2007

2/17

 今様若者気質──レインコート男

 引っ越しのとき、珍しいものを見たので書いておこう。
 故・作家の「触らずの書斎」に未亡人が遺品整理に来るとき、彼女の知り合いの会社社長の部下という青年が手伝いに来た。二十代後半の青年である。未亡人到着の前にやってきたので、私は誰がなにしに来たのかといぶかしんだ。今風に前髪をさらりと垂らしたハンサムなさわやか系の青年だった。自分でもそれを意識しているのが充分に解った。口の利き方も如才なく、なんかお手伝いできることがあったらなんでも言ってくださいと私にも声を掛けてくる。

 しかしこいつ、まずまっさきにやったのが、ことわりもなく私のまとめてある荷物からハンガーをひとつひょいと引き抜いて自分のスーツをかけることだった。あ、それはもうまとめた荷物で、と言ったが、あとでもどしておきますからと気にしない。
 スーツ姿で午前中は営業周りをしていたのに社長からいきなり手伝いに行けと言われたと、ここに来させられたのは不本意のようだった。

 なんの働きもしない内に、ちょっとレインコートを買ってきますと言って出かけていった。レインコート? 雨は降っていない。しかも出かけたまま1時間以上帰ってこなかった。ひとりでガサゴソやっている未亡人が気の毒になったほどだ。やっともどってきたので、どこまで行ってきたのと問うと、いや近くなんですけど、ちょっと……と口ごもる。買い物はすぐ近くに店があって出来るからどこかでお茶でも飲んでいたのだろう。
 それから買ってきた荷物を取り出して身につけ始めた。なんと全身をレインコートに包んだのである。汚れるのがいやなのだ。たしかに何年もほったらかしの故人の書斎の整理であり、ほこりっぽい。でもそこまですることか? それは汚いモノに近寄るのがいやだとの意思表示になり、未亡人に失礼なのではないか。私には未亡人の花粉対策用立体マスクでさえ大げさに見えたのに、室内で全身をレインコートに包んだのだ。彼が動くたびにバサバサと音がした。その間、関わりたくない私は別室でPC作業をしていた。なんとも耳障りな音だった。

 その後、亡き作家のご兄弟が三人見えて一緒に遺品整理を始めた。みな普段着で作業している中、全身をレインコートで包み、バサバサと音を立てながら動いている彼は異様だった。
 未亡人とご兄弟による作業は午後10時過ぎまで続いたがこの青年は7時になると用事があるからとさっさと帰っていった。彼が帰った後、当然のごとくハンガーはほったらかしになっていて私があとでまたまとめねばならなかった。彼が帰った30分後に食事に出ると、なぜかまだマンションの前でケイタイを手に長話をしていた。つまらない汚れ用事を命令されてたまんないよとでも愚痴っていたのだろう。
 さわやか系のルックスであり、一見まともな口をきいていたが、自己中心で誠実味がまったく感じられない青年だった。でも彼は自分を気配りの出来る男だと思っていることだろう。中身のない薄っぺらさに気づいていない。私に言わせればどうしようもない缺陥品である。

 失礼ながら私は彼と接していたら、「バンコク遊学生日記」のユウスケ君を思い浮かべてしまった。ルックスが似ていたからだろう。彼も見た目の良いさわやか系の青年だが、日記を読んでいると深さを感じない。主張が軽くて浅い。この青年と同じにおいを感じる。現実のユウスケ君はこのレインコート男よりはずっとまともだろうと思うけれど。
 これが今時の青年の典型なのだろうか。

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 コンビニで買い物をすると、濡れたカンビールと新聞を一緒に入れようとする。急いで新聞を奪い取って手にする。蛍光ペンで色分けする大事な新聞だから濡らされたら困る。これも根性が悪くてそうするのではない。そういう気配りの心が最初からないのだ。これまた根本は「親の顔が見たい」になる。どんな育てかたをしたのだろう。
 この青年も悪気はないのだろう。だが他人様の家に行き全身をレインコートで包む無礼に気がつかない。廢墟の倉庫に行ったのではない。伝染病の巣窟に出かけたのでもない。そこは私が暮らしている部屋なのだ。

 珍しいものを見て勉強になった。今の世の中、こういうのが多いのだろう。でももう関わりたくない生き物である。
07/5/5

気に入らないものにはヒットラー(笑)


中日新聞に掲載されたコラムに抗議が相次いでいる。タクシー全面禁煙に疑問を投げかけるコラムだが、「禁煙運動を始めたのはヒトラー」などの文言が読者に反発を招いたのか、全国から60件ほどの抗議が寄せられ、日本禁煙学会からも抗議文が寄せられた。
 しかしその一方で、意外なことにこのコラムを肯定的に捉える「激励」のメッセージも寄せられ始めたというのだ。

 波紋を呼んでいるのは、4月29日に中日新聞に掲載された「タクシー禁煙の憂うつ」と題されたコラム。同社常務・編集担当の小出宣昭氏が執筆した。愛煙家である小出氏が名古屋地区で始まったタクシーの全面禁煙について疑問を投げかけるもので、喫煙者を少数民族「スー族(吸う族)」と禁煙者を多数民族「スワン族(吸わぬ族)」と呼びながら、 「いやはや。少数民族は多数民族の決定に従う術はないが、その決め方にはいささかの薄っぺらさを感じるがゆえに、スー族としての反論を書きとどめる」として、全面禁煙に疑問を投げかける。

 小出氏は、コラムの中で「タクシーは公共交通機関といっても、あくまで個別選択的な乗り物 である。車内でのたばこは運転手さんや同乗者の同意を得れば不特定多数の人々に迷惑を かけることはありえない。まさに私的空間なのだ」と主張。「全面禁煙という一律主義に、スー族は 本能的に危険を感じる」などとしている。さらには、米国の学者・ロバート・N. プロクターの『健康帝国ナチス』を持ち出して、「世界で初めて国家的禁煙運動を始めたのは、ヒトラーである」として、同時代の獨裁者ムッソリーニが禁煙主義で、ルーズベルト、チャーチル、マッカーサーは喫煙者だったと述べている。最後に小出氏は、「禁煙は下手をするとナチスのように他者の存在を認めない原理主義に陥ってしまう。スー族はいま、それ憂いているのだ」とコラムを締めくくっている。

 中日新聞社によると、5月9日までに約40通ほどの抗議などの問い合わせが寄せられたという。
 また、「ナチスといった言葉に不快感を感じた方が多かったようだ」としており、禁煙と「獨裁者」を関連つけたことについて、反発を覚えた人も多いようだ。


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 自分の立場を正当化したいのはわかるけど、なんでもかんでもヒットラーを出せばいいってもんじゃないよね(笑)。悪役のヒットラーとムッソリーニが禁煙主義で、正義の味方のルーズベルトやチャーチルは愛煙家だった、だから、って引用もなんかかなしい(笑)。
 こういう論理展開をして恥ずかしくないのだろうか。ないんだろうけど。

 タバコを喫う人には、喫わない人がどれほどイヤな思いをしているかわからないから、ぜったいにこの種の話はかみ合わない。
 唯一の解決法は、タバコを喫う人が、タバコをやめて、煙草呑みがいかに人に不愉快な思いをさせているか、喫わない人にとってタバコがどれほどいやなものかということを身をもって知ることなのだが、そのやめるということを拒んでいるのだから、これは永遠の堂々巡り。

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ドーピング問題に関して
 私はタバコも麻薬も他者に迷惑を掛けなければ自由だと思っている。
 競技者に関するアレも、かまわないんじゃないかと思う。失格になったベン・ジョンソンには同情しているぐらいだ。我が身を危険にさらしてまで世界一早く走って栄光を得たいと願うのは、それはそれで「勝負」だろう。そのことで得る栄誉、報酬、そのことで失う健康、危険は自分で負っている。どんなクスリを打とうが人間が百メートルを5秒で走ることは出来ない。10秒00と9秒98の差。それがクスリで叶うなら当人の責任において使用させるべきだ。
 むしろドーピング問題というのは全面開放がいちばん簡単な解決法のように思う。
7/13 図書館のマナー

 近所に図書館の分館があり頻繁に利用している。ちいさくて蔵書数もすくないが自転車ではるばる出かける本館よりも目と鼻の先なのでついついこちらばかり利用している。蔵書数が少ないということは読みたい本がないということであり、読みたい本がなければそれほど読みたくないものでも手を出すことになり、その結果いままで食わず嫌いだった作家を知ったり、食わず嫌いが食ってもやっぱりまずかったと確認できたり、いくつか効用もあった。

 ちいさな分室でありいつもひっそりとしている。浪人生なのだろうか、早くから来て勉強している少年少女もいる。私も彼らと一緒に勉強しようかと思ったが、ここは分室であり予算もないのだろう、粗末な机とパイプ椅子なのである。仕事柄机と椅子にはこだわっているから、あれはちょっときつい。
 立川中央図書館の豪華さを思った。あそこはよかった。もう離れてしまったけれど。
 云南にいるとき、妻が用意してくれたのが一見白木で出来たしゃれた椅子だがキャスターがついてなかった。座布団を敷いても尻が痛いし、ふだんの環境がいかに恵まれていたかを思い知った。良い椅子は今度雲南に行くとき真っ先に買い求めねばならない道具になる。

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 先日、声高に話し合いながら少年たちが入ってきた。四人である。背は高い。みな180センチぐらいある。でも顔は幼いから中学のバスケット部とかそんなところだろう。
 うるさい。それは私のみならず常連のおじさんおばさん、子供連れの主婦もみな振り返っていたほどだ。
 注意せねばと思ったら、その前に係員が注意していた。しかしそれはうるさい以前のもので、彼らはせんべいをかじりジュースを飲みながら入ってきたのだ。係のおとなしそうなおばさんが飲み食いはしないでくれと言った。彼らはまた大声で「だから食い物なんかもってくんなって言ったろ」「おれ、食ってないよ、持ってただけだよ」などと話しながら出て行った。
 こういう礼儀を知らない無神経さ、傍若無人ぶりはどこから来るのだろう。どんな親なのだろう。不思議でならない。

 私が本を借り、出ようとするころ、外のロビーでお菓子を食い終った彼らがまた入館してきた。そのロビーに五組の勉強用の机と椅子がある。そこで彼らにわいわいと飲み食いされたら勉強している連中は迷惑だったろう。

 もうすぐ夏休みなのだと気づいた。これからはこういう連中が増えるのだろう。
 正当に怒るおとなでなければならない。
 次に彼らがまた同じ事をしたときは、図書館の中では静かにしろと注意しよう。

 彼らが親しい連中同士あまりに楽しいので思わず大声で話してしまったとかではなく、飲食物を手に、図書館の中では静かにするものという常識が最初から缺落していたことにあきれる。コンビニの女店員が水滴のいっぱいついたカンビールと新聞を同じ袋に入れようとしたので急いで新聞をひったくったことを思い出す。ああいう店員もバイトを続けるうちにそれを学び、いまはそうではないと信じているが、世の中は思ったよりもとんでもないことになっているようだ。
 しかしそれはみなおとなの責任である。こどもは鏡でしかない。


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 小学生は守るのに……

 上記のような書きかたをすると最近のこどもがみんなそうであるかのようだ。そうではないので附記しておく。
 同じ場所で礼儀正しい小学生にあった。三年生ぐらいだろうか。数人いたがみな礼儀正しい。この図書館では本を返却するとスキャナーでチェックした後、自分で本棚にもどすことになっている。「それじゃ、御願いします」と係のおばさんに言われ、「はい、わかりました」と明るく答えている様はほほえましかった。

 こういう礼儀正しいこどもが色気づいたら前記のような無礼な中学生になるのだろうか。
 そうかもしれない。そうだとしたら揺れ動く時期をリードできないおとなの責任だ。

 でもたぶん、だらしない中学生は小学生のときからそうだったように思う。彼らの親、学校での教育が問題なのであって、礼儀正しい小学生も色気づく中学生になるとああなってしまう、とは考えたくない。



 障害からふれあいへ

武雄市の臨時議会が30日開かれ、山内支所に今春開設した「障害者交流センター」の名称を、「共生ふれあいセンター」に変更するための条例改正案を可決した。
障害がある子どもの保護者が、「障害者」という文字を使わないよう、樋渡啓祐市長に要望していた。樋渡市長は「利用される方の気持ちと、市民に親しみを持ってもらえるように名称を改めることにした」と話した。

 交流センターは4月末、旧山内町役場の1階事務スペース(約120平方メートル)に設置。
二つのNPO法人の軽作業所のほか、在宅サービスや就労問題など障害者のあらゆる相談に対応するため、専門家2人を配置した相談室も設けた。

 ところが開設後、センターを訪問した障害のある子どもの保護者から、「センターの看板の障害者の文字に胸の詰まる思いがした。優しい名称にして欲しい」という要望が樋渡市長にあったという。

 このため市は、ホームページと市報で、親しみやすいセンターの名称を募集。先月末までに21件が寄せられ「共生ふれあいセンター」に変更することを決めた。

asahi.com:-マイタウン佐賀


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障碍の字が使えず障害になり、それは「害」の意味が強烈だから、関係者が「障害」を嫌うのはわかる。でも「共生ふれあいセンター」って……。
 いまどき、まだ気持ち悪い「ふれあい」なんてのが生きているんだ……。
8/29  電車の中で──白人と日本人

 まだ空いていた。私の隣には二人分の空きがあった。若い女が乗ってきてすわる。その女は私とのあいだに一席空けてすわると、あいだに自分の蜜柑色のハンドバッグを右隣の席に置いた。つまりひとりで二人分の席を取った。そんなちいさなバッグを膝に載せずそういうことをする感覚がわからない。すぐにケイタイをいじり始める。
 やがて混んでくる。立っている人も見かけるようになった。しかしその女はバッグを膝に載せようとはしない。平然とケイタイをいじっている。次の駅でどっと乗り込んできて、ひとりのおばさんがそこにすわってきた。尻でバッグを横に押すようにしてすわる。まともな人間ならこういう場合、急いでバッグをとりあげて膝の上に載せる。まあそれ以前にまともな人間ならこういう置き方はしないが。なのにこの女はすわってきたおばさんを睨みつけたのである。壊れている人間はどこまでも壊れているものだ。睨みつけられてもしらんふりしているおばさんの肝の太さが気分良かった。

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 人混みの向こうから早口で大声の英語が聞こえてくる。斜め前の優先席に大柄な黒人男二人が三人分の席を取り、大股を広げてふんぞり返っていたのを思い出す。でかくてゴツいやつらだった。いまは見えない。
 私の前には白人の家族がすわっていた。これがもう映画に出てくるような家族。男はメガネを掛け、でっぷりと太っている。コットンパンツに白のポロシャツ。頭が薄くなりかけている。大男。185センチはある。平凡で小心な善人の面立ち。女房もめがねを掛け、太っている。金髪。ハーフパンツ。顔はケント・デリカットそっくり。はっきりひどい不美人である。娘は小学生四年ぐらい。母と同じ金髪。早くもめがねを掛けているのが不憫だ。そばかすだらけ。これまたひどい不美人。アメリカ映画の家族のシーンが想像できるような画に描いたような一家だった。

 私は本を読んでいた。駅に停まり客が乗り込んでくる。おばさん特有のけたたましい声のやりとりが始まる。何事かと目を上げる。白人一家が立ちあがっていた。三人組のおばさんに席を譲ろうとしているのだ。不美人のデブ女房は娘も父親が指図して立たせていた。
 しかしそのおばさんたちは、私の見るところ、六十代半ばのめちゃくちゃ元気な人たちだった。譲るほどのものでもない。
 でもそうなったなら、礼を言ってすわるか辞退するかすればいいのに、おばさんたちは「あんたすわりなさいよ」「あたしはいいわよ」と三人でやりあっているのだった。特有の「やだあ、きゃははは」のような甲高い笑い声が混じる。残念に思ったのは、彼女らは立ちあがって席を譲った白人一家にひとことも礼らしきことを言わず、自分たちだけでやりあっていることだった。典型的な外人が苦手な世代なのだろうが、英語なんて関係なく、しっかりしている人は日本語で正しく礼を言う。小娘のようにキャアキャア言いつつ肝腎の礼を忘れているこのおばさんたちはみっともなかった。

 やがてまた動きがあった。それを見ていた優先席の黒人が立ちあがったらしい。今度もおばさんたちは礼を言わず、ただキャアキャア言いつつ、その優先席にすわった。白人一家はしばらく戸惑っていたが、やがて夫と妻が顔を見合わせて苦笑すると、もとのすわっていた席に腰を下ろした。
 さっきまでひどいデブのブスに見えていた女房が、こどもの躾もしっかりしている美人に見えた。善人だけど小心そうに見えた亭主が、信念を持っているかっこいい男に思えた。

 しっかりものの白人一家。優先席にふんぞり返っていたが席を譲る心はもっていた黒人二人組。席を譲られてもキャアキャア言うだけで礼も言えなかった日本人のおばさん三人。いちばんみっともないのは日本人だった。
 こういう形のおばさん、というか世代、がいるとは聞いていたが、目の前で見たのは初めてだった。たぶんこのおばさんたちも日本人同士だとそれなりの論客?なのだろうが、なんともなさけない姿だった。

9/16 電車の中で──ヒスパニックスペイン系の家族

 電車の端の席。三人がけのところ。こちらに私、隣に少年。向かいに四十代の父親と母親、幼い少女。五歳ぐらい。少年は中学生か。一心不乱にNintendo-DSをやっている。
 父親は南米系。色黒で太っている。フィリピンかもしれない。でもフィリピンにあまり太った人はいない。やはり南米か。少年も色黒。肌の色と父に似た濃い顔立ちから一目で日本人とは違うとわかる。でもその濃さは今風に充分ハンサムである。母親は日本人だろう。顔がそうだ。平凡な顔立ち。娘は母に似て色白。
 会話は大声。よく聞き取れない。スペイン語かポルトガル語なら知っている単語が出てきてわかるはずなのだがそれもない。タガログ語かもしれない。でも私はフィリピンを知らない。フィリピンパブすら行ったことがないので判別できない。日本人と思われる母親だが会話はみなあちらの言葉。日本語は一切なかった。
 半ズボンから濃いすね毛を出してふんぞり返っている太った父親も、私の隣で二席分をとりコチャコチャとDSをやり、ペットボトルの飲料を飲み、いきなり大声で両親に話しかけたり飛び跳ねたりする少年も、私には好ましくなかった。席を替わろうと思ったほどだ。電車は始発駅を出てまだいくつか。混んでいなかった。私はこんなとき車輛を替わったりする。しようと思いつつしそびれているうちに電車は走り出した。

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 途中駅でひとが乗ってきた。母親が指示し、二席分の真ん中にすわっていた少年が左端に寄った。空いた席に中年の婦人がすわった。ここで母親を少し見直した。
 さらに次の駅で混んできたとき、いきなり「すみません」と聞こえた。少年が席を譲ったのだ。恥ずかしそうな顔をしている。見上げると相手はごくふつうの中年男性で席を譲るほどのものではない。少年が「すみません」と言うものだから私は思わず自分のすわっている席を確認してしまった。優先席かと思ったのだ。すわる前に確認している。優先席にはすわらない。やはりそうではなかった。安心する。少年のそれは「席を譲るべきなのに気づかなくてすみません」の意のようだった。私は彼を見直し俄然好意的になった。
 すると正面でもなんかやっている。なんとあの太った、鼻下にひげを蓄えた傲岸なタイプの半ズボン父親が席を譲っているのだった。相手は六十年配のやせた白髪のおじさん。うれしそうに礼を言ってすわっていた。

 父親と母親の教育がしっかりしているから息子もきちんと育っている。私は第一印象から彼らを嫌った自分を恥じた。これは車輛を替わってしまったら気づかないことだった。どうもこのごろ外人から教えられることが多い。出来ることならこんなちょっといい場面を日本人の少年少女で見てみたい。年寄りに席を譲る日本の少年少女を長いあいだ見ていない。

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 ヒスパニックの誤用?
 最初題を「ヒスパニックの家族」とした。「スペイン系」のつもりだった。そのまま書き進めようとしたが、ふと疑問を感じ調べた。一般英語ではそれでいいようだが、『広辞苑』は「アメリカ在住のスペイン系住民の総称」としている。日本在住のスペイン系のひとをヒスパニックと呼ぶのはどうなのか。すくなくともここで無理して使う必要はない。南米系、スペイン系で充分通じる。ということで使わないことにした。

9/20
 喫煙者のへ理窟

養老孟司のヒットラー

 『文藝春秋』十月号で「バカの壁」の養老孟司さんがどなたかと対談して喫煙について語っていた。大の愛煙家である養老さんとその人で愛煙家の権利を主張するという企画だった。相手が誰だか忘れた。どうでもいいことなので(笑)。

 養老さんは昨今の著名人では喫煙を主張する最右翼だろう。オーハシキョセンがまだ『週刊現代』にエッセイを書いていたころ、「バカの壁」の内容に同意しつつ、養老さんの喫煙の主張だけは賛成できないと書いていたことを思い出す。

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 養老さんがどんなに立派なかたであろうと、喫煙の権利と意義を主張するとき、そこにあるのはただのモク中の愚かな意見でしかない。今回それをあらためて思った。浅田次郎さんが同じく何度も喫煙者の権利を主張した随筆を書いているのだが、どんなに彼らしく巧知を尽くし諧謔的に書いても、やはりそれはニコチンタール中毒者の居直りでしかない。浅田さんのそれは何度も読んでいるが養老さんのは今回が初めてだった。

 医者である養老さんはタバコと肺ガンの関係を否定し、それをひとつの論拠とする。タバコを吸うからといって肺ガンになるとは決まっていない。その因果関係は今も証明されていない。癌はDNAでなるものだと。なのにそのことでタバコを毛嫌いする人がいるからわらっちゃうよね、と。そのことで癌の原因になるからとタバコを否定する人を批判する。

 たしかにそういう健康面からタバコを嫌っている人も多いのだろう。副流煙が周囲の人に与える悪影響が実際に吸っている人よりも深刻だとも言われる。自分はタバコを吸わないのに、吸っているヤツに癌にされたらたまったものではない、という考えもあろう。

 でも私の場合、それは関係ない。タバコを嫌うのに癌のことを考えたことはない。私はタバコが肺ガンとはまったく関係ないと証明され、むしろ健康にいいとなっても、タバコは嫌いである。そういうタバコ嫌いも多いのだ。
 なぜならそれが、臭いからであり、煙いからであり、空気がまずくなり、食い物もまずくなるからである。ただそれだけなのだ。医学的なことなど関係ない。そのことをニコチンタール中毒者は理解できない。タバコ嫌いにとってタバコがどれほどいやなものか、それは中毒者には絶対に理解できない。理解できないから無理矢理理窟を作る。その最たるものが健康志向だとか、癌への恐怖だとかになる。そうじゃないんだ。もっとシンプルだ。だけどそれが愛煙家にはわからない。わからないのにわかったふりで理窟を言うから失笑ものになる。

 愛煙家にタバコ嫌いの気持ちは理解できない。自分にとってこんなにおいしく楽しいものを毛嫌いするヤツがいることがわからない。だから理窟は次第に「そいつらがおかしい」になり、自分たちは阻害されている、時代が狂っている、になる。

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 養老さんが「肺ガンとタバコは関係ない」と同じように、得意げに(笑)開陳しているエピソードにもわらった。すなわち「チャーチルとアイゼンハワーは愛煙家、ムッソリーニとヒットラーはタバコ嫌い」である。これ、思い出しても笑える。小泉首相あたりを非難するのにも「あれではまるでヒットラーだ」が出てくるご時世だから、こういう場合もこの手法は便利なのだろう。「あのヒットラーは実は嫌煙家だったんですよ!」だ(笑)。
 チャーチルとアイゼンハワーは戦争の勝ち組でありベビーフェイス、負け組のムッソリーニとヒットラーは負け組のヒールだ。嫌煙運動とナチス、アウシュビッツを重ねようとする。なんとも涙ぐましい。そんなことを引用してまでニコチンタール中毒者の自分を擁護したいのだろうか。

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 私は誰がタバコを吸おうとかまわない。そりゃ人の自由である。今の時代、そこまで人の嗜好を奪うことは出来ない。
 願いは私と同席しているときに吸ってくれるなというだけである。決められた場所で吸ってくれと願う。ルールを守れ。護っていない人がどれほど多いことか。

 相変わらず禁煙の駅で吸っている人が多い。吸い殻入れがないからその辺に投げ捨てる。公衆電話のプラスチック部分の焼けこげ。手に火を持っていたら押しつけてみたくなるのは本能だろう。薬物中毒者がどれほど害をなしていることか。養老さんはその辺の愛煙家のマナーの悪さには触れていない。片手落ちである。

 養老さんは「嫌煙運動をしているのは元愛煙家に多い」と分析していた。養老さんももしもタバコをやめたなら、自分の今までの誤った発言を悔い、猛烈な嫌煙運動家になるだろう。もちろんこの人は死ぬまでやめないだろうけど。

 ただ、医者に愛煙家が多いのは解る気がする。父母の介護から病院に関わり、いかに医者がタバコを吸っているかを知った。養老さんも毎日人間の体を切り刻んで解剖している人である。そういう世界にいたなら、ストレスを発散することが第一義になる。将来の発ガンうんぬんなんてどうでもいいことだろう。タバコが有効であることはわかる。人の命を救ったとき、救いたい命を救えなかったとき、肺の奥まで吸い込む一本のタバコは絶妙のものだろう。それは珈琲や酒ともまた違う。麻薬でしかあがなえない獨自の価値だ。合法的に堂々と出来るものはタバコしかない。酒の飲めないそういう立場の人がタバコを好むのがよくわかる。

 私は私を煙く不愉快にさせない限り、誰がタバコを吸おうが文句はない。だからニコチンタール中毒者は、こちらに迷惑をかけない許可された場所で好きなだけ吸えばいい。
 でもそれに飽きたらず、自分たちは阻害されている被害者だとでもいうがごとく、愛煙家がこういうリクツを並べ立てるのってかっこわるいと思う。

11/5

 たまらんなあ、オーニタ

 元参院議員の大仁田厚氏(50)が11月3日、東京・早大の学園祭に出演し、2008年に同大大学院を受験すると発表した。スポーツ科学研究科を受けるとのことで、「中年の体型維持などを研究したい」とのこと。

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 学歴コンプレックスの固まりであるオーニタは、高校を受験すらしていないのに「進学したが三日で中退」とかなしい嘘をついていた。学歴など関係ないプロレスラー時代の経歴である。いかにこだわっていたことか。
 定時制高校、明大とすべてインチキで卒業。今度はとうとう早稲田の大学院である。念頭にそのまんま東がいるのか。出身地の長崎県知事を狙っているようだ。感動するほどの上昇志向と言えなくもない。ただ、定時制高校もまともに行ってないし、明大なんてほとんど行かないままインチキ卒業である。試験の時のカンニングも問題になった。なんで大学側もこんないいかげんなことをするのか。まともな卒業生に対して失礼だろう。働きながら定時制高校に四年間通って高卒の資格を取得した人は、オーニタの卒業証明書をとったカラクリに憤っている。筆記試験をやれば小学生レヴェルの学力もないことはわかったはずだ。

 中退した北野武を名誉卒業生にしたことには拍手を送った明大OBも、オーニタをインチキで卒業生にしたことは不快に思ったろう。オーニタに同じ明大OBを名乗られてはたまらない。その辺のことを考えないのだろうか。オーニタもこんな形で学歴を揃えても嗤われるだけなのに……。でもそこに気づかないのが彼のかなしみなのか。

 田舎者の私は、家の貧しさ故、高校に進学できない優秀な人を大勢見てきた。そういう時代がたしかにあった。だから今時の高校やそのうえの学校まで出ていながら小学生以下のノウミソの若者に本気で腹を立てるのだが……。
 学歴なんて名目はどうでもいいけれど、こんなインチキ取得が叶うのでは真面目な人が気の毒だ。世の中にはかしこい中卒がいっぱいいる。こんなのが大卒を名乗るのではたまらない。

 早稲田が、この小学生レヴェルの漢字も書けない自称大卒を拒んでくれることを願う。落ちる前に選挙から逃げ出し、「自称政治評論家」を名乗ったまではいつもの彼のカシコサだが、「自称」と漢字で書けない事実は、元国会議員として明治大学卒業者として、わらってすませられない。

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41歳にして高等学校を受験し合格、1999年4月、駿台学園高等学校定時制課程普通科3年次編入、2000年3月に卒業。
2000年4月、明海大学経済学部に入学するが、2001年4月、明治大学政治経済学部第二部経済学科(夜間部)に転学。 国会議員、プロレスラー、タレントとして活動しながら大学に通い続け、社会人特別入試合格時には「4年というと嘘っぽくなるから、6年で卒業したい」と語っていたものの4年で卒業。
(Wikipediaより)

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 見たくもないのに……

 これを書いた週末、見たくもないのに立て続けにオーニタを見てしまった。ふたつとも五反田にあるオーニタが出している店の話。イタリアンレストランで母親がやっているらしい。というか長崎から呼び寄せた母親にオーニタがやらせているわけだが。
 そこそこ人気のある番組に連続して出ていたから、いまオーニタが所属しているプロダクションはそれなりの力があるのだろう。どこだ?

 私は新日狂ではなかったから、プロレスラー時代のオーニタはべつに嫌いじゃないし、なにもかも毛嫌いするつもりもないのだが、まあ、あれこれいろいろ、いま目にしたくない人ではある。

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大仁田氏がミートホープ再生を支援──12/13

大仁田厚前参院議員(50)が12日都内で会見し、食肉偽装事件で幹部らが逮捕された北海道の食肉加工販売会社ミートホープ(自己破産手続き中)の「ブランド再生支援」に乗り出すことを表明した。

まずは解雇された元従業員らとともに、ミートホープブランドを残しつつ、偽原料を使わない「本物」の新コロッケを製造・販売する計画だ。

大仁田氏によると、北海道で中高年女性ら約20人の元従業員グループから「何歳になっても働きたい。新しいコロッケを作りたい」と強い要請を受けたことなどが支援を決めたきっかけ。今後は1月にも、元従業員らとともに新コロッケの製造を開始し、同氏の知名度を生かして宣伝、販売していく。いずれは千歳空港での販売も考えている。

大仁田氏は「突然解雇された従業員に、社会が手を差し伸べることも大事だと思う。もう1度、新コロッケで元従業員の名誉を挽回(ばんかい)してあげたい」と話した。

11/10


「池袋パルコ」の飛び降り自殺、

巻き添えの男性が死亡

 東京都豊島区の「池袋パルコ」前の路上で6日、東京都練馬区の無職の女性(25)の飛び降り自殺の巻き添えになり、意識不明の重体となっていた千葉県松戸市の会社員、池田長武さん(38)が10日午前5時35分、都内の病院で死亡した。

 警視庁池袋署が10日に司法解剖して死因を詳しく調べる。

 調べでは、6日午後1時ごろ、池袋パルコ屋上から女性が飛び降り、路上にいた池田さんが巻き込まれた。池田さんは仕事が休みで、同僚に「知人に会いに池袋に行って来る」と話していたという。

 女性は全身を強く打って間もなく死亡。池田さんは顔面を複雑骨折するなどして入院していた。(サンスポより)

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 いろんな死に方があるが、これは最も関わり合いたくない死に方になる。
 この女、気違いだったらしい。最初「精神病院に通院歴があり」と報道されていた。なのにいつしか消されてしまった。人権なんとかから抗議があったのだろう。上記でも触れられていない。

 空から降ってくる気違いに巻き込まれて死ぬのだけはごめんだ。
 池田さんというかた、無念だったと思う。遺族のかたもやりきれないと思う。ご冥福を祈る。この世から気違いが抹殺されることを祈りつつ。いや気違いはいなくならない。それはしょうがない。人が生き物である限り気違いや、その一部である殺人鬼のようなものは出てくる。そういうものは消した方がいい。作物で言うなら間引きだ。問題はそういうものに不可解な人権なんてものを振りかざす一部の人間である。たちのわるいのはこいつらだ。
 いま代表的なのがあの「光市の母子殺人事件」の弁護士だ。あの弁護団はもう弁護のための弁護になり、どんな詭辯、手段を用いようとも死刑を回避させることに躍起になっている。本末転倒だ。人の心を忘れたああいう連中がこの世からいなくなることを祈る。

11/6

 素朴にいつも思うこと──命のありかた

難病の拡張型心筋症の治療のためドイツで心臓移植手術を目指す福本穂香(ほのか)ちゃん(1歳2カ月)=近江八幡市=の父祐司さん(28)や支援者らが5日、滋賀県庁で会見し、高額な手術費などをまかなう募金への支援を呼び掛けた。

穂香ちゃんは2月に拡張型心筋症と診断され、24時間の酸素吸入と薬剤投与を受けている。主治医によると、現在は小康状態だが、風邪など感染症にかかると命の危険があるという。体重は約6000グラムで、同じ年頃の子どもの3分の2程度のため、「発育にも大事な時期なので、できれば半年以内に移植手術を受けてほしい」としている。

会見で祐司さんは、穂香ちゃんがお座りできるようになったなどと成長ぶりを紹介し、「穂香が生きる喜びを感じられるよう、力を貸してください」と話した。
また募金活動を通じて、日本でも15歳未満のドナーが認められるよう、併せて訴えていくという。

移植手術は、ドイツの心臓病センターで受け入れが決まっており、手術費や現地の滞在費、術後の免疫抑制の費用など8800万円を目標に募金を募る。会見後、祐司さんらはJR大津駅前に立ち、「娘に生きる望みを与えてください」と支援を訴えた。募金の振り込み口座は、滋賀銀行八幡駅前支店普通預金「ほのかちゃんを救う会」(ホノカチャンヲスクウカイ)139282など。
問い合わせは同会Tel:0748(34)8651へ。*+*+ 京都新聞 2007/11/05[**:**] +*+*


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 これってどうなんだろう。同様のいくつかを耳にしてきた。それに接するたび、いつも考えていた。「これって正しい人の道なのだろうか」と。先日M先輩と会ったときも、ひさしぶりだったので音信の途絶えている旧友の現況から音楽まで話したいテーマは山とあったのだが、私のほうからこの話題を持ち出し先輩の意見を聞いた。そのときこういう報道はなかったけど、私は以前から思っていた自分の考えを先輩に聞いてもらいたかった。信頼する人とこのことについて話してみたかった。それぐらい気になっていた。

 この種のニュースに初めて接したときから私の考えは否定的である。
 なのにいままで一度も書いていないのは否定的である自分を否定されるのが怖かったからだろう。

 まずこういう場合考えられるのは「自分の子供だったらどうか!?」である。他人事だからキツいことも言えるが自分の子だったら同じ事をするのではないか、と。
 これに関しては言い切れる。私はこういうことはしない。どんなに可愛い我が子であれ、自分の出来る力で精一杯のことはするが、そこまでで諦める。そういう運命で生まれてきた子なのだと思う。世界中で多くの人がそういう運命を甘受している。それもまた子を作った親の務めだろう。

 障害が「臓器移植」ということにも抵抗を感じる。こんなちいさな子供が死んだ他人の心臓を移植して生きられるものなのか。いやそこまでして生きる必要はあるのか。生かす努力を人はせねばならないのか。これがたとえば一千万円という高額な薬であり、それを飲めば確実に治るというのならまた話は違ってくる。まあ本質はあまり変らないかもしれないが、すくなくとも一歳の子に心臓移植よりは割り切れる。

 否定的な自分に懐疑的になり文章に出来ない理由は「募金マジック」である。
 ひとり100円ずつ募金したら10万人で一千万円。百万人で一億円。ひとりたった100円で人の命を救える(可能性)のなら、そうすることがヒューマニズムであり、それに異を唱えるのは非人間的なのではないかと。
 この募金箱を突きつけられたら100円玉を入れてしまいそうだ。

 ドイツでの手術が成功するとは限らない。成功したとしてもその後無事に長らえるとも限らない。2歳で移植手術をし3歳で死んでしまうかもしれない。しかし可能性があるなら賭けてみるべきなのか。いやいや手術が成功し、彼女は成人まで健康に育ち、人々の好意に報いるため、医者になり、世界の人に希望を与える存在になるかもしれない。その可能性。わずかな金を出すことでその可能性が見いだせるのなら……。

 だけどだけどだけど……。

 もしも我が子がこういう星のしたに生まれたなら、私は我が子の短い天命を悟り、最後の日まで一緒に過ごす。こういう募金活動はしない。それがたとえようもないほどかなしい時間でも歯を食いしばって耐える。天命なのだから。

 親として、こういう活動に出ることが正しいのだとしても、私には出来ない。あちらが正しい親なのか。私は親失格なのか。

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 続報

私財を出さない」募金で心臓移植 「救う会」の方針が物議かもす 2007/11/27

1歳2カ月の女児の心臓移植のため募金活動を行っている「救う会」の方針に対してバッシングが起きている。必要な費用は8800万円。

「救う会」のホームページには、「一家の生活レベルを維持し、私財を削らず、費用すべてを募金で賄う」と書かれている。これ対してネット上には、「私財削って借金してでも治療させるのが普通の親ではないか」などという批判がでている。真相はどうなのか。

「救う会」は「ほのかちゃんを救う会」といい、方針としてこう書かれている。
「穂香ちゃんの心臓移植に対し、福本夫妻が私財を削り、それでも足りない費用を募金で集めるのではなく、あくまで福本夫妻が私財を削らず今の生活を維持したまま、ドイツへ渡り心臓移植を行い、ほのかちゃんのリハビリを経て、日本に帰国した際に以前と同じ生活ができる」

必要な費用は8800万円で、これは心臓移植のための医療費、渡航費、現地滞在費、事務局経費にあて、それ以外のものには募金を使用しない、としている。

ネットでは「私財を削らず」という部分が相当な反響を呼んで「全額負担してくれとはもはや支援でもなんでもない」「厚顔無恥とはこのことだな。いくら子供が病気で手術の費用がかかるからって自分の金を使おうとせず人の財布をあてにするなんてよ」「う・・・この姿勢はよろしくない・・・袋叩きにあうぞ・・・」

など、この募金を題材にしたブログのコメントや、「2ちゃんねる」などのカキコミでバッシングが起きている。
もちろん、海外での手術には相当な費用がかかるだけでなく、手術後もケアが必要であり、一家も生活していかなければならないわけだから、「私財」が残っていることに越したことはない。募金活動に新たな考えを導入したのかもしれない。「ほのかちゃんを救う会」にJ-CASTニュースが取材すると、全く違った答えが返ってきた。

実は「削るほどの私財を持ってない」

同会代表の田中初さんは、J-CASTニュースの取材に対し、この文章は「救う会」全員で考えたものだとしながら、「実は、『私財』部分の表現が変ではないか、という意見が最近、会員の中から出てきまして・・・。第三者には説明不足だったと申し訳なく思っているんです」と話した。

「救う会」は、穂香ちゃんの父親(28)の大学の同級生や幼なじみを中心として発足していて、一家の「私財」のくだりについては、「みんなわかっている」(田中代表)ことだから、なんら疑問を持たずに書いてしまったのだという。つまり、一家は「裕福じゃない」(同)状況で、これまでも穂香ちゃんに治療費がかかっている。さらに、今後、父親が会社を休むことが増えるが、母親は穂香ちゃんに付きっ切りで共働きもできない。手術が終了しても同じ状況で、「削らない」、のではなく「削る私財がない」という事だったようなのだ。

田中さんによると、穂香ちゃんは、半年以内にドイツで移植手術を受けなければ危険だと医師から言われているのだそうだ。目標募金金額8800万円に対し、07年年11月 20日現在の募金額は約1202万円になっている。

http://www.j-cast.com/2007/11/27013772.html

11/28  東国原発言を支持する

「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
2007年11月28日20時53分

 宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。

 懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。

 懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。



東国原知事「徴兵制はあっていいと思う」…県民座談会で
 宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市で行われた県民との座談会で、「個人的には徴兵制はあっていいと思う」と発言した。

 座談会後、報道陣に対し、「(日本の若者を)ある時期、規律を重んじる機関で教育することが重要」との趣旨だったと釈明した。

 座談会には、同県建設業協会青年部の12人が出席した。県内にある建設業技術者の養成機関の全寮制による規律正しい生活が話題になり、知事は「若者は1年か2年くらい自衛隊とか、ああいうところに入らないといけないと考えている」と述べた。

(2007年11月29日1時47分 読売新聞)


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 赤字がアサヒシンブン、青字が読売新聞。
 知事の発言「個人的には徴兵制があっていいと思う」が、アサヒだと「徴兵制があってしかるべきだ」になっている。「個人的にはあっていいと思う」から「個人的には」を消し、「あっていいと思う」を「あってしかるべきだ」にすると、「なければならない、絶対にあるべき」のニュアンスでだいぶ原文とは違う(笑)。これぞ典型的なアサヒるの使用法(笑)。

 しかもそのあとの記者団の質問に「発言を撤回せず」と書いている。つまり撤回せねばならないものと自分たちで決めつけ知事に押しつけている(笑)。アサヒってる(笑)。
 アサヒ読者の宮崎県民からはリコール運動でも起きるのか(笑)。

 人気絶頂のときによくぞ持論を述べたと思う。いや人気絶頂のときだからこそ言えたと言う人もいるだろうが。
 横山秀夫の「警察小説」に、こういうところに群がり特ダネ探しをする記者のことが書いてある。「東国原知事、徴兵制必要発言」は、「すわッ、問題発言!」とばかりに、地方の記者を昂奮させ、あっという間に本社に送られたのだろう。

 まあこれで東は元長野県知事あたりとは不仲になるわけだが、その代わり石原都知事と親しくなれるし、アサヒ的な人々からの反発とともに、「よくぞ言った」の声もあがるはずだから、決してマイナスではあるまい。政治家が己の信条を明確にすることは基本だ。もっともこの国の場合、「朝鮮にはよいこともした」と言っただけで辞任させられる場合が多いから怖いことは怖い。

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 徴兵制を復活させれば今の若者問題、教育問題のほとんどは解決する。このことによってまず誰でも、国というもの、戦争というものを考えるだろう。若い時期に限定的兵役が義務づけられたからといって戦争に行くわけではない。むしろここでの経験はより戦争の抑止力になるだろう。
 ドイツのように兵役回避を希望する者へのボランティア活動義務を採用するのもいい。戦争責任においてなにかというと「ドイツを見習え」と言う連中は、憲法改正や徴兵制のことになるといきなりドイツのドの字も出さなくなる(笑)。

 今のように徴兵制がなく、なにをしたらいいかわからない生活でも、兵役義務がある生活でも、戦争の可能性は変らない。なぜなら戦争とは国と国が生きて行くための外交手段だから。人が人である限り、「戦争の可能性」からは逃れられない。「外交は血の流れない戦争。戦争は血を流す外交」である。だったら徴兵制の中で兵役義務をこなし、戦争をせずにすむ世界を作るための勉学をするほうが生産的だ。兵役の体験をしてからより堅固な反戦論者になればいい。兵役義務は国家運営の「戸塚ヨットスクール」だ。引きこもり問題なんて一発で解決する。

「兵役義務」というものがあったなら、学校や社会からドロップアウトしたどんな馬鹿者でも人生に区切り目が出来る。シンナーを吸いながら、2ちゃんねるに見知らぬ他人の誹謗中傷を書き込みながら、「おれって来年から兵役なんだよな」と考えざるを得ない。戦争のことを考える。国のことを考える。生きるということ、死ぬということを考える。そのことによってやりたいことも見えてくるだろう。

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 この件に関して昼のワイドショーでムロイユヅキが言っていた。
「絶対反対です。たしかに今の日本の若者は個人主義者ばかりで問題もあるけど、徴兵制が出来たら私の息子も戦争に行かされるかもしれないし、だから絶対に反対です」と。

 日本に真の意味での個人主義はない。利己主義と勘違いされている。欧米風に正しく個人主義が根つけばこんな事態は起きていない。個人主義の意味も解らず、徴兵制が出来たら自分のあのタカハシゲンイチローにそっくりの息子が戦争に行かされるかもしれないから反対だと叫ぶこういう「作家」こそ、今からでもいいから体験入隊させたいものだ。

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 東知事の発言を受けて話題が拡がると、またヒステリックに「軍靴の響き」「暗黒の戦前」「大政翼賛会」とバカのひとつ覚えを喚き始めるのが連続するのだろう。それはそれで楽しみだ。


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 2ちゃんねるの反発

 2ちゃんねるの「ニュース速報」にこの件に関するスレが立ち、若者が東の過去の淫行記事を引用したりしてをボロクソに言っていた。
 代表的な例。

18歳未満の未成年と淫行w
熟年離婚w
タレントとしての知名度を利用して知事当選w

とても道徳や倫理観ある知事とは思えないが
東自身が自衛隊に入ってから言えよw


 サヨクではない。思想的なものではなく「我が身の心配」である(笑)。兵役義務が出来たなら、最初に取り上げられるのが昼日中から匿名掲示板に書き込んでいるような時間だ。人は痛いところを突かれたとき反応する。

 でも「今の若者がろくでもないのは親の責任」という意見には賛成する。ろくでもない親(の世代)がろくでもない子供たちを作った。かといって「だから親の世代がまず兵役につけ」は正論だけどもう無理だ。
 だったら躾も出来ない親を見限って自分たちの力であらたに生き直すと考えたほうがいい。若いときの兵役義務は役に立つ。そういう若者がよい親になれば、その子たちも良い子になる。どこかで「親が悪いから子が悪い」という言い逃れ(だけど絶対的事実)という負の連鎖を断ち切らねばならない。そのためにも「兵役義務を受けた世代」が、これからの世の中の中心になり、兵役義務を受けられなかった世代をかわいそうに、気の毒にと、思いっきり笑えばいいのだ。

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 続報,1

 宮崎県の東国原英夫知事は29日、徴兵制に賛意を示したとされる発言について「徴兵制を容認していない。戦争に直結するものでは全然ない」と弁明した。同時に、若者に一定期間、強制的に農業を体験させる「徴農制」などの仕組みが必要との考えを強調した。

 東京都内で開かれた「道路整備の促進を求める全国大会」終了後に報道陣に答えた。

 東国原知事は「徴兵制」発言について「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないかと言いたかった」と釈明。

 「この国の道徳観の崩潰を心配しての発言と解釈してほしい」とした上で、知事は「例えば徴農制とかで一定期間、農業を体験するとか、介護、医療、災害復興の手伝いなどをある程度強制しないと今後の担い手不足、社会構造の変化に付いていけないと危惧(きぐ)している」と強調した。

 東国原知事は28日に宮崎市内で開かれた県民との座談会で宮崎市内で開かれた県民から直接意見を聞く「県民ブレーン座談会」で「僕は徴兵制はあってしかるべきだと思っている。若者は1年か2年ぐらい自衛隊か、ああいうところに入らなければならないと思っている」と発言していた。(MSN産経ニュース)


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 続報.2

★東知事の徴兵制発言に抗議殺到

・宮崎県の東国原英夫知事(50)が29日、徴兵制に賛意を示したとされる発言について、都内で行われた「道路整備の促進を求める全国大会」終了後に、「徴兵制を容認していない。
 戦争に直結するものでは全然ない」と弁明。「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が 必要ではないかと言いたかった」と釈明した。

 同時に若者に一定期間強制的に農業を体験させる徴農制、介護、医療、災害復興の手伝いなどある程度の強制が必要との考えを披露。「この国の道徳観の崩潰を心配しての発言と解釈して欲しい」と訴えた。

 宮崎県の秘書広報課にはこの日、100件(同日午後3時まで。電話54件、メール43件、ファクス3件)の問い合わせがあった。「徴兵制という言葉を使ったことに問題がある」などの批判が約7割、残りは賛成が2割、その他が1割あった。メールは住所、氏名がないものがほとんどで、県外からの問い合わせが多かったという。

 また、後援会事務所にも13件の問い合わせがあり、3件は東知事の発言を肯定、残りは批判的な内容だった。
 http://news.livedoor.com/article/detail/3409816/


11/28
 全国学力テストを拒否する感覚

★<愛知・犬山市>教育委員2人を学力テスト賛成派に交代

今年4月に実施された全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)に自治体で唯一参加を
 拒否した愛知県犬山市
で、教育委員5人のうち2人が来月までに辞任する。田中志典市長は
 28日、来月4日開く定例市議会に新任2人の同意案を提出することを明らかにした。 

 市教委は来年の学力テストへの不参加を全委員の総意で決議しているが、新任の2人は
 参加支持派とみられ、テストを巡る論議が再燃しそうだ。

 委員5人のうち、名古屋鉄道相談役の谷口清太郎氏が高齢などを理由に10月末に辞任し、
 元小中学校長が12月に任期満了を迎える。テスト参加を求めて市教委と対立する田中市長は、
 市体育協会会長と元教育委員の選任同意案を議会に提出する。田中市長はこの2人について
 「見識、経歴から見て選んだ。(学力テストについて)市民の意向を反映してくれる人だと信じている」
 と話した。議会で同意されるのは確実とみられる。

 数の上では学力テスト不参加派がまだ上回るが、これまでのように結束して田中市長と激しく
 対立した強硬姿勢は取りづらくなるとみられる。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071129-00000008-mai-soci


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 人には競争の本能がある。かけっこをしたなら、前の人を抜きたいという本能、並んだら抜かせたくないという本能がある。それが人の本来の姿だ。
 勉強を始めたなら、全国の同じ年齢の人と比べて、自分はどれぐらいなんだろうと思うのは自然な感情だ。すこしでも上に行きたいからがんばって勉強しようと思う心も。
 それを奪う権利は教育委員にはない。犬山市のこどもたちが気の毒だ。父兄達はどうしているのだろう。

 どこにでもいるんだよな、こういうサヨクは。かけっこをしても順位はつけず、最後にはみんなで手を繋いでゴールインなんてことが美しいと思っている。人として生きることに役立つと勘違いしている。生きることに役立つのは、自分が人より優れている点、劣っている点を正面から確認することだ。子供達が競争の中で学ぶ機会を奪ってしまっている。
 こういう町には住みたくないが住まざるを得ない人もいるだろうし、たまらん話である。ほんと、こどもがかわいそうだ。
11/20
 日本の品格を考える──さとう先生のブログから


キンチョーの朝
 家から院までは歩いて10分ほどなのですが、その道はちょうど小学校の通学路にあたっています。そしてその道は、物騒な世の中を反映してか、50mおきに蛍光色のジャンパーを着たオーバー60の方々が立ち、子供達を見守っています。
 最初のうちは特に気にすることもなかったのですが、どうも最近そのザ・ガードマンたちの私を見る視線がいささか厳しいものではないかと感じるようになりました。まあ考えてみれば朝早くから、スーツを着るでもなくジーンズ姿で、かといって学生という年齢ではなく、手ぶらでひょこひょこ歩いていたら、これ軽い不審者ですよね。
 そう意識するようになってからは、怪しく見えないよう胸を張って歩いても、「あいつ何かを企んでいることをごまかすためにわざと堂々としているんじゃないか」と思われているような気がしますし、ならばと目立たないよう隅のほうを静かに歩いていると、「コソコソして何か後ろめたいことがあるんじゃないか」と思われているような気がして、もう一体どうすればいいんだと途方に暮れる、午前7時半なのであります。  


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 これは神戸で整骨院をやっているさとう先生のブログの文章です。軽妙洒脱なとてもおもしろいブログなのでお時間があったら読んでください。

 さとう先生は(馬券以外は)とてもセンスのいいかたです。この文章も着眼と発想、さりげなく問ういまの日本への不信感、キンチョーの夏をもじったタイトルとすべて秀逸です。



 若い頃、アメリカのこういう事情を知り、いやな国だと思いました。「もしかして将来、日本も」と案じ、すぐに「まさか」と否定したものでした。いま、日本はそのとき案じた「もしかしたら」の国になってしまいました。

 晩年の父と、春秋の天気のいい日、かつて父が教鞭を執っていた小学校を訪ねて歩いたことが何度もあります。車中で父のむかしばなしを聞くのは楽しいものでした。私はそんなとき、父を獨占し、姉も兄も知らない父の若い頃の話を聞けるしあわせに酔ったものです。しかし訪れたどの小学校も冷たく鉄門を閉ざし、懐かしがって訪れた老齢の元小学校長を迎え入れてはくれませんでした。
 私がこのとき不快に思ったのは、鉄門を閉ざしている現実の小学校に対してではありません。そういうことをせざるを得なくなってしまった日本という国に対してでした。田舎故変質者はさいわいにもまだいませんし、のどかなものです。でも都会がそうするから自分たちもそうするという教員側の転ばぬ先の杖が極めて不愉快でした。

 端的な例として「部落」ということばの追放があります。私の田舎にはそれがありませんでした。ですから、私がその言葉に差別的な意味合いがあると知るのは二十歳過ぎでした。しかし今では当時あった運動会での「部落対抗リレー」のようなものもすべて「地区別対抗リレー」のように言い換えられています。こういうのは転ばぬ先の杖というより臭い物に蓋であり、厳密には「臭くなる可能性のあるものには臭くなる前に全部蓋」でしょう。



 さとう先生はコミカルに書いて内心の怒りを出さないようにしていますが、これは病んでいる国のかなしい現実です。本来なら見張りの人たちなどいず、子供とおとなが朝の挨拶を交わすさわやかなシーンでなければなりません。しかし気違いが跋扈し悲惨な事件が連発しているのですからそうせざるを得ないのでしょう。日本はなんという見下げ果てた国になってしまったのだと泣きたくなります。

 かくいう私も、自転車で街を走っているとき、ふと自転車を止めて小学校の銀杏の木に見惚れたりすることがあります。父と巡回した小学校には何十年か前、父が植樹した銀杏の木が大きく育っていました。父から植樹した当時の思い出話を聞いたりします。そんなことを思い出して懐かし気分になります。しかししばらくすると、「自転車に乗ったオヤジがこんなところにずっと停まっていたら不審者だと思われるのかな」と気を回し、急いで走り出します。かなしいです。でもそれが現実です。

 そのかなしみは私の中にあります。人品骨柄極めて上等な私が不審者だと思われるはずなどないのです。誰が見ても知性あふれる高貴な人だとわかるのです。万が一思われたなら、そこで怒ればいいのです。怒って自分を説明し、勘違いした人の心の貧弱を糾弾すべきです。人と関わりを持ち、まっすぐに怒ることが以前のような正しい日本を作る基礎力になります。いえ、ひとりひとりのそういう心がけこそがかつての品格ある日本にもどる唯一の手段であり方法です。なのに思われてもいないのに、思われるのではないかと怯えて去る自分が、たまらなく惨めです。私もまた日本をこのような国にしてしまった事なかれ主義者という犯人のひとりなのでしょう。

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 痴漢冤罪の脅え

 同じようなものに痴漢冤罪がある。電車の中で、いたいけな(?)女子高生とやらに「このひと、痴漢です」とやられたら普通のおじさんはひとたまりもない。だからもう混雑した電車に乗るのが怖くてたまらない。バカ面した女子高生のようなものを見つけるとすぐに逃げる。10メートル以内には近づかないようにしている。こわい時代だ。

12/2
 風呂に入りたくて

 くしゃみが出る。ぞくぞくする。風邪を引く予兆。引くわけには行かない。風呂に入りたいが我慢して寝る。寝苦しい。寝汗を掻く。体がすっきりしない。風呂に入り、頭を洗い、体中を泡まみれにしてナイロンタワシでごしごし洗ったらどんなに気持ちいいことだろう。でもそれで風邪を引いたらたいへんなことになる。絶対に今、引くわけには行かない。

 翌日、どうしても我慢ならず入ることにした。湯冷めでもして、ちょっとでもくるったら一発でアウトである。寝込むことになる。
 気持ちよかった。風呂とはこんなに気持ちのいいものかと湯船の中で感嘆した。子供のころ風呂嫌いで、たびたび入らないまま寝ようとして父に叱られたのが嘘のようだ。
 勝負はあがってから。ここでゾクっと来たらすべてが終る。湯冷めしないようにして、かといってこたつで暖は取らないようにして、布団にくるまる。なんとかこのまま無事に朝になれとこわごわだった。
 そんなとき読んだニュース。

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「寒くて」民家に侵入し入浴の男を逮捕
 
長崎県警大浦署は2日までに、住居侵入の現行犯で住所不定、無職名古屋敏弘容疑者(49)を逮捕した。
民家に侵入し、勝手に風呂に入っているところを警察に通報されており「長い距離を歩いた。寒くて仕方なく、どうしても風呂に入りたかった」と話しているという。
調べでは、名古屋容疑者は1日午後9時50分ごろ、長崎市野母崎樺島町の男性方(47)に侵入した疑い。当時は男性の家族がいたが、けがはなかった。

同署によると、名古屋容疑者は鍵のかかっていない勝手口から侵入し、そのまま無言で風呂に入った。捜査員が駆けつけた時もまだ入浴していたという。
[2007年12月2日19時56分]


せつない。辛口の2ちゃんねるでさえ「風呂に入ったぐらい許してやれ」という意見があった。
長い距離を歩いたは、これまでの人生の比喩だろうか。どうしても入りたかった風呂とは暖かい家族のことか。含みがある。それとも単に競歩の選手とか。

 この人の罪はどれぐらいだろう。留置場で同房の連中から尋かれる。「おまえ、なにをやったんだ」。「おれか、ふっ……。長い距離を歩いてきたからな……」。ニヒルに微笑む湯上がりの男。薄汚れた同房の連中とは明らかにちがっている。せっけんの香り……。
12/12  暴力妻を夫が殺害

 今年も一年のニュースを振り返る季節になった。
 昨日の夕方、ニュースショーが今年の悲惨な殺人事件を特集していた。殺人事件はみな悲惨だが、その中でも背景になにかある特殊なものを特集したらしい。

 そこで初めて今年あったという「暴力を振るう妻を夫が殺害した事件」を知った。
 私は陰惨な事件が嫌いなので小説でもその種のものを読まない。現実の殺人事件の報道も見ない。テレビで流れるとチャンネルを替えてしまう。テレビを見るのは食事や晩酌のときがおおい。そんなものを見てもまずくなるだけだ。

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「人殺しのニュースを好きな人などいない」と思うかたもいるかもしれない。私も自分がそうだから人もみなそうだと思っていた。ところが世の中は私が思うよりもその種のニュースが好きらしい。他項にも書いたが、チェンマイ等でNHKの衛星放送に人が群がるのは殺人事件だった。政治的なニュースを食い入るように瞶めるのは私ぐらいで、他の人が目を向けるのは人殺しの事件だった。狂人が刃物を振り回して複数の人を殺傷したような事件が耳目を集めるのは当然としても、不思議なのはそういう事件のその後のこと、たとえば「ハヤシマスミ公判」のような私には興味がないことを、楽しみに待っている人がいるのだった。

 ただしこれは私がチェンマイに一ヶ月以上滞在して、彼らと同じような生活を送ってはいても、所詮本拠地は日本の旅人であり、日本の政治が身近であるのに対し、彼らは早期退職組であれ年金生活者であれすでに日本を捨てた人たちだった。その違いはある。そういう立場になると政治的なことには目を瞑り、単純で残酷な事件にのみ反応するようになるのかもしれない。日本を捨て異国で老後を過ごしているのに、自民党と民主党の確執なんてことに一喜一憂するのも、それはそれで虚しいのだろう。

 それでも、密室で人が殺され、殺害の方法は、脱出方法は? のような小説が世に受け、中にはそういう小説ばかり好んで読む人がいるし、「なんとか殺人事件」というタイトルのテレビドラマが毎日ゴールデンタイムで放送されているのだから、人が殺される、殺されたという事件を、私が思うよりも世間は好きなのだろう。
 私は若い頃から嫌いだった。もしかしたら食わず嫌いなのかもしれないと努力して人並みにそういう小説も数はこなしてきた。ここにきてもういいやと思っている。「なんとか殺人事件」に類する本はもう一生読みたくない。

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 本題にもどって。
「暴力妻を夫が殺害」というニュースも、年末に取り上げられるぐらいだからきっと話題の事件だったのだろう。私は知らなかった。朝のワイドショーでこういう事件報道になるとすぐに消してしまうのだから知るはずもない。

 最初に思ったのは、これは誰でもそうだと思うが、「女房に暴力を振るわれて殺す? 男だろう。なんで?」だった。常識的に男の方が力がある。女房に一方的に暴力を振るわれる夫という構図が理解できない。殴られたら殴り返せばいい。そして離婚だ。なにも殺さなくてもいいだろう。そのまえに解決策がある。この時点で私は女房を殺した夫に批判的だった。顔写真が出ている。温和な顔の普通の写真。

 殺された女房の写真が出る。目の大きな、愛嬌のあるかわいい部類の顔である。二十八歳だったか。女友達が「結婚に憧れていましたね」と語っている。何年か前に最初の結婚をして離婚。今回が二度目の結婚。そして殺された。私はますます写真のかわいい女に同情し殺した亭主を非難する。懲役は十年。ずいぶん軽いなと思う。

 最初の亭主がモザイクの向こうで語る。「懲役十年と聞いて、もっと軽くてもいいのにと思いました」。
 えっ? と思う。聞き違いかと思った。わからなくなる。どういうことだろう。私は自分の元女房を殺された彼が殺人者を非難するのかと思っていた。だいたいにおいてこういう場合、故人は褒められる。そうではない。彼は凶行に及んだ男を擁護している。そこから知るとんでもない事実。

 最初の亭主と殺された女が結婚したのは五年ほど前。三ヶ月で離婚している。その当時の写真が出た。画面をたたき割られたテレビが映し出される。ぶちこわされた家具、食器、ゲーム機。正気の沙汰ではなかった。信じがたい暴力だった。とてもまともな人間のすることではない。先ほどのあいらしいと思えた女とこの暴力が繋がらない。

 二度目の亭主も同じ目に遭い、結婚三ヶ月目で、こちらは離婚とは行かず、解決策が見つからないまま兇行に及んだ。同じ目に遭ってきた最初の亭主は、この暴力に耐えきれず殺人に及んだ二度目の亭主に同情しているのだった。

 一気に私の感覚も変り、この殺人犯に同情する。たまらんだろうなあ、こんな女とつきあったら。酒を飲んで暴力を振るう。素面のとき別れてくれと頼んでも納得しない。おそらくそのときはよよと泣き崩れたりする。そのあと酒を飲むと金属バットを振り回して破壊しまくる。

 まあこれもひとことで言ってしまえば気違いである。精神障害、それだけだ。だが見た目はかわいい若い女だし、好き合っていちゃいちゃしている時期に、この狂いっぷりは見抜けない。この女の家族背景、精神背景はどうなっているのだろう。これ、どこかでルポが書かれているのだろうか。猛烈に読みたくなった。週刊誌記事になっているはずだ。検索してみるか。

 他人の不幸を見て自分のしあわせを確認するというのは最も軽蔑している行為なのだけれど、今回ばかりは自分の女房がまともである現実に安堵のため息をついてしまった。それぐらい写真で見たこの女の「暴力の痕跡」はすさまじかった。

 


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