2006
06/4/25

 叶美香写真集好調!

 叶美香の写真集4200円は初版8万部で発売したがすぐに売り切れ、16万部の増刷が決定したという。あんな人造人間の裸を誰が見るのだろう。一度ぐらいは見てみたいと思うものなのか?

 この件で賢いと思ったのは、姉(を演じている方)が写真を撮ったことである。これがたとえばシノヤマキシンに頼んだなら売り上げの大半をそちらに取られてしまう。写真家の作品であり彼女は単なるモデルでしかないからだ。ところが姉が撮ったなら売り上げが丸々自分たちの儲けになる。今の時代、素人のデジカメでもなんとでもなる。じつに賢いやりかただ。

 彼女たちは所属事務所を持たずスケジュール管理からすべて自分たちでプロモートしている。これまた賢い。ああいう虚空の存在だからこそ大手プロに頼んで演出してもらわないとたいへんだ。それを自分たちでやり遂げているのだから、思ったよりもずっと賢い人たちなのかも知れない。(いろいろ秘密が多いから自分たちでやった方が楽、との解釈も出来ようが。)

 妹の方はクイズ番組に出たりして、最近はなかなか知識のあるところを見せ新境地を開拓している。姉の方は常識にかからない奔放さと感覚派を売りにするようだ。妹役が知識を発揮してリードするが、誰にだって解るはずのない問題の二者択一というような場面では、姉役が動物的勘を発揮してくりぬける、という自己演出は見事である。しっかりとテレビ局に言い含めてから出演を受けているのだろう。

 言うまでもないがこのふたり、完全な赤の他人である。
 先日、こういう芸能界シモネタ的な話が大好きな競馬ライターのおやじがいるのだが、その人と酒を飲んでいるときにそう言ったら「ええ! ほんとかよ!」と驚かれたので、こっちのほうがびっくりした(笑)。その人はほんとにこのふたりが姉妹だと思っていたらしい。しんじられん。

 それでも妹役の方はまだミス日本に選ばれたり、それなりの勲章があるが姉役はただの売れないモデルでしかなかった。大阪の団地育ちの貧乏人である。セレブとはほど遠い。
 姉役の23歳のころのスレンダーな写真を見ると、顔から体からいったいどれほどメスを入れたのだろうと生きることの悽愴さを見せつけられる。原形をとどめていない。嘘のつけない私からすると嘘を突き通している姿には感動すら覚える。でも体にメスを入れて別人になりきれば、切り替えられるのかもしれない。

 この虚構世界の姉妹は、どんなオチになるのだろう。
 もうすぐ腐る。腐ったら終りである。後進国への人身御供ではあったが、一応デビ夫人には第四夫人であろうと、それなりの実態がある。この人達の場合はなにもない。完全な虚飾の世界の生命体である。
「あの人は今」で見かける日が楽しみだ。
 嘘をつき続けることはたいへんである。
5/1

 水資源を思う──湯水のごとく



INAXが水洗トイレで流す水が今までの半分で済むという劃期的なトイレを開発したと読んだ。それはいつだったか。開発して発表したのは上記にあるように今年2006年の1月26日であり4月1日からの発売である。私がこれをニュースで知り、記事を読んだのはいつだったのろう。日記に書き忘れた。3月ぐらいか。

 今までの古いタイプの水洗トイレは大を流すのに13㍑の水が要ったのに、これは半分以下の6㍑で済む劃期的な製品なのだという。
 そのとき読んだ記事で印象的だったのは、王者のTOTOとの開発競争の歴史が書いてあったことだった。
 13㍑を11㍑に、11㍑を9㍑に、というような節水競争が二大メーカー間で抜きつ抜かれつで続き、毎回TOTOが先行していたが、今回はTOTOはまだ8㍑節水までしか成功していないのにINAXが初めて逆転して6㍑タイプを開発したのだとか。そのよろこびもあって、いかにこれが劃期的な製品かと紹介されていた。私はこういう企業話が大好きだから興味深く読んだのだった。

 なんといっても驚くのはその13㍑という水の量である。もったいない話だ。「劃期的な新製品」でも6㍑も要るのである。水資源を考えるとかなり問題である。
 「古いタイプは」となっているが、私の住まいのものはまちがいなくその古いタイプだろう。流れづらくて困る。ヒロシのネタに「トイレでは、大も小で流すとです」ってのがあったが、以前の住まいはそれが出来たのに、今のところは大を二回ひねっても流れなかったりする。古いタイプで出来が悪いのだ。かといって自分の持ち物でもないマンションなので大枚を投じて新製品にする気にもなれない。

いつの間にか抵抗なくTOTO、INAXと書いているが、初めて接したときはなにを寝ぼけているのだと思ったものだった。便器メーカーがそんな洋物の名前にかぶれてどうする、と本気で怒った(笑)。
 東洋陶器がTOTOになったのはいつだったろう。伊奈製陶がINAXになったのは。
 調べてみると同じような名前の両者には微妙な違いがあるとわかった。東洋陶器は、東陶機器株式会社に1970年(昭和45年)に社名変更し、そのときからTOTOを商品名やロゴに使うようになったが、社名は今もTOTOではないのである。東陶陶器なのだ。英語では「TOTO.LTD」のようだが。
 一方伊奈製陶株式会社は1985年(昭和60年)に会社をINAXにして、伊奈製陶の名を捨てている。
 創立はTOTOが1917年(大正6年)、INAXが1924年(大正13年)。


スティーブ・ルカサーのTOTOはいつだったろう。「ボズ・スキャッグスが1976年にレコーディングメンバーとして」を読み、おおそうだったと思い出す。始まりはボズだった。
 1982年の「聖なる剣」で全米ナンバーワンを記録して有名グループになるとある。初来日はいつだったか。まあその辺はどうでもいいや。印象的なのは、初来日時にグループ名の由来を聞かれたスティーブ・ルカサーが、「そんなの日本人なんだものあんたらのほうが知ってるだろ」と笑ったことだ。つまり1976年時点でTOTOの便器はアメリカで一般的だったことになる。その場限りのバンドのはずだったから命名もいいかげんだった。
 レコーディングも終り、「さあて、バンド名をどうするか」と悩みつつトイレに行き、おしっこをしている便器に書いてあったTOTOを目にして、これにするかとなったのだった。まさか世界的なバンドになるとは夢にも思わないゆえのいいかげんな命名である。
 スタジオミュージシャンが結成するバンドは実力的には抜群だから企劃さえ当たれば大ヒットする。すべると「うまいけど、なんかもうひとつ足りない」になる。TOTOは典型的な前者だった。

 伊奈製陶がINAXに社名変更したのは東洋陶器に大きく差をつけられたからだったろう。近年東京の有名なビルでずいぶんとINAXを見かけるようになった。関西やあるいは東北北海道ではどうか知らないが、関東で見かけるのは圧倒的にTOTOだった。
 東洋陶器は九州小倉の、伊奈製陶は愛知県常滑の企業である。地方から始めて世界に誇る企業に成長したのだからすごいな。資本金で見るとTOTOの355億円に対してINAXは485億円と100億以上も多いのだった。しらんかった。株価とかどうなんだろうね。そこまでは興味ないけど。


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雲南から帰ってくると、しばらくは水を大事にする。
 コップ一杯の水で、顔を洗い、歯を磨き、「うむ、その気になればこれで充分なんだな」と思ったりする。上手に使うとコップ一杯の水で顔を洗い、歯を磨ける。
 妻の家は川に近く水は豊富にある。気の毒なのは多数派のタイ族によい場所を取られてしまい、山に住んでいるラフー族やハニ族だ。すべての少数民族が漢民族にいじめられる弱者なのだが、その中でもまた色分けが出来てくる。彼らの一部は今でも川から住まいのある山奥まで水を汲んで運んでいる。水は一滴たりともむだにできない貴重品だ。

 雲南で苦労するのは乾期の移動である。バスに乗っているとホコリだらけになる。すれ違うときなど対面が見えないほど真っ白なホコリが舞い立つ。膝に抱いたパソコンがホコリに弱いので気になる。パソコンバッグの縫い目なんてホコリで灰を被ったように白くなっている。こういうときの強い味方は持参したウェットティッシュだ。顔を拭くと真っ黒になる。鼻の穴、耳の穴、ひどいものである。

 水は3時間に一度の休憩時にしかない。それもひとつしかない蛇口に何十人も並んだりして思うようには利用できない。いきおい買ったミネラルウォーター(ビールと同じ値段、高い)で顔をぬらしたり、首筋のホコリをぬぐったりする。貴重品である。ほんのすこしずつ使う。
 その経験があるから、帰国してもしばらくは水を大切にする。歯を磨いているあいだ水を流しっぱなしにするなんて厳禁だ。しかしやがて日本の生活に慣れてゆく……。

 今回、帰国してそんなことをしている時期に知った上記「節水トイレ」の話だったから興味深く読んだ。
 汚物を流すのに飲用にも出来る水を大量に消費するのは、本当にもったいない。世界の水事情を知れば知るほどそう思う。
 排泄音を聞かれたくないから水を流す。日本人の島国根性。水がもったいないので音楽が流れるシステムが……なんて読むと苦笑する。かといってドアのないトイレで、互いの排泄音を聞きつつ並んで用を足し、世間話に興じる漢民族のような感覚にもなりがたい。それこそが「大陸的」であっても。


筒井の「小説のゆくえ」を読んだときも、肝腎の小説の話よりも、一部にあった「阪神大震災時の想い出」のような部分に目がいってしまった。
 そこでは水洗トイレの不自由さに触れていた。筒井家は近所に奥さんの実家があり、そこから井戸水をもらってきて処理したという。一回にバケツ何杯もの水が要ることにおどろいたと筒井も書いている。しかし時が過ぎればまた洗面の時に水を流しっぱなしにしている自分がいると。

 筒井家は一軒家だし奥さんの実家に井戸水があったからいいが、マンションの人たちは苦労したことだろう。衛生的で便利な水洗トイレも水が流れなくなったらなんの役にも立たない。避難所でもトイレの問題は深刻だったようだ。水洗トイレに糞が山盛りになってしまい、みな悪臭で眠れなかったという。文化生活なんてそれほどもろいものである。

 筒井はトイレの水に関して、「飲める水なのがもったいない」と書いている。まことにごもっともである。「湯水のごとく」という表現がある珍しい国だけに日本は水に贅沢だ。それでもいつしか水はガソリンより高くなりつつある。
 汚物を流すのに上水道を使う必要はない。「水道管の腐食の問題さえ解決すれば海水で充分」という筒井の意見をなるほどと思う。海水で流すシステムなら水を無駄遣いと感じなくてすみそうだ。「上水道下水道とはべつの中水道があるべき」ももっともである。今後どうなるのだろう。飛行機や新幹線等では「この水は飲めません」という「中水道」の感覚が定着しつつある。日常生活もああなるのか。


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2ちゃんねるに「ひとり暮らし」という板があるのを知った。そこにみんなで自分の光熱費や水道費等、いわばライフラインの金額を公開し合うスレがあった。まったく2ちゃんねるは奥深い。
 それらの数字を見ていたら、同じ男のひとり暮らしなのに、私はずいぶんと金額が高いことを知る。なぜなんだろうと読み進めた。電気代は一日中家にいる在宅仕事だから仕方ないとして、水道代がなんでこんなに違うんだろうと思ったら、みんな「風呂は二日に一回、湯船は使わずシャワーのみ」のように節約しているのだった。私は日に二回も満々と湯を湛えて風呂に入っているのだから差はでる。みんなに倣って私も節約生活をしようかと思ったが、しかしこれはキツいな、シャワーでは入った気にならん。それに、朝風呂昼風呂は質素な生活の中で数少ない贅沢だし……。

 インターネットで「水 節約」をキイワードに検索したら、「トイレはお風呂の水で流します。月の水道代が半分になりました」という主婦の意見があった。4人ぐらいの家族だったらその通りだろう。私の場合、今はひとり暮らしだからそんなことをしても効果はないか。でも一日に二回立てたりする風呂桶の湯を流すとき、もったいないなと思うのも事実。私の場合、入浴剤に「六一○ハップ」を使っているので洗濯には使えない。まあ洗濯なんて週に一回で充分だから使えたとしてもたいして意味はない。

 その種の努力による金銭的な節約は微々たるものだからどうでもいい。それは妻子が揃って家族になってから考えよう。ただそれ以前のもっと気分的なもの、資源を大事にしない自分の姿勢に反省が入るとまずいので考慮しないといけない。
 かといって風呂の水でトイレを流すようなことをして、みじめったらしいことをしているなと落ち込んだら元も子もない(笑)。ここのところが私にとっては肝腎になる。仕事上、ハイを保たないとまずいのだ。ここのバランスが難しい。

当面、財政的に無理なのだが、マンションの持ち主からは改造してもいいと言われているので、餘裕が出来たらこの最新型のトイレを導入してみたい。それとあれ、四六時中いつでも風呂に入れるヤツ、あれはいいなあ。調べたらけっこう高かった。安いのでも30万ぐらいするようだ。
 節水の話なのに風呂の話になってしまった。
 今のところ、歯を磨いているときでも、しっかり蛇口を閉めている。
 果たしてこの習慣は根つくだろうか。心がけてゆきたい。節約すべき節約とケチは違う。

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 シャワー初体験
 ということで昨日、シャワーを使ってみた。思えば父の死後再上京し、このマンションに引っ越してきてから8ヶ月、シャワーだけというのは初めてである。
 理由はもちろんシャワーのほうが風呂桶に湯を溜めるより使用水量が何分の一だとか知り、節水のために実験的にやってみたのだった。水量は五分の一ぐらいですむらしい。
 やっぱり風呂がいいやと結論。シャワーではしみじみせん。でも夏場はシャワーでやり過ごすか。いやいや夏こそ熱めの風呂に入った後のビールがうまいんだな。あれこそ湿度の高い夏を過ごす日本人の智慧だ。

 典型的日本人の風呂桶派であった兄は、単身赴任しているうちにシャワー党になり、そのご家族と暮らすようになってもシャワーばかりになったと兄嫁が言っていた。そうなった原因は風呂掃除のわずらわしさらしい。
 それはわかる。風呂掃除をしていると、せっせとそれをしている自分に気づき惨めになったりする(笑)。私は西洋式にバスタブの中で体を洗う癖が付いてしまったから(これは年に何ヶ月かのチェンマイ暮らしが原因である)風呂桶洗いはたいへんだ。

 しかしひとつの結論として、男のひとり暮らしの風呂掃除が面倒でも、当面私は「風呂桶派」で行きそうである。女房が掃除してくれる環境にもどってもシャワー派のままだった兄の感覚がわからない。まああちらは忙しい営業マンであるから私とは感覚が違う。深夜に酔って帰宅して明日も早いなんてときは風呂も面倒なのだろう。

 私がこれからタイでコンドを借りて何ヶ月も過ごすなんてことはもうないけれど、あるとしたら、やはりその第一条件としてバスタブは必須になる。チェンマイの高級なコンドでもバスタブのないところは意外に多かった。

 湯量を知る(5/4)
 バスタブの中でシャワーを浴びてみた。栓をしてだ。湯量を知りたかった。
 すると5分ほどのシャワーのあいだ、お湯を流しっぱなしでも浴槽の5分の1ぐらいだった。
 単純に使用するお湯の量は、「シャワー5回分で風呂1回分」となるわけだ。なるほどね。たしかに水の節約になる。
 1時間も入っている長風呂ならともかく、あっさりしたものだから、そう考えるともったいないことをしているのかと思い始めた。でもまあ上記したように「ささやかな贅沢」なので見逃すことにする。

5/4

 「清めの塩」問題

 京都府宮津市で以下のことが問題になった。
 葬儀における「清め塩」の風習を差別問題に結びつけ、廃止するよう呼びかけたら市民から反発があったのだ。ノナカヒロムの京都である。
 一読すれば、清めの塩という風習に関することのようでいて、じつはそうではないことがわかる。

 京都府宮津市が全戸配布する広報誌などで「葬式での清め塩は故人の尊厳を冒涜(ぼうとく)することにならないでしょうか」などと廃止を呼びかけたところ、市民から「行政が口出しすべきことなのか」と苦情が出ている。
「清め塩をすることは死者をけがれた存在とみなしている」というのが市側の言い分だが、宗教とかかわる葬式への“介入”に「政教分離に触れるのでは」と指摘する専門家も。塩論争はさらに波紋を呼びそうだ。

 同市教委は平成16年、市民の意識調査で「葬式には清め塩を出す」とした人が56・6%に上ったことが「意外に多かった」(市教委)として、“啓発が必要”と判断。
 昨年6月から市広報誌(毎月約8600部発行)に「人権の小窓」というコーナーを設け、「今まで親しんできた人を、亡くなった途端に、けがれた存在とみなすのは人間の尊厳を冒涜することにならないでしょうか」と否定的な見解を示した。
 さらに、市内の僧侶や葬儀関係者に意見を聴いたうえで、ほぼ同じ内容のチラシを作り、昨年秋に全戸配布。火葬申告に市役所を訪れた市民に慣習を廃止するようアドバイスも始めた。
 申告の際に配られる専用チラシでは「清め塩の風習をなくしましょう」と、廃止を呼びかけている。市民から市役所に抗議の電話も。
 同市内の男性は「日本人に受け継がれてきた風習で、市役所が口出しすることではないと思う」と批判している。同市教委は、「市民に因習にとらわれない生活を勧めたい。廃止を強制しているのではなく、あくまで再考のきっかけとなれば」と説明している。(産經新聞関西版より)



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 神道側からの意見
 神道が熱心に意見を述べているのが興味深かった。私は以下の太字にした部分の説明で充分だと思う。しかしどうやらこれ、佛敎との対立もあるらしい。

清め塩http://jinja.jp/jikyoku/kiyomesio/kiyome1.html
「清め塩」「けがれ」ってなに?

 神道の場合、葬送にともなうけがれとは、死にいたる事故や病気などの経緯や、そこに発生する悲しみ、苦しみ、さみしさなどを禍津毘(まがつび)の禍事(まがごと)と考えます。そして私たちの祖先はそれをはらいやるひとつの形として塩をつかってお清めをする、これが民族的な習慣・習俗として無意識のうちに続けられてきたのです。


 「けがれ」とは「気枯れ」ともいわれています。すなわち、人が亡くなって悲しみ嘆き、「気」が「枯れてしまった」状態のことをいいます。ですから喪服を着て喪に服するわけです。しかしいつまでも喪であるわけにもいきません。次第に元の状態にもどさなくてはなりません。そこに清浄な状態にもどるための「清め」があるのです。「清め塩」を用いるのもその一つの方法です。


 日本古来の神道では、死が穢(きたなきもの)であるとするのは、両墓制など考えてみても、まぎれもない事実でしょう。ただこれは、腐敗する遺体そのものに対しての感覚だったのです。葬儀に関わったり、墓地に行った後、塩で清めるという行為の本質は、これらの穢を祓うことであるのに違いはないでしょう。神佛を共に敬う日本人は、神道と佛敎(日本佛敎)を厳格に区別していません。これは、日本教とでもいえるべきもので、その寛容性が最大の特長です。その日本教の中に、清めの塩があるのです。人々は、神道を意識することなく清めるのであり、習俗といえましょう。

 佛敎関係者はこのことをどう考えているのでしょうか?



 佛敎関係者の意見
 ということで、佛敎関係者にも意見を求めている。
 

清め塩
http://www.jinja.or.jp/jikyoku/kiyomesio/kiyome2.html
「清め塩」に対する佛敎関係者の意見

今回の「清め塩」を廃止するというのはある佛敎のある宗派からのものです。

そこで、私たち神社オンラインネットワーク連盟では、数名の佛敎関係者に「清め塩」に対する意見を聞いてみました。ただ、佛敎は多宗多派であり、また人によっても考え方は異なることはご承知ください。

清め塩の件で、知り合いの○○宗のお坊さん(高校の先生)に聞きました。

「確かに、葬儀の中で塩を使う檀家さんも少しはあるが、何故塩を使うのかね?どこにその必要があるのかね?死は我々の生活の一部であり、生きることの大切さを再認識する好機会だよ。死を生と区別してとらえることは間違っているよ。ましてや、死を穢れたものとはゼッタイに考えない。だから、清める必要はまったくない。これは○○上人の教えだよ。○○上人は阿弥陀如来はゼッタイであると説いたのだ。それ以外の考えは迷信以外のなにものでもない。読んで字のごとく、人々を迷わすだけだ。くだらない風習や言い伝えや占いや加持祈祷は人々を迷わすだけだから、信じてはいけないと○○上人は説いたのだ・・・・」

臨済宗天龍寺派N師

粗供養に清め塩がついている場合は、僧侶や寺族の葬儀であってもそのままお渡ししている。業者につけろともつけるなとも言わない。また、儀式の際には神社と同じように洗米、清酒、塩をお供えする。佛式の地鎮祭では必ず塩をまいて清めている。清め塩や小刀を迷信だとか死者を冒涜する行為であるとは思われない。神道が起源の風習であっても我々は尊重している。臨済宗各派ともおそらく同じ見解になるだろう。

天台宗N院副住職

天台宗の儀式次第に清め塩はない。小刀は必ず使用する。僧侶寺族の葬儀の場合は清め塩はつけないが、檀家さんにああせよこうせよと指導する問題ではない。些細な問題を迷信だとか指弾するのはおかしいと思う。他宗教を批判するようなことも問題だが、行政が「迷信」とするのは宗教に対する介入で、さぞ不愉快なことでしょう。

浄土真宗高田派A寺副住職

僧侶は使いませんが、檀家にそういうこと(使うなとか迷信だとか)は言っていない。浄土真宗各派すべてが「清め塩」「小刀」を排撃しているととられると心外だ。そもそも葬儀は地域差と宗派の差がある。佛敎本来云々というとどれもおかしいことになる。真宗の風習として使わないだけである。○○派も上の方はそのような内容には関与していないと思う。文面をみると青臭い。一部の僧侶が若さにまかせて書いたのだろう。例えばもし日蓮宗のHPに「念佛は迷信で唱えると無限地獄に墜ちる」と書いてあったら、我々だって不愉快だ。高田派ではその手の僧侶がいて周囲に迷惑かも知れないので公式HPは開設していない。抗議されるのが宜しいと思う。ましてや行政がそのような冊子を配ることは変である。

福岡県人権啓発センターの冊子は明らかに一宗一派に組したものです。公費で発行しているのですから、明確な「憲法違反」でしょう。


ご参考までに、『間違った葬送文化を改めるために「清め塩やめます」』という「佛のしおり」を出している葬儀社の意見を掲載します。

やっと葬儀社から電話がありました。相手は担当とされる専務です。

40分ほどはなしましたが、以下ご報告いたします。

葬儀社)清めの塩は明治初年の神佛分離にさいして、佛敎側に心ならずも残ってしまった風習であるから、それをもどす。

私)外来宗教の佛敎がそれまでの日本の葬送観を吸収して今日の日本佛敎が作り上げられたのに、ひとつひとつ外していくのなら、お盆から家の佛壇まで無くなってしまではないか。

葬儀社)いざなぎ・いざなみ神話で蛆(ウジ)がわく死体の場面がある。近代まで土葬であったことから、伝染病などの衛生上から塩をつかってきた。こんにち火葬となり、衛生的な心配が無くなっている。また、こんにちでは特に死を必要以上にまがまがしいものと思っている。死霊とか悪霊とかいう。死は人生の最後の儀式であるからもっと厳粛であるべきで、塩をつかってそれらの悪霊などを追い払うなどという「迷信」は必要無い。

私)それでは土葬の時代は、体を塩づけにしてきたのか。あなたたちこそ、死体となった故人の尊厳を冒涜しているのではないか。手紙にも書いたように、死によるけがれとは、物理的な意味での死体ではない。死へ導いた人知を超えたもの、さらに死によってうまれる悲しみ・苦しみなどの、気持ちをおとさしむるものなどをいう。ましてや悪霊などと最近のカルト趣味そのものだ。送る側と送られる側、双方をけがれからはらう形から、塩をつかってきたのだ。これが日本人の葬送文化ではないのか。

葬儀社)(どうして神職に相談しなかったのか、に対して)

神道には高級魂と低級魂があるというではないか。山蔭某とかいう神道家の本を読んだ。

私)新宗教と日本人古来からの霊魂観をいっしょにしてもらっては困る。そんなこと言っていたら、麻原彰晃に行き着いてしまう。

上記の事以外は、上のいざなみいざなぎからはじまって○○上人、佛敎、儒教、インド・・・こんなことばかり。

彼の新聞での発言に対して、○○宗のだれかに言われたのではないかというと、「いやそんなことはない」。宗派を問わずなんていってるけどキリスト教式でも「佛のしおり」を配るのか、とたずねると、「いえ、お客に合わせます」というのです。「間違った葬送文化を改める」としていながら、どうして商売で使い分けするのでしょうね。



しかし、清めの塩を廃止するように呼びかける熱心な一派が佛敎某派であったのは確かでも、さらにその基本は部落問題のようである。

  「清め塩」廃止呼びかけのチラシやめる 京都府宮津市
 京都府宮津市が葬式の「清め塩」の廃止を呼びかけている問題で、同市は2日、全国から寄せられた多数の抗議を受け、住民の火葬申告の際に「清め塩の風習をなくしましょう」とするチラシを手渡すことをやめた。また、担当する市教委は同日、市ホームページ(HP)にこの件の今後の対応についての文面を載せ、今後、啓発の継続も含め内容を見直すことを明らかにした。

 同市は昨年6月の広報誌と同10月の全戸配布チラシで廃止を呼びかけ、火葬申告時に「迷信に過ぎない『清め塩』の風習は、今後、廃止していこうではありませんか」とのチラシ配布を継続していた。

 同市教委は「これほど抗議が来るとは思わなかった。市民への説明と啓発方法の再検討が必要だ」として、2日午後、この件についての説明文をHPに掲載した。その中で市教委は「市民が何の疑問も持たずに、それが当然と思い込んでいる人たちが多いことから、このような風習にとらわれない生活をとの願いで啓発しました」などと説明した


 さらに同市では、市民課で配布していた火葬申告の際のチラシをすべて回収した。「清め塩の啓発は、中止も含めて見直す」としている。

 産経新聞の取材に対し、同市の横山光彦教育長は今回の決定について、「頂いた抗議を反映させた」と説明。「清め塩は宗教に起因するものではなく、日常にあるおかしな因習の1つだと考えて啓発した」と改めて述べた。
(2006/5/3)──産經新聞関西版より


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 私には、この京都府宮津市の問題は、そういう問題が深刻な関西の、いわば対岸の火事だと思っていた。
 ところがそうではないと知る。地元(今は厳密にはもう違うけど)の品川でも狼煙は上がっていた。



 品川区のパンフレット


 う~む、これはなあ、ちょっと牽強付会がすぎるんじゃないの。
 私は肉というものをスーパーでのパックでしか知らない世代を問題だと考えているし、お米や野菜を食べるときお百姓さんありがとうというのと同じように、家畜を処理してくれる人たちに心から感謝している。
 でも清めの塩から「死に関わる仕事を特別視したり、差別うんぬん」にもってゆくのは、いくらなんでも無理がある。というか不自然だ。このパンフを読んで、「えっ? なんでなの、なに言ってんの?」と、「清めの塩」が「職業差別」に繋がっていることが理解できず、戸惑うのが自然だろう。

 品川区には家畜処理場がある。そのことからこの種の問題には熱心であるらしい。しかしこれって熱心の方向がねじれていると思うが。
 清めの塩からケガレとなり、差別はいけないともってゆく論法はどうなのだろう。

 京都府宮津市では、さすがに行政の強引さが民衆の反対で撤回されたようだ。まだ救いはあるか。
 しかしこういうことを本気でやっているのだろうから困ったものだ。こんなに品川区役所が病んでいるとは思わなかった。なんだか品川を離れてよかったと思えるようになってきた。

 言語──五体満足

5/31
●絵画盗作騒動

「2ちゃんねるニュース速報」より
1 名前:どあらφ ★[] 投稿日:2006/05/29(月) 16:56:49 ID:???0
盗作疑惑:洋画家・和田氏の受賞作、伊画家の作品に酷似

今春の芸術選奨で文部科学大臣賞を受賞した洋画家の和田義彦氏(66)が、主な受賞理由となった昨年の回顧展「ドラマとポエジーの画家 和田義彦展」で、知人のイタリア人画家、アルベルト・スギ氏の作品に酷似した絵を複数出品したとして文化庁が調査していることが分かった。

同庁によると、「盗作」を指摘する匿名の投書が4月に社団法人日本美術家連盟にあり、今月半ばには同庁にも寄せられたことから調査を開始。
和田氏は「1970年代にイタリアに留学して以来、スギ氏とは長い付き合いで、留学当時は一緒に習作やデッサンをして芸術的な影響も受けたが、盗作ではない」と説明したという。また、職員をイタリアに派遣し、スギ氏からも話を聞いたところ、「そういう作品を作っているとは知らなかった。盗作だ」と話しているという。
酷似している作品は、同展のもので数点あり、同展以外のものも含めると十数点に上るという。

同庁芸術文化課は「絵が似ているのは事実。両者の意見を確認し、どう見るかの判断を専門家にしてもらったうえで対応したい」と話している。

和田氏は三重県出身、東京芸大大学院を修了。美術団体「国画会」に所属している。


アルベルト・スギ氏の作品

和田氏の作品?


 世間的な話題にはあまり興味はないが、これは看過できない問題。この二作品の画像は2ちゃんねるからもらってきた。テレビでもっと何点もの作品が並べられていたが、色違いなだけでまったく同じ。疑惑以前の盗作確定。というかもう「模写」の世界。

 私は盗作というのが嫌いで嫌いで、なにがあろうと絶対に許せない。
 他の項目で書いたことと重なるが、たとえばチカダハルオというのは今、とても優れた音楽評論家であるらしい。だが私は彼が他人の曲を真似ては自作として売っていた(いわゆるパクリ)時代を知っているから、ある種そういう盗みの技術があるような人だから音楽評論はそれなりにおもしろいに違いないと思っても、どうにもそういう人間の書いた文は読む気になれない。

 カトウカズヒコというのも、フォーククルセイダーズからサディスティック・ミカ・バンドまで、日本の音楽シーンをリードした一面における才人ということも可能だが、作品は盗作だらけだった。

「僕のおもちゃ箱」のようなメロディからアレンジまで完璧に一緒で、おまけに歌詞は訳詞という完全な盗作を、平然と自分の作詞作曲作品として出す感覚は正気とは思えない。
 当時、田舎の高校生だった私はそんなことは知らない。「僕のおもちゃ箱」という発想も、歌詞もアレンジも、なんてすばらしいんだろうと思って、楽譜を見つつ奏でたものだ。
 ラジオからまったく同じメロディ、アレンジの外国の曲が流れてきたときは、呆れて口がきけなかった。これは当時の気鋭の人が、いくらなんでもひどすぎるだろうとアメリカのマイナーな曲であった本歌を流したのだった。

 そうして知ってみれば、「悲しくてやりきれない」も朝鮮の名曲「イムジン河」をテープで逆回転させたメロディだし(テープ逆回転はフォークル時代からカトウの得意技だ)、「サディスティック・ミカ・バンド」というバンド名もジョン・レノンの「プラスティック・オノ・バンド」の猿まねだし、このバンドのヒット曲「サイクリング・ブギ」も完全盗作だし、全身盗作まみれの詐欺師でしかない。

 ただ、オオハシキョセンやセキグチヒロシのテレビ番組がすべて外国からのパクリであるように、そういう形ですぐれた外国作品を日本に紹介し、業界を刺激する人は必要であるとは思う。要は本家本元をきちんと紹介してやるか、「おれが考えた、おれが作った」と大嘘を吐くかの違いである。ここに名を挙げている人はみな「おれがおれが」の人ばかりだ。キョセンというのはジャズ評論から麻雀、将棋、競馬、司会まで、実にうまく時代をくぐり抜けた。今だったら通用するものはなにひとつない。

 レベッカというバンド、ヴォーカルのノッコというのはそこそこ魅力的だったが、あのマドンナの「マティリアル・ガール」とまったく同じ曲をオリジナルだと称してやられたのでは認めるわけには行かない。

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 どんな藝術も先人の模倣から始まる。
 私なども若い頃、ギターをかき鳴らしていい曲が書けたと満足していたら、のちにバッハやモーツァルトの作品にまったく同じメロディがあると知って赤面したのは一度や二度ではない。こういうのはいつか聞いた好きなメロディが体の中から出てくるのだろう。それをオリジナルと勘違いしてしまうのだ。

 たまに雑誌がそういう盗作を特集したりする。それらの中には、明らかな盗作から、似ていると言えば言えるが、でもそこまで追求したら音楽なんか出来なくなっちゃうよ、というものまで様々である。
 しかし上記の例はそんなレヴェルの物ではない。細部までまったく同じなのだ。意図的な盗作である。

 レベッカの場合はチカダのように何十年も前の地味な曲からこっそり盗んできたわけではなく、大スターマドンナの曲がほとんど同時に流行ったようなものなのだから、誰も指摘しなかったのかと今でも不思議でならない。レベッカとマドンナの両方を聞くファン層がいたはずである。

 レベッカやカトウと比べると、チカダは泥棒としては用心深かったと言えよう。盗作も潔く認めている。しかし泥棒の居直りを「潔く認めた」なんて言いかたはおかしいか。殺人犯を男らしいと言うようなものだ。

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 確信犯──ところでいま、思わず彼らのことを「確信犯」と書きそうになった。確信犯とは「確信をもっている人が行う行為」であって、こういう連中が悪いこととわかっているのにやることを表するのではない。これらの例に使ったら誤用になる。世にあふれているが。

かくしん‐はん【確信犯】
道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などにみられる。
(『広辞苑』より)


 この誤用の確信犯の代わりになる適切な表現はないものだろうか。ないから誤用されている。

 憮然という言葉が誤用され続け、今じゃ本来の「しょんぼりする」よりも誤用の「ブゼンとする=ぶすっとふてくされる」の方が優勢になってきたのも、それに匹敵するいい表現がないからだろう。

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 今回のこのワダという人がやったことはカトウカズヒコレヴェルの最悪の盗作である。一切の言い逃れは通用しない。コピー、模写の世界だ。
 恥ずかしい。「日本人とはこんな人種だ」と世界に喧伝され、伝えられる。恥ずかしい限りである。
 こういうのもまた国賊である。

 しかしこの人、へんに賞さえもらわなければよかったようだ。
 識者が語っていたが、スギ氏の作品は1点100万円程度、ワダのは20万円ほどらしい。賞をもらって目立たなければ、スギ氏の作品をコピーしつつ、そこそこの評価を受けてしあわせに?暮らして行けたのだろう。スギ氏の作品がある限り、彼の筆が枯れることはなかった。なにしろ真似ればいいのだから。
 盗作はよくないことだ。だがそれが世に出なければ、無名人の習作として許容される。
 でもたった20万とはいえワダの作品を嬉々として飾っていて、スギ氏の作品を知ったらしらけるだろうな。

 なんともいいようのない気持ちにさせられた事件だった。まだ決着はついてないのか。解決はこれからである。
 外国在住で絵をやっている人なんか、憂鬱になったことだろう。
 友人の画家、Tさんの意見を聞きたいところである。

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 結局、文部大臣賞とかの取り消しで片が付いたみたいだ。
 しかしこの人、30点ものまったく同じ作品をズラリと並べられても、それでも盗作でないと最後まで雄弁に語っていた。
 東京芸大と絵描きというのは、私の劣等感を刺激する二大要素なのだが、しみじみ白けた事件だった。
6/16


×日銀総裁が村上ファンド?×


福井日銀総裁、村上ファンド設立時に1000万拠出

 日本銀行の福井俊彦総裁は13日、参院財政金融委員会に参考人として出席し、証券取引法違反(インサイダー取引)容疑で逮捕された村上世彰(よしあき)容疑者がファンドを設立する際に、個人として1000万円を拠出(運用委託)していたことを明らかにした。

 数か月前に解約を申し入れ、6月末で清算されるとしている。

 福井総裁は村上容疑者との関係について「98年に富士通総研の理事長に就任した直後から(富士通総研に)出入りしていた村上氏と知り合った」と述べた。

 1999年に、村上容疑者がファンドを設立することを知り「お金を集める自信がないと言うので、富士通総研の有志数人で、サラリーマンとしては負担感の重い1人1000万円を(ファンドに)拠出した。彼の当初の志を激励、サポートする意味だった」と、拠出の経緯を説明した。

 資金の拠出をした理由については「通商産業省(現経済産業省)の職をなげうって先頭を切り開く仕事をすることはたいへん評価することだと私も感じた」と語った。

 拠出した1000万円の運用益に関しては、「年2回の決算だが繰り延べ投資している。帳簿上の利益は出ていて、これはきちんと確定申告で納税している。たいした金額ではなく、巨額にもうかっている感じはしない」と説明した。

 与謝野金融相は、「投資ファンドへ拠出していて良いのか」との質問に対し、「総裁就任が予想される前のことなので、拠出自体は問題ない」と答弁した。

 福井氏が日銀総裁に就任後も拠出を続けていたことについては「総裁に就任される時に、それをどう始末されるかは、福井氏ご自身の判断であると思う。(拠出の継続が)特に不適切だという根拠は、私には見いだせない」と述べた。日銀は福井総裁の資金拠出について、「内部の服務ルールに違反していないと理解している」と説明している。

(2006年6月13日13時44分  読売新聞)

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多い年で利益は数百万…
村上ファンド拠出で福井総裁

 日本銀行の福井俊彦総裁は16日午前の衆院財務金融委員会に参考人として出席し、「村上ファンド」に自らが1000万円の資金を拠出していた問題で、99年に運用委託契約を結んで以降、多い年で年間数百万円の運用益が出ていたことを明らかにした。

1000万円の元本が2005年末でどこまで膨らみ、それまでの運用益がいくらだったかについては、20日までに国会に資料を提出する考えを表明した。

 日銀のゼロ金利政策によって、預金者が1000万円を普通預金に預けても年間で多くても数千円の利息しか受け取れないような状態が続いている。野党側は「超低金利下で預金者はわずかな利息しか得られていなかった」などと福井氏への批判を強めているだけに、今後、波紋を呼ぶ可能性がある。

 福井総裁は答弁で、1000万円の運用委託で得た年間利益について、「非常に幅があるが、少ない時には数十万円単位、多い時で数百万円単位だった」と説明した。福井総裁は、毎年の納税額についてはこれまでに、「数十万円」としていたが、運用益に関しては具体的な言及をしてこなかった。

 福井総裁は今年2月に村上ファンド側に解約を申し出て、6月中に清算されると説明している。

 また、福井総裁は、野党などから出ている辞任論について、「各方面からの批判をしっかりと受け止め、日銀総裁としての職責を全うして国民の信頼を得て参りたい」として、辞任する考えがないことを改めて示した。

 この日の委員会では、野党だけでなく、与党側からも、日銀幹部の資産公開や資産運用ルールの見直しを求める意見も相次いだ。

 このため、福井総裁は「時代の要請に即した正しいルールを探して打ち立て、きちんと示していきたい。規律を自ら強める方向で努力したい」と述べ、日銀の内規の見直しを早急に検討する考えを表明した。ただ、具体策については言及を避けた。

(2006年6月16日12時26分  読売新聞)

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私はこういう問題に関して目くじらを立てる方ではない。村上のようなのが百億儲けた千億儲けたと聞くと、そういう儲け方もあるのだろうと、金儲けの下手な貧しい我が身を嘆くだけである。かといって、ああいう右から左へ流すだけで大金を儲ける方法をうらやましいとか、自分もマスターしたいとは思わない。私が尊敬するのは食料を作ってくれるお百姓さんであり、食器のような必需品を作る工芸人である。
 まあようするにこういう人たちのことはどうでもいい。本当はもっと怒るべきなのかも知れないがあまり関心がない。

 しかしいくらなんでもこの事件はおかしいだろう。出資したのは日銀副総裁の時である。自分の立場というものをまったく理解していない。その間、休憩の何年間があり、総裁になった今回、発覚したので数ヶ月前急いで引き上げたらしい。
 昨今の日本人の精神的堕落を象徴する出来事だ。

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 私がいま最も不愉快なのは、この人、辞任しないと総裁の座にしがみつこうとしていることである。
 あのナガタ議員のみっともなさと同じだ。
 入行したときからの悲願である総裁という座にやっとたどりついたのに、たかだかその程度のミスで、誰がこの栄光の座を降りるものかと思っているのだろう。この人にとっては「その程度のミス」なのだ。
 私の親戚にも日銀に入ったのがひとりいた。彼は東北大首席卒業だったが、早々と東大卒でないと総裁には成れないと悟ってレースから降りてしまった。選ばれた行員たちの目的は、ただひとつこの栄光の座である。エベレストの頂上だ。

 この男も、やっとそこに到達した。この男にとっては「たかが一千万を村上ファンドに預けていた程度で、なにを大げさに」なのだろう。誰がこの栄光の座を降りるものか! だ。

 やった事自体、自分の立場を自覚していない最低の行為である。総裁どころか、日銀行員ですら許されないことだと思う。民間銀行ではないのだ。立場がある。なのにこの人はそのトップである。
 しかし古来より日本人は「水に流す」。この辺が朝鮮や支那とは違う。
 日銀総裁が民間の村上ファンドに金を預けて利益を得ていた。言語道断である。だが潔く辞任すると、その引き際にむしろ拍手を送ったりする。その罪状をすぐに忘れる。それが日本人だ。日本人のはずだった。
 なのにこの男、辞めない。国会で追及され、日本中に恥を晒しつつも、総裁の座にしがみつこうとする。なんとまあ。

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 これってアメリカだったら、日本的な感覚とはまた別に、白人獨自の「責任」という観念が強いから、すぐに辞任だろう。しがみつこうとしても周囲が許さない。それだけシビアだ。
 ところが今の日本では、首相を始め閣僚も、「よいことではない。迂闊だった。責められて然るべき。しかし辞任までは……」と、旧知のこの人を庇っている。これはないよなあ。

 日本という国が、国家としての品格をなくし、かといって欧米のいいところを吸収したわけでもなく、どっちつかずの醜い国になってしまったことを顕す象徴的な事件だった。
 なんとかこいつを辞任に追い込めないのか。国会終り? 出来ないの?

 まあ辞任に追い込んだとしても、私の不快感は消えない。辞めさせたことに喜べない。
 なにしろ最大のショックは、こういうことをしても「やめない」とこの男が言ったことだからだ。
 今からやめたとしてもなんの意味もない。ひどい国になった。こんな言いかたが大嫌いなのだけど、ひどい国になった。ヒューザーの小嶋社長とか、あんなのとは次元がまた違うのだ。


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【附記】「ど素人発言」──6/23



 6月22日の閉会中審査の応答で、この人、村上ファンドへの出資に関して「私はど素人ですので」と発言した。すかさず野党から「そんなはずないだろ!」とヤジが飛ぶ。当然だ。
 民間の会社に日銀総裁(出資当時は副総裁)が出資し、庶民が銀行に金を預けてもほとんど利子が付かない時代に、多額の利益を得ていた。よくもぬけぬけと自分をど素人と呼べるものだ。またほんとにど素人なら、そんな人に日銀総裁をやられていてはたまらない。

 審査前、異様に腰が低く、あちこちの関係者に頭を下げまくる。90度に腰を曲げていた。なんとしてもここを乗り切ろうという姿勢が見え見えである。答弁の時には数人の日銀行員がぴたりと後ろに張り付き、発言のたびに耳元でささやいてミスのないよう援護する。
 さすがに民主党議員からそれを指摘されてこれらの行員は途中退場となった。

 今朝のみのもんたのワイドショーでは、八年前、不祥事があって日銀副総裁をやめるときに、この人が部下向けに作った文(標語?)が紹介されていた。日銀行員は民間のそのようなものと関わって疑われるような行為をしてはならないという内容である。なんという皮肉。
 副総裁から一頓挫あり、雌伏の後に宿願の総裁に成れた。「こんなことで辞めてたまるものか」の怨念(?)が全身から炎(ほむら)立っている。

 とにかく、この問題をなんとかのらりくらりと乗り越えれば、念願だった日銀総裁の椅子にしがみついていられる。必死だ。ここまで醜い日本人を見るのもひさしぶりだ。ナガタの場合は若さ故の愚かさ、軽さが見えたが、こちらは老醜である。
 こいつ、このまま逃げ切るつもりか。目が離せない。

日銀総裁投資問題:改めて辞任否定 参院財政金融委

 参院財政金融委員会は23日午前、日銀の福井俊彦総裁を参考人として招致し、福井総裁が村上ファンドに1000万円を投資していた問題について閉会中審査を行った。福井総裁は村上ファンドへの投資をめぐり「私の思っていることと一般国民の皆さんが思っていることに非常に大きなギャップがあった。ギャップの源を私が作り、国民の怒りを買ったことを幾重にもおわびしたい」と陳謝した。そのうえで「全身全霊を傾けて職責を全うしたい」と、改めて辞任を否定した。同日は5人の委員が福井総裁に対し、質疑を行う。

 22日の衆院財務金融委員会に続く閉会中審査。冒頭、日銀総裁はこれまでの経緯と報酬の自主返上などの対応を説明した。質疑では、峰崎直樹氏(民主)は市場からの信頼を失ったと指摘し、福井総裁は「その点は心に、最も痛切に受け止めている」と述べた。峰崎氏は「一度失われた信頼は取りもどせない。日銀のためにも責任をとられるべき」と辞任を迫ったが、福井総裁は「うそ偽りなく(批判を)心に受け止め、厳正に対処したい」と答弁した。【平地修】毎日新聞 

 次の【附記.2】では「辞任」と書きたいものだ。


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●矛盾ではないかという宮嶋さんの指摘












6/20


 結論はまだ、高裁へ差しもどし!

★二審の無期懲役破棄、差しもどし・光市母子殺害事件で最高裁

・山口県光市で1999年に母子が殺害された事件で、殺人などの罪に問われ、1、2審で無期懲役判決を受けた犯行時18歳少年の被告(25)の上告審判決が20日、最高裁第三小法廷であった。
 浜田邦夫裁判長(退官のため上田豊三裁判長代読)は二審判決を破棄し、広島高裁に差しもどした。差しもどし審で改めて死刑判決が出る可能性が高まった。(一部略)

■ソース(日経新聞) http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060620AT1G2001F20062006.html

※事件概要と過去の手紙
・元会社員はアパートで主婦、本村弥生さん(当時23歳)を暴行目的で襲って殺害。
 遺体を陵辱後、母の遺体に泣きながらはって寄ってくる長女夕夏ちゃん(同11カ月)を持ち上げて床に叩きつけ、それでもなお母の所へ来ようとするところを絞殺。財布を盗んだ。
 山口地裁は(1)犯行時は18歳と30日で発育途上(2)法廷で涙を浮かべた様子から更生 可能性がある(3)生育環境に同情すべき点がある、などから無期懲役を言い渡した。

・元会社員が出した手紙-「無期はほぼキマリでして、7年そこそこに地上に芽を出す」「犬がある日かわいい犬と出合った…そのまま『やっちゃった』…罪でしょうか」

・(被害者に対して)『ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。』

※安田弁護士の意見
 「強姦目的じゃなく、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちで抱きついた」
 「(夕夏ちゃんを殺そうとしたのではなく)泣き止ますために首に蝶々結びしただけ」
 「(検察は)被告を極悪非道の殺人者に仕立て上げ、死刑にしようとしている」"


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 今日は朝からこの判決が出るという午後三時を意識していた。
 日テレの「ザ・ワイド」をつけたままにしておいたが、仕事をしていたので、やったのかどうか(確実に速報したと思うのだが)見逃した。
 結局五時からの各局のニュースで見た。

 高裁差しもどしは有力だったが、それだとまた長引く。なんとか最高裁で死刑判決が出ないものかと願っていた。それこそ手を合わせて願っていた。
 しかし結果は高裁差しもどし。これでまたこの安田という弁護士、最低男はなんやかや汚い手段で先延ばしを狙うだろう。

 テレビによると、高裁での再審は早くて半年、おそらく八ヶ月から十ヶ月で結審するのではないかとのこと。もちろん死刑だ。今回の差しもどしは「無期懲役にした高裁の判断はおかしい。死刑にすべき」と解釈されている。死刑求刑だ。すぐにこの安田が上告するが、今回の最高裁の判断は早く、二、三ヶ月で結審すると言われている。なんとか一年以内にこの鬼畜生の気狂いを死刑にすることが出来そうだ。

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 私はキンパチセンセイとか言うテレビが大嫌いなので一切見なかった。中でもサヨク脚本家の書いた有名なセリフらしい「おまえたちは腐ったミカンじゃない」という発想が嫌いだった。
 腐ったミカンなのである。腐ったミカンは存在する。それが問題なのだ。腐ったミカンを重視し、腐ってないミカンまで腐らせるのがサヨクの国家崩潰の手法だ。腐れミカンは見つけ次第、処分せねばならない。そのことを徹底しているのがサヨク国家だ。

 勉強の進行基準も腐ったミカンにする。それによってまともなミカンまで腐り始める。正常な子供の教育を願う親が私立学校に向かったのは当然だった。

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 日テレに生出演している本村さんを見た。
 しかしまあ毎度のことだが、テレビキャスターの紋切り型の質問は不愉快だ。美人の笛吹キャスターは嫌いではないのだが……。
「犯人にいま伝えたいことは」とか、思考しての質問なのか。本村さんはどんな形であれより広く事件を知ってもらい、輿論の協力を得たいと願っているから、そういう質問にさえ叮嚀に応えていた。

「この七年間、本村さんをいちばん支えてきたものはなんですか?」
 これなんかもずいぶんと無神経なんじゃないか。

 本村さんはこれにも真正面から応えた。
「妻と娘の最初の発見者は私でした。私は茫然と立ちすくむだけで、変わり果てた妻を抱きしめてやることが出来ませんでした。娘がいないとすぐにわかりましたが、それを探すことすら出来ませんでした。そういう不甲斐ない自分を……」と。

 奥さんは絞め殺されたあと、死姦されたと言われている。おそらく裸のまま、目を剥いた悪鬼の形相だったのではないか。本村さんはそれを見て立ちすくんだ。11ヶ月の娘さんも絞殺だ。しかも投げ捨てられている。これまた鬱血し無惨な遺体だったことは想像に難くない。本村さんは、立ちすくんでしまった自分を責めた。

 本村さんは、この質問の答として、「十代なら、こんな形で人を殺しても死刑にはならない、そんな前例を残したくなくてがんばってきました」と語った。二十三歳の若い父親が、無念を込めた七年を思ったら涙が出た。悔しかったろうと思う。こんな気狂いがのうのうと生き延びる人権社会、それを庇おうとする人権弁護士、それすらも本村さんは「安田様は」と敬称で語った。ひとつひとつ言葉を選びつつ、本村さんは語る。この七年で人の何倍もの時間を生きたろう。
 また笛吹がいかにもテレビキャスターらしいひどい質問をしそうだったのでここでテレビを消した。

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 昨日も今日もこの殺人鬼の父親がテレビに出ている。モザイクが入り、音声を替えているが、あっけらかんとしたものだ。
「本村さんに直接謝罪したか」
「いや、していない」
「もうしわけないと思わないのか」
「思っている」
「ならなぜしないのか」
「それは、まあ、私の中に、せねばならないと思いつつ、したくないという気持ちがあったからでしょう」
 そのあと、てめーの人殺し息子とのことをほのぽのムードで語った。まったく罪の意識がない。

 思えば連合赤軍事件の時には、息子の罪を恥じた父親が自殺した。
 賢い人が賢い子を生んだが、子は賢いが故に思想的に偏向し極端な行動に走ったという事件だった。
 父親はその責任を取って自害した。

 今回の場合は、本来親になる資格のない牡ゴミが牝ゴミ(狂犬が中一のとき自殺)と一緒になって子ゴミを作ったが、その子ゴミのやった凶悪犯罪に対して、ゴミ故に自覚がないということだ。
 息子共々このオヤジも死刑にしろ。
 やはりこういう親からああいう餓鬼は生まれる。気狂いが気狂いを生む。

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 この気狂いを殺さない限り、本村さんはあたらしい人生に踏み出せない。
 一日も早く死刑判決が下ることを願う。

 明日は朝のみのもんたの番組からこの裁判の特集だろう。
 テレビは見ない。
 とても気楽に見られるものではない。

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《後日見つけたニュース》

・「もう一度裁判があるなら、その機会を大切にしたい」。
 広島拘置所にいる被告の元少年(25)は20日夕、接見した知人から判決を知らされ、そう語ったという。
 「自分のしたことは死んでも償えることではないし、謝罪しても許されることではない」。
 判決前の接見で、被告は話した。それでも「たとえ償いきれなくても、生きていることが許されるのなら、償いの気持ちを表し続けていきたい」と思っているという。

 母親が自宅で自殺したのは中1の秋。高校時代には、仲間からズボンのポケットに花火を突っ込まれてやけどを負った。
 事件を起こしたのは卒業から2週間後。「ずっと、心の奥底で友達や本当の家族を探していたように思う」。知人への最近の手紙には、そんな言葉もあった。

 拘置所で知り合った男性への手紙に、「ありゃーちょーしづいてる」と、遺族を中傷する言葉を書いた。裁判の過程で発覚し「全く反省していない」と強い非難を浴びたが、2審判決は「知り合った相手のふざけた手紙に触発された面もある」とも指摘した。
 http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20060621k0000m040168000c.html


 ここに来て生きながらえたくなってきたか。ふざけるな。腐ったミカンは廃棄すべし。

06/6/27
 ○ 力士がいま腹立つこと ○ 



「NHK大相撲中継 7月号」に、アナがインタヴュウした「最近腹立つこと」の特集があった。普段着のラフな格好(といっても着物だが)のカラー写真と共に、一人一ページで、力士それぞれのコメントが200字ほど載っている。
 すなおに驚き、感動したのは、多くの力士のそれが「最近の犯罪傾向」に触れていたことである。これは「感動」ではなく、土俵に全力を傾けるべきエンタテイナのお相撲さんまでもがそう嘆くほど今の日本が下落した国になったと憂うべきなのか。

 ほとんどの力士が「腹立つこと」として、「幼児殺人」「親殺し、子殺し」に憤っていた。雅山は「少年犯罪で実名が晒されないのはおかしい」と言い、稀勢の里も「自分も二十歳になったので」と未成年殺人事件に触れていた。北オセチア出身の白露山は治安に触れ、「自分の母国も日本のように夜も一人歩き出来る国になって欲しい」と語っていた。
 私は力士達の現実感覚に親近感を持った。

 しかしこれは病んでいる時代の象徴でもある。お相撲さんがそんなことに口を揃えるのは異常だ。
 そういう事件にあまり興味がなく、どんな時代、どんな国にも、泥棒や人殺しはいる、気狂いはいる、自殺するのはいる、と人という生き物のあり方を割り切っている私ですら、「最近はそんな事件ばかりでいやだ」とニュースを見ない。このままこの国は堕ち続けて行くのだろうか。

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 このインタヴュウは私に皮肉な結果をもたらした。
 そういうコメントが連続することにより、「嬉しいことも腹立つことも全部相撲のことばかりです」と、相撲のことだけ語った少数の力士が、失礼ながら「軽く見えてしまった」のである。本来ならそれでこそ相撲取りであり、私はそういう力士が大好きだったのに……。

 それは今後にも影響を及ぼす。今の力士はみな現代っ子である。ご両親も若くて健在だ。当然「××関は社会問題のことを語っていたのに、おまえったら相撲のことばかりで、あれじゃバカみたいだよ」なんて会話も生まれるだろう。事実、ほとんどの力士がそうだったから、少数のそれが浮いてしまっていた。また同じような企劃が組まれたなら、そういうことを意識して発言する力士も出てくるだろう。

 これまた時代が悪いのか。
 お相撲さんが「腹立つこと」を訊かれたら、誰もが口を揃えて「先場所の負けた一番」を口にする。それが真っ当な世の中である。そうあるべきと私は思う。

 こういう解釈をされることに生理的な反感を持っている力士も今の時代、多いかもしれない。いわゆる「相撲バカ」の否定である。

 プロレスラーでそのことにこだわったのがジャンボ鶴田だった。彼はリング上でのプロレスラとリングを降りた鶴田友美の区別にこだわった。プロレスラではない自分を主張しようと、『渋谷ジャンジャン』で下手なギターを弾き、自作の歌を唄った。しかしそのことにより別人格の1+1は3に成らず、ジャンボ鶴田も鶴田友美も0.5に目減りしてしまった。一方、リングを降りたときもリング上のプロレスラ像を維持することを意識したのが天龍だった。天龍はリングを降りた嶋田源一郎を封印することによってプロレスラ天龍を1.5まで大きく見せた。後に執拗に鶴田に絡むことにより、プロレスラ・ジャンボ鶴田の凄味も引き出している。

 力士のこの社会感覚はプラスと出るだろうか。

 力士の感覚も変ってきており、相撲バカだと思われるのが厭で、あえて「腹立つこと」に「社会的な事件を語った」と裏読みすることも出来る。
 だが私はそういうことに興味のない厭世的な自分ですら腹立っていられない現状を思うと、「相撲のことを語りたかったが、我慢できずに思わず社会的なことを言ってしまった」という力士の真情の吐露だったと思いたい。それにしてもこれはゆゆしき事態である。

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◎安馬のインタヴュウ
 同誌に安馬のロングインタヴュウがあった。そこで安馬が「同世代の若者とは話が合わない。考えていることがまったく違うから」と、同世代の学生やフリーターに一線を画しているのが印象的だった。
 三十歳で引退に追い込まれるようなアスリート稼業である。その中でも安馬は人一倍「お客さんが喜んでくれる相撲を取りたい」とエンタテイメントを心がけている。体力的には恵まれていない。
 一日一日を懸命に生きる二十一歳の安馬にとって、ぬるま湯の中でふやけているような日本の若者など眼中にないのだろう。爽快な断言だった。
7/21
 日本の名産は肉だらけ!?



 電車の中の広告でキリンビールのキャンペーンを見た。全国47都道府県のうまいものが当たるという。そのうまいものである賞品の一覧がホームページからもらってきたここに掲載した写真よりももっとわかりやすく大きく並んでいた。
 まあこの写真でもわかるのだが、私は一目見て、「ずいぶんと赤っぽい肉の写真が多いな」と感じた。満員電車に揺られつつ数えてみたら20品だった。この数字は正確ではないがだいたいそんなものだ。
 日本47都道府県の名産品は、20県以上が肉であるらしい。う~む、うなってしまった。
 黒豚だの和牛だの、日本はそんなに肉を食う国になっていたのか。

 もちろんこれは「ビールに合う食品プレゼント」であるから、その点から選んだ品であろう。それを考慮せず本気で論じ始めたらただのイチャモン屋になってしまう。私がビールを飲んでいていちばん合うと思うつまみは、ウインナやハム、フライドポテト系の揚げ物である。ポテトチップなんてちっともうまいと思わないが、さすがにビールやコーラと一緒だとうまい。キリンビールの賞品として肉がいちばん多く選ばれたことに文句を言うつもりは毛頭ない。ビールに焼き肉をはじめとする肉はよく合う。

 友人諸兄の不興を買いそうだが、私は「ビールに枝豆」というのがわからない。ビールにはもっと脂っこいこってり系が合う。なんでみんなはあんなさっぱりしたものと組み合わせるのだろう。よって私は日本人の定番であるらしい枝豆というのをビールのつまみに注文したことはない。

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 餘談ながら、ある民族系の思想サイトにお遊びコーナーとして「あなたの日本人度チェック」というのがあった。
 私がそれをやると10問中9問がイエスであり日本人度は高いのだがどうしても満点が取れない。そこに「ナイターを見ながら枝豆でビールを飲む」という設問があったからである。どうやらこのサイトを作っている人にとって、それは日本人として闕かせないことであるらしい。そういう習慣のない私はこの設問にノーと答える。それでいつも「ふつうの日本人度」になってしまうのだった。
 問題は百問ぐらい用意されているらしく、その中からアトランダムに10問選ばれる。でも何度やってもその「ナイターで枝豆ビール」が出てくるのである(笑)。何度やっても私は満点になれなかった。
 なんだかこの主催者にとっては、天皇家をどう思っているか、靖國に参拝するか否かよりも、この設問の方が大事なようだった。

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 これが日本酒の会社のキャンペーンだったら、もっと魚系の特産品が増えたろう。
 その辺はわかっているつもりだが、四つ足は食わないのが原則だった日本人なのに、今はこんなにも肉の名産があるのだというのは、私にはちょっとしたカルチャーショックだった。
7/27(木)
 オフィス街の本屋

 初めてその街のコンビニに行ったとき、珍なるものを見た気分になった。
 昼休み。コンビニの1メートルほどのちいさな書棚に黒ズボン、黒靴、ワイシャツ姿のサラリーマンが群がっているのである。20人ほどもいて棚には雑誌は一冊もないような状態。ここまで活況を呈しているコンビニの本棚を初めて見た。
 しかし真に呆れたのはその後。昼休みが終り近くなるとその連中は一斉にいなくなったのだが、誰一人週刊誌一冊買わなかったのである。

 このコンビニはとても流行っている。水やジュース、菓子類などの販売でレジの前には列が出来ている。そのサラリーマン連中もそっちのものは買うようだ。
 なぜふつうのコンビニと比較してもちいさな書棚なのかわかった。売れないのだ。でも一応は置いておかねばならない。深夜の立ち読み客は強盗よけにもなるという。だからむしろいてくれたほうがいいのだ。まあここはオフィス街で深夜には無人になる街だが。
 置いておけば客寄せになるのだろう。人一倍読まれるが、決して買われることなくよれよれになって返品される週刊誌は、それなりの効果はあげているということか。

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 文教堂に行ってまた珍しいものを見た。一般紙から漫画誌まですべての週刊誌が紐で縛られ読めないようになっているのだ。なるほど、前記のコンビニなら週刊誌を撒き餌(笑)にすることも出来るが、ここは本屋である。餌箱に殺到するニワトリみたいなサラリーマンに週刊誌をただ読みされ、買わずにぼろぼろにされてはたまらない。自衛手段である。ゴミ捨て場に張られているカラスよけのネットを思った。

 なんだかね、サラリーマン、OLというのは日本社会を支えている中枢の人たちなんだろうけど、お昼時間になると一斉にドっと出てくる様にはぎょっとして身を引いてしまう。
「みんなと一緒」で安心する人。「みんなと一緒」にだけはなりたくない人。色々だ。

 笑ったのは「会社四季報」がぴっちりと紐で縛られ立ち読みできないようになっていたことだ。オフィス街であるから、これなどもこうして防御しないとサラリーマンに辞書代わりに使われて手あかが附いてしまうのだろう。住まいの近くの本屋には数冊置いてあるが誰も触らない。所変れば……だ。

 本をビニールで包んだり紐を掛けたりするのはマンガの単行本でありゲーム攻略本だった。子供対策である。
 しかしここにサラリーマン対策という分野もあることを知った。本屋からするとたちのわるさは似たり寄ったりだろう。

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 私は本屋で本に無礼なことをする客に腹立つ。本が可哀想だと。今日も薄汚れた黒の革鞄を本の上に置いて立ち読みしているサラリーマンオヤジがいた。本はまだこれから売る商品である。そこにその汚れた鞄を置く無礼になぜこの人は気づかないのだろう。なぜ足ものとにおかないのか。自分のカバンは汚したくないのか。他人様の商品を汚しても。
 こういうのはサラリーマンとしても三流だろう。

 私も昼休みはここに行くことを楽しみにしていて、もう10日ぐらい通っているのに、いまだに買ったのはパソコン雑誌2冊だけだからたいした客じゃない。
 さいわいなことに私の読みたい本には紐が掛かっていない。感謝してます、文教堂さん。

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 朝、出勤時間の20分前に着いたとき、その時間を利用して、くだんのコンビニで『週刊新潮』を立ち読みする自分がいた。だんだん私もサラリーマン化しているのか(笑)。そのうち「会社四季報」の紐をといて怒られたりして。
7/29(土)
 こんなにも親切! 


http://www.geocities.jp/mutasanjp/print/05nensei/index_sansu.html

 小学生に算数を教えた。そのことから思いつき、「小学生 算数 問題」で検索してみた。そうして上記の「学習支援サイト向日葵」を知った。
 なんとネット上で国語や算数の問題を無料提供してくれているのだ。それも学年に合わせて幅広く細かく出題している。
 これからはインターネットさえあれば、どこでも日本の勉強が出来る。すでに海外に住む多くの人が子供教育に利用しているのだろう。
 こんな世界があることを知ったのも空き時間に家庭教師を引き受けた餘録である。
 なんともすばらしい充実ぶりだ。



 私はこういうものを大量に雲南に送らねばと思っていた。そんなことをしなくてもネットからDownloadして印刷すればいい。信じがたい便利さである。早く雲南の家にもインターネットを設置しないと。
 ひさびさにネット世界に感激した。
8/18

 電車の中の狂人──ひさしぶりに見たケンカ



 朝、9時。電車はそこそこの混み具合。私は座っていた。立っている人もそこそこいる。
 それは本物とよく似ていた。最初流れてきたとき車内放送かと思った。「本日も××線をご利用頂き誠にありがとうございます。この電車は××駅経由××行きでございます」
 車内放送だと思ったら、その「音」が近づいてくる。とすると車掌か? もしも私が乗り越しをしていたなら、彼の「乗り越しのお客様は」に精算しようと素直に反応していただろう。もろに車内を歩く車掌の声色だった。

 顔を上げると「レギュラーの松本」を小柄にしたような男(顔の造作も髪型も白シャツもそっくりだった。唯一違うのはズボンも白系だったことだ)が、車内放送のようなことをしゃべりながら歩いてくる。車掌なのだろうか。一目見て違うと思ったが、あまりにそっくりな声色に思わず凝視してしまう。腰の後ろにだいぶ疲れた黒革のバッグを下げているが私物だ。車掌ではない。ただのオッチャンだ(笑)。とすると気違いか。誰もまったく反応しない。まるでいないかのように無視している。初めて見た私だけが物珍しげに彼を見ていた。
 やがて次の車輌に移って行く。世の中は広い。いろんな人がいる。私はまた文庫本に目を落とす。それで終ったと思った。

 ところがまたもどってきた。まあこれは車掌の真似が楽しい狂人だとするなら、最前部の車輌まで行ってまたもどってくるのは当然になる。
 しかしおどろいたのは、この狂人が決して無害とは言えないと知ったことだった。
 先ほどと同じく「毎度ご乗車ありがとうございます。この電車は××経由××行きでございます」と本物そっくりの声色でしゃべりつつ車内を歩く彼は、私の斜め前のドア近くに佇み文庫本を読んでいた五十年配のおばさんの前に立つと、「読書は××駅を過ぎてからお願いします」と言い始めたのだ。おばさんは無視して文庫本を読み続けようとする。その真ん前に立ち、おばさんの顔をうかがいながら──反応して欲しいのだろう──何度も何度も「読書をなさる場合は××駅を過ぎてからにお願いします」と、「車内での携帯電話のご使用はおやめください」の口調で繰り返すのである。人畜無害の狂人から充分にアブナイ狂人であると確認した。

 五回ほど繰り返し、完全におばさんに無視されると、またいつものセリフ?を言いつつ歩き去った。この辺、いつも思うことだが、「都会人は気違い慣れしている」と思う。純な人?ならパニックに陥ってもおかしくない。さすがだと思った。
 こうなってくると「車掌の真似をしている人畜無害のバカ」とも言えなくなってくる。気の短い人なら突き飛ばしたり殴ったりするだろうし、そこからまた派生することもある。もしもそのことによって彼(=気違いの方)が大けがでもしたら、アサヒシンブンなどは「心に餘裕のない現代人。電車好きの彼に罪はなかった。なぜ彼の生き甲斐を許せなかったのか!?」などと書きそうである(笑)。プロ市民(笑)の投稿で。まったくあの「声」ほど嗤えるものはない。
 初めて見たときあっけにとられ、すぐに人畜無害のおめでたい気違いと思ったのだが、この絡んでいる様子を見てそうとばかりも言えないと知った。
 もっとも狂人の方も、殴られるような対象には近づかなかったとも言える。これもまたこれで「都会の気違いは洗練されている」いうことか。

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 今朝はこの前にも珍しいものを見ている。朝の8時半、乗換駅のプラットフォームで人の流れが滞っているので何事かと思ったら、男二人がとっくみあいをしていた。駅のコンクリート地べたでやっている。ともにサラリーマン然とした服装だ。三十代半ばから四十代半ばぐらいのふたり。互いにケンカ慣れしていないのか必死でひたすら首を絞め合っている(笑)。決着をつけるには殴るのが早いのだが、こういう場所だと線路に落ちて命に関わってくるし、それはそれで節度のあるケンカと言えるだろう。だったら最初からするなよ!
 それにしても何が原因でこんなことが起きるのか(笑)。おそらく電車の中でもめて、降りて決着をつけようとなったのだろう。
 府中からの帰りの京王線ではよくこんなのがある。競馬場帰りで一杯入っている連中が車内でもめ、降りて決着をつけようとなるのだ。そりゃあ馬券で負けたり酒も入っているし解る気もする。だけどなあ、朝もはよからなんでサラリーマンが……。しかもふたりとも穏和そうだ。なんでこうなったのか。

 コンクリートの上に寝ころんで互いに首を絞め合っていたふたりは、やがて立ち上がる。さあ仕切り直しというところで、これまたよくいるおせっかいな第三者が「まあまあまあ」と分け入って止める。ふたりももう息が切れていて「とめてもらってよかった」という感じでにらみ合う。

 と書くと熱心に見ていたようだがそれは遠目から見た瞬間からそこを通り過ぎるまでの30秒ほどのあいだに観察したことだ。私はこんなものにまったく興味がない。一瞬たりとも立ち止まっていない。

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 私にとって真に考えるべきはそのことになる。完全に無視して通り過ぎようとする。もっと世俗に興味を持つべきだ。それこそが「人間的」であろう。でも興味がない。頭の中で好き勝手なことを考えて遊んでいるから、目の前で起きていることに関心を持たない。そっちこそが假想空間のように思える。ついでに点けているテレビのドラマのようだ。
 助けを求められたなら人一倍お節介をしてしまう性癖は今でも残っている。特にお年寄りには親切だ。決して本質から乾いているわけではない。だがそうでない場合、あまりに無視することが多すぎる。そういう自分の性格に悩む。

 血腥い実話を披露するさすがに気が引けるのでくだらない喩えにするが、私は馬鹿面をした女子高生と髪を染めたアンチャンが路上で全裸セックスしていたとしても完全に無視する。犬の後尾ほどにも興味がない。存在しないかのように無視して通り過ぎる。いや「存在しないかのように」はいくらか意識していることになる。そうじゃない。存在していることに気づかず通り過ぎる。
 これは問題だろう。ひとりのおとなとして、これこれ君たち、こういうところでそんなことをしてはいけないよと注意すべきだろうし、あるいは興味津々で近寄り「結合部」をケイタイで写すべきなのだ。それこそが「ふつー」である。

 ただしここで言っているのは、しばらくそんなものと無縁だった私が、「これでいいのだろうか!?」と思っている話である。ずっとそういうものと関わってきた人は、きっと「それでいいのだ」と言うだろう。いちいちそんなものに関わり、そんなことに悩んでいたら生きて行けるか! と。あんたはたまたま関わってきたからそんな理想論を言っているのだ、と。ですよね?

 そうかも、と思う。そうじゃないだろう、とも思う。この問題、続く。
8/4
 派遣社員考 

 いま恩人の代理働きをしている私の仕事の取引先担当者は派遣社員である。それを知ったのはすこしあとになる。当初は知らなかった。私のやっている仕事の進捗状況を報告する広告会社の担当者が彼女だとだけ知らされた。
 日々報告のメールを彼女に書き、集計結果をまとめた【Excel】ファイルを添付する。七面倒ではあるが誰でも出来る他愛ない仕事である。やっていて虚しくなる。大儀がないと出来ない。ところがこの安直な仕事でけっこう彼女とギスギスする。

 最初、彼女は私の報告の仕方に一々ケチをつけてきた。正しく言うなら私の上司に抗議してきた。もっと引き継ぎをきちんとして欲しいと。しかしそれは会社宛のオープンメールであるから私も読む。いい気持ちはしない。でも彼女の言っているのは正しい。立場としてあちらが上なのだから。そして前任者が彼女のやりかたを私に引き継ぎせずやめたのがわるい。それをきちんとしなかった会社がわるい。だから私は彼女の意見に従った。問題はもうすこし先にある。まずは状況説明。

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 私のやっている仕事の前任者も派遣社員の女だった。ちょっとあっちもこっちも派遣なので話が煩わしいが。
 その女のやりかたが広告社の派遣社員は気に入っていたらしい。というか私の前任者の派遣社員は「ワードとエクセルを通信教育で習ったが実戦で使うのは初めて」だったらしい(笑)。こういう方面の仕事も初めてだったから広告会社で何年も派遣社員として働いているらしいその女に指示されたとおりにファイルを作り送信していたようだ。いわば「なんでも言うことを聞く妹分」である。立場が同じ事から個人的にも(といっても飲みに行くような仲ではないが)親しかったようだ。日々の業務メイルのやりとりにそれが見える。

 ところで前任の派遣社員の履歴をなんで知っているかというと、派遣社員というのは登録している派遣会社に定期的に派遣先での仕事情況を報告せねばならないらしく、その文章が彼女から引き継いだパソコンに残っていたからである。消して行けよ(笑)。

 ひじょうに興味深く読ませてもらった。勉強になる。なるほど派遣社員はこんな形で会社に文章を提出せねばならないのかと。
 彼女は三十過ぎの子持ちバツイチで子供と二人暮らし。その作文には売り子のような派遣仕事しかしたことのない女が、いつか役立つようにと通信教育で習っておいたワードとエクセルを初めて使う不安と、使い慣れ上達して行く喜び、やがてテンキーもブラインドタッチ出来るようになり入力も早くなったという晴れがましさ、今回でこの仕事は辞めるが後々のために今後も家でワードとエクセル、アクセスの勉強を続けて行きたいと希望が綴ってあった。ここに丸一年勤めて今はどこかの洋服売り場で働いている彼女が今も自宅でエクセル等の勉強しているとは信じない(笑)。彼女に関するおもしろい話があるのでそれは末尾に書く。

 ともあれそういうわけで、こちらの派遣女とあちらの派遣女は、齢も近けりゃ境遇も似ていて、なかなかうまく行っていたらしい。そこに私が関わった。あちらは私の齢も経歴もしらない。おそらく二十代の新人と思っているだろう。こういう場合動物(笑)は、自分が格上であることを知らせるために格下に自分の流儀を押しつけ、ひれ伏させようとする。その辺は人間様も犬や猿と変らない。それがオープンメールで私の上司に送られてきた、上司に抗議しつつ私にはなにも言わないやりかたになる。
 しかし前記したようにそれは彼女が正しい。私の手法の方が正しく能率的であったとしても、こちらはあちらから仕事をもらっている立場であるから、彼女の好みの形式で報告する義務がある。その履行はたやすい。非能率的ではあるがその通りにした。従った。このことには不満はない。これで私が三十前後で転職し、この会社に骨を埋めるのだと燃えている営業マンならまた対応も違ってくる。こちらのやりかたも主張する。現実は、どんなに長くても半年、出来るなら三ヶ月で勘弁して欲しいという緊急のバイトだから逆らう気もない。へえへえあたしがわるうござんしたと謝罪し、すべてあちらの思うようにした。簡単なことなのだ。
 やっと本題。ここからが書きたかったこと。

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 どんな単純な仕事でも創意工夫し効率をあげられる改良箇所はある。私はそういうことが大好きだ。土方仕事のバイトから企画会社での進行まで常にそういうふうにして生きてきた。それは功を奏し活用されてきた。それが私の仕事のやりかたになる。
 たとえばだ、茶碗三杯の茶を飲むのに、みっつのヤカン、三台のガス台で湯を沸かしていたら、誰もが「ひとつのヤカン、一台のガス台でいいのではないか」と思うだろう。ヤカンもガス台もみっつもいらない。経費もスペースも節減できる。まったくの無駄としか言いようがない。これは目に見えることだし誰でもわかるが、世の中にはそのことに気づかず、こんな形で進行している仕事というのがけっこうあるのだ。

 まずはわるうござんしたと謝り、すべてその派遣女の思うままにこなしてしばらくした後、もうそろそろいいかと私は遠慮がちに意見を言った。「こことここは、こうした方がいいのではないですか」と。ヤカンもガス台もガス代も節約になるから、「ああ、そうですね」と喜んでもらえると思った。すぐに受け入れられると。しかし対応はちがっていた。

 さすがに怒りはしなかった。まともな人間なら私の意見が効率的であり改良であるとわかる。怒ったり逆上しなかったからその点で彼女はまともである。怒りもせず受け入れもせず彼女のとった行動。それは「逃げ」だった。いきなり「私は補足の立場なのでそんなことを私に言われても困る」と書いてきたのである。これにはたまげた。今までツンケンしていた鉄の女がいきなりなよなよしてきたのだ。私はこの仕事に関して彼女が統括的な立場にあると聞いていた。だから何事も真っ先に彼女に報告したし、そのあまりに初歩的な改良案も彼女に提案したのである。
 ということから私は、彼女が派遣社員であると知ったのである。いきなり「逃げ」たので驚き、会社の人に訊いた。みな知っていた。どうやら今の時代、ふつうのことであるらしい。しかし私のいる会社がバソコンにデータ入力させる単純作業のために派遣社員を雇うのはすんなり理解できるが、広告会社が取引先との応対にそれを使うというのは初めて知った。そんな時代なのか?

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 私には広告会社の取引先と対応する部署に派遣社員という役割分担が理解できなかった。私の体験にはなかった。いくつか関わりのあった広告会社は、どんなに頭の悪いネーチャンでも一応は正社員であり上下の繋がりがあった。今回のようなことはすぐに受け入れられるはずだった。いわば上下の「線」である。それがこの人は「点」なのだ。たかがそんなことなのに「私にそんなことを言われても困る」と言い出した。なんなのだろう、これって。

「ヤカンとガス台」で言うなら、世の中にはそういう無駄がいくらでもある。天下りなんてのが代表だ。無意味な公共事業もそうだろう。世の中に無駄があふれ、それで懐を潤している輩も山といる。このくだらないたとえでも、ヤカン業者とガス台業者とのつきあいから、あえてヤカンとガス台を不必要に多く購入して使っている、という場合もあろう。

 だがそうではないのだ。喩えを変ると、一枚の書類をAからB、BからC、CからDと受け渡ししている。BとCは無駄なのだ。私は「AからDに直接渡せばもっと速くなるんじゃないですか」と言ったに過ぎない。ここで「BとCを経由することにはそれなりの意味が」のような深読みは必要ない。ほんとにもう単純明快。単なる無駄。なんでこんなことをしているのか私にはまったく理解できない。単なる悪習でしかない。
 なのにその派遣社員女は拒み、必死に逃げたのである。まるで「婦人の婦の字は、箒をもった女なのよ、女性差別の漢字なのよ、キィー!」と喚いていたタジマヨーコが、いきなり「あーれー、かよわい女になにをするの」と言い出したように「私は補足であり」と変身したのだ。肩すかしである。

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 こんなとき頼りになるのはともだちだ。大手広告会社に勤めるSさんにメイルを書いて問うた。Sさんは打てば響くようにまずその広告会社の概要を教えてくれた。業種的に強い部分から受付嬢になかなかいい女が多いことまで(笑)。
 それに感謝し、次は「広告会社における派遣社員」について質問してみた。Sさんは見事に私の知りたいことに答えてくれた。

 今の時代、人件費節約で中堅の広告会社が派遣社員を採用するのはよくあるらしい。
 雇い主から見た派遣社員の便利さとは、後腐れなく馘首を切れることだろう。雇い主にとっての契約は、派遣会社とのものであり、派遣社員ともめることはない。その分、派遣会社に払う金額はなかなかのものになる。私の前任の子持ちバツイツ女の場合も、かなりの額を派遣会社に払っていた。(私は若社長夫人と親しいのでその辺も知り得た。)もちろん会社に搾取されるから彼女の取り分はそんなに多くない。こういう中抜き会社ってのがいちばん阿漕だと義憤を覚えるのだがそれはまた別の機会にして。

 派遣社員から見た利点はなんだろう。いろいろな業界を覗けることか。この辺は「派遣社員100人に聞きました」をやらないとわからない。そこそこ名のある広告会社で働きたいが自分の経歴では入れてもらえない、という女から見たらいいシステムなのかも知れない。
 こちらから見た場合の後腐れのなさ、も利点だろう。縛られることが嫌いな人には。
 人間関係の煩わしさを嫌う人にもいいはずだ。与えられた職務をこなすだけでいい。しかし日本の会社において、義理人情抜きのそういう関係って成立するのだろうか。どうにもよくわからん。
 餘裕であえて派遣の身でいる人もいれば、仕事にあぶれないために中間搾取されるのを覚悟で派遣登録して働いている人もいるのだろう。どこでもそうだが派遣社員もピンキリのはずである。

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 Sさんに教えてもらって納得したのは、「派遣社員は限られた仕事しかしない→お茶を淹れてもらうようなことは出来ない」だった。なるほどこれは仕事というより、職場を潤滑に進行させるための行為だ。期間限定、職務限定で働いているのだから、よけいなことはしないのだろう。同時に派遣社員の掟として、「してはならない」とも言える。パソコンへのデータ入力社員として雇われた派遣社員が、サーヴィスでお茶を淹れるという行為をして、大切な書類を濡らしたりしたら責任問題が生じてくる。その場合、派遣という立場は非常に弱い。またこういう派遣の場合、何件入力したかという作業効率のデータも取られるから、お茶くみなどという自分の評価と無関係なことはしなくなるだろう。なんとも乾いた世界であるが、そういう契約社会なのだから我が身を守るためにはそうせざるを得ない。

 私の場合の派遣社員の女も、「一枚の書類をAからB、BからC、CからDと受け渡ししている。BとCは無駄。AからDに直接渡せばもっと速くなる」など百も承知なのだろう。だがそれをやったら派遣社員の仕事としては逸脱するし、万が一それが問題を起こしたら責任は自分にのしかかってくる。どんなに効率が悪くても「いまある形」を変えずに、日々をつつがなく進行させるのが彼女の業務なのだ。
 それは私も同じである。今の職場で能率を考えた創意工夫などする必要はない。与えられた仕事を黙々とこなし、無事無罪放免になる日を粛々と待てばいいのだ。それだけの立場なのだ。だけど……。

 こんなことがあった。
 発送商品に添えるただの紙切れ一枚の注意書きである。私がワードで書いて印刷すれば10分もかからない。(まったくこの歳になって拒み続けてきた大嫌いなワードに初めて触れることになるとは……。)
 しかしそれはやってはならないことらしい。こちらの営業担当者があちらのその派遣社員女に注意書きをメールで要求する。それをその派遣社員女が広告会社の営業社員に連絡する。それでその営業マンが注意書きをワードで書き、と30分で済むことを三日ぐらい掛けてやっている。バカじゃねえの、の世界。おまえらむかしの武家社会かと言いたくなる。

 しかしこちらの営業マンに聞くと納得する部分もある。広告会社の連中はそういうのをやってやると、次から次へと「そちらで適当に処理しておいて」とこちらに押しつけてくるから、きりがないのだそうである。そしてまたそういうのに限ってもしも問題が起きたら責任回避するらしい。まあたかが注意書きだから問題が起きたといっても、誤字があったとか、結びに八月吉日と書くべきところを春のキャンペーンのときのまま四月吉日と書いたとかのレヴェルだ。どうでもいいような話だが、こういうイチャモンを生き甲斐にしているような庶民もいるから、いきおい責任のなすりつけあいになる。だからこちらも禍根を残さないように、極力よけいな出しゃばりはしないのだそうだ。わかるけれど、つまらん世界だと思う。

 その点あちらの派遣社員女もさすがである。そんなのその女でもすぐに書ける文章だ。だがそれをやったら越権行為になりあとでなにが起きるかわからない。だから絶対にしない。取引先からこんな注文があったと担当営業マンに伝えるだけである。これがプロの世界か? いやたしかにこれはこれでプロなのか、派遣社員という。なんともつまらん。

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 Sさんは、そういう味も素っ気もない派遣社員ではあるが、中には何年も居着いているのもいて、社員よりも業務に詳しく、社員が質問に行ったりする場合もあると教えてくれた。
 私の関わったその広告会社の派遣女はその典型であるようだ。もう何年もいるらしい。仕事内容に詳しく、それでいて責任を負わされては困るから、我が身を守るためよけいなことには関わらないという一貫した姿勢もそれを証明している。

 私は「私は補足ですのでそんなことを言われても困ります。なにかご意見がありましたら担当の営業のものに直接お願いします」といきなり逃げのメールをもらってから、社員に直接メールを打つようにした。その場合、その派遣女にも必ずCCで送ることが義務づけられているので、CCで送りはするが彼女の名前は書かないことにした。最初は彼女が責任者だと勘違いしていたので、それこそ若手社員の方をCC扱いにしていた(笑)。でも最初に前任の派遣社員女から、彼女がすべての窓口だと紹介を受けたのだからそうなる。その部門、その扱いに関しては統括責任者だと思っていた。実態はわるい言いかたをすると、決裁権のない何でも屋だった。

 たぶん彼女は、いやたぶんではなく確実に、最初はヘーコラしていたのに、今では一切無視する形で接してくる私を嫌っているだろう。
 しかし私としては、要求することはこまめで、いかにも女らしく手厳しいが、すこし疑問を呈すると「それは私の管轄ではない」と逃げてしまう相手を尊重することは出来ない。かつて派遣社員同士として仲良くやってきた前任者から私に代わり、彼女はいま自分を軽んじている私に誇りを傷つけられているだろう。そんな大げさなものじゃなくても、気分を害しているのはたしかだ。でもそれは派遣社員という気楽だけれど実権のない人生を選んだ彼女の責任である。

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 Sさんへ。
 いろいろ教えてくれてありがとう。実際はこういう話でした。中身がなくてすみません。
 意見をもらえたことに感謝しています。
8/5
 派遣社員考2──貧乏が裕福!?

 私がいま関わっている会社の前任者の話。
 三十代前半の女。バツイチ子持ち。微笑ましいというか哀しいというか、彼女は離婚済みであることをずっと隠していたという。履歴書でも嘘をついていた。嘘のつけない私からすると、これってけっこうキツいと思う。家庭的な零細企業なのだ。彼女はそこに馴染んでしまった。昼飯もいつも五、六人でなかよく食っていた。その五、六人と私はいま仲がいいから当時が目に浮かぶ。そこでは「旦那さんとはいつどこで知り合ったの」に始まり、「毎晩何時に帰ってくるの」から、ときには「二人目は作らないの」までの会話があったはずである。それをことごとく彼女は嘘をついて切り抜けていたことになる。まこと、ひとつ嘘をつくと、百も千もつかねばならなくなることを証明している。

 ある日、躰の具合が悪くなり救急車で運ばれる事態となった。突発性呼吸不全だった。これはストレスからくる病気である。親しくなったみんなに嘘ばかり付いていた報いであろう。
 一年間派遣社員で勤めた会社を辞める直前である。そのときの保険証からじつは「ひとり者」であることがバレたのだった。この辺の彼女の心理は私にはわからないし本題とは関係ないので先を急ぐ。

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 会社は前々から彼女に正社員にならないかと誘っていた。給料も増えるし、なにより保険その他、いくつもの条件が有利に働くから、彼女を助けることになると思ったのだ。
 会社側のズルい理由も私は知っている。派遣会社に彼女の給料として払っているのが30万円だとする。そこに中間搾取があり彼女の手取りは20万円だ。その彼女を同じく手取り20万円で社員にすれば、自分のところの出費は減るし、彼女も正社員として保険などの社会的な地位を得るから双方とも万歳と思ったのだ。
 なのに何度誘っても彼女が断る。その理由がわからない。それはずっと謎だった。

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 それがその「救急車騒ぎ」でバレた。彼女は23区でも最も「そういうこと」に厚いと言われる江戸川区に住んでいた。
 細かい数字はわからないのでかってに推測で書く。彼女が假に派遣社員として得る収入が20万だとする。でも江戸川区は派遣社員という不安定な立場(フリーターと同じ扱い)にある「母子家庭」に、家賃等の控除、補助に関して、とてもとても寛大なのだそうだ。へたに正社員になり、假に給料が22万と微増して社会保険とかなんとかがついたら、いまもらっている「フリーターの母子家庭」の恩典がみななくなり、「大きく収入減」になるのだった。
 つまり彼女は、「江戸川区に住む組織に属していない職業不安定なかわいそうな母子家庭」の立場をとる方が、正社員になるより収入が多いから正規雇用を拒んだのである。
 これは典型的な「福祉の歪み」だろう。

 餘談ながら、この女も、派遣社員らしく「なにもしない」ことには徹底していて、自分の飲んだ紅茶の茶殻も台所に捨てっぱなしで、そりゃあもうひどかった。それを掃除していたのが若社長夫人だった(笑)。零細企業であるから経理を手伝ったり台所掃除をしたりいろいろやらねばならない。
 ただこの件に関しては派遣社員以外の仕事はしないとかそんなことではなく、彼女がそういう人なのだろう。私には「よくこういう気のつかない女と結婚して子供を作った男がいたな」と思えた。美醜じゃなくね。それは並。しかし彼女のヘンなところはいくらでも列記できる。失礼ながら缺陥の見える人だった。

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 福祉は大事である。それはここまで爛熟してしまった先進国(いやな言いかただが)の今後最大の課題であろう。
 しかし、ひとりの障害者を5人の健常者が面倒を見るような世界はまともではない。そういう世界の存続は不可能である。それを美しいと思うヒューマニズムは私にはない。むしろとんでもない障害者が生まれたとき即座に間引いてしまった時代を正常と思う。

 日本もやがて消費税20%の国になる。離婚率はより上昇し、母子家庭、父子家庭はますます増えて行くだろう。話題の「亀田家」も父子家庭か。それらの税はそういう方面に使われる。いわゆる「福祉税」だ。
 あまりにきれいごとで言うのも恥ずかしいが、父子家庭、母子家庭に対する保証を充実させるより、そういうものがなるべく生まれないような社会を築く努力が大切であろう。まあ人間てのがここまで来てしまったらもうしょうがないのだろうけどね。日本もアメリカのように三回目の結婚でやっと落ち着く、とかそんな社会になるのだろう。

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 それにしても「正社員にしてやろう」という誘いを、「収入が減るから」と断る世の中は異常である。バイトでも金が稼げたバブル期ならいざしらず、この不況のご時世である。その理由が「母子家庭としての保証が減るから」なのだから奇妙な社会だ。異常なのは「個人」ではなく、そんなことにしてしまった「構造」である。同和利権と似ている。いつしか弱者がいなおって強者になっている。どう考えてもヘンな話である。これじゃ「年金を払うより生活保護」なんて考える輩が出てくるはずだ。

8/6  冷えすぎる電車──制服の制約

 ここのところ何度も電車の冷房が効きすぎて震え上がる経験をしている。
 湿度の高い日本の夏なのにいまだにサラリーマンの正装は北海道よりも北にあるイギリスの服装だ。なんで夏場に首を締めつけて風通しをなくし、黒系の上着まで着ねばならないのか。正気とは思えない。
 それに合わせた冷房だからTシャツ一枚の私は震え上がることになる。ほんとに鳥肌が立ち寒くていられないので春物のブルゾンを手にして行く。電車の中で着て、降りたら脱ぐ。外はシャツ一枚でも暑くていられない夏だ。OLが冷えすぎる夏に膝掛けをしているというのは有名だ。それでいて資源はないから油の値上がりに一喜一憂する。狂っている。

 こういう単純な矛盾すら解決できない国は後進国だろう。資源がないからいちばん安価な原子力発電に頼るしかない。それに反対する人たちもいる。日本の夏にあった服装をして冷房の温度を下げれば資源の問題も軽減し発電の問題もよい方向に向かう。なんでそれが出来ないのか。心は未だに明治維新の西洋コンプレックスのままだ。

 アラブの連中を見ていていいなと思うのは彼らは自分たちの服装をすることだ。暑さを凌ぐ白系の襟が開いた服を着る。キリスト教の連中の服装は着ない。あれが人としての誇りだ。
 私はあのような服を着てネクタイを締めることがイヤで勤め人にならなかったようなものだ。作業服を着て仕事をしている方がはるかに快適である。日本人の英知である地下足袋は機能的で美しい。
 真夏に黒系の背広を着てネクタイを締め、汗を掻いている人を見ると、何を考えているのかと思ってしまう。そういう隷属から創造は生まれるのだろうか。夏の背広に合わせて冷房を強くすることより、背広を脱げばいいのだと発想を転換できないのかが私には理解できない。

 と書きっぱなしだとただのバカなので(笑)ひとつ意見を書いておけば、日本人は統制が重要なのだろう。いや「必要不可欠」と言うべきか。いわゆる「制服の思想」だ。職場の規律、精神的緊張感を高めるために、統一された「制服」が必要なのだ。それがいまのところいちばん普及していて西洋とも通じることからスーツなのであり、とりあえずはそれに替わる「よりよい制服」がないということなのだろう。
 しかし「制服」の助けがなければ緊張感が持続できないことが幼稚であることには変わりない。
9/23

 子猫殺し騒動私感

 タヒチに住む作家の板東真砂子さんが日経新聞に書いたコラムが話題になっている。
 以下引用。

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プロムナード(日経新聞18日) 子猫殺し―――坂東眞砂子

こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている。
世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。
そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。
家の隣の崖の下がちょうど空地になっているので、生れ落ちるや、そこに放り投げるのである。
タヒチ島の私の住んでいるあたりは、人家はまばらだ。
草ぼうぼうの空地や山林が広がり、そこでは野良猫、野良犬、野鼠などの死骸がころころしている。
子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。
自然に還るだけだ。
子猫殺しを犯すに至ったのは、いろいろと考えた結果だ。

私は猫を三匹飼っている。
みんな雌だ。
雄もいたが、家に居つかず、近所を徘徊して、やがていなくなった。
残る三匹は、どれも赤ん坊の頃から育ててきた。
当然、成長すると、盛りがついて、子を産む。
タヒチでは野良猫はわんさかいる。
これは犬も同様だが、血統書付きの犬猫ででもないと、もらってくれるところなんかない。
避妊手術を、まず考えた。
しかし、どうも決心がつかない。
獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。
猫は幸せさ、うちの猫には愛情をもって接している。
猫もそれに応えてくれる、という人もいるだろう。
だが私は、猫が飼い主に甘える根元には、餌をもらえるからということがあると思う。
生きるための手段だ。

もし猫が言葉を話せるならば、避妊手術なんかされたくない、子を産みたいというだろう。
飼い猫に避妊手術を施すことは、飼い主の責任だといわれている。
しかし、それは飼い主の都合でもある。
子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。
だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から生まないように手術する。
私は、これに異を唱えるものではない。
ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。
子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。
避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ。
そして、この差の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。
どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。
愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為なのだ。
獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。
生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている。
人は神ではない。
他の生き物の「生」に関して、正しいことなぞできるはずはない。
どこかで矛盾や不合理が生じてくる。
人は他の生き物に対して、避妊手術を行う権利などない。
生まれた子を殺す権利もない。
それでも、愛玩のために生き物を飼いたいならば、飼い主としては、自分のより納得できる道を選択するしかない。
私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。
もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである。(作家)



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直木賞作家「子猫殺し」告白、日経へ抗議殺到

08/24 11:05

  佛領タヒチ島在住の直木賞作家、坂東眞砂子さん(48)が日本経済新聞に寄せたエッセーで、飼い猫が産んだ子猫を次々とがけ下に放り投げて殺していることを告白し、日経新聞社に抗議の声が殺到している。坂東さんは猫の避妊手術と子猫殺しについて「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」と同じレベルとの持論を展開しているが、動物愛護や生命の尊厳をめぐって論議を呼びそうだ。

 問題になっているのは日経新聞の18日付夕刊に掲載された「子猫殺し」と題したエッセー。「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」と書き出し、飼っている3匹の雌猫の子供が野良猫にならないよう、生まれるたびに自宅隣のがけ下に放り投げていると明かしている。

 日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺した場合「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」を科すとされており、フランスの刑法でも違法だ。

 日経新聞社には24日正午までに508件のメールと88件の電話が寄せられ、「不快だ」「理解に苦しむ」など、ほとんどが非難や抗議の内容という。

 坂東さんは同社を通し「タヒチ島に住んで8年経つがこの間、人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にあるもの。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した」とコメント。

 同社社長室は「原稿の内容は原則として筆者の自主性を尊重している。さまざまなご意見は真摯(しんし)に受け止めたい」としている。

 坂東さんはホラー小説の第一人者で、平成9年に「山妣(やまはは)」で直木賞を受賞。映画「死国」「狗神」の原作者。

               ◇

■愛猫家として知られるジャーナリストの江川紹子さんの話「子猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている板東さんの論理はおかしい。何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはずだ。猫は野生動物とは違う。人間とのかかわりの中で生きてきた猫と、どう幸せに寄り添っていくかをもっと考えるべきだ」



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◇坂東眞砂子さん寄稿…子猫を殺す時、自分も殺している
 私は人が苦手だ。人を前にすると緊張する。人を愛するのが難しい。だから猫を飼っている。そうして人に向かうべき愛情を猫に注ぎ、わずかばかりの愛情世界をなんとか保持している。飼い猫がいるからこそ、自分の中にある「愛情の泉」を枯渇させずに済んでいる。だから私が猫を飼うのは、まったく自分勝手な傲慢(ごうまん)さからだ。

 さらに、私は猫を通して自分を見ている。猫を愛撫(あいぶ)するのは、自分を愛撫すること。だから生まれたばかりの子猫を殺す時、私は自分も殺している。それはつらくてたまらない。

 しかし、子猫を殺さないとすぐに成長して、また子猫を産む。家は猫だらけとなり、えさに困り、近所の台所も荒らす。でも、私は子猫全部を育てることもできない。

 「だったらなぜ避妊手術を施さないのだ」と言うだろう。現代社会でトラブルなく生き物を飼うには、避妊手術が必要だという考え方は、もっともだと思う。

 しかし、私にはできない。陰のうと子宮は、新たな命を生みだす源だ。それを断つことは、その生き物の持つ生命力、生きる意欲を断つことにもつながる。もし私が、他人から不妊手術をされたらどうだろう。経済力や能力に欠如しているからと言われ、納得するかもしれない。それでも、魂の底で「私は絶対に嫌だ」と絶叫するだろう。

 もうひとつ、避妊手術には、高等な生物が、下等な生物の性を管理するという考え方がある。ナチスドイツは「同性愛者は劣っている」とみなして断種手術を行った。日本でもかつてハンセン病患者がその対象だった。

 他者による断種、不妊手術の強制を当然とみなす態度は、人による人への断種、不妊手術へと通じる。ペットに避妊手術を施して「これこそ正義」と、晴れ晴れした顔をしている人に私は疑問を呈する。

 エッセーは、タヒチでも誤解されて伝わっている。ポリネシア政府が告発する姿勢を見せているが、虐待にあたるか精査してほしい。事実関係を知らないままの告発なら、言論弾圧になる。



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 この問題を語るとき、
10/23(月)
 ソフトバンク「予想外割」発表!


「通話とメール0円、月額基本料2880円」――ソフトバンクが新料金プラン発表

 ソフトバンクモバイル(旧ボーダフォン)は2006年10月23日、携帯電話サービスの新たな料金体系を発表した。中核に据える料金プラン「ゴールドプラン」の内容は、かなり大胆なもの。まず、ソフトバンクモバイル契約者宛ての音声通話と、250文字程度までのショートメール(SMS)を無料とする。さらに、新規加入から2カ月間は月額基本料金とパケット準定額制「デュアルパケット定額」の料金も無料。また、2007年1月15日までに同プランに加入した契約者に関しては、今後契約を続ける限り、月額基本料が2880円固定となる。

「ドコモとauより常に200円安。両社が下げたら24時間以内に対抗値下げ」

 このほか、「ブループラン」「オレンジプラン」という料金プランも設定する。ブループランはNTTドコモ、オレンジプランはKDDI(au)の料金プランと基本的に同一の料金体系を採りつつ、月額基本料金を他社より200円(税込みでは210円)安く提供する。「将来NTTドコモやauが料金を値下げした場合、24時間以内に対抗値下げを実施して、常に200円安の水準を維持することをコミットメントする」(ソフトバンクモバイル 代表執行役社長兼CEOの孫正義氏)と宣言した。また、長期契約割引についてもメリットを強調。携帯電話番号ポータビリティー制度(MNP)を利用し、2007年1月15日までにNTTドコモ、auからソフトバンクモバイルへ移行した契約者に対しては、長期契約割引の算定基準となる契約年数について、以前の事業者での契約年数をそのまま引き継いで算定することとした。

 価格戦略の狙いについて孫氏は、「MNPをめぐる各種の調査では、9割程度のユーザーが現行契約にとどまり、他社への乗り換えをしないと言われている。その理由として、家族割引や長期契約割引が途切れることが挙げられている。そもそも携帯電話の基本料金は極めて複雑怪奇な仕組みになっており、事業者や販売店の社員でも把握しきれない。MNPで乗り換えたらいくら安くできるのかも分からない」と説明。そのため、「どこが一番安いか一瞬で分かる仕組みとした」という。

 加えて孫氏は、競合他社とのサービス比較についても言及。「NTTドコモは14機種を投入すると発表したが、あれは2007年3月までに発売されるもの。年内発売は8機種にとどまる」として、NTTドコモの発表方法を批判。さらに、基地局の増設により2007年3月末にはNTTドコモを上回る4万6000基地局体制にすることなどを挙げ、「価格であれ何であれ、我々は本気で戦う」と気炎を上げた。

「ドコモとauはもうけすぎ。当社は利益が少なくても大丈夫」

 ソフトバンクは旧ボーダフォンの買収時に、旧ボーダフォンの資産を担保として資金を借り入れるレバレッジド・バイ・アウト(LBO)という手法を用い、2兆円近い借り入れを実施して買収資金を確保した。こうした背景があることから、ソフトバンクモバイルが価格面での競争を仕掛けることは困難であるとの見方が一般的だった。これを覆して大胆な価格施策を打ち出した孫氏は、「NTTドコモは1兆円、KDDIは5000億円の利益を得ている。これはもうけすぎではないか。当社は借入金が返済でき、かつ現行の事業規模に上乗せできる程度の利益があればよい。それを超える分はユーザーに還元する。ユーザーに支えてもらえることこそが、長期的にみて最も利益につながる」との考えを披露した。

 今後の経営基盤となる財務施策については、「契約者1人当たりの利益は下がるだろうが、オプション加入料やデータ通信料、契約者の増加などで補える。様々なシミュレーションを実施したが、少なくとも借入金の返済には困らない」と説明している。

 新料金体系の導入により契約者が増え、回線が混雑する恐れについては、「トラフィックはかなり増えるだろう。しかし当社には、旧ボーダフォンが残した十分なバックボーンがある。他社が同様の料金体系を打ち出そうとすると大変だろうが、当社の場合は第3世代携帯電話(3G)の契約者がまだ少ないことが幸いし、今後契約者が増えても十分やっていけるだけのキャパシティーがある。バックボーンの増強は今後も行うが、当面は契約者を増やすことが先決である」とした。日経パソコン) [2006/10/23]

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 番号ポータビリティ実施前日に華々しい花火を打ち上げた。こういうのはやはりリアルタイムで見たい。
 先日の飲み会で友人が「拉致問題で安倍首相にかみついて、金正男をVIP待遇で帰国させたことを反撃され恥をかいたタナカマキコのこと」を語っていた。彼は「見ていないんだけど、こんなことがあったらしいね」と話す。あの日私は会社を休んだので午前10時からのその現場を目撃できた。休むまでは意識していなかったが、そのあとすぐに「そうだ、今日はあの日だ!」と色めいた。伝聞で語るのと実際に目にしたかでは全然違う。ましてテレビ局の編集したニュースで知るのは違う色に染められる。これは他項に書いた。なんともみっともない討論だった。なのにテレ朝のニュースだとタナカマキコ圧勝になっていた。噴飯物である。

 今回もこの「予想外割」という「衝撃の発表の瞬間」を運良く見ることが出来た。私はJ-phone→vodafone→softbankと使い続けているので──というかかってに会社が代わっているのだが──この割引は他人事ではない。日本を表すJが気に入って使い始めたのに、いつしかフランスの企業になり今度は朝鮮系の企業になってしまった。

 私がケイタイの会社を代えられないのは仕事先から連絡をもらうために番号を変えるわけにはゆかなかったからだ。それがこれからは出来る。まさに番号ポータビリティ制度は私にとって待ちに待った制度になる。長かった。

 とはいえ今いちばん欲しいケイタイはなにかというとsoftbankのワンセグだから会社を代える理由もない。あれは私のような長年のユーザーであり、さらに前機種交換から2年以上経っていても3万円を取られる。事情を知らないと高いと感じるが、あのワンセグの機種は10万円もするのだそうだ。3万円でも新規契約者欲しさの出血サービスなのである。だからあれを入手してすぐ退会されると大変なのでその対策に気を遣っているらしい。あれがあれば前記のような国会中継も電車の中で見られるのか。私の場合は地下鉄が長いのでだめなようだ。それでも夕方の帰宅時に電車の中でニュースが見られるのなら魅力的だ。

 それに必ず孫さんが衝撃の発表をするはずだからとそれを待っていた面もある。見事なまでに期待に応えてくれた。携帯電話の通話料価格破壊大歓迎である。
 ところで、私の友人でいまsoftbankのケイタイを使っている人=相互の通話料無料になる人はどれぐらいいるのだろう。しばらく前にはJ-phoneの支持者はかなりいたけど、いつしかみんなDocomoになっているような……。(いま検索して気づいた。ドコモってのはDoCoMoと書くのか。)
 それと私のような旧ユーザーはなにか新たなプランに入り直さないとならないのか?

 今回の件で、しばらくはまだsoftbankにいることにした。来週にでも機種変更にゆこう。

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 その後の「予想外割」

 勝谷誠彦が「予想外割」に対してキツい意見を書いていた。

■2006/10/25 (水)また北朝鮮への送金バレた韓国はならず者舎弟国家。

(前略)私の回りでも本当に忙しい人はあまり電話を使わない。逆に携帯電話代でパンクして高利貸しに走るのは今や典型的な下流人生である。世が囃すほど携帯電話という物に将来性があるのだろうか。ソフトバンクの「予想外割」には笑った。。私にとっては全く「予想外」ではなかったからだ。かねて書いてきたが孫正義のDNAを考えると「予想内」の振る舞いだ。ブロードバンド進出の時を思い出したまえ。日本中の街頭に立って狗猫にまでモデムを配りどんなトラブルがあっても頬被りをしてともかくも市場を囲い込んだ。終戦直後に駅前の土地を三国人が鉄条網で囲って居ついたあの戦術である。李承晩が突然ラインを引いて竹島を乗っ取ったやり方である。誰がどう文句を言おうとまず囲い込み居座り既得権を主張する。げに民族の血は恐ろしきかな(笑)。(後略)



携帯電話代でパンクして高利貸しに走るのは今や典型的な下流人生」はその通りである。「終戦直後に駅前の土地を三国人が鉄条網で囲って居ついたあの戦術」には笑った。事実である。「げに民族の血は恐ろしきかな(笑)」もごもっとも。
 まったくあのYahooがあちこちでモデムを配りまくっていたのはすごかった。田舎にいたころ、家電量販店はもちろん、「Book off」やスーパーの店頭にまであの赤い服を着たYahooのネーチャンがいた。申し込めばすぐにその場でモデムをくれた。いったいあれにどれぐらい金を使ったのだろう。大赤字でも引っ張り込んでしまえばこちらのもの、という作戦だった。まあそれに引っかかったバカのひとりが私なのだが。でもねえ、鼻も引っかけてくれない美人より、ブスでもミニスカートで抱きついてくるのになびいてしまうのは男の性だ。私の場合はそれでは入らず(あ、ちがう、入ろうとしたのにケーブルがどうのこうので入れなかったのだった)東京に来てから入ったのだった。「ホームページ容量300メガ」が決め手になった。
 で、何で今度やめるかというと、どうにもここは「釣った魚に餌はやらない」の傾向が強すぎるからである。釣られた魚としてはあまりのそれに呆れたのでやめることにした。ブスでもミニスカートで抱きついてきたからつきあったのである。愛想の悪いブスとつきあう必要はない。

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 『週刊文春』も同じ論調の記事を載せている。



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× ケイタイも換えようかな……
 そういうわけでプロバイダーのYahooはやめることにした。niftyにする。Biglobeでもよかった。とにかく光にしないと遅くてだめだった。それに関して、YahooはADSLからの転向組に冷たかった。不親切だった。niftyはやさしかった。理由はそれだけである。もっとも大歓迎のniftyも他社からの転向だから大歓迎なのであって一度入会したら冷たいのだろう。それはわかっている。それでもYahooの不親切には我慢できなかった。これから2年はniftyにいねばならない。ホームページ容量は100メガだ。今のところ70メガなのでまだ餘裕はある。順調に行けばやがて足りなくなる。そのときはまた考えよう。

 同じ会社内でのADSLから光への転向はたいした儲けにはならないのかもしれない。不親切だった。しかし商売でいちばん大切なのは顧客ではないのか。今まで利用してくれた客ではないのか。私という既存の利用者が、Yahooの中でADSLから光へ転向しようとした。愛想のいい他社を無視してYahooに義理を立てたのだ。なのに不親切だった。他の会社へ行くことにした。これはおおきな損だろう。新規を獲得することに血眼になっているが、その裏で今までの利用者が抜けていったらなんの意味もない。より大きなザルの用意より、今あるザルの穴を塞げ。

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 昨日、機種変更をするためsoftbankショップに行った。午後の空いた時間を利用して仕事先から二駅離れたところまで出かけた。そこが近場だった。すると機種変更の受付は午後三時で打ち切ったと書かれていた。そのとき三時半。無駄足になった。同じ目にあった人が会社にいたので、その他のことは午後六時、八時までやってるいるのに、前々から利用している本来の客の機種変更をないがしろにするのだからひどい会社だと嘆きあった。
 今日、昼休みに出かけた。三時で打ち切られるのだから早く行くしかない。すると「0時で打ち切った」と張り紙が出ていた。そのとき0時半。こりゃひどい。またも無駄足である。午後三時と決まっていたのではなかった。変動するのである。明日は何時になるのだ。バカらしいので行かない。しばらくほっておく。というか、やめるか、ケイタイもsoftbankは。

 そのとき、ひどい表現だと思うものに出会った。
 店内で大々的にアピールされている「すべての機種変更0円」である。
 これはおかしいと思った。前記したようにワンセグケイタイは10万円もする高級機械であるらしい。だから優遇される新規でも私のように2年以上変更していない者でも29800円ぐらいは取られた。それがいきなり0円になったとは聞いていない。おかしいと思いつつも、もしかしてあのワンセグが機種変更0円になったのかと調べてみた。

 するとこれが大嘘。「いまここから持ち帰るのは0円」なのである。ボーナス払いであり、金額は今まで通り3万円弱かかる。「すべての機種変更0円」は明らかな誇大表示である。実際は2年以上変更していない私でも、機種変更無料は10数種ある中で2機種のみ。言うまでもなく最も貧弱な機種である。有料は安いので6500円から始まり、一番高いのがそのワンセグの3万円弱だった。なのにいくらなんでも「すべての機種変更0円」はないだろう。店内、その看板であふれている。呆れた。これじゃアンチsoftbankになる。う~む、やっぱり換えたくなった。いや機種変更じゃなくてケイタイの会社を。

 つまらないつっぱりとして「おれはずっとJ-phoneだ」というのがある。あった。これはもうvodafoneに身売りした時点で終っていたのだろう。代えるか。
 とはいえこの番号ポータビリティというのは、今までの番号を保持するために、たしか「出てゆく会社」に3千円弱を払わねばならないのだった。softbankに払うその金が惜しい。私にとってケイタイというのは仕事を失くさないために「とりあえず連絡先として常にあるもの」でしかない。実際はインターネット通信で仕事をしている。ケイタイはもしものときの予備だ。とはいえなくてはならないものだ。それでも電車の中でも手放さない中毒者と比べると著しく価値は低い。(真の意味では彼らよりも重要度は高いと思う。)
 この金を払うのはばからしい。とはいえYahooともsoftbankのケイタイとも縁を切りたくなってきた。さてどうするか。
 

06/10/22  豊真将まだまだ

 前々から競馬記者のIMさんに会ったら豊真将の話をしようと思っていた。
 豊真将はお辞儀の美しいすばらしい力士である。昨今露鵬に代表されるように負けると相手を睨みつけ、ふてくされたような礼をする力士(ひどい場合はしないのもいる)が増えてきた。日本人なのに北勝力などもこの範疇に入る。そんな中、両手を脇に添えて叮嚀で美しいお辞儀をする豊真将の美しさは際だっていた。親方の錣山(寺尾)にとっても自分で育てた初の関取であるから可愛くて心配でたまらない。NHKは時に、豊真将の相撲を柱の陰から見守るまるで日陰の女のような錣山の姿を映したりする(笑)。それもまたいい。寺尾は人気力士だったから元々NHKへの出演は多かったが豊真将の出現によりますます増えたようにも思う。

 高校時代には朝青龍とも対戦している。病気により一度日大を中退して相撲を断念しながら、それからやっぱりまた相撲を取りたいと再起した流れもいい。入門したころは高校横綱にも歯が立たなかったという。このとき朝青龍と再会している。相手はすでに横綱だった。
 そしてまた前相撲から十両まで9場所は貴花田、武蔵丸らと並ぶ早い出世記録である。入門が遅いからのんびりしていられないという必死さもいい目に出たのだろう。



 豊真将は山口県出身。山口出身の入幕は大関魁傑以来になる。35年ぶりだ。豊真将の豊は故郷の豊浦町から来ている。豊浦町は今回の市町村合併で消えてしまった町名だ。
 競馬記者のIMさんも山口県出身。山口出身の人らしく長州力、佐山サトルやターザン山本等、山口県出身の人には詳しい。時あたかも安倍総理大臣誕生である。当然35年ぶりの郷土出身の幕内力士のことは知っていると思っていた。それで盛り上がるはずと酒席の話題にした。前々からしようと思いつつ忘れていたのでこのときの私は意気込んでいた。

 だが残念ながらIMさんは豊真将を知らなかった。豊真将もまだまだと思ったものである。未だかなりの相撲好きしか知らない名前なのだろう。
 ただそのことが意外だった私は引っ込みがつかず船戸与一が豊浦史郎の名で書いた話とか始めてしまったのだが(船戸の豊浦ももちろん豊浦町から取っている)IMさんは船戸も知らなかったから、これは私の「山口出身だから山口の人に詳しい」というのが誤った思いこみなのかもしれない。
 意気込んで話しかけた分、しらけた話題になってしまった。

 山口県出身者ならず全国の人が知っている存在に早くなってくれ、豊真将!


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 豊真将は学業も優秀!──07/8/5

 私は豊真将の美しい礼に感激しつつ、でも彼は勉強嫌いと思っていた。彼のような真面目で木訥な顔の、勉強が苦手なタイプを知っていたからである。
 が、あれこれ情報を得ていたら、彼は山口県から相撲留学した埼玉県の高校で、学年で10番以内の優等生でもあったという。不明をわびる次第である。



11/26
 豊真将、大活躍!

 平成18年九州場所成績

 と、まだまだと書いた豊真将が九州場所で大活躍した。12勝3敗の好成績で敢闘賞、技能賞を受賞である。なにより13日目で旭天鵬に敗れると朝青龍の優勝になるのを防ぎ、翌14日目も同じ情況で2敗を維持して優勝決定を先延ばしにした功績は大である。た。それらを解説陣も高く評価し、三賞をみっつでもよっつでもあげたらいいと言っていた。いやこれは解説者ではなくアナが言っていた。それほど関係者がはしゃぐほどの活躍だった。
 とはいえ朝青龍との星ふたつの差はいかんともしがたかったし、初の大関戦となる栃東戦ではコチコチになって何も出来ず敗れており(それもまた彼らしく初々しいとも言えるが)、下位力士なのによくぞここまでがんばった、しらけた場所で唯一の清涼だとの賞賛は私も惜しまないが、明日に繋がる超大物の誕生というような昂奮とは程遠かった。

 むしろ豊真将の12勝は、体力的に恵まれていながら安易に勝とうと引き技を多用する精神的に堕落している連中が自滅していった中、稽古充分で決して引かない律儀さが結果的に白星に繋がった趣が強く、勝負事、運動能力としての話より、「毎日こつこつと努力している正直者には必ず神様が褒美をくださる」というような「道徳的な賞賛」に繋がるように感じた。
 引き技が大嫌いな私には、それを多用する連中に、決して落ちない豊真将がついていって白星を重ねることはもちろん十二分に快感だった。だかその相撲ぶりに、「これでもう大丈夫」「大関はかたい」のような昂奮を感じなかったのも事実である。真面目で律儀で稽古熱心な豊真将が花開き世間の注目を集めたことはうれしい。上記のIMさんも今度こそ名前を覚えてくれたろう。
 だけど私は、豊真将が好きであるからこそ、一皮剥けた彼が見事に新生面を切り開いたというより、小ずるい連中が自滅してゆく中、正直者が富を得たような今回の12勝を諸手を挙げて万々歳とまではゆかない。

 栃東との一戦を見ても、上位にあがる来場所は試煉が続くだろう。力が通じず大負けもありうる。それでも落ちない相撲を取っていれば千代大海などは自滅してくれるかも、と期待もふくらむ。が、今の力ではあの千代大海ごときにも一発で持ってゆかれるかもしれない、とも思う。美しい辞儀に拍手を送りつつ白鵬や把瑠都があがってきたときのような期待感をもてないのも本音だ。今場所は把瑠都にも完勝したが。

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 今場所のどうしようもない把瑠都に関してはまた書こう。
 ひどく低調な場所だったが把瑠都だけは気になって毎日見ていた。
 それと高見盛にはいつも通りいやされた。貴重な存在である。早く息子を日本に連れてきて高見盛のまねをさせたい。それまで現役でいてくれるか。あの人は天然記念物的な貴重な人である。これからどんな力士が何をしようとあのような支持は受けないだろう。天然と養殖は違う。北桜のパフォーマンスも受けているが私の中で両者の存在は天と地ほども違う。北桜の後継者はいくらでも現れるだろうが。

11/27
厭なニュースの季節

豊作でハクサイ悲し…需給調整で廃棄処分


Photo
トラクターでつぶされ廃棄されるハクサイ(茨城県八千代町で)
 
 豊作で露地物野菜の安値が続く中、ハクサイの産地・茨城県八千代町で、出荷量を抑えて価格を維持する産地廃棄(緊急需給調整)が27日まで行われた。

 収穫を待つハクサイが、トラクターで次々と踏みつぶされた。

 同町では23年ぶりで、24日から2300トンが廃棄された。今秋は颱風などの被害が少なかった上に、比較的暖かい日が続き、鍋物需要も伸びずに値崩れした。

 鹿児島県東串良(ひがしくしら)町でも、ハウス栽培のピーマンの自主廃棄が始まった。豊作で市場取引価格は平年の3分の1以下。30日までに約15トンが廃棄される。(読売新聞) - 11月27日


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 親が子を殺したとか子が親を殺したとか子供が自殺したとか厭なニュースが続く。そういうのが流れてくるとテレビを消す。見ない。
 それは厭なニュースだが一面において私は割り切っている。親になる資格の無い人が子を作れば我が子を殺すこともあるだろうし、そういう親から生まれてきた子が親を殺すこともあろう。悲惨な苦労ばかりでも絶対に自死しない人もいれば羨まれる生活をしていてもそうする人もいる。自殺に関して私は同情しない。

 毎年憂鬱になるのが上記のニュースだ。餓死する人もいる世界なのにせっかく実った食料を自らの手で破棄する。かといって飢えている人にこれを与えることも出来ない。無料で振る舞うことも出来ない。資本主義社会の矛盾である。いやそれ以前の人間の矛盾か。北朝鮮で餓死する人から見たら青々と実った白菜を踏みつぶすこの映像はなんと映るだろう。

 で、終り。なんともたまらない気持ちになって筆が続かない。


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