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■2006/07/20 (木)靖国発言は2.26事件終戦に次ぐ昭和天皇第3のご聖断。 |
踏み絵といえば今朝の日経新聞の世紀のスクープに私は霹靂に打たれ立ちすくんだ。これは2.26事件そして終戦に次ぐ昭和天皇の「第三のご聖断」ではないか。腰を据えた論議をせよと陛下は私たちにおっしゃっているのである。インサイダー事件でいよいよ日経に司直のメスが入るこのタイミングに隠し玉を出してきたのは笑止千万だけどね。
■2006/07/21 (金)先帝の忌避を君側の奸とA級で混同せぬ慎重な論議を。 |
6時起床。天皇という存在はこの国のバランサーだとかねて思っていた。国民がタコツボの中で堂々巡りの論議に陥った時にもう一度論点の軸を明らかにする機能があるのだ。「空気」に支配されがちなこの国の国民が悠遠の歴史の中で作り上げてきた智恵といっていい。昨日私は今回明らかになった昭和天皇のお言葉が「第三のご聖断」だと書いた。ご自身の意見を明らかにされないことが天皇としての立場だと確信されていた昭和天皇が自らの言葉を語られて「場」を動かした過去の二つの例を思い出したからだ。帝都を占拠しようとした将兵を「反乱軍」と呼ぶに躊躇した「場」を動かした2.26事件。そして明らかに亡国へ突き進むのが目に見えていながらも誰も「降伏」の二文字を言い出せなかった「場」を切り裂いた終戦のご聖断。今回明らかになったお言葉は正に今私たちが突きつけられながら立ち往生している大東亜戦争と終戦と戦争責任そして東京裁判を巡る歴史観に対する思想的硬直の「場」を突き動かせという「ご聖断」ではないのか。もちろんその論議はこのお言葉が真正なものかどうかという所から始めなくてはいけない。私は今回の「スクープ」がこの時期に日経新聞から出たことを心から惜しむものである。日経には今日にもガサが入るという情報がある。しかも支那に魂を売り渡し続けた財界人どもが信奉する新聞である。もちろん今という時期は8月15日を間近に控えている。総裁選では日本人の心を売り渡そうとする勢力が担ぐ福田テポドン(笑)が「撃つぞ撃つぞ」といいながらとうとう飛ばないことになりそうで奴らはここはひとつ派手な巻き返しを必要としている。支那はと言えば金豚の説得に失敗して大恥をかき日本に奪われたイニシアティヴを何とか取り返そうとしている。どこをとってもこの時期にかかる重大な事が日経から出る薄汚い事情だらけである。それでも私はこのお言葉と言われるものを頭から否定して論争を拒否する気はない。いや万々が一偽物であっても「昭和天皇のお言葉かもしれない」という動機づけだけで私たち自身の手で私たちの歴史を位置づける契機になればそれこそがまさに先帝の御稜威というほかはない。「支那朝鮮に言われて」ではなく「昭和天皇のお言葉らしきものが出てきたから」私たちは論議を始めるのだ。まさに「場」が動くのである。保守論壇と言われる人々こそ自らの思想硬直から脱せよ。それこそが忠であり義ではないか。
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■2ちゃんねるより
【疑問点(改訂版)】
1.「昭和天皇と交わされた会話を日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてあった。
2.「だから私はあれ以来参拝していない。」
天皇陛下は75年(三木首相私人参拝)から参拝していないのに、
「私はあれ(3年も後の78年のA級戦犯合祀)以来参拝していない」では辻褄が合わない。
3.あったとされる「発言」が合祀から十年後の昭和63年(1988年)の四月。崩御の前年。
4.天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、参拝を取りやめたりすることはそもそもできない。
それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5.何故、毎年、天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象となっている全国戦没者追悼式に毎年参列して、御言葉も述べているのか。
6.一部記事中の白鳥を白取と誤字。普通間違えるか?
7.論理構成、概念が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプのような文章。
「平和に強い考え」?何それ?中国共産党の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
8.「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」 「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
78年ならまだしも、合祀から10年経った88年に語ったとするとあまりに不自然な発言。
9.当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
10.勅使は陛下の私費で現在まで靖国神社に派遣されている
11.日記のページは黄色く変色しているにもかかわらず、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
12.ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたせず、綺麗なままである点。
13.天皇陛下は自らを「朕」と呼ぶはずで「私」とは言わない。
14.「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文章在任期間は、1986年7月22日~9月8日のわずか49日間。
15.神道の最高神である天照大神の子孫である天皇陛下が神社に「参拝」すると発言することはありえない。 正しくは親拝。
【重大な疑問】
1 「日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてある。
2 日記のページは黄色く変色しているのに、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
3 ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたりせず、綺麗なままである点。
4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、取り止めることはできない。
それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5 勅使は陛下の私費で現在も靖国神社に派遣されている。
6 天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象である全国戦没者追悼式に毎年参列して御言葉も述べている。
7 白鳥を白取と誤字。
8 理論構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプそのもののような文章。
「平和に強い考え」?何それ?中共の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
「平和に強い考え」=「平和への熱い思い」と同義でしょ。
9 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
合祀された78年ならまだしも、10年後の崩御の前年の88年に語ったとすると日本語としてあまりに不自然。
10 「それが私の(本)心だ。」文末でわざわざもう一度総括(笑)する不自然極まる文章。
11 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる
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「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(朝日新聞1995年8月19日)
12 1988年4月28日に富田宮内庁長官の拝謁の記録なし?徳川侍従長とは打ち合わせの記録アリ?(※未確認情報)
13 「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文章在任期間は、1986年7月22日~9月8日。
http://www.vipper.org/vip295965.jpg
46 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 06:19:33 ID:2EdCgWgH0
オイオイ、手帳とメモが一緒にテレビに出てるぞwww
同 じ 環 境 で 保 存 さ れ て い た の に
手 帳 と メ モ の 紙 の 色 合 い が 違 う の な ぜ で す か ?
手 帳 は 2 0 年 く ら い の 色 あ せ、 劣 化 が あ る の に
メ モ は 2 0 年 く ら い の 色 あ せ、 劣 化 が 全 く な い 真 っ 白 な の は
な ぜ で す か ?
m9(^Д^)プギャーーーッ
47 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/21(金) 06:19:42 ID:nj8OuFFi0
日経見た限りだと本物のようだったが、TV見ると明らかに別物なんだな。
堀江メールのようだ。
筆跡は合っているだろうから、別に書いたものを合わせてる?
年代調査が必要だな。
117 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/23(日) 13:28:59 ID:mGwLzH6u0
今日の日経朝刊より
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
富田朝彦元宮内庁長官が残した日記・手帳(富田メモ)を公表するに当たり、
日本経済新聞はその筆跡、内容などを詳細に分析し、
現代史の専門家の意見も聞いた。
その結果、書き込まれていた行事、出来事の日付や内容は事実と整合性があり、
メモの信頼性は高いと判断した。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
だそうですw
120 名前:前スレ804だけど、もう一度[] 投稿日:2006/07/23(日) 13:29:32 ID:HEGRNVfn0
http://ameblo.jp/disclo/
>富田記録については2003年の死去後、何度か外部に貸し出されています。
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>手帳に貼り付けられたメモ用紙は
>もともと貼り付けられていたものではなくファイル綴じの最後に
>挟まれていたもの。
>(実際に本メモ・手帳を一時借り受けた人物証言
> 自民党代議士関係者が入手)
え~と、誰が、いつ頃、メモを貼り付けたの?
天皇御親拝中断の真の理由
http://www.okazaki-inst.jp/092005ibuki.html
反対が始まったのは昭和六十年九月二十日の中国外務省スポークスマンの発言からである。
その後はそれが中国の公式態度となった。
その後、昭和天皇が「A 級戦犯」の合祀に反対されたという説がまことしやかに流されたが、
信憑性はない。ただ当時の時流として昭和天皇を護るためには、陛下が徹底した平和主義、
反軍国主義者であったと言うことが陛下のためになると側近が思い、敢えて「尊き人のために言った」
可能性はあるかもしれないが、それは昭和天皇御自身のお考えとは関係はない。
「米国より見れば犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり」
それでは昭和天皇はいわゆる「戦犯」をどうお思いになっていらしたのだろうか。文献から少し引用してみよう。
「戦争責任者を聯合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」
(『木戸幸一日記〈下〉八月二十九日』)
「侍従長より戦争犯罪容疑者となりたる今日或は御遠慮申上ぐるにはあらずやと言上せしに、聖上は米国より見れば
犯罪人ならんも我国にとりては功労者なり、若し遠慮する様なれば料理を届け遣せとの御諚ありしとの話を承り、感激。(以下略)」(同書十二月十日)
「元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家の様に評判が立つたのは、本人が余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、
本人の気持が下に伝らなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。(中略)東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中々良い処があつた。
(中略)私は東条に同情してゐるが、強いて弁護しようと云ふのではない、只真相を明かにして置き度いから、之丈云つて置く」(『昭和天皇独白録』)
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朝日新聞社が22、23の両日実施した全国世論調査(電話)で、次の首相の靖国神社参拝の賛否を尋ねたところ、反対が60%を占め、賛成の20%を大きく上回った。今年1月の調査では反対46%、賛成28%で、今回、反対が大幅に増えた。小泉首相が9月末までの任期中に参拝することについても反対が57%にのぼり、賛成29%のほぼ2倍だった。昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示していた発言メモが明らかになり、首相参拝の是非を考える上で、この発言を「重視する」と答えた人は6割を超えた。
次の首相の靖国神社参拝について、「しない方がよい」とする反対の人はすべての年代で6割前後あった。内閣支持層で46%、自民支持層でも47%が反対で、「する方がよい」と答えた賛成の人は、ともに3割程度にとどまった。1月調査では内閣支持層、自民支持層ともに反対は3割台で、賛成を下回っていた。これまで靖国参拝を支持してきたこうした層の意識の変化が、反対をかさ上げした構図だ。
今回、次の首相として最も人気が高かった安倍晋三氏の支持層でも反対が52%で、賛成の29%を大きく上回った。
一方、小泉首相の靖国参拝については、これまでの調査で賛否が揺れており、昨年10月の参拝直後は賛成と反対が相半ばしていた。今回、反対が最も高くなった。
小泉首相が公約にしてきた終戦記念日の8月15日の参拝についても、否定的な見方がうかがえる。小泉首相の参拝に賛成と答えた29%の人に参拝の時期を尋ねると、「8月15日以外がよい」が45%で、「8月15日がよい」の39%より多かった。
昭和天皇の発言については、小泉首相や次の首相の靖国参拝の賛否を聞いた後に質問した。発言を「重視する」は、「大いに」(24%)と「ある程度」(39%)を合わせて63%。「重視しない」は、「あまり」(21%)と「まったく」(12%)を合わせて33%。「大いに重視する」は年代が上がるほど高く、70歳以上では33%にのぼる。
「大いに重視する」人では次の首相の靖国参拝に賛成が10%、反対82%だが、「まったく重視しない」人では賛成が32%と反対の35%と拮抗(きっこう)。天皇発言を重く受け止めるほど、首相の靖国参拝に反対する傾向が読み取れる。アサヒシンブン
民主党の小沢一郎代表は25日の記者会見で、富田メモに関し「私自身、中国や韓国などに言われる以前に、戦争指導者は日本国民に大いなる責任があるとかねて発言してきた」と述べ、A級戦犯合祀に反対する持論を重ねて強調した。
富田メモの内容については「昭和天皇の大み心を感じる」と表明。小泉純一郎首相が自らの靖国参拝への影響はないと述べたことに関しては「個人の問題だとかいうたぐいの首相の発言は、全く本質を理解していない不見識な言葉だ」と批判した。
小沢氏は首相の参拝に否定的な自民党内の議論にも疑問を呈し「何となく中国、韓国やアジアの国々が反対だからやめた方がいいという話に聞こえる。私はそうではない。ひとからげに議論されるのは心外だ」と強調した。
(日経 25日22:42)
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継続検証中
小泉純一郎首相は15日、靖国神社に参拝した。終戦記念日の首相参拝は、昭和60年の中曽根康弘元首相の公式参拝以来、21年ぶりである。
小泉首相はモーニング姿で「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳し、昇殿参拝した。国民を代表しての堂々とした歴史的な参拝であった。小泉首相は5年前の自 民党総裁選で、「いかなる批判があろうとも、8月15日に参拝する」と訴え、首相に就任した。当然のことだが、その約束を完全に果たした。
中国と韓国はこれまで、小泉首相の参拝日にかかわりなく、常に「反対」の大合唱を繰り返し、日本の一部マスコミや識者もそれに便乗してきた。中韓の内政干渉に対し、8月15日の首相靖国参拝は、国の戦没者慰霊のあり方と外交姿勢をきちんと示した。
靖国神社に祀(まつ)られている246万余柱の霊のうち、213万余柱は先の第二次大戦の死者だ。その意味でも、大戦が終結した日の参拝は格別、意義深いものがある。
参拝後、小泉首相は「多くの人が15日だけはやめてくれと言うから、避けて参拝したが、いつ行っても混乱させようとする勢力がある。いつ行っても同じな ら、きょうは適切な日ではないか」と話した。首相就任後、最初の参拝で、中国や韓国に配慮すべきだとする政府・与党内の一部の意見を入れ、8月13日に “前倒し”参拝したことへの反省の思いが込められている。
平成14年以降も、小泉首相は春秋の例大祭や元日などを選んで年1回の靖国参拝を続けてきた。8月15日を避けたとはいえ、いつ参拝しても、それぞれ意義があったことを、多くの国民に伝えたことは評価されてよい。
特に、春秋の例大祭は、安政の大獄で刑死した幕末の思想家、吉田松陰らすべての国事殉難者を慰霊の対象としており、終戦記念日の参拝とは違った意義をもつ。
靖国神社は今年の終戦記念日も、参拝者の長い列ができた。戦没者遺族に交じって、親子連れや若いカップル、学生らの姿がさらに増えたように思われた。靖 国参拝は遺族の世代からその子や孫の世代へと受け継がれている。国民のだれもが自然な気持ちで国のために死んだ先祖の霊を慰める静かな杜(もり)であり続 けてほしい。
8月15日、小泉首相が靖国神社に参拝した。
その日、朝10時頃起きだして、テレビのスイッチを入れたら、すでに小泉首相靖国参拝のニュースでもちきりだった。想定内のできごとだったから、特に感慨も起きなかった。
しかし、「なぜ今日参拝したのか?」という記者の問いかけに、「いつ行っても批判されるから、今日がいいだろうと思った」と答えた、小泉首相の今日の参拝を決めた理由には唖然とした。小泉首相があまりロジカルな人間でないことは、とうの昔から知ってはいたが、これではあまりに非論理的で、問いに対する答えになっていない。二の矢の質問を繰り出せなかった記者も問題だが、参拝すれば必ず問われるであろう質問に用意していた答えがこれほど非論理的なものであるとは(それで十分と小泉首相が考えていたとは)、国民もなめられたものである。
ロジカルな人間でないのはどっちだ。小泉さんは5年を掛けて「いつ行っても批判される」と証明してから8月15日に出かけた。2006年現在、57人中14人の首相が、(最初の首相伊藤博文就任以降の)121年間に計67回参拝している。 最初に参拝した東久邇稔彦は30人目(重複を入れると43代目)の首相でしかも戦後初の首相。 東久邇以後に限定すると、28人中14人の首相が、61年間で計67回参拝している事になる。 終戦記念日の参拝は121年間(61年間)で8回のみ。
1991年2月23日、タイ
1988年8月より初の民選首相としてプレム首相の後を継いでいたチャチャイ首相の政権に不満を持つタイの軍部が、1991年2月23日、クーデターを決行し、午後2時50分、スントーン国軍最高司令官が全テレビ局を通じて「陸海空軍・警察・文官からなる国家治安維持団(NPKC=National Peace Keeping Command)が、本日午前11時半、政権を完全掌握した」と発表した。また、自ら国家治安維持団の団に、また実質的陸軍の最高実力者とされるスチンダ陸軍司令官が副団長に就任したことを宣言した。更に治安維持のため、国会治安維持団布告第4号にて、1991年2月23日午前11時30分よりタイ国全土に戒厳令が施行する一方、立憲君主制は護持すると告げ、国民や軍部隊に平静を呼びかけた。