2009
11/10  図書館PCの実態

 始まりは以下のようなことだった。ブログに書いた文の引用。



先日、友人のGさんが数年ぶりにインターネットをやろうとしたら、むかしのダイヤルアップ通信なので、私のホームページのTopPageを読みこむだけで1時間も掛かってしまい、断念したという話を書いた。OSが98Meであること、それでもブロードバンド接続は出来るのかと調べたら出来ると解ったこと等。
その後Gさんに、図書館のPCを利用すれば無料でブロードバンドが利用できることを伝えた。(この辺のやりとりはこちらからはPCメール、あちらは携帯メールである。)

今日Gさんが図書館でそれをやり、めでたく私のホームページは読めたのだが、このブログ【木屑鈔】は、アクセス規制がかかっていて読めなかったと連絡があった。Gさんはそれを、私のブログに図書館のPCから閲覧するのには不適切な内容があるからであろうと推測している。そんなことがあるのだろうか。信じられない。まあ区役所寄りのことは書いていないが、かといって規制されるほど偏向したことを書いた覚えもない。もしもそんなものが本当にあるとしたら、品川区役所のヒダリ偏向を嘲笑しているホームページの方だろう。
でもありえないよねえ、そんなこと。図書館のPCがブログとか2ちゃんねるには繋がらないようにしているとか、そんなことってあるのだろうか。というか、そういうことって出来るのか? どなたか知っていたら教えてください。




 いまのところに引っ越してきてからの私は、よく図書館を利用する方だと思う。時には開館時間に出かけ閉館までいることもある。本来の用途である読書や調べ物はもちろんだが、怠惰な気持ちが起きてなにもやる気がないとき、自分を叱咤するために利用している。一所懸命勉強している高校生を見ると励みになる。彼らに負けまいと、午前10時の開館から午後8時の閉館まで、持ちこんだノートPCで文章を書いたり、調べ物をしたり、本を読んだり、飯も食わずにがんばることもある。

 図書館のPCは利用したことがなかった。必要なときは自分のラップトップを持って行く。PCコーナーという専用の場所がありインターネットに無料接続できるのが助かる。なにより私はカスタマイズした自分のPCしか使えない。図書館のPC利用は考えたこともなかった。

 上記のようなGさんとのやりとりから今回初めてやってみた。
 そして知った驚くべき実態(笑)。



 まず「ブログ」はそれだけでぜんぶダメなのである。接続できない。おどろいた。これだけでもうふだん読んでいるようなところはどこも行けない。読めない。私のブログももちろんダメ。内容の問題以前にブログには繋がらないのだ。これでもう梶山徹夫さんのブログ、さとしのブログ、ターザン山本さんのブログ、みな繋げない。見られない。

 掲示板もダメ。たぶん2ちゃんねるはダメだろうと思っていたが、あそこだけに限らず、たとえばPCに関する質疑応答のようなものでも、とにかく掲示板形式には一切繋がらない。teacup掲示板もダメ。PCに関して調べて、それらしきものが見つかったので繋ごうとすると「掲示板はダメ」と出てしまう。呆れた。

 競馬の結果調べもダメ。スポーツ紙までは繋がる。そこから競馬の項目を開けて結果を調べようとしたら「ギャンブル」という規制で開かない。いやはや。
 競馬の有料予想会社のようなところに繋がらないのはわかるが、結果調べすら出来ないのでは本来のインターネットの能力を削いでしまっている。

 価格comでPCパーツの値段を調べようとしたら、これは「ショッピング」という名で規制されていた。繋がらない。通販が出来ないようにするのはわかる。でもここは「値段調べ」である。それが出来ないのでは情報を得ることが出来ない。なんのためのPCだ、インターネットだとなってしまう。
 20ぐらいのことをやろうしたのだが、出来たのはみっつだけだった。

「電車の時刻調べ」「Wikipediaでの人物に関する調べ物」「大新聞サイトでの政治ニュース」である。1時間ほど借りたのだが、10分ほどでなにもすることがなくなってしまった。なにも出来ない。ここまでひどいとは思わなかった。モハメッド・アリ側からあれもダメこれもダメと言われて寝ころがるしかなかった猪木の気持ちがよくわかる。



 どこか矛盾はないかと考えた。あった。たとえば「自殺」である。「完全自殺マニュアル」という自殺に関する方法を詳しく紹介した本がある。この種のものには簡単に繋がってしまう。それは「自殺」という項目は社会的な用語であり、これを接続不可単語にすると大新聞等へのニュースに繋がらなくなってしまうからだろう。

 だが接続規制の理由を「青少年への悪影響」としているのだからこれは矛盾になる。価格comでPCパーツの値段調べが出来ないようにしていて、自殺の方法が調べられるのはへんだ。いかにも御役所仕事的な間抜けさである。

 もうひとつ。スポーツ紙の競馬欄は読めない。でも大新聞のスポーツ欄に繋ぐと、そこでは競馬結果も読める。差別だ(笑)。



 あまりになにも出来ないのであきれた。これ以上書く気にもならない。私の通う図書館には10台のデスクトップが用意されている。このごろまったく利用されていない。使っているひとを見たことがない。申しこむとすぐに使える。いつも全台空いている。その理由がよくわかった。多くのひとが最初は利用しようとしたのだ。それがなにもかもがアクセス規制でどうしようもないと知ったのだろう。遅ればせながらかくいう私もそのひとりとなった。

 解決方法がわからない。もうすこしまともにするにはどうしたらいいのか。とりあえず「ブログ」というだけで全面的接続禁止はやめるべきだろう。いくらなんでも時代に合ってない。
 私のブログ【競馬抄録玉】が「ギャンブル」という理由で閲覧禁止になるのはまだわかる。でも【木屑鈔】が読めないのはひどいと思う。ブログは解禁し、その中からテーマで規制して行けばいいのだ。

 とにかくひどすぎる。とんでもない世界があることを知った。それはそれで勉強になったが……。いやはやひどい。二度と触りたくない。
12/10  

喫煙考──すぎやまこういちさんのヒトラー


 雑誌『WILL』1月号に、作曲家のすぎやまこういちさんが
《■すぎやまこういち タバコ税増税はナチスと同じ禁煙ファシズムだ!》

 という文を書いていた。

 私にとってすぎやまさんは、ザ・ピーナッツやグループサウンズのザ・タイガース、ヴィレッジ・シンガーズの数多くのヒット曲、ゲーム「ドラゴンクエスト」の音楽、中央競馬会のファンファーレ作曲等、作曲家として心から尊敬するかたである。
 
 さらに言うなら、こどものころから音楽に能力を発揮していたすぎやまさんは東京芸大に行きたかったが、家庭の事情もあり「しかたなく東大に行った」かたなのである。かっこいい。
 卒業後、フジテレビに入社してディレクターをやっていたが(「ザ・ヒットパレード」が有名)、作曲家への夢断ちがたく、そこから作曲家に転身したかたなのだ。もう、なにからなにまで、なんてかっこいいんだろう。



 学生時代からお世話になっている音楽サークルの先輩がいる。先輩はこどものころから音楽が大好きだった。先輩は医者のひとり息子だったが、医学的なことより音楽が好きだった。父と同じ京大医学部を受けたが、落ちて「すべりどめの慶應工学部(!)」に進んだ。同じ慶應でもやっと入った私と「すべりどめ」の先輩では格が違う。先輩の実力からすると、ピアノの実技でもその辺の音大あたりは楽々と通ったらしい。でも親への面子を尊重し、音大は受けず、御両親も、「慶應を出て一流企業」という路線なら許してやろうと、医者にならなかったひとり息子を容認してくれたらしい。

 卒業後、先輩は予定通り一流企業に就職したが、音楽への夢断ちきれず、すぐに退社して音楽プロデューサーに転身した。御両親は激怒して、このころは義絶するぐらいたいへんだったらしい。
 そのころ先輩は、ご自身がプロデュースするラジオ番組ですぎやまさんにお会いした。すぎやまさんは「君なら今からでもだいじょうぶだよ」と三十路の先輩を励ましてくれたとか。ご自身が音大出身ではない経歴で成功しただけに、すぎやまさんは先輩のような人生を歩むひとにやさしかったのだろう。
 私はこの話を聴いたとき、前々から大好きなすぎやまさんだけど、なんてすてきなひとなんだろうと惚れなおしたものだった。
 すぎやまさんからそのことばをいただいた先輩だったが、すでに妻子があったこともあり、成功していた音楽番組プロデューサーの地位に甘んじた。先輩があそこで作曲家に転身したなら、学生時代から作曲家の先輩にコンビで詞を提供してきた私の人生も、また変っていたろうなあと思ったりする。それはともかく。



 すぎやまさんは、作曲家としてすばらしいだけでなく、その後の従軍慰安婦問題、南京虐殺問題等に関する発言行動等、政治思想的な面でも尊敬しているかたである。そのすぎやまさんのこの手垢の着いた「ヒットラー発言」をしたのだから、落胆した。

「バカの壁」の養老孟司が喫煙者である自分を正当化するために「チャーチルやルーズベルトは愛煙家、ヒットラーとムッソリーニは禁煙派」と書いて自身のバカの壁を晒していたのを笑ったことがある。
 愛煙家が自分の意見を主張するのはかまわないが、このバカのひとつ覚えのごとき「ヒットラー」はやめた方がいい。尊敬しているすぎやまさんまでそれをした。この失望は大きい。

 気に入らないものにはヒトラー

 喫煙者のヘ理窟──養老孟司のヒトラー

 またヒトラー──いつまで続くバカのひとつ覚え



 どんなすぐれたかたも、こと自分の中毒しているタバコを正当化しようとすると盲目になる。すぎやまさんもそうだった。かなりひどいことを言っている。

 すぎやまさんはタバコと肺ガンの関係を否定しようとする。喫煙者自身の健康はともかく、副流煙で周囲のひとに迷惑を掛けると言われることが我慢ならないらしい。主張するのは「戦前は今よりも喫煙率が高かった。だが肺ガンで死んだひとは今よりもすくない→よってタバコと肺ガンは無関係→副流煙で他人に迷惑は掛けていない」になる。

 当時と今の肺ガン患者の数字を上げてそれを主張しているが、これはちと無理があろう。医学的な環境が違う。
 当時は50代60代で脳卒中で死ぬひとが多かった。現在のような生活環境があり、最新の降圧剤で高血圧から逃れられたら死亡理由はかなり違っていたろう。当時も今と同じぐらい冬場の暖房とかがしっかりしており、降圧剤が普及していて、脳卒中脳梗塞で死ぬひとがすくなかったなら、タバコが原因とされるガンで死亡するひとは何倍増もしていたはずだ。

 すぎやまさんのこういうこじつけ理論は、尊敬しているかたであるからこそ残念でならない。幼稚な理論に苦笑した読者も多かったことだろう。

 そしてまたすぎやまさんほどのかたを、こういう噴飯もののこじつけ理論に走らせる「ヤニ中毒」をしみじみ怖いと思う。誰からも崇敬される高潔な人格者が魔性の女なんてのに狂うとただの色惚け老人となり、やることなすこと失笑の対象となったりするが、これもその一例だろう。
 浅田次郎さんのエッセイでも、愛煙権を主張する文章はものすごくレヴェルが低い。みなタバコという魔性の女の前では盲目になってしまうようだ。



 でもまあそれはそれでよい。煙草を喫わないひとの健康でピンクの肺と、ヤニ中毒者の、まるで映画「エイリアン」の巣みたいに、ニコチンタールでねばねばどろどろになっているどす黒い肺を比べれば、健康やガンに対する結論は明白だ。あれを見て「喫煙権」を主張できる人もめったにいまい。

 そもそも愛煙権の主張は「まだ健康なとき」にされる。なんらかの病気になったら、医者から真っ先にタバコをやめさせられる。死にたくなくてタバコをやめるひとのいかに多いことか。タバコ飲みの執拗な「タバコとガンは無関係」は、必死に自分に言いきかせているのでもあろう。



 すぎやまさんの理論を受けて、假定として「タバコとガンは無関係」としよう。でもタバコ嫌いにとって──すくなくとも私にとって──健康のことよりももっと重要なことがある。
 それは、タバコの煙そのものが不快である、という単純明快な現実だ。臭い。煙い。食い物がまずくなる。あの煙を嗅ぎたくないのである。それだけである。ほんとーに、健康とか肺ガンとかそんなこと以前に、ただそれだけなのだ。

 タバコ中毒者はどうしてもここのところが理解できない。自分の好きなものは他人も好きだと勘違いしている。タバコの煙を嫌うひとはみな肺ガンを気にしていると解釈する。だからすぎやまさんのように「戦前と戦後の喫煙率がどうのこうの。肺ガンとは無関係」なんて方面に走ったりする。そうじゃないんだ。もっともっと問題は単純なんだ。タバコの煙というのは、嫌いなものにとっては、食事をしているとき、目の前に臭い靴下をぶら下げられているような不快さ、なのである。

 ところがそれを理解できない喫煙派は、「副流煙は肺ガンとは無関係」のようなところに話を持って行く。それどころか自分達を無実の罪で迫害される被害者のように思い込んでいる。私はタバコと肺ガンは関係あると思っているが、問題はそれ以前なのである。他者を不快にするか否か、なのだ。



 愛煙家(という名のニコチンタール薬物中毒者)は自分達の大好きなタバコという日蔭の身の品、それを嗜む自分達を、もういちど日の当たる場所に持って行こうとしているが、これはもういくらなんでも無理だろう。

 乾燥させたタバコの葉に火を点けて喫うというアメリカインディアンの習慣をコロンブスが持ち帰ってから広まったと言われる喫煙は、医学の進歩により本人にも周囲の人間にも健康に害をなす悪習と結論が出た。

 タバコには多少の価値もある。喫煙を必要とするひとのためにタバコはあってもいいだろう。だが今さら日の当たる場所は無理である。それを必要とする一部の中毒者以外になにひとついいところのないものなのだから。

 私はタバコを否定はしない。こちらに関係ないところで喫ってくれればいい。それを願うだけだ。
 今回すぎやまさんも浅田次郎さんらと同じようにまったくお酒が飲めないと知った。創作するひとにとってタバコは役立つように思う。別項で書いたが、医者にも喫煙者が多い。緊張を強いられる手術等で、それに臨む前の一服、終った後の一服は価値あるものであろう。たとえそれが体に良くなくても、緊張緩和というそれ以上の価値がある。ひとは健康のために生きているのではない。タバコにはタバコなりの存在価値がある。まあこういう場合、緊張を解放するにはマリファナのほうがもっといいように思う。しかしそれは非合法だ。許可されているものとしてはタバコがベストであり、いまのところ代替の適当な品はない。だからタバコはあっていい。だけど嫌いなこちらに煙を吐かないでくれ。願いはそれになる。



 今回のすぎやまさんの主張は、タバコ増税に対しての反対論であり、そういう強制はヒットラーだ、となり、そこから「そもそもタバコと肺ガンは無関係」と脱線して行くのだが、この喫煙を正当化し自分達を迫害される被害者のようにする手法はへんだ。

 タバコにはタバコの価値があり、そしてまた周囲のひとに迷惑を掛けるマイナスがある。それをすなおに認めて喫煙派は喫煙派としての主張をすべきであろう。

 そのひとつとして、大嫌いな言葉だがいわゆる「先進国」の中で、日本は異常にタバコが安い。タバコ千円は極めて常識的な流れになる。それをほんのすこし値上げして400円にしようというだけなのに、すぎやまさんほどのかたがヒトラー連呼は笑止である。

 コンビニで見ていると、タバコを買う客層に二十歳前後のアンチャンネーチャンが異様に目立つ。あれはまちがいだ。ヘロイン、コカイン、シンナーと同じように、害毒のあるタバコは規制されるべき一品である。

 他の「先進国」がそれをしているのに日本だけはやっていない。安い値段で売っている。その理由は「税収」である。高くしたら売れなくなり税収が減ると心配しているのだ。他国が「タバコは健康に害があります」と明記し、中には爛れた肺のグロテスクな写真までパッケージに掲載して注意を促している国もあるのに、日本はタバコの売りあげによる税収を気にして「健康を損なう怖れがあります」のような曖昧な表現でごまかしてきた。国民の健康よりタバコによる税収を気にしている政府こそ怒る対象なのである。ひどい国だ。
 それがやっと「先進国」の千円の、それでもまだ半分である500円程度に値を上げようとしたら、「ヒトラー」などと見当違いのことを言う連中が出て来る。ヤニ中毒者は度しがたい。

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 タバコは「選ばれたものの嗜好品」なのだ。毒性も中毒性もマリファナなどより遥かに強い。労働者階級の低所得者層が喫うこと自体まちがっている。選ばれた高所得遊民の嗜好品であるのが正しい。
 これを言うと「むかしはみんなのものだった」と言うひとがいる。たしかに「むかし」はそうだった。部分暖房で、汲みとり便所で、脳溢血でぽっくり逝くひとが多かった「むかし」は低所得者層の日常的嗜好品だった。「いま」は違う。物の価値、存在意義が時代によって変るのは必然である。

 タバコは千円などと言わず一万円にしてもいいだろう。そして浅田さんやすぎやまさんのような高額所得者のクリエイターや、毎日死体を解剖している養老さんのようなストレスのたまる医療関係者が緊張解除に喫う。それは充分に一万円の価値がある品だ。

 街には選ばれた者だけが入れる「喫煙バー」が出来る。タバコはそういう存在である。タバコ好きの庶民は、努力して金持ちになって思いきりタバコを喫える身分になろうと志す。タバコというものを一度でいいから喫ってみたい好奇心旺盛な中学生高校生は、アルバイトで貯めた金でやっと一箱購入して初体験する。どきどきしながら一箱1万円のタバコに火を点ける。それが正しい流れだ。

 当然そうなるとタバコを買えない低所得者によるタバコ強奪、強盗事件のようなものが起きるだろう。それもまた世の流れである。タバコとは本来そういう商品なのだ。麻薬と同じなのだから。野放しになっている今がおかしい。



 私はすぎやまさんには、
「タバコにはタバコだけの価値がある。私のようなお酒の飲めないものには創作時に缺かせない重要な品だ」
「他の先進国と比して日本はタバコが安い。値上げはしかたない」
「だがタバコ好きがタバコを喫える環境は残して欲しいものだ」

 ぐらいの主張をして欲しかった。それなら納得した。

 だが残念ながらすぎやまさんの意見は、
「タバコを増税して500円にしようとする動きがある。これではまるでタバコ嫌いのヒトラーだ」
「タバコはガンとは関係ない。それはタバコ嫌いによる濡れ衣だ」
「タバコは安い値段で、いつでもどこでも誰もが自由に喫うべきだ」というものだったのである。

 すぎやまさん、浅田さん、養老さん、誰でもいいから私はぜひとも彼らに「タバコにはそれなりの価値がある。だから一万円でもしかたない」と言ってもらいたい。でもそれを言ったら庶民ヤニ中毒者の支持を失う。「あんたらは金持ちだからいいがおれたちにとっては」という反撥を食う。だから決して言わない。彼らは本音ではそう思っているだろう。「タバコとは我々高所得遊民のものである」と。タバコとはそういうものであり、遠からずそうなるだろう。



 毎度の意見だがもういちどまとめる。

・タバコにはタバコの価値があり、その存在意義は認める。

・だがほとんどの場合、たとえば若者の場合など、それはただの興味本位から始まった薬物中毒でしかない。

・タバコは毒性中毒性が強く、限られた者の嗜好品であるから、安易に手を出せないそれなりの値段にすべきである。

・タバコ嫌いにとって、(健康的な問題も重要であろうがそれ以前に)流れてくる煙を吸わされるだけで極めて不快なものだ。喫煙する場所は厳しく限定すべきである。



 相変わらず禁煙の駅構内でタバコを喫い、電車が来たら吸い殻を線路に捨てる喫煙者を目にする。
 こういう連中を喫煙派はどう擁護するのだろう。

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 椙山浩一さん

 あらためて経歴を調べていて、すぎやまさんの苗字が「椙山」であることを知った。
 本名をひらがなの藝名にするかたは難読の場合が多い。難読と言っても読めないようなむずかしい漢字とも限らない。「釣りバカ日誌」の原作者やまき十三さんのように、「やまき」と濁られることを嫌い、本名の「山崎」を筆名の「やまさき」にする例も、これもある意味「難読」であろう。

 すぎやまさんの場合も、音としてはありふれた苗字だけれど「椙山」は難読である。「まさやま」と読まれたり、漢字で「杉山」と書かれることを嫌ったらしい。長年のファンだけれど中学時代に知ったときからもう「すぎやま」だったので、今までこの漢字の苗字を知らなかった。

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 青島幸男と親友?

 青島幸男とは同級生であり生涯の親友だったとWikipediaにあった。青島の「しゃぼん玉」、すぎやまさんの「ザ・ヒットパレード」と、黎明期のテレビでともに大活躍したふたりだからそのことには納得するが、ただ政治思想的には水と油になる。その辺ふたりはどういうふうに割り切っていたのだろう。不思議だ。

2011
/1/11
 あいかわらずのヒトラー比喩(笑)

愛知県知事選:自民県連巻き返し 石原氏が重徳氏支援明言

 愛知県知事選(2月6日投開票)に元総務省課長補佐、重徳和彦氏(40)を擁立した自民党県連が猛然と巻き返しを図っている。名古屋市内で10日に開かれた県連のパーティーには、対立候補となる大村秀章衆院議員(50)=自民党本部の除名処分に異議申し立て中=と親しい石原伸晃幹事長を招いた。石原幹事長は重徳氏の全面支援を明言。神田真秋知事も重徳氏を後継指名すると宣言した。大村氏を応援する国会議員もいて自民は分裂状態だが、県連は反転攻勢を目指す。
「獨裁政治が愛知・名古屋でまかり通ろうとしている」。あいさつした石原幹事長はナチスドイツの獨裁者、ヒトラーを引き合いに、河村たかし名古屋市長を批判した。石原幹事長が大村氏と親しく、大村氏は河村市長と連携しているだけに会場はどよめいた。



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 あいかわらずである。名古屋市長の河村を批判するのにヒトラーって(笑)。そういうことをして悦に入っているのだろうが、そのことからわかるのは石原の言語センスの悪さだけだ。みっともない。まことに恥ずかしい。

 昨年あたりも谷垣が民主党に対して連発していたし、その前には民主党が小泉首相に得意の形容だった。言語貧困としか言いようがない。

 またこれは、「批判する敵陣営をヒトラーに喩えると民衆はみな恐怖をいだき、すなおに理解してくれると思っている」わけで、まことに我々を軽く見ている姿勢になる。一般大衆はそれほどバカじゃないぞ。
 でも「会場はどよめいた」とあるから名古屋じゃ効果的なのか(笑)。それでまた名古屋のレベルも解る。

 日本の政治屋とはこの程度のものだろうからどうでもいいが、上記したようにすぎやまこういちさんや「バカの壁」の養老さんなどが言いだしたときはしみじみなさけなく思った。
 そこに書いたが、ニコチン中毒の自分を正当化するために養老が「チャーチルやアイゼンハワーは喫煙派、ヒトラーやムソリーニは嫌煙派」と得意気に言いだしたときは「養老孟司のバカの壁」を感じたものだ。

 上に、このホームページで扱った「ヒトラー発言」をまとめてありますので読んでください。

 ユダヤを批判することが許されない現代社会において、ヒトラーは唯一ボロクソに言っても許される存在なのだろう。くだらん。


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