2006年下半期
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昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。  (07:00)

1 名前:春デブリφ ★[sage] 投稿日:2006/07/21(金) 07:08:38 ID:???0
 昭和天皇が1975年を最後に靖国神社を参拝しなかった理由について、A級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていたことが、故富田朝彦元宮内庁長官のメモによって明らかになった。昭和天皇の意向が信頼性の高い具体的史料によって裏付けられたのは初めてである。
 小泉純一郎首相の靖国神社参拝をめぐって国内に賛否の大きな議論が渦巻き、この問題で中国、韓国との関係がぎくしゃくして首脳会談も開けない異常事態が続いている。新たな事実が明確になったことを踏まえ、靖国参拝問題を冷静に議論し、この問題を他国の意向に振り回されるのではなく、日本人自身で解決するよい機会にしたい。
 昭和天皇が靖国参拝を見送った経緯については、かねてA級戦犯合祀に不快感を抱いていたとの宮内庁関係者の証言が伝えられていたが、靖国参拝擁護派はこうした見方を強く否定し、「三木武夫元首相が75年に私人の立場を明確にして参拝したため、天皇が参拝しにくくなった」と主張していた。
 今回の「富田メモ」によって昭和天皇の意向が明確になり、天皇が参拝しない理由を三木元首相のせいにした主張の論拠はほぼ崩れ去ったと言ってよい。
 昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示したのは、過去の戦争への痛切な反省と世界平和への思い、米英両国や中国など諸外国との信義を重んじる信念があったためと推察される。そうした昭和天皇の思いを日本人として大事にしたい。
 A級戦犯が合祀された78年以降、昭和天皇は靖国参拝を見送ったが、戦没者に対する哀悼痛惜の念はいささかも変わりはなかった。高齢にもかかわらず毎年8月15日の全国戦没者追悼式には必ず出席し、哀悼の念と平和への思いをお言葉に託していた。

 戦没者に対して深い哀悼と感謝の念をささげることは当然のことであり、その点に限って言えば、靖国参拝も否定されるべきことではない。しかし、A級戦犯合祀は内外の理解を得るのが難しいのも事実である。中国、韓国の反発だけでなく、米欧の世論も厳しい目を向けていることを忘れてはならない。
 靖国参拝問題は小泉首相が言うように「心の問題」で単純に片づけられるものではない。昭和天皇の「心」の歴史的背景を重く受け止め、小泉首相をはじめ関係者が適切に行動することを切に望みたい。

■ソース(日経新聞)
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20060720MS3M2000220072006.html



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■2ちゃんねるより

146 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 03:01:20 ID:39AnvyuG0
◆富田氏メモに関するまとめ


【疑問点】
1.「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。
2.「だから私はあれ以来参拝していない。」
  天皇陛下は75年(三木首相私人参拝)から参拝していないのに、
  「私はあれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では辻褄が合わない。
3.あったとされる「発言」が合祀から十年後の昭和63年(1988年)の四月。崩御の前年。
4.天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたりすることはそもそもできない。
  それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5.何故、毎年、天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国戦没者追悼式に毎年参列して、御言葉も述べているのか。
6.一部記事中の白鳥を白取と誤字。普通間違えるか?
7.論理構成、概念が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプのような文章。
  「平和に強い考え」?何それ?中国共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
8.「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」
  「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
  78年ならまだしも、合祀から10年経った88年に語ったとするとあまりに不自然な発言。
9.当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
  http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
10.勅使は陛下の私費で現在まで靖国神社に派遣されている
11.日記のページは黄色く変色しているにもかかわらず、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
12.ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたせず、綺麗なままである点。


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社説:昭和天皇メモ A級戦犯合祀は不適切だった

 昭和天皇が、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を抱いていたことを示す富田朝彦元宮内庁長官のメモが明らかになった。「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」という簡潔な表現は真に迫っている。史料価値は高い。

 これまでも、1975年以降、昭和天皇が靖国神社へ参拝に行かなくなった理由については、A級戦犯の合祀に不満だからであると言われていた。そして、それがA級戦犯の分祀を求める意見のひとつの根拠になっていた。

 しかし、政界や靖国神社関係者などには、A級戦犯を裁いた東京裁判の不当性を主張すると同時に、天皇の靖国参拝中断はマスコミが騒ぐせいだという声高な反論があった。その論争は、富田メモではっきりと決着がついた。

 中曽根康弘氏は首相として1985年に靖国神社を公式参拝したが、中国の批判を受け翌年の参拝を断念した。この時、富田元長官は「靖国の問題などの処置はきわめて適切であった、よくやった、そういう気持ちを伝えなさい、と陛下から言われております」という電話を、首相官邸に入れた(岩見隆夫「陛下の御質問」)。昭和天皇は、首相の靖国神社公式参拝にも反対だった。

 富田メモから、昭和天皇の思考の一端がうかがえる。「松平(慶民元宮内大臣)の子の今の宮司がどう考えたのか。易々(やすやす)と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている」というくだりである。

 先代の筑波藤麿宮司が棚上げにしてきたA級戦犯合祀を実行した松平永芳宮司に対して、親不孝だという強烈な批判をしている。「易々と」という苦々しい言葉は、A級戦犯を合祀しようとする人々に昭和天皇が反対していたことを示している。

 戦前の靖国神社は、国民が戦死者をとむらう宗教施設ではなかった。天皇が、天皇のために戦死した軍人たちの栄誉をたたえる顕彰施設だった。戦死者の遺族は「息子が天子様のお役に立てた」という論理で悲しみを癒やされる建前だった。だから天皇による親拝は靖国神社の本質だったのである。

 戦後、宗教法人になり、皇室から独立した。だが、天皇によって遺族が癒やされるという戦前の伝統は、天皇の私的参拝という形で続いていた。それが絶たれた原因は、A級戦犯合祀という神社側の選択にある。

 もちろん、宗教法人となった靖国神社が、天皇と歴史観、戦争観が違っていても自由である。メモにしても天皇個人の気持ちにすぎない。小泉純一郎首相のように「それぞれの心の問題」と考えるのも自由だろう。

 だが、そうだとしても戦没者に感謝と哀悼の誠をささげるための施設として議論の余地がないなら、なぜ内外で大きな論議を呼ぶのだろうか。その最大の原因は、A級戦犯合祀にある。その事実を冷静に考えるならば、いまの状態で首相が靖国神社に参拝するのは、やはり適切ではない。

毎日新聞 2006年7月21日 0時21分

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■産經新聞よりより

★三国同盟推進の2人批判か

 昭和天皇はA級戦犯をひとくくりにして批判していたわけではない。
 昭和天皇の側近、木戸幸一内相の「日記」をみると、昭和天皇はA級戦犯に同情を示している。
昭和天皇は終戦直後の昭和20年8月29日に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところ」、9月20日に「敵側のいわゆる戦争犯罪人、ことにいわゆる責任者はいずれもかつては只管忠誠を尽くしたる人々」と語ったという。
 宮内省御用掛の寺崎英成氏が記した「昭和天皇独白録」からは、昭和天皇がA級戦犯の代表格である東条英機元首相を信頼していたこともうかがえる。昭和天皇は21年3月ごろ、「元来東条という人物は、話せばよく判る」「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」などと語っている。
 大原康男・国学院大教授は「メモが事実だったとしても、昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに不快感を示しているとは言えない」と指摘する。
 大原氏が注目するのは、今回のメモで言及された人物が、日独伊三国同盟を推し進めた松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の2人とみられることだ。大原氏は「昭和天皇は『独白録』でも松岡のことを一番批判している」と語る。
 一方、「公の発言ではなく、非公式メモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、昭和天皇の『政治利用』になりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。
 靖国神社は、昭和53年、厚生省が公務死と認定して靖国側に送った「御祭神名票」に基づいてA級戦犯を合祀した。
 昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた。昭和天皇の弟宮である高松宮さま(故人)と三笠宮さまは、合祀後も参拝を続けられた。
現宮司の南部利昭氏は就任に際し「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)とされる。 靖国側は分祀について「A級戦犯の御霊だけ除くことはできないし、ありえない」との立場を堅持
している。
 政府筋は「手帳のあのページだけ紙がはり付けてあるという。メモを宮内庁で見た人はいない。
本当に昭和天皇が言ったかどうかも分からない」と指摘しており、分祀論の高まりには戦没者の慰霊
を置き去りにした政治的意図を強く感じる。

■ソース(産経新聞)(阿比留瑠比)
http://www.sankei.co.jp/news/morning/21pol003.htm


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 東条英機元首相ら14人のA級戦犯が靖国神社に合祀(ごうし)されたのは、78年のことである。戦後も8回にわたって靖国神社に参拝していた昭和天皇は、合祀を境に参拝を取りやめた。
 その心境を語った昭和天皇の言葉が、元宮内庁長官の故富田朝彦氏の手で記録されていた。A級戦犯の合祀に不快感を示し、「だから私あれ以来、参拝していない、それが私の心だ」とある。
 昭和天皇が靖国神社への参拝をやめたのは、A級戦犯の合祀が原因だったことがはっきりした。
 合祀に踏み切った靖国神社宮司の父親は松平慶民元宮内大臣だった。メモには、その名を挙げ、「松平は 平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らず」という言葉がある。
 A級戦犯が合祀されているところに参拝すれば、平和国家として生まれ変わった戦後の歩みを否定することになる。昭和天皇はそう考えたのだろう。
 天皇個人としてという以上に、新憲法に基づく「国民統合の象徴」として、賢明な判断だったと思う。しかも、中国などが合祀を問題にする前の主体的な判断だったことを重く受け止めたい。
 戦前、天皇は陸海軍の統帥者だった。自らの名の下に、多くの兵士を戦場に送った。
亡くなった兵士の天皇に対する気持ちは様々だろうが、昭和天皇が靖国神社に赴き、戦没者の魂をなぐさめたいと思うのは自然な気持ちだろう。
 しかし、戦争を計画、指導した軍幹部や政治家らを一緒に弔うとなると話は別だ。
そう考えていたのではないか。
 メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」と記されている。日独伊三国同盟を推進した松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使への怒りもうかがえる。
 A級戦犯の合祀に対し、昭和天皇がかねて不快感を示していたことは側近らの証言でわかっていた。
 それなのに、昭和天皇が靖国参拝をやめたのは合祀が原因ではないとする主張が最近、合祀を支持する立場から相次いでいた。
 75年に三木武夫首相が私人として靖国参拝をしたことを機に、天皇の参拝が公的か私的かが問題になったとして、「天皇の参拝が途絶えたのは、これらが関係しているとみるべきだろう」
(昨年8月の産経新聞の社説)という考えだ。
 こうした主張にはもともと無理があったが、今回わかった昭和天皇の発言は、議論に決着をつけるものだ。
 現在の天皇陛下も、靖国神社には足を運んでいない。戦没者に哀悼の意を示そうにも、いまの靖国神社ではそれはかなわない。
 だれもがこぞって戦争の犠牲になった人たちを悼むことができる場所が必要だろう。それは中国や韓国に言われるまでもなく、日本人自身が答えを出す問題である。そのことを今回の昭和天皇の発言が示している。(以上)

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 昭和天皇がいわゆる“A級戦犯”の松岡洋右元外相らが靖国神社に合祀(ごうし)されたことに不快感を示したとされる富田朝彦元宮内庁長官のメモが見つかった。昭和天皇の思いが記された貴重な記録だ。
 昭和天皇が松岡元外相を評価していなかったことは、文芸春秋発行の『昭和天皇独白録』にも記されている。
富田氏のメモは、それを改めて裏付ける資料だ。メモでは、昭和天皇は松岡氏と白鳥敏夫元駐伊大使の2人の名前を挙げ、それ以外のA級戦犯の名前は書かれていない。
 靖国神社には、巣鴨で刑死した東条英機元首相ら7人、未決拘禁中や受刑中に死亡した東郷茂徳元外相ら7人の計14人のA級戦犯がまつられている。メモだけでは、昭和天皇が14人全員のA級戦犯合祀に不快感を示していたとまでは読み取れない。
 政界の一部で、9月の自民党総裁選に向け、A級戦犯を分祀(ぶんし)しようという動きがあるが、富田氏のメモはその分祀論の根拠にはなり得ない。
 天皇の靖国参拝は、昭和50年11月を最後に途絶えている。その理由について、当時の三木武夫首相が公人でなく私人としての靖国参拝を強調したことから、天皇の靖国参拝も政治問題化したという見方と、その3年後の昭和53年10月にA級戦犯が合祀されたからだとする考え方の2説があった。
 富田氏のメモは後者の説を補強する一つの資料といえるが、それは学問的な評価にとどめるべきであり、A級戦犯分祀の是非論に利用すべきではない。まして、首相の靖国参拝をめぐる是非論と安易に結びつけるようなことがあってはなるまい。
 昭和28年8月の国会で、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。これを受け、政府は関係各国の同意を得て、死刑を免れたA級戦犯やアジア各地の裁判で裁かれたBC級戦犯を釈放した。また、刑死・獄死した戦犯の遺族に年金が支給されるようになった。
 戦犯は旧厚生省から靖国神社へ送られる祭神名票に加えられ、これに基づき「昭和殉難者」として同神社に合祀された。この事実は重い。
 小泉純一郎首相は富田氏のメモに左右されず、国民を代表して堂々と靖国神社に参拝してほしい。

■ソース(産経新聞)

http://www.sankei.co.jp/news/060721/morning/editoria.htm

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★[A級戦犯合祀]「靖国参拝をやめた昭和天皇の『心』」

 直截(ちょくせつ)的な表現に、驚いた人も多いのではないか。
 昭和天皇が、「A級戦犯」の靖国神社合祀(ごうし)をめぐって、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と語っていた。宮内庁長官だった富田朝彦氏の手帳の1988年4月28日付メモに記されてあった。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」に問われた東条英機元首相ら14人が、78年10月、「昭和殉難者」として靖国神社に合祀された。
 昭和天皇は、戦後8回にわたり靖国神社を参拝されたが、75年11月の参拝が最後となった。今の陛下も、即位後は参拝されていない。
 一方、三木首相による75年の靖国神社参拝を契機に、公人としての参拝か私人としてかが、政治問題化した。
 昭和天皇が参拝されない理由は「A級戦犯合祀」なのか、「公人・私人」の政治問題を避けるためなのか。二説があったが、憶測の域を出なかった。
メモの発見により、一つの区切りがついた。
 富田メモには「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」とある。
松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使を指したものだろう。2人は、日独伊三国同盟の締結を推進し、そのことが日米開戦の大きな要因ともなった。
 90年に公表された「昭和天皇独白録」の中で、昭和天皇は松岡元外相について「『ヒトラー』に買収でもされたのではないか」と厳しく批判している。
 昭和天皇は、一貫して戦争を回避することを望みながら、立憲君主としての立場を踏まえて積極的な発言は控えたとされる。その立場から、戦争責任を問われるべき指導者の合祀に納得できなかったということだろうか。
 別の資料だと、同じ「A級戦犯」でも、木戸幸一元内大臣については、「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」と語ってもいる。
 富田メモは、「A級戦犯」分祀論議にも一石を投じることになろう。
 だが、靖国神社は教義上「分祀」は不可能としている。政治が宗教法人である靖国神社に分祀の圧力をかけることは、憲法の政教分離の原則に反する。麻生外相は、靖国神社を国の施設にすることを提案しているが、これも靖国側の意向を前提としない限り不可能だ。
 靖国神社には、宗教法人としての自由な宗教活動を認める。他方で、国立追悼施設の建立、あるいは千鳥ヶ淵戦没者墓苑の拡充などの方法を考えていく。
 「靖国問題」の解決には、そうした選択肢しかないのではないか。

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・昭和天皇はA級戦犯をひとくくりにして批判していたわけではない。
 昭和天皇の側近、木戸幸一内相の「日記」をみると、昭和天皇はA級戦犯に同情を示している。
 昭和天皇は終戦直後の昭和20年8月29日に「戦争責任者を連合国に引き渡すは真に苦痛に して忍び難きところ」、9月20日に「敵側のいわゆる戦争犯罪人、ことにいわゆる責任者は いずれもかつては只管忠誠を尽くしたる人々」と語ったという。

 宮内省御用掛の寺崎英成氏が記した「昭和天皇独白録」からは、昭和天皇がA級戦犯の 代表格である東条英機元首相を信頼していたこともうかがえる。昭和天皇は21年3月ごろ、 「元来東条という人物は、話せばよく判る」「東条は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」などと語っている。
 大原康男・国学院大教授は「メモが事実だったとしても、昭和天皇がA級戦犯の合祀そのものに不快感を示しているとは言えない」と指摘する。
 大原氏が注目するのは、今回のメモで言及された人物が、日独伊三国同盟を推し進めた松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐イタリア大使の2人とみられることだ。大原氏は「昭和天皇は『独白録』でも松岡のことを一番批判している」と語る。

 一方、「公の発言ではなく、非公式メモをA級戦犯分祀論に結びつけるのは、昭和天皇の『政治利用』になりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。
 靖国神社は、昭和53年、厚生省が公務死と認定して靖国側に送った「御祭神名票」に基づいてA級戦犯を合祀した。

 昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた。昭和天皇の弟宮である高松宮さま(故人)と三笠宮さまは、合祀後も参拝を続けられた。現宮司の南部利昭氏は就任に際し「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』
 と直接、言われている」(関係者)とされる。
 靖国側は分祀について「A級戦犯の御霊だけ除くことはできないし、ありえない」との立場を堅持している。

 政府筋は「手帳のあのページだけ紙がはり付けてあるという。メモを宮内庁で見た人はいない。
 本当に昭和天皇が言ったかどうかも分からない」と指摘しており、分祀論の高まりには戦没者の慰霊を置き去りにした政治的意図を強く感じる。(阿比留瑠比)
 http://www.sankei.co.jp/news/morning/21pol003.htm


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■2ちゃんねるより
1 名前:ままかりφ ★[sage] 投稿日:2006/07/22(土) 02:20:21 ID:???0
東京都の石原慎太郎知事は21日の会見で、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に昭和天皇が不快感を示していたことを示す資料が見つかったことについて、「そのお気持ちはよく分かりますね」と語った。自身が今年も靖国神社を参拝することを明言し、「私が戦争の責任者と思っているA級戦犯について祈るつもりは毛頭ない」と語った。

石原知事はA級戦犯について「占領軍が勝手に決めたもので、気の毒な立場の人もいるし、明らかに戦争の責任者もいる」と指摘。戦勝国による東京裁判を「一方的に勝者が敗者を裁く裁判に正当性はないと思う。日本人自身が裁くべきだった」と批判する一方、「裁判に正当性がないと言っても、断罪された人たちに罪がないというのはおかしい」と話した。

石原知事は就任2年目の00年から毎年、8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝している。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060721-00000123-mai-soci


1 名前:BaaaaaaaaQφ ★[] 投稿日:2006/07/20(木) 20:16:48 ID:???0
「昭和天皇は本当に偉い方だったんだなあ。大御心だなあ」。民主党の小沢代表は20日、記者団にこう語った。小沢氏は最近でも「戦死ではない人たちが靖国神社にまつられること自体が間違いだ。天皇も堂々と参拝できるような本来の靖国神社にすべきだ」との持論を繰り返していた。

 超党派の国会議員でつくる「国立追悼施設を考える会」の呼びかけ人でもある民主党の鳩山由紀夫幹事長も「A級戦犯合祀(ごうし)が理由で天皇陛下が参拝されていないことが、証拠として示された意義は大きい」と語った。小泉首相に対しては「自分だけの意思で軽々に(参拝する)というのは許されない。この事実を重く受け止めて頂きたい」とくぎを刺した。

 共産党の志位委員長は「『靖国史観』派のシナリオが破綻(はたん)し、参拝を繰り返してきた小泉首相の主張に道理がないことを浮き彫りにするものだ。首相の参拝中止を改めて強く求める」との談話を発表した。社民党の又市征治幹事長も「昭和天皇の意思が資料で裏付けられた。戦争の反省と平和の希求という気持ちが表れた言葉だと思う。
政府・与党がどう受け止めるのか注視したい」との談話を出した。

朝日新聞
http://www.asahi.com/politics/update/0720/010.html


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27 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/20(木) 20:20:03 ID:zC0ZyS3F0
で、手帳に貼り付けた紙に書いてあった主語が誰かすらわからない文を、昭和天皇のご意思として尊重するとして当然、昭和天皇独自録で陛下が語っておられることも真実だよね? ↓↓

昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下東条英機は日米開戦日の深夜、和平を熱望していた昭和天皇の期待に答えることができず、懺悔の念に耐えかねて号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られた。
そして東京裁判時には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用いすぎたことと、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの評判の悪い部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。

↑↑白鳥・松岡両氏はともかく、東條英機氏については、合祀して全然OKじゃない?


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■勝谷誠彦のさるさる日記より

■2006/07/20 (木)靖国発言は2.26事件終戦に次ぐ昭和天皇第3のご聖断。

踏み絵といえば今朝の日経新聞の世紀のスクープに私は霹靂に打たれ立ちすくんだ。これは2.26事件そして終戦に次ぐ昭和天皇の「第三のご聖断」ではないか。腰を据えた論議をせよと陛下は私たちにおっしゃっているのである。インサイダー事件でいよいよ日経に司直のメスが入るこのタイミングに隠し玉を出してきたのは笑止千万だけどね。


■2006/07/21 (金)先帝の忌避を君側の奸とA級で混同せぬ慎重な論議を。

6時起床。天皇という存在はこの国のバランサーだとかねて思っていた。国民がタコツボの中で堂々巡りの論議に陥った時にもう一度論点の軸を明らかにする機能があるのだ。「空気」に支配されがちなこの国の国民が悠遠の歴史の中で作り上げてきた智恵といっていい。昨日私は今回明らかになった昭和天皇のお言葉が「第三のご聖断」だと書いた。ご自身の意見を明らかにされないことが天皇としての立場だと確信されていた昭和天皇が自らの言葉を語られて「場」を動かした過去の二つの例を思い出したからだ。帝都を占拠しようとした将兵を「反乱軍」と呼ぶに躊躇した「場」を動かした2.26事件。そして明らかに亡国へ突き進むのが目に見えていながらも誰も「降伏」の二文字を言い出せなかった「場」を切り裂いた終戦のご聖断。今回明らかになったお言葉は正に今私たちが突きつけられながら立ち往生している大東亜戦争と終戦と戦争責任そして東京裁判を巡る歴史観に対する思想的硬直の「場」を突き動かせという「ご聖断」ではないのか。もちろんその論議はこのお言葉が真正なものかどうかという所から始めなくてはいけない。私は今回の「スクープ」がこの時期に日経新聞から出たことを心から惜しむものである。日経には今日にもガサが入るという情報がある。しかも支那に魂を売り渡し続けた財界人どもが信奉する新聞である。もちろん今という時期は8月15日を間近に控えている。総裁選では日本人の心を売り渡そうとする勢力が担ぐ福田テポドン(笑)が「撃つぞ撃つぞ」といいながらとうとう飛ばないことになりそうで奴らはここはひとつ派手な巻き返しを必要としている。支那はと言えば金豚の説得に失敗して大恥をかき日本に奪われたイニシアティヴを何とか取り返そうとしている。どこをとってもこの時期にかかる重大な事が日経から出る薄汚い事情だらけである。それでも私はこのお言葉と言われるものを頭から否定して論争を拒否する気はない。いや万々が一偽物であっても「昭和天皇のお言葉かもしれない」という動機づけだけで私たち自身の手で私たちの歴史を位置づける契機になればそれこそがまさに先帝の御稜威というほかはない。「支那朝鮮に言われて」ではなく「昭和天皇のお言葉らしきものが出てきたから」私たちは論議を始めるのだ。まさに「場」が動くのである。保守論壇と言われる人々こそ自らの思想硬直から脱せよ。それこそが忠であり義ではないか。

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■2ちゃんねるより
【疑問点(改訂版)】
1.「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。
2.「だから私はあれ以来参拝していない。」
  天皇陛下は75年(三木首相私人参拝)から参拝していないのに、
  「私はあれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では辻褄が合わない。
3.あったとされる「発言」が合祀から十年後の昭和63年(1988年)の四月。崩御の前年。
4.天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたりすることはそもそもできない。
  それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5.何故、毎年、天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国戦没者追悼式に毎年参列して、御言葉も述べているのか。
6.一部記事中の白鳥を白取と誤字。普通間違えるか?
7.論理構成、概念が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプのような文章。
  「平和に強い考え」?何それ?中国共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
8.「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」   「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
  78年ならまだしも、合祀から10年経った88年に語ったとするとあまりに不自然な発言。
9.当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
  http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
10.勅使は陛下の私費で現在まで靖国神社に派遣されている
11.日記のページは黄色く変色しているにもかかわらず、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
12.ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたせず、綺麗なままである点。
13.天皇陛下は自らを「朕」と呼ぶはずで「私」とは言わない。
14.「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文章在任期間は、1986年7月22日~9月8日のわずか49日間。
15.神道の最高神である天照大神の子孫である天皇陛下が神社に「参拝」すると発言することはありえない。 正しくは親拝。

【重大な疑問】
1 「日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてある。
2 日記のページは黄色く変色しているのに、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
3 ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたりせず、綺麗なままである点。
4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、取り止めることはできない。
  それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5 勅使は陛下の私費で現在も靖国神社に派遣されている。
6 天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象である全国戦没者追悼式に毎年参列して御言葉も述べている。
7 白鳥を白取と誤字。
8 理論構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプそのもののような文章。
  「平和に強い考え」?何それ?中共の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
  「平和に強い考え」=「平和への熱い思い」と同義でしょ。
9 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
  合祀された78年ならまだしも、10年後の崩御の前年の88年に語ったとすると日本語としてあまりに不自然。
10 「それが私の(本)心だ。」文末でわざわざもう一度総括(笑)する不自然極まる文章。
11 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
  http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
  http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
  昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
  「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる


  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(朝日新聞1995年8月19日)
12 1988年4月28日に富田宮内庁長官の拝謁の記録なし?徳川侍従長とは打ち合わせの記録アリ?(※未確認情報)
13 「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文章在任期間は、1986年7月22日~9月8日。
   http://www.vipper.org/vip295965.jpg

46 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 06:19:33 ID:2EdCgWgH0

オイオイ、手帳とメモが一緒にテレビに出てるぞwww

  同 じ 環 境 で 保 存 さ れ て い た の に

  手 帳 と メ モ の 紙 の 色 合 い が 違 う の な ぜ で す か ?

  手 帳 は 2 0 年 く ら い の 色 あ せ、 劣 化 が あ る の に

  メ モ は 2 0 年 く ら い の 色 あ せ、 劣 化 が 全 く な い 真 っ 白 な の は

  な ぜ で す か ?

m9(^Д^)プギャーーーッ



47 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 06:19:42 ID:nj8OuFFi0
日経見た限りだと本物のようだったが、TV見ると明らかに別物なんだな。
堀江メールのようだ。
筆跡は合っているだろうから、別に書いたものを合わせてる?
年代調査が必要だな。

111 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/07/23(日) 13:28:06 ID:2OO+IyaC0
あんな、メモにあとからはっつけた紙に、青々としたインクで書いてある文章を本物だと思ってる人ってどういう人なの?

117 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/23(日) 13:28:59 ID:mGwLzH6u0
今日の日経朝刊より

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
富田朝彦元宮内庁長官が残した日記・手帳(富田メモ)を公表するに当たり、
日本経済新聞はその筆跡、内容などを詳細に分析し、
現代史の専門家の意見も聞いた。
その結果、書き込まれていた行事、出来事の日付や内容は事実と整合性があり、
メモの信頼性は高いと判断した。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

だそうですw

120 名前:前スレ804だけど、もう一度[] 投稿日:2006/07/23(日) 13:29:32 ID:HEGRNVfn0
http://ameblo.jp/disclo/
>富田記録については2003年の死去後、何度か外部に貸し出されています。
---
>手帳に貼り付けられたメモ用紙は
>もともと貼り付けられていたものではなくファイル綴じの最後に
>挟まれていたもの。
>(実際に本メモ・手帳を一時借り受けた人物証言
> 自民党代議士関係者が入手)

え~と、誰が、いつ頃、メモを貼り付けたの?

天皇御親拝中断の真の理由
http://www.okazaki-inst.jp/092005ibuki.html
反対が始まったのは昭和六十年九月二十日の中国外務省スポークスマンの発言からである。
その後はそれが中国の公式態度となった。
その後、昭和天皇が「A 級戦犯」の合祀に反対されたという説がまことしやかに流されたが、
信憑性はない。ただ当時の時流として昭和天皇を護るためには、陛下が徹底した平和主義、
反軍国主義者であったと言うことが陛下のためになると側近が思い、敢えて「尊き人のために言った」
可能性はあるかもしれないが、それは昭和天皇御自身のお考えとは関係はない。
「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」

それでは昭和天皇はいわゆる「戦犯」をどうお思いになっていらしたのだろうか。文献から少し引用してみよう。
「戦争責任者を聯合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」
(『木戸幸一日記〈下〉八月二十九日』)
「侍従長より戦争犯罪容疑者となりたる今日或は御遠慮申上ぐるにはあらずやと言上せしに、聖上は米国より見れば
犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり、若し遠慮する様なれば料理を届け遣せとの御諚ありしとの話を承り、感激。(以下略)」(同書十二月十日)
「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、
本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。(中略)東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中々良い処があつた。
(中略)私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く」(『昭和天皇独白録』)


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次期首相の靖国参拝、反対60% 本社世論調査

2006年07月25日06時15分

 朝日新聞社が22、23の両日実施した全国世論調査(電話)で、次の首相の靖国神社参拝の賛否を尋ねたところ、反対が60%を占め、賛成の20%を大きく上回った。今年1月の調査では反対46%、賛成28%で、今回、反対が大幅に増えた。小泉首相が9月末までの任期中に参拝することについても反対が57%にのぼり、賛成29%のほぼ2倍だった。昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示していた発言メモが明らかになり、首相参拝の是非を考える上で、この発言を「重視する」と答えた人は6割を超えた。

 次の首相の靖国神社参拝について、「しない方がよい」とする反対の人はすべての年代で6割前後あった。内閣支持層で46%、自民支持層でも47%が反対で、「する方がよい」と答えた賛成の人は、ともに3割程度にとどまった。1月調査では内閣支持層、自民支持層ともに反対は3割台で、賛成を下回っていた。これまで靖国参拝を支持してきたこうした層の意識の変化が、反対をかさ上げした構図だ。

 今回、次の首相として最も人気が高かった安倍晋三氏の支持層でも反対が52%で、賛成の29%を大きく上回った。

 一方、小泉首相の靖国参拝については、これまでの調査で賛否が揺れており、昨年10月の参拝直後は賛成と反対が相半ばしていた。今回、反対が最も高くなった。

 小泉首相が公約にしてきた終戦記念日の8月15日の参拝についても、否定的な見方がうかがえる。小泉首相の参拝に賛成と答えた29%の人に参拝の時期を尋ねると、「8月15日以外がよい」が45%で、「8月15日がよい」の39%より多かった。

 昭和天皇の発言については、小泉首相や次の首相の靖国参拝の賛否を聞いた後に質問した。発言を「重視する」は、「大いに」(24%)と「ある程度」(39%)を合わせて63%。「重視しない」は、「あまり」(21%)と「まったく」(12%)を合わせて33%。「大いに重視する」は年代が上がるほど高く、70歳以上では33%にのぼる。

 「大いに重視する」人では次の首相の靖国参拝に賛成が10%、反対82%だが、「まったく重視しない」人では賛成が32%と反対の35%と拮抗(きっこう)。天皇発言を重く受け止めるほど、首相の靖国参拝に反対する傾向が読み取れる。アサヒシンブン



小沢氏、A級戦犯合祀反対論を重ねて強調・「首相は不見識」

 民主党の小沢一郎代表は25日の記者会見で、富田メモに関し「私自身、中国や韓国などに言われる以前に、戦争指導者は日本国民に大いなる責任があるとかねて発言してきた」と述べ、A級戦犯合祀に反対する持論を重ねて強調した。

 富田メモの内容については「昭和天皇の大み心を感じる」と表明。小泉純一郎首相が自らの靖国参拝への影響はないと述べたことに関しては「個人の問題だとかいうたぐいの首相の発言は、全く本質を理解していない不見識な言葉だ」と批判した。

 小沢氏は首相の参拝に否定的な自民党内の議論にも疑問を呈し「何となく中国、韓国やアジアの国々が反対だからやめた方がいいという話に聞こえる。私はそうではない。ひとからげに議論されるのは心外だ」と強調した。 (日経 25日22:42)


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継続検証中

8/16
 首相の靖國参拝──産經とアサヒ

【主張】8・15靖国参拝 国の姿勢示した小泉首相──産經新聞

 小泉純一郎首相は15日、靖国神社に参拝した。終戦記念日の首相参拝は、昭和60年の中曽根康弘元首相の公式参拝以来、21年ぶりである。

 小泉首相はモーニング姿で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、昇殿参拝した。国民を代表しての堂々とした歴史的な参拝であった。小泉首相は5年前の自 民党総裁選で、「いかなる批判があろうとも、8月15日に参拝する」と訴え、首相に就任した。当然のことだが、その約束を完全に果たした。

 中国と韓国はこれまで、小泉首相の参拝日にかかわりなく、常に「反対」の大合唱を繰り返し、日本の一部マスコミや識者もそれに便乗してきた。中韓の内政干渉に対し、8月15日の首相靖国参拝は、国の戦没者慰霊のあり方と外交姿勢をきちんと示した。

 靖国神社に祀(まつ)られている246万余柱の霊のうち、213万余柱は先の第二次大戦の死者だ。その意味でも、大戦が終結した日の参拝は格別、意義深いものがある。

 参拝後、小泉首相は「多くの人が15日だけはやめてくれと言うから、避けて参拝したが、いつ行っても混乱させようとする勢力がある。いつ行っても同じな ら、きょうは適切な日ではないか」と話した。首相就任後、最初の参拝で、中国や韓国に配慮すべきだとする政府・与党内の一部の意見を入れ、8月13日に “前倒し”参拝したことへの反省の思いが込められている。

 平成14年以降も、小泉首相は春秋の例大祭や元日などを選んで年1回の靖国参拝を続けてきた。8月15日を避けたとはいえ、いつ参拝しても、それぞれ意義があったことを、多くの国民に伝えたことは評価されてよい。

 特に、春秋の例大祭は、安政の大獄で刑死した幕末の思想家、吉田松陰らすべての国事殉難者を慰霊の対象としており、終戦記念日の参拝とは違った意義をもつ。

 靖国神社は今年の終戦記念日も、参拝者の長い列ができた。戦没者遺族に交じって、親子連れや若いカップル、学生らの姿がさらに増えたように思われた。靖 国参拝は遺族の世代からその子や孫の世代へと受け継がれている。国民のだれもが自然な気持ちで国のために死んだ先祖の霊を慰める静かな杜(もり)であり続 けてほしい。

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朝日新聞

 終戦記念日の朝早く、小泉首相が靖国神社に参拝した。
 これまで5回の参拝はいずれも、自民党総裁選で公約していた8月15日を避けた。その理由を首相は「再び内外に不安や警戒を抱かせることは私の意に反する」と説明してきた。
 それが今回は「15日を避けても、いつも批判、反発し、この問題を大きく取り上げようとする勢力は変わらない。いつ行っても同じだ」と開き直った。ぶれないことが売り物の首相にしては大ぶれ、まさに支離滅裂である。
 15日は韓国にとって植民地支配から解放された記念日であり、中国にも歴史的な日である。
そこに、彼らが「感情を傷つけないでほしい」と中止を望む靖国参拝をぶつけた。
 幸い、両国は抑制された抗議にとどめているが、外交的な挑発と受け止められかねない行動だ。
 戦後60年を迎えた1年前のこの日、首相は戦争でアジアの人々に与えた被害に対し「痛切な反省と、心からのお詫(わ)びを表明する」という談話を出した。このメッセージとの落差はあまりに大きい。
 首相はきのう、参拝反対論にこう反論した。「突き詰めれば中国、韓国が不快に思うことはやるなということだ」
 首相の目には、日本国内にある反対の広がりが見えないのだろうか。
(中略)
 首相は、こうした声をすべて中国や韓国に媚(こ)びる勢力とでも言うつもりなのだろうか。
「いつも批判する勢力」と切り捨てようというのか。
 首相は「A級戦犯のために行っているんじゃない」と言う。これが国内的にも国際的にも通用する理屈ではないことを首相はついに理解しようとしなかった。
(中略)
 6回に及んだ首相の靖国参拝は誤りだった。戦没者の追悼という大事な問題で国内に亀裂を生み、偏狭なナショナリズムを刺激し、外交を行き詰まらせた。
 この重い「負の遺産」をどう乗り越えるか。次の政権の課題であると同時に、国民みずからが戦争責任などをめぐる議論を深めていくことも必要だ。■ソース(朝日新聞)

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 べつになにも書く気になれない(笑)。こういう事実を掲載しておくだけでいいだろう。アサヒシンブン読んでいる日本人が公称800万人(実質は500万部を切ると言われている)いることにうんざりするだけである。
8/15
 小泉首相の靖国参拝

 小泉政権が終った。在任期間は1980日。戦後の総理大臣としては佐藤栄作、吉田茂に続く三位の在任期間だった。任期を満了しての退任である。サヨクは「任期切れ間近になったら続投を宣言する」と冷ややかに豫測した。なんのかんの言おうと小泉首相も権力の亡者であるかのように。まあたしかに彼らの好きな共産圏の権力者はみなそうだ(笑)。
 だが残念ながら小泉首相はあっさりと権力を放棄した。もっと続けられるのに執着しなかった。肩すかしを食ったサヨクマスコミが哀れだった。

 最後の最後に公約である8月15日靖国参拝もやってくれた。これは今となっては就任早々にやってしまうより、年ごとに日を変えて5年間にわたって中国朝鮮、及び親中国朝鮮のサヨクメディアを振り回したからかえって価値があった。

 靖國問題は元々アサヒが火をつけて中国に御注進した政治テーマである。これが解決してもすぐにまた次の手でイチャモン路線に来るのは目に見えている。終りのないループである。60年前の戦争が外交カードとして切り札になるのだから絶対に手放さない。なにしろ日本のサヨクマスコミが必死にそのテーマを見つけてきてくれるのだから楽だ。そういう発想のない中国に御注進に及んだのだから、まさに日本のサヨクマスコミは売国奴である。

 小泉さんは8月15日に行かないことによって、「いつ行こうと中国朝鮮はケチをつけてくる」を立証してくれた。結果的によかったように思う。あくまでも結果的であり当時はいらついたものだった。

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 平成13年(2001)は8月13日だった。これには失望した。前倒しである。強引に説き伏せてこれを実行させたのはカトウコウイチであるらしい。15日に行ったら政権がつぶれる、13日なら親中国の自分がなんとか中国側を納得させるから、と。船出後まもなく自信の無かった小泉さんは泣く泣く従ったようだ。まったく最悪のヘタレであり激しく失望したが、これまた今思えば後の8月15日に繋がる物語の始まりだった。

 平成14年(2002)は4月21日。春期例大祭。これは良い日だ。
 平成15年(2003)は1月14日、なんとも半端な時期。
 平成16年(2004)は元旦。これは意表をついた(笑)。
 平成17年(2005)は10月17日。秋期例大祭。これもすばらしい日。
 そして平成17年(2006)が敗戦の日の8月15日だった。

 私は敗戦の日に小泉さんが行くと宣言したから約束として行って欲しかっただけでこの日に対するこだわりはない。むしろ春期例大祭と秋期例大祭に行くのが正しいと思っている。そのことも彼は実行してくれた。

 ムラヤマトミイチは8月15日に、「この記念すべき良き日に」と挨拶した。高島俊男さんがこの言いかたに疑問を呈していた。

 しかしとにかく小泉さんのこの6回の靖国参拝で「いつ行っても中国朝鮮はケチをつけてくる」「アサヒに代表されるサヨクマスコミは、いつ行っても非難する」ことが証明された。これは大きな功績だろう。
 最初から8月15日に行っていたなら、アサヒ等は必ずこう言ったはずだ。「どうしても靖國に行きたいというなら別の日に行くべきであろう。春期例大祭や秋期例大祭がある。あるいは元旦に参拝してもいい。なのになぜ8月15日という中国や朝鮮に非難されるこの日に行くのか」と。それを信じて別の日に行ったら、今度は今度でケチをつけてくる。

 小泉首相は「いつ行っても絡んでくる」と日を変えることで証明して見せた。見事である。

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 それに対してタチバナタカシというバカがこんなことを書いている。

タチバナタカシの文

8月15日、小泉首相が靖国神社に参拝した。

その日、朝10時頃起きだして、テレビのスイッチを入れたら、すでに小泉首相靖国参拝のニュースでもちきりだった。想定内のできごとだったから、特に感慨も起きなかった。

しかし、「なぜ今日参拝したのか?」という記者の問いかけに、「いつ行っても批判されるから、今日がいいだろうと思った」と答えた、小泉首相の今日の参拝を決めた理由には唖然とした。

小泉首相があまりロジカルな人間でないことは、とうの昔から知ってはいたが、これではあまりに非論理的で、問いに対する答えになっていない。二の矢の質問を繰り出せなかった記者も問題だが、参拝すれば必ず問われるであろう質問に用意していた答えがこれほど非論理的なものであるとは(それで十分と小泉首相が考えていたとは)、国民もなめられたものである。

 ロジカルな人間でないのはどっちだ。小泉さんは5年を掛けて「いつ行っても批判される」と証明してから8月15日に出かけた。
 記者側は「なぜ今日参拝したか?」と質問し、非難するための首相のことばを期待している。「戦争」「終戦」「英霊」、なんでもいい、とにかく中国朝鮮と連動し、靖国参拝を否定するための言質を首相から引き出そうとしている。
 それを見抜いている首相は、質問の「今日の参拝」を、政治的事件ではなく日附的なことに限定し、「いつ行っても批判されるから今日行った」と、相手の矛先をするりと交わしている。見事である。タチバナタカシは頭から湯気を立てたことだろう。

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戦後歴代首相の靖国神社参拝(回数)──wikepediaより

2006年現在、57人中14人の首相が、(最初の首相伊藤博文就任以降の)121年間に計67回参拝している。 最初に参拝した東久邇稔彦は30人目(重複を入れると43代目)の首相でしかも戦後初の首相。 東久邇以後に限定すると、28人中14人の首相が、61年間で計67回参拝している事になる。 終戦記念日の参拝は121年間(61年間)で8回のみ。

  • 東久邇稔彦(1回): 1945年8月18日
  • 幣原喜重郎(2回): 1945年10月23日、1945年11月20日
  • 吉田茂(5回): 1951年10月18日、1952年10月17日、1953年4月23日、1953年10月24日、1954年4月24日
  • 岸信介(2回): 1957年年4月24日、1958年10月21日
  • 池田勇人(5回): 1960年10月10日、1961年6月18日、1961年11月15日、1962年11月4日、1963年9月22日
  • 佐藤榮作(11回): 1965年4月21日、1966年4月21日、1967年4月22日、1968年4月23日、1969年4月22日、1969年10月18日、1970年4月22日、1970年10月17日、1971年4月22日、1971年10月19日、1972年4月22日
  • 田中角榮(5回): 1972年7月8日、1973年4月23日、1973年10月18日、1974年4月23日、1974年10月19日
  • 三木武夫(3回): 1975年4月22日、1975年8月15日、1976年10月18日
  • 福田赳夫(4回): 1977年4月21日、1978年4月21日、1978年8月15日、1978年10月18日
  • 大平正芳(3回): 1979年4月21日、1979年10月18日、1980年4月21日
  • 鈴木善幸(9回): 1980年8月15日、1980年10月18日、1980年11月21日、1981年4月21日、1981年8月15日、1981年10月17日、1982年4月21日、1982年8月15日、1982年10月18日
  • 中曾根康弘(10回): 1983年4月21日、1983年8月15日、1983年10月18日、1984年1月5日、1984年4月21日、1984年8月15日、1984年10月18日、1985年1月21日、1985年4月22日、1985年8月15日
  • 橋本龍太郎(1回): 1996年7月29日
  • 小泉純一郎(6回): 2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日

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 ムラヤマはともかく、小渕首相と森首相が行っていない。とにかく波風立てない主義の小渕さんはともかく、森は普段からかなりそれらしきことを言っているので意外である。あまりの難局、低支持率でそれどころではなかったとも言えるが、だからこそ行けとも言いたい。どうせ談合で出来た短命政権なのはわかっていた。彼だって「サメの脳みそ」と揶揄され最悪の支持率となり短期政権に終るとわかっていたなら行っていただろう。だがなった時は長期政権を夢見て事なかれ主義に陥っていたのか。
(テーマ06/8/15 文07/1)
9/4
 私的「小泉首相の最も印象的な一言」



9/20  タイでクーデター

 いよいよ安倍自民党総裁が誕生する日である。それを見ようと朝早くみのもんたをつけたら全然違うニュースが流れてきた。タイで軍事クーデター(まあクーデターは軍事だが)が起きたというのである。1991年のあのときを思い出した。戦車が街中に出ている。多くのタクシン嫌いを受けての行動だから市民たちも支持していて混乱はない。戒厳令もないという。戦車と兵士はいるが、それ以外はのんびりしたいつも通りの街の様子が流れた。

<タイ>クーデター、軍「首都制圧」 首相は非常事態宣言

 【バンコク浦松丈二】国連総会出席のためニューヨークに滞在しているタイのタクシン首相はタイ時間の19日午後10時(日本時間20日午前0時)すぎから、タイ国内のテレビを通じ、非常事態宣言を発表した。しかし、首相に反対する部隊は首相府やテレビ局を占拠し、バンコク市内の制圧を発表した。
 タクシン首相は、国軍トップのソンティ陸軍司令官を解任し、前最高司令官のルアンロー最高司令官に治安維持権限を委託した。タイ国軍は公式の発表をしていないが、同日夜からバンコク各地に軍が出動し、厳戒態勢を敷いている。
 タイのテレビ各局は番組を変更し、国軍と警察は「政治改革委員会」を設置したとの字幕を流している。また、国王についての記録映像を放映し、「国軍と警察がバンコクと周辺をコントロール下に置いている」としており、国軍の一部がテレビ各局を制圧し、管理下に置いている模様だ。
 首相府周辺では、国軍の戦車が包囲し、封鎖している。ロイター通信によると、50人前後の兵士が首相府を警備していた警察部隊に対し、武器を置くよう命じたという。
 タイでのクーデターは、1991年2月にスントン軍最高司令官らがクーデターで憲法を停止し、軍政を敷いて以来15年ぶりになる。
 タイの憲法規定では、国王が三軍を統帥しており、プミポン国王の意向が国軍の方針を決める大きなかぎを握りそうだ。



 「タイのクーデター→国王が出ておしまい」は定例行事みたいなものであり、さほど流血のクーデターがと案じることはないのだが、現実に1991年に死人が出て血が流れた現場を見ている。これだけでは安心できない。親タクシン派が行動を起こしたとき、いさかいのなかで血が流れる可能性はある。
 あのときと比してもずいぶんと街中は落ち着いている。

1991年2月23日、タイ

 

 1988年8月より初の民選首相としてプレム首相の後を継いでいたチャチャイ首相の政権に不満を持つタイの軍部が、1991年2月23日、クーデターを決行し、午後2時50分、スントーン国軍最高司令官が全テレビ局を通じて「陸海空軍・警察・文官からなる国家治安維持団(NPKC=National Peace Keeping Command)が、本日午前11時半、政権を完全掌握した」と発表した。また、自ら国家治安維持団の団に、また実質的陸軍の最高実力者とされるスチンダ陸軍司令官が副団長に就任したことを宣言した。更に治安維持のため、国会治安維持団布告第4号にて、1991年2月23日午前11時30分よりタイ国全土に戒厳令が施行する一方、立憲君主制は護持すると告げ、国民や軍部隊に平静を呼びかけた。

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 私は今回のことに関してあまり意見を言う気がない。タイという異国で起きた、タイ独自の解決法をすでにもっている事件だからである。簡明に言うと「他人が口を出す問題ではない」になる。このことに関して熱く語るのは愚であるとすら思っている。

 ただ[感想]はある。私はタクシンという金を持っている人が権力まで手にしたから、それを追い落とすのは容易ではないと思っていた。いや不可能なのではないかと思っていた。国によっては永世政権、一族政権になってもおかしくない。タイという国に、彼を追い落とす方法、手段、力はあるのだろうかと案じていた。
 たとえば日本だとタナカカクエイが金権政治をやったが、彼の場合政権を維持する(=手下を確保する)ためにバラまく金を「河川敷」に代表されるように政権を利用して作り続けていた。いわば金権維持のための金作り自転車操業である。これを東大卒官僚側が崩壊させるのは簡単だった。なにしろ盤石の体制ではなく支えている金権は自転車操業であり学閥的基盤がないのだから脆い。タチバナタカシのような物書きから裁判長まで東大卒官僚は密に繋がっている。その気になれば彼を罪人にして葬ることは簡単だった。私にとってタナカカクエイ事件とはそれであり、その視点でのみ興味深い。蟷螂の斧だった。

 タクシンはもともと金があった。さらにそれを政権を利用してふくらまそうとしたことが騒動の引き金になっている。なにもあれだけ金持ちなのだからそんなに欲をかかなくてもと思うが金持ちとはより金持ちになりたい人種なのだろう。
 しかしタクシンはカクエイのような自転車操業ではなくもともと充分な自己資本をもって政治世界に登場した。こういうタイプに権力の座に就かれてしまったら追い落とすのは大変だろうと、タクシン嫌いのタイ人と話すたびに案じていた。

 しかし、というかやっぱりというか、なあんだというか、タイには奥の手があった。このドラエモンマジック的奥の手がある限りどんな問題児が首相になろうとなんら案じる必要はないのだとあらためて知った。
 とはいえ奥の手は永遠ではない。現国王のようなカリスマ性を持った人がこのあとに続くとは限らない。次のときはどうなるのだろう。興味はむしろそちらにある。

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──9/22

 本来この項は日記に書くだけで表に出るはずではなかった。それをさらす気になったのは今日偶然見知らぬタイ人と話したからだった。
 会社の同僚とパソコン業界紙を作っている会社を訪ねた。上階までのエレベーターが二機ともちょうど行ってしまったところだった。しばらく待たねばならない。するとうしろから「パイ・レーオ」とちいさな声が聞こえた。
なんとなくタイ語のような気がした。空耳かもしれない。そう思ってふりむくと細身細面のタイ人らしい面立ちの三十代男性がいた。スーツの胸にタイのバッジをつけているのでまちがいないと確認できた。一緒にいる年配の女性は母親だろうか。

 エレベーター内で4人になったとき、タイ人ですかとタイ語で尋いた。私がこういう積極的?な行動をすることはめったにない。
 そうです、と返事があり、彼はほほえんだ。突然タイ語で話しかけられた驚きとタイ語を話す日本人に対する好意がまなざしにあふれていた。
 エレベーターが7階につくまでの短い会話が始まった。彼らは日本語がとても上手だったのでタイ語を話す必要はなかった(笑)。なのに私はタイ語を話していた。バカである。そのことに意味があったとしたら同行していた同僚にタイ語が話せるんですかと驚かれたぐらいだ。しかしそれはフランス語などと比すると驚愕度合い尊敬度はだいぶ落ちる。かといって私はこんな形で乗り合わせたフランス人に話しかける気はない。機会は数多くあったがしたこともない。そう思えば迷うことなくこんなことをしてしまうのだから今でもタイ人は私にとって特別な人たちなのだと気づく。

 降りる間際、私は「お国がいまたいへんですが、がんばってください」と言った。
 すると息子(推測)と私の会話に口を出さなかったお母さん(推測)が、このときだけは早口で参加してきた。彼女は私の「ご心配でしょう」に対して、「ノーノーノー」とあわてたように英語で言い、「We are very happy」を繰り返した。
 私はそうでしたかと言い、彼女に向かってワイをしてエレベーターを降りた。

 そのあと業界紙記者に聞くと、8階が旅行会社なのでよく外国人と乗り合わせるとのことだった。
 この親子(推測)と出会ったので、短文でもいいからこのことを記録しておこうと思った。
 今回のクーデターに関する私の[感想]は、この女性が言った「We are very happy」になる。
9/27
 麻生太郎の愉快

 2ちゃんねるの「ニュース速報+」で以下のような書き込みを見かける。

・麻生外相は26日、再任の記者会見で以下のように語り、朝日新聞への軽いジャブを放った。

 朝日記者:すいません、朝日新聞ですが、安倍首相のおっしゃる"日本とアジアのための日米同盟"、これを小泉政権の日米同盟とどういう違いを出すかをお聞かせください。

 (中略)

 麻生外相:…アジアという質問でしたけど、アジアにおいて最大の民主主義国家"インド"、世界においても最大ですけれども、そういった国々含めましてアジアというものを重視していかなければならんと思っております。
  たぶん中国のことを前提としてその質問をされたと思うんですけど…朝日新聞だからそうなんだと思いますけど…。 (抜粋)


 その下にこうあった。

 ttp://www.youtube.com/watch?v=LtowHUg_ZTY
 ※朝日記者の質問は4:15あたりから、麻生外相のジャブは5:54あたりから。


 映像である。見逃したニュースを見られるのだからはありがたい。誰かの意見が入って書かれた紙メディアとは信頼度が違う。
 私はこの「朝日新聞だからそうなんだと思いますけど…」では笑いが起きるかと思ったがそれはなかった(笑)。

 この会見は最初から「えー、このたび外務大臣を留年、留年じゃなかった留任しました麻生太郎です」と笑わせてくれる。留年ということばには未だにひやっとする(笑)。もちろん意図的な冗談ではなくすなおに言い間違えて言い直しただけ。

 そのあとも、記者クラブの方が混乱して質問者が乱立したとき、「誰が仕切るの? おれ?」と何度か「おれ」発言をしていた。司会が「いや私が」と言うと、「三人手が上がってるよ、誰? 俺が仕切るの?」と発言。きちんとまとまっていない記者クラブを笑うこちらは楽しいが、ひねくれ者記者にまた何を書かれるやらと心配になる。だがもうyoutubeの時代だ。アサヒのようなのが都合良く捏造した文にしても本来の映像で確認できる。もっともアサヒを支持する連中はアサヒの活字だけを信じて映像など確認しまいが。

 昨夜のこのニュースを思い出すと、私は「留年、いや留任」の部分を見ている。ということはこの「アサヒ」の部分は、私が見た映像ではカットされていたか、一杯機嫌の私が気づかなかったかなのだろう。それをもういちどこうして見られるのだからなんともありがたい時代だ。実際にYoutubeの映像を見るのと、2ちゃんねるでの書き込みを見て、「へあ、そうだったか、気づかなかった」と思うのではおおきな違いがある。

 麻生さんには幹事長との下馬評もあった。それも楽しみだったが外務大臣で正解だった気がする。私としては官房長官になってもらって毎日発言を聞きたかった気もする(笑)。でもこれは問題か。あれは小泉さんのときのフクダのように「とりつく島もないタイプ」がいいのだろう。
 安倍政権転覆を謀る連中がアキレス腱として狙っているのは「中川幹事長の女問題」「中川政調会長の酒問題」とかいくつかあるようだが、アサヒあたりが必死に狙うのは今まで何度もこういう発言で煮え湯を飲まされてきた麻生外務大臣の舌禍事件だろう。なんともスリリングである。しかし気分のいい皮肉だ。

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 新政権の布陣を私は帰社時の『夕刊フジ』で知った。「老・壮・青のバランスが取れた」とフジは褒めていた。私個人は思ったよりも「老」が多いと感じたが、自民党史上最年少の総理なのだからこれでいいのだろう。
 おそらく、いやまちがいなく「イチャモン屋」の『日刊ゲンダイ』はボロクソだったろう(笑)。さすがにこんなときは何を読むか考える。『東スポ』でもゲンダイでもなくフジにしたのは正解だ。

★谷垣氏「論功行賞は明瞭」と安倍内閣を批判

・「総裁選に関しての論功行賞という点では極めて明瞭なもの。他方、多様な意見を
 るつぼでとかして政策を鍛え上げるという観点でみると配慮は十分ではない。今後、
 早速補欠選挙が大阪と神奈川であり、参議院選挙もある。大きなハードルであり、
 越えていくためには党内が結束して力を出していくことをつくっていかなくては。
 その点については、問題を残したと思う」-自民党総裁選で敗れた谷垣前財務相は
 26日、安倍新政権に対し批判した。


 まあどうでもいいや(笑)。カトーコーイチを「あんたが大将」と言った人だから。起用されなかった恨みもあるんだろう。
10/8
 手を繋ぐ首相

 初の戦後生まれの首相である。一気に政治が若返った。その期待した安倍首相にこんな形で失望するとは思わなかった(笑)。

 まずは組閣で失望した。勝ち馬は安倍で絶対となったから雪崩を打って支持表明が相次いだ。もうみっともないのなんのって絶句である。それだけ派手に支持されたらバランス人事にならざるを得ない。老壮青のバランスがとれたよい人事と言われたが、なんでマツオカなんぞを入れるのか私にはわからない。安倍さんはそんなことをしない人だと信じていた。
(後日註・案の定スキャンダルが発覚し早くも安倍政権の汚点となっている。マツオカなんてのは最初に葬るべき過去の政治屋だろう。)

 しかしこれは仕方ないとも言える。若い首相だから世代交代させられた年配からの反発がある。憤懣を押さえるためにはバランス人事をせねばならなかった。だからこれは仕方ないなと諦めたのだったが……。

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 女房と手を繋いで飛行機に乗り込む、降りてくる姿を見て絶望した。だめだこりゃ、である。

 私のすべての判断基準は「なにがかっこいいか」である。感覚の問題だ。
 今まで「なにげなく」と言っていたことを、「なにげに」と言う言いかたが流行った。私は使わなかった。どう考えてもそれがかっこいい日本語ではなかったからである。否定した。そのことを書いたら古典の先生だという人に日本語文法を持ち出して絡まれた。この人とは後にもことばに関して「出典」で揉めるのだが、そんなムズカシイことはどうでもいいのである。感覚の話なのだ。学問のことではない。黒髪の日本人が髪を金髪にすることがかっこいいかどうかの話なのだ。日本人の男が耳に穴を開けてピアスをすることがかっこいいかどうか、それだけなのだ。それをかっこいいと思い喜々としてする人と、みっともないと侮蔑する人がわかりあうことはありえない。難しい問題のようで難しくない。極めて簡単明瞭。ただそれだけの問題なのである。

 安倍首相は、日本中が、世界中が「大国日本の初の戦後生まれ首相」と注目する場で、女房と手を繋ぐことを「かっこいい」と判断し実行した。タラップから降りるとき、自分から手を差し出して握った。私にはそれは「最もかっこいわるいこと」だった。通じようがない。

 首相夫妻には子供がいない。祖父の代から続いてきた華々しい政治家一族もここで途絶える。でもあれだけ奮闘しても成れなかった父の悲願をあっさり実現したのだからこれで充分か。
 子がいない。これから出来る年齢でもない。それはさびしいことだ。そのさびしさは夫婦仲がよければよいほど目立つ。プライベートでは思いっきり愛妻家で、表の舞台では決してそれを表に出さず、が私にとってのかっこよさである。たかが女房の手を握っただけではないかと言う人もいるかもしれないが、私はあれだけでもう安倍首相に関して一気に引いてしまった。日本人の美学としては、女房の手を引きたいが、あえてそれをしないのが見えるようだ、ぐらいがいい。幼稚園のオトモダチじゃあるまいし、いい齢こいてなにやってんだ、と思った。

 で、この話はもうお終い。書きたくない。小泉さんの思い出話でもしよう。

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 アメリカの大統領が政治の世界に女房を同伴する。なんだかそれがオシャレ(笑)になり、世界的な傾向になりつつあった。やだなあ、女ってのは裏にいるからかっこいいのに。
 日本で最初にそれをやったのは佐藤栄作だった。女房の名は佐藤寛子。印象深い名前なので同名のグラビアアイドルだかなんだかが登場してきたとき、瞬間的に反応し(笑)そのことを書いた。


 アイドルの芸名──かっこよさは世につれて


 それまで世界で報じられる日本のファッションリーダーはプリンセスミチコのみだったのが、この目立ちたがりの佐藤夫人から日本のファーストレディが表舞台に出てくる。詳しくは上記リンクに書いた。佐藤栄作から橋本龍太郎まで、好ましいと思った女房はいない。女がでしゃばって出てくるのを快く思っていないのだからいるはずもない。マンガの「加持隆介の議」ですら彼の女房が煩わしかった。タナカマキコはこのことで人生を間違った。

 小泉首相にそういう女房の影がつきまとわなかったのはよかった。あれで女房とでれでれするところを見せられたり、頭が上がらないと報じられたりしたら私はしらけていた。

 金と力のある政治家や社長に妾がいて当然と思う。それが男の甲斐性だ。もちろん一穴主義の愛妻家もすばらしい。人それぞれでいい。しかし今の時代、表舞台に立つ人は愛妻家を強要される。くだらない時代である。
 ああ、ついでにもうひとつ。金と力のある女が男妾を何人ももっていても、もちろんいい。すなおにそれはかっこいいと思う。囲われている男妾はどんなにハンサムで贅沢をしていてもそうは思わないが(笑)。
 私の言いたいのは、そういう一芸(=政治)に秀でた人間を、庶民感覚の一夫一婦制の型にはめ込もうとする民主主義のくだらなさである。そりゃ一夫一婦制にしたら天皇制だって崩壊する。徳川幕府だって連続しなかった。

 愛妻家とは人の評判だ。自らパフォーマンスするものではない。

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 Grep and Replace

 どこかに「佐藤寛子」のことから「首相夫人・佐藤寛子」のことを書いた記憶があった。しかし何がテーマであったか覚えていない。「政治」か「芸能」か。あるいは「テレビ」か。もしかして「音楽」かもしれない。それらの見出しの中から探し出すのも手間が掛かる。

 フリーソフトGrep and Replaceでホームページファイルを一括検索した。すると「佐藤寛子」という文字を含むファイルとして上記ファイル「geino-04」がヒットした。
 ホームページ容量が大きくなってきたので、書いた記憶はあっても、それがどの項目だったか忘れている場合がある。手放せないソフトである。作者に感謝。

Grep and Replaceのホームページ


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