02/5/20
名人戦
──森内名人誕生



 森内が四連勝で名人なった。たしか初のタイトルだ。それが名人という棋界最高ブランドのタイトルである。
 なんともこのタイトルを巡る因果は不思議である。実力制名人になってから何人目だろう。え~と、指折り数えて、木村、塚田、大山、升田、中原、加藤、谷川、米長、羽生、佐藤、丸山、森内だから、12人目か。空で言えるからまだボケてないな。さすがにこの間、木村、大山、中原、谷川が複数回復帰しているから通算何期目かは覚えていない。これは正規の文章を書くときに調べよう。

 森内は小学生名人の時に羽生に敗れている。それからずっと誰もに実力は認められつつも陽の当たる場所には無縁だった。やっととった最初のタイトルが一番の権威あるものだったのだからうれしいだろう。師匠は"カミソリ"勝浦。この人も中原さんの全盛時代にあたり結局は無冠だった人だから愛弟子の名人戴冠はうれしいだろう。そういえば羽生の師匠も大山の全盛時代に運悪くぶつかってしまい、そうでなければ確実に名人に成れていたと言われた二上さんだった。競馬や相撲の名伯楽が現役時代のスターよりもむしろ悲運のスター候補に多いように、これはおもしろい傾向だ。
03/3/28
名人戦──最強の挑戦者

(03/3/28)
 3月26日の決定戦を制して、名人戦の挑戦者が羽生になった。何とも強運としか言いようがない。そもそも今回の挑戦者は順位が上であり天王山で抜け出した佐藤で決まったようなものだった。追う藤井と羽生は三敗している。自力の目はない。佐藤が郷田に勝ってすんなりと挑戦者だろうと思われていた。それを郷田が佐藤に勝ち、羽生と藤井も三敗を守ったことで巴戦になる。それでもまだ佐藤有利だった。順位の関係で羽生と藤井の勝者が佐藤と決勝戦を行う巴戦である。佐藤は勝ち上がってきたひとりをたたきつぶせばよかった。それを羽生は、本線で敗れていた藤井を決定戦で破り、さらには佐藤を破って挑戦者になってしまったのである。強さはもちろんなんともいいがたい強運を感じる。流れからすると森内あやうしであろう。主催の毎日新聞としても、竜王であり最強の羽生が挑戦者となって万々歳のはずだ。盛り上がりが違う。今年の名人戦はおもしろい。

 本戦で佐藤を破りこの大盛り上がりの殊勲者となった郷田は、上位の丸山と島が敗れれば残留の目もあったが、二人とも勝ったため、下位である規定により同率ながらB1への降級となった。丸山はもしもここで敗れたなら、前名人から一気にB級へという奈落へ転げ落ちるところだった。いつもながらA級戦最終局のもつれぐあいはすさまじい。今年は特に混戦だっただけに印象深い年となった。

名人戦の変移




 マイナーな地位に転げ落ち、今じゃ部数でも聖教新聞よりすくない毎日新聞にとって、「将棋名人戦」は唯一保持する最高級ブランドである。それを報じるこのニュースにも、そこはかとなく複雑なプライドが見え隠れしておもしろい。

 現在棋界の最高級ブランドは讀賣の主催する竜王である。それと並んで名人位がある。すべての認定書には竜王と名人が署名する。将棋界二大タイトルだ。以前は名人ひとりの署名だった。そこに竜王が割って入った。しかも将棋会は竜王を先に署名するように規定した。名人位は未だ棋士すべてが憧れる最高級ブランドではあるが、その地位の神々しさは唯一絶対ではなくなった。それは名人位を主催する毎日新聞にとって気分のいいことではないだろう。その竜王が名人位への挑戦者になった。最高の話題である。だったらそれを報じる記事はそれが主眼とならねばならない。「竜王対名人」なのだ。まともな雑誌ならそうなる。ところがここは「主催」という意地を張り合う新聞紙上である。

 竜王、王将王座の三冠を保持する羽生の肩書きが「王将」になっている。これは系列のスポニチが主催しているから当然とも思えるが、歴史をひもとけばそれほど簡単な問題でもない。どう考えても竜王に触れていないのは不自然だ。見出しでは書かなくても、記事のところでは挑戦者の羽生が竜王を保持している三冠であることを記すべきであろう。それさえない。

 長い間、将棋のタイトルの一番手は名人戦だった。唯一絶対と言っていい。主催は毎日新聞だった。
 それを朝日が横取りした。だいたいにおいてこの種の移動の原因は金である。このころの朝日は部数日本一、将棋も碁も共に名人戦を主催し、いちばんのっていたときであろう。すでにもうそのずっと前から朝日は狂っていたのだが、まだソ連、北朝鮮が夢の国と信じる人もいて、インテリが読むのは朝日新聞と決まっていた。天声人語の英訳が大学受験問題に出ると言われ、親に頼んで新聞を朝日に替えてもらった田舎高校生もいた。私である。ばかだった。

 王将戦とは、名人戦を朝日に盗られた毎日が、名人位よりも上のものを作ろうと、起死回生をはかって企画したものだった。こういうことがなぜ可能かというと、将棋連盟の棋士にも、朝日派、毎日派といるからである。王将戦は、王将位と挑戦者の闘いの場で、挑戦者は負けが込むと駒を引かねばならないという規定だった。たとえ挑戦者が最高位の名人であってもだ。升田王将が挑戦者大山名人に、「名人に香を引かせた」と高笑いしたのはこの舞台である。
 が、意に反して、やはり棋士は名人になりたがり、王将位は、「名人位とその他の棋戦」のその他に甘んじねばならなかった。

 時が過ぎ、やはり金の問題で揉めて「名人戦」が朝日から毎日にもどってくる。金の問題は、将棋名人戦の賞金が碁の名人戦よりもかなり低かったことが原因だった。あげろあげないでもめ、毎日にもどることになった。待望の「名人戦」を取りもどして毎日ははしゃぎまくる。気の毒なのは、その名人戦を凌駕せんと企画された王将戦なのに、まるで本命が帰ってきたら見向きもされない捨てられた女のように、主催を系列スポーツ紙のスポニチとして王将戦は墜ちていった。スポーツ紙の主催する棋戦は、はるか格下の女流棋戦等が主流で、なんともこの「スポニチ主催王将戦」は王将位のかつてを知るものからは無惨に思えたものだった。寺山修司の比喩なら「日劇の花形踊り子が地方のどさ周りストリッパーになる」とでもなるか。

 待望の名人戦を取りもどしたものの、すでに毎日新聞自体が下り坂を転げ始めていた。名人戦を奪われた朝日は、それなりの賞金を用意した「朝日プロトーナメント戦」を新たに始めたがたいした話題になることもなかった。この棋戦で思ったのは谷川の強さだった。トーナメントという一度負けたら終りの棋戦で抜群の成績を残すのはいかに一番勝負に強いかの証明だろう。
 この時期、あらたな仕掛けを行ったのが朝日を抜き、部数日本一となっていた讀賣新聞である。それまで讀賣の主催していたのは「十段戦」であった。これもまた名人戦の権威と地位を追い抜こうと企画されたものだが、どうにもかなわない。なにしろ棋士がなりたいのが名人であるのだからしょうがない。
 讀賣はここで十段戦を一新して「竜王戦」を提唱する。それまでの棋戦とは賞金が桁違いだった。また名人戦システムの弊害も取り払い、力さえあれば下位のものでも一気に竜王になれる画期的なシステムを採用した。(ここは長くなるので割愛)。前代未聞の高額賞金を提供する代価として、讀賣は「竜王を名人よりも上位に置くこと」を日本将棋連盟に要求した。将棋会はそれを飲んだ。よってこのときから、それまでアマチュアへの段位認定証等は名人と日本将棋連盟会長の二人だけが署名するものだったが、そこに「竜王」が、「名人」よりも上位で署名するようになったのである。日本将棋連盟発行の「将棋世界」等でも、それまでは「棋戦の動き」のページでは、常に名人戦につながる予備リーグである「順位戦」をトップにしていたのを「竜王戦」にするようにした。棋士の内心は、今でも「ひとつだけタイトルが取れるなら、なんといっても名人」ではあろうが、表向きは完全に竜王が最高位となったのである。

 そんなことは将棋ファンなら誰もが知っている。だから毎日は、「竜王が名人に挑戦!」とやるべきなのだ。それによってどちらが勝とうと名人戦は大いに盛り上がる。そのことは毎日のためにもなる。なのに今更に王将などと書き、竜王のリの字にすら触れずすまそうとしている。この辺に聖教新聞より部数の減った決してもう三大紙ではない毎日の体質がよく出ている。今じゃ二流の朝日である。 触れるべき大きな「竜王」というものにまったく触れず、まるでそんなもの存在しないかのようにふるまうのも、北朝鮮を夢の国と言ったことなどまるでなかったかのようにふるまう朝日と同じだ。こんなところにも新聞の性格は出る。

03/5/8
将棋名人戦第三局

 昨日、きょうと二日がかりで行われた名人戦第三局は羽生が勝ち三連勝となった。名人戦の歴史において(すべての七番勝負においてか?)三連敗の後の四連勝はない。奇跡が起きない限り森内の防衛はなくなった。
 名人位の移動がつわものたちの間で行われるのは世の常だし、次代を担う最強の地位が、大山から中原へ、中原から谷川へ、(その谷川からまた中原へ)、谷川から羽生へ、と移ったときには、それなりの感慨があったが、むしろそれは好ましいことだった。
 私個人の感動は、時代が変ったはずなのに、また中原が谷川から奪い返したときが大きかった。谷川が奪取したとき、「月刊プレイボーイ」にその記事を書いた経緯もある。自分が中原さんを崇拝した世代だからでもある。一度動いた時代がもういちど逆回りしたので驚いたのだった。

 時代を築いた王者から次世代の王者へ移動は、力づくの奪取であるが、同時に王者たるものから王者たるものへの王位禅譲であり、勝者と敗者の光陰を映し出し残酷でもあるが、うるわしい光景でもあった。
 大山の前には実力制第一期名人の木村がいる。大山に敗れた木村の名言「よき後継者を得て……」があった。それは大山が中原に、中原が谷川に、のときも同じだったろう。谷川はまだ一時代を築く前に羽生が現れたので、これは禅譲のような大団円ではなかった。
 大山のときには升田が、中原のときには米長が、武蔵に対する小次郎のように存在する。そうして世間的には小次郎タイプのほうが人気が高いのがおもしろい。

 現在の名人位は羽生世代の乱戦となっている。なぜか羽生も名人位だけは長期防衛できない。羽生が(谷川に敗れ、その谷川が)佐藤に敗れ、佐藤が丸山に敗れ、丸山が森内に敗れ、そしてまた羽生が返り咲こうとしている。それはそれでいいのだが、なんとなく今回だけは判官贔屓で(私はあまり判官贔屓の感覚はないのだが)、ちょっと残酷だなと思わずにはいられない。

 森内と羽生は全国小学生名人戦を戦っている。そのころからのライバルだ。優勝は羽生、森内は準優勝。同い年。二人はプロになり、常に羽生が脚光を浴びてきた。森内も十分に俊英なのだがあまりに羽生の輝きが強烈なのでいつも日陰にいた。そうして昨年の春、なぜか羽生とは縁が薄い(といっても三期君臨しているのだが)名人戦を制した。初めてのタイトルだった。それが歴史的に最高のタイトルである名人位である。そして結婚。まさに両手に花だった。
 そうして今年、ここ五年、挑戦者になることすらなかった羽生が、まるで森内をねらい澄ましたかのように、強運剛腕で三者プレーオフを勝ち上がり、挑戦者に名乗りを上げてきた。そしてこの結果である。

 私は大の羽生ファンなのだけれど、この結果の残酷さにはため息が出てしまう。羽生が勝つだろうと豫想していた。でも森内よ、意地でも混戦にしろよと願っていたのだが……。

歴代の名人戦七番勝負

対局年 優勝者 成績 相手 対局年 優勝者 成績 相手
1 1937 木村義雄 (2位 花田長太郎 31 1972 中原 誠 4-3 大山康晴
2 1939 木村義雄 4-1 土居市太郎 32 1973 中原 誠 4-0 加藤一二三
3 1941 木村義雄 4-0 神田辰之助 33 1974 中原 誠 4-3 大山康晴
4 木村義雄 34 1975 中原 誠 4(1持)3 大内延介
5 木村義雄 35 1976 中原 誠 4-3 米長邦雄
6 1947 塚田正夫 4(1持)2 木村義雄 36 1978 中原 誠 4-2 森 ?二
7 1948 塚田正夫 4-2 大山康晴 37 1979 中原 誠 4-2 米長邦雄
8 1949 木村義雄 3-2 塚田正夫 38 1980 中原 誠 4(1持)1 米長邦雄
9 1950 木村義雄 4-2 大山康晴 39 1981 中原 誠 4-1 桐山清澄
10 1951 木村義雄 4-2 升田幸三 40 1982 加藤一二三 4(1持)3 中原 誠
11 1952 大山康晴 4-1 木村義雄 41 1983 谷川浩司 4-2 加藤一二三
12 1953 大山康晴 4-1 升田幸三 42 1984 谷川浩司 4-1 森安秀光
13 1954 大山康晴 4-1 升田幸三 43 1985 中原 誠 4-2 谷川浩司
14 1955 大山康晴 4-2 高島一岐代 44 1986 中原 誠 4-1 大山康晴
15 1956 大山康晴 4-0 花村元司 45 1987 中原 誠 4-2 米長邦雄
16 1957 升田幸三 4-2 大山康晴 46 1988 谷川浩司 4-2 中原 誠
17 1958 升田幸三 4(1持)2 大山康晴 47 1989 谷川浩司 4-0 米長邦雄
18 1959 大山康晴 4-1 升田幸三 48 1990 中原 誠 4-2 谷川浩司
19 1960 大山康晴 4-1 加藤一二三 49 1991 中原 誠 4-0 米長邦雄
20 1961 大山康晴 4-1 丸田祐三 50 1992 中原 誠 4-3 高橋道雄
21 1962 大山康晴 4-0 二上達也 51 1993 米長邦雄 4-0 中原 誠
22 1963 大山康晴 4-1 升田幸三 52 1994 羽生善治 4-2 米長邦雄
23 1964 大山康晴 4-2 二上達也 53 1995 羽生善治 4-1 森下 卓
24 1965 大山康晴 4-1 山田道美 54 1996 羽生善治 4-1 森内俊之
25 1966 大山康晴 4-2 升田幸三 55 1997 谷川浩司 4-2 羽生善治
26 1967 大山康晴 4-1 二上達也 56 1998 佐藤康光 4-3 谷川浩司
27 1968 大山康晴 4-0 升田幸三 57 1999 佐藤康光 4-3 谷川浩司
28 1969 大山康晴 4-3 有吉道夫 58 2000 丸山忠久 4-3 佐藤康光
29 1970 大山康晴 4-1 灘 蓮照 59 2001 丸山忠久 4-3 谷川浩司
30 1971 大山康晴 4-3 升田幸三 60 2002 森内俊之 4-0 丸山忠久
02/4/15
早指し将棋選手権の思い出


 午前二時に起き出して仕事をしていた。朝五時十五分からの将棋番組を見て(すっかりジーサマですな)さわやかな朝。このテレビ東京の将棋番組は昭和48年ぐらいから見ている。その頃、日曜の朝九時からだった。それが十数年前に朝の六時からになり、今や五時十五分である。早起きの年寄り対象なのか。そのうち午前三時ぐらいからの放送になり、若者にとっては深夜だが老人には早朝になるのではないかと心配している。いやほんと、田舎には──田舎だけとも言い切れないだろうけど──午後七時には寝てしまい、午前三時に起き出すなんて年寄りがいる。だいたい夫婦二人暮らしが多いようだけど、別棟で息子一家、孫一家がそろっている場合もある。

 ぼくがいつもありがたいと思うのは、自分の親がきわめてノーマルだなことだ。ゴールデンタイムの番組を楽しみ、十時過ぎに寝、朝は七時前に起きる、ごくフツーの時間で生活している。生活習慣を一緒にしているわけではないから父母が午後七時に寝て午前三時に起きるような生活をしてもぼくになんら不便が生じるわけでないが、でもなんとなく、それには世の中からズレてしまっている哀しさを感じる。実際田舎のお年寄りにとって、NHK以外楽しめるゴールデンタイムの番組はないだろう。すべては若者に迎合して世の中は動いている。ぼくの親は未だにオフサイドがわからないぼくとは違いサッカーさえ楽しんでいる。高校野球も欠かさず見ているし、ぼくよりは遙かに世間との対応容量が大きい。

後日記入・テレ東の将棋番組は今年四月から45分番組が30分番組になり、今までの一手30秒が20秒になったとか、後でインターネットで知った。この日、じつはスイッチを入れたのが五時半過ぎだった。いつもならかなり進んでいて終盤のはずなのに序盤である。おかしいなとは思っていた。の時は30分番組に縮小されたことを知らなかった。)

 日曜のNHKと早朝のテレ東は将棋ファンにとって大切な番組だったから、時代の流れでとうとうこんなことに……、とそのことを知ったときは、一瞬ものがなしく思ったのだが、よくよく考えてみると、衛星だかケーブルだかでは一日中将棋と碁のことばかりやっている局があり、二日制の名人戦なども生中継しているのである。まったくもって、一手に90分も長考したりする間、解説者はどう応対しているのだろう。とはいえ、自分もその環境にあったら飽きることなく観戦する。相撲ファンにとって相撲嫌いが嫌う原因である仕切の間こそ楽しいように、将棋ファンにとって、長考の間に、可能性のある手を探ったり、過去にその手を初めて指した名局をふりかえったりするのは大いなる楽しみなのだ。ぼくも契約したなら楽しみに見るだろう。実際東京にいるとき、プロレスと将棋の局と契約しようとしていた。そのころからアジア巡りが始まり、今に至るまで衛星とは(田舎にはケーブルはない)無縁のままだが。つまり、世の中から将棋が遅れたのではなく、その種のメディアに関してぼくが遅れているのだ。きっと世の中の先鋭的な将棋ファンは、ぼくのように地上波の将棋番組が縮小されたと嘆くのではなく、衛星だかケーブルだかで毎日将棋三昧なのだろう。

(03/1/25)
 冷え込んでいた家が、ストーヴとこたつでやっと暖まってきたのは五時ぐらいか。
 5:15分からの早指し将棋選手権を見た後、こたつの中でうとうとする。

 日本で最古の連続番組といえば『笑点』だが、この『早指し将棋選手権』も「Since 1972」とタイトルにあるからかなりのものだ。31年か。第一回から観ている。ちょうどぼくの将棋の歴史と重なる番組だ。


(03/3/14) 『将棋世界』を読んでいてテレビ東京の『早指し将棋選手権』が終ることを知る。開始は昭和47年、ちょうど30年で終了とのことだ。ショックである。終了の理由はスポンサーがいないことらしい。この番組のスポンサーとしていちばん鮮烈なのは競艇になる。日本船舶振興会か。CMは笹川良一がおふくろをおぶってどうのこうのとやっていたり、「戸締まり用心、火の用心」と高見山や山本直純がまといをふるうものだった。それから霊友会の時代になった。スポンサー探しに苦労をしているのは画面からも見えていた。

 最初の放送は午後だったらしい。覚えていない。ぼくがよく記憶しているのは日曜の朝九時からだ。十時からNHK教育が始まるから将棋ファンには連続で楽しめる時間だった。
 それから朝の六時になり、これがだいぶ長く続いた。そのあとに朝の五時である。このころも欠かさず観ていたが、早起きではなく眠る前に見ていた。それから数時間寝て、競馬場へ出勤である。この調子でどんどん早くなって行くと、やがて四時になり三時になって、深夜番組になってしまうのではないかと半分本気で心配したものだ。
 でも老齢の将棋ファンにはいい時間だったのかもしれない。というのは、私の親はまともな時間で生きていたが、田舎の老人には、午後七時にはもう寝てしまい、朝の三時に起きるなんて人も多かったからだ。そんな人には、朝方のいい番組だったことだろう。

 東京12チャンネルで熱心に見ていた番組は、これと土曜競馬中継ぐらいだった。昭和50年の暮れ、阪神3歳ステークスがあった。杉本アナの「見てくれ、この脚、これが関西期待のテンポイントだ!」の実況とこの時期の思い出が被さる。

 この種の趣味はもう衛星とかケーブルとかの時代のようだ。この番組の消滅によって地上波ではもうNHKしかなくなってしまうのだが、そっちでは、新たな棋戦や名人戦、竜王戦の丸々実況とか、充実一途なのである。いよいよそんなものの導入を考えねばならない時期に来たようだ。
(03/3/31)
 昨日の朝、録っておいた「早指し将棋選手権最終回」を観る。過去三十一年を振り返る構成。二上会長、中原、米長という豪華なゲストで最初のトーク。二上も中原もボケてしまっていて(笑)、島田アナから当時のことを聞かれても「そうだったんですかね、覚えてません((苦笑)」と的確に応えられない。唯一サーヴィス精神抜群の米長は「はい、よく覚えてます」と盛り下がる場の雰囲気を察知して応対していた。ここがあの人の特殊なところだ。大の中原ファンだった身としては衰え具合が寂しい。
 そういえばこの棋戦で、二上が二歩を打って負ける場面を観たことがある。プロが二歩で負けるのを観たのは(しかもテレビ棋戦で)あれが最初で最後になる。今後もちょっとあり得ないだろう。
 二上さんは巨人・大山の全盛期にぶつかってしまい、本来なら多くのタイトルを獲れるすぐれた棋士だったが、いつも大山の配下にいた。いわゆる「万年二着」の存在である。そこから弟子の最強羽生が育つのだから、まこと人生とはおもしろい。競馬で言うならGⅠ2着続きの馬が三冠馬を出したようなものだ。寺山の比喩にあるように、「人生が競馬に似ている」のだ。

 後半の羽生、藤井、深浦の三人になると若いから記憶力抜群。羽生が島田アナの望むような的確な思い出話をビッシビシしてくれて一安心。若手の中から深浦が出演しているのは、早指し新人戦、本戦を連覇という唯一の希有な記録の保持者だから。しかも本戦決勝で破ったのが羽生だった。
 羽生が谷川と公式棋戦で指したのはこの「早指し」が初めてだったのだと思い出す。羽生が右手を骨折して左手で指していたことがあった。その骨折の理由が「学校の体育の時間に」である。中学生棋士だった。そんな彼ももう三十二になる。月日の経つのは早い。

 ヴィデオ出演でコメントを述べた土佐浩二が印象的だった。ん? コウジはこれでいいんだっけ。谷川はこれだけど。将棋雑誌で調べる。ぼくがこのホームページで土佐さんの名を書くことは最初で最後だろう。礼を尽くさねば。浩司だった。土佐浩司七段。正しく書いてほっとする。彼は公式棋戦唯一の優勝がこれだった。今四十七歳。今後もちょっとあり得まい。いわば棋士として生涯唯一の公式戦優勝になる。それを思うと、このヴィデオで観た全棋士中、いちばん印象的だった。

 この棋戦が続いてきたのは笹川良一のお蔭だったのだと、思い出話の中からあらためて確認する。今も競艇=日本船舶振興会がスポンサーになることなど簡単だろうが、今の会長(笹川だれだっけ)は将棋に興味がないのだろう。なんとも無念である。曾野さんを起用したりした感覚は認めるが。

 そういうことを考えると、日本大相撲協会というのはえらいなと思う。力士とか将棋指しのような職業は、古来より有力な大名に抱えてもらうものだった。強者の保護が必須だった。そんな中から相撲取りはあのような財団法人を作り、立派に経営している。なにより引退力士の受け皿になっているのが理想的だ。前田が理想の形態として憧れた気持ちがわかる。将棋連盟も故・大山会長の東奔西走によりがんばってきたが、相撲のように自力開催で興行収入を得ることが出来ないのが痛い。
 地上波テレビで観られる将棋は日曜のNHK杯戦だけになってしまった。週に一度二時間たっぷり観られるのだからまだまだ恵まれていると考えるべきなのだろう。

早指し将棋選手権戦・早指し新鋭戦歴代優勝者

早指し将棋選手権優勝者 早指し新鋭戦優勝者
年度 優勝者 相手 年度 優勝者 相手
1 1972後 中原 誠名人 大山康晴王将
2 1973前 大山康晴九段 有吉道夫棋聖
3 1973後 中原 誠名人 大山康晴九段
4 1974前 大山康晴十段 二上達也九段
5 1974後 米長邦雄八段 高島弘光七段
6 1975前 松田茂行八段 中原 誠名人
7 1975後 大山康晴棋聖 大内延介八段
8 1976前 桐山清澄八段 関根 茂八段
9 1976後 大山康晴15世 二上達也九段
10 1977前 加藤一二三棋王 真部一男五段
11 1977後 米長邦雄八段 森 ?二八段
12 1978 有吉道夫八段 大山康晴15世
13 1979 米長邦雄王位 森 ?二八段
14 1980 米長邦雄棋王 加藤一二三十段
15 1981 加藤一二三十段 高島弘光七段
16 1982 真部一男七段 米長邦雄棋王 1 1982 田中寅彦六段 小林健二六段
17 1983 桐山清澄八段 森安秀光八段 2 1983 塚田泰明五段 高橋道雄五段
18 1984 森安秀光八段 高橋道雄六段 3 1984 脇 謙二五段 神谷広志五段
19 1985 中原 誠名人 加藤一二三九段 4 1985 脇 謙二六段 島  朗五段
20 1986 田中寅彦八段 中原 誠名人 5 1986 小野修一五段 森下 卓四段
21 1987 有吉道夫九段 森下 卓五段 6 1987 塚田泰明七段 森下 卓五段
22 1988 森 ?二王位 南 芳一王将 7 1988 森内俊之四段 羽生善治五段
23 1989 南 芳一棋王 中原 誠棋聖 8 1989 森内俊之四段 羽生善治五段
24 1990 加藤一二三九段 羽生善治前竜王 9 1990 佐藤康光五段 森内俊之五段
25 1991 森内俊之八段 加藤一二三九段 10 1991 佐藤康光五段 森下 卓六段
26 1992 羽生善治竜王 脇 謙二七段 11 1992 小林 宏五段 佐藤康光六段
27 1993 深浦康市四段 羽生善治棋聖 12 1993 深浦康市四段 豊川孝弘四段
28 1994 小林健二八段 谷川浩司王将 13 1994 畠山成幸五段 丸山忠久五段
29 1995 羽生善治竜王名人 南 芳一九段 14 1995 行方尚史五段 丸山忠久六段
30 1996 村山 聖八段 田村康介四段 15 1996 鈴木大介四段 阿部 隆六段
31 1997 郷田真隆六段 羽生善治四冠 16 1997 藤井 猛六段 鈴木大介五段
32 1998 土佐浩司七段 森内俊之八段 17 1998 野月浩貴四段 久保利明六段
33 1999 藤井 猛竜王 谷川浩司棋聖 18 1999 深浦康市六段 北浜健介六段
34 2000 丸山忠久名人 羽生善治五冠 19 2000 深浦康市六段 久保利明六段
35 2001 丸山忠久名人 屋敷伸之七段 20 2001 深浦康市七段 行方尚史六段
36 2002 羽生善治竜王 藤井 猛九段 21 2002 山﨑隆之五段 北浜健介六段

03年11月17日
 長年の習慣だから、番組が終っても、日曜の明け方、「おっ、そろそろ早指し将棋が」と思うことしばしばだった。
 東京にいたころは、眠る前の明け方に見ていた。田舎に帰ってきてからも主はそれだったが、近年では午前三時起きなんてのをやるようになって、起きてから見たりもしていた。いずれの形でも「土曜の深夜から日曜の明け方」にかけて、「早指し将棋選手権」は私の生活の一部になっていた。
 番組が終って半年が過ぎ、やっとこのごろ忘れるようになってきたが、それでもまだ思い出す。なんとも残念である。有料放送を導入すれば一日中見ていることすら可能なのは解っている。でもそうじゃないんだよな、マイナな番組として日曜の早朝にあり、ふと、「どこかの田舎で、将棋ファンのおじいちゃんも見ているんだろうな」なんて思う連帯感(?)がたまらなくよかった。将棋の盛衰とは関係なく、衛星放送、ケーブルテレビの時代だから、今後こういう番組が始まることはあるまい。そこのところがなんともさびしい。


02/12/1
竜王戦
-阿部が挑戦!


(02/12/1)  竜王戦は阿部が一勝を返した。羽生の三連勝になっていたらつまらなかっただけにホッとする。将棋はタイトル戦になったら若手棋士でも紋付き羽織をあつらえて対局に望む。もちろん畳の間で脇息附きだ。いい伝統を守って欲しい。囲碁は中国や韓国を交えて国際化しているからずっとまえから椅子とテーブル対局である。これはまあこれでいいだろうけど。

 日本固有のゲームである将棋(発祥はインドであり中国経由だが)は、国際的である囲碁にずっと劣等感を持ってきた。今も棋士の誰もが「たったひとつ取れるなら」と假定したとき真っ先にあげる「名人戦」は、最初毎日新聞で始まった。しかし囲碁に比べて賞金が低いということから昭和24年に朝日新聞に移る。さらに時が流れ、今度もまた同じ囲碁との賞金格差から毎日にもどることになる。これを実現したのは大山康晴だった。記名投票で朝日よりの升田や加藤が反対し米長に罵倒されたり、この辺の事情はリアルタイムで知っている。
 名人戦はその名人という名の響きから、棋士の誰もが憧れるタイトルだった。古いタイトル故、そのシステムは矛盾だらけだった。しかしどんなに矛盾に満ち、改革を志しては混沌の前に挫折を繰り返す問題のある棋戦ではあっても、棋士の誰もが一度は名人になってみたいという心は動かない。その権威をなんとしても崩したいと試みたのが讀賣新聞である。日本一の部数を誇るこの新聞は、そのずっと前にも名人戦に対抗して「十段戦」を創設したが、どうしてもその格差は埋まらなかった。名人戦を朝日に奪われた当時の毎日も、名人戦を超える棋戦として王将戦を設立したりしたのだが、どうしてもこの「名人」という名の重みにはかなわないのであった。毎日はまあ取りもどしたからいいのであるが。

 讀賣がなんとしても名人戦以上のものを作ろうと、十五年前、十段戦を改良して創設したのが竜王戦である。今までの棋戦とは比べ物にならないぐらいたっぷりと金を出し、その代わりそれまで将棋連盟会長と時の名人の連名で揮毫していたアマチュアへの段位認定書や、その他のマスコミへの露出でも、常に「竜王」の名を名人より先にすることを確約させた。将棋連盟も破格の契約料からこの条件をのみ、以後この種のものは、必ず最初に「竜王××」とあり、その後に「名人××」と揮毫されている。羽生が七冠を完全制覇したときは世間的な話題になったが、あれは彼の年間獲得賞金額が二億を超えることによっての話題性も大きかった。ひとえにそれは竜王戦の賞金額のお蔭である。竜王戦のタイトルで五千万、そこに勝ち上がるまでで二千万以上、二億の内の八千万ぐらいは竜王戦関係である。つまり竜王戦がなかったら六冠制覇しても半分の賞金にしかならなかったのである。タイトル獲得者の賞金額自体も破格だが、讀賣は今までの棋戦と違って、そこにいたるまでの賞金も大きく用意した。竜王戦挑戦者にまで名乗りを上げると、そこまで勝ち抜いてきた累積の賞金だけで前年の年収を大きく上回るようになったのである。棋士にとって励みとなるエポックメイキングな出来事であった。今、棋士の中で竜王戦の価値はどの程度の物なのだろう。生涯に一度だけタイトルを取れるなら、それが未だに「名人」であることに変わりはないだろうが。
 実力のあるものは下位の段位からでも勝ち上がれること、海外でタイトル戦を開催して耳目を集めること等、竜王戦の果たした功績は大きい。時が流れたとき、讀賣の竜王戦創設という大英断は、より歴史的価値を増すはずである。

 朝日新聞は、毎日から奪った将棋の「名人戦」により、「将棋も囲碁も名人戦は朝日」を看板にした。思えばあの当時(昭和四十年代)が、戦後の朝日新聞の絶頂期であった。部数も日本一ならインテリは朝日を読むのが常識だった。ソ連や北朝鮮に賛美した誤報もまだ遡上に挙げられていなかった。時代をリードし、インテリはみな「朝日ジャーナル」を読んでいた。
 昭和51年、名人戦を毎日に奪われた(元にもどった)朝日は、その後「全日本プロトーナメント」というしょぼくれた棋戦でお茶を濁している。まあ赤新聞に将棋は似合わない。ほどよい具合であろう。
03/5/23


羽生、名人位奪取!(03/5/23)

 豫想通り四連勝で羽生が森内から名人位を奪取した。これで、王座、王将と合わせて四冠になる。

年度 優勝者 成績 相手
1 1988 島  朗 4-0 米長邦雄
2 1989 羽生善治 4(1持)3 島  朗
3 1990 谷川浩司 4-1 羽生善治
4 1991 谷川浩司 4(1持)2 森下 卓
5 1992 羽生善治 4-3 谷川浩司
6 1993 佐藤康光 4-2 羽生善治
7 1994 羽生善治 4-2 佐藤康光
8 1995 羽生善治 4-2 佐藤康光
9 1996 谷川浩司 4-1 羽生善治
10 1997 谷川浩司 4-0 真田圭一
11 1998 藤井 猛 4-0 谷川浩司
12 1999 藤井 猛 4-1 鈴木大介
13 2000 藤井 猛 4-3 羽生善治
14 2001 羽生善治 4-1 藤井 猛
15 2002 羽生善治 4-3 阿部 隆
 羽生は今年、長年防衛してきた棋王を丸山に、王位を谷川に奪われ、王将を佐藤から、名人を森内から奪取したことになる。

 羽生の最初のタイトルは十九で奪取した竜王だった。前年出来たばかりの棋界最大の棋戦に、谷川以来ひさびさに登場した天才の誉れ高い羽生がつくことは、主催の讀賣にとってもうれしい出来事だったろう。

 96年に前人未踏、そしてきっと空前絶後であろう七冠完全制覇をなしとげる。

 さすがにそれは一年しか続かず、三浦に棋聖位を奪われて終った。
 七冠失墜後も羽生は常に四冠から五冠を保持し棋界の第一人者だったが、なぜかその中に最高位の竜王と、最高品位の名人位はなかった。

 それが昨年、藤井から竜王を奪取、そして今年、竜王を防衛し(これは阿部の善戦があり辛勝だった)、ついにまた名人位に復位した。
 これで四期だから来年防衛すると、大山十五世、中原十六世、谷川十七世に続く十八世名人の資格を得る。竜王も、こちらは「通算七期」が資格なので、来年防衛すると史上初の「羽生永世竜王」が誕生する。

 同じ四冠でも、この二つをもつのは他とは濃さが違う。将棋界の発行する免状に署名するのは、理事長と名人、竜王である。実質「二大タイトル」と言える。羽生、ひさびさの獨占である。

 豫想された結果であり、勝負の世界によけいな情は禁物だが、森内の気持ちを考えると、せつないものがある。

対局年 優勝者 成績 相手 対局年 優勝者 成績 相手
1 1937 木村義雄 (2位 花田長太郎 31 1972 中原 誠 4-3 大山康晴
2 1939 木村義雄 4-1 土居市太郎 32 1973 中原 誠 4-0 加藤一二三
3 1941 木村義雄 4-0 神田辰之助 33 1974 中原 誠 4-3 大山康晴
4 木村義雄 34 1975 中原 誠 4(1持)3 大内延介
5 木村義雄 35 1976 中原 誠 4-3 米長邦雄
6 1947 塚田正夫 4(1持)2 木村義雄 36 1978 中原 誠 4-2 森 ?二
7 1948 塚田正夫 4-2 大山康晴 37 1979 中原 誠 4-2 米長邦雄
8 1949 木村義雄 3-2 塚田正夫 38 1980 中原 誠 4(1持)1 米長邦雄
9 1950 木村義雄 4-2 大山康晴 39 1981 中原 誠 4-1 桐山清澄
10 1951 木村義雄 4-2 升田幸三 40 1982 加藤一二三 4(1持)3 中原 誠
11 1952 大山康晴 4-1 木村義雄 41 1983 谷川浩司 4-2 加藤一二三
12 1953 大山康晴 4-1 升田幸三 42 1984 谷川浩司 4-1 森安秀光
13 1954 大山康晴 4-1 升田幸三 43 1985 中原 誠 4-2 谷川浩司
14 1955 大山康晴 4-2 高島一岐代 44 1986 中原 誠 4-1 大山康晴
15 1956 大山康晴 4-0 花村元司 45 1987 中原 誠 4-2 米長邦雄
16 1957 升田幸三 4-2 大山康晴 46 1988 谷川浩司 4-2 中原 誠
17 1958 升田幸三 4(1持)2 大山康晴 47 1989 谷川浩司 4-0 米長邦雄
18 1959 大山康晴 4-1 升田幸三 48 1990 中原 誠 4-2 谷川浩司
19 1960 大山康晴 4-1 加藤一二三 49 1991 中原 誠 4-0 米長邦雄
20 1961 大山康晴 4-1 丸田祐三 50 1992 中原 誠 4-3 高橋道雄
21 1962 大山康晴 4-0 二上達也 51 1993 米長邦雄 4-0 中原 誠
22 1963 大山康晴 4-1 升田幸三 52 1994 羽生善治 4-2 米長邦雄
23 1964 大山康晴 4-2 二上達也 53 1995 羽生善治 4-1 森下 卓
24 1965 大山康晴 4-1 山田道美 54 1996 羽生善治 4-1 森内俊之
25 1966 大山康晴 4-2 升田幸三 55 1997 谷川浩司 4-2 羽生善治
26 1967 大山康晴 4-1 二上達也 56 1998 佐藤康光 4-3 谷川浩司
27 1968 大山康晴 4-0 升田幸三 57 1999 佐藤康光 4-3 谷川浩司
28 1969 大山康晴 4-3 有吉道夫 58 2000 丸山忠久 4-3 佐藤康光
29 1970 大山康晴 4-1 灘 蓮照 59 2001 丸山忠久 4-3 谷川浩司
30 1971 大山康晴 4-3 升田幸三 60 2002 森内俊之 4-0 丸山忠久

03/11/17

羽生、竜王位ピンチ!

 初タイトルの名人位と結婚という両手に花だった森内から羽生は名人位を奪取した。今年の春。森内の失望はいかばかりかと安易な同情をした。そうではなかった。恥ずかしい。森内はしたたかな棋士だった。
 将棋界の二大タイトルは、春の名人戦、秋の竜王戦である。
 森内は見事に竜王戦の挑戦者となり、いま羽生に三連勝中である。まず奪取は間違いあるまい。奪われた名人位の悔しさを竜王位奪取で埋める。そしてまた順位戦も全勝でトップを走っている。来春には挑戦者となり名人位を奪回する目まで出てきた。
 竜王戦の挑戦者決定戦ではひさしぶりに中原永世十段が相手となり話題を呼んだものだった。

 竜王、名人、王座、王将を保持する四冠王の羽生が棋界の第一人者であることは間違いないのだが、ライヴァルたちも切磋琢磨しており、その強さはかつてのような絶対的なものではないように思える。

 今年の流れを見てみると。
 1月。佐藤から4連勝で王将を奪取。
 2月。棋王戦五番勝負。2連勝のあと3連敗で丸山に棋王位を奪われる。
 4月。森内から4連勝での名人位奪取。
 7月、谷川の王位に挑み1勝4敗で敗れる。
 10月。王座戦の挑戦者に十代の棋士・渡辺明を迎え、五番勝負3勝2敗で辛勝。
 11月。森内に敗れて竜王位失墜。(予測)

 充分にすごい成績であり、四冠を保持しながら王位の挑戦者になること自体いかに強いかなのだが、それでも、谷川に1勝4敗で敗れ、渡辺に大苦戦し、森内にストレート負け(予測)とは、やはり変調ではないのか。

 今年の成績を見てみると18勝10敗で勝率0.642である。これは時には8割を超す通算0.735の羽生としてはずいぶん悪い数字だろう。ライヴァルの谷川が23勝7敗で0.766、佐藤も22勝11敗で0.666だから、それよりもだいぶ落ちる。勝率ランキングのベストテンに入っていない羽生なんて記憶にない。心配である。
04/2/20
 王将戦──森内2勝1敗
 昨年春の名人戦(4対0で羽生が奪取)、秋の竜王戦(4対0で森内が奪取)に続く本年度三度目の両雄対決である。名人と竜王の対決だから棋界一の対決だ。将棋は四月から三月を年度にしているので年明けだが同一年度になる。
 森内はいまいちばん乗っている棋士。将棋小学生名人戦から常に羽生の後塵を拝し(羽生優勝、森内準優勝)、プロ棋士になってからも、羽生が十九歳で戴冠したのに、森内はずっと無縁だった。三十一で奪った初のタイトルが名人戦。結婚もして両手に花。それが一昨年。我が世の春。それを昨年羽生に4対0で奪われてまたもお先真っ暗かと思われたがそこからがすごかった。竜王戦で羽生に生涯初のスコンク負けを味あわせる。絶対にスコンク負けをしない羽生の伝説のひとつを吹き消した。それだけだと個人的な復讐成就でしかないのだが、全体の成績としても勝率も新鋭・山崎に次ぐ2位。1位もねらえる。勝ち星も1位。絶好調である。今年春の名人挑戦権も早々と7戦全勝で確定させた。名人位を奪われて落ち込むかと思われたのにこの復調は見事としか言いようがない。
 一方の羽生はいまだ名人・王将・王座と七冠中三冠を保持する棋界の第一人者だが竜王戦以来好調とは言い難い。この王将戦でも精彩がない。このままだと森内が王将を奪取し、四月からの名人戦でも勝ち、森内三冠、森内時代になる可能性すらある。
 競馬でたとえるなら二人はデビュ前から期待された逸材。羽生は無敗の三冠馬となったが森内はクラシック惜敗続きの無冠の帝王だった。それが古馬となって春の天皇賞を奪ってから絶好調となる。

 毎日新聞がアサヒシンブンに金で奪られた名人戦を金で奪い返す。それはよかったが、アサヒに名人戦を奪われたあと、名人戦を超えるという趣旨で始まった王将戦があまってしまった。よって系列のスポニチ主催となる。他のスポーツ紙の棋戦はいちばん豪華なので報知の「女流名人戦」だからスポニチのこの王将戦は、時の流れの中で王将戦が竜王戦名人戦と比べて色あせたとはいえ抜群の価値を誇っている。それはスポニチも意識しているから扱いが違う。3戦目の結果が出たきょうは(1戦目、2戦目ももちろん同じだけど)1面全部を王将戦に当てていた。他のスポーツ紙でここまで将棋タイトル戦を扱う記事はない。というか扱うほどの棋戦を主催していない。棋戦は将棋連盟との契約金で開催するものだから金がかかる。
 王将戦の結果が載っているから読んだのだが、なかなか読み応えのある日だった。

【附記】
 羽生と森内の対戦を書いているとき、むかし使ったことのある「スコンク負け」ということばを思い出した。でも本来はそんなことばはないのかもと思う。調べてみた。
スコンク【skunk アメリカ】
競技で、無得点で敗れること。零敗。ゼロ‐ゲーム。スカンク。
(『広辞苑』より)
 正しい用語のようだ。ほっとする。さらに英和辞典でも調べてみると、米俗語として掲載されている。ただし動物のスカンクと同じ綴り、同じ意味だから、スカンク負けと言うべきなのかもしれない。なんで「スコンク」と訛っただろう。広辞苑にも載っているからぼくだけの言いかたでもないようだし。それにしてもこのことばを使ったのは何十年ぶりだろう。若い人は使わないだろうなあ、聞いたことない。
04/2/26


王将戦。森内が王手!
 7番勝負の4局目を森内が勝って3勝1敗とした。このまま奪取だとこの後の名人戦でも断然森内有利となる。なにしろ羽生に精彩がない。こんな形で羽生が追い込まれるとは想像も出来なかった。
 毎度競馬的な比喩になるが、2歳時は常に2着ばかり。クラシックも無冠。それが古馬になって強くなり2歳時も3歳時もかなわなかった三冠馬にストップを掛けるという形。ありそうでありえない。最強馬もいつかは負けるのだが、それは新しく出現した敵や年下の伸び盛りだったりする。たとえるなら無敵のテイエムオペラオーの進軍をストップしたのがかつてのライバル・ナリタトップロードだった、という形だ。実際にそれをやったのは年下のジャングルポケットやマンハッタンカフェでありトップロードはオペラオーに負け続けたままの引退だった。
 王座戦で最年少棋士の渡辺明十八歳が羽生を2勝1敗と追い込んだときは(王座戦は五番勝負)新たな星誕生かと世間は注目した。世間の望んでいるのはそういうものである。先日読んだ「週刊アスキー」の対談コーナーにも渡辺は登場していた。
 その意味で森内は羽生にとって、すでに勝負づけの済んだ手あかのついたライバルだった。その森内がこんな形で檜舞台に現れ羽生を追いつめるとは思いもしなかった。この種のライバル物語が大好きなぼくには最高の展開となっている。それにしても今の森内の充実度はすごい。
04/3/16


森内、王将位奪取!
 森内が羽生との王将戦七番勝負を4勝2敗で決めた。またも奪取! 流れと勢いはいかんともしがたい。森内無冠、羽生四冠から、これで森内二冠、羽生も二冠、そうして名人戦が開幕する。どう考えても森内有利となる。
 常に羽生の後塵を拝してきた森内が、初めて奪ったタイトルが一昨年の名人位だった。相手は丸山。4連勝での強い勝ちかただったが名人位は羽生、谷川、佐藤、丸山と変転してきており、あやうさもつきまとっていた。羽生が挑戦者となったら同じく今度は4対0で奪われる。やはり森内はそこまでかと思われた。それが昨年の春。

 そこから快進撃が始まる。いったいなにがあったのだろう。無冠となった森内はすべての棋戦でベストの成績を残す。秋には竜王戦の挑戦者となり、名人戦の屈辱を晴らすかのような4対0の奪取劇を演じた。あの羽生に初めてスコンク負けをくらわした。歴代の王者の中で唯一スコンク負けのなかった羽生に、竜王戦という大舞台で初めてそれを味わわせた。
 そして年が明けての王将戦。ここも圧勝した。三月末で締め切る本年度の成績で、最多対局賞、最多勝利賞を獲得するのは確実だ。そして記者によって選ばれる「最優秀棋士」も間違いない。平成十五年度は森内の年だった。かつてここまで羽生を追い込んだ棋士はいなかった。なんともドラマチックである。
04/3/21


羽生不調──NHK杯戦
 NHK杯戦はきょうの放送が決勝戦。羽生が久保利明に負ける。ひどい将棋だった。羽生に心中で「負けるな、がんばれ」なんて応援したのは初めてのことになる。
 時の名人であり、二冠を保持している第一人者を案じるなんてのはお門違いだ。このNHK杯だって全棋士参加(下位棋士は出場トーナメントあり)の一発勝負トーナメントを勝ち抜いて決勝まで駒を進めているのである。しかし今まで7回決勝に進出して負けたのは今回が初めてだ(とこれは司会のアナのことばで知る)。久保は3年前にも決勝まで進出し羽生の前に敗れている。久保にとっては羽生を破って得た初めての勲章だから誇り高いだろうが、羽生ファンからすると心配でならない。
 ここで優勝して四月の名人戦を迎えるなら、対森内戦天王山に向けてさい先よかったのだが、これでは暗雲立ちこめることになった。

 久保は気合いを入れて和服で対局。
 和服対局はタイトル戦において定番だが強請ではない。それでもみなタイトル戦になると百万円以上する高級品を新調してくる。いわば晴れの場だ。NHK杯は七大タイトルではないが久保にとっては大切な決勝戦だからそこまで気合いを入れのだろう。好ましい。羽生は背広姿。まあNHK杯戦では和服のほうがめずらしい。過去に誰がいたろう。その意味では久保の勝利を賛する。ここまで気合いを入れたら負けられない。
 将棋の和室での和服対局と大相撲の土俵上女人禁制は今後も続けて欲しい伝統である。碁は中国や韓国との対局もあるからずいぶんと早く洋服での椅子対局になってしまった。
 と見ながら思っていたらなんと優勝杯授与が女。会長は病気なのか。どういうことだ。気分が悪い。もちろんこんなのは組織の問題だから表彰状に名を記しているNHKの会長が女なら文句はない。しかしエビサワだったか、NHK会長は男なのに会長杯を渡すここがなんで女なのだ。この女、そんなに偉いのか。他に代理はいなかったのか。副会長は女なのか。最後にみそをつけられた。
04/3/21


谷川棋王位奪取! 二冠
 谷川が棋王戦五番勝負を三勝一敗で制し、丸山から奪取した。これで名人、王座の羽生二冠、竜王、王将の森内二冠、王位、棋王の谷川二冠、棋聖の佐藤とタイトルホルダは四人に絞られた。すなおにこれがいまの四強だろう。
 もしも四月の名人戦で森内が勝つと竜王、名人という二大タイトルを保持する三冠となり「森内時代」となる。想像したことすらなかった展開である。果たしてどうなるか。
 彼らよりも一世代上なのに丸山から棋王位を奪取した谷川は見事である。森内の前の名人であり、失冠してからも羽生から棋王位を奪って気を吐いていた丸山だが、ここで無冠となり、一歩退いたか。

 なお私の顔は谷川に似ているので(こっちが年上だからあっちが似ているのだが)お会いしたことのない人が会うときは参考にしてください。あと、トルシェ監督に似ていると言われました。あと火野正平。
04/4/2


最優秀棋士に森内俊之竜王・・・第31回将棋大賞


 棋戦主催各社による「第31回将棋大賞選考委員会」が2日、東京・千駄ケ谷の将棋会館で開かれ、森内俊之竜王・王将(33)が最優秀棋士賞に選ばれた。森内は初受賞。羽生善治四冠(33)から2冠を奪取した。
 記録部門では、森内が最多勝利、最多対局の両賞を、山崎隆之五段(23)が2年連続で連勝賞を受賞。また谷川浩司王位・棋王(41)が升田幸三賞に、アマ強豪の立石勝己氏(59)は同特別賞。谷川はA級順位戦最終局での妙手「7七銀成」が、立石氏は四間飛車戦法を改良してプロ間でも流行した「立石流四間飛車戦法」が評価された。(サンスポより)


 どう考えてももうすぐ始まる名人戦(羽生名人に挑む森内竜王)は森内有利の流れである。森内が名人位を奪回したら棋界の二大タイトルを獨占となり森内時代到来となる。しかも奪ったのが羽生だから値千金だ。おもしろい流れである。
5/4
 名人戦、森内二連勝──米長のエッセイ  
 おおかたの豫想通り森内二連勝となった。将棋界の二大タイトルは竜王と名人である。まだ竜王位のなかった時代の最強・大山を別格にすれば、竜王と名人の二大タイトルを同時戴冠したのはいまだ谷川と羽生しかいない。同時ではないがこの二つを戴冠したことのあるのはあと佐藤康光、そして昨年達成した森内になる。この二冠を同時に保持するのが時代の覇者の条件だ。
 森内がここで名人位を奪取(昨年羽生に取られたのだから奪還というべきか)したら三人目の竜王・名人同時二冠となり、併せて王将をもっているから森内時代の到来となる。なによりタイトルのすべてを最強王者の羽生から奪取している。その他の棋戦成績も文句のつけようがない。結果の出ていない今からこんなことを言うのは不謹慎だがまさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。羽生時代を覆すのは次の世代だと思っていた。七番勝負はまだ始まったばかり。羽生の健闘を期待しよう。しかしそれでも森内側から見て、竜王戦が4連勝、王将戦が4勝2敗、名人戦が2連勝だから、ここまでタイトル戦10勝2敗で来ているわけで、羽生の圧倒的不利はいなめない。どうなこるとか。

 すこし先のいじわるな「もしも」もある。これを失うと羽生が保持するのはマイナタイトルの王座だけになる。もしもそれもまた森内か誰かの挑戦者に奪われたら羽生は無冠になる。タイトルをもっているものがそれを奪われ無冠になるのはありふれたことだ。むかしは未練たらしく一年間「前名人」「前竜王」を名乗ったりした。しかしそれをかっこわるいと若い世代が拒み、特例としての「中原永世十段」「米長永世棋聖」を別にすれば、今ではただの「九段」を名乗ることが多い。
 特例の先駆けは大山だった。当時あった五冠すべてを制していた大山(今のように七冠あっても大山なら全冠制していたろうといわれている)もついに時の流れとともに無冠になった。(それでもこの人は死ぬまでA級を保持した鉄人だ。)そうして特例として「大山十五世名人」を名乗ったのである。これにかみついたのが自分がそれになれなかった大山の兄弟子・升田幸三だった。永世名人の称号は引退してからのものであり現役棋士が名乗るのはおかしいと執拗に抗議した。将棋連盟会長であり力のある大山に黙殺されたが。それでもこのことがあったから「十六世名人」の資格(五期名人位保持)をもつ中原はそれを名乗らず「永世十段」を名乗ったのだった。
 その讀賣の「十段戦」がグレードアップして出来たのが竜王戦である。すべてにおいて名人戦の上を行くことを意識した竜王戦は「永世竜王」の資格を名人の五期よりも上の七期と設定した。歴史も浅いしその資格を有するものはまだ現れていない。昨年の竜王戦、羽生が防衛すると通算七期の史上初の永世竜王が誕生するところだったが森内にストレートで奪われた。讀賣にとっては痛し痒しだったろう。

 名人位を森内に奪われた先の、さらに先の話になるが、もしも羽生が王座を失い無冠になったとしたら、彼はごく普通に九段を名乗るだろう。と書くとなんてことないあたりまえの話のようだが、なんと羽生というヒトは、十九歳六段でタイトルを獲得してから現在に至るまで十四年間(15?)、常に名前の下にタイトルの名を附けてきたのである。こんな棋士はかつていなかった。
 たんにタイトルを取った早さなら屋敷が十八で棋聖を取っているのだが、すぐに手放し六段にもどった。この六段とか七段も勝利数やタイトル獲得数で変る。羽生は六段でタイトルを獲得してから常にタイトル保持者であり続け、いつの間にか内規で最高の段位である九段になっていた。だがそれを名乗ることはなかった。常にタイトルを保持していた。それは永遠に続くかと思われた。すくなくとも羽生の場合、体力知力の落ちる四十半ばまであと十数年、無冠になることはあるまいと思われた。そのときにはもう永世名人を始めあらゆる永世の称号を得ているだろう。つまり、羽生がただの九段を名乗ることは生涯ありえないことだった。羽生のすごいのは万能なことだ。得意戦法うんぬんのレヴェルではない。なにをやっても超一流なのだ。まさかその羽生がここまで追いつめ、ただの九段を名乗る可能性が持ち上がるとは、それも年を取ってからではなく、指し盛りのこの年齢で……。

 と書いて間違いに気づく。羽生はすでに永世王座を始め永世の称号を得ている。昨年秋、竜王を防衛すると通算7期になり(これも竜王は名人の通算5期の上をゆく意味で7期に設定した)史上初の永世竜王となるはずだった。それを奪われた。いま名人位を防衛すると、実力性になってからの、中原十六世永世名人、谷川十七世永世名人に続く十八世永世名人を名乗る資格を得る。それはちょっとむずかしくなったが、しかしこれは中原が呻吟の末、今や存在していない十段戦の「永世十段」を名乗ったように、晩年の大山十五世名人を例外として(いやその問題があったからこそ)どうやら「永世名人」は現役では名乗らない内規となったようだ。それはそれでいいだろう。
 大山十五世名人、米永永世棋聖、中原永世十段、これが「ただの九段」を名乗らず特別の称号とした人たちである。だがみな五十過ぎのロートルだった。まさか羽生が三十代前半の若さで「永世王座」なんてものを名乗るとは思わない。もしもそういう立場になったら彼のことだから「ただの九段」とするだろう。
 そうならないことを祈る。万が一そうなったとしても、彼はそれをバネにまた一回り大きくなって変ってくるだろう。とにかくデビュ以来こんなに追いつめられた経験はないのだ。

 将棋世界六月号に米長のエッセイ「羽生義治と森内俊之」が載っていた。今雌雄を決しようとする小学生時代からのライヴァル二人を彼流のやりかたで語っている。相変わらず切り口がうまく天才だとうならされる。米長に関してはファンも多いが反感を持つ人もまた多い。それでもこの人の語りに関する切り口のうまさに驚嘆しない人はいまい。いや嫌いな人はその巧妙さを嫌うのか。とにかく将棋界の先輩が亡くなった際の献辞であれ後輩のタイトル奪取の祝辞であれ、どういう形でのものでも、必ず獨自の切り口で、クスリと笑わせ、ホロリとさせ、ほのぼのとした後味の絶妙の米長流を披露する。私は米長将棋のファンではないが、彼一流のレトリック、たとえば東大に進学した兄二人と自分を比べて「兄貴たちは頭が悪くて将棋指しになれないから東大に行った」等、何十年も前からどれほどうならされてきたことだろう。むしろそのあまりに才気走った言動を嫌っていて、それでいてうならされ認めて来たのだから、大ファンよりも毛嫌いしている人よりも、真に彼のすごみを知っているつもりでいる。

 今回は母親に目をつけた(?)。二人を二人の母親から語っている。母親を見れば子供はわかると言い、父親? それはまあつけ足しのようなもので、と笑わせて、それからまた頷かざるを得ない米長流世界を構築する。
 男の幸不幸は三十歳まではどんな母親に育てられたかで決まると彼は言う。まったくその通りだと私も思う。男の三十歳から五十歳はつれあいで決まる、と言う。これまたその通りであろう。

 最強の棋士に関して、彼はかつて自分の言ったことを引用する。
「かつては三十代の棋士が最強と言われていました。今は二十代の棋士が最強と言われています。でもあと十年経ったら、やっぱりまた三十代の棋士が最強と言われますよ」
 どういう意味か。これは羽生を先頭に二十代前半の羽生世代が最強と呼ばれた十年前の予言なのである。十年後の今、最強の棋士は三十代になった羽生世代である。つまりそのころ棋士最強の世代が三十代から二十代に若返ったように言われたのだが、そうではなく、それは羽生たちが特別に抜けた存在だと予言していたのだ。それは見事に的中している。いま最強の世代は三十代前半の羽生たちだ。そしてまた言う。「十年後には最強世代は四十代と言われていますよ」と。これまた見事な米長流レトリックである。

 若い頃からその卓越した弁舌と文章で将棋ファンのあいだで絶大な人気を誇った彼は、お金の運用に関してもうまく、株で儲けたりもしている。それを本にしたりもした。ところが一般の人気と棋士間の人気は別物らしく、そっちでははなはだ評判が悪い。将棋連盟会長になりたいのだがどうにもはかばかしくない。五十歳名人という宿敵の中原からストレートで奪取し羽生に奪われる一年限りではあったが奇蹟の名人位就任を成し遂げた米長でも、この会長就任だけは無理と言われている。
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 羽生、1勝3敗の土壇場──名人戦
 二十日の第四局で羽生が負け1勝3敗と追い込まれた。六月三日、四日の第五局で森内名人誕生(奪還)の可能性は高い。竜王、名人の二大タイトルと王将の三冠を保持する森内時代の到来だ。王将は名人をアサヒに取られたマイニチが名人を超えるものとして設置したものだから歴史がある。三大タイトル獨占と言えるか。でも今は『スポニチ』主催だからねえ。産經の棋聖のほうが上か。
 毎度同じ事を書いて恐縮だが、羽生が追い込まれる日が来ることはわかっていた。しかしそれは彼が年老い、若手世代にそうされると思っていたのだ。まさか小学生名人戦時代(羽生が優勝。森内3位)から十代でプロになり、現在の三十代に至るまで完全に圧倒し凌駕してきた森内に、この齢になってひっくり返されるとは思っていなかったのである。これほど「まったく豫想も出来なかったこと」もそうはない。私にとって羽生が森内に名人、竜王、王将の三つを立て続けに取られて崖っぷちに追い込まれるというのは、ある意味あの「七大タイトル獨占」以上の衝撃である。

 二十五日には「羽生、アサヒオープン選手権奪取!」のニュースがあった。これはマイニチに名人戦を取り返され将棋戦が無くなったアサヒが「アサヒプロトーナメント戦」として始めたものを、数年前に(いいかげんな書きかただがその程度の興味しかない)内容を改めてタイトル戦に格上げしたものである。5番勝負。タイトルホルダは今の深浦で二代目か三代目。格式は七大タイトルの下に位置する。挑戦者トーナメントを勝ち上がってこれの挑戦者になるだけでもたいへんなのにタイトル戦の合間に羽生は成し遂げ、見事に奪取している。檜舞台で森内にかなわないだけで相変わらず第一人者なのである。森内にだけ分が悪い。森内は誰に対してもいま勝ちまくっている。羽生が落ち目なのではなく(形的には落ち目だが)森内の勢いが止まらないのだ。挫折を知らなかった天才羽生がこれを経験してまた一回り大きくなることを願う。

 ぼくは「天才」ということばをかなり慎重に使う。将棋においてそれを痛感し素直に使えたのは谷川だった。「光速の寄せ」と言われた当時の彼は将棋にあたらしい局面を切り開いた。まさしくそれはぼくの思う天才だったのである。羽生になるともうわからない。あまりに万能なのだ。天才の谷川を追い落としたのだから(その谷川がまだそれでも第一線にいるのがうれしい。彼もまた羽生以外には負けないのだ)天才であるに違いない。彼はぼくの考える「天才秀才論」からはみ出してしまっているのである。
 競馬では福永洋一に「天才」を使い、そこいら中に「天才武豊」があふれているときも意地でも用いなかった。いや意地じゃない。あんなにさわやかでスマートな天才は、やはりぼくの「天才秀才論」からははみ出していた。これまた福永を超えることを次々と成し遂げているのだから認めざるを得ない。羽生と武はぼくの考える「天才論」の型からはみ出した新しい形の天才なのだった。
 競馬で、武の成績を追い越す新たなヒーロが出てくるのはいつなのだろう。今の将棋界の情況を競馬界にたとえるなら、武と同期のGⅠ未勝利年間60勝ぐらいだった中堅が、突如年間200勝となりGⅠを勝ちまくっているようなものなのである。

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