2009
2/25
 王将戦第五局──羽生、追いこまれる

 自宅で仕事をしながらリアルタイムで進行する棋戦の棋譜を見られる。なんともありがたい時代になった。竜王戦中継には手に汗を握り一喜一憂したものだった。
 年頭の棋戦は王将戦。羽生王将に深浦王位が挑戦中だ。対戦成績がいま26対25という唯一の羽生キラーである。あの強い佐藤や谷川ですら大きく負け越している羽生と互角に戦うのだからすごい。

 2対2のあとの第五局、ここで勝った方が大きく有利になる。
 午前中から夕方まで、PCに向かいながら観戦した。指し手があると駒音が聞こえるので判るようになっている。2チャンネルの「将棋板」では好事家がああでもないこうでもないと意見を出しあっている。いろいろと問題のある2チャンネルだが、「将棋板」や「相撲板」での書きこみを見るとプラスの価値を思う。もっともどんな「板」にも狂ったのはいるのだが……。

 深浦の飛車を羽生が閉じ込め、完勝すると思われた。そこでPCから離れた。



 深夜に確認すると、そのあと端から攻められた羽生が、あっさりと投了していた。意外だった。おどろいた。
 端攻めの価値と、成桂が役だった「王は挟むように攻めよ」の典型例のような一局だったが、どうにも羽生に変調を感じる。実際解説の冨岡八段が「大差、終局間近」と言ったように、63手目ではもう深浦はどうしようもなくなっていた。


 ここで8五龍とすれば安全勝ちだった。なのに9九龍と行っておかしくなる。

 羽生が自滅したような奇妙な将棋だった。どういうことなのだろう。心配である。これで深浦が王手。次局で「深浦王将」が誕生するのか。深浦も「二冠」は初めてである。



 これでふたりの対戦成績は26対26。これだけの盤数をこなして羽生と互角の棋士はいない。今の王位も羽生から奪ったものだ。
 とはいえ、羽生ファンの私でも、彼の獨走だけを願っているのではない。深浦のようなひともいてくれなくては困る。

 さらにいえば私は深浦が四段のころから好きだった。同じく木村も新四段になったころから好きだった。だけど残念ながら彼は見事に八段、A級にまでは上ったが、どうにも王者である羽生や渡辺には勝てないようだ。

 こういうことを書くと有能な棋士なら誰だって最初から好きだったと言われそうだが、羽生世代の後、深浦や木村のように好きだった棋士はいない。
 思えばあの頃はテレビ東京の「早指し将棋選手権」があり、そこにまた「新鋭戦」があったから、彼らの将棋に触れることが出来た。毎週缺かさず見ていた。録画もしていたが、日曜の早朝、私は起きていることが多かった。それから寝るのだが。いま早朝型の生活なので当時の夜が明けてから寝る生活がうそのようだ。いま早指し将棋選手権があっても私は缺かさず見るだろうが、それは寝ていないのではなく起きてみる、になる。



 名人戦だけはまだ有料。
 竜王戦を無料で中継した讀賣はほんとに太っ腹だった。

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 羽生防衛!

 これで3-2と王手を掛けられた羽生だったが、そのあと第6戦、第7戦を連勝して4-3で王将位を防衛した。敗れたとはいえ羽生キラーの深浦は見事である。だが残念ながらA級は陥落してしまった。来年、すぐに復帰するだろう。羽生キラーの存在は羽生にもいいことだ。
2/24  米長と対立するmtmtを知る

 米長会長は困ったひとである。それは前から感じていた。彼のサイトを読んでいると、とてもまともな感覚をもった人間とは思えない。なんとも奇妙なのは、常人とは異なった異様な感覚を得意気に吹聴していることだ。彼を表するのに何人ものかたが使っている表現だが、「裸の王様」は言いえて妙である。
 それが棋士としての個人サイトならまだ許される。異能感覚も持ち味になる。だがこの人のサイトは個人と将棋連盟会長としての区分がない。すなわちその区別がつかなくなってしまうところがこのひとの異常なところになる。



 現役時から私はこのひとが好きではなかった。本能的な反感である。それを書くと長くなるから省くが、個性的な私人としてはともかく、「組織の長になってはならないひと」とは強く思っていた。本人はなりたくてたまらない。懸命に下工作をする。だが「6人枠の理事に7人が立候補──ひとり落選──それが米長」のような現実があったから、棋士たちもわかっているのだろうと安心していた。

 ところがいかなる権謀術数が功を奏したのか将棋連盟会長になってしまった。暗黒時代の始まりである。そう感じるのは一将棋ファンの私の感覚であり、棋士達は彼を支持しているのかも知れない。あくまでも傍目の感想だ。
 とはいえ、彼を頂にあおいでの将棋連盟のやることにはあまりに支持できないことが多い。



 mtmtとは将棋のネット中継に、ソフトハードの両面から尽力してきた将棋ライター・松本博文さんの、愛称というかハンドルネームというか、そういうものであるらしい。むろんマツモトがmtmtであることはわかる。以下、米長と呼びすてにし、片方をさんづけでも変なのでmtmtと表記する。

 このかたが米長会長の横暴というか脱線というか、そのことを正面から批判していることを知った。2ちゃんねるの「将棋板」である。そのことを知って読むと、米長の「さわやか日記」なるものでの「それらしき批判」も、mtmtのことなのだとわかり、両者の溝の深さが理解できた。
 mtmtのブログを読了しての私の感想は、極めてまっとうなもの、となる。とにかく米長が異常なのだ。2ちゃんねるでの米長批判もみな納得できるものばかりだった。
 対して米長は、理事もみな一丸となっていると自分が仲間から支持されていることをホームページからアピールする。



 ところで、私は将棋界のコピーライター(笑)原田八段の命名にはだいぶ疑問を持っているのだが、その最たるものがこの「さわやか流」になる。このひとをさわやかと思ったことがない。だから後年「泥沼流」が浸透してきたのはうれしかった。このひと、泥沼である。
 私が名づけるなら「米長外連流」である。いつだって大向こう受けばかり狙っている。
(と書いて、このことをもっと書きたくなったので「原田流命名の思い出」として獨立させた。)



 mtmtは獨立した女流棋士団体LPSAと近しいようだ。私もLPSAを支持しているのでここでも感覚は近い。
 mtmtのブログによると、かつては日本将棋連盟の契約社員のような立場だったらしく、米長との「君は連盟に帰ってこないのか」「会長が女流をいじめているあいだは無理です」のような会話が公開されている。
 近い位置にいたので、米長のセクハラ発言等にも現場で接していて、それをブログでバラしたりしている。
 そこから米長の権力を使った「松本つぶし」が始まる。いかにも権力をちらつかせた威嚇を「さわやか日記」に書く。なにが「さわやか」なんだか。

 mtmtはそれにやりかえした。米長のオフレコ発言等を紹介し、「お望みならもっと書きましょうか」とやったのだ。
 私はこの流れを見たとき、mtmtはあぶないと思った。mtmtのやったことは、世の常識、インターネットの力を背景にした闘い方だ。それは今の世では計り知れないほどの力を持っているが、かといって米長との戦いに有効かというと疑問だ。だって米長は日本にひとつしかない職能集団「日本将棋連盟」の会長であり、mtmtの仕事は、その中の一部なのだから。

 米長のようなひとは平然と権力を使って個人つぶしにかかる。mtmtがどんなに優れた中継技術を持ち、ライターとしての能力を持っていたとしても、事は「将棋」なのだ。なら「日本将棋連盟会長」の方が絶対的に強い。
 米長は権力を使い、中継現場から松本記者をパージする手に出た。日本将棋連盟会長が全権力を使い、気に入らない将棋記者ひとりをつぶしにかかったのだ。

 mtmtが棋戦の現場に行き、いつものようにパソコンを使ったネット中継の準備を始める。黎明期からmtmtが苦労して築きあげてきた現場である。それをこなせるのはまだ数人しかいない。前々から契約を結んでいる仕事だ。すると棋戦の担当者が、申し訳ないけど今日は遠慮してくれと言ってくる。米長からの圧力だ。

 棋戦の担当者(新聞社の将棋係等)からすると、mtmtがネット中継の第一人者であり、苦労して開拓した分野なのは知っている。しかし将棋連盟から「松本を使うな。使うなら将棋連盟は一切協力しない」と言われたら切るしかない。将棋連盟に代わりはない。だがmtmtの代わりなら、実力は落ちても、なんとかなる代理がいる。結果、mtmtは当日その場で切られた。断腸の思いだったろう。米長は快哉か。

 そのことに対しmtmtは自身のブログに、LPSAの顧問弁護士の名で抗議文を掲載した。同時にこの文章はLPSAのサイトにも掲載された。内容は「こういうことが許されていいのか」というようなものだ。

 それに対して米長はLPSAの代表である中井に質問上を手渡し、「これはLPSAが絡んでいることなのか」と問うた。自身のサイトの「さわやか日記」で、「中井さん、御返事まだあ」と何度も書いた。異常な人間性をよく表している。
 とはいえ、いくらmtmtがLPSAと近しいとはいえ、mtmtを擁護する抗議文がLPSAのサイトに載ったのもまた奇妙ではある。いやmtmtの米長との戦いは、LPSAに対する理不尽ないじめに対する義憤のようなものだから、それぐらいあって当然とも言えるが、戦略としてはまずかったろう。こんなことをしたら米長が「LPSAとmtmtはどのような関係なのか。そこをはっきりしていただきたい」と斬りこんでくるのは目に見えていたのだから。
 ところが、上手にやれば米長にも分があったものを、相手の弱点をうまく握った底意地の悪いこどものように、毎日毎日「中井さん、御返事まだあ」をやるものだから、ここでも米長の異常さのみが際立ってしまった。だめだこりゃの世界である。どうしようもないひとだ。



 この辺の流れは2ちゃんねるの「将棋板」でも異常な盛り上がりを見せ、99%の松本支持者と1%の米長支持者の激しいやりとりが延々と続いた。今も続いている。

 米長がまともでないことは論を待たない。話の流れとして私は絶対的にmtmtを支持する。これは心ある将棋ファンならみな一緒だろう。mtmtの言っていることの方が正論だ。
 だがmtmtは自身の立場をどう考えていたのだろう。そこにも疑問はある。将棋連盟と縁を切り、LPSAの仕事だけで生活が成りたつのならあのやり方は正しい。だけど今まで通り順位戦を始めとする将棋連盟の仕事をしつつあのような戦いをするつもりだったのなら、それはおかしい。ああいう形になったら、米長に限らず誰でも権力者はmtmtを切ろうとする。それが自然だ。
 いわば「元社長秘書がその会社に勤めながら社長のスキャンダルを吹聴するようなもの」だ。どんな社長だってそんなヤツは辞めさせようとする。俺の悪口は俺の会社を辞めてから言え、となる。なぜmtmtはこんな半端な戦いを始めたのか。それは輿論やインターネットが「組合」となって自分を守ってくれると思ったのか。

 私はmtmtの意見を支持する。
 同時に、将棋連盟の仕事をしつつ将棋連盟会長の批判を始めた彼から、会長が権力を使って仕事を奪おうとするのもまた当然と考える。米長は嫌いだが、米長のやったことはひととして自然だろう。そもそもあそこでmtmtの意見を素直に受けいれて反省したり、そこまでは行かなくても、自分への批判をしらんふりできるだけの器量があればそれは米長ではない(笑)。むきになって潰しに来るのが米長だ。

 mtmtに関して甘いと思うのは、米長がそんなことはしないと思っていた節があることだ。一将棋中継記者である自分が米長の下半身スキャンダルのようなことをちょいとブログに書いただけで、まさか自分からすべての仕事を奪おうとするようなことをするはずがないと思っていたように見える。とするなら、mtmtは米長の異常性、幼児性をとことん知りつくしているようで、まだまだわかっていなかったことになる。



 米長が快調でいる限り、mtmtが追い詰められて行くことは間違いない。渡辺竜王のようにmtmtと個人的に親しく支持している棋士もいるし、LPSAの発足パーティには羽生が来て祝辞を述べたように、棋士それぞれは意見を持っているようだ。
 それでも組織の長に米長がいる限り、mtmtに勝ち目はない。
 これからどんな展開になるのだろう。

 光明は、LPSAの奮闘により、将棋連盟の方も自分達の方の女子部に力を入れ、女子プロ将棋がそれなりに活況を呈していることだ。

2/26  女流名人戦を見る──矢内対清水

 矢内対清水の女流名人戦もインターネットでリアルタイム観賞が出来た。すばらしい時代である。主催はスポーツ報知。がんばっている。

 PC作業をするかたわら、そのサイトを開いていた。指し手があると駒音がするのでわかる。
 ここまで5番勝負2対2、今日が決勝戦。

 不況の中、女流王将戦が中止になった。休みというのだが、果たしてまた再開されることはあるのかどうか。
 気の毒なのは女流王将の清水だ。いま持っているタイトルはこれだけ。それが中止になったものだから、今年の10月までは「女流王将」を名乗るが、そこからはこの名は返上せねばならないらしい。まあ棋戦がなくなったのだからしかたない。
 先日保持していた倉敷藤花も里見に取られてしまった。里見が高校生なものだから、新星誕生と世間は里見ばかりを囃したてた。すこしばかり清水に同情した。

 長年女流棋界に君臨してきた清水が、この名人位を奪取できなかったら、それこそ10月から無冠になるという事態が出現する。
 ということでも話題になっていた。



 さて、私は矢内名人と挑戦者の清水王将のどちらを応援していたのだろう。
 心情的に獨立したLPSAを応援しているので、直前まで獨立派だったのに、説得され寝返った矢内には釈然としないものを感じている。もしも矢内がLPSAだったなら迷うことなく矢内支持なのだが。

 清水というひとはあまり好きではない。なんというか、「米長的」なのである。上手なあいさつ、というのか、気の利いたスピーチというのか、米長的なそういうものが好きなひとにはたまらないだろうが、私には鼻につく。受けるスピーチをするための努力の部分が見えて鼻白む。それでいて文章を書くと、いきなりキャピキャピギャル(笑)みたいな今風バカ女の文を書く。好きなひとには、それもまたくだけていて好印象、となるらしい。私は白ける。

 生真面目な娘が圧倒的成績を残し、女王としてふさわしい存在でいようと、すこしでも普及にも役立とうと、しゃれたスピーチをし、とっつきやすい文章を書こうと、一所懸命努力しているのだ。好意的に見てやれよと自分を叱りたくなるが、生理的にだめなものはだめだ。

 私からすると、このひとは本来シャレていないのである。しゃれていないひとが、しゃれたスピーチを頭脳で考えてしたりするから、あまりおもしろくない。一例を挙げると、倉敷で行われる倉敷藤花戦のあいさつは「ただいま」から始める。長年倉敷藤花のタイトルを保持し、倉敷は第二の故郷的な意味あいをもたせた、いかにもしゃれてないひとが考えたしゃれたつもりのあいさつだ。この辺のセンスが「米長的」なのである。



 どっちが勝ってもいい女流名人戦は、前半矢内がリードし、清水の攻めは切れたと思っていたが、矢内に一失があり、攻めを繋いだ清水が、結果的には圧勝となった。
 これで10月に女流王将の肩書が消えても名人を名乗れるわけである。

 どっちが勝ってもいいと思っていたが、無冠になる清水を見てみたいという意地悪な気持ちがすこしだけあったことに、あとで気づいた。自分の根性のわるさを知る。つまりは清水が嫌いだったのか。

1/20   将棋戦法とプロレス

 物心ついたときからプロレスが好きだった。相撲も好きだった。将棋は小学生のときから指せたけど本気で学んだのは二十歳からだからだいぶ遅い。その頃から競馬にも参加した。
 それらを好きな根源はみな同じで「どっちが強いか!?」である。子ども心に思った「虎とライオンではどっちが強いのか」が基本だ。「本気になると象が一番強いらしい」なんて話も好きだった。こういう感覚もまたその後の将棋や競馬にも影響を与えている。

 将棋ペン倶楽部のブログに以下の文があった。同感である。同じ事をみな考えているのだ。

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棋士とプロレスラー

10年以上前から感じていたことなのだが、昔の棋士とプロレスラーには共通点があったように思う。
将棋は「三間飛車の大野」「四間飛車の大山」「向飛車の升田」「ツノ銀中飛車の松田」「腰掛銀の小堀」「木村後手不敗の陣、銀歩三戦法」「日本一の攻め、高島」「妖刀 花村」「荒法師 灘」「小太刀の名手 丸田」「神武以来の天才 加藤(一)」など、一癖も二癖もありそうな棋士が、得意戦法や技を持って活躍していた。棋士に(○○流ではない)プロレス的なキャッチフレーズがついていた時代だ。

昔のプロレスも、外人レスラーのキャッチフレーズと得意技が明らかだった。
ザ・デストロイヤー=魔王=四の字固め
フリッツ・フォン・エリック=鉄の爪=アイアンクロー
フレッド・ブラッシー=銀髪鬼=噛み付き攻撃
アブドーラ・ザ・ブッチャー=呪術師=地獄突き
キラー・バディ・オースチン=狂犬=パイルドライバー
ディック・ザ・ブルーザー=生傷男=アトミックボムザウェー
クラッシャー・リソワスキー=粉砕男=メリケンサック攻撃
ブルーノ・サンマルチノ=人間発電所=カナディアンバックブリーカー
ルー・テーズ=鉄人=バックドロップ
スカル・マーフィー=海坊主=冷酷な反則攻撃
ブルート・バーナード=獣人=度を越した反則攻撃

現代は、ひとつの必殺得意技(戦法)だけでは成り立たなくなっている時代なので、昔のプロレス的なキャッチフレーズはつきにくくなっているのだろう。個人的にはプロレス的(東京スポーツ的)なキャッチフレーズは大好きだ。
「さばきのアーティスト」よりも「さばきの荒法師」のほうがプロレス的になる。
里見香奈倉敷藤花の「出雲のイナズマ」は、ややプロレス的な味わいのあるキャッチフレーズかもしれない。


http://silva.blogzine.jp/blog/2009/01/post_19c5.html#comment-20557004

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 ここで取りあげているのは「棋士とプロレスラー」だが、同じように力士にも獨自の異称があった。名馬にもあった。そういう意味で私の好きなプロレス、相撲、将棋、競馬は、みな共通している。
 私はこどものころから野球やサッカーのような団体種目にはあまり興味がなかった。一応ON砲のファンではあったが。
 こうして趣味を振り返るとあらためて個人戦が好きな自分を知る。



 大山対中原は、いつも大山の振り飛車、中原の居飛車だった。それを前提に、大山が四間に振るか、三間に振るか、中飛車か、向い飛車かに興味が集まる。飛車の位置により対応も変る。それに対して中原が急戦で行くか、玉頭位取りの持久戦で行くか。見馴れた光景の安心感があった。しかしまたそこからの分枝は限りない。
 御約束の振り飛車対居飛車の戦形になり、淡々と進む駒組は、いわば相撲の仕切りの時間であり、後々の激突に向かって気分は高揚して行くのだった。
 それは馬場対エリックやブラジル、ドリー、レイスの戦いのように、型にはまった中盤まで安心して見ていられるプロレスだった。

 みな得意戦法を持ち、常にそれで闘った。どんな駒組になるかは闘う前からわかっていた。それでいてそれが楽しみだった。



 とはいえ最初の名人戦で2-3と追いこまれた挑戦者中原は、いきなり振り飛車をやっている。桧舞台で相手の得意技を使ったのだ。後の、猪木がハンセンに繰りだした相撃ちラリアート、あるいは藤波の掟破りの逆サソリに通じる発想だった。
 自分の得意戦法を中原にやられ、居飛車で対抗した大山が敗れてしまう展開が痛烈だった。



 無難な駒組が進み、組み上がってから戦いの始まる「大山の振り飛車対中原の居飛車」をプロ将棋の「是」とし、長年見馴れてきた将棋ファンにとって、谷川の登場は鮮烈だった。王を囲わないままのいきなりの乱戦。短手数での決着。衝撃的だった。「光速の寄せ」に心が震えた。
 大山中原時代の美を「60分フルタイムの死闘プロレス」とするなら、谷川将棋はゴングと同時に一気に動き大技が炸裂し、休むことなく動きまわって短時間で終息するハイスパートレスリングである。あるいはパンクラス的「秒殺」の世界か。谷川の登場は将棋シーンを変えた。あたらしい時代の到来だった。



 その谷川を羽生が超える。
 羽生は偉大だ。偉大すぎる。あまりに万能だ。なんでも出来る。なんでもやる。居飛車で振り飛車を破り、次にはその敗れた振り飛車を自分でやる。
 中座流が流行ればやってみる。藤井システムが話題になれば躊躇なく取り組む。すべてを使いこなし、新たな局面を切り開いて行く。自分の作った新定跡に自分で挑み、さらにあらたな定跡を作る。あまりに万能過ぎて色がない。いや色はある。「羽生色」というこの世にただひとつの色だ。だが凡人の私にはその色が見えない。

 偉大な羽生を今のろくでもないプロレスに譬えるのは失礼だが、それは誰もが大技を駆使し技にもレスラーにも色のなくなってしまった今のブロレスに似ている。



 キラー・カール・コックスが相手の頭を腋の下に抱えブレーンバスターの態勢に入ると、バディ・キラー・オースチンが股に相手の頭を挟みドリルアホール・パイルドライバーの態勢に入ると、ビル・ロビンソンがリバース・フルネルソンで相手を抱えると、観客席からは悲鳴が上がった。その技が出たら確実にスリーカウントが入る。シングルだったらそれで終り。ロープに手足を伸ばしたりして必死で防いだとき、タッグだったらパートナーが飛びだしてそれを阻止したとき、観客からはほっとした空気が流れた。危機脱出。あれが決まったら終りなのだ。

 そんなプロレス様式美はハンセンのラリアートを最後に終ってしまった。連発されるラリアート、ジャーマン・スープレックス、つまらなくて見ていられない。小橋の連打ペチペチチョップ。バカだ。なぜ一撃必倒のチョップにしないのか。



 競馬では武豊の罪がある。「馬と騎手」という物語を消してしまった。強い馬には政治力を駆使して何でも乗りに来る。昨日の敵を今日の友にしてしまう。敵だったオグリキャップに乗ってあらたな物語を作りだしたあたりまでは新鮮だったが、今のように何にでも乗ってくるとやり過ぎだと思う。競馬がつまらない。
 競馬は馬で語りたい。だが騎手も無視できない。だったら馬と騎手は一体であって欲しい。いつもコンビであって欲しい。慾張りな武豊は優れた馬にはすべて乗りたがり、実際に乗り、あらたな物語を作りだした。それは騎手の魅力を高めたが、同時に「馬と騎手、コンビの物語」を殺したことでもあった。

 たとえば不人気で皐月賞を勝ち、スターホースに駆けあがっていったメイショウサムソンなんて地味な血統の安馬は、地味で不細工な石橋とのコンビが物語なのであって、武が乗ってきたらつまらなくなる。実際つまらなくなった。メイショウサムソン物語は石橋で語られるべきなのだ。

 そういえばこの物語には「トウカイテイオーと岡部」という悪しき前例があった。7戦全勝で皐月賞、ダービーを制した安田が何で降ろされるのだ。
 ウオッカと武豊もしっくり来ないが、これは四位の乗り方に問題もあった。降ろされて当然、というか、降ろしたくもなるだろう。だが安田は全勝していた。降ろされる意味がない。安田というこれまた小倉あたりで活躍する地味な騎手(調教師になった今もだれもが絶讃する人柄)でこそトウカイテイオー物語だろう。

 池上を降ろした有力馬主のトウショウボーイが福永、武と当時のスタージョッキーを乗りかえていったのに対して、新人馬主のテンポイントは常に二流の鹿戸だった。それが美しかった。

 馬主からの要請があっても愛弟子を護り、頑固に替えなかった岩元調教師のお蔭で成立した「テイエムオペラオーと和田」は美しい。オペラオーがいなくなったら和田はGⅠを勝てない。物語はそれでより輝く。

 東西の対抗意識は楽しい。それも武はなくしてしまった。垣根はあったほうがおもしろい。武は競馬における騎手の地位を高めた。そのことによっておもしろくなった面もある。だがつまらなくしてしまった事も多々あるのだ。
 武には、ぜひとも「アドマイヤには乗らない」だけは貫いて欲しい。それがいま武に関わるいちばんおもしろい物語だ。手打ちしてまた乗るようになったらどっちらけになる。意地でも貫いて欲しい。関東ではアドマイベッカムの件から三浦は乗らないだろう。これも興味津々の物語だ。

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 ディープインパクトは語りつがれる愛称を得ることが出来なかった。
 武が「英雄」をアピールしたが浸透はしていない。
 それが「今」なのだろう。
 ああいうものは誰かが作るのではなく自然に出来てしまうものだ。
 ルドルフは「皇帝」。なんのことはない馬名の由来から来たに過ぎない。しかしそれにふさわしい成績を上げれば最高の愛称となる。
 谷川の「光速の寄せ」も、どなたかが自慢していたように、最初にそう書いたひとは存在する。そのひとはセンスがよい。だけどどんなに強調しようと将棋ファンみんなが納得しなければ普及しない。そのひとが「光速」と書いたというより、谷川将棋がそのことばを選んでいたのだ。

 最強の羽生に愛称はない。羽生は羽生でありディープインパクトはディープインパクトなのだ。
 わざとらしいものよりは、ないことの方がうつくしい。ひとつの愛称を押しつけられないのもまた個性である。

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 棋士がみなひとつの得意戦法を持ち、その名で親しまれた時代。
 プロレスラーが専売特許の必殺技を持ち、その態勢に入ると悲鳴が挙がった時代。
 力士に、吊り技を得意とした「人間起重機・明武谷」(『東スポ』の桜井さんが名づけたサンマルチノの人間発電所はここからの発想だろう)や、常に頭をつけるので「潜行艇・岩風」、色黒のちいさな躰から「褐色の弾丸・房錦」等の愛称があった時代。
 
 過ぎ去った古き良き時代である。



 その時代を懐古し礼讃するつもりもないが、ただプロレスに関しては、今の様式はまちがっていると断言できる。プロレスはプロレスだからこそ、「獨自の技」とそれを使わないルール、「あの技が出たら終り」という様式美を大切にしなければならない。

 猪木がコブラツイストを決め技としていたとき、「アメリカでは馬場のコブラツイストはあまりに危険なので禁止されている」という噂が流れた。その噂だけで馬場は猪木のコブラツイストを超えてしまった。プロレスファンは猪木が必殺のコブラツイストで勝つたびに、「もしも馬場がコブラツイストを使ったら」と夢みた。いかに猪木が悔しかったことか。彼の馬場コンプレックスはこんなことにも一因している。それがプロレスだ。使わない技の幻想で現実を超えている。大技乱発がいかにむなしいことか。



 将棋に関しては進歩であり、そこまでいま高度になったのだから懐古は無意味だ。羽生は好んで万能になったのではない。万能でなければトップに立てないほど将棋が研磨されている時代なのだ。

 だが、と同時に、羽生が己の勝ち星にのみこだわる過去の勝負師とはちがった、将棋全体のことを考える学究肌であったのもたしかだろう。目先の1勝にこだわるより、「ここでこうしたらどうなるのだろう!?」という探究心を優先したのだ。

 振り飛車の定跡を研究して打破し、居飛車で勝ったなら、しばらくはその戦法で振り飛車党を破って勝ち星を挙げればいい。過去の棋士はみなそうだった。羽生の居飛車のその戦法を破るのは、振り飛車党の研究に任されていた。
 なのに羽生は次の対戦では居飛車に対しその敗れた振り飛車側を持ち、「あのときこうしたら居飛車はどうしのだろう!?」と、自分で自分を負かしに行った。そして負かすことにより、自分の築いた新定跡を自分で破るのである。大山将棋に代表されるように勝ち星を大事にし、自分の側を有利にするのが棋士の常だ。かつてこんな発想の棋士はかつていなかった。そこが羽生の最も偉大な点になる。

 そう思えば凡人の頭脳により羽生について行けなくなった自分にも諦めがつく。

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 加藤米長とWWWF


   サイト「詰将棋盤」の魅力



 将棋に強くなるためには詰め将棋をせねばならないらしい。絶対的真実らしい。若い頃からそこそこ努力はしてきた。本もだいぶ買った。外国に行くときには持っていって旅の無聊を慰めたりもした。

 しかしこれまた若いときから素朴に思うことがある。それは「指し将棋と詰め将棋は別物だろう」ということ。詰め将棋をやると実戦も強くなる、役立つというのは事実であろうが、詰め将棋というパズルと実戦がまた微妙に、いや薄皮一枚のようでいて絶対的に違うというのも真実だろう。

 私は「詰め将棋」という実戦将棋から派生した怖ろしく藝術的とも言える高尚さに感嘆しつつ、自分なりに近づく努力をしてきたのだが、どうにももう一歩このパズルに熱中できないのだった。
 詰め将棋は駒を捨てる。飛車角を捨て、金銀を捨て、最後に華麗にと金と桂馬で詰めあげたりする。パズルが解けたときの壮快感は格別だ。だが現実の指し将棋で詰め将棋的場面になることはめったにない。だからこそ難解な終盤でそれが出たときは「まるで詰め将棋のように」と賞讃される。それすなわち、実戦と詰め将棋の距離を表している。



 詰め将棋の単行本はもちろんファミコンからPS2まで、詰め将棋ソフトもずいぶんと買ってきた。自分なりにがんばった。どうにも私には才覚がないらしく根気が続かない。どうやら私の脳は詰め将棋的思考には向いていないらしい。それでもなんとかスポーツ紙に載る10手前後のものは解けるようになったが。

 インターネットでも詰め将棋を載せているサイトはいくつもある。探して行ってみた。でも結果は同じ。いかにも詰め将棋らしい詰め将棋の世界に感嘆はするものの、才能がないので解けないし、楽しめない。

 そんなとき、このサイトを知った。

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bishop/2518/index.html

 ここにある637問の詰め将棋はみな「プロの実戦譜」から取っている。作られたゲームではなく(もちろんそれはそれで尊敬しているのだが)現場そのものである。こういう形で楽しめば詰め将棋も楽しいのだとやっと知った。

 相変わらず才覚のない私は、懸命に王を追い掛け、やっとのこと21手で詰めたりする。それが正解でないことは判っている。正解を見る。5手詰めだった(笑)。まあほとんどが5手から9手程度の短手数なのだ。20手も30手も追い掛けているその時点で間違えている。これは詰め将棋なら間違いであり、ゲームソフトだと、5手ぐらい指した時点で失格を告げられる。だが実戦だから積ませれば勝ちだ。イモではあるが、とにかく積ませれば正解である。おそらく今まで私が指してきた勝ち将棋も、同じように5手で詰むものを30手も追い掛けていたようなものがあったろう。というかプロの将棋でも、それこそ羽生クラスの棋譜でも、そういうことは起きる。

 21手で詰ましたあと正解を見て、5手詰めだと確認するのは勉強になる。また9手詰めで仕上げ、これは正解だろうと確認すると、正解は9手詰めなのだが、順路は私とまったくちがっていたりする。これも正解がひとつしかない詰め将棋作品ではありえないことだ。

 私でも解けるぐらいだから難しい問題ではない。それでも失敗すると逃げられてしまうし、プロの終盤だから、こちらもあぶない状況になっている。持ちごまを投入して敵を追い詰めるのは楽しい。なんともすばらしいサイトだ。作ってくれたかたに心から感謝する。

 毎日PC作業のあいまに20問ぐらい解いている。ぜんぶ解いたころには香一本強くなっているか(笑)。

 3/10  最高齢有吉九段奮闘!

 先日、NHKが有吉さんの特集をやっていた。午後九時のニュースの枠内である。NHKのニュースなど見たことがないのに偶然目にした。僥倖だった。
 将棋ファンであるからして有吉さんがC2でまだ指していること、今期が陥落引退の危機であることは知っていた。それでもこの映像を見なければ、あとで結果だけを知って、「ああ、そうなのか」だけだったろう。見てよかった。NHKもよくぞやってくれた。

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10日に指される第67期将棋名人戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の順位戦C級2組最終戦で、現役最年長の有吉道夫九段(73)=兵庫県宝塚市在住=が、負ければ引退の可能性もある大一番に挑む。
「自分のすべてを出し尽くして、ボロボロになって辞めるのが勝負師の本望。とことんまでやりたい」と現役続行へ闘志を燃やしている。

有吉九段は岡山県備前市出身で、故大山康晴十五世名人門下。55年にプロ入りし、実力トップ10のA級の在籍期数は20を超える。棋聖のタイトルを獲得したほか、超一流の証しである千勝も達成。激しい攻めから「火の玉流」の異名を持つ。通算成績は1078勝981敗。

順位戦は、羽生善治名人(38)への挑戦権を争うA級を頂点にB級1組▽B級2組▽C級1組▽C級2組の計5クラスある。

C級2組は、年間10局指し、成績上位の3人がC級1組に昇級。下位には降級点がつき、3回取るとフリークラスに降級する。有吉九段はすでに降級点を2回取っており、同クラスには65歳定年という年齢制限があるため、あと1回降級点を取ると自動的に引退に追い込まれる。

今期、有吉九段はここまで3勝6敗で34番手。降級点を免れるには、最終戦に勝つか、敗れた場合、競争相手の棋士5人のうち4人が負けるしかない(別に4人が降級点確定済み)。「他力は期待できないし、したくない。引退を回避するには、自分が勝つしかない」と話す。

対戦相手となる高崎一生(たかざきいっせい)四段(22)=東京都在住=は、05年秋にプロ四段になった新鋭。こちらも勝てばC級1組への昇級が決まるだけに負けられない。「相手がどういう状況でも、ベストを尽くすのが棋士の本分。いつものように指します」


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 引用文は共にアサヒシンブンから。私は2チャンネルの「将棋板」でコピーした。アサヒのサイトには行かないので。

 
そして今日、有吉さんは見事に勝った。来期も現役続行である。

 第67期将棋名人戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の順位戦C級2組最終戦が10日、東京と大阪の将棋会館で一斉に指され、負ければ引退の可能性があった現役最年長の有吉道夫九段(73)は高崎一生(たかざき・いっせい)四段(22)=東京都在住=に勝ち、来期も現役続行する権利を自力で勝ち取った。

 有吉九段は「最後の一局になるかもしれなかったので、悔いの残らないように、とだけ思って臨んだ。本局は非常にうまく指せた。命拾いした」と語った。

 有吉九段は岡山県備前市出身で故大山康晴十五世名人門下。55年にプロ入りし、実力トップ10のA級に21期在籍。超一流の証しである1000勝も達成。激しい攻めから「火の玉流」の異名を持つ。

 順位戦は羽生善治名人(38)への挑戦権を争うA級を頂点にB級1組▽B級2組▽C級1組▽C級2組の計5クラスある。今期、C級2組の43人は各10局指し、成績上位3人がC級1組に昇級し、下位8人に降級点がつき、降級点を3回取るとフリークラスに降級する。有吉九段はすでに降級点を2回取った状態で今期に臨んだが、フリークラスには65歳という年齢制限があるため、あと1回降級点を取れば引退の危機だった。


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 2チャンネルの「将棋板」でも好意的に受けとめられていた。でも中には「おじいちゃん、がんばるね」のような揶揄気味のものもある。

 中原さんが「将棋界の若き大陽」と呼ばれて名人に君臨し、名人位こそ中原に譲ったものの不倒の大山がいて、病気がちながらまだ升田もいて、王者中原を狙う米長、大内がいた時代、関西棋界の中心は、三十代半ば、指し盛りの内藤と有吉だった。このふたりが犬猿の仲で口も聞かないと話題になっていた。

 若手の真鍋というのが中原名人に勝ち、次の名人は彼ではないのかとの噂。いやいや真鍋では無理。もしも中原を倒すとしたら、今度中学生で四段になった関西の天才谷川だろうとの先走った予想。
 
 絶対的に強い中原を、すこし年上の、米長、大内、内藤、有吉が追う展開。
 そんな時代に将棋に夢中になり、今に続く趣味とした者には、有吉さんが最年長であること、そしてまた現役にこだわる姿勢に、なんとも熱いものが湧いてくる。

 NHK杯と、今はなくなってしまったテレビ東京の「早指し将棋選手権」の映像をいっぱいもっている。有吉さんは駒を升目の下線に合わせて並べる獨特の形だ。まるで駒がロケットスタートをするかのように。

 こういう古い映像を見ると、インターネット観戦とはまた違った将棋の魅力を感じる。生きている人間が指している将棋だ。
「早指し将棋選手権」で二上さんが2歩を打って負けたことがあったっけ。

 いま地上波で見られる将棋の映像はNHK杯戦だけだ。これには予選がある。もう有吉さんは予選にも届かない。だから地上波で有吉さんのあの獨特の並べ方を見ることは叶わない。
 でもそれは心の中に生きている。

 あらためて棋士は、棋譜をつむぐ藝術家なのだと感じた。
 3/11
 中原名人、引退

中原十六世名人が現役引退 11日夕に正式表明

将棋の中原誠十六世名人(61)が現役を引退することが分かった。
11日夕、正式に表明する。

 中原十六世名人は宮城県塩釜市出身。65年にプロ入りし、68年に初タイトル(棋聖)を獲得した。
72年、当時史上最年少の24歳で名人となり、9連覇を達成。その後、2度復位した。
名人通算15期は大山康晴十五世名人の18期に次ぐ歴代2位。
07年9月、十六世名人を襲位した。

 タイトル獲得は計64期で、大山の80期、羽生善治名人の71期に次ぐ歴代3位。
名誉王座も名乗る。通算成績は1308勝782敗(勝率6割2分5厘)で、勝ち数は大山の1433勝に次ぐ歴代2位。

 「自然流」と呼ばれる本格派の棋風で、長く将棋界に君臨した大山から次々とタイトルを奪い、中原時代を築いた。昨年8月、対局後に倒れて入院。最近は自宅でリハビリを行っていた。


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 将棋ファンとしての自分にラベルをつけるなら、間違いなく「中原世代」である。戦術書も中原さんのものをいちばん買った。
 私が将棋に本気になったのは、学生時代の隣室の友人に誘われてだった。正に24歳の名人が誕生して中原時代が幕を開けるときである。
 中学ぐらいに夢中になっていれば、大山升田の激闘ももっと楽しめたのにとすこし残念だが、その友人に誘われなければ今も将棋は遠い世界だったから贅沢は言えない。
 将棋を指せるようになり、努力してすこしばかり強かったことで、海外では多くのひとと親しくなることが出来た。藝は身を助けるで言うと、私の場合、ギターが弾けることと、将棋が有段レベルであるふたつを思い出す。



 中原さんが最も輝いた瞬間は、王者として君臨していたときよりも、谷川から名人位を取りもどして時代を逆流させときだと私は思う。
 中原は大山から奪った名人位を9年連続で守っていた。それが大激闘の末に加藤に敗れる。その加藤から谷川が奪う。中原が大きく勝ち越している加藤に負けたのは悔しかった。加藤はすでに降り坂の棋士だったからだ。負けるとしたら旭日の谷川だと思っていた。とはいえ大内との激闘のときも詰みがあったし、指運なのだろう。大山がいたためにタイトル運のなかった加藤にも晴れの日があってもいいか。

 早くから中原を倒すとしたらこれしかいないと言われていた天才谷川は、評判通りに史上最年少の21歳で名人になった。しかし谷川は自分をまだ名人とは思っていない。相手が加藤だったからだ。中原を倒さねば真の名人とは思っていなかった。
 その谷川から中原が名人位を取りもどす。偉大と思うのはここではない。その後だ。
 そこから三期連続で防衛した中原から、ついに谷川が名人位を奪う。谷川26歳。谷川はこれで真の名人になったと思ったろう。中原から奪ったのだ。将棋ファンも誰もが真の谷川時代が来たと思った。木村から大山へ。大山から中原へ。中原から谷川へ。いつも時代はそういう形で王者を交代してきた。
 なのにその二年後、中原は谷川から名人位を取りもどすのである。これがすごい。なんとも偉大だ。こんな形で時代を逆もどりさせた棋士はいない。このとき中原は「同世代のひとの励みになったことがうれしい」とコメントしている。四十代になり、落日のはずの中原が、二十代半ば、最強の谷川から、またしても奪取するとは思いもしなかった。

 ここから時代は羽生世代に移って行く。
 十七世名人の資格を得た谷川は、他の永世名人と比べて自分は時代を作っていないとコメントしているが、それはその通りだ。木村、大山、中原と比した場合、「谷川時代」はあまりに儚い。中原時代と羽生時代の真ん中でちっとも映えない。

 私の四十年近い将棋ファン歴で、最も衝撃を受けた棋士が谷川だった。「光速の寄せ」ほど衝撃を受けたものはない。「大山対中原」イコール「振り飛車対居飛車」という様式美の戦いを見てきた身には、城も築かずにいきなり敵陣に踏みこんで行く谷川の将棋はまったくあたらしい風景だった。
 私は中原世代の将棋ファンだけれど、一番才能を感じ、尊敬した棋士はとなると谷川になる。それまでの棋士とは輝きかたが違っていた。中原を破り、谷川時代が来たことを私は当然と受けとめた。棋士の能力として、私の中で谷川は中原よりも上だった。その谷川を四十代の中原がまた蹴落として王者に復活したとき、私は初めて中原の本当の強さを知った気がする。



 中原さんに関して気に入らないことがふたつある。ひとつは例の林葉との一件だ。性悪女にテープまで録られていたのだからしかたないとも言えるが、林葉のコメントにも同情すべき点はあった。たとえば、いくら頼んでも避妊をしてくれなくて林葉が中絶するあたりは、中原さんの人間性に疑問を持つ。あれでどれほどイメージを悪くしてしまったことか。

 もうひとつが4連敗で米長に名人位を渡したことだ。谷川を破って復活したプラスがこれで帳消しになった。あれだけは容認しがたい。よほど不調だったのだろう。ここで防衛し、翌年羽生に敗れるなら、見事な禅譲だったのに。

 このふたつの出来事で、私の中で中原さんは堕ちた偶像になっていた。それでも今回の引退を知れば、「中原世代」として些少の感傷は湧いてくる。それが些少なのは、同世代の米長が暴君の限りを尽くしているからだ。この米長会長も、スキャンダルと一期だけの名人位がなかったらあり得なかった。中原さんが産みだした米長会長なのである。
 谷川が会長になり、中原米長世代がみな表舞台から消えるのなら、また感傷も違った形になったろう。あれこれ複雑である。



【附記】
 2チャンネルの「将棋板」に、最後の8局の勝敗が載っていた。

○ 森内俊之 第21期竜王戦 1組 5位決定戦 1回戦
○ 佐藤康光 第21期竜王戦 1組 5位決定戦 2回戦
● 羽生善治 第21期竜王戦 1組 5位決定戦 決勝
○ 山崎隆之 第16期銀河戦 Hブロック 10回戦
○ 羽生善治 第16期銀河戦 Hブロック 11回戦
○ 畠山鎮  第34期棋王戦 本戦 2回戦
● 横山泰明 第16期銀河戦 決勝T 1回戦
○ 木村一基 第58期王将戦 二次予選 2回戦


 
見事な成績だ。まだまだ強かった。森内、佐藤、羽生、木村、若手の伸び盛り山崎に勝っている。とてもとても引退するひとの成績ではない。
 左半身にマヒが残っているというからもう無理なのだろうけど、昨年、このメンバーを破っているのだからたいしたものである。




中原誠十六世名人「羽生さんと戦いたかった」
 
引退記者会見に臨んだ中原誠十六世名人の一問一答は以下の通り。

――決意したきっかけは。

「左半身がまひして元通りにならなかった。18歳で四段になった時はもっと早く引退するつもりだったが、43年もやったから十分だと思う」

――最も印象に残るタイトル戦と一手は。

「最初に大山名人に挑戦して奪取したシリーズ。一手は、米長さんとの第37期名人戦の5七銀。指す前から、これはいい手だ、もしかしたら歴史に残る一手ではないかと思った」

――自然流については。

 「原田泰夫先生につけていただいたが、私は攻めの棋風。将棋は自然に指して勝てるほど甘くない。ネーミングとしてはいい名前だと思う」

――もう一度タイトル挑戦の気持ちはあったか。

「悔いがあるとすれば(挑戦を逃した)竜王戦挑戦者決定戦。羽生さんと一度タイトル戦を戦ってみたかった」

――後輩棋士に一言。

「将棋を頑張るほか、将棋の魅力、難しさを探求したり伝えていくことが大事。頑張ってほしい」

 ▼羽生善治4冠の話 本当に残念という一語に尽きます。体調が回復されたら大きな舞台で対局できることを楽しみにしていました。長年にわたって将棋界をけん引され、お疲れさまでした。




一手は、米長さんとの第37期名人戦の5七銀

 ちょうどこのことを書いている『将棋世界』を読んでいた。歴史的な名手である。「捨て駒」だ。龍に奪られる4八の銀を5七に上げるのである。それは馬で取られるのだが、すると手が遅れる。逆転の目が生じるのだ。しみじみ名手だなと感じていたところだったので、いいタイミングで御本人から聞いた。


 将棋連盟で会見した中原さん。左手と左半身に麻痺があるとか。

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 原田流命名の思い出──さわやか流と自然流

 私は将棋界の名コピーライター(笑)原田八段の命名にはだいぶ疑問を持っている。その最たるものが「米長さわやか流」になる。このひとをさわやかと思ったことがない。だから後年「泥沼流」が浸透してきたのはうれしかった。このひと、泥沼である。
 私が名づけるなら「米長外連流」だ。いつだって大向こう受けばかり狙っている。わざとらしさが鼻につく。外連は否定的意味あいが強いから命名にはならないけど(笑)。


 ということを「米長と対決するmtmtを知る」に書いたら、原田さんの命名についてもうすこし書きたくなった。



 原田流命名といえば、中原さんも引退会見で、「私の将棋は攻撃的で、自然流と名づけられたが将棋は自然に指していれば勝てるような甘いものではなく」と否定していた。中原さんの将棋は攻撃的であり、また初の大山名人への挑戦のとき、追いこまれた一番で、当時は礼儀的にも信じがたい名人得意の振り飛車を採用したりと、気の強さも半端ではない。

 これは私にとって長年とても興味深いことだった。名人戦という桧舞台、3-2と後がないところまで追いこまれた中原さんがそれまで見たこともない振り飛車をやったのだ。今でこそ万能の羽生に代表されるように戦法に垣根はない。だが当時は振り飛車には居飛車が常識であり、この対決は「大山振り飛車対中原居飛車」と決まっていたのだ。なのに中原さんは追い詰められた状況でいきなり飛車を振った。とんでもないことである。まさに掟破り。24歳の挑戦者が49歳の大名人に牙を剥いたのである。

 中原さんのやったのは、あの「猪木の相撃ちラリアート」と同じ衝撃だった。時空的には中原さんの方がずっと先になる。いつだって天才は発想が似ている。
 これまた今でこそプロレスもなんでもありになり、レスラー特有の得意技も必殺技もあったものではなく、さらにはジャーマンやラリアットのような大技も連発の時代である。くだらん。嘆かわしい。
 だがあの時代、一撃必殺の荒業、創始者であり専売特許のハンセンのラリアート(この時代はまだラリアットではなくラリアートなのだ)に、それを使っての相撃ちという発想を持ちこんだ猪木のなんとすばらしいことか。
 実際は猪木の細腕と交叉したところでハンセンになんのダメージもなかったろう。だがそれは初めて目にする衝撃的なシーンだった。猪木の発想がすべてを超越していた。相撃ちのふたりは倒れ、場内は熱狂し、テレビ桟敷で私も、こんな手があったのかと昂奮した。

 先年中原さんから「あの振り飛車」の真相が語られた。それは大山名人の強さに、何を仕掛けても撥ねつけられてしまい、「ああ、このひとにはとてもじゃないが勝てない」と諦めたのだそうだ。このひとに勝てるようになるにはまだまだ何年もかかる。そのために、ここは負けるのはわかっているが、後年のために振り飛車を指し、振り飛車破りの極意を教えてもらおうと思ったのだという。ところが大山名人はいきなり自分の得意の振り飛車をさされ、そこから連敗して名人位を失うのだから皮肉だ。



「自然に指していて、いつのまにか勝ってしまうから中原自然流」と原田さんは命名したが、それは中原さんの外見、人柄的なものからの命名であり、将棋の本質からはだいぶずれていた。
 自然流ではないと否定はしたが、最後に中原さんは、イメージ的にはその命名に感謝していると述べた。これも礼儀である。

 原田八段(死後贈呈九段だからこういう場合九段と書くべきなのかな。でも八段で何十年もつきあってきたのでこのままにさせていただく)の命名には疑問もあったと書いたが、私は「中原自然流」という名は好きだった。かっこいいと思った。「内藤自在流」「大内怒涛流」などと並んで。

 原田さんだって中原将棋が攻撃的であることぐらいわかっていたろう。だがそれ以上に棋界の若き太陽としてすんなり頂点に駆けのぼってしまう姿が「自然」に見えたのだ。
 あの狷介な、勝つためにはどんな番外戦術でも用いる大山名人が中原さんとの対決にはファイトが湧かなかったというのは有名だ。闘志を剥きだしにした山田道美八段とは対照的だ。大山さんは唯一圧倒的に中原さんとだけ分が悪い。大山さんの闘志を骨抜きにしてしまい、闘う前から勝っているとしたら、それはやはり自然流だろう。

 原田流命名の「自然流」はそのことを見抜いている。それは将棋の質なんてことよりもずっと大きい視点である。だから「自然流」は中原将棋の質を表す流儀としてはまちがいだが、もっと大きな意味で正しいのである。



 一方、「米長さわやか流」を最低だと思うのは、一見気の利いた発言をしたり、さわやか風に装う米長の表面しか見ていないからである。
「中原自然流」が、中原将棋の本質を見ていず、雰囲気だけの命名のようでありながら、じつは深く大きな意味あいを持つとするなら、「米長さわやか流」は、ほんとに表面だけしか見ていない最低の薄っぺらなネーミングである。

 しかしここでまた考えるに、それもまた原田さんはわかっていたように思う。連盟会長を二度務め、若手棋士を褒め上げ、決して他者を誹謗中傷をしない原田さんだが、米長の連盟会長に関しては否定的だったと伝えられている。彼が「さわやか」でないことはとうのむかしにわかっていたのだろう。

 といって命名は私のように「米長外連流」などと出来るはずもない。原田さんはひたすら世間受けする命名により、すこしでも将棋が普及することを願っているのだ。
「泥沼」に匹敵するいくつもの名を思いうかべつつ、最も軽薄で中身のない「さわやか流」に敢えてしたのではないか。そんな気がする。
(もっとも、この命名は米長が二十代後半でA級に昇ったときのものである。このときは本気でさわやかと思い、後々彼の本質を知って悔いたとも考えられる。ただあのころから米長の将棋は終盤で勝ちを拾う「バタ屋」と呼ばれる泥沼流であり、棋風はさわやかとは言い難かった。)

4/10  
 名人戦対局中に羽生にサインを求める事件発生!──なんとそれが東公平!

将棋の羽生善治名人(38)に郷田真隆九段(38)が挑戦する「第67期名人戦」(朝日新聞社など主催)で10日、朝日新聞の委託を受けて観戦記者として立ち会っていたフリー記者(75)が、対局中の羽生名人にサインを求めるトラブルがあった。同社は記者に口頭で厳重注意するとともに、対局終了を待って羽生、郷田両氏や共催の毎日新聞社など関係者に陳謝する。

同社によると、トラブルがあったのは名人戦第1局2日目の10日午前9時45分ごろ、羽生名人が自らの手番で44手目を考慮中、記録係と並んでいた記者が白い扇子とペンを取り出し、羽生名人にサインをするよう求めた。

羽生名人は対局を中断する形でサインに応じ、頭をかく仕草をしながら盤面に目をもどした。
この間、郷田
段は水を飲むなどして様子を見守った。

この様子はNHKが中継しており、実況担当者が「今、何か書いているようですけれども…」と当惑しながらその様子を伝えた。

問題の記者は昭和51年から平成11年まで、朝日新聞社の嘱託記者として取材活動を行い、この日は同社の委託を受けて取材にあたっていた。

休憩時間に担当者が、問題の記者に「対局中に声をかけるような行動は慎んでほしい」と注意したところ「郷田さんの手番だと思っていた。うかつだった」と釈明したという。朝日新聞社は「両対局者はもちろんのこと、主催する名人戦実行委員会のほか、関係者にご迷惑をおかけしたことを深くお詫びします」とコメントしている。

4月10日21時26分配信 産経新聞


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 深夜、このニュースを知って驚いた。早速{Youtube}にアップされたBSの映像を見る。腹立った。なんとも無神経であり、というか、ありえないことが起きたという感じである。

 75歳のアサヒの依頼記者だという。またバカアサヒの惚けがろくでもないことをしたと、不快ではあったが、それだけの話だった。名人戦観戦記として、将棋のことを知らないくだらん人間に依頼したのだろう。箔をつけようとするよくある手法だ。それにしても対局中にサインを求めるとはなんという非礼だろう。

 2ちゃんねるでは、「ニュース速報+」と「芸スポ速報」にスレが立ち、「またアサヒか」「惚け老人か」と批判されていた。

 腹が立った。不快だった。なぜ周囲は止めなかったのか。応じた羽生はえらい。おとなだ。とはいえ映像ではさすがに戸惑いが見えた。ひどい話だ。呆れる。

 あれこれ思うところはあったが、いわゆる将棋のことを知らない礼儀知らずによるアクシデントなのだろう。私はそう解釈した。ところが。



 なんとこのひとが東公平(ひがしこうへい)さんだと知って驚いた。棋界のことを知らない素人どころか知りつくしたヴェテランである。
 なにしろ出自がプロ棋士養成所の奨励会出身なのだ。棋士になれず観戦記者に転身したひとだ。長年アサヒシンブンの将棋欄で観戦記者「紅」として活動してきた。その他、『近代将棋』や『将棋世界』でも健筆を振るってきた。私はもう30年以上このひとの将棋文章を読んでいる。さすがに最近は世代交代で目にすることは減っていたが……。
 75歳の年齢と、依頼記者ということから、アサヒの観戦記者は退職していたが、今回特別に頼まれたのだろう。 

 その東さんがなんでこんなことをやったのか。しかもBS中継を見た人の報告によると、その後も着替えた姿で感想戦の様子を悠然と見ていたという。いわば反省はまったくない。あんなとんでもないことをした自覚がない。

 とするとこれは「惚けた」と解釈するのが真っ当だろう。大山升田時代から名人戦を見てきたひとがこんな礼儀知らずなことをするはずがない。年老いて惚けて狂ったのだ。

 今後どう決着がつくのかしらないが、どう考えても脳か精神に異常をきたし、正常な判断が出来なくなくっての奇行である。そうとしか考えられない。
 なんとも物悲しい事件だった。

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 数字はもう私も算用数字を主にしているが、段位は九段と漢字がいい。せっかくそうしているのに上のサンケイの記事には9段と誤植がひとつある。残念だ。

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そういう経歴のひとであるから、当然羽生との面識は長い。羽生の奨励会時代から、いやその前の小学生名人のころから知っているだろう。
 非難が殺到し、関係者から注意を受けた後、東さんは「羽生さんとのつきあいが長いので、ついあんなことをしてしまった」と言ったそうな。自分の異常さに気づいているのだろうか。
 羽生も面識のない今回初の観戦記者だったなら断ったろう。対局中、しかも羽生の手番で考慮中だったのだ。信じがたい愚行である。その場合、初対面のものからそんなことをされたら、不快なことをされた心理的影響があったはずだから、むしろ長年のつきあいの東さんの奇矯をやさしく受けとめてやったのは、まだ救いがあったことになる。

 アサヒシンブン嫌いの影響もあったのか、将棋の世界の事件なのに、2ちゃんねるのスレはずいぶんと続き、拡がりを見せた。

 これでもう東さんが今後将棋観戦記を書くことはないだろう。すべては終った。このことがショックとなって餘命も縮まったように思う。晩節を汚すとはまさにこのことだ。
 となると、このような問題を引きおこしてまでもらった「扇子への羽生のサイン」は貴重な遺品となる。

 問題を起こしたのが東さんでなければただの「不快な事件」だった。東さんだけに複雑である。自分が新入社員のとき、会社を引っぱっていた憧れの営業部長が、75歳になって惚けているのを目撃してしまったような、なんとも侘びしい気分だ。

 世間的に大きな話題になったのに、将棋連盟はまったく触れずにいる。その気遣いがよけいにものがなしい。

 73歳でもC2で踏んばった有吉九段のような朗報もあれば、こんな気まずい事件もある。いろいろだ。

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 その後の話によると、東さんはまったく反省していないとのこと。今回はすでに観戦記者を引退している75歳の東さんにとって特別の待遇であり、最後であることは本人も自覚していたらしい。
 よってあの扇子は、羽生名人のサインだけではなく、自分の名を中心にした寄せ書き形式であり、その後もそれを自慢して見せびらかしていたとか(笑)。
 となると惚け老人ではなく、名人戦よりも自分の思い出作りを最優先した確信犯ということになる。

 だが、あれだけ将棋と関わってきて儀礼もみな知っているひとが、最後にこういうことをしてしまったのは、正気でやった確信犯だとしても、やはり「惚けていた」が正解だろう。
 惚けは、正気を失って錯乱してしまうことだけではない。このようなことをしながら、なんの反省もなく、自慢気に扇子を見せびらかしているのも、立派な惚けである。

 おそらく今回の観戦記者は、長年功績のあったことに対してアサヒシンブンの誰かがやった恩情なのだと思う。それに対して東さんはこういうことで応えてしまった。
 一種の老害として今後こういう恩情が発露されることはなくなるだろうし、世間的にも「やっぱり75はダメだ」と認識された。東さんの犯した罪は大きい。
 当人の羽生も気にしていないし、これはこれでほのぼのエピソードとしていいんじゃないの、とはどうしても思えない。それは映像を見ていると解るが、どうしても「ほのぼの」ではなく「異様」だからだ。旧知のひとだから羽生は応じたというが、私には路上で話し掛けてきた気味悪い狂人を上手にやりすご手法のように思えた。
 5/10

「小説新潮」の河口さん──河口俊彦論

 将棋関係の読み物はずいぶんと読んできた。観戦記者の書いたものが多かったように思う。新聞に連載したものをまとめたもの、ひとつの棋戦をテーマに書きおろしたもの、棋士について書いたもの、本棚をひっくり返して書名を羅列する気もないが、ずいぶんと読んできた。テーマはやはり名人戦が一番多い。
 ずいぶんと読んでは来たが、これぞ傑作とひとに勧めるほどのものも記憶にない。

 そういう中、いつしか将棋関係の著者として河口俊彦さんの作品がいちばん好きになっていた。
 河口さんは棋士である。長年『将棋世界』に「対局日誌」を連載していた。そのころから楽しみに読んでいたのだが、かといってそれでファンになったのかというとそうでもない。「対局日誌」は順位戦を中心とした将棋連盟での対局風景を棋譜とともに描いたものであり、今までに8巻が出版されている。棋譜と共に棋士の心理や行動、雰囲気も伝わってくる充実した将棋読み物だが、日々の切りとりだからちょっと内容盛り沢山のようでいて薄味でもあり、物足りなくもある。「毎月の楽しみ」以上ではなかった。(でも振り返ってみると、毎月購入すると真っ先に読んでいた気もする。)


 私が本格的に「河口さんの将棋ものがいちばんおもしろい」と思ったのは、「覇者の一手」(1995年NHK)からだった。これは『将棋世界』に連載した「対局日誌」から羽生の7冠制覇の時期に合わせて「覇者=羽生」にして再編集したものである。視点が羽生に絞られたことによって中身が凝縮された。後つけなのですこし無理も目立つが、それもまた空前の「7冠制覇」当時を思い出して懐かしい。

 そのあとの、視点を最初から大山ひとりに絞り、さらにまた落日の「晩年」に限った「大山康晴の晩年」(2003年飛鳥新社)は傑作だった。フォーカスがばっちり合っている。



 河口さんは2002年に棋士を引退した。奨励会を卒業して棋士になったのが30歳。当時は年齢制限が31歳の誕生日前までだった。いまは26歳の誕生日前である。今だったら棋士になれていないし、当時としてもぎりぎりだったことになる。遅咲きだ。棋士として大きな業績は残していない。その分、すばらしい文才に恵まれた。いや文才も最初から光っていたわけではない。地道に連載を続けている内に河口さんしか書けない世界が徐々に作られてきた感じだ。

「対局日誌」は、「将棋マガジン」に1978年から連載され、廃刊に伴い1995年に将棋連盟機関誌である『将棋世界』に移って2006年まで続いた。その後、同じ企劃をタイトルを変えて先崎が担当し、さらに担当が変っていまは誰だったか、ここのところ『将棋世界』を買うのは年に一、二冊程度で、しかもベッドに寝転んで読むのは二十年ぐらい前のものが多いので(いま一線級の連中がまだ奨励会だったりして楽しい)覚えていない。野月だっけ? それはつまり、いまは「対局日誌」はつまらないってことだ。担当者の責任ではなく、こちらの嗜好の変化である。同時にまたあれは何事も達者な先崎のものでもつまらなかったように、河口さんだけの世界でもある。熱心に読んでいなかったので記憶に薄いが、先崎のは不評だった。先崎が言いたい放題するのだがいかんせん若すぎる。やはりあれは現場から身を引いたひとの文で成りたつのだろう。編輯者が先崎に願った気分はわかるが。



 私が将棋にこり始めたのは昭和48年のハイセイコーの頃から。本格的に夢中になったのがカブラヤオーとテスコガビーの年だから昭和50年、1975年のあたり。この年、日本武道館で第一回将棋祭が開催されている。お城将棋の日を記念して11月17日だった。
 このころは将棋雑誌をぜんぶ買っていたから今は廃刊になった「将棋マガジン」もよく知っている。正確に書くと、貧乏な学生ゆえそれらの中から気に入った一冊のみを買っていた。本棚に並んだのは圧倒的に「近代将棋」になる。それでも「中原大内の名人戦」のようなときは複数買っている。

 当時の王者は「近代将棋」だった。将棋連盟機関誌の『将棋世界』は水を空けられていた。逆転するとは思えなかった。NHK杯の解説も永井社長の時代である。まさかあの王者の「近代将棋」がこんなことになるとは思いもしなかった。
 昨夜はそんなことを思い出し、まだ元気のあった頃の「近代将棋」を読みつつ寝た。懐かしい。



 写真は「近代将棋」平成6年5月号、16年前の一冊。

 「棋士達の大晦日」と題された1枚。棋士達の大晦日、すなわち3月末の順位戦最終局の日である。ファン向けの有料解説の会場。

 大盤解説は島と、隣にいる女は林葉である。まだ中原さんとのスキャンダルは発覚せず、美人棋士として活躍していた頃だ。ヘアヌードにもならず、豊胸手術も受けず、自己破産もしていない。「とんでもポリス」シリーズをヒットさせて小説家としても活躍していた。なんとも複雑な思いがする。

 Vサインをしている米長は前年中原さんに勝ち生涯1年だけの名人の年。誰が挑戦者になっても必ず勝ちますと宣言しているところ。挑戦者は谷川と羽生の相星決定戦から羽生になり、あっけなく羽生に負けて陥落。

 私は中原さんが米長に負けて名人位を明けわたしたことが気に入らない(しかも4連敗)のだが、河口さんが言うように「加藤、米長には名人になってもいいと将棋の神様が判断した」のだと解釈することにした。



 餘談ながら、これはプロレス好きにしかわからない比喩だが、私は加藤が名人になったときWWWFを思い出した。

 ニューヨークのプロレス団体WWWF(現WWE)は、ベビーフェースチャンピオンからベビーフェースチャンピオンの交代劇の真ん中に、ヒールチャンピオンを挟んだ。いわば「かませ犬」である。旧ベビーフェースチャンピオンを新時代の主役のベビーフェースが破っての政権交代ではなく、そこにワンクッションとして「悪者王者」を挟んだのである。

 衰えてきた正義の味方があくどい方法で悪者にやっつけられチャンピオンの座から陥落する。そんなことは許さない、次はおれが挑戦すると新正義の味方がアピールする。そして見事に勝つ。そこには旧正義の味方も祝福に駆けつける。これにて政権禅譲完了である。

 中原を破って加藤が名人になったとき、それを思った。ベビーフェース中原とベビーフェース谷川が闘っての政権交代ではなく、あいまにヒール加藤一二三を一年挟んだと。その通りだった。翌年谷川が加藤を破って名人になる。加藤は一年限りの悪役チャンピオンだった。

 いうまでもなくWWWFが興行としてチャンプを意図して作っている(インチキ)のに対し、名人戦はガチだから、こんなことはありえない。だが現実はそっくりだった。この辺、将棋の神様がビンス・マクマホンのように脚本を書いている気がする。

 加藤を破って名人になった谷川だが、中原に取りもどされる。そのあと中原を破って名人になったとき、「やっと名人になれた気がする」と言ったのは本音だろう。あれじゃまるでWWWFだった。

 加藤や米長に一年だけとはいえ名人位を与えたのが中原さんの汚点だとするなら、もう谷川時代になったと思われたその谷川から名人位を奪還したのが最高の美学だろう。このとき「同世代のひとにいくらかでも元気を与えられたなら」とコメントしている。四十代の中原さんの名人位復帰は大きな希望を与えた。一度落ちたならまず復活できないのが名人位だったから。

 結果的に米長もWWWFである。中原を破って史上最年長名人になったが、翌年は新世代のヒーロー羽生にすぐに奪取されている。それでもこの一年限りの名人位が今日の権力に結び付いている。なんで中原さんは米長ごときに4連敗で負けたのか。いまでも不満だ。
 目立ちたがり屋の米長としては名人位を奪われた相手が羽生であることは自慢か。



 サンマルチノの写真は以下のサイトよりお借りしました。

http://www.google.com/imgres?imgurl=



 失礼ながら河口さんは棋士としての実績はないし、缺かさず読み毎月楽しみにしていたが、「対局日誌」も私には「今月の対局風景」でしかなかったから、将棋ライターとしての河口さんも、「文章も棋譜解説も出来るから棋士のライター兼任が最強だな」と気づかせてくれただけで、この当時はまだ本当の凄味に気づいていない。

 この「棋士のライターが最強」は当時から強く思っていて、早くもう棋士が全部を書く時代にならないかと願っていた。自戦記が最高なのだ。
 名人戦の観戦記に著名な文士を起用したりする意味のない悪しき風習が嫌いだった。それは劣等感であり、権威に対する阿りであり、世間に対する箔つけだ。早くそんな時代が終ることを願っていた。いまそういう時代になってうれしい。勘違いした旦那感覚のヤマグチヒトミなんぞがデカいつらしていたり、オオハシキョセンが文化人として口を出す将棋界が大嫌いだった。



 河口さんの本当の凄味が発揮されたのは、「大山康晴の晩年」が出版されたのが2003年、棋士引退が2002年であるように、日本将棋連盟所属の棋士という「同じ釜」から飛びだしてからのように思う。

「大山康晴の晩年」がおもしろいのは、それまで暗黙のタブーとされてきたことに平然と触れているからだ。大山さんは将棋界最高の巨人であり偉大な王者である。長年務めていた将棋連盟会長としても将棋会館建設のために奔走して実業界から多額な寄附金を募って成功させたように、棋士としても会長としても比類なきひとである。
 タイトル獲得数、通算勝ち星は今後羽生が超えるだろうが、それで大山を越えたとはなるまい。

 だがだからこそ勝つためには手段を選ばない盤外戦術の駆使や、狷介な性格による軋轢、不仲の棋士など、多くのことが囁かれてきた。実業界の多くの有力者と親しく、将棋界の顔だったわけだが、世間の人気とは関係なく、棋士達からすると嫌われ者だったのだ。
 亡くなって時間が過ぎたこと、河口さんが棋士を引退し自由な立場になったことから、この本ではその辺のことに遠慮なく触れている。それはかつてない大山像であり、また癌に蝕まれ死を目前にしてちいさく萎んでしまった巨人の実像として、せつなく迫ってきた。名著である。なんといっても巨人の晩年に絞った視点がいい。逆にまた晩年に絞っても物語が成立するのは大山だからであって他の棋士では成りたたない。そのことからまたあらためて大山の偉大さがわかる。



「対局日誌」がなくなって河口さんの文章を読む機会がなくなってしまった。とはいえもしもそれが続いていたとしても既に「禁断の味」を知ってしまった私は、予定調和のそれなどもう薄味で読めなかったろう。だって将棋連盟機関誌『将棋世界』での連載なのだ。「米長と中原が不仲で、その米長のところを破門になった林葉が中原の愛人であり」まで踏みこんだ河口さんが、いまさら米長と中原が親友であるかのようなことを書いても読む気にならない。河口さんもまた今さら「対局日誌」でもあるまいと判断し身を引いたのだろう。

 それはそれで当然として、「禁断の味」を知ってしまったこちらは欲求不満が続く。知らなければよかったと悶々が続く。


 昨日図書館で偶然「小説新潮」を手にし、何年か前から河口さんが「盤上の将棋 盤外の勝負」なる連載していることを知った。

 それはまさに私がいまいちばん読みたい将棋話そのものだった。河口さんとしても「いちばん書きたいこと」であるにちがいない。

 気紛れで借りた一冊でそれを知った私は、今日図書館に行き、バックナンバーをぜんぶ読んできた。といっても10冊程度しかなかった。おそらく連載開始は2006年に「対局日誌」が終ってからだろう。単行本になったら必ず買うが、今は図書館になかった部分が読みたくてたまらない。既刊号があまさず揃えてあるもっと大きな図書館に行くべきか。



 そこにあるのは、この齢になってやっと河口さんが書けるようになった(書く踏ん切りがついた)有名棋士たちの確執である。遠慮会釈なく書かれるそれがたまらなくおもしろい。
「米長、大内、中原はそれぞれ仲が悪かった。若いときの仲良しぶりを知っている私には不思議な気がするのだが、強者とはそういうものなのだろう」という内幕。
 中原名人に大内八段が挑戦し、持将棋やらなんやらあり、最後の最後に大内がまちがわなければ、確実に「大内名人誕生」という昭和の将棋ファンには今も記憶に新しい大熱戦があった。

 餘談ながら大内と親しいキョセンが「11PM」でも「大内乗り」で取りあげ、もりあがったものだった。私はキョセンが乗ったので大内さんは負けると思ったけれど、それはともかく、そんなことを「11PM」で取りあげたいい時代だったと思う。

 中飛車を当時は新鮮だった穴熊で囲う「大内振り飛車」は強烈なキャラだった。それに玉頭位取りで立ちむかう中原さんの戦いはプロレス的におもしろかった。このときの印象が強烈で、私なんか未だに「振り飛車穴熊には玉頭位取り」だと思っているほどだ(笑)。このころの中原さんの戦術書はすべて買った。いまも保っている。

 このあと史上最強の囲い居飛車穴熊が出て来て、さらには相穴熊というつまらない時代になる。そしてそこで登場するのが大山振り飛車の研究から生まれた急戦で居飛車穴熊を倒す「藤井システム」だ。まことにあれほど「升田幸三賞」にふさわしいものはなかった。

 そのときの名人戦における些細な出来事から、「これ以来、中原は大内を好ましく思っていなかった」とある。二上さんのあと大内が理事長になれなかったのは中原の反対によるこの辺が原因のようだ。温厚篤実に思われている中原さんの頑固な面など(温厚篤実なひとがあんな成績を残せるはずがないのだ)たまらない暴露が続く。



 昨日米長の会長三選が決まった。暗黒の時代は続く。でも棋士が米長を支持しているのだからただのファンであるこちらは何も言えない。

 河口さんは「米長には中原と違い当時から強烈な権力慾があった」と書く。それは誰でも知っていることだが河口さんの筆で確認できるのがうれしい。米長の権力慾を当時の理事側である「二上会長、大内理事」が拒もうとする。それを突破してなんとか理事になろうとする米長は懸命に地下工作をする。票数はギリギリの状態。

 このとき高柳一門は米長支持を決定する。ここのところは不可解だが、でも高柳さんはそう決めたらしい。なにがあったのか。佐瀬さんから頼まれたのか。
 だがふだんは師匠に従う温厚な中原さんがこのときだけは師匠の決定に反対して紛糾する。弟子ではあれ大名人だから発言力は強い。結果、高柳一門は米長不支持となり米長は落選する。

 河口さんはこの中原の態度が不思議だった。師匠に逆らうようなひとではないのだ。
 このころ河口さんは中原と林葉がそういう仲であることを知らない。いや河口さんに限らず誰も知らない。不思議なことだがあの狭い将棋村でみな本当に知らなかったらしい。それはふたりが徹底して秘密裡に行動したからでもあろうが、それ以上に「中原に愛人」というイメージがなかったからのようだ。まして銀座のホステスとかではなく女流棋士の林葉ではあまりに身近すぎる。

 ふたりの仲を知ってから河口さんは納得する。後々知った事情から時間軸を見ると当時ふたりは最高に熱々の時期だった。となると、米長に破門されていて怨みのある林葉が、ベッドの中で(もちろん河口さんの文にベッドの中でなんて表現はない)中原に米長不支持を訴えたのであろう、熱々の愛人にそれを猛烈にアピールされたから、あの中原も師匠に逆らってまで米長を支持しなかったのだろう、と。う~む、「歴史は夜作られる」か。

 同じく、ある大事な会議のあと、みんなで飲みに行ったが中原さんの心はここにあらずの不思議な様子。あれはあのあと林葉のところに行ったのではないか、と。これらはいわば「後つけ」なのだが、すべてを見聞してきた河口さんの読みだから価値がある。



●上座下座問題


 棋士の性格、内実を知るのにこの上座下座問題は興味深い。
 順位戦で、中原、谷川に対して平然と上座にすわった羽生の度胸。将棋ファンなら誰もが知っているあの事件だ。そういう回顧もおもしろい。
 あのとき羽生の無礼を批判する論調として、「羽生と同じ立場でもまちがいなく谷川なら下座にすわったろう。そしてまた現れた中原も下座にすわろうとし、ふたりのあいだで譲りあいがあったはず」と言われた。

 名人は米長。中原は前名人でA級順位戦の席順は1位。羽生は四冠をもっていたがA級順位戦は昇給してきたばかりの新人。ましてまだ二十一歳である。倍以上年の離れている永世名人の中原に対して下座にすわるのは、それまでの将棋界の常識だった。
 もしも四冠だから羽生が上座だったとしても、それでも先に来て下座にすわるのが将棋界の礼儀だった。なのに羽生は先に来て平然と上座にすわっていた。あときから来た中原はそれに逡巡するが、けっきょくは異議を申し立てることなくおとなしく下座にすわる。それで負ける。このときの成績は、中原、谷川、羽生(順位戦の順)が並んでいた。結果は谷川と羽生のプレーオフになり、羽生が米長に挑戦して名人になるのだが、ここで中原が勝っていれば挑戦者だった。中原は簡単に米長から名人位を取りもどしたろうから、それでまた時代は大きく変ったはずである。棋士中原にとっても誠に(だじゃれか?)大きな一番だった。

 河口さんは、「おとなしく下座にすわった時点で中原の負けは決まっていた」と書く。「中原を下座にすわらせて勝ち、谷川を破り、米長に勝って名人になる。羽生はひとりで時代を動かした」と。

 羽生の席次問題は物議をかもし、羽生が自分の意見を『将棋世界』に書き、席順に関する規定が明文化されるまでに発展した。

 一将棋ファンである私はごく素直に羽生に反感を抱いた。羽生を嫌いになったのはこのときだけとも言える。そしてまた上記の「もしも谷川だったら」の論に深く肯んじた。「加藤、谷川以来の中学生棋士誕生。天才出現!」と常に順風の中にいた羽生に初めて吹いた逆風だった。



 ところが「常識破りの羽生」だけでなく、温和と思われている中原さんにも充分にそれらしい話があったと紹介される。

 中原に大山が挑戦した棋戦。王将戦だったか。タイトルホルダーであるから中原が遥か年下でも上座にすわる。挑戦者大山は下座だ。ところがそれが大山の地元の開催で、長年の後援者たちが大挙見学に来るというので、大山は将棋盤と座蒲団の配置を換えるように指示する。文章から読み取ると、床の間を背にしての上座下座を、床の間を横に見るようにして並び上下をなくそうとしたようだ。

 これに中原がへそを曲げる。元の配置に直さないと指さないと自室に閉じ篭もってしまう。
 タイトルホルダーに指さないと言われたら困る。大山側が折れて元の上座下座にもどることになる。升田大山戦ならともかく、いままで伝えられてきた「大山は中原を後継者と認めていて、中原との対戦では闘志が湧かなかったと言われている」から推測すると、大山の立場を慮った中原がすぐにそれを了承した、なんて単細胞な私なんかは思ってしまう。でも実際はそうではなかった。いくら立会人が「ここは大山先生の顔を立てて」と頼んでも、中原は応じなかったのである。

 河口さんのおもしろさは、そういう私のような単細胞人間の思い入れを壊してくれることにある。米長がまともでないことは誰でも知っているが、中原さんもまた同じなのだ。



「羽生の上座問題」は、羽生が中原、谷川を超えて行く大物として、起こるべくして起こった、といまは思う。あのとき中原が席順がおかしいと文句を言い、一悶着あったなら、いくら羽生とはいえ多少は動揺したろう。それによって結果もまた違ってきたかも知れない。羽生の無礼に対し憤らなかった(憤れなかった)時点で中原はたしかに負けていたのだ。

 谷川に関しては悪い話がなく彼がいかに人格者かがわかるのだが、そんな谷川でも、ある対戦でタイトル保持者の自分を無視して加藤一二三が上座にすわっていたことには憤慨していたとある。王者のプライドは共通している。

 時折出て来る親友だった芹沢の話も懐かしい。芹沢がまだ中学生だった谷川に惚れこみ、未来の名人間違いなしと讃えたのは有名な話だ。私も谷川が名人になることだけは寸分も疑わなかった。



 すこし心配になるのは、いやすこしではなく大いに心配するのは、これってやはり米長や中原にとって気分のいいものではないだろう。だいじょうぶなのだろうか。

 中原さんは脳梗塞からもう引退してしまったし、浮き世と懸け離れた常人放れしているところがあるから、今さら林葉のことや米長との不仲を書かれても気にしないとしても、米長というのは権勢慾の固まりであり、最近の松本記者との確執からもわかるように、自分の気に入らないものはどんなことをしても廃除しようとする暴君だ。
 ましていま連盟会長という最高権力の座にいる。自分の触れられたくない部分に遠慮なく踏みこんでくる河口さんは、いくらかつては親しかった兄貴分としても気に入らないだろう。彼なら新潮社に「河口の連載をやめさせろ。やめさせないなら今後日本将棋連盟は一切新潮社に協力しない」ぐらいのことはやる。まあ新潮社は怯まないと信じるが。

 いやいや待てよ、今ごろ気づいた。新潮社と言えば米長スキャンダルを『週刊新潮』で報じた米長の天敵ではないか。なんだ、そういうことか。米長は河口さんの連載を不快に思っている。でもそれが新潮社だから手が出せない。新潮社もだからこそ河口さんに頼んだ。河口さんも新潮社だから安心して書いている。そういうことだ。

 ということは、米長の権力で、河口さんはいま将棋連盟のイベント等には一切関われない立場にあるのだろう。米長は平然とそれをする。河口さんももう70代だから好き勝手なことを書くのが楽しく、いまさらそんなものに興味はないだろうが。

 それはまた、今後も河口さんの筆が遠慮なく米長の暗部にくいこんでくれるという期待に繋がる。なんとも楽しみなことである。

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 新聞記者のかなしみ

 冒頭に新聞記者の書いた棋士に関する本がみなつまらないと書いた。
 長年観戦記や棋戦に関わってきた名物記者は各社にいて、私は新聞将棋は読まなかったが、彼らは将棋雑誌の常連ライターでもあったから、いまも何人かの記者の名を諳んじられるほどである。故人になったかたも多い。先日名人戦の対局中に羽生にサインを求めるという惚けた問題を起こした東公平さんもそんな中のひとりである。

 考えてみたら、記者は、というか将棋ライターぜんぶだが、将棋界と棋士に隷属(といったら問題かな)するものである。その主従関係からは逃れられない。どちらが主でどちらが従かは自ずから明白だ。

「力道山に都合の悪いことは書かない、書けないプロレスマスコミ」とさして変らない。
 新聞に観戦記を書くライターが、ファンもみな知っていることとはいえ、大山升田の不仲の様子を赤裸々に書いたなら、すぐにどちらかから新聞のえらいさんに抗議が来るだろう。くびを切ることだって出来る。そんな中で生きているのだから誰も書かない。予定調和であり、書くことは幼稚でありおとなげない、のだ。というか、もし記者が書いてもデスクが止めてしまうだろうか。
 表に出て来る話はそういう波風、いわば刺戟物を除いているのだから、凡庸でつまらないものになる。私がそれらを読んでつまらないと感じたのは自然だった。ドロドロした世界であるのに、ドロドロの部分を無理矢理消して爽やか風味にしているのが、直感で見えた。



 私は今回ここで元棋士であり内情を知りつくした河口さんの遠慮のない人物論、内幕話のおもしろさを絶讃している。それは河口さんだからこそ出来ることだと。
 だが河口さんと同じ70代の将棋記者の中には、「あんなふうに書いていいなら、おれだって書ける。いくらだってネタはある」と思うひともいるのではないかと気づいた。

 狭い社会だ。何十年も将棋記者をやっていれば棋士達の仲不仲、様々なエピソードに接していよう。さらに記者は立場をはっきりせねばならない。たとえば大山中原戦を取材する記者なら、局後の残念会でも、日常のつきあいでも、いつしか大山側か中原側に分かれて行く、分かれねばならない。それはひとの常だ。

 棋士であった河口さんよりもむしろ記者の方が、たとえば大山番として、升田番として、中原番として、米長番として、どっちかにくっついていたから、「酔った××が△△のことをボロクソに言った」のような秘話は知っていよう。棋士であることから、棋士仲間の評価とか全方向では河口さんがいちばんだろうが、そうではなく偏った話としては、たとえば米長番をしており、米長が飲みに行くときはいつも提灯持ちをしていた記者の方が、スゴい話(もちろん中には勘違い話もあろうが)を知っていると言える。



 とはいえすべてはコロンブスの卵。「おれだって書ける」と言いつつも書かないひとがいくらいようと、現実に書いた河口さんには束になっても適わない。それもまた厳粛な現実である。
 書かなかったから、波風立てなかったから、東公平さんは、長年アサヒの記者として貢献した御褒美として、75歳で名人戦特別記者をすることができた。惚けて問題を起こしたが。
 日本人的礼儀としては、スキャンダルを知っていても墓の中まで持って行く、が正しいのか。
 ともあれ私は河口さんの文章が待ち遠しい。

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その他メモ

◎昭和40年代に『将棋世界』が「棋士に聞く史上最強の棋士」という企劃をやった。当時既に中原時代であり大山は無冠だったが投票は圧倒的に大山が1位だった。しかしなぜか大山は気に入らなかったらしく、編集部に「ああいう企劃はやらないように」と申しいれた。
 この企劃は覚えているが、大山さんがそれを嫌ったという話は初めて知った。連盟会長に大山さんにそれを言われたら出来なくなるわねえ。『将棋世界』編集部は下っ端棋士と雇われ編輯者でやっているんだから。

◎米長が名人戦観戦記を書くことになっていたヤマグチヒトミに対し、「あのひとだけはやめてもらいたい」と言いだした。すでに新聞社から依頼が行っているのでやめたり替えたりは出来ない。新聞社側の説得で米長も不承不承ヤマグチの観戦記を諒承した。

 ところがそれをどこからか伝えきいたヤマグチが(これまた狭い世界なのでヤマグチ先生に御注進に及んだヤツがいそうだ)、棋士ごときにそんなことを言われてまで書きたくないと観戦記を拒んだ。

(これはよくわかる話である。私はヤマグチヒトミが大嫌いなのだが、それは彼の場合、将棋でも競馬でも、旦那という上から目線で、この世の異端のものをかわいがっているという視線なのである。だから大晦日に棋士や騎手を自宅に呼んで大掃除をさせたりする。高名な?文士にかわいがってもらっていると感謝する彼らはよろこんでそれをする。しかし小島太のように気骨のある騎手は、「なんでおれが作家の家の掃除をしなければならないんだ」と反撥して距離を置くようになる。

 何度か書いているが、元祖コピーライターを自認するヤマグチは将棋界を「狂人部落」と名づけて悦に入っていた。センスのわるい棋士の中には、「私も狂人部落の一員として」などと随筆を書いたりするのもいた。しかしある時期、「なぜ作家ごときに気違い呼ばわりされて黙っているのか」と書く棋士が現れた。ヤマグチと将棋界のあいだに距離が生まれた。上記米長事件はそれよりは何年もあとのことのようだが、根底で繋がっているだろう。)

 ヤマグチに拒まれ、すでにヤマグチの観戦記と謳ってしまっていた新聞社が困った。大山会長がヤマグチ宅に出むいた。じっと頭を下げる。いくらあんたに謝られても自分は絶対に書かないとヤマグチは拒む。大山さんは何を言われてもひたすら頭を下げ続けたとか。
 やがてヤマグチの方が、あんたにそこまで頭を下げられては、と折れ、観戦記を書いた。だがこの一件を機会にヤマグチは将棋界から遠ざかっていったとか。
 米長のしりぬぐいをするのだから大山さんもたいへんだ。これっていまの会長の米長にはぜったいにできないことであろう。いや大向こう受けすると判断したらよろこんでするだろうけど(笑)。

 ヤマグチやキョセンが人気棋士と飛車落ち勝負をして本にしていた時代である。あんなもの売れたのだろうか。棋書はなんでも買ったがこういうのだけは買わなかった。
 ヤマグチのような不要なものを廃除したのが米長なら、それは価値のあることだ。大山さんは彼らが嫌いでも、万に一つも役立つことがあるのではと、表面上は大切に扱っていた。懐が寛いとも感覚が古いとも言える。中原はそういうことにカンシャクを起こすタイプではなかったのだろう。最強棋士のひとりとして米長だけにそういう感覚があったことになる。

 なぜか!? なぜ米長だけそれができたのか!? 答は簡単だ。ヤマグチと同じ自信過剰、自意識過剰、あるいは強烈な劣等感を、米長も持っていたからである。ヤマグチと米長は同じタイプの人間なのだ。米長が兄と同じく東大を出て大学教授や作家になっていたなら、ヤマグチと同じ事をしていただろう。

 もしかしたら中原さんもヤマグチのような文化人(笑)をきらっていたのかもしれない。そんな話を河口さんから聞けるかもと思うとますます楽しみになる。

11/10
 現在、実力五級……









   
   


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