤井聡太論」がでるだろうが、そこでも重く語られるだろう。というのは「三段リーグの途中から変りました」と藤井自身も師匠の杉本七段も語っているのだ。自分でも解るほどの確実な階段を上った感覚がこの時期にあったらしい。 このとき私は、これからの彼の活躍にまだ半信半疑だった。
    (続き)→藤井聡太・考──その2-「愛知県」に生まれた強運  の前書き




この壁紙は
http://www.geocities.jp/shogi_e/haikei/backtop.html
より拝借しました。

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