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2002~2003



02/4/17 キンメの煮つけ
 偶然つけたテレビで、セキグチヒロシと三宅祐司のグルメ番組を見る。対決は「サワラの西京焼き」と「キンメの煮つけ」。自分ならどっちを選ぶかと割合本気で見てしまった。

 本気で考えつつ見ていたけれど、自分の選択は最初から決まっていたように思う。金目鯛だ。それは「味の記憶」である。体の中にあの甘じょっぱい金目鯛の煮つけと薫りが広がり、それを食しながら日本酒を飲む自分を想像したら、もうしんぼーたまらん状態。一方、サワラ(鰆、サカナへんに春だ)の西京焼きは、さすがに何度か食べたことがあるが、「あれはうまかった、ほんとーにうまかった、もういちどあの西京焼きを食いたい」というほどのものを体験していない。西京焼きの決め手は京都の白味噌だ。これって育った地域の差なのだろう。
 香川県育ちのM先輩にとって刺身とは、鯛に代表される白身らしい。私の場合は、鰹であり鮪の赤身だ。それほどに土地の差は大きい。

 しかしあのキンメの煮つけはうまそうだった。今度東京からmomoさんにもらった久保田萬寿をもってきて飲むとき、自分でキンメの煮つけを作って肴にしよう。
02/5/27 酒-手取川(02/5/27)

 金沢のKが地元の銘酒「手取川」を送ってくれる。先日こちらから送ったメロンへのお返しだ。大吟醸の、さらに「古古酒」という特殊なもの。三年寝かしてある。この酒は、石川県松任谷市の酒で、流通規模は小さく珍しい酒になる。二年前おじゃましたときにごちそうになり、私が美味い酒だと褒めたことを覚えていてくれたのだろう。ありがたいことだ。そのとき飲んだのは純米酒。この古古酒は初めて飲む。

 早速父と二人、一合ずついただいてみた。なんとも不思議な味だった。父が「枯れている」と言ったが、これはあまり味にうるさくなく、表現力に乏しい父にしては、実に言い得て妙と思った。老父を侮辱するような言いかたをしてしまったが、私の父は、典型的な「仲間と大騒ぎして、酔うために飲む酒」の人で、銘柄や味にこだわったりするタイプではないので正直なところだ。それでもさすがに、どうしようもない酒は、これは不味いと、それだけは言う。逆にそのことから私は、戦後の不味い酒の時代を過ごしてきて、味にうるさくない父が、まずくて飲めない酒は、心底ひどいものであろうと確認する。

 とにかく不思議な味の酒だ。誤解を恐れず言うと、酒のうまみは全部蒸発してしまったような感じがする。あるのは酒の精だけ。そこにあらためて醸造用アルコールを足して完成した。そんな感じがする。まさに枯れているとしか言いようがない。口の中に残るのは水のような味わいだけ。なのに、ピリッとした酒の辛さは伝わってくる。これは芳醇なのか、芳香に近い。普通の日本酒よりも、泡盛の古酒に通じる、焼酎的なあじわいがする。日本酒も長く寝かせるとこんな感じになるのだろうか。

 例えば私の好きな酒を、「生牡蠣と一緒に飲む酒」とするなら、これは「干し牡蠣に振りかけた酒」のような感じだ。かみしめるような、舌で味わう牡蠣の味はないが、そこはかとなく漂ってくる牡蠣の味わいは、生牡蠣よりも強烈だったりする。そんな感じだ。

 これは老花の味わいであろう。いわばかつての名妓、今は老い、髪も白くなったが、その立ち居振る舞いの美しさ、所作の威厳、三味をもった色っぽさ、すべてが時を超え、名妓の世界に誘ってくれる。そんな酒だ。
 ぐあ、まだまだ未熟で生臭い私は、こんな花街のかつての名妓みたいな枯れた至高の酒よりも、ごくフツーの二十代のスタイルのいいOL(のような酒)がいいのだった。ブス(まずい酒)はイヤだ。バカ丸出しの女子高生(速成)なんて半径百メートルいないには近寄らない。女の恥じらいを捨てたおばちゃん(不純物添加)もダメだ。私の好きなのは、きちんとした会社で仕事を覚え、言葉遣いも正しく、有能な秘書として一目置かれているような存在、それでいてタイトスカートの後ろ姿から漂う硬質の色香、そんな「酒」がいいのである。
 それが三千円程度の秋田、新潟、宮城等の中小酒造による純米酒になる。Kの送ってくれたのは、それよりもずっと高級品である。ラベルまで凝った和紙だ。これはちょっと「紙のプロレス」なんぞを読みつつがばがばと飲んでしまっては酒にもうしわけない。

 夜更けに、ちょっと枯れた短篇でも書いてみようかと思いたったとき、素焼きの茶碗にでも入れたこの手取川は、いい気づけ薬になってくれるかも知れない。大事に飲むことにしよう。
02/5/16
とんでもなくまずい白雪の秘密
(02/5/16)

 私は酒にうるさい。
 普段飲む酒は厳選している。まずい酒は飲まない。まずい酒なら飲まないほうがいい。その点で、酒がないといられないとか、酒なら何でもいい酒飲みではない。粗悪な日本酒と安ウイスキーは体が受けつけない。
 といって、ワイン通に多いような、ウンチクをかたむけ、自己陶酔しているうるさ型ではない。
 友人と入った居酒屋で、彼が望むなら一緒に日本酒を飲む。安居酒屋の日本酒は最低最悪のものなのだけれど、親しい友人と話が弾めば飲めなくもない。酒は味わうものであるけれど、友との場における添え物の時もある。それはそれでいい。

 ここのところ博奕の負けが込んだので酒を控えていた。手痛く負けて財政は困窮しているが好きな酒を買うぐらいは出来る。なのに敢えてせず、自身に対する罰のつもりでいた。かといって酒を飲まずに飯を食うことはあり得ない。それで発泡酒を飲んでいた。ビールはいちばん値段による品質低下がすくない酒だ。サントリーだけはいまだに飲まないけれど。そんなわけで日本酒とウイスキーを飲まない日々が続いていた。



 過日の葬式のお返しがあった。日本酒三升と缶詰の詰め合わせだった。香典のお返しはこんなものである。その酒がこの白雪。普段ならこんなものは飲まない。日本でいちばん不味い酒は、灘の生一本とか伏見の酒の大量生産(正確には日本中の中小醸造元から買い集めてきたまぜこぜ品)ブランド品である。この「♪~山は富士なら酒は白雪~」で名高い酒も間違いなく不味いはずと遠ざけていた。


 が、しばらく日本酒を飲んでいないから飲みたくなる。私の酒は食い物との組み合わせだ。いい鮪が入った。これとがっぷり四つで組み合えるのは日本酒しかない。なんとなくいやな予感はしていたが「伝承仕込」なんて仰々しく書いてあるし、けっこういいかもなんて期待も生まれてきた。で、飲んでみた。味がしない。どういうことなのだろうと思った。「端麗爽快」だが「上膳水如」のようにサラっとしているとかではなく、味がしないのである。まったく水と同じなのだ。私は一瞬、自分の味覚がなにかで壊れたのかと焦った。


 こんな不味い酒を飲んだのは初めてだった。不思議なマズサだった。博奕で負けスッカラカンになり、それこそ発泡酒でさえ買えないことはよくある。仕事が終った夜更け、アル中となって階下の台所を探す。やはり葬式の返しなのであろう二合瓶があったりする。不味い酒だ。白雪のようなブランドを真似た、似たような名前の田舎酒である。だがこれらの酒は、安く作るために、明らかに粗雑な材料を使い、醸造用アルコールを足して作った不味い酒、「納得できるマズサ」だった。こういう不味いものを飲むと、しみじみとなさけなくなり、最低限自分の人生に矜持を持たねば、水準を保たねばと思う。これはいいことだ。その矜持は「来週こそ勝つぞ」だったりもするが。

 この「伝承仕込 白雪」は味がないのである。うまいまずい以前なのだ。美味い酒を天然色(なつかしい言葉だね)の世界とし、不味い酒をモノクロの世界とするなら、この酒はホワイトアウト、画面真っ白け。あるいは深夜の放送終了後の砂嵐。語りようがない。うまいまずい以前のもの。なんとも奇妙な酒だった。

 それでも、そこが貧すれば鈍するで、ないよりはましと、私は三日でこの酒を一升空けてしまう。書いててなさけない。ほんとうになさけない。不味い酒だ、ひどい酒だ、なんでおれはこんなものを飲むのだと憤りつつ、とりあえず飲んでしまった。でも、ほんと~に味のない不味い酒、いや不味い以前の味のない酒だった。

 あまりに味がないので、最後の一合を飲むとき、もしかしたら悪いのは私の舌なのではないかと思った。味覚が壊れてしまったのではないかと。運良くお気に入りである「純米 菊水」が一合ほど残っていた。コップに注ぎ飲み比べる。するとそれはまったく味が違い、口の中に日本酒の世界が広がってきたのである。真っ白けの無音の世界に色が付き、ゆたかな音楽が流れてきたような感覚だった。やはり私の舌が麻痺していたのではなく(それは一緒に食した鮪の旨さはわかったのだから自信を持っていたが)この白雪がおかしかったのだ。ありがとう菊水。


 しかしこの味の差はなんなのだろう。私の飲んでいる日本酒は、一升二千円から五千円程度のものである。たまに四号瓶で五千円なんて贅沢もする。でも一升二千円前後でなんとか飲める酒はいっばいあるから気張る必要もない。むしろ高い酒の大吟醸は香りが強すぎてあまり好みではないから、その下のランクの純米酒が私にはちょうどいい。
 この「伝承仕込 白雪」ってのは千五百円ぐらいだろうか。もうすこしするのかな? それでこんなにひどいのだろうか。だけどこの「純米 菊水」も二千円ちょっとのものだから、値段的にはたいして差がないはずだ。大手メイカーの大量生産ブランド酒は、ここまで落ちていたのだろうか。ちょっと未だに心の整理がつかない。それほど驚いた出来事だった。

 箱の酒というのがある。紙パックに入った一升千円以下のもの。あれはひどくて飲めない。水割りなのがすぐにわかる。チェンマイの日本食レストランなんかの酒はこの種のもの。それでいて一合200バーツぐらい取る。それは輸送コストがあるから仕方がない。私はなんとか味がまともである冷酒350バーツを飲む。一本で収まることはないから、チェンマイのそういう店に行くと一食五千円以上かかり、しかもたいしてうまくないからまことに不経済なのである。って、そんなことはともかく。

 この酒の奇妙な味わいには(いや、味がないんだから味わいじゃない)ほんとに驚かされた。まだ二升あるようだから、もうすこし追求してみたい。いやしたくない。もううんざりだ。でもしてみようか。値段とか、同類項とかである。毒食わば皿までの心境だ。



 あまりのまずさに、いったいこれはなんなのだろうとここ二週間ほどの悩みがきょう解消した。

 左記の「伝承仕込 白雪」の値段がわかった。酒の安売りをしている「ドラッカー」で調べたら980円だった。見かけの良さから1500円ぐらいはしているのかと思っただけに驚いた。まずいはずである。値段がすべてではないが、ラベルに凝り、あれだけの外観を誇り、しかも段ボールの立派な箱に入っていて、いわゆる安物の「箱の酒」よりももっと安い値段なのである。中身は全国から集めた酒をごちゃまぜにして水割りにした最低のものなのだろう。
 キリンの発泡酒「極生」が缶の印刷をシンプルにすることによって五円の値下げを実現したように、大量生産品の印刷や包装品のコストはバカにならない。
 おそらく、今回のものが葬式のお返しであったように、そういうそれなりの体裁を必要とする場における大量消費の酒として存在しているのだろう。間違いなくあれは「水割り酒」である。ぼくが呆れたまずさとは、「薄すぎて酒の味がしない水割り」と同じものだった。
 むかしなら酒飲みは酒を飲んで酔わねば満足しない。だから質の悪い醸造用アルコールを添加して、とにかく酔える酒を造った。そこに今、淡麗だかなんだかガキっぽいさわやか路線が好まれるようになってきた。よってこんな薄すぎる水割りみたいな酒が出たのだろう。いやはやほんと、思い出すのもイヤなぐらいひどい味の酒だった。

 自分の味覚は狂っていないとわかったから悪い結果ではないのだが、♪山は富士なら酒は白雪~と子供の頃からなじんできた大手酒造メイカーがここまでひどい酒を出していると知った現実は悲しい。たとえばこれはトヨタやホンダがまともに走らないクルマやオートバイを、ソニーやナショナル(ブランドはPanasonicに統一らしい)が音の割れたラジオを出しているようなものだ。そういう分野では現実にありえないことが、食品だと、嗜好味覚は人それぞれとなるから、こんなものが大手を振って流通している。白雪(兵庫県西宮市の小西酒造)も、あれだけの老舗なのだから、昔々は、いい杜氏がいて、あそこの酒はうまいと、人々から高い評価を得ていたのだろう。近代的経営だか生き残り戦略だかで今のようになったのか。



 きょうは、そのドラッカーで、「高清水 純米=秋田県」を買ってきた。飲む予定はなかった。しばらく禁酒のつもりだったのだが、つまらん酒に関わった厄払いのつもりで、夕食の時三合ほど飲んだ。明日から酒は控える。

 最近東京でいつも飲む「浦霞=宮城県」もうまい。先輩と渋谷の「宇和島」で飲む「梅錦=愛媛県」もうまい。このごろ日本酒バーみたいなところも増えて、いい時代になってきた。きょうは本当は「八海山 純米=新潟県」を飲みたかったのだが、安売りのドラッカーでも6800円する高級酒だし、これはダービーや安田記念でプラスが百万突破する時まで我慢することにした。安田記念の後、しばらく馬券は休みになるので、がんばらないと八海山が飲めないことになる。この意味でもがんばろう。

 これらの良質の酒だけを造っているところを基準に小西酒造を批判したら、なんと応えるのだろう。それらは中小メイカーであり自分のところは大規模な会社である。だからそんな経営が出来た。うちのような大きいところはそんな趣味のような経営は出来ない。あんたは不味い酒だと言うが、こういうなによりも安い値段の酒を必要とする場が日本にはまだいっぱいあるのだ。と、そんなところだろうか。
 それはまあその通りであり、一面の現実でもあろう。でもぼくは、トップメイカーは、「日本酒とはこういうものです。こういう味のおいしい酒です。みなさん、日本酒を飲みましょう」と堂々と主張する立場にあるべきと思う。これにはまた「白雪にも最高級のものがありまして」との弁明があるかもしれない。しかしそれ以前に、こんなまずいインチキ日本酒を出しちゃダメだ。そこでもう白雪は終っている。こういう酒を売っていることは、酒杜氏としての誇りを捨てているのだ。

 今の日本人に、日本酒のすばらしさを知らない人が大勢いて、それがビールやウイスキーやワイン、焼酎へ流れているとしたら、それはこの白雪に代表されるような大手酒造メイカーが儲け第一主義の安くて不味い日本酒をばらまいたからだ。物資不足の戦後のあの時期は仕方なかったとしても、その後、経済成長に伴い、本来の味にもどす努力をしなかったのは、酒杜氏としての誇りを忘れ、儲け主義に走った大手酒造メイカーの責任なのである。それは日本人が日本的精神を失った「醜い日本人」の典型例になる。

 かくいうぼくも、日本酒なんてのは、ずっと甘ったるくてまずい酒だと思っていた。まずいものしか飲んでいなかったから本物の味を知らなかったのだ。インチキ日本酒全盛の時代だった。日本酒が、日本刀と同じように、中国やヨーロッパの刀とは違う、日本刀だけの切れ味と獨自の美しさをもっている誇るべき存在なのだと認識できたのはまだほんの十年でしかない。

 自信を持って断言できる。日本酒は、ワインとセメント勝負して勝てる世界唯一の酒だ。それを教えてくれたのは、洋酒攻勢の中でも、品質と味を落とすことなく、日本酒を護り続けてきた地方中小酒蔵の杜氏の誇りだった。そういう酒を飲み、粗悪な酒を拒む姿勢は(拒むもなにもまずくて飲めないけど)今後も徹底したい。
02/3/6
GentlemanJack
(02/3/6)




 先日免税店で思いつき購入し、そのうまさに今まいっている「ジェントルマンジャック」が、二度濾過で生産された「ジャックダニエル社 百年ぶりの新製品」と知ったのは収穫だった。これはうまい酒だ。


 
03/2/7 ←中国の値段で600円したからけっこういい酒かな。
「百年喜慶」38度。

 これは日中合作の製品らしく、説明書には日本文がついていた。まあその辺を計算したような商品名でもある。輸入されているだろう。日本ではいくらするのか帰ったらたしかめてみよう。
 中国は酒は安い。水より安いぐらいだ。だからこれはそれなりの高級酒になる。でも匂いがきつい。甘ったるいような匂いもわざとつけたようで興醒めだ。高粱酒(コーリャンジュウ)はなかなかねえ……。
03/2/14  深夜に謝々、家楽福!」を作っていて、夕方に撮った写真を入れたくなる。それが左のGINの写真。あ、家楽福とはCarrefourのことね。

 話が前後するが、昨日Carrefourで真露を買ってきた。韓国からの輸入物で29元。小瓶。うまかった。ひさしぶりにまともな酒を飲んだ。え~と、1/27に来て、昨日は2/13だから、18日ぶりに酒をうまいと思ったって事だ。何日か前に行った秦皇島の朝鮮料理屋も、実はそこに行けば真露が飲めるかも、というのが大きな期待だった。行ってすぐに「真露はあるか!?」と尋ねた。なかった。中国の高粱酒は臭くてまずくてとても飲む気になれない。かといって飲まずにもいられず(寒いから強い酒をキュッとやりたくなる)毎度口にしてはそのまずさに悔やむことになる。


 昨夜は真露の小瓶を空けて、気持ちよく眠れた。妻はその程度で私を大酒のみと怒っていた。あんなもん、飲んだうちに入らん。
 初めて韓国に行ったとき、きもちよく真露を飲めた。だから初めての中国でもそういうものを期待していた。この国では期待外ればかりである。

 それできょうはGINを買ってきた。イギリスのGILBEY'Sである。GINといえばイギリスかオランダだ。私たちの飲み慣れたGINはイギリスになる。58元。千円弱。日本で今これがいくらするのか知らない。中国では酒は安いからそれなりの値段になる。
 GINに凝ったのは学生の頃だ。さすがに強い酒で酔ってしまうから、長時間騒ぎたい身には不釣り合いだった。そういえば私は「酒でも飲まなきゃやってられない」とか「酒でも飲んで寝てしまおう」のような飲み方はしたことがない。それは酒という友人に対して失礼な接し方だと思っている。

 あと三日ここにいるから、この一本でちょうどいいのではないかと読んだ。それを三分の一飲んだのが今。割ったのは果汁100パーセントのオレンジジュース。うまいです。ききます。安物のジンだとかウォッカとかでおやじが酔っているなんてフツーの光景のようだけど、このフツーのことが難しいんですよ。それがあ~た、中国ってえもんです。



 『ENCALTA』で調べてみると、GINは安酒の代名詞で、とある。安くて酔っぱらえるから普及した当時イギリスでは泥酔者続出が社会問題にまで成ったという。だろうねえ。日本で言うと悪い意味での焼酎でしょう。酔えればいいという。
 ところが中国にいると、これでさえありがたくて涙が出る。あの臭くてまずい高粱酒と比べたら天国である。このGINをオレンジジュースで割って飲んでいると、ほんと、ありがたくて涙が出ます。ありがとう、カフー。ということで、そんなファイルを作ることにした(笑)。マクドナルドに続く第二弾「謝々、家楽福!」。

 北京秦皇島日記──謝々、家楽福!
03/5/2
酒毒(03/5/2)

 先月、中山でmomoさんたちと飲んだ翌日、かつてないほどの宿酔いになり、ほぼ二日間起きあがれなかった。サラリーマンだったら仕事に穴を開けてしまい、たいへんなことになっているところである。酒を飲み始めて三十年になるが、その中でもワーストスリーに入るほどのひどさだった。それだけ年を取って酒が弱くなったのだろうし、体が疲れていて酔いが回ったのだろうとか、自分なりのリクツを考えて、どうにも納得できないとくすぶっている不満を無理矢理治めていた。どうやらそうではないと気づいた。あれはあれで明白な原因があったのだ。

 それはワーストスリーの他の二回と比べて思いつく。その二回はそうなって当然なだけのことをしていた。若いときだった。粋がって大酒を飲んだ自分を呪ったり、飲みたくもなる状況だったと慰めたりした。それと比べて今回のはなんか違うのである。

 あの日ぼくは友人たちの飲んでいる場所に遅れていった。本来は行く気はなかったのだが、momoさんが遅れるというから(それは部屋までぼくへのプレゼントの久保田萬寿を取りにもどったからなのだった)、一時間ほどの待ち時間を、知り合いが集まって飲んでいる場所でつぶそうと考えたのだ。

 居酒屋に競馬ファンのおじさんたちが集うその場では、まずは生ビールで乾杯し、二杯目からはボトルをとって焼酎になる。ビールは腹がふくれて量は飲めないという人が多い。ぼくはドイツ人的にいくらでも飲めるので、みんなが焼酎に切り替えてもビールを飲む。たまに焼酎をつきあっても悪酔いはしたことがなかった。

 あの日、そこに行く予定はなかったがmomoさんが遅れるというので顔を出したら、みんなはもう焼酎に切り替わっていた。それどころかもうけっこう出来上がっていた。一杯だけジョッキでビールを飲み、それからみんなと同じ焼酎にした。

 そのうちの二人と隣の居酒屋に二次会に行き、そこにmomoさんが合流して四人で飲んだ。そこでも焼酎を飲んだ。いわゆる居酒屋メニューの「レモンハイ「ウーロンハイ」等である。momoさんのプレゼントがうれしかったし、話も弾んだものだから、宿酔いになってもおかしくないだけの量は飲んでいる。

 でもなにか違うのだ。頭が割れそうな、なんか病的なものだったのである。どんな宿酔いもぼくは夕方には治り、午前中はもう見るのもいやだと思っていた酒を、迎え酒だと始めてしまうぐらい恢復は早い。それが丸二日飲まず食わずで寝込んだのである。前記のように年を取ったからとか、とんでもない量を飲んだからとか考え、そのときは反省していたのだが、時が過ぎるに従い、なんか違うぞと思い始めていた。原因があるのだ。それがなにかわかってはいるのだが、届くようで届かず、もどかしい日々が続いた。しばらくして、あそうかと気づいた。



 原因は安焼酎なのである。企業テロ本「買ってはいけない(週刊金曜日)」のようになってしまうから商品攻撃はしたくない。でも間違いない。それが原因だ。

 三十以後、うまくていい酒だけを飲むように心がけてきた。宿酔いと長年無縁だったのはそのことが大きい。学生の頃、レッドだのハイニッカだの、すこし出世してホワイトだのを飲んでは宿酔いになっていた。あんな質の悪い酒を量で飲んだらそうなるに決まっている。当時はそんなことはわからない。背伸びして当時の高級品であるオールドを飲んでみたが、やっぱりまずかった。ひどい酒だ。ウイスキーとはまずいもの、宿酔いするものと結論づけた。自分には合わない。飲まなくなった。

 三十を過ぎてから初めてロイヤルサルートを飲んだ。本物のウイスキーとはこんなにうまいものかと目から鱗が落ちた。自分が飲んで嫌いになっていたウイスキーはウイスキーではなかったのだと、本物に対して誤解していたことを申し訳ないと思った。それからウイスキーをたしなむ日が始まった。かつてはくさくて飲めなかったバーボンも、今では利き酒が出来るぐらい好きになった。

 そうしていまに至るのだが、長年の身上に反して、中国から帰国したあと、ここ二ヶ月ほど、頻繁に安焼酎を飲んでいたのである。
 中国移住のことや、その他もろもろ考えることが多く、酒を控えていた。それでも夜更けや明け方に眠るとき、ほんのすこし飲みたくなる。寝酒ってやつか。こういう場合、うまいウイスキーはよくない。ついつい飲み過ぎてしまう。なにしろストレートをダブルで飲むから、グラス四五杯でもかなりの量になってしまう。

 それで焼酎にしていた。母のもらい物にうまい紀州南高梅があったことも大きい。それでホット梅割りを飲みたくなった。
 焼酎もいつもならブランドに凝るのだが、手元不如意につき妥協して、いちばん安いのを買ってきた。あの「ペットボトル入り、2.7リットルで1500円」ぐらいのとんでもなく安いヤツである。それをもしも飲みたくなったら、と常備しておいた。


 あればあれで飲んでしまうもので、南高梅を入れてのお湯割りを、眠る前に雑誌を読みつつ、時には録りためた数日遅れのヴァラエティ番組を見つつ、四五杯飲んでは眠る生活が続いた。すると翌日、必ず宿酔い気味なのである。頭が痛い。すっきりしない。焼酎は20度の弱いものだし、それをお湯で割っている。このときも、年のせいで弱くなったとか、四五杯のつもりだけど、ついつい七八杯飲んだのかなと、酒のせいにはしなかった。

 そこに先日のかつてない宿酔いである。そのときもいわゆる居酒屋の安いチューハイ、ジョッキ一杯300円のようなのを何杯も飲んだ。業務用の安焼酎である。浮かべてあるレモンスライスもアメリカからの農薬たっぷりのものであったろう。
 たまに友人と焼酎を飲むときでも、いつもそれなりの値段の良品をボトルで入れて飲んでいたから、この業務用安焼酎をがぶのみする経験は今までなかった。部屋で飲んで宿酔いになったペットボトル入り安焼酎も同類だろう。かつてない宿酔いの原因はこの品質の悪い安焼酎である。

 ここで、「では居酒屋で、あるいは家で、その安焼酎を飲んでいる人はみなひどい宿酔いになるのか!? ならない人も大勢いるぞ」と言われそうだ。そのとおりである。それはこっちの体の問題なのだろう。慣れである。かつて東京の水道水を飲んでいた。井戸水で育ったから、上京したときは臭くてまずいなと思ったが、何年か住んでいるうちに平気になった。しかし外国でミネラルウォーターを飲む習慣が出来てしまい、日本でも買った水を飲んでいたら、いつしか臭くて飲めなくなってしまった。それと同じで、よい酒を飲む体になっていたから、不純物に過剰な反応をしたのだろう。

 学生時代に安酒を飲んで悔い、悟ってやめたことを、三十年後にまた繰り返している。まさにバカは死ななきゃ直らないの典型だ。

 その後、その安焼酎を飲まなくなってから、いっさい宿酔いはない。
 この安焼酎には大きく「穀物100パーセント」と明記してある。明記することがわざとらしい。ホームページの宣伝文を読んだら、「穀物100パーセントだから安心」のように謳っている。ってことは、そうじゃない不純物の入った焼酎がいっぱいあって、それは危ないってことだ。この焼酎の宣伝文を信じたいが、私の体はこれはとんでもない不純物を添加した危ない酒だと言っている。自分の体を信じよう。

03/5/11

スーパードライの味




 批判者のおおよそはキリンファンであろう。長年首位を獨走してきたキリンラガービールの凋落を悔しがる人だ。当然キリンの牙城であった関西の人に多い。といっても、戦後の財閥解体で大日本麦酒が解体されたとき、大日本のもっていたサッポロ、エビス、アサヒの銘柄を、関東以北でサッポロ、エビスに、関東以南をアサヒに分けた。アサヒは関西系企業になる。なのに反感を抱くのは、その人は「キリン帝国」育ちだからだろう。帝国としてはアサヒのほうが古いのだが……。

 ビール戦国史はおもしろい。競馬でいうなら最強の大日本麦酒から生まれた駿馬がサッポロとアサヒだった。その二強が兄弟であることから骨肉の争いとなり、とんでもないハイペースで競い合っているとき、いつの間にか内からするすると抜け出したのが穴馬のキリンだった。二強がふと己の愚かさに気づき我に返ったとき、キリンはもう遙か前方で獨走態勢に入っていたのである。それは取り返しようのない大差だった。

 キリンは最盛期には七割のシェアを誇った。ガリバー型寡占である。戦前の大日本麦酒の地位を、財閥解体を利用して再現したことになる。財閥解体で最もうまい汁(ビール?)を吸ったことになる。成り上がりの新財閥だ。
 残りの三割を、サッポロ15%、アサヒ10%と落ちぶれたかつての帝国の子息が争っていた。残りがサントリー5%である。キリンのあまりの強さに宝酒造はビール生産から撤退した。その施設を買い取ったのがウイスキーが絶好調だったサントリーだった。タカラビールの現物を見たことがある世代は私ぐらいが最年少か。後に焼酎ブームが来てまた宝酒造が脚光を浴びるとは思わなかった。あの当時焼酎は過去の遺物のような存在だった。

 キリンのガリバー型寡占。残りのシェアを争う三社。その構造は永遠に続くかと思われた。まさかサッポロよりも下の弱小アサヒが、スーパードライというヒット商品一発でキリンを抜くと誰が考えたろう。私の知る限り、企業下克上の最大のものになる。痛快ではあるが未だに信じがたいという気もする。

 キリンファンの感情的なものとは別に、味からの否定もある。『美味しんぼ』の原作者カリヤテツや、マンガ家の柳沢きみおもかなり激しくスーパードライを否定している。カリヤはドイツ風の麦芽100パーセントこそがビールであり、コーンスターチを始めとする添加物を入れている日本のビールを否定する。
 柳沢の場合はスーパードライは味が軽くて好きになれないという味へのこだわりだが、カリヤテツの場合は、麦芽100パーセントではなくてもビールと認めてしまう日本の法制に対するサヨク的感情も入っている。両者はタッグを組んでいるわけではない。前々からスーパードライを否定していた柳沢は、孤立無援かと思っていたところに、ちょうどカリヤが『美味しんぼ』の中でスーパードライ批判をしたものだから、我が意を得たりとばかり、「さすがカリヤ先生」と称えていた、というつながりである。

 このぜひは一概には言えない。毎度のたとえだが、エビスやモルツは果汁100%のジュースになる。発泡酒が果汁25%以下だ。日本の普通のビールは70%程度の果汁になんらかの添加物を加えたものとなる。その添加物をカリヤは怒っているわけだ。

 私はかえって大嫌いなカリヤテツの怒りから日本のビールを認める形になった。それはプロレスラのひとことだ。世界中を旅するプロレスラ、たとえばディック・マードックは、「世界中で日本のビールがいちばんうまい」とよく口にしていた。「早く日本に行ってあのうまい麦酒を飲みたい」と。
 たしかにカリヤの言うように「ドイツは麦芽100%でなければビールとは認めない。なのに日本は……」もそれなりの見識であろう。正さねばならないことはいくつもある。ただし、ジュースでたとえるなら、必ずしもいちばんうまく万人に認められるのが果汁100%であるとは限らない。むしろそれでは味がきつく、ある程度水で割り、人工的な甘味をプラスした50%のものがいちばん売れたりするように、それがうまいかどうかと、添加物ウンヌンは無関係である。私はカリヤの「ドイツでは」のリクツより、毎日浴びるほどビールを飲むマードックの「日本のビールは世界一うまい」のほうを信じる。

 数日前、父母の関係で、ビンビール1ダースとカンビール20缶が届いた。早速飲んで思う。明らかに発泡酒よりうまい。ここのところずっとそれだったのでよけいにそう感じる。
 銘柄はともにアサヒスーパードライだった。まったく無関係の二人から、異なる酒屋を通じて届いたものなのだが、ともにスーパードライだったことは、これがいかにいま売れているかの証左になる。
 長い間最多販売ブランドの王座に君臨してきたキリンラガーだが、それを支えていたのは居酒屋での消費だった。キリンの失敗は「一番絞り」等、ブランドを増やしたことだと言われている。とはいえ熱処理したキリンラガーの時代は終っていたと言えるだろう。あきらかに一番絞りのほうがうまい。

 支店長をやっている兄の所にくるお中元はエビスが多い。これは支店長から便宜を図ってもらおうとする人たちからだから、贈る人がそれなりにちょい高めのブランドにして気遣うのだろう。といっても酒を飲まない兄の所に届いたそれは私のいる家に回送され父と私が飲んでしまう。猫に小判である。兄嫁がエビスってなんなのと聞いたので、すこし説明し、値段も高めであることを告げたらおどろいていたぐらいだ。
 あまり銘柄にうるさくない父が、もらいものエビスをしばらく飲んでいた日々の後、発泡酒に替えると薄味でまずいとはっきり言う。これもマードックの場合と同じように、うるさくない父が口にすることだからこそ信頼できる。発泡酒に慣れれば、それはそれでいいのだが、エビスとの併用はきつい。

 私はいっさいサントリービールを飲まない。理由はまずいからだ。居酒屋に入るときも扱っているビールの銘柄を確かめてから入る。人との待ち合わせの場所で、後から行ったらそこがサントリーだったら、ビールではなく違うものを飲む。三十年来の習慣だ。
 昔からビール四銘柄の聞き酒をやると、まず最初に水っぽいサントリーがわかる。ついで苦いキリンがわかる。けっこう難しいのがサッポロとアサヒの区分だった。私の好きなのはサッポロである。

 先日の娯楽番組で、やはり利きビールっぽいことをやっていた。目隠しテストだ。普通の人たちが外国のビールと比べていちばんうまいものとしてあげていたのはスーパードライが多かった。なんのかんのいっても、あれがいま日本のビールの味なのだろう。

 数日前、二年ぶりにタイ関係のホームページを覗いて歩いたときのことだ。あるホームページでビールのことが書かれてあった。その人は「他の三社とサントリーは味が違う。すぐにわかる」と書いていた。私はそこを読んで、「おっ、なかなかやるじゃないか」と先を急いだ。するとその後「だからサントリーがいちばん好きだ」となっていたのでひっくりかえってしまった。それはそれでその人の好みである。

 スーパードライを貶す人の特徴は、その口調がヒステリックなことである。「あんなものすこしもうまくない。なんであんなのが売れるのかわからん」まではいいとしても、次第にそれはエスカレートして、「あんなもの飲んでるヤツはおかしい。ビールの味がわかってない」にまでなって行く。自分の気に入らないものが大多数に受け入れられていることがたまらなく不快であるようだ。これで凋落したなら溜飲をおろすのだろうが益々人気は過熱してゆく。次第に否定の論調は憎しみまで帯びてくる。

 この種の人はどこにでもいる。以前の知人に競馬の武豊と相撲の若貴を大嫌いなのがいた。彼がどんなに嫌おうと当時彼らは全盛期である。(武はその後、ますます充実しているが)。どんなに口汚く罵っても武も若貴も大活躍を続けるものだから、もともと口の悪い彼のそれは、次第に眉をひそめるものになっていった。いや、とても平然と聞き流す類ではなくなっていった。
 かっこいいものが大好きな私は武や若貴の大ファンであり、現に彼らは勝ち続けているのだから、勝者の餘裕として、腹の中でほくそ笑んで無視すればよかったのだろう。が、そこが矮小な私のこと。私はきっちりとおまえの考えはおかしい、優れた人を認められないのはどこかねじれている、それはいいとしても、みんなの前で他者を口汚く罵るのは周囲に迷惑だからやめてくれと言った。そうして気まずくなった。

 いつでもどこでもサントリービールは飲まない私の中にも、サントリーが大好きな人は味覚がおかしいんじゃないか、ビールがわかってないんじゃないか、と思う感覚がある。60年代からの伝統でCMがすぐれているから、熱烈なサントリーファンの若者もそれなりに多いのである。言いたくなるときもある。
 かといってそれを口にしたらスーパードライや武、若貴を否定した連中と同じになってしまう。醜さを先に見せてもらうというのはありがたいものである。

 と書いてきてこう書くと、今までの流れを自らひっくり返ってしまうことになるが、スーパードライを貶す人というのは、実はキリンもアサヒも、味もビールというジャンルさえもどうでもいいのだろう。世の中でもてはやされているものの存在が不快なのである。なぜならそれらに負けないぐらいすぐれていると思っている自分が不遇だからである。かつて武、若貴をボロクソに言っていた知人も、武の騎乗技術、若貴の相撲が気に入らなかったのではない。若くて人気者で金を稼いでいることが己と比して不愉快でならなかっただけなのだ。だからきっとそういう人は、どんな銘柄がナンバーワンになろうと必ずそれを否定するのだろう。身も心もそんなふうにできあがってしまっているのだ。

 附記。どうでもいいことだが。
 今のモルツのコマーシャル、アニマル浜口の歌はひどい。完全な音痴の歌は最高のエンタテイメントとなりうるのだが、ああいう半端音痴をキャラクター優先で無理矢理何十回何百回と撮り直してなんとかオーケーテイクをとったものは、落ちそうで落ちない綱渡りを見せられているようでなんとも尻の据わりが悪くなる。プロレス好きで浜口も好きな私が彼の起用を祝しつつ、それでも耳を塞ぎたくなるのだから、ほんとにひどい。なんとかしてくれ。ちょうど三度でハモっているのの音外れみたいである。聞くたびにウグアーっと叫び出したくなる。
03/5/1 発泡酒値上げ(03/5/1)

 きょうから発泡酒が増税によって値上げになる。不愉快だ。
 増税は仕方ない。将来的には消費税も20%近くなるだろう。そうでないと国がやって行けない。その覚悟はしているし必然だと理解もしている。

 社会党系の連中の言い分でおかしいのは、教育福祉の充実を錦の御旗にするのはいいのだが、同時に税金はあげないとか、時には下げるとまで言ったりすることである。無茶苦茶だ。詐欺師である。そんなうまい話があるわけがない。北欧の例を見ればわかるように、福祉教育の充実、医療無料化を実現すると、稼ぎの半分を税金に納めるぐらいの制度が必要になる。彼らが、そのことを説き、理解を求めようとするなら筋が通るのだが、そこのところをごまかし、ひたすら美辞麗句を並べるだけでは万年野党の絵空事でしかない。ドクター中松の「わたしなら発明をしてお金にするから税金を上げない」のほうがまだ説得力がある。

 代表例が「ストップ・ザ・消費税」と言って大躍進しながら──ドイの迷言「山は動いた!」なんてのがあった。山は動いてどこへ行ったんだ(笑)──ストップも出来なければその代替え策も提示できなかったことだ。
 しかしもっと不可思議なのは、すこしおとなになって考えれば誰でも矛盾がわかるはずのその空論を、本気で支持する人がいることだ。楽な仕事で勤務時間が短く、それでいて給料はとんでもなく高いなんて仕事はない。誰もがそんな仕事にありつけることなどあり得ない。なのに彼らの言っているのはそれと同じである。仕事はきついですが給料はいいですよ、でなければおかしい。そのことに気づかない人は鈍い。それでもだいぶすくなくなったか。かつて社会党は150議席をもっていた。今じゃ15議席で風前のともしびだ。普通の人は気づいた。総選挙が楽しみである。

 東京都知事の変遷は、望まれる政治家像として象徴的だ。
 自民系の東がいた。その政治に倦んだ時代がサヨク学者のミノベを選んだ。高度経済成長のよゆうである。働き蜂で汗くさいだけのおとうさんより、インテリでおしゃれなおじさまを選んだのだ。彼はまさにリクツのみの社会党らしく財源を無視して福祉に金をばらまき、おんなこどもには受けたが、肝腎のそれを補填することをしなかった。残ったのは都政の大赤字のみである。さすがに都民もそれに気づき愛想を尽かした。
 自民党の鈴木知事が長年かかってなんとか穴埋めした。おもしくろない実務政治。するとまた厭きてくる。
 混戦の中から時代は雰囲気でアオシマを選んだ。まだ七十年代の二院クラブ的清廉の残夢があった。そう、それは非力な残夢でしかない。アオシマは選挙期間中に海外旅行をしていて当選した実績がある。それがかっこいいと思われていた。しかし何もしない男は知事になってもなにもせず、すぐに見捨てられた。選挙期間には、ひとりでも多くの有権者に自分の考えをわかってもらおうと身を粉にして遊説するのが正しい。ごくあたりまえの真実を都民は学んだ。アオシマ的幻想の時代は終った。
 そうして選ばれたのが有言実行の石原知事だった。この変転は極めて興味深い。うぶな女が、成長するに従って男の好みが変って行くのに似ている。

 この流れだと次はまた石原知事とは正反対のサヨク系か美辞麗句政治家の番のように思われるが、都民はもうそんな愚かな選択はしまい。政治家とはなにかを石原知事によって教えられた。これでまたバブル景気でもあればべつだがあんな悪夢のようなことはもうありえない。華も毒もある実行型がいい。308万票がいかにすごい数字であることか。石原さんも、時代を考えると、ミノベに敗れて良かったのだ。あそこではなるべきではなかった。
 次の都知事も同じタイプが選ばれるだろう。東京はいい。すくなくとも大阪よりはまともだ。



 増税は当然と理解しているのに、発泡酒の増税に不愉快になるのは、どう考えてもこれは弱いものいじめだからである。税金とはまたそういう、取れるところから取れが基本と理解しているのだが、それでもやっぱり釈然としない。
 日本のビール税は先進諸国と比べても図抜けて高い。かつて勉強したからそれらしきことも具体的数字で書けるが省いて先を急ぐ。
 その酒税法の隙間を縫いくぐり、麦芽含有量25%以下なら税金が安くなることに目をつけて開発されたのが発泡酒だった。いわば隙間商品である。

 発泡酒はまずい。利き酒以前に誰でもわかるだろう。薄味だ。酷がない。麦芽100%の重い味が好きな私にははなはだ物足りない。でも飲む。安いからだ。深夜や明け方に飲みたくなったときのためにダースで買い置きしておくのにはちょうどいい。金があるときはエビスを飲む。馬券で負けて百円でもケチりたいときには発泡酒を飲む。不景気の中、そんな感覚の庶民は多いだろう。

 他の酒類と比べてもだんぜん税率の高いビール業界が、苦心の末に編み出した変則種が発泡酒だった。麦芽67%以上がビールであり、半分以上が税金だ。それ以下の発泡酒にも税金は三段階ある。いちばん低い25%にすれば酒税は一気にビールの半分になる。安くできるが、その分、確実にまずくなる。なんとかそこを克服してうまいものを作ろうと苦労の果てに発売されたのが発泡酒だ。大ヒット商品となった。貧乏人のための企業努力である。なのに売れればすぐに増税対象になる。政策にメリハリがない。出る杭はうつ政策では、誰も出ようとしなくなる。

 増税はしかたない。だけどもっともっとあげるべきものが他にあるだろう。たとえばタバコが一個千円になっても喫う人は喫うし、さすがに高いからと量を控えるなら、それはそれで周囲にもその人のためになる。宝石や外車が増税で高くなっても、なればなるほどステータスだと喜んで買う人も多い。もともとああいうものはそういう人たちのためのものだ。日本の道路で左ハンドルをあやつる愚かさよ。だがそれが彼らの美学だ。政府がそれをしないのは、高価な宝石や外車の買い控えは景気に響くと考えるからだ。それは違う。やくざが景気が悪いからとカローラに乗ったりするものか。キンキラ芸能人が毛皮を手放すものか。
 しかし現実は280円のたばこを10円値上げするだけで、「たばこだけ値上げするのは不公平になる」と大騒ぎしている。ほんとに日本は社会主義国家だと痛感する。

 自分が酒好きでたばこを喫わないからの意見ではない。酒も税率を高くするものはどんどんしたらいい。政府がおそれている(?)のは、やすい発泡酒のようなものが蔓延し、誰もが税金の安いそういうものに走って税収が落ちるのではないかという不安だろう。その感覚が社会主義だ。人ってものがわかっていない。ビールのほうがあきらかに発泡酒よりもうまい。極端な味音痴は別にすれば、「おれはなにがあろうと発泡酒でゆくぞ。これほどもうまいものはない」なんて人はいない。経済が上向き、懐に餘裕が出来たら、ちょいと凝った高級な酒を飲みたいと誰もが思っている。そのための今は、発泡酒を飲むの拔拔は、忍従耐乏の日々なのだ。

 うまいものには高い税金、貧乏人のためのまずくて安いものには安い税金が基本でなければならない。日々の野菜と毛皮の消費税が同じなんてばかな法があるか。
 私がまずいのに発泡酒を飲むのは安いからである。誰だって同じはずだ。好きなだけビールを飲める餘裕があるのにあえて発泡酒を飲む人などいない。私も金があればどんなに税金が高かろうとうまいビールを飲む。耐える気持ちで発泡酒なのだ。そんなお助け商品をいじめるなよ。
 国民のやる気を刺激する方法として、こういうものの値上げは下手な政策である。異様な累進課税と同じく、がんばって向上する気持ちを薙ぐ。(03/5/1)
03/6/15 天狗舞のうまさ(03/6/15)

 金沢のKが天狗舞を送ってくれた。お中元のお返し。ぼくの送ったメロンはこんなに高くない。もうしわけない気分。

 これ、めちゃくちゃうまい。感激した。「うまいわ、これ」なんて口にしたのはいつ以来か。
 もともとは三年前におじゃましたとき、お世話になった離れ家に(もらいものだったのか)この天狗舞がおいてあり(それもいい天狗舞だったけどこれよりは格下だった)、あまりのうまさにぼくが大喜びしたことを彼が覚えていてくれたのだろう。石川県松任の地酒になる。
 そのとき金沢は、四方八方真っ白けだった。あんな見事な雪の中で酒を飲んだことはない。聞くと近年稀な大雪だとかで、いい経験をしたと思った。十五年一緒に暮らした猫を失って、わが子を亡くしたような気分の傷心旅だったので、はしゃぐとまではゆかなかったが。

 その金沢に行く前に名古屋に寄り、さとしの店で飲ませてもらったり、泊めてもらったりした。「サークルK」を知ったのはこのときになる。そのさとしも名古屋を引き払い、今春地元の神戸にもどった。時は流れている。あれこれ思い、しみじみ飲めばしみじみする。

 いやはやうまい。ほんと、感激(笑)した。酒飲んでうれしくて感激している。
 それで思ったのは、日本中にうまい酒はたくさんあるけれど、これがぼくのベストの「好みの味」なのであろうということ。そのへんのことは他のうまい酒と飲み比べて、もっと具体的な言葉で書いてみたい。昨年もらった「手取川」のことは「日々の雑記帳」に書いた。あれは沖縄の古酒に似た珍味だった。その点これは正当なうまい日本酒である。

 味の好みは女の容貌の好き嫌いに似ている。男が好む女の容姿は、決してミスユニバースだとかワールドだとかが最高なのではない。私にとっちゃあんなのただの大味な大女だ。なんの興味もない。化膿しまい(ものすごい変換、でも感心したからそのまま)よりはしのえみのほうがいい人は多いだろう。酒の味もそんなものだ。
 しみじみと「ああ、おれはこの酒の味が好きなんだな」と思った。



 後日記入。
 あまり味にうるさくない父が、「いやはや、これはうまい酒だな」と言った。一合しか飲まなくても、安酒(葬式のもらい物のような)とは違って、ほんのりときもちよくなると言う。昔気質の味にうるさくない人だからこそ、たまに褒める物、まれに否定する物には重みがある。Kのおかげでいい親孝行ができた。この項にある昨年もらった「手取川」は、初めて飲むという珍味だったが、あれは不思議な味の感動であり、これの「しみじみうまい」とはまた違っていた。
 ぼくも仕事が終った深夜、一合を飲んだが、なんとも味わい深い酒である。甘みがあり、味が深いから、肴を必要とするぼくのようなのも、酒だけでその奥深さを味わえる。こんなのを飲むと、がらにもなく「肴は塩でいい」などと言いたくなる。文句なしに、ぼくの中で「日本一の酒」になった。それなりにいい酒を飲んでいるつもりだが、みんなそれらがかすんでしまった。

 天狗舞の名は、酔い心地から「天狗になって舞っているような気分になるから」と自己流の推測をしていたら、添付の紙に「文政六年に現在の地で酒造りを始めたとき、そこはうっそうとした杜であり、木々の葉の擦れ合う音が天狗が舞っているような聞こえたから」だそうで、自己流でよけいなことは言わないほうがいいと感じた次第(笑)。
03/5/19

ウコン購入──自家製薬酒
(03/5/19)

 ここのところいろいろな人と会い、飲む機会が多かった。先月の死にそうなほどひどかった宿酔いの記憶がいまだに鮮明なので飲み過ぎることはない。あれの原因はあの質の悪い焼酎だろうと結論しているのだが、あまりのひどさから酒全体をこわがってもいる。


 生薬には興味があり、中国に行ってその種の店に行かないことはない。どうやらウコン日本最良品は沖縄産らしい。そういう通信販売でも、「インド、中国から伝わり」とは書いてある。ウコンてカレーに使うターメリックだよね。それは知っている。
 今度雲南に行ったらウコン(鬱金と書くらしい。中国でも文字は共通だろうか?)を買うのが楽しみである。



 と、思い出したのでついでに。
 左はその云南で買ってきた朝鮮人参や田七(これも肝臓にいいと有名ですね)をペットボトルに無造作につっこみ、焼酎をどぼどぼと注ぎ込んで作った自家製の薬酒。色は自然にでた。
 だいぶ前に写真を撮ってあった。

 これは2.7リットル入りの瓶に入れたのでけっこう大きい。これのもっともっと大きい瓶が中国の食堂では、どこにでもおいてあり、コップ一杯3元とか5元で飲める。あの入れ物は、ミネラルウォーターの20リットル入りのやつだろうか。むかしは瓶(かめ)だったんだろうな。なんだかあやしそうな薬草がいっぱい入っている。目立つのはキノコっぽいもの。かなり強い酒だ。50度はあるだろう。効きそうだが、うまいものではない。そう、これがだいじ。その酒はまずいのである。

 それを真似して作ってみた。
 けっこう、毎日ちびちび飲んだりする自分を想像してわくわくしていた。しかしこれ、意に反してというか、想像を絶するほど、ものすごく苦い。薬臭い。効能は間違いなくあるだろう。だってここにぷっ込んだ生薬は日本円で1万円以上している。あちらではその10倍の値だ。

 中国でこういうものを買うときは気をつけねばならない。私はまともな薬局で買った。決してボラれてはいないと思う。品物の前に20元(320円)なんて値段がついているので、おっ安いな、さすが本場だなと気楽にあれもこれもと買った。概算して2000円ぐらいかなと思っていると1万円を請求される。どういうことかとレシートを調べると、20元のものが240元(3000円)取られている。これはボッタクリではなく、20元とは一個とか10グラムの値段で、販売は100グラムからだったりするのである。観光客向けの店ではないからインチキではない。やはりよい生薬はあちらでも高いのだ。気分は詐欺商法だけど、それはいいとして。

 この苦さには参った。せっかく作り、それなりの時間が経過したからかなり効能が出ているのではないかと思うのだが、あまりにまずくて飲めないのである。ぼくは日本の粉薬、一般に苦いと言われるものでもまったく平気なのだが、これにはまいった。とんでもない苦さだ。それはこちらが無知だからで、考えてみると720mlの瓶にちいさな朝鮮人参が一本だけが普通である。これでもかとぶっこんだらそりゃ苦くなる。

 良薬は口に苦しとはよくいったもので、日々一杯ずつ飲もうとしてもだめ。買い置きの酒が切れたとき、デミタスカップみたいな小さいのに入れて、ちょっとだけ飲むかとやっても残してしまう。もったいない。しかしまずい。どうしよう。これから一杯だけ飲んでみるか。砂糖を入れてお湯で割ってみることにしよう。



後日譚

 ウコンを飲むようになって一ヶ月半、結局二ビンを飲んだだけでやめてしまった。あまり効き目がなかったからである。
 ぼくは「ウコンを飲むと宿酔いをしない」と思いこんでしまった。最近めっきり酒が弱くなったので(よいことである)、以前ならなんてことない量でも翌日に残ることがある。ビールと日本酒はない。焼酎、ウイスキーだ。ウイスキーは強い酒だからしかたないとして(ストレートで飲むし)、25度の弱い焼酎で宿酔いすると相性が悪いのかと思ったりする。

 それで毎日欠かさずウコンを飲むようにした。とくに「さあこれから飲むぞ」という日には、何時間か前には必ず、それこそちょっと多めに飲んで備えたのである。が、宿酔いする量(全盛期の半分ぐらい)を飲むと、やはり翌日頭が重く不快感が残る。リミット以上の量を飲んでも宿酔いしない魔法の薬ぐらいに期待していたから、これははなはだ期待外れだった。

 ここ何年か薬嫌いで無精なぼくが、珍しく毎日一錠欠かさず飲んでいるものにマルチヴィタミンがある。これに効き目があるのかどうかわからない。もともとどこかがわるくて飲み始めたのではない。なんとなく習慣になってしまった。きっと効き目があるに違いないと思うようにしている。
 こういうのはあるかないかわからない効き目だからまだ続いているのだが、ウコンには「おお、なんてことだ、今までなら頭を抱えて身動きできないほどの宿酔いだったのに、今日はなんでもないぞ。なんてすごい薬なんだ!」との明らかな期待をかけていたから、なんともこの明確な効果のなさが物足りなく、二ビンで買うのをやめてしまった。

 でもお酒は、もう宿酔いするほど飲むことはないように思う。節制できる齢になった。若いときからやけ酒というのはやったことがない。なにかあるとしたら、ひさしぶりに再会した友人と痛飲するときぐらいだろう。これならひどい宿酔いになっても苦しさをうれしさでなんとか相殺できる。
(03/7/7)
03/10/1 ブラントンの魅力(03/10/1)


 父が師範学校の同窓会で友人にもらったというウイスキーがあった。もう数年前の話である。ぼくが水戸の会場まで送迎した。
 その御礼に父はそれをぼくにくれると言っていた。でもどうせお中元かお歳暮にもらったものの横流れで、国産の、よくてサントリーのロイヤルとかそのあたりだろうと読んでいた。興味がなかった。それがひとつ。
 それと、ぼくはウイスキーはストレートで飲む。チェイサーの水をこまめに飲んで腹の中でかき回し、うすい水割りと同じようにしようと思うのだが、やはりビールやカンチューハイとは比べものにならないぐらい効く。酔ってしまう。酒が残る。そりゃまあ45度だから、5度のビールと同じにするには9倍に割らなければならないことになる。かといって水割りなんてのなら飲まないほうがいい。酒に酔いたくはないし、まして宿酔いなんてもってのほかだ。そのこともあって遠ざけていた。サントリーのウイスキーなど飲みたくはないが、あればあれで飲んでしまい、飲み始めたら止まらないから(=飲まなきゃ飲まないでまったく平気なのだが)結果は凶と出るのが明白だ。そういう二つの理由で遠ざけていた。

 きょう、なにげなく居間においたままになっているその紙包みを開けた。すると、なんとそれはぼくのいちばん好きなバーボン、ブラントンだったのである。ぼくが「うわあ、なにこれ、ブラントンじゃない!」と声を挙げて大喜びしたものだから、父母がおどろいていた。もらいものをあげようとしても鼻で笑って遠慮することが多いぼくとしては、ひじょうに珍しいことになる。「鼻で笑う」とはなんとも失礼だし、実際父母は傷ついた顔をするし、やめようと思っているのだが、ついつい出てしまう。もらいものの田舎ではちょっとした高級品を息子にやれば喜ぶだろうと親は思うらしいのだが、東京で三十年生きてきた身には、それらはほとんど悪趣味の下衆なものでしかないのである。

 昨夜、うれしくてちょい飲み過ぎ、今朝はちょっと頭が重い。悪酔いでも宿酔いとはちょっと違う。確実に体にアセトアルデヒドが残っている感覚だ。決してさわやかではない。ダブルで三杯ぐらいしか飲んでないから、全盛期から見たら飲んだことにはならないのだが、弱くなったものである。いい酒に申し訳ないから、こういう気分にならないよう体調を見計らって飲もう。
03/10/11

料理──腕前向上中

 ここのところ料理に関する話を全然書いていなかった。飽きたわけではない。日常になってきたので書かなかっただけである。「酒の肴」が基本だから料理と言えるほどのものではないのだが、それでも精進とそれによる技術向上は順調に進み、だいぶ腕前もあがってきた。
 昨日きょうと二日かけて「豚肉の角煮」を作った。なんで二日がかりかと言われそうだが、下茹でで二時間煮込んで、そこから臭み取りのネギやショウガを取り払った仕上げ茹での二十分を二回を、かかりっきりでやるのはたいへんである。その間、パソコンで仕事が出来るならいいがそうもいかない。台所と仕事場が離れているから火を放ってはおけない。なにしろこういう性格だから興に乗ったら何時間も夢中になって書きまくる。焦がすぐらいだったらいいが火事になっってしまう。おしゃれなマンションのキッチンでもあるなら、火加減を見つつノートパソコンで文章を書くなんてこともできるかもしれないが田舎の家の乱雑な台所でそれをやる気にはなれない。よって昨日の夕方、一時間半ほど煮込んで下ごしらえをし、味つけをしての仕上げはきょうとなった。その間、東京を日帰り往復している。けっこういそがしい。

 仕上がったきょう。日本酒のつまみにした父はもちろん、ご飯のおかずにした母にも好評で、作者としてはうれしい。まあ田舎のじいさんばあさんだからここまで凝った(といっても凝りようは単純だが)ものには素直に感激してくれる。とはいえ、どんなに時間を掛けたものでもまずいものにはこれまた素直に顔をしかめるから安心は出来ない。親子だからその辺には遠慮がない。
 料理の神髄は感性である。それはまあ、いっちまえば天賦の才だ。

 才能以前に、味蕾のつぶれている人にそれを語る資格はない。煙草呑みの味蕾を見れば彼らに食を語る資格はないなと誰でも納得する。ひどいんだ、普通の人の味蕾を順々に並んだキャベツ畑とするなら、まさに荒れ地、ボロボロ。ニコチンとタールで荒らされて、枯れたキャベツの残骸が二つ三つ荒れ地に転がっているようなもの。それが味を判断する機能なのだから、あれじゃとても無理だ。
 逆に言うと、まずいものでも平気で食えるから貧乏旅行には向いているだろう。貧乏旅行者にタバコやハッパ好きの味覚に鈍感なのが多いのは決して偶然じゃない。前にも書いたが、タバコ好きの下川祐治なんて、見るからに鼻が詰まっていて、味のわからない顔をしている。顔は重要だ。

 私は凡人レヴェルであるがまともな食感をもっている。「並の上」ぐらいはあるだろう。並の並よりは上にいると言い切れる。おいしいものを作るのに必要なのは「工夫を凝らす才覚」だ。それがあれば「料理」はなんとでもなる。それはよせばいいのにたった1度を下げようとCPUクーラーをいじくり回すのと同じような凝り性の感覚に通じる。
 世の中をおかしくしているのは、「下(げ)」なのに、「上(じょう)」と勘違いしている人たちである。私は自分の味覚を「並の上」としているが、世の中には下なのに上の上と勘違いしている人が大勢いる。どんな分野でも。
 素人の試行錯誤料理の域を出ていないのは本人が自覚しているが、それなりに食えるレパートリーが増えつつある。こうなってくると自分用のキッチンが欲しくなる。
03/11/26

うまかった臭い酒


 妻が父への土産だと買ってきた酒があった。中国の酒であるからあの臭くてまずい高粱酒である。アルコールは52度。スコッチやバーボンでも45度だからかなり高い。これ以上だとロシア系の酒しかない。
 値段は60元ほど。ビール大瓶が3元(45円)だし、安い高粱酒も500ccでそれぐらいだ。ビールの値段から物価を比較すると7倍ぐらいか。そんなに単純に計算できるものではないけれど。すると60元(900円)は6300円となり、それなりの高級酒であることがわかる。

 深夜にメイルチェックをし、ホームページをアップするあいだ、買い置きのビール2本を空けてしまい、酒がなくなったのでこれの封を切った。妻は父への土産だと注意したが、まあ父がこんなものを飲まないのは長年のつきあいでわかっている。酒は好きだがそんな形の好奇心は強くない。封を切ってしまったのは明日詫びればいい。そうしてぼくは意外な発見をする。
 その52度をストレートでちびちびやり、緑茶をチェイサーで飲む。するとうまいのである。いつも中国で、これしかないからとしかたなく飲んでいたまずい味である。ところが日本で、かわいいDualCpuパソコンに向かいつつ、サンスポの格闘技や社会のニュースを見ながら飲んでいると、うまいのだ。さすがに喉が焼けるほど強いけれど、それすらも楽しい。つまり環境である。不満のない満点の環境で飲むと、酒それ自体を楽しめる。いや、まずいものですらうまく感じるのかも知れない。いやいや、こうしてしみじみ味わえば決してまずい酒でもない。これで魚であれ肉であれ、自分の好みの肴を用意したなら、もっともっと楽しめるだろう。「中国の酒はまずくて飲めたものではない」は、ストレスばかりの中国にいるからなのだと確認。これはこれで酒そのものに対する誤解は解けたからよいのだけど、かといって本質的な問題の解決になっていないところがつらい。
03/11/28
デカネタ流行りの無意味


 

デカネタ流行りの無意味

 夕方、仕事をしつつニュースを見ていたら、「最近デカネタ寿司がブーム」とやっていた。以前も何度かテレビで見たので、「ネタとシャリがつりあってこそうまいのであって、あんなものを喜ぶ感覚がわからない」と書いた。今回も見ていて気分が悪くなった。シャリの三倍ぐらいあるデカいネタなのである。それを醤油につけて食べるんじゃただの魚の切り身である。寿司じゃない。口の中が魚と醤油の味ばかりになり肝腎の酢飯が足りない。バランスの悪さに気分が悪くなった。酒を飲みつつの刺身は大好きだが、飯を食おうと思ったとき、こんなバランスの悪い寿司を出されたらたまったもんじゃない。れいによってレポータは「わあ、おおきい。すごおい、おいしい」を連発し、店は採算を度外視してのサーヴィスなのだと自慢げだ。
「こんなものをよろこぶのは貧乏人で味のわからない人だ、そもそも寿司ってえものはウンヌン」と発言した人をまだ知らない。よろこんでいる庶民からの反発がこわいのであろう。辛口を売り物にしているタレントは言うべきである。くだらん流行だ。
03/12/10
 い酒をすこし、の齢に

 ぼくにとって今、酒とは食事の時のビール(これは酒とは思っていない)を除くと、深夜に強いスピリッツをすこし飲む程度だ。
 酒好きと酒に強いは無関係である。強くて好きな人もいるにはいるが、意外に弱いけど好きな人も多い。ぼくは体質的には強いほうだろうけど、飲まなきゃやってられないという悩みもないし、酒ぐらい飲めなきゃという粋がりも遙か昔に卒業した。体質的に強い人が悩みを抱えて酒に逃げたら、毎晩酒代がたいへんなことだろう(笑)。いま、酒との交友はいい状態にある。

 昨夜、中国の高粱酒が終ってしまった。
 仕事の合間、息抜きにネットに繋ぎスポーツ紙や政治関係のサイトを見て歩く。そのとき酒をすこしだけ飲む。最後の高粱酒、むかし流行った村松友視さんのCMで言うと「ワンフィンガー」ぐらい。あれって外国でどこまで一般的なのか。ぼくはまだ見聞したことがない。
 52度の酒精をキュイっと引っかけ、喉が焼けるのでチェイサーの冷たい緑茶を飲む。自衛隊のイラク派遣問題、大晦日の格闘技大会引き抜き合戦と話題が多い。ワンフィンガーはすぐに空いてしまい、さすがにちとこれだけではさびしいので、階下の父の日本酒を一合ほど失敬してきた。
 するとこれが水。まあ52度から15度になったのだら当然か。部屋は寒い。先日書いたが、あんかに足を乗せ、腰に毛布を巻いた受験生時代の暖房でやっている。室温は12℃ぐらい。寒い中で喉を燃え上がらせる酒がいい。とてもじゃないが水みたいな日本酒じゃやっていられない。

 ビールを量で飲んでいた時代、強い酒の意味がわからなかった。ロシアのビールは"馬のションベン"と言われるぐらいまずくて有名である。なぜもっとうまいビールを造る努力をしないのだ、と本気で思っていた。食事の時のビールを無視する気持ちがわからなかった。酒とは友人とわいわいと何人もで何時間もかけて飲むものだった。そのときビールほどいい酒はなかったのだ。
 今はわかる。あんな寒い地域で、酔ってあったまって陽気になりたいのに、いくら飲んでも体が冷え小便が出るだけのビールなんて酒精度の弱いものを誰が飲むだろう。ウォッカを水みたいに立て続けに引っかけて、それでやっとあったまる寒さなのだ。
 ウォッカは飲みやすい酒である。それは女用のカクテルに多用されていることでもわかる。ウォッカで酔って戸外に出て眠ってしまい、そのまま凍死するロシア人が多いらしい。いい死に方だなと思う。前々から自殺するときの有力な候補に挙げている。

 口径の大きなグラスに半分ぐらいこの52度の高粱酒をつぎ、なめるようにチビチビ飲む。100㏄ぐらいか。ビールの酒精度は5%。いぜんは4.5%が主だったがスーパードライのヒット以来5.5%が多くなった。単純にアルコール度を10倍とするなら、この高粱酒をコップ半分100㏄を飲むのは、ビール1リットルを飲むのと同じになる。中瓶2本か。それを2杯やると、それだけで中瓶4本に匹敵する。なるほどね、けっこういい気持ちになるわけだ。

 なぜかこの深夜にチビリは、ウイスキーよりも透明スピリッツのほうが合うようだ。好みの「キリンマイルドウォッカ氷結」はダメ。21度だからすいすい飲み過ぎてしまう。一本空けても酔わなかったりする。すると貧乏くさい話だが、なんかソンした気分になるのだ。やはり明け方に眠るときはほろ酔いぐらいにはなりたい。35度の焼酎にはなかなかうまいものがない。となるとやはりウォッカか。明日あたりズブロッカかスミルノフでも買ってこよう。ウオトカとジンはいちばんアル中になりやすいらしいから気をつけないと。といってもこんなに健全なチビチビ酒ならそうなることもないだろうけど。

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