2011
10/7

12/21
 米長会長が将棋ソフトと対戦

 日本将棋連盟とドワンゴ、中央公論新社は6日、日本将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖が来年1月14日にコンピューター将棋ソフトと対戦すると発表した。将棋ソフトは近年、急速に発展を遂げており、昨年は女流棋士の第一人者、清水市代女流六段を破った。

 対戦相手は今年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝したソフト「ボンクラーズ」で、東京都渋谷区の将棋会館で対局。対局の模様は、ドワンゴグループが運営するインターネット動画サービス「ニコニコ生放送」で中継される。

 米長永世棋聖は名人位に就いたこともある往年の名棋士。2003年に現役を引退した。名人経験者が公の場で将棋ソフトと対戦するのは初めて。
(日経新聞)

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このことが発表されたのが2011年10月6日。翌7日に書こうと上記の日経からのコピーを貼りつけたが、今日12月23日まで書かずに来てしまった。その間に「前哨戦」と題した対戦が12月21日にあった。その話に行く前に急いで10月7日に書こうと思っていたことをまとめる。

・米長は負けるだろう。
・公開日記でも『激指10』を相手に練習しているが半分も勝てないと書いている。
・それは米長のパソコンだからたぶん市販の中級マシンだろう。
・本番では相手はPCを多数接続してパワーアップしてくる。
・それは個人の持っている市販パソコンとは能力が違う。
・2007年3月に渡辺明は自宅PCでBonanzaを研究してきたが現場でコンピータの強さがちがうので驚いていた。
・2010年4月に清水市代が対戦したときの「あから2010」は以下のような構成だった。

コンピュータ側はハードウェアが東京大学のクラスターマシン(Intel Xeon2.80GHz×4cores:109台・Intel Xeon2.40GHz,×4cores:60台・合計169台676cores)、ソフトウェアは「激指」「GPS将棋」「Bonanza」「YSS」の4種類のソフトが電気通信大学伊藤研究室の開発するマネージャの管制の下で多数決を行う合議制がそれぞれ採用された。このシステムは、10の224乗という、将棋の全局面数10の226乗に近い数を示す語をとって、「あから2010」と名つけられた。(Wikipediaより)

・家庭用パソコンの『激指10』で勝ちこせない米長がこれと同じようなモンスターマシンに勝てるはずがない。

 というものだった。将棋ファンとして将棋連盟会長が(というか棋士米長の全盛時代を知っているものとして)将棋ソフトに確実に負けるであろうことを書くのは楽しくないから筆が進まずそのままにしていたら、前哨戦で負けて大騒ぎになっていた。私はこの前哨戦があるのを忘れていた。



 米長の相手をするボンクラーズは2011年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝したソフト。激指やYSSという古手、彗星のように現れたBonanzaを破ってのものだから強いソフトだ。

 世界コンピュータ将棋選手権2011年結果


 今ではいちばん有名な将棋ソフトであるBonanzaを「彗星のように」と表するのはへんかもしれないが、その登場を見ていた私にはそうなる。将棋ソフトは初期の森田将棋、柿木将棋、金沢将棋からずっと、将棋の強いひとが作ったソフトが定番だった。名前にも開発者の名が冠されている。毎年の選手権もそういう常連が上位を占めていた。それらは「AI将棋」「東大将棋」のように名を変えて市販ソフトになっている。ファミコンからパソコンソフトまで、将棋ソフトをほぼぜんぶ持っている私にはみな馴染みのあるものだった。

 ところがBonanzaは、まったく無名の、しかも自身は将棋がほとんど指せないにちかい物理学者が、今までとはちがう思考回路で作った画期的なものだった。それが居ならぶ常連ソフトを破って優勝した。しかも他のソフトが複数のパソコンを繋いだワークステーションだったのに、そのときBonanzaは市販のノートパソコン! だったのである。

 その劃期的な出来事は2006年だからコンピュータ的にはだいぶ前になるのだが、私にはいまでも「彗星のように現れた新型ソフト」になる。そして竜王位の渡辺明と2007年に対局した。NHK-BSが追ったこのドキュメントはおもしろかった。録画していまも持っている。

 その後、Bonanzaを破って優勝したPonanzaも、その名前からわかるようにBonanzaの思考を取りいれている。今回のボンクラーズも同じだ。ひとをコバカにしたような名だが「ザ+クラスターズ」なのだとか。
 Bonanzaの作者保木さんはBonanzaをオープンソースにして公開した。ボンクラーズはそれを研究して誕生した。Bonanzaがなければ誕生しないソフトだった。いかにBonanzaの価値が絶大であったことか。

 私自身は長年遊んできたYSS(市販ソフトの名は『AI将棋』)や『激指』のほうが馴染みがある。『激指』も斬新な発想のあたらしいソフトだったが、いつしか初登場から十年を超えた古手になった。




 私はこれら優勝ソフトの市販されたものはすべて購入して遊んできた。みな弱かった。話にならない。「極(きわめ)」なんてひどいものだった。1995年ぐらいまでのソフトはソフトとも呼べないものだった。

 しかし年々強くなって行く。この速さがすごい。毎年飛躍的に強くなっていった。2002年の「激指」で初めて負けた。ファミコンの将棋ソフトからずっとやってきて、話にならないと思っていたから、ついに自分が負けるほどの将棋ソフトが出たのかと感嘆したものだった。そういう意味で『激指』は忘れられないソフトになった。
 『激指』の画期的なのは攻めてくることだった。それまでのソフトは「攻める人間の誤りを待つタイプ」だった。積極的に攻撃してくる烈しさは、その名の通り『激指』が初めてだった。

 いまはもう敵わない。四段以上の設定にしたら、『激指10』に絶対勝てない。2002年に発売されたPS2用の『激指』の四段がちょうどいいライバルだ。これだと勝ったり負けたり。しかしもうパソコン用の2010年に出た『激指10』には相手にされない。完全に追いこされた。

 先日米長がパソコン用の『激指10』に関して、「10秒将棋だとプロの若手棋士もほとんど勝てない」と言っていた。じっくり考えないと人間はケアレスミスをする。さらに相手もそれをしたりする。そういう人間くさい闘いが魅力のひとつでもある。が、コンピュータにそれはなく、10秒将棋でも、詰みを見つけたら正確に追い詰めてくる。若手棋士の精鋭も負けてしまうようだ。

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 私は、米長会長が年明け1月14日の前哨戦として12月21日の午後7時から対戦すること、それがインターネットで中継されるとをその数日前に知ったが、12月21日はパソコン前にはすわっていたが、ばたばたしていて度忘れしていた。しまった今日だと気づいたのは、当日の午後9時過ぎだった。

 がんばれ米長、いま応援に行くぞとあわてて駆けつけた(といっても中継サイトに行っただけだが)。しかし現場はもう撤収されていた。中継は終っていた。勝負はついていた。急いで2ちゃんねるの将棋板に行く。棋譜が掲載されていた。将棋ファンが嘆いていた。惨敗だった。あまりにむごい、いいとこなしの、目を被いたくなるような惨敗だった。

 左は、その棋譜を『激指10』に読みこませて解析したもの。誰かのコピーではない。私が打ち込んでやってみた。これはいまプロもやっている定番だ。それほど『激指10』の解析は定評がある。名人戦や竜王戦でも、ファンがこれにリアルタイムで棋譜を打ちこみ、次の一手や現状での有利不利を分析したりする。

 詰みが発見されるといち早く報告される。それに関してコンピュータにまちがいはない。そうなると、将棋ソフトがすでに発見している詰みを、トップ棋士が気づくかどうかという、「コンピュータに棋士が試される展開」になる。すでに将棋ソフトはそこまで来ている。90年代のバカソフトを知っている身には信じがたい進歩である。

 初手から詰みまで、常に先手のボンクラーズ有利である。右端の数字が大きくなるほどに有利の度合が増える。指すほどに差がつき、優勢から勝勢になり、米長にはいいとこなしだった。将棋ファンとして泣きたくなるような無惨な結果だった。

 どう考えても、本番ではさらにパワーアップしてくるボンクラーズに米長が勝てるとは思えない。それでも、一縷の望みをもって、1月14日には米長を応援したい。




 気になることが一つある。
 ボンクラーズの作者・伊藤英紀というひとの人格に関してだ。富士通研究所の研究員なのだとか。富士通もアマチュア将棋界では強豪で有名だ。

 ブログでの不遜な発言等、前々から将棋ファンのあいだでは評判の悪い人だった。写真の左のひと。右の白髪が米長。「電王戦」と名づけられ、来年以降も開催されるようだ。

 Bonanza開発者の保木邦仁さんが、腰が低くて評判がいいのと対象的である。渡辺竜王との対決ドキュメントでは、コンピュータが思考のあいだ、廊下に出ては頻繁にタバコを喫う緊張している様子が好ましかった。物理化学者であるこのかたがチェーンスモーカーであることは意外だったが。

 伊藤というひとは、今までの文章での発言のみならず、インターネット中継でもその傲岸な態度が目についたらしく、実況中継を見た2ちゃんねるの将棋板ではボロクソに貶されていた。「何様のつもりなのだ!」と。

 ボンクラーズはオープンソースのBonanzaを研究して作られた。しかしボンクラーズはソースを公開してはいない。することを要求するわけではないが事実は事実として。だから将棋ファンの中には「ボンクラーズの強さの価値は、ソースを提供したBonanzaが50%、強くなるための過去の棋譜を提供した棋士たちが49%、伊藤の価値は1%」と解釈する人もいる。私もそれに納得している。

 将棋ファンがみな米長贔屓なのではない。むしろアンチのほうが多いぐらいだ(笑)。私も嫌いだ。
 また将棋ファンは将棋ソフトの力を認めており否定しているのではない。なのにみなこのひとには反感を持つのだから並ではないことがわかる。評判を聞いてから私もこのひとのブログを読んで見たが、たしかに将棋、棋士、将棋連盟というものに対して上から目線で横柄なのである。将棋連盟側が立腹して断交してもおかしくないほどだ。
 しかし彼からすれば、自分の作った将棋ソフトが現実にプロ棋士よりも強いのだから、いいかげん米長のような引退棋士ではなく、羽生クラスの第一線級とやらせてくれよ、となるのだろう。



 ところで、渡辺が『激指』と対戦したときの対局料は200万円だった。米長がこの金額で佐藤康光(当時は棋聖)に話を持ち掛けたが即座に断られている。万が一負けでもしたら失うものは金額に代えがたい。渡辺はよく受けたものだ。棋界トップの竜王である。負けていたらとんでもないことになっていた。今なら受けまい。さらにコンピュータの力はちがっている。清水もよく受けた。あれも惨敗だった。将棋ソフトの強さばかりが際立った棋譜だった。
 今回の米長の対局料はいくらなのだろう。

 米長は、羽生クラスが対局することに関して、「対局料は8億円」と言っている。その理由は、コンピュータとの対戦は人間とはまったくちがうので、羽生がやるとなったら、いっさいの対局をとりやめ、丸一年間対コンピュータのための勉強をするから、それぐらいの保証があって当然、としている。

 勝てるとは思わないが、開発者の傲慢な発言に触れるたび、米長がんばれと言いたくなる。1月14日はもうすぐだ。

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【附記】──米長の対局料(1/12)

 企業のドワンゴが1千万円を出すとか。でもそれは会場の設営費等をも含み、全額が米長の対局料というわけではないらしい。

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結果、米長惨敗
12/6
「将棋の日」の思い出──盛岡の「将棋の日」

 「将棋の日」は11月17日である。これは徳川幕府八代将軍徳川吉宗が「お城将棋の日」を11月17日に定めたことから来ている。
 第一回将棋の日は昭和50(1975)年。11月17日に大相撲の本拠地である蔵前国技館で開催された。新暦だから実際は今の12月のもっと寒い日だったことになる。江戸城なんて寒かったろうなあ。広々とした空間で暖房器具は火鉢だけである。天守閣なんて震え上がるほどだったろう。江戸時代の将軍より今の庶民のほうがずっと贅沢だ。

 私はこの蔵前国技館の第一回将棋の日に出かけている。入場無料だった。入場者全員に白い紙袋入りの黒のボールペンがプレゼントされた。白文字で「第一回将棋の日」と入っていた。その後、10年間ぐらいは大事にもっていたのだが、今は手元にない。残念だ。まあ当時としても、いかにも安物の貧相なプラスチックボールペンであり、将棋マニアでなければ落ちてても拾わない程度の品ではあった。文房具好きの私には使うに値せずと一度も使っていない。でも9千人ちかい入場者全員に無料でプレゼントしたのだから将棋連盟はがんばった。



 昭和50年はカブラヤオーが皐月賞、ダービーを制し、牝馬はテスコガビーが桜花賞、菊花賞を制した思い出深い年だった。
 この年、私は初めて大阪の地を踏んでいる。枚方だ。春休みの土方バイト。道路工事。しかしよく考えてみると、たかが道路工事になんで東京から派遣されたのだろう。地元がやればいいだろうに。ともあれそれで初めて大阪の地を踏めたのだから不満はない。桜の花びらが舞う枚方の街頭テレビで見た「後ろからはなあんにも来ない!──テスコガビーのぶっちぎり桜花賞」は忘れがたい。

 蔵前国技館は後に取り壊され、昭和60(1985)年からは新築の両国国技館になる。大相撲といえばお江戸のころから両国だし、こちらのほうが本筋だろう。今では国技館といえば誰だって「両国」である。でも私は★1父のために徹夜で並んで大相撲の切符を買ったり、この「将棋の日」に出かけたり、猪木のプロレスを見に行ったりしたのがみな「蔵前」なので、国技館といえば両国より蔵前の印象が強い。



 「将棋の日」は、その後の何年間かは律儀に「11月17日」を厳守したが、当然のごとくそれは平日が多かったから、早々来られる将棋ファンばかりではない。やがて「その前後の日曜日」に開催されるようになった。開催場所も毎年異なった全国の都市になってゆく。いつしか「11月17日の将棋の日」は、「だいたい11月の第三日曜日のあたり」というあやふやなものになってしまった。これは競馬の「春の天皇賞」が、曜日を問わず昭和天皇の誕生日である4月29日に行われていたのが、崩御のあと、4月最終週だったり5月1週だったり、「そのあたりの日曜日」になってしまったのと似ている。

 今年で37回目だが、私は第1回目しか行っていない。1回目に行ったのは自慢だが1回しか行ってないのは恥ずかしくもある。★2理由は明白だ。

 「将棋の日」に関して特筆しておくべきことは大山康晴会長の尽力だろう。現在の東西の将棋会館建設も、この「将棋の日」も大山会長の獅子奮迅の活躍があって実現したものだ。もちろん大山会長ひとりの実績ではなく、大山陣営とでも呼ぶべき丸田を始めとするその他の棋士もみなご苦労しているわけだが、将棋会館建設のための寄附募りなどは大山会長が足繁く大会社の社長クラスを訪問しての寄附要請という実績抜きには語れないだろう。
 大山は実績は歴代一位だが、棋士としての人気は兄弟子でありライバルだった升田幸三に敵わなかった。今も羽生を始め多くの棋士が「もしもの対戦」を願うのは升田がダントツだ。いかに秀でた感覚の棋士であったことか。私ごときでも升田の棋譜には心躍るものが多い。なんという異能感覚の優れた棋士なのだろうと感嘆する。
 それと比すと大山は最強ではあるが地味だった。だが、だからこそ、将棋連盟の一大イベントとしてすっかり定着したこの「将棋の日」のために奔走した大山の名を覚えておきたい。升田は「一棋士」としての立場にこだわり、大山のような将棋界全体のため、将棋普及のための活動はしていない。まあ弟弟子がそうだったから、という兄弟子としての反発もあったろうが、ともあれこの種のことに関しても大山の功績は偉大だ。





 今年の将棋の日は岩手県盛岡市で開催された。11月13日の日曜日。テレビでは12月4日の午後、Eテレで2時間特番が放送された。
 私はそれを大震災後の東北復興にあわせたすばらしい企画だと思った。そのことを絶賛しようと筆を取ったのだが、すこし調べて、どうやらそれは穿ち過ぎと気づいた。
 ここのところ将棋連盟はこの「将棋の日」を売り興行にしていると知る。それは将棋連盟のサイトに明記されている。つまり「将棋の日を開催したいと思う都市はありませんか?」と募っているのだ。そこには「棋士に交通費、宿泊費を負担してくれること」のような条件も明示されている。

 「がんばろう 岩手!」と題された盛岡で開催された今年の「将棋の日」を、私は、大震災後の東北復興のために将棋連盟が手持ち弁当で立ち上がった麗しい企画と解釈し、「やるじゃないか米長会長!」と感激しそうになったのだが、実際は昨年、震災前に募集され、盛岡市が応募し、当選して開催されたという、ただそれだけのことであるらしい。
 棋士は、震災後に千駄ヶ谷(将棋会館がある)駅前で募金を行ったり震災復興に積極的に行動しているから、おそらく出演料を募金に回すような義捐はしているだろう。でも「大震災があったから盛岡」ではなかったのは確かなようだ。それ以前から決まっていた開催地だった。





 秋の最大棋戦である竜王戦は、今年は「東北シリーズ」と呼べるものだった。第一局が山形県天童市、第二局が大阪市吹田市、第三局が富山県黒部市。そして、一番盛り上がった11月24日、25日の第四局が福島県福島市、決着のついた12月1日、2日の第五局が青森県八戸市だった。
 これもまた前年度から決まっていた日程と場所だったのだろうが、なんとも、最高に盛り上がった時期に福島、青森という開催地はタイムリーだった。
 竜王戦は海外でも開催する。名人戦を超える箔付を意識していることもあり、今までにロンドン、パリ、ニューヨーク、北京と、名だたる世界の大都市で開催してきた。その後、毎年恒例の海外対局は二年に一度となり、今年は国内開催の年だったのだが、世界のどんな都市で開催されるより、福島・青森は価値があったように思う。

 盛岡で開催された「将棋の日」も、福島・青森の竜王戦も、偶然でしかないのだが、東北の復興を願う身には、なんともうれしい開催地だった。

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【後日記】2012年1月6日──やはり決まっていた開催地

 平成24年2月号の『将棋世界』を読んでいたらこんな記事があった。平成26年の「将棋の日」開催地に関する募集要項である。応募締切は今年の5月末日、開催地発表は今年の12月としている。つまり平成26年の「将棋の日」開催地が、2年前の平成24年にはもう決まるのだ。
 ということからやはり平成23年の「将棋の日」が盛岡で開催されたことと平成23年、2011.3.11は無関係ということになる。ともあれ偶然でもいい開催地だった。

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★1──相撲協会に対する思い──

 当時、二階の椅子席でも6千円した。そしてそれをコネのない一般人が買うには徹夜で並ぶ必要があった。私は国技館で観戦したいと父のために徹夜で並んだ。きつかった。
 一方、枡席は、後援会等の企業を通じて売られている。つまり後援して寄附をくれる企業に場所前から売りだされずに提供されているわけだ。当然、おつきあいで後援も寄附もしているが、相撲に興味のないところも多いから、徹夜で並んで二階椅子席を買った一般ファン席は満員だが、枡席は空席ということも多かった。

 これは相撲協会がとった賢い経営方法であり、そのことを批判する気もない。この方法にしていれば、万が一一般の切符が売れなかったとしても、企業に買ってもらった切符代で入場料はすでに確保されているわけだ。

 だが私のようにコネもなく、枡席などとは縁のない庶民には、なんとも不快ではあった。

 私は一時相撲熱が覚めて距離を置いていた。父が相変わらず好きだったので、やがて晩年の父と語り合うために、また興味をもつようになるのだが、その原因はこのへんにある。血気盛んな若者として、自分には手のでない空席の枡席を、二階席から見ているのはつらかった。金の問題ではない。10万程度でしかない。そんなもの、父のためにキツいアルバイトをしてでもプレゼントした。売ってないのである。一般人に向けには売りだされてないのだ。当時、それほどの相撲ブームだった。北の湖の頃か。

 いま、大相撲はたいへんな危機にさらされている。私は物心ついた頃からの相撲ファンとして、大相撲を熱心に応援しているけど、心の片隅に「驕る平家は久しからず」の気持ちがあるのはたしかだ。

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★2──将棋を始めた頃──

 そもそも私の将棋は、そりゃ並べ方も遊び方も小学生のころに覚えて自己流で友人とはやっていたが、それは将棋とはほど遠い内容だった。父も兄も将棋を指さなかったので、そういう形で強くなることもなかった。まあ「駒の動かしかたを知っていた程度」であり、ああいうのは将棋とは呼ばない。

 この昭和50年のころ、アパートの隣人の学生が突如将棋に懲り、練習相手に私を選んだのである。彼もまたそれまでは「駒の動かしカかた」程度だった。ところが、じいさんや父親も将棋好きで、きちんと将棋を指せる幼なじみ(同じく大学生として上京していた)と再会し、彼に誘われるままに指したら歯が立たない。何十回、何百回とやっても相手にならない。それが悔しくて戦術書を買ってきて勉強を始めた。その彼とは離れていたから、とりあえずの練習相手に隣室の私を選んだ。

 彼が友人に負けたのは当然で、いま思えばその友人は初段はあったろう。強いひとだった。対して彼は飛車先の受け方もろくに知らないレベルだった。10級ぐらいだ。何百回やっても勝てるはずがない。彼は勉強してそういう初歩の智識を覚えた。練習相手に私を選ぶ。するとこれまた飛車先の受け方も知らない超初心者である。おもしろいように勝てる。私は音楽に夢中の時期で、将棋の相手をさせられるのは迷惑でしかなかったが、彼が友人にやられたように、何百回もいいとこなしに負けているうちに、突如闘争心に火が点いた。

 それから勉強を始めた。元々凝り性だったからその懲り具合も半端ではなかった。隣室の友人も私が勉強を初めて強くなってきたので、負けるものかとさらに研鑽を重ねる。新宿や渋谷の将棋道場にまで出かけるようになった。隣室の友人が師匠なら、彼の友人は大師匠だった。師匠に初めて勝てるまで半年ぐらい、大師匠に初めて勝つには一年以上必要だった。けっきょく最後はみな二段ぐらいになって並んだ。

 その師匠も大師匠も卒業して田舎に就職してしまった。そこで私の将棋熱も一息つき、その後も今に至るまでずっと将棋雑誌を読んだりテレビ将棋を見たりしてきたのだが、将棋の日に出かけるようなことはなくなってしまった。



 おどろいたのは、それから十数年後に外国巡りをするようになり、世界各地で将棋を指したのだが、一度も指していないのに私の棋力は衰えるどころか、むしろ強くなっていたことだった。それはまあそれだけ熱心に親しんでいたから当然なのかもしれないが、スポーツではこうはゆかないだろう。頭脳競技ゆえだ。外国に長逗留する無筋の将棋好きをみな赤子の手をひねるように負かした。連戦連勝である。チェンマイでなど酒を飲みながらでも三年以上一度も負けなかった。まちがいなく千連勝以上している。

 しかし、またひとつかなしいのは、さらにそれから十数年経ったいま、私はもうどうしようもなく弱くなっているということである。
 私は将棋の強さを「人生」のように考えていた。会社社長であり総理大臣である。
 さすがに60歳の会社社長や70歳の総理大臣ほどには思わないものの、40代の部長あたりがいちばん充実するものと思っていた。それはたぶんあまりに強い大山の影響がある。

 40代、50代の大山が強く、中原以外の20代など相手にしなかったものだから、24歳で名人になった中原は特別の天才で、将棋において、20代は未熟な若造、人生と同じように30代になって充実し、40代で完成される、のような勘違いをしてしまった。

 実際は、将棋は挌闘技であり体力勝負でもあるから、いちばん強いのは20代であり、そこからはもう衰えるのである。いま羽生世代が40代を迎えてもがんばっているが、それは特別に強い世代であり、谷川世代を見ればわかるように、みな20代でタイトルを取り、40代となった今は、谷川と高橋ががんばっているが、あとはみなもう凋落してしまった。

 二十歳の頃に将棋にこり、それからずっと実践をしてなかったのに、30代なかばでもっと強くなっていて、道場に行ったら三段だったことに感激した私は、そのまま40代、50代とより充実するものだと思っていた。だが現実は、40代後半からもうボロボロになってきて、50代になったらもう考えることが面倒で(これはとても重要なことだ)、適当に指したらそれが凡手で、考えられないような負けが連発するようになった。でもこれは一流棋士もそうだから、よくあることでしかない。

 そう思えば思うほど、60代後半でも一流棋士であった大山の偉大さが際立つ。中原、米長でも、50代後半になったらもうA級を維持できず引退せざるを得なかった。あらゆる分野を見ても、鉄人という尊称が大山ほど相応しいひとはいない。だがその鉄人も癌には勝てなかった……。

12/12
 加藤桃子、初代女流王座に!



奨励会員の加藤が初代女流王座に 将棋リコー杯

3勝2敗で清水六段を破る将棋の第1期リコー杯女流王座戦(特別協力・日本経済新聞社)の五番勝負第5局が12日、東京都渋谷区の将棋会館で指され、先手の加藤桃子奨励会1級(16)が清水市代女流六段を破り、対戦成績3勝2敗で初代女流王座を獲得した。女流棋士資格を持たない奨励会員が女流タイトルホルダーとなるのは初めて。日本経済新聞 18時5分。


棋譜は清水が投了し、加藤が初代女流王座に着いた瞬間。

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五番勝負。第一局は10月22日。加藤桃子を応援していた。2勝1敗とリードしたとき、4戦目の12月6日に決めてしまえと願ったが、有利な将棋を、歩の打ち所をまちがえて逆転負けした。5六歩と控えて打てば完勝だった。それによって即詰みに討ちとらねばならなくなった。詰まなかった。今日は2勝2敗からの決勝戦。泣いても笑っても今日で決まる。緊張した。私が緊張してもしょうがないが(笑)。



私は羽生を応援している。二十代の渡辺に負けたときは落胆した。谷川の復活を願っている。イチローの200本安打記録が途絶えたのを嘆き、なんとか武豊の24年連続GⅠ勝利記録が達成されないかと祈っている。
そういう保守派?としては、羽生と同世代の最強女流棋士として長年棋界に君臨してきて、ここのところ立て続けに〝出雲の稲妻〟里見香奈に敗れて無冠になってしまった清水市代を応援するのが筋だろう。

清水は無冠になったとはいえ今年も、倉敷藤花戦の挑戦者になり(里見に2連敗で敗れる)、年明けから始まる女流名人戦も挑戦者決定リーグ9戦全勝で挑戦者になっている。元々は全冠保持していて「女羽生」と言われた最強女流棋士だ。ここのところの失冠は、いわば「2着続きのブエナビスタ」みたいなもので、本来なら私は清水を応援せねばならない。





これは将棋史上に残る美しい傑作ポスターだ。凛とした清水、清冽な加藤。和服の清水のりりしさ、加藤の少女らしいふくよかさ。これぞ大和撫子、究極の美。世界に誇れる完成度。将棋ファンすべての誇り。すばらしい!



ましてこのリコー杯は、今回が創設されての第一期。優勝賞金は女流最高の500万円(マイナビ女子オープンと同額)。第一期なのでトーナメント戦。勝ち上がったふたりの決勝戦が女流王座を決める5番勝負になる。最強清水の復活の舞台として最高ではないか。いつもなら清水を応援したろう。



が、加藤桃子の魅力はそれをしのいでいた。
現在、奨励会1級。だいたい女子は3級ぐらいで頭打ちになる。日本中の将棋の天才が集う奨励会で、ここまで来るだけでたいしたものなのだ。女子としては図抜けている。

3級ぐらいで頭打ちになった女子は、奨励会を退会し「女流」になる。男子に混じって指す奨励会出身は3級ぐらいでも女流としてはトップクラスだ。すぐにタイトル戦に絡み、タイトルを奪取したりする。それは過去にも千葉や矢内が証明している。そもそも初代女流名人の蛸島さんも奨励会出身だ。林葉も中井も奨励会に在籍していた。タコちゃんだけさんづけしてしまった(笑)。しょうがない、別格だ。

一方、奨励会とは関わらず純粋に女流としての道を歩み、最強の座についたのが清水になる。高校生の頃からつよいひとだったが、このひとは純粋なアマチュア出身だ。眼鏡を掛けていた制服姿の清水をよく覚えている。
林葉、中井と三強と呼ばれていたが、いつしか一強になっていた。獲得タイトル数は群を抜いている。これはこれで「奨励会出身(=退会者)ではないという誇り」をもっていることだろう。





いま女流棋士最強の里見は、逆に女流の枠を飛び出して奨励会に挑戦した。これも立派だった。女流として栄誉栄華の中にいるのに、女子として初のプロ棋士(奨励会三段リーグを勝ち抜いて四段になったものだけに与えられる称号)に挑むべく19歳で奨励会1級試験に挑んだのだ。奨励会2級の連中との勝負での勝ち越しが合格ラインだった。その相手の中に16歳の加藤桃子2級もいた。

里見は18歳で女流三冠を達成したヒロインだった。日本将棋連盟機関誌の『将棋世界』でもカラーグラビアで扱われている。男子高段者との特別対局も組まれたりしている。
奨励会とは無給の棋士養成所である。華やかな女流三冠とは対照的な場だ。そこで加藤は腕を磨いている。女として初のプロ棋士になるために。

その自分たちの研鑽の場に、女流三冠が降りてくる。敢えてその場に挑んでくる里見も立派だが、迎え撃つ加藤も燃えていたろう。自分は奨励会の一員なのだと。自分には「女流」という肩書きはないのだと。

里見の奨励会1級合格条件は、2級の3人と指し、2勝することだった。里見は2勝1敗で合格し、奨励会1級となる。このとき里見に唯一土をつけたのが加藤桃子2級だった。後述する伊藤沙恵は里見に敗れている。

今回の奨励会員加藤桃子の王座戦登場も里見が作ったもの、とも言える。
林葉直子を始め、女流棋戦を盛りあげるため奨励会と女流のかけもちを許されたものも過去に何人かいた。しかし弊害もあり禁止された。
それが今回、里見三冠の女流と奨励会かけもちを認めるという特例措置から、その他の会員にも全面的に認める、ということになった。これがなければ加藤と伊藤の活躍はありえなかった。





加藤桃子は父親から将棋の手ほどきを受けている。父は高校教諭。将棋部の指導をしていた。こどものとき、一時奨励会に在籍している。母もアマチュア女流名人戦に出場したほどの強豪だ。父母は将棋を通して知り合い結婚した。そして生まれてきた桃子は英才教育を受ける。すぐに才能を発揮して、父の夢を叶えるため小学校6年の時、奨励会に入る。

その父が、3年前、桃子が13歳の時に急逝した。51歳だった。女流に転向すれば華やかにやって行けるだろうに、桃子はプロ棋士の四段になることにこだわる。「お父さんとの約束だから」。応援せずにいられるか。



今年から規約が変わり、「奨励会在籍の女子は女流棋戦に出場できる」とされた。当然のごとく加藤桃子と、同じく1級に在籍しているライバルの伊藤沙恵は女流棋士を破って勝ち上がっていった。準決勝でふたりは対戦した。トーナメント組み合わせによっては十分に加藤と伊藤の決勝戦もありえた。ヒロインになっていたのは伊藤かも知れない。
(ここまですべて人名を変換できたGoogle日本語入力が「いとうさえ」だけ正しく変換出来なかった。残念。がんばれ伊藤沙恵、もっとメジャーになれ。)




初戦で、女流王将だった千葉四段を破る。千葉もかつては奨励会に所属していた。二回戦で、里見三冠を破った岩根二段を破る。岩根もかつて奨励会に所属して1級まで昇進している。これは女子の最高記録になる。
この時点での加藤も伊藤もまだ2級。このあとの奨励会の成績で1級に昇級する。

女流棋界の錚々たるメンバーが揃っている。このトーナメントは「本戦トーナメント」である。この前に一次トーナメント、二次トーナメントがあった。タイトル保有者や清水、中井、矢内のような実績のある棋士はみな二次トーナメントから。加藤や伊藤はアマ代表も参加している一次トートナメントから勝ちあがってきた。
そのふたりが準決勝でぶつかっている。ここまで奨励会におけるふたりの戦績は加藤の5勝4敗。ここで勝って6勝4敗となる。
これらを見れば、いかに加藤がいま充実しているかが解る。本物なのだ。偶然やシンデレラガールなのではない。



現在女流将棋界は里見の一強時代だ。清水は勝ちまくっているが、どうしても里見には勝てない。これは大山が全棋士に強いのに中原にだけは勝てず中原時代になってしまったのと似ている。だからもう清水時代の復活はないのだろう。むしろ40代になりながらあれだけ勝ちまくっていることに感動する。

里見以外のタイトルホルダーには、マイナビ女子オープンと女流王位の二冠を保持していた甲斐智美がいる。これはともに清水から奪ったものだ。清水がタイトルを獨占していたから清水を負かせるようになればタイトルに手が届いた。その甲斐から女子オープンのタイトルを奪った上田初美がいる。清水が復権するとしたらこのあたりだろう。上田は清水との対戦成績は圧倒的に悪い。だが清水は里見には勝てない。いや来年早々女流名人戦が始まるのにこんなことをいま言っては失礼か。

私は里見の将棋が好きだ。男っぽい力将棋だ。ゴキゲン中飛車での攻めにはぞくぞくする。それでいて、ふっと手をもどしたりする。そのへんの距離感が女流では抜けているように思う。これからさらに強くなるだろう。



その里見に勝てる逸材が登場した。加藤桃子だ。これまた男っぽい。ゴリゴリ音がするような攻めをしたかと思うと、詰みなしと読みきって相手に手を渡したりする。今日の決勝戦も最後はそれになった。盤にかぶさるようにして躰を揺らしての長考など、とても16歳の娘には見えない。同じ加藤だから一二三さんの系列か(笑)。

里見も一強時代はつまらないだろう。奨励会入会試験でも敗れた真のライバルが檜舞台に登場してきたのだ。ふたりが争うタイトル戦もそのうち実現する。
でも加藤の狙うのは女流のタイトルではない。父の夢だったプロ棋士だ。女子としてまだ奨励会で段持ちになったのはいない。加藤桃子と伊藤沙恵はいま、手の届く所まで来ている。

これまで奨励会で1級まで進んだ女子は、蛸島彰子、岩根忍、甲斐智美のみだった。林葉、中井、矢内、千葉(旧姓・碓井)らも届いていない。その3人はみな女流に転身した。女子から初のプロ棋士という夢は、加藤、伊藤、そして転入してきた里見の3人にかかっている。

亡き父の夢を叶えるまでの道は遠い。果たしてどこまで登れるか。女流での成績とは関係なく、奨励会員として応援してゆきたい。
今夜は、天国のお父さんもよろこんでいるだろう。お母さんもうれしいだろうなあ。娘が頂点に立ったのだ。
おめでとう。ますますの活躍を!

女子の奨励会における最高クラスは、蛸島彰子が優遇措置を受けて初段になっているが、厳密には最高位は1級である。私はそう解釈している。よって「女子で初段まであがった者はいない」とした。

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追記・──上記、「お父さんとの約束」と書いたが、この16歳の娘さんは今回の王座戦での記者会見では、きちんと「父との約束ですから」と「父」と言っている。礼儀正しく言葉遣いがしっかりしているのを複数のひとが誉めていた。育ちがよいのだ。亡き父の薫陶か。
現在は静岡県で暮らす母と離れ、母の実家の東京で祖母とのふたり暮らし。高校は通信制で日中は将棋の勉強に没頭している。一緒に暮らすおばあちゃんも今回の優勝はうれしかったことだろう。

リコーは長年将棋普及に熱心な会社だった。学生強豪も数多く入社している。今回初めて自社の冠をつけた棋戦を作ったのだが、あれだけの社会人強豪チームを擁する会社としては遅すぎるぐらいだった。第一期の女流王座にふさわしいひとを得たと思う。望ましい大団円だ。

追記・2──12月13日。今日はさすがにニューヒロイン誕生ということで多くの紙がこのことを報じていた。サンスポでは競馬に強い同紙らしく、デビューから2戦目でG1を勝ったジョワドヴィーヴルに掛けて「強い乙女」を強調していたが、将棋ファンに伝わったかどうか(笑)。




この壁紙は
http://www.geocities.jp/shogi_e/haikei/backtop.html
より拝借しました。

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