2014
7/20
●Kさんブログのおもしろさ


 知人のKさんのブログがおもしろい。毎日楽しみに読んでいる。ふつうにおもしろいならここにアドレスを貼ってみなさんに紹介すればいいのだが、どうもそのおもしろさというのが、私にだけ特別なのであって、みなさんにはたいしておもしろくないような気もするのである。

 たとえばこんな文章。《電気屋が集金に来た。いつもの倍の金額。0がひとつ多い。なぜだろう。思いあたるのは先日もらった電子レンジと洗濯機を多用したことぐらいだ。》
 私にはこういうのがおもしろくてたまらないのだが、一般的にはどうなのだろう。



 まず「電気屋の集金」である。電気屋とはもちろん東電のこと。それがなぜ「集金」に来るのか。今どきまともな人生を歩んでいるひとはみなライフラインは銀行引きおとしだろう。しかしKさんや私のようなまともでないのは、いまだに請求書を手に支払いに行くのである。いや請求書でコンビニ払いをしているひとは意外に多いかも知れないが、何ヶ月もそれを溜めて「集金」に来られるひとはそうもいないだろう。

 月々の請求書が3ヵ月溜まると電気が止まる。9月分、10月分を支払わずにいると、11月分の請求書が送られてきて、11月15日までに9月分を払わないと電気を止めますよ、となる。その場合「ご不在の場合でも止めます」と一筆あり、しかし一応は鬼の東電も在宅か不在かを確かめるノックはしてくれる。居て9月分を支払うと次の停止日まで一ヵ月寿命が延びる。不在ならしっかりと止めて行く。



 Kさんの「電気屋が集金に来た」という一文から、コンビニ払いのKさんが電気代を滞納し、東電が電気を止めに来たのでしぶしぶ二ヵ月前の電気代を支払ったことが読み取れるのである(笑)。
 ギャンブルの儲けで生活する〝博奕屋〟を自称するKさんは、夏場は福島競馬新潟競馬に遠征する。毎週新幹線を使って通う。以前は土曜に行って現地に泊まっていたが今は土曜日曜とも日帰りしている。週末乗り放題切符のようなのを利用するとそのほうが安くあがるらしい。これも電車好きでないと、なかなか出来ないことである。Kさんは自分でも認めているが〝てっちゃん〟の気がある。
 もっともあれか、いまは新幹線だから速いのか。私はかつて毎日品川の住まいから南関に通いつめたが、船橋や浦和に通うのとほぼ同じ時間で、いまは福島新潟まで行けるのだろう。利用したことがないのでその辺の感覚がわからない。思えば国内旅行とはずいぶんともうご無沙汰している。



 いつだったか、この東電の最終宣告の日が土曜か日曜に当たっていて、それを忘れたKさんが新潟でオケラになり、傷心の帰宅をすると、家は真っ暗で電気が点かず、冷蔵庫の中から水が流れだし、食糧が全滅ということがあった。そのへんのかなしいエピソードも、我が身を振り返って、しみじみする。いうまでもないが、私もライフラインをとめられるのは、電気、電話、ガス、水道、すべて経験している。そしてそれはもちろん、それらを払えないほど貧乏したからではなく、それらを馬券に注ぎこんでしまったことによる結果である。馬券狂とその悲惨さに関しては私もKさんに引けを取らない。

 今回Kさんは電気を止められる日に在宅していたので無事クリア出来たわけである。こういう、「そういえば以前、新潟から帰ってくると」とKさんの過去のエピソードを思い出したりしつつ読むのもファンのたのしみだ。

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いつもの倍の金額、0がひとつ多い」ということから、いつものKさんの電気代が5千円程度で、今回は1万円超えになったことがうかがえる。その利用が電子レンジと洗濯機の多用というのがまたおかしい。

 Kさんはやたらものを拾ってくる。いま住まいの中には読みきれないほど大量の本があるらしい。それはみな捨てられていたものである。
 たまにブログテーマとして本が登場する。「昨夜こんな本を読んだのだが」という話だ。一般には本は買うにしろ図書館から借りるにしろ自分の興味のある分野から選ぶので、ブログ書き手の日ごろの生活、主義主張と一致している。しかしKさんの場合、無前提に拾ってきた本を眠れぬ夜に適当に手にして読み始めたら意外におもしろくこんな内容だったという話だから、ふだんのそれとは脈絡がなくて笑える。



 以前、これは直接Kさんから聞いた話だが、ゴミ捨て場に懐かしの名画ビデオが大量に捨てられており、こりゃめっけものだと急いで家に引き返し、自転車に段ボール箱を積んで駆けつけ、残らずそれを持ち帰ったそうだ。夜、わくわくしつつ再生しようとすると出来ない。なんかヘンだ。カセットのサイズが合わない。KさんのビデオデッキはVHS、拾ったそれはベータだったという落ち。あらためてまた捨てに行かねばならない。そんなことばかりやっている。Kさんは機械音痴なのである。でもこういうひとに限って「おとうさんもむかしはワルだったんだよ」とワルぶるのと同じで、パソコンが使えずケータイでブログをやっているくせに、「むかしはマックを使っていたんだけどねえ」とホラを吹く。これまた傑作なのでそれは別項で書くとして。



 Kさんは友人から物をもらうのも好きだ。今回電子レンジと洗濯機をもらった。電子レンジは持っていなかったのだったか、とにかくもらった。洗濯機は昔懐かしい2槽式の古いのを使っていたがそれが壊れ、1槽式オートマをもらったのだった。あたらしいオモチャがふたつ出来たので暇に飽かせて多用していたら電気代が倍になったという話である。だいたいが友人も古くていらなくなったものをあげるわけだから、旧型のやたら電気を喰う機種だったのだろう。なんだかこのへんも電子レンジなるものを手に入れてやたら温めているKさん、オートマの洗濯機が珍しくてやたら洗濯をしているKさんを思いうかべて、私には楽しくてしかたがない。



 ところで、Kさんや私のようなろくでもないヤツの金の使いかた、金銭感覚について触れておかねばならない。これは重要だ。
 上に書いたようにKさんは夏場は福島や新潟に毎週新幹線で遠征する。電車代をペイし、日当に価するだけの代価を得なければならないのだから馬券勝負のノルマはかなり高い。勝負資金も、まあすくなくとも5万や10万ぐらいは持って行くだろう。そういう新幹線を使って地方開催競馬まで遠征したりするひとが5千円程度の電気代を滞納するのは不自然な話である。だがそれがKさんや私のようなまともでないものの金銭感覚なのだ。自分がむかしそうだったから、今もそうであるKさんの気持ちがよくわかる。その辺をこまかく説明する。

 假りにKさんが日曜の福島競馬に遠征し馬券勝負する資金を5万円だとする。月曜には電気を止めると東電から連絡が来ている。なら日曜の出発前にそのへんのコンビニで9月分5千円を払って出かければいい。それによって資金は4万5千円になるがたいしたちがいはない。一ヵ月電気が止まらないという安心感がある。それがまともなひとの考えだ。

 だが博奕好きはそうは考えない。博奕前に9月分だけ払うなんてケチな話でなく、博奕で勝って、月曜に10月分11月分もまとめて払ったる、と考える。そもそも出かける前に博奕資金から5千円払うような感覚なら電気代を滞納しない。

 そして大切なのはその5千円だ。もしかしたら現場で4万5千円負けるかも知れない。そして最終レース、すごい穴馬を見つけた。ここからの勝負だ。当たれば一気に30万コースになる。だが、だが、電気代なんてものを払ってしまったからその5千円がない。なんてバカなことをしたのだろう。
 ギャンブル狂は、そう考えるのである。だから前もって電気代を払って行くなんてことはしない。それは負け犬根性?になる。そもそもそんなことをする性格なら博奕で喰って行こうなんて考えない(笑)。



 私は二十代の月収15万円のころ、家賃や食費等を考えたら馬券に使える金なんてのは月に2万円程度しかないのに、もらったばかりの給料15万を全部持って競馬場に出かけた。あくまでも競馬資金はその中の2万円のみである。それだって一ヶ月分だ。今日全部を使ったりはしない。せいぜい今日は1万円までだ。そう思っている。だが、もしもの時、すごい穴馬を見つけて、どうしても買いたいというとき、運悪くすでに今月分の2万円をもう負けてしまっていて、あと5千円、あと5千円あれば大逆転出来るのに、というような状況になるかもしれない。だから決して使わないけれど、とにかく万が一のことを考えて全額を持って行くのである。

 1万円負け、2万円負けあたりまでは、負けてはいてもまだ冷静な部分も残っている。相当追いこまれているけれど。
 だが、「今月分の2万円を負けてしまった。なんとかして取りもどしたい。あと1万円だけやろう」となり、3万円、4万円となって行くともう歯止めが利かない。気狂い状態である。

 15万全部スるまではあっと言う間だ。最終レースが終ったとき、とんでもないことになってしまったとオケラになり、ポツネンと佇む自分がいる。何度やったことか。

 月収が50万になっても百万になっても同じだった。変ったのは馬券購入額だけである。当然そういう生活は破綻する。破綻していまの自分がいる。書いていてしきりに「バカは死ななきゃ直らない」という言葉が脳裡を過ぎる。さすがに破綻して更生したので今はすこしはまともになった。というか破綻してまともにならざるを得なかった。使う金がない。

 いま私は使ってもいいだけの金額をもって競馬場に行く。食事代や電車賃は別にとっておく。むかしは電車賃の200円まで勝負して負け、一晩歩いて府中から品川まで帰ってきたなんてこともあった。世間的にはやっとまともになったことになろうが、私の中にはそういう自分を落ちぶれたもんだと蔑むもうひとりの自分がいる。



 私とKさんの出会いは古い。30年近く前、昼の大井競馬場、船橋競馬場で会ったりしている。私も〝馬券生活者〟だった。というとウソになる。一所懸命放送原稿を書いて稿料を稼ぎ、それを競馬に注ぎこむただの馬券中毒者だった。そのころもいまも馬券でいい思いなどしたことがない。いつも必死に稼いだ金を取りあげられるだけだった。だったらやめればいいのに、と思うだろうが、そこが中毒者である。タバコ中毒と同じだ。私は破綻して足を洗ったが、Kさんはいまもその稼業を続けるプロである。私のようなバカとはちがう。克己心がある。だから応援している。



 たとえば前記のように假りに馬券資金を5万円もって土曜の新潟競馬場に出かけたとする。いくつかの勝負レースに負け3万円マイナスだとする。私なんかだともうたいして検討していない最終レースに残金全額2万円をつっこんで、勝つにせよ負けるにせよもう楽になろうとする。辛抱できない。
 Kさんはそんなことはしない。検討していない最終レースには手を出さず、2万円をもって帰宅する。勝負は明日の日曜の狙いのレースだ。そうして日曜に、その2万円で、しっかりプラスにしたり、あるいは5万円の原点復帰したり、時にはそれも負けてしまい収穫のない二日になったりしつつ、それを繰り返して今日まで来ている。



 Kさんが競馬に行く前に(ここのところ競輪のほうがメインのようだが)きちんと電気代を払ってから出かけるようになったら博奕屋稼業は終りである。そういう稼業を続けているのは、続けられているのは「当ててまとめて払ってやる」という気構えであり、これをなくしたらもう引退だ。だからたかが電気代の集金の話でも、綱渡りの人生を歩んでいるKさんの綱が切れるか否かの瀬戸際だから、そういう意味でも興味のある話になる。

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 Kさんは引っ越すことにしたらしい。毎月、月末の家賃捻出に苦労をしていたから、ごく近所の、同じような条件の安いところに引っ越すというのは大賛成である。
 Kさんには借家に対するこだわりがある。芸能関係の仕事をし、高収入を誇り、三台のクルマを保有していたという原宿時代(私はこの時期を知らないけれど)はマンション住まいだった。やがて風流を好むようになり、いまは「庭がないとダメ」らしいのである。明日をも知れない博徒人生を送るKさんが毎月十万弱の家賃を捻出するのはたいへんであろう。もうだいぶ前になるが、直接話したときも、生きて行くための家賃捻出がたいへんだと語っていた。

 Kさんの住んでいるのは、むかしの市営住宅(喩えが浮かばないのでこういう言いかたしかできないが)などにあった一軒家形式、ちいさな庭付きの平屋である。しかしこれ、Kさんの日記にも度々登場するが、スレート屋根なので夏は蒸し風呂、冬は厳しい冷えこみという最悪の形だ。夏にステテコ一丁でふうふう言っているとか書いているのを読むと、もっと安いワンルームマンションのようなところに引っ越せばいいのにと思う。特に冬場の冷えこみの、「窓から忍びこんでくる冷気で寒くて眠れない。カーテンに毛布を被せて、なんとかやっと眠れた」なんてのを読むと、真冬の夜中でもこたつすらいらないほどの環境に住んでいる私には、なんでそんな住まいにこだわるのだろうと不思議に思う。

 その理由はただひとつ、とにかく頑なに「庭がなきゃダメ」らしいのである。わからないではない。わびさびを大事にするなら庭と植物はかかせない。マンションのベランダとはまたちがう。
 それがごく近場に同じような物件を見つけ、持ち主とも親しいので格安で借りられることになったという。よかったよかったと我が事のようによろこんだ。
 
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 以上、Kさんの獨自の金銭感覚のことなどを、自分もまた同じ種類の生きかたをしてきたので、その視点から書いてきた。しかしそれは私の一方的な思い込みかも知れない。というところに、それを証明してくれる事件?があった。

 引っ越しをすることになったKさんは、本の分類や、粗大ごみを捨てる手続をしたり、身のまわりの整理に忙しい。そんな中で思うのは、「捨てるかどうかの判断」だ。新品である。だがもう何年も使っていない。場所を取りじゃまだから捨てようかと思う。しかしまたこれが有用になったときはあらたに買わねばならない。なら保持しておくか。だが、またこれが必要になることがあるだろうか、まずないだろう、なら捨てるべきでは、のような堂々巡り。現実のKさんの場合は登山用品だった。



 脱線して私の話。
 そういう意味ではコンピュータ関連の品にはそういう未練がなくていいなあと思う。何十万円も出して買ったハードは古くなったら役立たず、粗大ごみだし、愛想を尽かしたOSやソフトウェアにも未練はない。すっきり捨てられる。ずいぶんと金を使ったが、消耗品だと割り切り、未練はなかった。私には、むかしなつかしいコンピュータやOSをいまだに使っているひとの気持ちはわからない。むろん、むかしのクルマやバイクをあいしているひとの気持ちは判る。コンピュータはあれとはちがう。

 先日、大学の後輩、早世してしまったNにもらった衣類や靴を捨てた。初めて冬の北海道に行くのでびびっている私に、彼が送ってくれた冬物衣料品だった。三十年近く前のものなのに、ほんの数回しか使っていないから傷んでいない。Nが突然亡くなったものだから思い出の品として保存していた。しかしいくらなんでももう使うことはない。処分することにした。
 田舎なら家の隣の畑で〝焼却〟という野辺送りが出来る。これは味わいのあるものだ。もちろん自分の土地である。だが都会ではそうも行かない。ごくふつうにゴミとして出すしかない。燃えるごみとして出した朝、私は何度もゴミ袋を振り返りながら出勤した。未練とはこういう品に生じる。



 閑話休題、言帰正伝。
 なにを捨てるか、なにを取っておくか、迷うKさんのブログに読者からのコメントがあった。それに対するKさんの返事は秀逸だった。



男一匹、死ぬときゃ何も持って行けないと思えば
捨てるのも惜しくあるまいて。
いやいや、馬券や車券を買ったと思えば何を買っても
惜しくあるまい。


 これが読者投稿。今回捨てることにした品をあらたにまた買うことになっても、「馬券や車券でスッタと思えば惜しくあるまい」という博奕屋に対するおそろくし無神経なものいい。これに対するKさんの返事。ブログ本文の中で書いている。下線は私が引いた。

「男一匹、死ぬときゃ何も持って行けないと思えば、捨てるのも惜しくあるまいて。いやいや、馬券や車券を買ったと思えば何を買っても惜しくあるまい」

 お説ごもっとも。
 まして博打屋の持ち物なんて、あるのは借財だけ。金目のものなどありゃしない。捨てるのも惜しくあるまいて、と呪文のように呟いて奮闘している。

 ただし、後半のお説には些かの異議もある。何をさておいても、先に馬券・車券を買うのが博奕打ちの本道。それ故に身を持ち崩す日陰者の人生を送る羽目となる。

 博奕打ちとは、この金があれば酒が飲めるとは考えない。この金じゃあ酒しか飲めないと考えるものだ。堅気の投稿子から見ると、何と愚かしいと眉をひそめられるだろう。




 じつにいい答だ。すばらしい。対して、この書きこみをしたひとは、なにを考えてKさんのブログを読んでいるのだろう。
「(ハズレ)馬券や車券を買ったと思えば何を買っても惜しくあるまい」は、Kさんの生きかたをまっこうから否定するものである。それはそれでいい。Kさんや私のような感覚は、まともなひとからは否定されるべきものである。それはKさんもブログ内でたびたび「それ故に身を持ち崩す日陰者の人生」と認めている。

 しかし毅然として、博奕に関しては反論している。そうなのだ、Kさんの言うように「博奕打ちとは、この金があれば酒が飲めるとは考えない。この金じゃあ酒しか飲めないと考えるもの」なのである。私の書いてきた「5万円の競馬予算から5千円の電気代を払って45000円にはしない」もそれに通ずる。

 疑問なのは、そういう普通の感覚のひとが、なにを楽しみにKさんのブログを読んでいるのかということだ。Kさんの破滅を願い、「ほら負けた、また負けた、博奕で喰うなんて無理だって」とKさんの人生を嗤うのを楽しみに読んでいるのか。すくなくともこの投稿からはそういう解釈しか生まれない。こんなひとが読者であることが不思議でならない。またそれを平然と書いてくるのだから、このひとの鉄面皮も相当なものである。

 ともあれ、ここに書かれたKさんの意見で、私の書いてきたことは裏づけられた。それはそれでうれしい(笑)。

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(まだ半端。機会があれば書き足す。でもともあれ、ここまでをアップ)


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