日々の雑記帳

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03/5/11 株コンプレックス(03/5/11)

 従兄弟が死んだ。六十だった。この従兄弟は、一時、私の親戚で最高の栄華を誇り、その後、親戚中最悪の問題を起こした人だった。栄華は穀物商として、問題は株である。

 私が、チェンマイで知り合った多くの友人に、「あんたがそこまで無知とはしらんかった」と唯一呆れられたのが株のことになる。従兄弟のことがあり我が一族では株は触れたら地獄に堕ちる悪魔の存在になっていた。三億の借金を一族郎党全員が出し合って返したのだ。先祖伝来の土地を手放し、数十年かけて作った財産を処理して、みんなで穴埋めした。そのいきさつを目の当たりにしているから、株は私にもそういう存在だった。

 ところが世はバブルの頃、チェンマイで知り合う旅人で株をやっていない人はいないといってもいいぐらいだった。みな百万から五百万程度の金を上手に転がし、すくない人でも三百万、多い人だと一千万を稼いでいた。一所懸命働いて稼いだ金を株への投資で増やし、一気にチェンマイ永住を叶えようというのは、あの当時だれもが試みていたことだった。博奕なんてとんでもないことで百円すら賭けるのはイヤだという人がそうだったから、そういう時代だったのだろうし、従兄弟のことがあったにせよ、そんなことを考えても見なかった私が、時代とずれていたのも確かだろう。後に知ることだが、馬券仲間でも株をやっている人は多かったのだ。

 株は上手に運用すれば、百万円がすぐに十万円の利益をもたらしてくれる魔法の箱だった。『サクラ』に集う旅人も、毎日みな株価を気にしていた。数百万円分の株を貯金代わりにだれもが持っていた。それなりに物知りなのに、なぜか株に関してはなにも知らず、それどころかただの一度も買ったことがない私は、みんなから缺陥人間のように思われてしまったのだった。

 当時知り合った友人たちはいま、株をどうしているだろう。下がったまま、売るに売れずもっているのだろうか。

 私の場合も億に届く金を馬券ですっているから同じような破綻者なのだが、株と馬券がひとつ違うのは、馬券は名義で転がすことは出来ないことである。稼いだ金をぜんぶ馬券ですってしまったが、稼ぐ予定の金まではすれなかった。そこが株との違いになる。もしも私に「当たったとき返してくれればいいから」といくらでも貸してくれる人がいたら、私は際限なく負け続け、今頃は親兄弟の地所もすべて失っていただろう。確実に首をくくってこの世にはいなかった。
 馬券ですった億の金はすべて競馬マスコミで稼いだ金だった。「おれは競馬業界からは金はもらわん。すべて馬券代にする」ときめつけてやったことだった。その意味ではスッキリしている。もちろん当てるつもりでやって外した。負けようと思って負けたわけではない。欲の皮は突っ張っていた。あまりに無能だっただけで……。
 それでも、もしも私が今ちいさな家を所有しており、それが競馬物書きで稼いだ金で建てたものだったらなら、競馬と関わったことをあからさまに悔やんだり嘆いたりは出来なかった。競馬マスコミの道義の低さを批判することも出来なかった。そういう筋は通すほうだ。競馬関係で稼いだ金はすべて馬券購入に充て、きれいにぜんぶ負けたから、競馬で食ってはいなかったと、競馬マスコミ専業者とは違うと今後も言える。ささやかにすがる蜘蛛の糸になる。

 タンス預金をせず、もっとアメリカのように一般庶民もどんどん株の運用に投資して欲しいという政府筋の意見はもっともである。私はそれを正しい意見として支持する。ただ私の場合は己の無能をもう知り尽くしているので、今後なんらかの餘裕が出来ても株には手を出すことはない。私にとってこれほどトラウマという言葉が似合う対象もない。
03/7/8 ウォルマート・ストアーズ


 日経新聞より引用。

トヨタ自動車が企業番付で8位

 米経済誌フォーチュンは7日、02年の年間売上高に基づく世界企業500社の番付を発表。トヨタ自動車が前年より2ランク上昇し、日本企業として最高の8位となったほか、三菱商事(10位)が上位十傑に名を連ねた。 全体では、米小売り最大手ウォルマート・ストアーズが2465億ドルと2年連続で首位を守った。2位は同自動車最大手のゼネラル・モーターズ(GM)、3位は同石油最大手のエクソンモービルだった。

 近年すっかり経済の勉強を怠けていたので未だにGMとエクソンの天下だと思っていた。恥ずかしい話である。もう二年連続で世界一の企業は、この小売業のウォルマート・ストアーズだったのだ。べつに最近の流行語など知らなくてもかまわない(むしろ知りたくない)が、こういうのを知らないのは恥ずかしい。ぼくのような無知のために日経はフォロー記事を置いてくれた。ありがたいことである。ぼくと同じように不勉強な人は一緒に勉強しましょうね。

勉強その1
ウォルマート・ストアーズとは

 世界最大の小売企業。本社米アーカンソー州。創業者のサム・ウォルトン氏が1962年に1号店を開店。ディスカウントストアや会員制卸売店など約4400店を米国含め世界10カ国・地域に持つ。2002年1月期の売上高は2177億ドル(約28兆円)で世界最大の民間企業。純利益は66億7000万ドル(約8600億円)。従業員数は約130万人。


勉強その2
(1/26)ウォルマート、売上高世界一・創業40年で30兆円に

 米小売業最大手のウォルマート・ストアーズが、年間売上高で石油メジャーのエクソンモービルを抜き、民間企業として世界最大になる。2001年度(2002年1月期)の売上高は2200億ドル強(約30兆円)となる見通しで、エクソン(昨年12月期)の2129億ドルを上回る。1962年の1号店オープンからちょうど40年でトップになる。

 2000年度はエクソンに次ぎ2位だった。売上高が1000億ドルを突破したのは97年1月期で、5年で倍増した。 成長の原動力は、米小売業で初めて商品管理にバーコードを使うなど、情報技術(IT)を生かした経営効率向上による低価格化の実現だ。対照的に、連邦破産法11条の適用申請に追い込まれたKマートはシステム投資に消極的で、この面で両社に「決定的に差が付いた」との指摘がある。

 たえず新しい形の成長を追求する経営姿勢を評価する声も多い。日用品や衣料雑貨中心で食品を扱わない旧来型のディスカウントストアから、90年代に食品併売型の「スーパーセンター」に事業の主力を切り替えたことが、近年の急成長につながっている。 ウォルマートの店舗数は昨年末で4382。2003年1月期は過去最大の415―440店を出店し、110店を閉鎖する計画。

 勉強その3
 ウォルマートは日本の西友を買収したので、そのうち西友が「ウォルマート」の名になる。近いうちに日本でもこの世界一の小売企業と接することが出来そうだ。って、なさけねえなあ、日本経済。で、ウォルマートに続く世界二位の小売企業がフランスのカルフールなんだって。

 しかしすごいね。たった40年で小売業が自動車会社や石油会社を追い抜いたんだ。すごいよ、これは。最初はたった一軒の店から始めたんだろう。今じゃ4382店か。いやはや。同じような形で急成長し、そこからのびずに衰退していった同業もいっぱいあったろうし、実際Kマートはは倒産している。十年後、二十年後、ウォルマートはどうなっているんだろう。

03/7/9 イランの双子姉妹(03/7/9)

頭部分離手術で1人死亡−イランの双子姉妹 転出。

 世界初となる成人の双子の頭部分離手術を行っていたシンガポールの私立ラッフルズ病院は手術3日目の8日午後、イラン人双子ラレ・ビジャニさんとラダン・ビジャニさん姉妹(29)の2人とも、出血多量で死亡したと発表した。2人は分離手術の最終段階で出血多量となり、分離後に相次いで死亡した。 7日夕までに大阪市立大の大畑建治助教授らが静脈移植の手術などを無事終了。別の医師らが頭がい骨切断、脳の分離手術を行っていたが、終了直後に異変が起きた。2人の脳は癒着が激しく、分離に約20時間要したという。姉妹はそれぞれジャーナリスト、弁護士になる夢を持っていた。

 もしも前もって映像を観ていなかったら、私にとっては、ただのかなしいニュースだった。そのときは痛々しいと思いつつも、すぐに忘れたに違いない。だが数日前、シンガポールに到着してニコニコと報道陣に手を振る彼女らの姿を見ていた。その笑顔が印象的だったので、あの元気な姉妹が手術することによって死んだのかと、我が身の痛みとして伝わってきた。見出しは「一人死亡」だったが、本文は相次いで死亡だった。
 そのままだったならまだまだ生きられた。それこそ、二十年も三十年も生きられた。健康(?)な彼女らを手術が殺した。しなければよかった。まさか失敗するとは夢にも思っていなかった。ベトちゃん、ドクちゃんが成功したように、しばらく後には、二人に分離した元気な姿が見られるものと確信していた。そうでなければ手術に踏み切るはずがない。彼女ら以上に、世界的な話題になり、責任を負う医療陣が……。

 朝からなんともたまらない気分だ。ワイドショーをつけたらそのニュースをやっていた。元気な彼女らの姿を見るに忍びなくすぐに消そうと思ったら、コメンテイタのデイブ・スペクターがいいことを言ってくれた。なんでも97年のドイツでの精密検査で、体がつながっている双生児の分離はともかく、脳がつながっているから、現代医学の技術では無理だと結論が出ていたそうなのである。それでも、どうしてもひとりひとりになって活動してみたいと彼女らが熱心に願い、そうして実現した手術だったらしい。それから6年経っているから、医者の方も成功の自信を持って望んだのだろう。
 小倉ともあきが締めた。「手術室に入る彼女らは、ひとりひとりになった自分を夢見て、希望を抱いて手術台に乗った。そのまま逝ったことが、せめてもの慰めになる」と。
 イランではとても有名な姉妹で、テレビでもよく映像が流されていたという。みなシンガポールからの手術成功の報と、二人になって元気に帰ってくる姿を期待していたろう。

 ベトちゃんドクちゃんの場合は米軍の枯れ葉剤が原因だった。彼女らにもなにか原因があったのだろうか。こういう話になると、放射能に代表される近代がもたらした人為的な悲劇のようにばかり語られるが、一概にそうとも言えない。むかしはそういう形の子供が生まれたら間引いてしまったのだ。生きさせようと思っても当時の医学では生きられなかったろう。非常に残酷な言いかただが、植物と関わっていると間引くことの重要性を感じる。私の育った田舎には、双子すらいない。しかし母に聞くと、実はかなりの数がいたのだという。田舎では畜生腹と言って忌み嫌われるから、生まれたときに産婆と相談して片方を間引いてしまった例が数多いようだ。そうして人の口に戸は立てられないというように、いつの間にか噂になり、後々まで語られる。双子、三つ子をすなおによろこべるいい時代になったものだ。
 シャム双生児のような畸型が、近代兵器とか原子力発電とか、そういうものと関係なく大昔から存在していたのは事実だろう。放射能は人間が作り出したのではなく、自然に存在するものでもある。
 ま、そんなリクツはどうでもいいや。それにしても、なんとも気が重くなる。
03/7/21
「忘れる」の自己弁護(03/7/21)

 フリートウッド・マックがもともとはぎっとぎとのブルースバンドであったこと、ちょいちょいメンバーチェンジをした挙げ句の果て(割合適切な表現だ)に、それまでとはまったく傾向の違うポップス系の「噂」の大ヒットにつながったこと、彼らの一曲をパクって宇崎が「スモーキン・ブギ」を作ったこと。しかしさらにそれには原曲があり、それがブルースマンのエルモア・ジェイムスの曲であること等をぼくは「すべて知っていた」、それどころか彼らが方向転換してヒットを出したとき、「堕落した!」と憤慨したほどなのである。今でこそリチャード・クレイダーマンだのカーペンターズを聞いたりするクソオヤジであるが当時はそんな腑抜けな音楽を聴くぐらいなら死んだほうがましだぐらいの気迫でいた。
 しかし、なんとそれらのことをぼくは「すべて忘れていた」のである。いやはやこれにはおどろいた。

それは先日「フリートウッド・マックBest」を聞いてもまったく思い出さないことだった。思いもしなかった知識であることに気づいたのである。自力で思い出さず、思い出せず、他者に知識を並べられて「そうそう」と思い出すのは思い出したとは言うまい。つまりぼくは「完全に忘れていた」のである。ここでくだらないことを考えてみる。もしも大金がかかったクイズがあり、「フリートウッド・マックについて知っていることを全部書け」と言われたなら、ぼくは金欲しさ思い出しただろうか。あるいは「思い出さなければ殺すぞ」と脅されたら命惜しさの必死さで思い出したのだろうか。人間にとって忘れるのは大切な能力である。しかしこういう形で忘れてしまっているとちょっと怖い。

 居直って言うなら、ブルース好きのぼくにとってフリートウッド・マックはブルースバンド時代からたいして好きなものではなかったし、「ルーモアズ」も全米1位になり世界的大ヒットをしたアルバムだが、とりわけ心に残る音楽だったわけでもない。「なるほど、これが今の売れ線か」と思っただけである。大好きなものをここまで忘れてしまったら動揺すべきだろうが、たとえば文系の大学生が高校時代の数学などすっかり忘れてしまうように、これはこれでよくあることで、それほど気にしなくてもいいのではないか。自分を慰めるためにそんなことを思った。

(おお、今ウィッシュボーン・アッシュのツインリードがハモってる。いいなあ、これ好きだったなあ。これぐらいしかもう持ってないんだから捨てずにしばらく取っておこう。)

 人は落ち込んだとき、なんとか心の平常を保とうと懸命に自分を救ってくれるものを探す。ふと本棚に目がとまった。それがこの写真。
 Jazzの手引き書である。
 二十年前、それまでいくら聞いてもチンプンカンプンだったJazzが突如として心にしみこんできた。待ちに待った瞬間だった。これはもう長年寝たきりだった息子が突如として青筋立ててスタンダップしたようなものだから、この期を逃してはならずと古女房に抱きついた、いや女房じゃもったいないからソープランドに突撃した、とこれを機会にJazzの猛勉強を始めたのである。買いまくりもらいまくり聴きまくり、写真のような本で受験勉強のように知識を蓄えた。毎日Jazz浸りだった。そうしてほんの一年ほどでいっぱしのことを言えるぐらいのレヴェルになったのである。基本的にJazz以外の音楽知識はある。Jazzという分野のみ未だ工事中で迂回していたが、周囲の音楽インフラは完備していたから飲み込みは早かった。Jazzファン一筋三十年なんて人ともミュージシャン名や著名なアルバム名などいくらでも出てきて対等に話し合えた。言っちゃ何だがそういう人はJazzしかないわけである。深いが狭い。こっちのほうがフィールドは広い。先日書いたが、クロスオーバーブームの時、ロックミュージシャンにはジャズへのコンプレックスをもってしまった連中がいた。ぼくはそっち側からも見ている。だが純粋な(?)ジャズファンにはクロスオーバーだのフュージョンだのは窓外の騒音でしかない。なんの興味もないのだ。それを始めたヴェテランジャズメンを堕落したと誹謗することにはやぶさかでないが。とにかく狭い。なにを話しても負ける気はしなかった。音楽を語るのに「負ける気」なんてヘンな表現だが、Jazzファンには意固地で好戦的なのが多いから会話が妙に闘いめくのである。

 そうしてぼくの音楽世界──音楽団地って感じか──はすべての工事が終了して全棟完成した。ジャンルで言えば、いわゆるJ-Popsなんてのはいまだにまったく知らないが、それは最初から興味がなく建築予定がないからいいのである。興味があるのに理解できないJazz棟のみ工事がストップしていた。ぼくとしては積年の悲願が叶ったようで気分がよく、これらの本を読む勉強にも力が入った。毎晩バーボンを飲みつつ(それまでひとりでバーボンを飲むことはなかった。Jazz=バーボンである)、名盤を聴きながらこれらの本を熟読したものだった。

 しかしそれから十数年、いまのぼくからはJazzに関してほとんどなにも出てこない。そりゃあ好きなものと基本的なことぐらいは今も覚えているが、「フリートウッド・マック=ルーモアズ」で終るように、知識としてはそんなレヴェルだ。あれほど夢中になって勉強し、砂地に水で知識を蓄えたのに、ほんの十数年でもう忘れている。でもそれは忘れたというよりも、自分なりの音楽世界が完成したからよけいなものがこそげ落ちていった感覚なのである。その感覚から推すと、二十五年ぐらい前のたいして好きでもなかったフリートウッド・マックに関することを忘れていても、それほど気にしなくてもいいのではないか。そういう結論に達した。
 そう思って自分を納得させたのだが、どうもこの自分を慰めるために採った方法は、隣のじーさんは自分の名前すら忘れているのにおれはまだ女房の名前をわすれたぐらいだからたいしたことはないといっているようなもので、なんだかいくら自己弁護とはいえあまりに情けないのではないかという気がしないでもない。
景観訴訟(03/7/31)
 世田谷(と目黒区の境)で景観訴訟の話題。あれは、たまらないだろうなと思う。先祖伝来の地、新興住宅、なんでもいいけど、平屋や二階屋の並ぶ地域にいきなり19階建てなんてのを建てられたら一生が暗くなる。毎日が憂鬱だ。それから逃げられないのだ。こういうのこそ法律で守ってやらないと。テレビでは「14メートル以下に規制するように」とか住民運動をやっていたけど当然だ。京都の高層ホテルなんてのもひどいし、チェンマイの『サクラ』の前のホテルにさえ腹立つ。景観を無視した自分勝手は規制されねばならない。だけどこれ、勝てるのか。もうかなり出来上がりつつある。もう引っ越してしまったけど、ぼくの住んでいた品川もひどいことになっていた。これは引っ越し話に書こう。街が変遷してしまったことも東京を引き上げた大きな理由だ。でもそこに永住を決意している人は引き上げられない。引っ越しできない。勝って欲しいと思う。こういうことに関して、ヨーロッパはほんとにきちんとしている。景観はみんなの財産として守らねばならないものだ。

 形は違うが、そういう憂鬱なことをこの田舎の家でも経験している。もう十数年前になる。田舎の風光明媚な我が家の前に突如プレハブの工場(こうば。こうじょうじゃなく)のようなのが出来た。一発当てようとした近所の百姓が何人かの人を巻き込み、「スーパーに刻み野菜を収める工場」を作ったのだ。我が家の前の小さな家がその巻き込まれた一軒になる。家を改築して工場にした。木造平屋がプレハブの白い無骨な二階建ての建物になった。我が家からの眺めは一気に悪くなった。しかしこれは法を犯していないなら悔しいけど我慢せねばならない。のどかな田舎の景色の中に不格好な白い四角張った工場があるのは興ざめだが。
 問題はまともな駐車スペースも確保せず操業したことだった。そういう場所ではない。敷地がない。どだい無理だった。で、どうやったかというと路上駐車である。我が家とその家の間にある道路に、毎日保冷能力のある4トントラックが数台停まり、保冷せねばならないから、エンジンをかけっぱなしの状態が続くようになる。これはいま思い出しても憂鬱な光景だった。小鳥のさえずりしか聞こえないような静かな環境に、毎日午前九時から午後六時ぐらいまでゴンゴンゴンゴンというトラックのエンジン音がひっきりなしに鳴り響くことになった。いつもその道路をトラックがふさいでいるから、庭からクルマで出るのにも苦労するようになった。締め切っている冬場はまだいい。春から夏のいい季節が騒音と排気ガスでぶちこわしになった。

 この当時のことを思うと、あらためてぼくは自分のだらしなさに赤面する。親のためにも闘わねばならなかったのだ。なにしろ荷物の積み卸しや保冷等、本来工場内敷地ですべきことを路上でやっているのである。日に数本しか走らない田舎のバスであるが、そういうのも我が家の前で動けなくなっていたし、それが違法であることは明白だった。騒ぎ立てれば警察も無視は出来なかったろう。ぼくが闘うべきだった。それをすべきだった。かといって解決法はない。周囲の田圃や畑を買って駐車場にすればいいのだが、そんな資金などないのはわかっている。カツカツの自転車操業なのだ。当然のごとくそんなところに出入りする運転手にまともなものはいず、路上はタバコの吸い殻や空き缶で汚れて行く。

 今更ながら自分の事なかれ主義とだらしなさを思って恥じ入るのだが、当時のぼくはチェンマイ狂いである。田舎の家を猫を預かってもらう假りのすまいとしか考えていなかった。一年の内、チェンマイに4ヶ月、その他の外国に1ヶ月、東京に4ヶ月、合間に田舎に3ヶ月ぐらいの生活感覚か。それはたまらないほど不快なものだったが、田舎に定住していないから我慢できたし、頭の中はいかにして仕事をやりくりしてチェンマイに行くかに占められていた。
 父母の不満も限界に達し、定住していないぼくももうさすがに我慢が出来ない、裁判沙汰にするしかないと決意した頃(それまでも何度も警察は厳重警告をしていたらしい)、そいつらは引っ越すことになった。山の中にまともな広さを確保して、そちらに移ることになったのだ。そこで今も営業している。我が家には静けさと平穏がもどった。景観は壊されたままだ。しかしあの最悪の日々を思えばそれぐらいは我慢する。悲惨なのは、住まいを工場に模様替えされ、捨てられた女のように縁を切られた前の家である。今も一家で、その工場跡地に住んでいる。冬は寒く夏は暑い。だまされたとの愚痴がいまだに聞こえてくる。

 景観訴訟の問題はこれからの都市の(田舎でも)大きな課題となろう。日本が政治後進国であると感じるのはこういうときだ。ヨーロッパのしっかりしたシステムがうらやましい。なにしろ家を建て替えるときでも前と同じ形にせねばならないと決められていたりする。街全体の眺めが住民全員の財産になっているのだ。
 云南に家を建てるとき、ぼくは周囲にとけ込む。自分だけ目立つような愚かなことはしない。それだけは心がけている。

03/8/3
夏の首都圏電力消費量
(03/8/3)

 先日、「首都圏の夏の電力消費量はイギリスの一年分に匹敵する」という記事(『週刊文春』に載っていた東電の広告だったか!?)を読んで、へえ〜と思い、しばし「なんで、なんで」と考えた。ロンドンなんてあんな大都市だし、イギリスはそれなりに大きな国だし、と。

 答えは簡単。イギリスの夏は暑くない、だった。クーラーをいれることがないから、通年で考えた場合、そのぶん電気を消費していないのだ。クーラーだって一般車にはついてないものね。スコットランドの外れのほうじゃ、夏だってだいぶすずしい。そういうことでしたか。
 そうそう、以前は同じくついていなかった北海道のレンタカーに、近年はつくようになった。年に数度しか使わないだろうからもったいないが、数年前、ぼくは異常な暑さの日に遭遇して助かったものだ。

 こういう興味深いことを知ると、こんな大ざっぱなものじゃなく数字で知りたくなる。そしてまたじゃあクーラーを回しっぱなしのタイなんてどれぐらい電力を使っているのだろうと思う。イギリスの一年分と比べてどうなのだ。推測で、「バンコクの電気使用量はその他全国を合わせたよりも多い」は間違いないだろう。タイ国のGDPの半分を一都市で稼ぎ出すバンコクだが、電気の使用量は半分以上と思われる。こんなこともインターネットなら調べられるはずなのだが、どうしたらいいのか。

 でもこの「首都圏」てのはどういう定義なのだろう。都心を真ん中にして百キロ圏内の円なのかな。印象的だがアバウトな記事でもある。これもまたも調べれば「首都圏」という定義があるのかな。それと「夏場」ってのはいつからいつまでなんだ。

 今年もまた夏の終りに、「消費されたピールの量は霞ヶ関ビルをジョッキにすると何杯分」とか(今は霞ヶ関ビルじゃないか?)くだらない比喩が連発されるんだろうな(笑)。このごろ広さを表すのに「東京ドーム何個分」てのもよくやる。あまり実感はない。

健康常識の変化(03/8/31)

 最近、健康本を読むようになった。血液さらさらウンヌンは今の私にけっこう切実な問題である。とにかく水分だけは充分に取るようにしている。といっても立ち読み程度。まず健康オタクにはならないだろう。これは自分のオタク体質を客観的に観て自信を持って断言できる。だいたいが健康オタクは神経質でこまめな人がなるものだ。私はズボラである。気にしない。それが健康の秘訣である。

 先日から「ウコン茶」を飲んでいるのだが、これがまずい(笑)。錠剤で飲んでもまずいものを日に1リットルも茶で飲もうとはなにを血迷ったのか。勘違いをした。おまけに、いつも飲んでいる云南で買ってきた「茉莉花茶──ジャスミンティ」が美しい深みのある黄金色であるのに対し、このウコン茶、もろにしびんの中の尿の色。黄色っぽい色からしていかにもまずそう。失敗である。

 健康の常識は時代とともに変る。私たちの世代でなんといってもひどかった常識は「運動するとき水を飲んではいけない」だろう。陸上部や野球部など、脱水症状になりつつ練習をしていた。フツーの生徒である私らも、マラソンの時など水は絶対禁止だった。水を飲みつつ走る今のマラソンを観ると隔世の感がする。どう考えたって水を取るのが正しい。あんな誤った考えは誰が流布したのだろう。
 新たな常識もいつ変るかわからない。振り回されたら不健康になる。あまり気にしないのがいちばんだろう。数年前、みのもんたの番組で「ココア健康法」ってのをやって話題になったことがあった。それを真に受けたキョセンが毎日何杯もココアを飲んでいたら血圧だか血糖値だかが異常に上がったりして体調不良になり、「みのもんたに殺されるところだった」と書いていた。おしかった。もうすこしだったのに(笑)。

 次々と変って行く医学常識の中で最も信じられるものは親から受け継いだものである。親が癌で死んだのにタバコを喫っているなんてのは自殺行為だ。こういう人は、癌がこわくてたばこが喫えるかとか、死ぬときが寿命なんだなんて空威張りをしていて、発癌してから脅えた目で急に節制を始めたりする。そのときはもう遅い。そうして死んでいった人を数多く見てきた。人は誰も体内に癌になる資質を持っている。それが出やすいか出にくいかだ。出やすい体質を持っているのにタバコを喫っている人には何を言ってもしょうがないのだろう。

 最近目について、なるほどなと思っている健康論に「朝は食うな」がある。
 少し前までは「とにかく朝は生活のスタート時間。一日の内でもいちばん栄養たっぷりの食事を取りましょう」が主流だった。「規則正しい一日三度の食事」と言われていた。今は「朝は食うな。水分だけがいい」「人は一日に三度固形食事を取る必要はない」がそれなりの評価を得ている。
「朝は食うな」でなるほどと思うのにこんな意見がある。「朝は目やに鼻くそ歯くそが出てきたない。息も臭い。それは夜食事を取って眠り、長時間なにも食べていないという"ミニ絶食明け状態"だからである。絶食から復帰するときの食事がむずかしいように、朝はまず水分を取り体を活動できる自然な状態にもどしてやるのがよく、いきなり大飯を食うのは厳禁である」というものだ。
 ぼくには「朝は一日の始まりだからヴォリュームたっぷりの食事を」より、これのほうが説得力がある。どう考えても寝起きの身も心もボケっとしていて、たいして食欲を感じていないのにたっぷりの飯を詰め込むことが理にかなっているとは思えない。臓器に負担を掛けるのではないか。また、人が手本にするのは動物である。動物は空腹になったら狩りをする。今から狩りをするから、そのためにたっぷりと食べて体調を整えて、という動物はいない。一日の行動の前にたっぷりと朝飯を食べて、はいかにも人間のリクツが考え出したもののように思える。
 とはいえ、長年「朝はたっぷり食べないと」の呪縛は引きずっていた。朝抜きの自分は不健康人間の代名詞だと……。いちばんよくないのはこういう無意味な劣等感ノヨウナモノであろう。これから解放されたことがありがたい。朝栄養たっぷりの食事を欠かさずしても病気になる人もいる。いつも朝飯抜きで病気をしたことのない私のようなのもいる。人それぞれだ。
 なんだかこの種の常識はころころ変る。よくわからん世界である。
03/10/9
ケイタイの変えた文化


 押入の奥から忘れていた段ボール箱が出てきた。外国に頻繁に行くようになり、猫を連れて帰郷するようになったこの十数年のあいだに溜まっていた新書、文庫本がびっしりと入っていた。たいしたものはない。みな娯楽本だ。冒険活劇(西村寿行、勝目梓、大沢在昌、馳星周等)、お気楽エッセイ(椎名誠、東海林さだお、嵐山光三郎等)、推理小説(赤川次郎、西村京太郎、山村美沙、島田壮司等)の類である。新書は、ちょいとしたハウツーもの、雑学本だ。
 中に阿部牧郎のオフィスロマンと呼ばれるものがかなりあった(赤面)。あれは好きだった。ほんと〜に好きだった。中年の課長が部下の美人OLと真昼の資料室で……というのは、実際にそういう業務に関わっている人も妄想することであろうが、そんな世界とは無縁の私のようなのにも夢の世界になる。それはサラリーマンとは無縁のマンガ家の友人がやはりこのシリーズが大好きだったことからも間違いない。彼とはこのシリーズが好きだと意見があって親しくなったようなものだ。ちなみに私はイメクラなるものに行ったことはないが、行くとしたら指定のコスプレはだんぜん企業の制服がいい(笑)。セーラー服とか看護婦なんてのはまったく興味がない。んなこたあともかく。
 それらをもういちど通読してから捨てようと毎日二、三冊読んでいたから、娯楽本ばかりで自慢になるような内容ではないけれど、単なる読書量は、ここのところかなりのものだった。

 そうしてしみじみと思ったのだ。携帯電話は、「戦後日本人の文化を変えたもの」のようなランキングを作ったらどの辺に位置するのだろうと。もしかしてこれは、テレビと並ぶトップを争うものではないかと。

 今回読み返しておどろいたのは、西村寿行の壮絶な復讐譚から阿部牧郎のオフィスラブまで、すべてのストーリィが「携帯電話があったら成立しない」のである。
 寿行的世界の主人公が、たとえば長野の山奥の敵のアジトに潜入する、そこで敵に捕縛されてしまい仲間と連絡が取れなくなるという危機、あるいは旧盆に長野を通り抜けて帰郷する妻と子が突然連絡を絶つ(長野が連続したが寿行世界ではおどろおどろしい世界として山国が重要なのだ)という事件の発端、それらの場面は、すべて「ケイタイで連絡すればいいじゃん」で片が付いてしまう。謎の失踪のような場面設定が不可能なのだ。
 推理小説もしかり。密室トリックなど「なんでケイタイで連絡しないの?」でトリックにすらならない。オフィスラブも同様。仕事上のミス、男と女のすれ違い、そのことで燃え上がる恋慕の情、すべて携帯電話があったら起きていないのである。
 これらの作品は「連絡不可能な情況」を作り出して、そこからドラマツルギーを始める。たとえば山奥の、普通の電話のない廃墟、ひなびていてもちろん公衆電話なんてない、なんて孤立した情況を作っても、今ではケイタイがある。ケイタイというどこへでも持っていけて外と連絡が出来る機械が、そのせっかくの情況設定を根底から覆してしまったのだ。実際いまでは、かつては完全な密室での出来事となっていたハイジャック犯の世界までが乗客のケイタイによって外部に漏れるようになっている。アメリカのテロの時は、墜落間際の飛行機から家族への別れの挨拶まで録音された。

 もちろんこれらの作品は携帯電話というものがない時代に書かれたものだ。最近はこの種のものを読んでいないので知らないけれど、きっとケイタイがあることを前提にしたハードボイルドやオフィスラブものがあるのだろう。なきゃおかしい。いくらでも成立は可能だ。

 言いたいのは「作品の寿命」についてである。ケイタイのない世界を知っている私らはまだいい。「このころはまだなかったからな」と当時を思い出しつつその世界に入れる。だが、あることを当然として育った世代は、ないことを前提として書かれたこれらの作品をとてもじゃないが楽しめないだろう。だってどんなハラハラドキドキの世界もすれ違いのラブロマンも、「なんでケイタイしないの」ですべて片づいてしまうのだ。ぼくのようなケイタイ的世界を遠ざけているものですらそう感じるのだから、ケイタイがないと生きて行けない若い世代には理解不可能だろう。すなわちそれは、これらの本にまったく商品価値がないことである。
 ほんとにねえ、いまこうして思い出しても、むかしの待ち合わせ場所を勘違いしてともだちや恋人と会えなかったなんて悲喜劇は、ケイタイがあったら100パーセント回避されているのである。なんだかため息が出る。
 赤川次郎さんの作品評価は毀誉褒貶相半ばしているけれど、あれはあれであのスナック菓子的な軽さは、そういうものを好む人から永遠に支持されるものだと思っていた。どうやらそうじゃない。軽いものほど時代とぴったり伴走していないと、つまらなくて読めないようである。これからは作品に「ケイタイ以前」「ケイタイ以後」の線が引かれるだろう。

 たとえばレコードがあっという間にCDになってしまったことは、ぼくにとって驚愕の劇的変化だった。しかしCD以前とCD以後は、それほど生活に影響は与えていない。FAXの誕生はありがたかった。私は初期の頃、地方放送局に郵送で原稿を送っていたし、それが間に合わずに航空便にしたこともあった。さらには電子メイルの普及がある。これらがなかったら今の生活は変っていたわけだけれど、でもその気になればそれらは、代替えが可能なのである。私はどうにも間に合わなくなって「書き取り原稿」というのをやったことがある。こちらの読み上げる原稿を相手が書き取るのだ。とんでもないことではあるが、それは可能だ。だからFAXも電子メイルも、既存の電話の範疇を超えてはいない。しかしケイタイは、代わりのものが不可能だ。待ち合わせ場所がわからなくなったとき、今までのものではトランシーバーがあるが、距離に限界がある。家にいる電話に公衆電話から問い合わせる方法もあるが、この場合は仲介する第三者が必要になる。生活の有り様をここまで変えてしまった機械はない。しかもそれは007の秘密機器ではない。中学生、高校生が個人所有できるほど今では安価なのだ。

 と、ここでまた気づく。どんなにケイタイが普及しても時代小説は永遠だ。舞台設定をそこに絞っているから、クルマも飛行機も、テレビもケイタイも関係なく存在し続ける。それらとは無関係に新作が書ける。う〜む、いいないいな。
 そんなこともあって、ここのところ、時代物がまた読みたくなってきた。この段ボール箱を一箱片づけたら、そっちに行こう。読書の最中に「これってケイタイがあったら成立しないな」なんて考えるのは、商品価値のなくなってしまう作者にとっても不幸だろうが、読者のほうもたまったものではない。そんな心配をせずに読めるものを読みたい。

03/11/19
クリスマスの憂鬱


 ぼくはキリスト教信者じゃないからキリストの誕生日を祝わない。信者じゃないどころかキリスト教は嫌いなのだから当然だ。そう思って生きてきた。そういう自分を正しい日本人だと思っていた。このごろ考えが変ってきた。
 日本人とは、常に八百万の神様をいだき、宗教に関してはよくいえばおおらかな、悪く言えば節操のない国民であった。あたらしいものずきでもあった。会話や文章にやたら欧米のカタカナことばを引用する人がいる。それを日本人なら日本語を話せと怒る人もいる。でもその怒る人の主張は四文字熟語だったりする。それこそかつての「カタカナ外国語」に匹敵する。両者は同じなのだ。あこがれの中国が欧米になっただけで。漢字崇拝が英語崇拝になっているだけだ。そう考えると、会話や文章にカタカナ語を連発する人のほうが、かたくなにそれをやめようとしている人(私もそのひとりだ)よりも、本来の日本人らしいと考えられる。今の年配者が、「最近の連中はやたらカタカナことばばかり使ってわかりにくい。日本語をしゃべれ」と憤ったように、その昔も「最近の奴らは妙に漢語ばかり連発しやがって」ノヨウナ反発があったに違いない。

 いまテレビのニュースで、街にクリスマスの飾りつけが目立ち始めたと報じている。NHKの男アナが、じつは我が家ではもうクリスマスツリを飾っているんですよと言い、女アナが、じゃあわたしのところもそろそろやらないと、と笑顔で応じる。この二人が二人とも洗礼を受けたキリスト教信者であるということはまずあるまい。なんでも都合よく取り入れてしまう日本人に、クリスマスはキリスト教とは関係なく、楽しい行事として認識されているのだ。
 タイが大好きだったのも、佛教の国で、クリスマスムードが薄かったからだった。今ではバンコクはもちろん地方都市でもクリスマスイルミネーションが目立つようになった。観光立国であり、それが白人観光客の大切な祝い事なのだから自然な流れでもある。商業的に大きなイヴェントであるから無視できないのだろう。

 なにが正しいか、どっちが正しいかの判断はむずかしい。ただ、歴史的に日本人とはどのような民族かと考えるとき、「おれはキリスト教信者じゃないからクリスマスは関係ない」と言っている私よりも、キリスト教信者じゃなくても、「楽しいな楽しいなもうすぐクリスマス、今年はどこへ遊びに行こう、誰とすごそう」と考える人のほうが正しい日本人なのだろう。そう思えてきた。日本人とはそういうものなのだ。
 自分のほうが正しいと思い、いまの世の中まちがっとると怒ることはやめようと思う。自分が外れものなのだと認め、ひっそりと生きよう。しかしどう考えても、キリスト教徒でもないのに、賛美歌ひとつうたえないのに、聖書を読んだことすらないのに、大切な人生の結婚式というものを、教会でアーメンとやっている人の気持ちが理解できない。それってあっちに対しても失礼だと思うのだ。でもそれが日本人なのか……。
 最初は教会も信者じゃないからと結婚式のみの使用を拒んでいた。以前書いたが、マツダセイコが式を挙げて有名になった目黒のサレジオ教会で、それよりも前に先輩が式を挙げたのだが、当時は許可してくれる教会をさがすのはたいへんだったらしい。でもそれで布教に役立つならと教会は受け入れることにした。しかあし、結婚式はやっても入信しないのだった(笑)。まったく日本人ってのは……。

 このクリスマスの無意味さには学生の頃から悩んできた。あのころは音楽サークルでも毎年クリスマスパーティなんて音楽会&忘年会をやっていたものだった。そのころからメリクリスマスと言ったことはない。当時から「なんでキリスト教徒でもないのにおれがキリストの誕生日を……」と思っていた。まだ政治的なことには目覚めていない。心情サヨクのころだ。政治が日々の問題から次第に考えるようになったものであるのに対し宗教は本能でだいぶ早くに目覚めていた。つきあった女といつもそんなちいさなことで諍いを起こしていた。女からするとそんなどうでもいいこと(?)で真剣に悩むぼくはバッカじゃないの、だったようだ。

 中国の山奥にすむ佛教徒で、クリスマスイヴなんてものの存在すら知らない娘と一緒になったのは、偶然ではなく必然だったのかもと考えるこのごろ。気が楽である。争いにならない。たとえどんな美女であろうと、キリスト教徒でもないのにクリスマスプレゼントだとかイヴの夜は豪華なディナをと言うような女とつきあうことはなかった。人はみな落ち着くべきところに落ち着くってことか。

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