の予定

(無事任務終了したので「予定」じゃなく現実になりました)
はじめに  電車の中で見聞した記録をメモしておこうと思い立った。最近の私的日記に書くテーマに圧倒的にそれが多い。それだけ私にとって通勤電車の中は新鮮な場になる。それは毎日電車で通勤することが私にとって珍しい体験であるから当然だ。新卒の時だって30分通うのがいやで15分程度のところに引っ越したほどだ。満員電車ほど嫌いなものはない。学生の時も満員電車がいやでいやで1時限目の授業に出なかったため留年している。まあもともと出席日数不足で高校卒業も危なかったのだが(笑)。私にはあの通勤地獄というものに耐え突破する気力がない。あの中にいると自分の尊厳というものが失われてしまう。

 と書くことは長年それをしている人に失礼になる。大多数の人がそうなのだから。でも私がまともな人生を歩まなかった大きな原因にそれがあるのは事実だ。とにかく満員電車ほど嫌いなものはない。
 それがこの齢になって、しかもサラリーマンの中でもそうはいまいという片道2時間近くも通うことになった。お世話になっているH子さんのためという大義名分がなければぜったいにやらなかった。私はそういうことをして裕福になるより貧乏なまま家で物思いにふけっている方がいい。
 毎日が地獄であるからそこでの体験は強烈である。とにかく一日でも早く今の生活から脱却することを目標にしている。仕事も人間関係も問題はない。満員電車がいやなのだ。それだけである。

 見知らぬ他者と偶然に接することを極力拒んで生きてきた。精神の安定を図るのにはそれがいちばんだった。そのことによるマイナスも大きかったろうが(最大のものは仕事を得る場が限定されることだ)私なりに自分の性癖を知り尽くした上での知恵だった。それは成功している。私は不条理な場に押し込められ無理強いをされたら上役を殴ってしまうような性格である。自分の性格を知り、そういう方面に進まなかったことは自分を褒めてやりたい数少ないひとつになる。

 ところがこの歳になってそんな事態に遭遇した。
 H子さんの代わりに通う会社でそれなりの数の不特定多数と接しなければならないにせよ、それはそれで調整が可能だ。会社という限られた場なのだから。気が合わないと直感で思った人には極力近寄らなければいい。私の場合、痛い傷をおっかなびっくり突っついてしまうように、合わないとわかっている人に敢えて話しかけ、やっぱりそうだったと確認したりもしているが(笑)。

 電車は違う。どんなヤツが隣に座り、あるいは立ち、どんなことをしてくるかわからない。毎日どんな目に遭うかも想像がつかない。逃げようと思っても満員電車では遁げられない。人嫌いの私には最も鬱な場になる。
 結果としてここに書くのは「今日はこんなヘンな人を見ました」「今日はこんなイヤな目に遭いました」ばかりになるだろう。言葉を換えると私の愚痴でありストレス発散の場になる。クルマで好きな音楽を聴きつつ通える人がうらやましい。

 とにかく今の私にとって通勤電車の中ほど憂鬱な場はない。その意味ではきわめて後ろ向きなファイル(笑)になる。愚痴と怒りのオンパレードだ。本人としては、これは特別な季節限定の貴重な体験であり、記録だと思って書くことにした。そうなるといいが。

ガムを噛む風習
 口元をクチャクチャ動かしている人がきらいである。これはもう生理的なものだからしょうがない。どうにもうけつけない。

 むかし「お口の恋人ロッテ」という朝鮮企業のキャッチコピーがあったように、むかしのチューイングガムは口臭予防を売りにしていた。しかし日本人の礼儀観として人前で口を動かしていることを是とはしない。野球の噛みタバコに代表されるように、職場でガムを噛むアメリカ人の姿は醜悪だった。日本においてガムは決してメジャなものではなかったろう。すくなくとも私の周囲ではそうだった。それは美意識の問題である。



 変化は「脳に刺激を与える」というような効能がおおっぴらになってから起きたように思う。ガムを噛みながらバッターボックスに立つ姿が目立つようになる。大リーグに行ったマツイカズオとかいうのが毎回クチャクチャさせながら打席に向かうのにはうんざりした。
 
 プロレスラーの高田延彦がタムラキヨシとの引退試合に真っ白なフード附きのガウンをかぶって花道を歩いてきたのはかっこよかったが、フードの下から見える口元がクチャクチャと動いているのにはしらけた。頭が悪いのでこういう風俗にはすぐに染まるヒトなのである。モチペーションということばが話題になったときは見開き2ページのインタヴュウで10数回も連発していた。これまたどこかで緊張感を和らげる、脳によい刺激を与えるとか聞きかじって早速実行したのだろう。頭の軽いいい人らしい発想だ。オザワイチローが海部俊樹を首相に担いだとき、「御輿に担ぐのはバカで軽いのがいい」と言った迷言を思い出す。高田はいつも担がれてきた。その軽さが口元に出ていた。

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 でも大リーグも高田もどうでもいいのだ。テレビを消せばいいことだから。
 ところが電車で通勤するとなると隣でガムをクチャクチャやっているヒトから逃れられない。となると問題だ。これがいる。どこにでもいる。目の前でクチャクチャとやっているオンナがいるから横を向く。するとタバコ臭そうなおっさんサラリーマンがクッチャクッチャとやっている。混んでいる中で身をひねり逆向きになると太り肉のおばさんがクチャクチャやっている。地獄である。目をつぶるしかない。目をつぶり咀嚼音が聞こえないように心を閉じる。

 電車の中でガムを噛んでいるヒトはどこにでもいる。目にしないことは不可能である。先日は両隣にすわったおっさんサラリーマンと若い女がふたりともクチャクチャしているので席を立った。そうするしかない。

 こんなとき役だってくれるのがiPodだ。これで音楽を聴きながら目をつぶっていればなんとかやり過ごせる。だが混雑状況では身動きすらままならないからそれすらできないし、なにより私は電車の中であんなものを聞いていることをよしとしない。携帯の画面を見つめているのも音楽を聴いているのも病人の風景である。
 電車のゴトンゴトンという走行音を聞きつつ好きな本を読んでいるのが楽しい。でもガム人間が隣にいたらそれは出来ない。元気があれば席を立つ。ないときはiPodを聞く。目をつぶってクチャクチャと動く口元の映像を消す。だけどそんな形での避難した音楽が楽しいはずがない。

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 そんな中でひとつだけ救われることがある。それは「ガムを噛んでいる老若男女がすべて私の嫌いなタイプである」ということだ。
 いかにも頑固で融通が利かず自分の意見だけを主張する底意地の悪そうなオヤジ。こんなのと職場が一緒だったらたまらないだろうなと思う。そいつが朝の電車でクチャクチャとガムを噛んでいる。これはたばこ臭さを消そうとしているのか。それともやめたばかりでつらいのか。臭い。
 バカ面した若い女。もしも本当にガムが脳に刺激を与えるとしてもその程度の刺激ではどうしようもあるまいと思うのがクチャクチャとせわしなく口元を動かしている。ブスが人前で口元を動かしているのは醜い。
 意地の悪そうな三十オンナ。獨身のようだ。休みなく動く口元から欲求不満が見え隠れする。下車したらすぐに喫煙コーナーに飛び込み鼻から煙を吐いていた。

 尊敬できるような穏和な顔の持ち主、美貌の女、生気に満ちた若者、さいわいにもそういう自分の好きなタイプにこの「電車の中のガム噛み」はいなかった。今のところそれだけが救いである。

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 ところでガムを噛むヒトにはそれぞれの理由があり、人種や文化の差もあるから一概には言えないのだろうが、日本人に関してはある程度言えると思う。今関わっている会社にも何人かのガム好きがいるから、そこからの分析でもわかる。

 それは「欲求不満」である。なにかに満ち足りずいらついているヒトが、自分を抑えるために噛んでいるのだ。タバコと同じくガムは口唇愛撫につながる。物寂しさを埋めるための小道具だ。何かに飢え、満足できず、いらついているヒトがクチャクチャやっているのは納得できる光景ではある。醜いが。

 もうひとつ思うのは最近やたらと目に附く「団塊の世代」のガム噛みである。これは世代的な憧れなのではないかと思う。たぶん彼らは子供のころからガムが好きだったのだ。好きなだけガムを買い、思いっきり毎日クチャクチャやりたかったのだろう。だが好きなだけガムを楽しむだけの小遣いがなかった。また周囲のおとなから絶えず口元を動かしていたら叱られたりもした。あの時代、人前でクチャクチャしていたなら必ず注意された。

 それが時が流れて今、脳に刺激を与えるから人前でガムを噛むことは無礼ではなくむしろオシャレなのだという時代が来た(いやそんな時代は来ていないと思うが)。毎日好きなだけガムを噛むだけの小遣いも得られるようになった。それで水を得た魚のように「脳に刺激、活性化、オシャレ、息さわやか」とつぶやきつつ、電車の中でも会社でもガム噛み三昧の生活を送っているのだろう。ほんとにガム噛みオヤジが多くなった。

 私のいま関わっている会社でも、常にガムを持ち歩き、まるで名刺のように相手に差し出している人がいる。この人の場合は一種の幼児性だと言える。

 明日もまた口元を動かしているヒトを見ないようにして電車に乗らねばならない。思うだけで憂鬱である。イヤな時代になった。
 
電車の中の狂人
×つぶやく狂人×

「買ってあげないからね」「いいの、いいの、もう買ってやらないから」
 朝の電車、どこかからそんな声が聞こえてくる。おばさんが言い争っているような声だ。
「買ってあげない」「いいの、もう、買ってあげないから」
 なんなのだろう、満員ではあるが充分に隙間のある程度の混雑だったので、思わず首を回して周囲を見てしまう。明らかな気違いだったら誰も関わらないようにする。だが同じ事を言い合うそれはおばさん同士のもめ事のように思えた。そしてまた不思議なことに見回す周囲にそんなおばさんはいず、どこにも言い争いのようなものはなかった。
 しばししんとしたあと、また「買ってあげないよ、あげないよ」と聞こえてくる。また周囲を見回すと私以外の何人かもキョロキョロしていた。

 こういうことにまったく興味がなく、目の前で何が起きようと無視する私だが、おばさんの言い争いのようなやりとりが何度も繰り返され、そのおばさんがどこにいるのかわからないものだから、次第に辺りをはばからず周囲を見回し犯人探しを始めた。

 やがてドアのガラスに顔をくっつけた二十歳ぐらいの若者が、オンナの声色でひとり二役をやっているのだと知る。明らかな白痴だった。いや魯鈍だか暗愚だか段階は知らない。また今は違う表記をするのかもしれない。とにかくいわゆる知恵遅れだかなんだか知らないが、バカ面した青年がドアのガラスに向かい、「買ってあげないよ」「いいのいいの、買ってあげないから」と一人二役で延々としゃべりつづけているのだった。

 それは朝の電車の中でまことに異様な光景であり、田舎者なら何事が起きたのかと思わずにいられない光景なのだが、通勤電車初心者の私と数人を除けば、誰もがまるでそんなものは存在していないかのようにしらんふりしていた。たぶん彼はこのあたりの電車では有名人なのだろう。私も本日こうして学んだから、次回に彼と乗り合わせ、彼が同じ事をしても「ああ、あいつか」と無視できる。慣れとはそんなものだ。

 彼はどういう環境の人なのだろう。これからどこに行くのだろう。人に害を与えることはないにせよ、こういう知恵遅れの人を家族はこのままほっておいていいのだろうか。


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(8月18日の『世相』より転載)

×車掌の真似をする狂人×



 朝、9時。電車はそこそこの混み具合。始発駅から乗った私はすわっていた。立っている人もそこそこいる。
 それは本物とよく似ていた。最初流れてきたとき車内放送かと思った。「本日も××線をご利用頂き誠にありがとうございます。この電車は××駅経由××行きでございます」
 車内放送だと思ったら、その「音」が近づいてくる。とすると車掌か? もしも私が乗り越しをしていたなら、彼の「乗り越しのお客様は」に精算しようと素直に反応していただろう。もろに車内を歩く車掌の声色だった。

 顔を上げると「漫才コンビレギュラーの松本」を小柄にしたような男(顔の造作も髪型も白シャツもそっくりだった。唯一違うのはズボンも白系だったことだ)が、車内放送のようなことをしゃべりながら歩いてくる。車掌なのだろうか。一目見て違うと思ったが、あまりにそっくりな声色に思わず凝視してしまう。腰の後ろにだいぶ疲れた黒革のバッグを下げている。本物っぽいが私物だ。車掌ではない。ただのオッチャンだ(笑)。とすると気違いか。誰もまったく反応しない。まるでいないかのように無視している。初めて見た私だけが物珍しげに彼を見ていた。
 やがて次の車輌に移って行く。世の中は広い。いろんな人がいる。私はまた文庫本に目を落とす。それで終ったと思った。

 ところがまたもどってきた。まあこれは車掌の真似が楽しい狂人だとするなら、最前部の車輌まで行ってまたもどってくるのは当然になる。
 しかしおどろいたのは、この狂人が決して無害とは言えないと知ったことだった。
 先ほどと同じく「毎度ご乗車ありがとうございます。この電車は××経由××行きでございます」と本物そっくりの声色でしゃべりつつ車内を歩く彼は、私の斜め前のドア近くに佇み文庫本を読んでいた五十年配のおばさんの前に立つと、「読書は××駅を過ぎてからお願いします」と言い始めたのだ。おばさんは無視して文庫本を読み続けようとする。その真ん前に立ち、おばさんの顔をうかがいながら──反応して欲しいのだろう──何度も何度も「読書をなさる場合は××駅を過ぎてからにお願いします」と、「車内での携帯電話のご使用はおやめください」の口調で繰り返すのである。人畜無害の狂人から充分にアブナイ狂人であると確認した。

 五回ほど繰り返し、完全におばさんに無視されると、またいつものセリフ?を言いつつ歩き去った。この辺、いつも思うことだが、「都会人は気違い慣れしている」と思う。純な人?ならパニックに陥ってもおかしくない。さすがだと思った。
 こうなってくると「車掌の真似をしている人畜無害のバカ」とも言えなくなってくる。気の短い人なら突き飛ばしたり殴ったりするだろうし、そこからまた派生することもある。もしもそのことによって彼(=気違いの方)が大けがでもしたら、アサヒシンブンなどは「心に餘裕のない現代人。電車好きの彼に罪はなかった。なぜ彼の生き甲斐を許せなかったのか!?」などと書きそうである(笑)。プロ市民(笑)の投稿で「声」欄は盛り上がるだろう。。まったくあの「声」ほど嗤えるものはない。

 初めて見たときあっけにとられ、すぐに人畜無害のおめでたい気違いと思ったのだが、この絡んでいる様子を見てそうとばかりも言えないと知った。
 もっとも狂人の方も、殴られるような対象には近づかなかったとも言える。これもまたこれで「都会の気違いは洗練されている」いうことか。

 
死に神の臭い
女性専用車の不思議  新卒以来三十年ぶりに朝の満員電車に乗ることになった。通勤時間帯には時間限定で女性専用車輌というものがあると知る。痴漢対策とかそういうことから設置されたのであろう。そういう異様な車輌を目の前にすると、数年前そんなことが話題になったと思い出した。

 私の見た女性専用車輌は最前部だった。中央線、東西線がそうだったのでみなそうかと思ったが、下記の参考資料で東横線は真ん中あたりを当てていると知る。

 不思議だったのはそれが空いていることだった。二輌目からは大混雑なのに最前部のその女性専用車輌はがらがらなのである。女がすくないのではない。女はあふれている。なのにその専用車輌には行かず男と一緒の車輌に乗るのだ。私の乗る最も混雑する真ん中あたりの車輌には女が大勢いた。どうやら女たちはその女性専用車輌なるものをたいして評価していないようだった。

 真ん中あたりの車輌は乗換駅で階段に近いので便利である。その分すさまじい混雑になる。当初私は乗り換え時の階段に遠くても比較的空いている前部や後部の車輌に乗っていた。だが満員電車通勤のノウハウを身につけてくると、乗換駅までは地獄でもそこから乗り換える始発電車には確実にすわれるし、その階段までの数分で電車が一本違うこと、そしてその数分こそが勝敗を分ける(?)と知った。それからは意図して混雑する満員車輌に乗るようになった。

 女たちも同じなのであろう。最前部の専用車輌はがらがらなのに超満員の中央附近の車輌に突撃する女は数多くいた。それはまた案じられるほど痴漢なんてものが多くないことを証明している。

 女が多いことは私には迷惑だった。満員電車で通勤せねばならなくなったとき最も怯えたのはあの「濡れ衣痴漢」である。バカ面した若い女になど近寄りたくない。実際近寄らないようにしている。小うるさい女子高生なんてのがいたらその電車をパスする。そうして生きてきた。なのに今回は接せねばならない。そいつらと同乗しないために電車をやり過ごす餘裕はない。近寄りたくないバカ女と同乗し、そのうえそんな目にあったらたいへんだ。どれほど善良な男が自意識過剰のバカ女に冤罪を被せられていることか。痴漢だとされ、人生のすべてを失い、やっと虚言癖のあるバカ女であることを証明し社会復帰した人の闘いの記録を読むと寒気がする。植草ミラーマンのような人もいるが、そうではないのに冤罪をかぶった人も数多くいるのだ。

 素朴に思った。「なぜ男性専用車輌がないのか!?」と。
 こういう問題にタジマヨーコなどはなんと応えるのだろう。彼女が言うのは、たとえば「男傑という言いかたはない。よって女傑というのは差別語である」のような論理だ。それでいったら「男性専用車輌というのはない。なのに女性専用車輌とは差別だ」になるはずなのである。

 もしも男性専用車輌が出来たらホモが驚喜するような気もするが(笑)そうでもいい。バカ女に痴漢の冤罪を被せられるよりははるかにいい。

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 代理バイトを無事卒業して、もうこういうものとは無縁になった。うれしい。
 乗換駅までの十数分、なんとしてもそれに乗らねばならないから強引に乗る。目の前のバカ女と密着する形でも乗らねばならない。安香水やシャンプーのにおいの中で、一秒でも早く解放されることを願いつつ、あとみっつ、あとふたつと駅を数えた。そんな毎日……。
 もうそんなものとは無縁である。やっとぐっすり眠れる。

 念のために調べてみたらこの「女性専用車輌」にきちんと問題提起している人がいるのだと知った。熱心に活動している人はえらいなと思う。私はただひたすら関わり合いたくない、である。

 でもちょっと感動的であるのでぜひともリンク先の活動記録を読んでください。女性専用車輌に乗り込み、「これは男性差別だ」とプラカードを挙げる。すると駅員がやってきて……という話はおもしろいです。

「不合理な女性専用車両」

「フェミナチ車輌を撲滅しろ」

飯を食うオンナ・・
化粧をするオンナ
 実用主義という面からはわかる気もする。いやプラグマティズムとは違うか。ならなんと言う。効率主義か。

 若い頃こんな考えが好きだった。タバコが切れた、近くの自販機まで買いに行く、珈琲も飲みたい、ヤカンで湯を沸かしてタバコを買いに行けば、帰ってきたとき湯が沸いていて一石二鳥という感覚である。しかしこれは自販機にタバコを買いに行った際、交通事故にでも遭ったら湯を沸かしているアパートは火事になる。それでやらなくなった。だいたいがそれで得られる効率などたいしたことではない。でもそんな考えが好きだった。

 だからこの感覚はわからないではない。毎朝電車の中で熱心に化粧する女に出会うたびにそう思った。
 起床する。洗面をする。食事をする。30分かけて化粧する。電車に1時間乗って通勤する。この一連の行動の中に「通勤時間の中で化粧(食事)」をはめ込むと30分遅く起きてもいいのである。30分多く眠れる。その分、夜更かしできる。さして何もすることのない通勤時間(この場合、私の乗っていた電車のように始発駅で確実にすわれることが条件になる)に化粧時間を当てはめれば極めて効率的である。

 電車の中で飯を食ったり化粧をしたりする女はそのように考えたのであろう。
 そのことによって失うものはあるか。別にない。あえてマイナスを考えると周囲の人間に化粧する現場を見られることだが、所詮見知らぬ他人である。恥ずかしくもない。痛くも痒くもない。誰に迷惑をかけるわけでもないし、文句を言われる筋合いもない。となったのであろう。目の前で、鏡をみつめ、目玉を見開いてアイシャドウを塗ったり、口紅を塗ったりする女を見ながら私はそう考えた。

 失うものはある。人として、女として、おおきなものを失っている。
 でもそのことに気づかず、「誰に迷惑をかけているわけでもないし」と考え始めてしまった人には何を言っても通じない。

 ちょうどこのころ「バンコク遊学生日記」のユウスケ君の文を読んだ。ユウスケ君はボクシングの亀田父とやくみつるの論争に触れ、「誰に迷惑をかけているわけでもないし自由ではないか」と亀田を擁護していた。

 電車の中で化粧したり飯を食ったりする女も同じ事を言うだろう。「誰にも迷惑は掛けていない。自由ではないか」と。
 迷惑とは何だろう。自由とはなんだろう。しばし考えた。

 やくみつるのように、目上の人に対して乱暴な口の利き方をする亀田のような存在が目立ったら真似をする若者が増える、社会的な悪影響が大きい、としかつめらしい意見を言う気はない。あれはむしろ逆の手本として効果があるのではと思っている。トリックスターである。

 あんなものよりも、人前で化粧をし、そのことを「誰にも迷惑は掛けていない。自由だ」と言う若い女の存在が怖い。
 日本はどこまで堕ちてゆくのだろう。

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 代理バイトを無事卒業した。電車通勤の必要が無くなった。こういう女たちを毎日見ずに済むようになったことは、ちいさいけれどとてもおおきな安寧である。

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 なんとかならんのか化粧女

 六月末、ひさしぶりに都心に出た。クーラーの効いた車内で気持ちよく読書していたら、途中から乗り込んできて隣に座った女が座るやいなや化粧を始めた。見たくはないが腕が触れ合うほど間近の出来事だから見えてしまう。ビューラーで睫をカールさせマスカラまで塗っている。おしろいくさいわ、カタカタパチパチとうるさいわで、たまらんかった。なんでこういうみっともないことを他人の前で出来るのだろう。もちろん「他人の前だから出来る」がリクツなのか。こういうのに意見したらやはり「誰にも迷惑はかけていない」と言うのだろう。だけどこんな女、つきあってみたって(つまり他人ではなく身内にしても)ぜったいにろくでもないに決まっている。
 化粧するバカ女を見たくないので体をねじって読書を続けた。そしたらねじった方はガムをくちゃくちゃやっていたのでそちらも見られなかった。
 もうしばらくは電車に乗りたくない。乗らなくてすむ環境がありがたい。(07/6/25)
皮膚病の女  混んでいる電車だった。なのに数メートル前方に空間が開けている。不思議だった。なぜそこだけ空いているのだろうと人混みを割って行ってみた。
 四十代だろうか、粗末な服を着た痩せこけた女がいた。その女が半袖シャツの両腕をボリボリとかきむしっているのだった。はがれた白い皮膚が雲脂(ふけ)のように舞っている。女の脚もとにも白い粉のようになって落ちている。皮膚病なのだろう。女の両腕はひび割れたように乾き、白く毛羽立っていた。女はその腕を爪でかきむしる。ぼりぼりと、ぼりぼりと。

 気狂いがわめいていてもまるで存在しないかのように無視できるクールな都会人もさすがに気味の悪い伝染病的なものにはびびるらしく、隙間なくびっしりと混んでいる電車なのに、この女の周囲だけ1メートル四方の空間が出来ているのだった。たまに私のように「おっ、そっちは空いているな」とやってきてしまったオヤジが押し出されるように前に出て、その異様な様相に接し、必死にまた混雑の中にもぐりこんでその場を離れようとしていた。かくいう私も現場を目撃したらもう用はないので後じさりしつつすこしでもそこから離れようと試みた。西日に照らされて白い皮膚片が舞うのはなんとも気持ち悪かった。

 女は周囲などまったく気にせず、相変わらず両腕をぼりぼりと爪でかきむしり、白い皮膚片を周囲に飛ばしている。
 狂人のようだった。どろんとした目つきで何事かをつぶやきつつ、ひたすらかさかさに乾いた腕をかきむしっている。

 次の駅で降りて深呼吸した。しばらく体が汚れた感覚が抜けなかった。



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感謝して記します。

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