──落語話──


05/1/2
●圓蔵を聞く




 元日の深夜にNHK教育テレビが零時から朝五時まで「日本の話芸」と題して過去の落語映像を流していた。再放送である。偶然見つけて録画した。
 二日の朝、十時、いまそれを流して演者を確認したところである。あまり興味のある人はいなかった。中に橘屋圓蔵がいたので見ることにした。こちらにはいまだに円鏡のままだ。彼の落語を聞くなんて何十年ぶりだろう。
 私はむかしもいまも彼に興味がない。その興味のなさは三平に似ている。褒めるのは「職分に徹したプロ意識」である。たぶんイヤな仕事も笑顔で引き受けてのし上がり、つらいめに遭ってもそれを表に出さず、自分の立場を知り、懸命に生きて出世したえらい人なのであろう。一時はたいへんな人気者だった。いわゆる好感度の高い人、である。否定するのは「おもしろくない」である。たけしや談志のような切れと毒はまったくない。私が藝人に求めるのはそれだから、どんなに彼が人気者になり毎日テレビに顔を出しても、いっこうに興味のない人であった。

 演目は「たいこ腹」。鍼を覚えた若旦那が人間にうちたくてたまらず、つきあいのある幇間をその相手に選んで、というつまらん話だが、円鏡の幇間だから笑えるかな、とも思う。円鏡の本質は幇間である。
 羽織を脱ぐまでのマクラがおもしろかった。「落語家には定年がないが自分たちで感じる定年はある。演目の筋をわすれてしまうのはまだいい。やり直せる。問題は噺が混じってしまって、それに気づかず進んで行くようになったときだ」と言い、似た話でありこんがらがりやすい湯屋番と浮世床を例に挙げていた。
 むかし噺に詰まってしまった文楽が「勉強し直して参ります」と一礼して高座を下りた話(=引退。有名な実話)をし、今だったらまだ億の金が稼げたのにあの引退は早すぎた、もったいない、あたしだったら居直っちゃう。そうなったときにはこう言うことにしている、と言って笑いを取る。
「なにしろあたしの藝はよいしょですから。それしかないんだから。もう弱気をくじいて強気によいしょしちゃうのがあたしの藝で」で、大爆笑となったが、これなんか実際その通りだからすなおに笑っていいのかどうか(笑)。これをてらいもなく言っちゃうのが彼の強味なのだろう。
 ついでに「あたしはタイコ持ちに向いていて、なれとも言われたし、なろうかとも思ったけど、だめなんですね、落語家は自我が強いからタイコ持ちにはなれないんです」はみょうに説得力があった。

 談志の語る円鏡の「兄さん(談志よりふたつ年上だが入門が遅いのでそう呼ぶ)、あたしはずっと楽屋で売れない人を見てきたの。だからどういうことをする人が売れないかはよくわかっている」は、見事な哲学である。
 円鏡として超売れっ子時代に円形脱毛症になって苦しんだ。円形脱毛症ということばを一般語にしたのは円鏡である。よいしょに徹していながら、内面ではかなりの葛藤があったのだろう。

 全盛期の志ん生は高座に出てきただけで会場が爆笑となり、うきうきしている客に、「落語ってのはあたしがやるんじゃないんです。あなたがたが作るものなんです」と客に向かって言い、ますます盛り上げたという話もおもしろかった。
「すごいんです、噺家ももう人気絶頂だと客に向かってあなたがたなんて言うんですから」。よいしょの円鏡としては客に向かって「あなたがた」と言った志ん生がうらやましかったのだろう。
 この世代が語る文楽、志ん生、圓生の話には惹かれる。そういえば円鏡の「節子」は文楽師匠の家の女中だった。米朝のマクラにも志ん生の物まねをする一瞬があり、なんともたまらない味になっている。志ん生の廓話のまねをちょっとして「まったくあの人なんて江戸時代から生きてたんじゃないかってぐらいで」でドッと来る。

 円鏡──いや顔も知らないが今現在の円鏡がいるらしいから、どんなにその名に馴染んでいても圓蔵と呼ばねばなるまい──圓蔵の噺を聞いていて、彼が今の腑抜けになる以前のテレビ世代であることを感じて気分がよかった。たとえば彼はイイノホールの客に向かって「客」と言う。たまに「お客」とは言うが、決して「お客さん」なんて言いかたはしない。客に媚びていない。「客もまたバカなんだ」なんてキツい言いかたには今の時代を知っているからこちらがビクっとしてしまう。よいしょの円鏡だからへりくだった「お客さん」を連発しそうだけどそうではない。そこが生きてきた時代の差だ。彼はまちがいなく「ラーメン屋」「八百屋」と言うだろう。今の時代の「ラーメン屋さん」と気遣ってしゃべる世代ではない。それが確認できた。

 当時はたいして興味のなかった噺家であった彼が、こういう時代の流れの中で、数少ない親近感を持てる人になっていたことが新鮮だった。かといって「こうなったらもう刺身にキナコつけてジャムで炒めて喰っちゃおうかな。保健所がとんで来るか」なんてのには当時も今も笑えなかったが。
 たいこもちを語るマクラでは「落語家は東西で四百人いて、これはさんまと鶴瓶もいれた数字なんですが」とやっていたがあまり客席は沸かなかった(笑)。
05/2/4
●視聴率のマジック──『笑点』と大相撲

 『週刊文春』を立ち読み。
 『笑点』のネタ。「メンバー総取っ替えか!?」と。BSで若手大喜利なるものが行われていることを知る。メンバ高齢の本隊がご臨終になったときの代替え育成か。円楽、ほんとぼろぼろのようだ。「星の王子様」「湯上がりの男」で売っていた時代を知るものとしては複雑である。ただしこの番組、記事にもあったように、おなじみのメンバがおなじみのドタバタをやる「おおいなるマンネリ」が味なのだから、笑いとしての深さは意味がない。先鋭的ないいセンスをもった若手が新メンバとなって大喜利が始まっても私は見ないだろう。そもそも大喜利なんて形式はもう死んでいるのだ。正月特番なんぞでタレントだとか局アナだとかでやるがつまらなくて見ていられない。これはもう文化財的な今のメンバだからこそ成立している。それにしても大声で売ってきたこん平の聲のでない奇病は痛々しい。喉頭ガンとしか思えないが……。

 『笑点』で顔を売ることは落語家にとっておおきな意味を持つだろう。全国的な知名度だ。田舎ではテレビにでていることはなによりもステータスである。私の田舎では文化振興策(笑)として、百万円以上の金を払って落語家を呼ぶ。あるいは文化人を呼ぶ。高名な文化人が来ても村人は集まらない。藤原ていさんが見えたとき三十人ぐらいしか集まらなかったと聞いたときは赤面した。申し訳ないと思った。
 落語もかなりの数が来ている。落語家のほうもこういうのがいちばん大きな稼ぎだ。弟子の前座、二つ目を連れて三人で来て、三席で百万だ。まあ金を稼ぐことからは満員になろうががら空きだろうが関係ないことになる。それでも小三治ががらがら、歌丸が超満員と聞くと、そういうもんかと思う。あ、この落語会は村が主催後援しているが一応千円ぐらいの金を取る。田舎者はその千円の価値があるかどうかを知名度で決める。これはまあ当然でもある。そしてまた私は、べつに小三治を称える気もない。いやたしかにそんな感覚の時はあった。でもそれは落語を知らなかったからだ。いや自分が確立していなかったからだ。通ぶっている人が小三治を絶賛していたからそう思っていただけで、こういう感覚こそ唾棄すべきものである。

 この落語会に父母は缺かさず行っていた。昨年は母を送っていったから、もう父は具合が悪い時期だったのだろうか。とても印象的なのは、母が「今まであれほどおもしろい落語家はいなかった。さすが歌丸だ。涙を流して腹を抱えて笑った」と絶賛していたことである。それは歌丸が田舎のジジババ受けするタイプだったと意地悪い見方もできるが、ここはすなおに彼のサーヴィス精神を称えよう。会場はかつてないほどの大爆笑だったそうである。
 だが私からすると、『笑点』メンバの古典落語など聞く気になれない。あまりに『笑点』での姿になじみすぎている。暮れに録画した「日本の話芸」だが、私は『笑点』メンバのものは見ていない。

 1月23日、大相撲初場所が千秋楽の日、視聴率が相撲が8.9%だったのに『笑点』は22%だったと、『週刊文春』はいかに『笑点』が人気番組であるかと持ち上げて書いていた。そこには「相撲がいちばん盛り上がるあの千秋楽の日に、なんと」という意図が見える。これは相撲を知らない人の記事。知らないと気づかないマジック。
 千秋楽は優勝旗授与等があるので打ち出しがいつもより一時間近く早くなる。『笑点』の始まる五時半は、いつもなら三役の出てくるいちばんいい取組の時間だが、千秋楽はもう結びの一番も終り優勝セレモニになっている。よほどのコアなファンでなければ見るところではない。まして今場所は早々と十三日目に朝青龍の優勝が決まり、興味は全勝優勝なるかと白鵬等若手の星取だけになっていた。相撲ファンはしっかり相撲を見てから『笑点』にチャンネルを替えたのである。そのことに触れず、大相撲よりもはるかに『笑点』のほうが人気があるかのような書きかたはいやらしい。
 だいたいが大相撲ファンと『笑点』ファンは重なる。私の父も打ち出しが六時五分前ぐらいに早めに終ったときなど急いで『笑点』に切り替えていた。千秋楽はもちろん早々と『笑点』である。打ち出しの早い千秋楽に大相撲の視聴率が落ちて『笑点』の視聴率が伸びるのは毎場所の常識なのだ。そしてその視聴率を支えているのは大相撲ファンなのである。この数字は「なんと千秋楽に」ではなく「千秋楽だからこそ」なのだ。数字をあげるなら朝青龍と白鵬の対決に史上最高の懸賞がかかった初日と比較すべきである。この辺にも『週刊文春』のいいかげんさが見える。
05/2/16
●落語DVDブック

 「落語DVDブック」なるものが発売になっているのを知った。それを知って欲しいと思わない自分におどろいた。かつて「TBS深夜の落語特選会を録画しなかったのはもったいなかった」と盛んに悔やんだ。そのときの私は「落語は映像」だったのである。DVDなら買うがCDはいいやの気分だった。

 ところが落語CDを60枚ほど収集し、毎日クルマの中で聞いていたら、すっかり「落語は音」になってしまった。大好きな志ん朝もあえて映像を見なくても、頭の中に絵はたっぷりあるから、声だけ聞きつつ偲ぶのもいいなあと思い始めている。これは以前はまったくなかった感覚になる。おもしろいものである。これからまた変るのだろうか。
 でもたとえば談志だって長年映像では高座を見ていないけど(テレビで見るのはお笑い藝人のやる談志の物まねぐらいだ)頭の中に映像はたっぷりあるから、聞いているだけで見ている気分になれるのである。だったら無理してDVDに興味をもつ必要もないように思う。CDで十分だ。CDだからこそ拡がる想像の世界もある。金馬とか文治とか聞く予定はないけれど映像は頭の中にたっぷりある。ああそういえば柳昇師匠は聞きたいな。でてないか。

 ただ「ジャズ名曲20選」なんてCDブックが、通から見たら邪道なんだろうけど、とても便利で勉強になるように、解説書附きのCDやDVDと本とのセットには魅力がある。そういえばジャズもDVDブックが出ているなあ。でもジャズも映像はいいやって気がする。オスカー・ピーターソンを一枚ぐらいもっていたい気もするが。
 ともあれ父の死以後まったく興味を失っていたそれらにすこしずつ以前のように気持ちが動き始めた。よいことではあろう。
05/2/23
 落語復活の日

 きのうきょうと落語を聞いた。父が亡くなる前以来だから二ヶ月以上のごぶさたである。なぜか聞きたくなった。それもクルマではなく部屋で寝転がって聞きたかった。クルマからCDラジカセを部屋に持ち込み、志ん生と志ん朝を聞いた。
 聞いているうちに知りたいことが出てきて、図書館に行き落語百科のような本も借りてきた。これまたひさしぶりである。これって蔵書数のすくない田舎の図書館だから前と同じ本である。それぐらい買えよ(笑)と思う。ついでに県立図書館まで本とCDを借りに行きたいと思った。時間と体力から断念したがたしかに行きたいと一瞬だが思った。思っただけで進歩、いや復活だ。CDコピーのとき同じくコピーして保存していたCDの解説書もファイルに入れたままの本棚から取り出して聞きながら読んだ。志ん朝の「明烏」を聞きつつ、「明烏といえば名人文楽のおはこ」と思い出して──あちこちの解説書もそればかりだから──それを取り出して聞き比べる。私にははるかに志ん朝の方がいい。とにかく志ん朝の若旦那にぞっこんだ。さすがの志ん朝も文楽の築いた「甘納豆」話は避けたようだが。

 志ん朝の「愛宕山」を聞いているうち、もとは上方話だからもっと関西の連中の話も聞き比べておかないと、と思う。米朝を始め二三人しか聞いていない。東西では切り口が違うし、志ん朝以上のものがあるとは思っていない。「崇徳院」はだいぶ聞き比べて、やっぱり志ん朝がいちばんだと思った。恋煩いの若旦那というキャラにいちばん惚れ込めるのが志ん朝版だからだ。結局のところ好き嫌いなのだからそれでいいのだろう。ただ志ん朝のためにも、ほかは聞いていないがではなく、可能な限り聞いたけれど、の姿勢は保ちたい。いやほんとはそんなことすら必要ないんだろうけどね。
 読書、音楽、落語、なんとかとりあえずここまでもどってきた。社会復帰目前(笑)。
05/2/25
 江戸前で笑いたい──高田文夫編

 元気がなくても楽しいことなら書ける。この本、掘り出し物だった。山藤章二の「志ん朝談志論」とか玉置宏の文とかいろいろ詰まっていてお得です。「たけし論」としても秀逸だからたけしファンのサトシにもお奨めだ。みんなもう読んでいるのかな。96年刊。

 学生だった高田文夫が談志流の「居残り佐平次」をやりたくて演じ方に関する質問の手紙を書いたら、返事なんか来るはずないと思っていたのに、便箋十枚にびっしりと自分なりの「居残り佐平次論」を書いた返事が来たというところでは感服した。また人形町末広亭最後の日に高田たちが出かけ、出てくるとそこにやはり最後の日を見届けようとやってきた談志が立っていて、高田たち落語好きの学生相手に一時間半も落語について熱弁をふるう話も圧巻だった。そのとき「おまえら選挙権あるか」と談志が尋き、翌年立候補したので高田は初めて得た選挙権で談志に投票したというところでは笑ったが。ラジオ番組でやたら「家元」を連発する高田に批判的だったがこれぐらいの関係があるなら当然だなと肯定的になった。私もそんな手紙をもらったりしたら一生ファンになったろう。

 高田も談志に尽くしている。立川流が創設されたとき、落語協会を飛び出しはしたものの談志は落ちこんでいたという。たしかにいくら強きとはいえ心細かったろう。今こそ恩返しのときと高田は人気絶頂のたけしを誘って弟子入りした。談志はたいそうよろこんでくれたそうだ。これがマスコミに取り上げられ前途洋々の船出となったのはたしかである。高田の入門をその他大勢の芸能関係者と同じに捉えていたがちがっていたようだ。

 私は高田より四つ年下で田舎育ちだから、彼のように中学生時代から寄席に通ったりは出来なかったが、彼の語るラジオテレビ(に登場する芸人たち)のことはほとんどリアルタイムで接していたからよく理解できた。八波むと志等。
 現場にいた人の語るエピソードで外側にいるこっちのもつ印象は一気に変る。たとえば三波伸介が台本書きを尊敬していてとても腰が低く、年下の高田を必ずセンセと呼んだこと。高田の書いた印刷物の台本から自分のセリフの部分を手書きで書き写す。そうするとセリフがすなおに心に入ってくるからと言ったこと。またその字がとてもきれいだったこと。こんなことから彼に対する好感度が一気にアップする。
 巻末の「東京芸人ギャグフレーズ年表」ってのには苦笑した。掘り出し物は期待していない分、うれしいものだ。といって私は食わず嫌いだったのではない。たけしのオールナイトニッポンを本にしたものはよく買っていたし、高田が談志と円鏡を意識して始めたという「高田君と景山君」じゃなかった、なんだっけ、「文夫くんと民夫くん」だか、なんでもいいや、とにかくそんな本も買って読んでいる。みな期待外れだった。関係本をかなり読んでいて高田文夫の本におもしろいものがあるとは思わなかったから意外な掘り出し物なのである。これが高田文夫「著」だったらおもしろくなかった。「編」だからいいのである。
05/3/7
 落語本を読む

 「笑伝 林家三平」
 旬日前に借りて読んだ本。もう手元にない。三平の座付き作家をやっていたという神津友好の著。無内容なつまらない本。それはまあ当然でそれだけのつきあいのある人だから、故人の三平を気遣い、生きている香葉子夫人やこぶ平等すべてを気遣っているので、もう当たり障りのない味気ないことしか書いてない。毒にも薬にもならない。屁の役にもたたない。よくもまあここまでおもしろくないものを書けると思うほどひどい本だ。といってこぶ平のこと等タブーとなっている事柄に触れられるはずもないが、おもしろくないのはそういう理由ではあるまい。そもそもがつまらないのだ。たとえば談志が「楽屋話」等で短く語っている三平についての文は、べつにタブーには触れていないが、三平という人のエナジーと狂気を見事に語っていてこの一冊よりはるかに重みがあり奥が深い。そもそもの文才と切り口の問題だ。こんなつまらない本を書く人なのだからこの人の考えたお笑いネタもつまらなかったことだろう。
 この本で香葉子夫人は「かよ子」と表記されている。これはこちらが本名で現在通用している香葉子とはあとからの当て字なのだろうか。名を成した人がよくすることである。きっとそうなのだろう。と、そんなことぐらいしか興味を持つところがない。
 でもあれだな、「歌って踊って大合戦」とか昭和四十年頃のテレビ番組の名前は懐かしかった。たしかにあれは俗悪番組として叩かれた第一号だろう。実際俗悪だった。

 いろいろな落語本を読むほどに談志が芸能評論家としていかに優れているかを再確認する。そっち方面に才能がありすぎたことは落語家としての彼にとって不幸だったのではないか。案内してもらうこちらは楽で助かるが。

【附記】 笑三を聞く
 昨年暮れに録った「日本の話芸」特番にすっかり老けた笑三が出ていたのでおどろいた。録ったまま観ていなかったが今夜何もする気がないのでこんなのでも観るかと流したら出てきたのである。何十年ぶりかで観る彼はかくしゃくとしたおじいさんになっていた。
 相変わらず話はおもしろくなく、電話をテーマに小話ダジャレのよう小ネタを連発していた。「ニンニクを食べた人が話したあとの電話→口臭電話」「殺人事件のあった郊外にある電話→死骸電話」のような小ネタを重ねて行く。つまらんなあと思ってみていたが、ふと心の奥から奇妙な懐かしさがこみ上げてきた。これって三平のネタそのままである。確かにこの人は三平のネタ作りをやっていた人だったんだなと確認した。「もう電話をかけようと思って赤電話を手にしたら臭いんです。なんかニンニクの臭いがして、そうか、これが口臭電話。……。あ、すいません、こここうやったら笑ってください。今のはなにがおもしかろかったかといいますと公衆と口臭をかけてですね、あ、おばあちゃんいらっしゃい、前の方空いてますよ」とすぐに三平のネタになる。
05/3/7
「びんぼう自慢──古今亭志ん生」
 志ん生の語りを小島貞二がまとめた有名本。なぜか田舎の図書館にあったので借りてきた。こういうものを買うセンスはこの田舎町にはない。どうやら誰かの寄贈本らしい。
 語りおろしなので落語を聞いているようで楽しめる。最初毎日新聞が出したが絶版になり、毎日の許可をもらって増補改訂して作り直したのがこれだそう。立風書房刊。私が読んだのはそれ。立派な本に作り直されたので志ん生がたいそう喜んだそうだ。村上豊の装画と挿絵でおしゃれな出来になっている。

 ネットで探してきた絵がこれ。文庫本だ。これはどこで出しているのだろう。調べたら「ちくま文庫」。上揚の三平の本の絵も新潮文庫だが私の読んだのは元本。あれはどこだったか。新潮ではあるまい。
 志ん生のこの立風書房のものがちくま文庫になるのはわかるが、高田文夫の「江戸前で笑いたい」がなんで中公文庫なのだろう。あれって元本は筑摩だった。だったら「ちくま文庫」だろう。どうにもこの辺の流れがわからん。でもこの本の文庫化はありがたいか。この文庫本を買って愛蔵本にしよう。雲南行き決定。

 いや、もうちょっと調べたら、立風書房も文庫をもっていて「志ん生廓話」等なんと「志ん生文庫」と名づけて何冊も出していると知る。だったらなぜ記念すべき「びんぼう自慢」を手放したのか。ははあん、編者の小島貞二との関係がもつれたのか、と思ったらそうでもない、立風のものにも小島は絡んでいる。ちくまはちくまで落語方面の出版に力を入れているようだから、というかこういうのは単に落語好きな編輯者がひとりいるだけだろうが、となるとこれは「古今亭志ん生著」の「著」の部分にこだわっておそらく版権をもっているのであろう長女の美津子さんにかけあって横取りしたのか。まあそんな裏事情はどうでもいいが、たいして金にもなるまい凝った単行本を出したのが立風書房だったのだから、ぜひともこの本は立風で文庫にして欲しかった。ちくまのいいとこどりには不納得だ。

 この本を手にしたのは円生と一緒に満洲に行ったくだりを読みたかったから。まだそこまでいっていない。いま静岡のあたりを貧乏しつつ放浪している二つ目時代。先が楽しみだ。
 息子の馬生は志ん生の最盛期を戦時中と言っている。もとより名人を語る知識資格は私にはないが現実に思うのは脳溢血で倒れる前とあとでは音源で知るしゃべりが雲泥の差ということだ。昭和三十六年は分かれ目になる。明治二十三年生まれだからこのとき六十八歳。これ以前とこれ以後だ。いまも聴くことの出来る脳溢血前の昭和三十三年、人気絶頂のころの六十五歳が入手できるものとしてはすばらしいが、それでも五十ぐらいの時のものを聴きたいと思ってしまう。
 ということで逆算してゆくと昭和十八年が五十、満洲に渡っていたころが五十二である。名人だからいつだって最盛期とはいうが、馬生の言う「戦中」は年齢的にも真の最盛期であったろう。残念ながらそれを聴くことは叶わない。もし貴重な音源が多少あったとしてもそれは音が悪いだろう。

 なにしろ語りおろしだから落語家獨自の表現、時代を映す言いようがあって楽しい。こんな一節がある。
「すこしばかりワリ(給金)がはいるてえと、左手ェ動かしたり(酒を飲む)、手なぐさみ(バクチ)のほうに手が出るから、どうしたって生活のほうに差し支えるってえ寸法ですよ」
 酒飲みを左党と言い、それが左手を使うところから来ていると知識では知っている。しかし会話として「左手を動かす」とは日常ではお目にかかれない。貴重である。
05/3/8
 円楽を見直す

 明け方、昨年大晦日に録った「日本の話芸」の円楽を聴く。なんとなくである。そういうことをしてしまう手持ちぶさたが今の私の宙ぶらりんの象徴だ。

 円楽というとどうしても『笑点』での「星の王子様」や「湯上がりの男」のキザで売っていたころ、実際に接した三遊亭一門の獨立騒動のドタバタ、のちの円丈の「御乱心」による告発等、本筋以外のニュースが多くよいイメイジを持っていない。そしてなにより今の本番中に眠ってしまう重度の糖尿病によるろれつの回らない哀れな『笑点』の司会がある。人工透析をしていると聞いたから腎臓も悪いのか。老醜である。今すぐつるっぱげになって明日にでも死ぬようなことを何十年も前から言いつつ今もしっかり毛があり元気一杯の歌丸と対照的だ。全生時代は談志、志ん朝と並ぶほどに評価されていたことも知っているが……。

 最初からぐいぐいと引き込まれて最後まで聴いた。よい出来だった。演目は「浜野矩随」。矩随は人名。のりゆきと読むそうな。
 まずよかったのはくだらない今風のくすぐりが一切なかったことである。私はこれが嫌いだ。こと落語に限らずそういう内輪だけのネタが大嫌いである。最近はヴァラエティ番組等でもタレントが現場のADの物まねをしたりして出演者とスタジオは爆笑だがテレビ桟敷のこちらはすこしもおもしろくないというようなことが多い。フジテレビの「ひょうきん族」あたりから始まった流れになる。人を楽しませるはずのプロが自分がまず楽しんでしまうようになったのだ。あれはやめるべきだ。一時よりはだいぶ直ってきたことに救われる。
 
 今回の円楽にはそれが一切なかった。客の方も見ない。おもねらない。まるでひとり芝居のような高座だった。そういえば小林信彦だったか、志ん朝がテレビでヴァラエティ番組を持ち、私生活では真っ赤なスポーツカーを乗り回して時代の寵児だったころ、獨演会は超満員となり、そういうのりを期待した若い客も多いのに、案に反してそういうくすぐりは一切やらず本格の古典を淡々と演じていたと書いていた。私は当時の派手な志ん朝に反感を持っていたから聞いて見なきゃわからんものだとこれまた見直したものだった。
 細かい説明は柄じゃないので省くが、手元の本で調べたところ、講談から来たネタとのこと。自害を試みた母親が命を取り留めるのと死んでしまうのと二通りあり、円楽のは死ぬ方だった。こちらが正当らしい。
 そうしてもうひとつ印象的だったのはどの本にも「円楽がよく演る」「円楽のおはこ」と書いてあったことである。つまり「たまたまよかった」ではなく、かつては談志、志ん朝と並んで評価された人の十八番なのだから引き込まれて当然なのだった。これが彼のベストなのかもしれない。
 さて興味あるのはこれは何年前の映像なのかだ。円楽は何年前まで今回のようにまともだったのだろう、いつから病人になったのだ。あの「日本の話芸」はきちんと見ればその辺も表示されているのだろうか。今回気づいたのは毎回一回分の終りに「解説は××さんでした」とアナが語るのだがこの特番では解説はカットされていてないのだった。
 たしかこれ、一席三十分が十話収まった五時間番組だった。消さずにとっておいてよかったと思った。なにしろHDDレコーダだからテープと違い一瞬で消える。これを見なかったら私が落語家円楽を褒める機会はなかったに違いない。
05/3/9
円の字の話
 
 二代目円歌の「円の字」の話は興味深い。ぼくもこのことは知っていた。つまり、「えんか」という名の落語家が三代、三人いるのだが、初代と三代目は「圓歌」なのに、二代目だけ「円歌」なのである。なぜか。
 ぼくらにとって子供のころから円の字は使い慣れた字である。それと比して圓の字はめったに目にしない分「格上」の感がある。だから好きな噺家に関しては「円生」ではなく「圓生」と正しく書いたりする。
 しかしそれは円の字で育った世代の感覚になる。圓の字しかない時代に育った人なら逆に圓は古くさくあらたに登場した円の字はおしゃれになるわけだ。いわば圓が昔ながらの木製だとするなら円はプラスチックである。プラスチック世代は木製の古めかしさを味わいとするが初めてプラスチックが登場したときの価値は今とは違っていたであろう。二代目円歌はその感覚であえて新字の円を使ったというのは有名なエピソードだ。いまの権威主義の円歌が画数の多い圓歌にしたのもすなおに理解できる。

 マンガ「マスターキートン」にアルミの剣の話がある。ご先祖が家宝として秘蔵の剣を残した。現代の子孫がいったいどれほど高額に売れるだろうとわくわくしつつ発掘したらアルミニウムの剣だったという話である。この場合のご先祖っていつ頃なのか。アルミニウムが初めて紹介されたのは1855年のパリ万博と記憶している。それよりも前にこのご先祖は錬金術としてアルミニウムを発見した。秘蔵の家宝として子孫に残した。さびない剣であるそれは金銀よりも価値の高いものであったろう。しかし今の時代それは飲料の飲み物として使われるありふれたものだったという話である。

 画数が少なく子供のころから馴染んできた円を圓と比較して軽んじがちだが時代とはそういうものであろうとこれらのことから感じる。たとえばむかし女の名前はひらがなが多かったから、当時漢字でつけられた人は新時代感覚で誇り高かったろう。むかしふうのひらがな名前に優越感を感じたかも知れない。三平夫人の「かよ子」さんが「香葉子」を名乗るのもそういう時代の名残だろう。今はまたひらがなの名前のほうが優しげで新鮮だったりする。感覚は時代とともに変る。むかしだったら「さいたま市」なんて市名は考えられなかった。(しかしそういう感覚の変化とは関係なく「南アルプス市」は嫌いである。これは感覚の変化以前の問題だ。)

 小柳ルミ子の名は、娘を芸能人にしたかった母親が最高におしゃれな名前を考えて「ルミ子」とカタカナの名にした。ちなみに彼女はぼくと同い年だ。う~ん、これの評価はむずかしい。ぼくは当時の同級生にこんなカタカナの名前の娘がいてもおしゃれなかっこいい名前だとは思わなかったろう。あくまでもこれは名つけ親の時代感覚である。彼女がすなおにそれを誇らしく思いそのまま芸名にしたのはよいことだと思うが。

「南アルプス市」をきらいなのがカタカナ市名だからではなくアルプスという他所の地名にあることは言うまでもない。日本中に京都や銀座、富士山があるのはわかるが、どうにもこの外国地名にはしゃぐ感覚は受け入れがたい。「日本アルプス」なんてある種国辱的な言いかただろう。でも中国の影響を受けていたときはそうだったしそもそも京都の地理設定だってあちらを手本にしているのだから、これはクリスマスを受け入れないぼくの心の狭さなのかも知れない。これから日本にはこんな地名が増えてゆくのだろうか。
 脱線してしまったが、円の字を軽んじ圓の字を尊ぶある種ワンパターンな感覚を「二代目円歌」から、それほどのもんじゃないのだと思い出して勉強になった。

【附記】二代目円歌のこと
「志ん生の忘れもの」を読み返していたら小島貞二が二代目円歌について触れている箇所があった。
 小円朝一門(志ん生の師匠)が北海道へどさ回りに行く。室蘭でアイヌの一座が人気になっていた。麗々亭柳喬というのが売れている。柳家と三遊亭をごちゃまぜにしたひどい名だ。ふてえ野郎だと当時は朝太の志ん生らがそこに乗り込む。が、その恐縮したどもりの青年と仲良くなってしまい、あんたはうまいから東京へ来て噺家になりなよ、なんて感じになる。一年後、ほんとにそのどもりの青年が上京してきた。それが二代目円歌である。

 二代目円歌が「円」の字を使ったのは「噺家はどこか抜けてるところがなければならない」が大義だったとか。「なるほど『圓』の字は抜けていないが、『円』の字は下が抜けている」と小島はしている。(05/8/2)
05/3/10
 Winton Kelly──Jazzと落語

 ただいまBGMはWinton Kellyの{Kelly Blue}。いいなあ。名盤だ。この人も三十五で死んじゃったんだな、たしか。いいピアノ弾きだ。Forever!
 この作品にはいいフルートが入る。これ吹いてるの誰だっけなあと解説本を探した。「名演シリーズ」の「名演 Jazz Piano」を手にする。ボビー・ジャスパーか。コルネットはナット・アダレイ。バップ時代のマイルスみたいな渋くて丸い音を出している。
 この本のアルバム解説文を読んでいたら、これはぜひとも読んでもらわねばと思った。手写しするにはちと長い。スキャンすることにした。こういうことには熱心だ。やり始めたらけっこう面倒で誤字脱字直しでめげそうになる。でもなんとか完成。

《昔からジャズ・ファンの中には落語好きがけっこう集まっていて、ジャズ喫茶でも落語談議に夢中になってしまうことがある。と言ってもコルトレーンと円生の芸風の違いについてなどという高尚な話はまず出ない。ジャズと落語などというマイナーな趣味を持ってしまった悲惨な境遇をお互いに確認しあうという情ないことになってしまったりする。女の子とニ人きりになった時に持ち出す話題でジャズと落語というのは、最悪の組み合わせであると決まっている。断言するが、女の子に向かって、志ん生のレコードをかけ放しにしながらうつらうつらするのはこの世の極楽だ! なんて決して言ってはいけない。ウィントン・ケリーのレコードであっても然り。しかし、ウィントン・ケリーのピアノというものは、いかにも江戸前というような歯切れのいい調子で、粋という言葉を使いたくなるくらいだ。出過ぎず、やり過ぎず、それでいてメロディの歌わせ方は小気味のいいほどシャープだ。
 さて、『ケリー・ブルー』というアルバムについて言えば、ポール・チェンバース、ジミー・コブという当時のマイルス・グループのリズム隊で、そのシャキシャキとした歯切れの良さは、日本人好みのファンキーな味わいを出している。タイトル曲である「ケリー・ブルー」では、アダレイ、ジャスパー、ゴルソンが嫌味のないソフトなアンサンブルで、ナツメロを聞いている時のような、甘酸っぱい思いをかきたてる。(織戸優)》


 そういえば落語家にもジャズファンが多い。よくできているものだ。差詰めスタンダードナンバーが古典になる。
 ぼくはジャズではスタンダードナンバーばかり聴いている。ただしこれはその程度のレヴェルのファンであるということだ。朝から晩までジャズばかり聴いている音楽ファンだったなら新作にも興味を持つのだろうが未だにスタンダードナンバーを語るほどの知識も有していないのだからまだまだ聴かねばならい。落語は子供のころは新作落語が好きだったが(だから好きな落語家は圧倒的に芸術協会のほうだった。米丸とか柳昇とか)、このごろやっと古典を聞き比べたりしている。これはジャズと逆で子供のときは古典のおもしろさがわからなかったからだ。これからどうなるのだろう。ジャズも落語も古典好きのままという気がするが。
06/3/12
 千葉県知事選──正蔵襲名

 あすは千葉県知事選である。連日ライブドアの話題が新聞を獨占していたから本来はもっと耳目を集める話題なのにずいぶんと引っ込んでしまった。きょうなんかスポーツ紙の一面がみなニッポン放送とライブドアの裁判の結果である。スポーツ紙の一面にホリエの顔がでっかく載るのだから奇妙な時代だ。

 森田健作の応援に東京、埼玉、神奈川の知事がかけつけた。この結束力の価値はおおきいだろう。魅力的だ。千葉だけおいて行かれても困る、と思う。ふつうは。ドウモトを選ぶ千葉県人がなにを考えているのか私にはわからない。対してドウモトのほうは、どこだっけ、東北とか関西の知事がかけつけていた。あと都知事選で負けたヒグチケイコが来ていた。応援合戦は森田の勝ち。どっちがどれぐらいの差をつけて勝つのか。開票結果が楽しみである。

 森田は埼玉県知事選に出るつもりだった。それを山崎拓に断念してくれと頭を下げて頼まれた。苦しい時に助けてもらい唯一恩義を感じている政治家だった。あの断念の時の涙は嘘ではあるまい。今回勝つとそれはそれでドラマチックになる。千葉の住居は山武郡だというから成田の近く、千代田牧場のあるあたりか。千葉県知事になったら福岡までヤマタクの応援に行くのだろうか。



 こぶ平の前代未聞の大々的なお練り(パレード)をする正蔵襲名も明日だ。まだまだと思っているうちに来てしまった。
 これに関する私の意見は以前も書いたけれど、正蔵という名跡は林家のものなのだから他人がどうこう言うものでもない、になる。初めてこの話を聞いたときは正直なところ一瞬こぶ平にはまだ早いとかもったいないとか思ったのだが、すぐにこっちの考えに落ち着いた。じいさんの名を孫が継ぐ、それだけである。

 彦六が一代限りで正蔵の名を借りたときの経緯は、真相は藪の中だが、円満な貸借ではなくヤクザの恐喝もどきだったという話もある。五十四歳で正蔵が逝ってから一年も経っていない時だ。三平にはまだ力がなく貧乏でもありそれを拒めなかった。すくなくとも正蔵夫人がまだ喪も明けないうちにそんなことをされて悔しがったのは事実のようだ。そうしていま孫がじいさんの名を継ぐ。すなおに祝ってやろう。

 正蔵も三平も享年は五十四である。じいさんも父親も五十四で死んでいる。こぶ平はこのことをかなり強烈に意識しているだろう。
 もうだいぶ前、上野鈴本の席亭から襲名の打診があったとき香葉子未亡人は時期尚早と拒んだという。今回は二度目だった。席亭というのはめでたい話題で落語界に活を入れたいと願っているからこういうことが大好きである。志ん生の「びんぼう自慢」を熟読して学んだことのひとつにこの「寄席の席亭の豪毅な人柄」がある。襲名披露をしなさいといってポンと出してくれた金を飲んじゃうんだものなあ(笑)。かなりの旦那気質じゃないと寄席の経営なんてできないようだ。

 あすはひさしぶりに寝て曜日にしよう。
 桜花賞トライアルはラインクラフト。本番でも本命だからここは負けてもいいけど。でもエンドスウィープ産駒だからここを勝って本番で負けるのかな。連闘のサンデー産駒がどんな走りをするか楽しみだ。

 三平の享年は正しくは五十六歳。
05/3/17
●上級者への道

 琴欧州が我慢しきれず引いて負けた相撲を私は引いてしまった琴欧州の弱点と解釈したのだが、解説の伊勢ノ海が「相手の技を封じて引かずにはいられないところまで精神的に追い込む栃東の巧さ」と言ったので感嘆した。

 私も物心つくころから相撲を観てきて自分なりに詳しいつもりでいるのだが、毎日解説を聞くたびに、いや解説以前にアナウンサのなにげないひとことにハッとさせられ、自分は通ではないのだと思い知らされる。解説でその瞠目するような意見を言うのが現役時代コバカにしていたような平幕止まりの力士だったりするのだから餅は餅屋と脱帽せざるを得ない。

 アナも奇妙な決まり手が出たとき、迷うことなくその技の名を言ってさすがだと思わされる。現実の決まり手はアナの言った珍しい技の名ではなく平凡なものになることが多い。アナとしては手首をとったり首を取ったりして体を泳がせたあと寄り切ったとき、その決め手となったマニアックな技の名を言うのだが、場内は簡明に寄り切りをとるのである。プロレスで言うなら「垂直落下式ブレインバスタから体固め」に、アナは垂直落下を言うのだが記録は体固めであるようなものだ。毎回アナの咄嗟の判断にさすがと思わされている。プロレスの場合、とくに詳しかった若いころは、実況アナの言う技の名に不満を感じたり間違いを指摘したことはあっても一目置いたことはなかった。解説もポツリと言う馬場のひとことに味わいを感じたことはあってもアナにも解説にも感じ入ったものはない。さすがに相撲は奥が深いなと思う。

 とはいえ誰も彼もというわけではない。NHKも評判のいい解説者を発掘しようと努力しているようであれやこれやと連れ出してくる。でもたとえば水戸泉などはこちらが感服するようなことを言ったことはない。優勝経験もあるし塩を派手に撒くことで人気のあった人だが、基本は大柄な体の力相撲だったからだろう。案の定うならせてくれるのは現役時小兵で苦しんだ技巧派力士である。舞の海がうれっこなのは偶然やコネではない。真に解説がすぐれていて素人にもわかりやすいからだ。だって168センチだものね。それでいて270キロの小錦と闘っていたのだ。
 たまに出演する貴乃花もあの陰鬱そうな話しかたとサーヴィス精神不足からあまり人気はないようだが、ことば数のすくない中に獨自の視点と発言があり、小兵で苦労した舞の海とはまた違った意味の地位を極めた人の凄味を感じる。

 餘談ながらその水戸泉や貴闘力は人柄の良さからNHK関係者に好かれているのかよく登場する。最近、長州力が大好きでそこから四股名をとった貴闘力(現・大嶽親方)がおどろくほど顔が長州に似てきたのでおどろく。遠目で見たら勘違いするほどだ。これまた「朝鮮人は老けると……」の典型になる。血とはあのように濃いものなのであろうか。大陸や朝鮮やらが入り交じっている日本人にあのような顕著な傾向は出ない。朝鮮民族の方がずっと純粋な血脈をもっているのだなとその血の濃さに感服する。それをかっこいいとはおもわないのだけれど。

 昨年のもう夏ぐらいになるが、2ちゃんねるの「相撲」を覗いたことがある。オタク的な知識があふれているのであきれかえった。みな「自分が生まれる前の相撲」について語っているのである。三十か四十ぐらいの人(2ちゃんねるでは長老だ)が知ったかぶりであやふやな知識を披露するとその間違いを指摘するのがそのときにはまだ生まれていなかったという二十歳前後の連中なのだ。いったいどうなっているのかとその知識のすさまじさに感服しつつも首をひねった。
 こういう場合、だけどオレはおまえらが生まれていないその前から本物を観ているものなと居直って自分を鼓舞する発想もあろうが私にそれはない。私は素直に「おれの体験にこの知識があったら完璧なのだが」と高望みをしてしまうのである。しかしそのためには生活と趣味をもっともっと相撲に集中させねばならないだろう。私のように漫然と相撲を何十年楽しもうと(徹夜で国技館に並んだりもしたのだからそれほど漫然でもないと思うのだが)相撲博士にはなれないということである。
 かといって私はその驚異的な博識を誇る若者にびびっているわけではない。彼らが私と話したなら、自分たちの観たことのない力士を生で観てきた私の話に目を輝かせて聞き入るだろう。そういうものである。私の勝ちだ(笑)。私は学生時代、雨の日の飯場でシンザンを実際に観てきた人の話に熱心に聞き入った。土方に競馬博識はいない。雑な競馬知識の人で私の方がすでに遙かに知識は持っていた。だがそのことと生で観てきた人への憧憬は別物だった。そんなものである。結論は出ている。
 私は相撲博士になろうと志してもいないし今から相撲を仕事の一分野にしたいとも願っていない。本場所開催中にテレビ桟敷で観戦し日々を楽しめばいいのである。そう割り切ってはいても毎日一回は「そうだったのか。さすがだなあ」と思わされると、道を究めることの難しさを感じさせられる。人より秀でるためには狂人かと思われるぐらいの熱中の日々が必要なのであろう。私が唯一それをやったのは競馬場通いになる。掛け値なしに土日は中央、平日は南関東と千日間競馬場に通い詰めた。とすると私はやはりここから居直らねばならないのか。そうか?

 
05/3/19
 圓生から文楽──「寝床」話

 昼、天気がいいので外出し、いかにも春めいた陽射しの中、景色のいいところにクルマを駐め落語を聞いた。

 先日何年ぶりかで圓生の「寝床」を聞いた。もしかしたら何十年ぶりか。私にとって圓生という人は作品をもっているだけで満足してしまうようなところがあり全然熱心に聞かない。いざとなったときに引く辞書みたいに思っているのかも知れない。
 まだ行ったことのない隣町の図書館に行くときだった。なぜか圓生をかけ、それが「寝床」だった。クルマの中で聞いているうちにぐいぐい引き込まれた。図書館についてもまだ終らない。その図書館は「午前11時開館、午後4時半閉館」という「何様のつもりだ!」と言いたくなるような所だった。そのときもう4時を過ぎていたのだが途中でやめられず最後まで聴いた。CDは便利だとばかり思っていたがこういう30分の演目があるとすると、20分で切ったらまた最初から聞き直さねばならないのである。その点カセットは続きから始まる。いろいろと便利不便利がある。

 聞き終り急いで飛び込んだときは閉館5分前だった。期待外れのひどいところだったのでそのことはもうどうでもいいが。
 そのとき思ったのは圓生の元気の良さだった。元々義太夫語りの「寝床」という演目は「愛宕山」等と並び体力のいるネタになる。私が身近に接した圓生師は晩年だったし、こんな賑やかな演目は聞いていない。渋いものばかりだった。いつしかそれを持ち味だと思っていたからこの大声を上げて元気いっぱいの圓生師は私にはずいぶんと新鮮だった。

 「寝床」というネタに興味がなかったのは子供のころからさんざん聞いてきたものだからだ。テレビの寄席中継だからぶつ切りになっていたりする。要は「義太夫なる語り物をへたの横好きの旦那がいて、それを無理矢理聞かされて迷惑する近所の人、使用人」という話である。ずいぶんといろんな落語家がだみ声を張り上げ、みんなが迷惑する場面を聞いてきた。けっきょく聞かせどころとはそのへたな義太夫にみんなが迷惑するおもしろおかしい部分なのだろうと解釈し、CDであれカセットであれ、借りるときパスしていた演目だった。

-------------------------------

●「義太夫」思い出話
「チェンマイ日記」の99年にこんな箇所がある。
 チェンマイから百キロ離れた田舎町に家を建て、若いタイ人の嫁さん(愛人?)と孫のような年の息子と一緒に暮らすHAさんの家を訪ねたときの思い出話である。その田舎町をバイクで通りかかりそのことを思い出したという話だから、訪ねたのはさらにその何年も前になる。
 HAさんは元外交官で、その家に大きなパラボナアンテナを設置して相撲中継を見ていた。趣味の蘭を栽培したりして悠々自適の老後である。その数年後から衛星中継なるものは一気に充実し『サクラ』でも一日中NHKが見られるようになる。コンド住まいの人もみな観られるようになった。だがそのときはまだ先進のものである。相撲好きのイサオちゃんが短波ラジオで聴いていた時代だ。高価そうな大きなパラボナアンテナに目を見張ったものだった。
 私はTさん、Hさんと一緒にHさんの息子(日本人)のチェンマイでの就学問題を相談しに訪れたのであった。Tさんがあの人なら顔も広いし詳しいかもしれないと言ったからである。HAさんは私たちに日本のインスタントラーメンをご馳走してくれた。それはチェンマイの山奥に在住のHAさんからすると日本から航空便で送ってもらった貴重なご馳走である。だが日本から来た旅行者でしかない私たちには食べ慣れているインスタント食品でしかない。どうです、おいしいでしょう、感激でしょうというHAさんと思えばこのときからズレを感じたものだった。

 自慢の蘭ハウスを案内したあと、HAさんは、ひさしぶりに日本人と会ったものだから、Hさんの息子の就学問題はほったらかして自分の外交官時代の一代記を延々と語り始めたのである。本人は波瀾万丈の英雄譚と思っているのだろうがこちらからするとまったくつまらない自慢話になる。相槌上手の私がスペインでの苦労話等にうまく質問を混ぜたりするものだからHAさんの弁舌は益々なめらかになる。このときの私はそうして気持ちよく語らせることがHさんの息子に便宜を図ってもらうのに役立つと思っていた。Hさんのためのお追従である。しかしやがてこの人はべつにチェンマイの教育界につてもないし単に自分の自慢話をしたいだけじゃないかと気づく。

 同じくその無意味さに気づいたTさんがうまく切り上げようと拝辞のことばを何度か口にする。だが乗りに乗っているHAさんはせっかくの獲物を逃がすものかとしゃべりにしゃべりまくる。なんとかTさんのそろそろというおいとまをという何度目かのことばに私が賛同してうまく辞することが出来た。
 ところが人がいいというのか鈍いというのか場を理解できないHさんが、クルマの中でTさんに向かって怒り始めたのである。せっかくHAさんが自分の子供のためにいろいろ教えてくれようとしているのになんであんなことを言って切り上げようとするのだと。Hさんは出口のない迷路のように延々と続くHAさんの自慢話を自分の息子のことを案じてくれているものと解釈していたのだ。なんともおめでたい。

 これには私も即座に口を挟んだ。「いやHさん、あの人は自分のことを語りたいだけでHさんの息子さんのことなんかなにも考えていないですよ」と。Hさんという人は、ほんとにいい人なのだがこんな見当違いの感覚がある。何度もため息をつかされてきた。だまされてばかりいる人だった。今はもう切れてしまったけれど仕方がなかったと思う。どうにも感覚のズレを埋められなかった。『いい人』だけではすまないのである。
 Tさんも私がわかっていたことに意を強くして山形弁で言った。「んだ。あの人はあれ、義太夫語りとおんなじでよ、自分のことしゃべりたいだけだべさ」
 まったくその通りである。以後私はそっち方面にドライヴしてもHAさんのところには寄っていない。

 こどものころ何度も聞いた落語「寝床」の中での義太夫なるもの、たけし軍団のグレート義太夫、そうしてこのときのTさんの義太夫、私の人生で義太夫はそれだけである。いまだにそれがどんなものなのかわかっていない。

-------------------------------

 話もどって。
 すでによく知っている演目でもたとえば「唐茄子屋」ならあの吉原田圃での思い出話を、「崇徳院」なら恋煩いの若旦那を、「明烏」なら女を知って豹変する若旦那を、みなどう演じるのだろうとそれぞれ聞き比べてみたいと思う。だが「寝床」は悪声で唸る義太夫である。みんなが迷惑を受けうんざりする噺だ。そんなのを聞き比べてもしょうがない。そういうわけで私にとって「寝床」は興味のない演目だった。それが圓生の「寝床」が、いつの時代の録音だったのか、若く元気でむちゃくちゃおもしろかったことから、名人上手のそれを聞き比べて見たいと思い始めたのである。

 きょう聞いた文楽のテープにいかにもそれらしい解説文があった。「『寝床』に出てくる旦那は義太夫語り以外はいい人である。奉公人たちも旦那を慕う働き者である。なのに義太夫によってみんなが苦しむ。この演目のテーマは、そういういい人をすら狂わせてしまう芸事の魔力の恐ろしさなのだ」と。なんだかあまりにもっともらしい解釈ですなおになるほどと膝は叩けないが、こどものときに聞いて、つまらない話だとばかり思っていたのが間違いだったとはわかった。
 みんなが旦那の義太夫好きを嘆くところがおもしろいのだ。圓生の「普段はあんないい人がこと義太夫になると残忍になる」には笑ってしまった。この「残忍」は圓生のオリジナルのようである。「ありゃぜったいご先祖が義太夫語りを絞め殺しているね」はその他の人にも登場するが。ポンと出ることばひとつで笑える。センスである。そしてそれにどう反応するかはこちらの感覚だ。以前書いたが、昭和三十年代の「スチャラカ社員」で中田ダイマルの言った「君、最近わるい女の子と接触しとるそうやないか」の"接触"が当時新鮮で公開録画の会場は大爆笑だったものだ。小学生だった私も笑った。

 きょうクルマの中で桂文楽の「寝床」を聞いた。
 あれほど名人と讃えられる人なのに私があまり文楽を聞かないのは理由がある。もっている音源のほとんどがラジオ放送のものなのだ。当時ラジオ局が落語家を専属にするのが流行ったらしく文楽は東京放送(現TBSラジオ)の専属になった。その他もメジャな噺家は一時みな専属契約をしている。すぐに志ん生がそこ以外に出られないのは不自由だというのでやめる。でもすぐニッポン放送専属になり、「こんどニッポン放送というところの専属になったのでニッポンのどこででも話せます」と言ったという勘違い実話は有名だ。そんな時代だったのだろう。この専属契約というのはなんとなくイヤミで好きになれない。でも映画も五社協定があった時代だったからそういうものなのか。むしろ専属契約を持ちかけられることがステイタスだったのかもしれない。契約料も魅力だったろうし。
(後日、それはそれはたいへんなステイタスで、小さんはこのときの契約金で今の家を建てたのだと知る。)

 ラジオスタジオで録ったものには観客がいない。淡々と噺が流れてくるだけだから私には味気ない。「私には」と断ったのはきっと世の中には寄席の録音が嫌いでこのスタジオ版を好む人も多いと思うからだ。実際寄席版だと今の時代のおもしろくもないことでもおおげさに笑うテレビスタジオのバカ女みたいに必要以上に大声で笑う女の嬌声があったりして興ざめすることもある。ただあれはああいう時代、寄席で思い切り笑って憂さを晴らそうと思っていた庶民の声であり、そこに不満を感じてはいけないのだとも思う。客の洗練という意味ではむしろ志ん朝の獨演会の客等のほうが無粋なことをしちゃいけないと気を遣っていて当時のものよりもあか抜けている。

 文楽の寄席録音素材も探せばいくらでもあったのだろうがそこまで熱心でもない。何本かもっているそれがみなそうだったのであまり聴くことがなかった。きょういつもの図書館に本とCDを返しに行った。一週間の休館明けである。もう借りるCDはない。入れるべき自分のCDもまだ百枚以上ある。そんなことからひさしぶりに落語カセットのコーナを覗いた。この図書館のいいところは落語カセットが豊富なことだ。田舎町の図書館にしては立派である。すっかりCDの便利さに慣れてしまってもう半年以上カセットを借りていなかった。そこで文楽のたぶん寄席録音だと思われる素材をいくつか見つけたのである。そこに答は書いてない。あくまでも推測だがとりあえず借りてみた。それが当たりだった。観客の前で演じる文楽はスタジオ録音版より遙かに魅力的だった。

-------------------------------


「わが師、桂文楽」(柳家小満ん著)を読みつつ聴いた。これの価値はおおきかった。神棚に飾っておいたような文楽がずいぶんと身近になった。私の真の文楽体験は今から始まるのかもしれない。「愛宕山」に志ん朝の原型を見た。この辺は自分は野放図な父志ん生のようにはなれないと割り切って文楽に師事していたころだ。

 ひといきついて、談志の「新釈落語噺」を読んだりした。これは談志にしては凡庸な本で「楽屋噺」の過激なおもしろさとは比しようもない。「中央公論」連載だからか。それでも今の文楽があの小益であることへの痛烈なイヤミ等にはスッキリする。
 ずいぶんと日が長くなった。二冊の感想を書くと長くなるのでべつの機会にしよう。

 深夜、一緒に借りてきた桂三木助の「崇徳院」を聴く。志ん朝が影響を受けているのがよくわかった。三木助に習ったんだっけ? この辺は調べて附記しよう。息子の三木助は襲名したあと自殺してしまった。若いときからよく見かけていた人だったので(もちろんテレビ等で)あの自殺にはおどろいたものだった。

「寝床」と言えば志ん生である。志ん生の考えた不条理な落ちは談志も絶賛している。旦那の義太夫語りのあまりのひどさにに番頭が遁げる。蔵の中に逃げ込む。内鍵を閉める。旦那が追いかけて来て窓から義太夫を送り込む。もうこのハチャメチャな展開だけで充分にすごいが(笑)。蔵の中に義太夫が渦を巻く。それでその番頭、「ドイツに行っちゃった」なのである。おかしい。これはもうほんとに志ん生という人のとんでもない感覚になる。談志はこれをアレンジして「カムチャッカで鮭を捕ってる」を使っている。

 志ん朝はおとっつあんの発案したこれを最初使用していたが、自分なりに工夫して「共産党に入っちゃった」ってのにしたそうである。これも笑える。義太夫に苦しめられて共産党入党である。
 ところが無粋にもケチをつけてきた輩がいるらしい。いやそりゃいるだろう、そう言うだけで見事な共産党批判になっている。熱心な共産党員なのに落語好きなヤマダヨウジあたりか。抗議を受けて志ん朝はいやいやながらまた父志ん生のそれにしたとか。しかし亡くなる何年か前から自分のオリジナルである「共産党に入っちゃった」にもどしていたそうなのだ。私がいまいちばん聴きたい「寝床」はそれである。いまのところ見つからない。いつの日か出会えるだろう。
05/3/21
 桂三木助のこと

 三代目桂三木助のテープを聴きつつ彼に関する本を読んで、二代目は大阪の人だったこと、三代目が一時柳昇を名乗っていたことなどを知った。
 その後のことは知っている。博奕好きで破天荒な人だったが遙か年下の女房をもらいそれからは落語一本に専念したこと、そうして出来た息子に親友の五代目小さんと同じ盛夫と名づけたこと(苗字が同じ小林だったから五代目小さんと三代目三木助の息子・のちの四代目三木助は、小林盛夫と同姓同名になった)、それが後に立教大学の落研からプロ入りし四代目桂三木助となること、等である。
 もちろん詳しい年譜など知るはずもない。「遙か年下の女房」とは一時落語を離れて踊りをやっていた時代の弟子だった二十五歳年下の仲子夫人であるとか、四代目三木助は三代目が五十四のときの子供であり、三代目の享年は五十七であるから三歳で父を亡くしていること等は今回確認したことになる。

 大勢の先輩を出し抜いて真打ちになった落語家で思い出すのは、まず志ん朝であり、小朝である。次いでこの三木助でありこぶ平となる。四人の中で異色なのは小朝だ。あとの三人は父親が有名な落語家である。それだけ力があったということになろうが小朝の話はまたの機会として。
 志ん朝の場合は実父の志ん生が自分の目の黒いうちにと親友の文楽と図って実行したことである。追い抜かれておもしろくない小ゑん(のちの談志)が真打ち昇進を辞退しろと迫った話は有名だ。志ん朝は辞退したら推薦してくれた人たちに恥をかかすことになるかと突っぱねる。そういえば落語会に係累なしで大物になった先駆けは談志か。
 志ん朝と小朝は先輩を出し抜いての真打ち昇進を実力で証明する。記憶が正しければ「××人抜き」と前代未聞の数字(といってもたいした記録は残っていまいが)で話題になった志ん朝をさらに数の上で小朝は抜いて話題になった(はずである)。志ん朝が32人抜きで小朝は36人抜きだったか。

 三木助が大学の落研出身では史上最短入門八年、十八人抜きで真打ちになったのが85年。二十八歳。学生の時に入門しているから年齢はあっている。87年にはこぶ平が(何人抜きか覚えていないがこれも話題になった)二十四で真打ちになる。これは当時最年少記録。
 三木助の出世は同姓同名の小林盛夫である小さんの引きである。自分の名を取った親友の遺児であるから親代わりであったろう。溺愛していたことは想像に難くない。

 こぶ平の場合はやはり三平の親友だった圓歌の引きだ。伝記によると正蔵、三平と続く系譜の中で三平は楽に出世したようだが、一時二つ目になりながら父に死なれたときはまた前座にもどっていたときであり、たいへんな経済的苦労をしたことになっている。あの明るいキャラの三平にハングリーガッツがあったとはにわかには信じられない話だった。大名跡の正蔵なんてマスコミの持ち上げや三平一門の賑やかさから林家一門を代々続く繁盛の家系と思いがちだが、なんのことはないすべては三平が一代で築いたものである。三平が稼ぐようになっても家に入れず使ってしまい、あちこちに女を作っては貢いでいたことによる香葉子夫人と正蔵未亡人の貧乏苦労話は志ん生のなめくじ長屋に匹敵するほどである。でもなぜか今はすべてハッピーな三平伝説になっている。

 私が子供のころから三平の方針に疑問を持ったのは弟子志願者を断らないことだった。全部受け入れるのである。こんな話、聞いたことがない。くだらない方針だと思った。弟子ってのは大勢の志願者の中から真に才能があると思ったのをひとりかふたり採るものだろう。それが三平の場合志願さえすればみなオーケーなのだ。しかし時が過ぎれば、毛沢東の産めよ増やせよ政策は失敗したが、三平のペー作戦(際限なく弟子を取り名前にぺーをつける)は一族を守る作戦として成功している。こん平は形の上で父を亡くしたこぶ平の師匠だが未だに「坊ちゃん」と呼んでいる。見事である。結果的に。

 真打ちになったこぶ平がいかほどのものであったかは誰でも知っているだろうし三木助も同じようなものだった。ヴァラエティ番組に毎日のように顔を出していた超人気者と訃報には書いてあるが、最近までのこぶ平と同じようなものである。
 狭い落語界の話である。こういうものだ。そう考えれば「正蔵という大名跡をこぶ平が」なんてのが意味のない門外漢のいちゃもんだと気づく。

 テレビの軽薄路線から足を洗い三木助の名に恥じないだけの落語をと徹底し始めたころから奇行が目立つようになる。寄席を無断欠勤して穴を開けたりした。
 2001年1月3日、自宅で首つり自殺。重圧に負けた自尽だが、こういう形で父を亡くし父の友人たちに引き上げられ、常に父を意識していたならこうなるのはわかっていたかのような道筋でもある。

 こぶ平は父が前座名で一時代を築いたああいうタイプであることが救いになる。彼のくすぐりに落語家なのに落語が出来ないと天国の父さんに泣きつくと父さんがだいじょぶだおれも出来ない、というのがある。三平が国民的人気者であっても優れた正統派落語家ではなかったというのはこぶ平には心強いことだろう。志ん朝や三木助のようなプレッシャはない。林家正蔵という名が大きな名跡であってもべつにじいさんが名人だったわけでもなく重荷に思う必要もない。こぶ平は自殺はしないだろう。それでいい。落語家が藝に悩んで自殺なんてくだらないことである。それこそ三平に人生の落伍者と笑われそうだ。
05/3/25
 志ん朝の由来

(「相撲話」の大鵬が一代で不滅の名にした、ということからの連想)
 落語でも前座名の三平をああいう形で一代限りの名に高めたれいがかっこいい。談志は小さんにならなくてよかったし小朝もこのままがいい。力もないのに文楽の名を継いだ九代目文楽が惨めだ。円鏡もあれだけ売れっ子になって「月の家円鏡」の名を全国に浸透させたんだからあのままでよかったのにな。それとも彼の場合、テレビタレントから古典落語家になるため、あの名を捨てたかったのだろうか。

 名跡といえば、江戸時代から続く由緒ある文楽の名も、あいだにろくでもないのもいたから六代目にするか七代目にするかと迷った末、縁起のいい末広がりの八代目にしたといういいかげんさである。そんなものだ。そういういいかげんさもまた落語の魅力であり妙に伝統芸能のように持ち上げることにも反発を感じる。江戸時代の名人がなんて言ったって録音が遺っているわけでもなし讃えるのは中興の祖の円朝と名人円喬だけでいいだろう。文楽もまた「名人八代目文楽 黒門町の師匠」でいいのである。無理して継いで重圧に苦しむ必要もない。その意味で今の落語界は志ん朝や小朝のように自分だけの名前を大事にする良い方向に流れている。権威主義の円楽なのに圓生になろうとゴネなかったのも良い。ゴネようがなかったか。

 志ん朝が真打ちになるとき、いや志ん生の弟子が志ん喬でもって真打ちになるときだったか、姉の美津子さんか志ん朝に「いいのかい、あっち(志ん喬)のほうがずっと格上なんだよ」と尋いたそうである。長姉として年の離れた息子のようなかわいい弟に一門の歴史ある名をつけてほしかったのだろう。当然のようでありいかにも女の意見とも思う。志ん朝は馬生が二つ目時代に初めて使った名だった。しかも短期間である。歴史も由緒もない名前だった。志ん朝が古今亭の由緒ある名を継ぐことは簡単だった。志ん朝本人が志ん喬にこだわらずこの名でいいと断ったという。入門五年、三十二人抜きで真打ちになることの緊張もあったろう。いやそういう事情だからこそ大名跡を欲しがる人もいるように思う。ともあれ志ん朝はいまだ真打ちのいない二つ目の名である志ん朝にこだわり、そうして今の大名跡に築き上げた。うつくしい。

 先日志ん生の「びんぼう自慢」を読んでいてこの名が志ん生のオリジナルであると知った。志ん生が尊敬し敬愛し絶対に叶わないとため息をつきつつ絶賛していたのは名人・橘屋圓喬である。この人の前座名が朝太で志ん生もこれを使った。かわいい息子二人の前座名もこれにしている。「朝太」は最高級の前座名になる。

 そうして二つ目になる馬生のために志ん生と朝太を組み合わせて考案したのが志ん生オリジナルの「志ん朝」だった。初代志ん朝は馬生を襲名して真打ちになる。
 このあと、いまの志ん朝のあいだに短期間二代目志ん朝がいる。廃業した人である。
 この名を朝太を名乗っていた末息子が二つ目になるときに継いで落語史に遺る名人の名に高めた。
 志ん朝からすると大好きなおとっつあんが自分たち息子のために作ってくれたこの名がいちばん好きだったのだろう。落語界中興の祖・円朝の響きにも通じる。実際志ん朝は、「名人円朝というかたがいまして……、志ん朝じゃないんですよ、円朝。一字違いでたいへんな差です」と言って笑いをとっていた。でも会場は爆笑なんかしない。志ん朝が円朝に負けていないと思うファンばかりだから。志ん朝はこの響きも好きだったのだろう。いい名である。

 まさか志ん朝の弟子で将来なんとかして四代目志ん朝を名乗りたいと思っているようなのはいないと信じたい。こぶ平が正蔵を継ごうと興味はないがそんなことになったら反対運動に関わろう。志ん朝は一代のものである。

-------------------------------

●志ん朝は三代目
 志ん朝は、志ん生の考えた名前で(とそのときは知らない)初代が長男の馬生、二代目にその消息不明がいて、三代目が次男末っ子の志ん朝である。それにしたがって上記の文を、当初「二代目志ん朝」としていた箇所を「三代目」として訂正した。(4/1)

【附記】 二代目でいいのかもしれない(05/4/18)

 「ぼくの落語ある記」(八木忠栄著 新書館)を読んでいたら、名人落語家を称える項目の目次に「古今亭志ん朝(二代目)とあったので、「おっ、幻の二代目志ん朝のことか」と開けたら、なんのことはない三代目志ん朝のことだった。そりゃ二代目がこんな本に取り上げられるほどの人とも思えない。
 八木さんは昭和三十七年の志ん朝真打ち昇進のお披露目も見ており、そのときの思い出を語っていた。「現代詩手帳」の編輯長であり落語通として名高い。そのかたが2003年に出した本でそうしているのだからもうそれでいいのかもしれない。八代目文楽の八代目がいいかげんであるようになにも正確であればいいというものでもあるまい。
 それよりももう志ん朝は「最初で最後」だ。これに尽きる。
「馬生が名乗ったことがある」「じつは廃業した人で二代目がいた」というそれらはマニアックな隠しネタでいいのだろう。

【附記・2】 またひとつ「二代目」(05/4/19)

 「落語ワンダーランド 志ん生!」(読売新聞社編)を読んだ。何なのだろう、この本。わけがわからん。けっこう貴重な資料となる写真が載っていたりする一方、いくつかの大学のミス(意味が分からん言いかただな。ミス上智とか、そんな女にです)に落語を語らせたりしている。語らせるったって今時のネーチャンがそんなもの知るわけないから、「落語はぜんぜん知りません」なんてののオンパレード。なんでそんなおおすべりの企画をやっているのか。なにがきっかけでこんな本が出来たのだろう。しかも読売新聞社。理解不可能。ありがたいのは図書館の存在。こういうゼッタイに買うことはないがとりあえずチェックしてみたい本を揃えておいてくれる。
 この本の末尾に落語家名鑑があり、志ん朝の弟子が網羅されている。そこに「二代目志ん朝に入門」とある。ここでも「二代目」だ。どうなんだろう、もう実蹟のない二代目は実在しないことにする流れなのか。「ほんのすこし志ん朝を名乗り、廃業した二代目志ん朝」なんて雑知識をもってしまったためにみょうに気になって困る。

 と書いてまた気づいた。本文中の系譜ではしっかりと三代目になっている。つまり一冊の本でそういう矛盾を起こしている。こまった問題である。「本格的系図によると三代目、でも一般通例では二代目」ということか。わたしゃどうしたらいいんだ。
05/3/28
 『笑点』のこぶ平

 きのうの『笑点』にこぶ平が出ていた。正蔵襲名のテレビ披露である。円楽党が仕切っているいまの『笑点』だが、こん平の流れから、人気番組のここでも挨拶したいと願ったのだろう。いくらお練りに14万人が並んだと芸能ニュースやスポーツ紙で報じられても、人気番組のここでやることにはまたべつの価値がある。絶大だ。世の中にはテレビのここしか見ない演芸ファンもいる。

 舞台向かって左手から、口上進行の弟のいっ平、林家喜久蔵(そういえばキクちゃんて彦六の弟子で林家だったんだな)、中央にこぶ平、なぜか円楽、いやなぜかじゃなくて円楽の番組だから円楽だ、右端に兄貴分として(実際義兄だが)春風亭小朝、と並んだ。本来小朝の場所は療養中のこぶ平か。
 林家喜久蔵を意外と感じたのは、本来の林家ではなく彦六が一代限りで借りた他流の林家の一門だからだろう。いま「林家」と言えば三平の弟子の流れである。それが正当でキクちゃんは無関係だ。

 いっ平の進行で小朝挨拶、喜久蔵挨拶、円楽挨拶、本来なら当人が挨拶することはないのだがテレビですので特別に、とこぶ平挨拶、そして円楽の三本締め、となるのだが、その間もいっ平は噛みっぱなし。ひどすぎる。大学の落研でもここまでひどいのはめったにいない。これで真打ちか。いやはやなんとも。

 しかしもっとひどかったのは立ち会いの連中の挨拶。まともだったのは小朝のみ。喜久蔵はお得意のへろへろになった彦六の物まねで笑いをとる。まあこれはファンも多いからいいとしても、円楽の「たしかおじいさんの正蔵さんが亡くなったのは昭和二十四年ぐらいだったと思いますが」はひどい。なんなんだ目出度い記念すべき場で「たしか」と「ぐらい」は。
 こぶ平に興味はないがこのいいかげんさには腹立った。気の毒に思った。まあこぶ平の挨拶はしっかりしていたし、このことに茶の間のファンが反感を抱くとしてもそれは喜久蔵と円楽だからマイナスはないのかもしれない。ここで挨拶したことは価値があるのだろう。

 30分番組になってからの『笑点』は前半15分が演芸、後半15分が大喜利である。前半を見ることはすくないのだが(なぜならマギー史郎やナポレオンズの手品とか、『笑点』メンバの落語とかつまらないものが多いのだ)今回は大相撲が千秋楽であり、優勝旗授与を見てもしょうがないからと運良く見ることが出来た。見ていないと文句も言えない。見て良かった。
05/4/6
 あまりに無神経



 志ん朝が亡くなったころに検索して見つけたサイト。
 6歳で死んだらべつに噺家でなくても早すぎる死だ。笑うに笑えない。
 これだけなら単なる誤植で揚げ足取りのようだが、このサイトはずっとこのまま直されていない。きょう行ってみたら未だにそのままだった。いかに自分の文章に責任を持っていないかである。アップの際に点検するだけでも気づくあまりに安易なミスだ。印刷されてしまった活字ではない。すぐに直せるネット上の文章なのである。それを三年半もほったらかしなのである。あまりに無神経だ。不快である。

 それでいてこの文章の最後には感想を寄せる投稿欄が設置されている。


 こんな無神経な間違いをしておいてよくぞ「このホームページはどうですか?」などと言えたものだ。
 享年を間違えるという失礼なこと(それも63を62といったようなものではない。6歳だ)を訂正することには鈍感なのに、他者から自分が評価されることには貪慾なのだ。このことだけでこの人のサイトを読む気は失せる。
 この文章がインターネットに登場して三年半経ったが未だに直されていない。「ご感想」で指摘してやった人もひとりもいないってことか。あまりにお粗末である。
05/4/7
 いちばん好きな談志本

 きょうは「談志楽屋噺」を読み返していた。何度読んでも唸るところ満載の名著である。死んでいった破滅的芸人のすさまじさがよく出ている。
 出版元が白夜書房ってのもいい。昭和のエロ出版社には気概があって、たまにこういう名著を世に出している。これがイワナミやアサヒでないことに価値がある。いや、アブナイ表現が連続しているからイワナミやアサヒじゃ出せなかったか。
(UPの際、今は文春文庫になっていると確認。)

 小円遊や小痴楽(のち梅橋)の話は、当時の『笑点』を思い出すと、まさに楽屋噺で、テレビで見ていた表と異なった楽屋での裏が見えて圧倒される。小円遊が『笑点』での(談志が作った)キザなキャラを高座でも求められ、まともな古典落語をやりたかったこととのギャップに悩んだという話ではテレビの怖さを思い知る。人気が出るのも善し悪しだ。でもそれは『笑点』で人気が出て経済的にも豊かになったあとの悩みなのだが。

 宝話が満載のこの本でも小痴楽の狂いっぷりは白眉。
 談志と升蔵(円鏡の前名)、小痴楽でのキャバレートリオ出演。謎掛け問答。
「ビールと掛けて」に、小痴楽「癲癇の女と出かけた結婚の初夜」と解く。そのこころは「抜いたとたんに泡吹いた」だって。すごすぎる。答のこころもすごいが、そのまえの「と解く」がもう。
(てんかん、癲癇が出ず、漢字登録して探して作るのに一苦労。へんな時代だ。)

 『笑点』で人気者になったので地方に行くと女がやり放題。それを小痴楽が談志に言う。
「兄さん、もうおれ片っ端から女ァやった。誰でもやれる。植民地を歩いているようなもんだ」
 植民地って……。すごすぎる。でも白人は植民地でそうだったろう。南米とか。日本は同一化で植民地支配はしていず軍隊の規律が厳しかったので違うけど。

 小円遊と小痴楽、池袋でチンピラに絡まれる。遁げられない。窮地脱出のために小円遊、着物に雪駄履きという風体を利用して、「おれを誰だと思ってやがんだ。極東で爆弾の金と呼ばれた」と一世一代の大芝居。小円遊の顔、こわいもんな、迫力あったろう。思わずチンピラも後ずさる。するとつきあうべき小痴楽が「嘘嘘、こいつ落語家」と言う。二人してそのあとボコボコにされる。小円遊が談志に嘆く。「シャレになんないよ、あいつは」。スゴすぎるぞ、小痴楽。

 テレビで見ていた小痴楽はつまらなかったけど、談志が「おもしろさ、バカバカしさの最たるもの」と数多い落語家の中でもムチャクチャの一番手に挙げる。テレビじゃわからない。その小痴楽のすさまじいエピソードが満載である。まあそんな人はすぐに死にますね。早死にして当然。

 「癲癇の女と出かけた新婚の初夜」って……。私もここだけの話にすべきかと思っています。すごすぎる小痴楽。でもそれが許された時代。

 前も書いたが、この本にいくつか出てくるエピソードが、最高の「林家三平論」だと思う。これ以上のものを知らない。

 読んでいて気づいた。談志は改名論者だった。名は変えるべきと明言している。知っているようでいて忘れていた。それは談志が゜改名とは無縁の立場になったからだったろう。
 自分は小さんに、志ん朝は志ん生に、円楽は圓生に、なるべきと言っている。
 私は月の家円鏡の名であれだけの人気者になった(円鏡の名を高めた)円鏡が橘屋圓蔵になったことが疑問だった。円鏡のままでいいのに、と思っていた。これは兄さんと呼んで慕しい(円鏡のほうが年上だが入門は談志のほうが早い)談志の意見があったのだろう。談志がそのままの名前で行くべきと言えば円鏡のままだったように思う。とはいえ、庶民的なキャラの円鏡がじつはそういう大名跡にこだわる人だった、という懸念もなくはない。
 談志は獨立して小さんにはなれず、円楽は円楽党を作ったので圓生を継げなくなった。ともによかった。談志は談志でいいし円楽に圓生を名乗って欲しくない。小益が文楽か……。でもこれからも八代目、九代目とは書かない。六、七を飛ばした五代目までさかのぼる必要もない。文楽はひとりだ。

 この本、もう一冊文庫本を買って云南に置いてこよう。しかし文春文庫はどんな装丁なのか。この白夜の本はいとしい。
4/8
 談志がバラした正蔵出生のミステリ──

 きのう出た『週刊新潮』を立ち読みする。最初「えっ!」と驚き、次に「そんなバカな」と嘆息した。談志の得意なフレイズで言うなら「洒落になんねえや」になる。

 こぶ平は香葉子夫人の子ではない。たいへんな艶福家であった三平が銀座ホステスに生ませた子であることはこの業界の常識だった。しかしそのことに触れないのもまた礼儀だったはずである。なんで今、談志がこんなことをしたのか理解に苦しむ。談志に腹立ったのはれいの「拉致被害者」に見当違いの暴言を吐いたとき以来だ。『噂の真相』のようなクソ雑誌が書いてもかまわない。だけど業界内部の談志が口にしたのでは重みが違う。こぶ平の気持ち、なにより香葉子夫人の気持ちを思ったら言えることではあるまい。香葉子夫人が故人になったとき、こぶ平自ら口にするのが最善と思っていた。
 私ごときでもこのような内輪の秘密ホームページで触れるだけで、表では言わなかった。なんでこんなことをするのだろう。

 こぶ平の正蔵襲名

 談志としては、正蔵襲名の派手なお練り等に批判的で、中身のないヤツがなにをやっても意味がない、それよりも今こそ出生の秘密を自ら明かして、それすらも話題にせよ、という意見らしい。後見人である小朝にも批判的、とあった。
 落語を「人間の業の肯定」とする談志の解釈には全面的に賛成である。このごろ暗い内容の落語を聞くたびに、「業の肯定」という解釈をもっていないと、やっていられないなと思ったりする。落語は決して笑わせてくれるだけのものではない。落語を聞いてやりきれなくなることもある。この発言も談志流の「業の肯定」なのであろうか。

 しかしどうなんだ。経済的に恵まれたおぼっちゃま育ちなのに、いつも寂しげな風情をもっていたこぶ平。あれは私が(父が自殺したという)北野誠に感じたものと同質であろう。あきらかに他のきょうだいとは違っていた。こどものときに「ぼくはおかあさんのほんとの子じゃないんだ。他のみんなとは違うんだ」と知って刻まれたものだろう。

 談志はいまこそそれを明らかにし、肥やしにして大成すべきと発言している。
 だが現実には、たいして力のない芸人が派手な襲名披露をやっていることに対する嫉妬、苛立ちと採られてもしかたあるまい。実際その部分もあるはずだ。落語界に血縁者のいなかった談志には、志ん朝のような実力者の血縁者に追い抜かれた恨み、生意気だと柳朝を始めとする連中にいじめられた悔しさが今もくすぶっている。

 一方で私は、大御所の談志が明らかにしたのだから、そういうことももうおおっぴらに書いていいんだなと気楽にも感じている。
 そしてまた、もしもこれがきっかけでこぶ平が大化けしたなら談志の功績だとも。その可能性もあるかも、と……。

 でも談志発言から記者に質問され、「なにを言ってんですか、わたしの子ですよ。私がお腹を痛めて産んだ子です。だから私に似てあんなにろくでもない男なんです」と笑顔で懸命に主張したという香葉子夫人のことを思うとなんとも切ない気分になる。

 跡取りは男だ。男にこそ価値がある。女しか産めず心苦しかった香葉子夫人が愛人より十年遅れでいっ平を産んだときの誇らしさはいかほどだったろう。あのときもう三十七だったか。意地でも男の子を産みたかったのだ。結婚二十年目の執念である。そうして、そのことによって自分の存在価値の下落を知ったこぶ平の気持ち……。

 なんともまだ感想がまとまらない。ただし事は海老名家の個人的な話である。それをバラすことも業の肯定か。談志らしいとも言えるし、なんて非常識な男だと腹立ちもするし……。

05/4/8
 馬生に夢中

 ここのところ馬生ばかり聴いている。言わずと知れた十代目金原亭馬生だ。と断るまでもなく馬生はひとりだが。

 始まりは単純で、志ん生、志ん朝親子の現存するメディアを、いや私が入手可能なメディアを、ほとんど聴いてしまったからだった。あと文楽も。まだ圓生に聴いてないものがあるから(なにしろこの人はたくさんのものを残してくれた)そっちに行くかと思ったが、あまりなじみのないこの志ん生の長男にちょいと関わってみた。
 テレビでも見ていたし、カセットも何本かもっていた。しかし親父や弟と比べると地味だ。親父がひまわり、弟が蘭なら、萩のようである。と惚れ込んではいなかった……。

 愚かだった。それは萩の魅力がわからない私の未熟さだった。
 三十代の演目を聴くと、しびれる。端正だ。女に惚れ込む。志ん朝の女はあまりに艶っぽく、聴いていると妙な気分になってしまうほどで、あまりのその色気は、とりようによっては缺点とすら言える。胡蝶蘭のあでやかさに食傷気味になることだってある。
 その点馬生の女はキリっとしていて、いい。理想的だ。声がいいから、花魁でも宿場女郎でも長屋のおかみさんでも、みな惚れ惚れする。こざっぱりしている。
 しかし以前も書いたが、だみ声の落語家ってのはどうやって女を演じているのだろう。関わりたくないが怖いもの見たさで聴くべきなのか。

 これまで聴いてきたのは昭和三十九年録音、昭和三年生まれだから三十代後半のものが多かった。さすが兄弟だなと思う。こんなに志ん朝と共通しているとは思わなかった。若くて生きが良くて、粋で、それでいて甘くない味わいがたまらなかった。それらを聴くたびに、この人の五十代はどうなったのだろうといつも思っていた。三十代ですでに名人だがワインで言うならまだ若い。もっと熟したときを聴いてみたいと常々願っていた。
 昨日偶然昭和五十五年、五十二歳の音源を入手した。期待通りの出来だった。三十代の若さがほどよく熟してまさに完璧としか言いようがない。聴いているうちに涙が出てきた。初めての経験である。演目に感激してではない。なんでもっと生きなかったんだ、なんでこんなすごい人が五十四で死んじゃったんだ、これからじゃないか、もったいない、との思いである。
 まあそれは今の私の不安定な心持ちと関係あるのかも知れない。遅ればせながら萩の魅力がわかってよかった。音源はどれぐらいあるんだろう。ぜんぶ揃えるぞ。それにしてもこの親子、なんでこんなにすごいんだ。奇蹟である。

---------------

【附記】 偉大な系譜
 志ん朝に息子が一人いると知る。亡くなったとき、二十九歳だというから今は三十代。落語家にはならなかったのだろう。まあ、聴いたこともなかった。いくらなんでもなっていれば今までに耳にしていたか。
 偉大な志ん生、馬生、志ん朝の系譜は終ったのか。それもそれでいい。三人の名人でいい。

 馬生が亡くなったとき、志ん朝は池波志乃に「化粧した女優は人前で泣いてはいけない」と言い、池波は葬儀での涙を禁じられたそうである。池波もそれをやり遂げた。
 私は鈍いので志ん朝がもういないのだと悟って涙を流すのはあと十年ぐらい先なのだろう。いまごろ馬生だから。

 志ん朝のひとり息子の名は「忠吾」というそうだ。「鬼平」で志ん朝が演じた「うさぎ顔」の同心である。ひとり息子に役柄のそれをつけたのはしゃれているのかどうか。鬼平の中の「忠吾」は女好きで軽薄で、どうにも誉められたキャラではないのだが。


============================================


 まさに完璧と満足していたが、聞き込むほどに、ちょっと五十代の馬生の喉が気になってきた。この人、死因は喉頭癌だったろうか。たいへんな酒豪だったからそっちだったか。ちょっといがらっぽい感じになっている。藝は熟したが喉は荒れている。声質は若々しく志ん朝と同じタイプの三十代のほうがずっときれいだ。このころもう体調は悪かったのだろうか。なにか資料を探してみよう。

-------------------------------

 けっこうぞろっぺえ(05/4/20)

 このあと立て続けに馬生作品を聴いていたら、父志ん生譲りの意外に"ぞろっぺえ"な部分を次々に発見した。
 志ん生に関する本を読むと必ずこの「ぞろっぺえ」が出てくる。

ぞろっぺえ
(関東で) だらしないさま。しまりのないさま。また、そういう人。洒、粋町甲閨「アイ五六杯たアわつちが事、―とはお前の事さ(『広辞苑』)


 ということらしい。
 馬生も出来不出来が激しい。たまたま私の聴いた「笠碁」が絶品だったようだ。
 志ん生のいいかげんさは毎度のことで、それはあの人の味にもなっている。本人も毎回毎回本気で演っていたら身が持たない、本気は年に一、二度で充分だ、なんて言っていたらしい。
 志ん生と馬生は言葉に詰まったり、当時としては不自然な用語を使ったりしている。それらを完璧に直してきちんとした形で演っているのが志ん朝になる。それはあとからの人だから先人のものを直して、とも言えそうだが、親父と兄貴のいいかげんなところを弟が責任持って修正しているようでおもしろい。

 馬生の弟子の五街道雲助のホームページを覗いたら同じようなことが書いてあった。つまり馬生は端正で隅々まで気を遣った几帳面な芸風、人柄のように思われているが、弟子から見ると意外に大ざっぱな、細かいことにはこだわらない人だった、というようなことだ。
 志ん朝はとても志ん生にはなれないと端正な文楽方面を目指したが、案外似ていないように思われている馬生は、体質的に志ん生のいい加減さを持っていたようだ。私も世間の馬生評におどらされていたことになる。
4/9
 せばめる道の愚と明

 毎日落語を聴いている。

 わたしの場合は落語をせばめる傾向に走っている。最近毎日のように聴いている小さんや彦六正蔵も、「むかしから興味はなかったが、それは正しかったか」の確認のためである。先年亡くなった桂伸治(文治で亡くなったのだったか)等も子供のころからさんざん聴いて興味のない人だった。柳好とか小せんとか。このへんは聞き返す気もない。可楽と金馬も結論を出した。一応、小さんと彦六正蔵は私なりに別格とした。
 聴いてやはりそれは勘違い、あるいは自分が未熟ゆえ理解できなかった、ではないと確認する。好悪の感情だ。どんな大御所だろうと人間国宝だろうと嫌いは嫌いで切り捨てないと趣味の道は走れない。

 私の大好きなオスカー・ピーターソン(まあJazzファンの大多数は好きだと思うが)を懸命に否定し続ける人たちがいる。認めたらおしまいだとでも言うように。なぜオスカーの楽しさを素直に賛美できないのだろうとそこのところは疑問だが、そんな感覚もありなんだろうとは思う。といって今から書くことがそういうものと同質の意見とは思っていない。

 貶すとか否定するとかではないが、私にはどう考えても小さんが人間国宝というほど魅力的な噺家だとは思えない。私にとってあの人は百面相とタコ踊りの人だった。「東でやったから西でもあげないと」でもらえたと格下のように言われる米朝には素直に納得するけれど。


 彦六正蔵もむかしからすこしもいいとは思わない。いや、じつはすばらしくて真に名人なのもか知れないけれど、私にはすこしもおもしろくなかった。ねとねともたもたしたしゃべりのじいさまでしかなかった。こういうことで大事にすべき事は「私にとって」であろう。他者の評価など関係ない。

 人間国宝に関して言うと、これは「時」の問題である。タイミングだ。たまたま他の芸能のように落語家も人間国宝に指定しようという気運の時に居合わせた業界の大物がだれか、というだけの話である。その人が国宝になった。そしてまたそれは「人が選ぶもの」であるから、べつに権威を感じたりする必要はない。つまり、私は「小さんが好きでない」と言えばいいのであって、「たとえ人間国宝であろうと」などと気色ばむと、私の方の小ささを見せることになってしまう。これはどの分野であれ、ものを語る場合に自戒せねばならないことだ。アカデミー賞を何部門受賞していようとおもしろくないと思った映画はおもしろくないと言わねばならないように。
 小さんに関して知ってる限りのことで言えば「人柄がいい」ということだ。それは国宝にするのに「傷がない」ことでもある。

 好きでもないものを聴けば聴くほど好きなものが聴きたくなる。昨夜とうとう志ん朝の「柳田格之進」を聴いてしまった。私は「柳田格之進」という噺の筋が好きではない。どう考えても不自然な缺陥作だと思う。何人もの咄家を聞いたが納得できない。大好きな志ん朝のそれは揃えてあったが嫌いな噺だから聴きたくなかった。まだ聴いてなかった。

 でも夜明けのころ、だいぶ好きでないものの勉強を続けてきたからたまには好きな噺家を聴きたいと思い、まだ聴いてなかったこれをつい手にしてしまった。むかしのカセットテープである。しばらく触れてなかったので志ん朝の艶っぽい声が乾いた心に染み入るようだった。最後の方でとってつけたような急展開を見せ無理矢理のハッピーエンドになるが、その前の「人を疑う心」の部分に、なんともやるせない気持ちになった。落語で落ちこみたくない。

 ハードディスクに入れた10500曲を9300曲まで削ってだいぶスッキリしてきたように、自分の好きな落語の輪廓が明らかになってきて気が晴れた。
 かといって私の落語ライブラリーを、師匠連から教えてもらった50分の噺から枝葉を切りはらい18分にまで濃縮した文楽のように一分の無駄も許さない方向に走る必要もないだろう。音楽を7000曲ぐらいまで絞るべきと一時むきになっていたときがあったのだが、たまに大嫌いな曲を見つけて削除するのも楽しいから、いいかげんなままでほっておくことにした。落語ももうすこしいいかげんになろう。
05/4/11
 「笠碁」比べ

 先日聴いた馬生の「笠碁」があまりにすばらしかったので可能な限りの「笠碁」をかき集めて聞き比べてみた。
「笠碁」を十八番にしていたというとまず名が上がるのが五代目小さんだ。その他、可楽、金馬も評判がいい。それらはすでに聴いている。私は今まで「笠碁」というネタをおもしろいと思ったことは一度もなかった。これは私に限らずホロリとさせられる人情話でもなければ格別の落ちがあるネタでもないから世間一般の共通認識だろう。いかにも落語的なそこそこおもしろい話ではあるが「感動」とは無関係な演目である。私は今回の馬生で初めてこのネタを見直した。大好きな演目になった。
 簡単に筋を説明すると、まあよくある「ヘボ碁のふたりの話」である。お互いへたなので好敵手がいない。同じヘボ同士で楽しくやっている。

 と脱線して、碁は打つ、と言う。置く、と言ったりもする。将棋は「指す」である。ところがけっこう世の中には将棋を指さない物書き、ジャーナリストによる「将棋を打つ」と書いてある例が多く、将棋指しやファンは憤慨している。

 そのヘボ碁のふたりが「まった」でもめて仲違いする。やがて仲直りしてめでたしめでたし、になる。聴かせどころはこの仲違いのときのくだらないやりとり、仲直りにいたるまでの悔いと浮き足だった気分である。
 このネタには女が登場しない。男二人、それも壮年から老年にさしかかった旦那二人である。そのふだんは分別もあるのであろうふたりがたった一回の「まった」でもめ、長年の友情をふいにしての仲違い、そして仲直りに至るまでの「男の稚気」を描いたものだ。
「女」を出来ない小さんが十八番にしたのも納得できる。可楽や金馬も男っぽいこざっぱりした声質の噺家なのでこういうネタはあっているのだろう。

 将棋好きの志ん生は「碁」を「将棋」にして演っていたと物の本で読んだ記憶があるので頼りにしているサイトで調べたがそこでは演目としてカウントされていなかった。
 これは「志ん生・馬生・志ん朝」の全演目を五十音で網羅したもので、なんとも世の中には熱心なファンがいるものだと感心するサイトである。

http://nakamurakenji.ld.infoseek.co.jp/minobe-na.htm

 ここでは親子三人の演目数を「志ん生272,馬生162、志ん朝187」としている。音源として確認したものだけをカウントしているというから信頼できる。でもなぜか志ん生の「笠碁」はない。存在しないのだろうか。
 志ん朝の演目にもない。これはやっていないのだろう。やる必要もない。志ん朝の色気を必要とするネタではない。馬生がいい。

 馬生の「笠碁」をすばらしいと感じたのは、そういう登場人物が「親父ふたりのいさかいネタ」であり、こざっぱりした乾いた感覚のものであるところに、馬生流の女っぽさ、湿り気がいい形で絡んだからなのだと理解した。男の「ネチっこさ」とか「女々しさ」になる。もちろんそれはこの親子三人に共通するすぐれたユーモア感覚に裏つけられたものだ。
 たった一回の「まった」を許さずに、大の男がむかしをほじくり返したりしてもめる。いまは大店だがむかしはけっこう苦しいときもあり金を用立てたりもしたではないかと言ったりもする。なのにたった一回の「まった」を許してくれないのかと。

 可楽はごくふつうによどみなく、あっさりと「五、六年前にお金を貸したこともあったじゃないか」とやる。これがふつうの切り口だろう。現実にもありそうだ。小さんは日附まで言って工夫しているが、ねちっこさ、女々しさが出ていない。
 馬生はそこを工夫して、いやこれは工夫とかではなくこの一族の笑いのセンスなのだろうが、間をおく。絶妙の間をおいて、「三年前の十一月二十八日」と切り出す。いいおとなが過去の金銭の貸し借りまで言い出して碁の「まった」でもめる話を楽しんでいる観客は、絶妙の間のあと、「三年前の」と正確な日附まで言い出したその感覚に爆笑する。このネチっこさが「あっさり系噺家」にはない。たぶんそのネチっこさや「女」を演ずることの出来ない連中がこれは自分に合っていると得意ネタにしているのだろう。しかし男二人だけの話だから女を演じられない噺家でも出来るのではないのだと馬生のこれでわかる。馬生は「男の中の女」「男の女々しさ」を演出してそんじょそこいらの「笠碁」とは違ったものにしあげた。見事としか言いようがない。志ん朝だとあの艶っぽさと色気がじゃまになる。女の度合いが強すぎる。演らない方がいい。馬生の「女っぽさ」が最適なのだ。

 これを楽しめたのは私が将棋好きであることと無関係でない。また馬生が父譲りで楽屋に「まった倶楽部」なんてのを作るほど将棋好きだったことも重要だろう。圓生だったか、芸事一筋の几帳面な人なので将棋も碁もやらず、楽屋で噺家が将棋を指しているとイヤな顔をしたそうだ。だからどんなに彼が名人でも彼のやるそれは私の心を動かすことはないだろう。趣味とはそんなものである。文楽の「寝床」も彼自身が義太夫に凝ってからさらにおもしろさをましたはずだ。小さんも将棋好きなので「笠碁」のまくらでは絡ましている。好きこそものの、は基本のようだ。

 先日の「寝床」やこれのように、たいして興味のなかったネタを見直すという経験はありがたい。


【附記】 馬生のサイトに行く
 志ん生の息子の十代目馬生の名跡を継いだ「十一代目馬生」が99年に誕生したことは知っていた。ホームページを探して行ってみた。得意な演目に「笠碁」とあった。師匠流であろう。いつの日か聞いてみたい。
 このホームページは音楽が仕込んであり、ハワイアンのような音楽がのべつ流れてきて不快だった。私も自分のホームページに自作の音楽を織り込みたいとの気はあるが、これは自重せねばなるまい。音楽の押しつけはいい迷惑である。
 総じて落語家のホームページはセンスが悪い。作ってやるファンにはそういうのがいないのであろうか。それとはべつに、主立った落語家はみな自分のホームページをもっていて、営業日程やあれこれをアピールしている。そういう時代なんだなあとあらためて思う。

 馬生の名は弟子が継いだが、志ん生と志ん朝の名は、円朝や円喬と並んで不可侵の名になったように思う。正蔵をこぶ平が継いでもたいした騒ぎにならないが誰かがこの名を継ごうとしたら一般落語ファンから反対運動が起きるだろう。私もそのときは参加するつもりでいる。
4/11 むかしの音源──「聴いちゃいけませんよ」

 SPレコードに録音された落語音源がある。3分が限界だから落語にはなっていない。1本に10人分ぐらい入っている。それのカセットテープ版を隣町の図書館で見つけたので借りようと思っていた。誰もが名人と崇め、志ん生や圓生も「ぜったい適わない」と吐息する橘屋圓喬の肉声を聴いてみたかった。そのテープを見つけたとき、十数人の中に彼の名を探した。あった。むかしの蓄音機に録音されたひどい音声と、たった3分のしゃべりで名人芸がわかるとも思わないが、一瞬だけでもいいから触れてみたいと思っていた。

「聴かないで欲しい」「聴いちゃだめですよ」と圓生が言っていることを「圓生の録音室」で知った。「ぜひとも聴いて欲しい」とは言っていないだろうと思ったがここまで強烈に否定しているとは思わなかった。当時はマイクロフォンすらなく、あのラッパのようなものに上を向いて叫ぶように声を出したのだそうである。発声の形からして異様である。高座でのしゃべりを録音したのではないのだ。物珍しい機械で実験したに過ぎない。動物の鳴き声を録音したに等しい。

 圓喬の名人芸を生で知っている圓生は、そういうSP盤も聞いたらしい。そうして、そういう音源には名人藝は録音されていず、それどころか貶めるようなひどいものになっているから、あんなものは聴いちゃダメだ、あの名人はあんなものじゃなかったのだと言っているのである。重みのあることばだ。聴かなくて良かった。また、聴いて半端に「たいしたことないな」なんて思わなくて良かった。
 そのことがあるから圓生は録音に関して、専門の技術屋がうんざりしてしまうほどうるさいのだった。自分の藝が百枚以上ものレコードを通して後世に遺る。それは圓生にとって晴れがましいことであるが、同時に録音状態がわるく、自分の名を落とすようなものであるならない方がまし、との思いだったようだ。名人のこだわりである。



 落語本を読んでいたらこのSP録音盤を聞いた人の感想があった。その人はすなおに「録音状態がわるい」「みな二、三分で物足りない」としながらも、「名人、達人の肉声に触れて感激した」とも書いていた。私にもいまだに、あの雨降りのようなシャーシャーした音で、やたら金属的な声のむかしの人の声が流れてくるのであろうそれを聴いてみたい気がある。だが圓生が「聴いちゃダメですよ」とまで言っているのだ。すなおに従って名人圓喬の藝は頭の中で想像することにしよう。
 何よりその前に、圓生が1秒に38センチ進むオープンリールのテープを、数センチ(0.1秒)単位で編集させつつこだわり抜いて作った「圓生百席」を聴かねばならない。そういうものがあるのに、それに触れずSPレコードの音源に走るとしたらエナジーの方向性が誤っていることになる。


むかしの録音物
4/18
 感想文の手直しは必要か?

 あれこれと落語関係の本を読んでいる。手当たり次第の乱読だがかなりの量になる。まともなものを読む気力がないから適当にそれでごまかしているだけだ。いわば小説を読まず漫画本を読んでいる感覚に近い。落語の本を読みたくて読んでいるのではない。読まねばならないものから逃げているだけだ。こんな読みかたをされたら落語関係書の方でもいい迷惑だろう。

 どんな読み方でも量を読んでいればいつしか知識は増えてゆく。そのことで悩む。
 たとえば古今亭圓菊が「いい人」であろうとは初めて接したときから推測できたし、そう書いている。「いい人ではあろうが落語はおもしろくない」と。「いい人であろうとおもしろくないものはおもしろくないと書くのだ」と。

 しかし、予想できたことではあったが、様々な落語本を読めば読むほど、圓菊師の人柄のよさ、暖かさ、人徳が伝わってくる。ほろりとするエピソードにも事欠かない。フリーランスのライタがインタヴュウしてファンになるのも予測した通りだった。私は「おもしろくない」のひとことで切り捨てた自分が後ろめたくなってくる。
「おもしろくない」と切り捨てた比較の基本は師匠の志ん生であり、その子の志ん朝である。「あれだけ身近に志ん生と接したのに、まったく師匠のよさを受け継いでいない。同じ身近に接しても息子の志ん朝はあんなにおもしろいのに」と。
 それは本音なのだが、比較対象が凄すぎないか。この二人と比較したら落語家全員がへたでつまらなくなる。そりゃなにも知らないときに書いたのであり、しかたないのだけれど……、かといって今からとってつけたような擁護を始めるのもヘンだし……。どうしよう。
 罪滅ぼし(?)に、多くの人が「志ん生とそっくり」と認めている部分があるらしいから、もっと作品を聞いてそういう点を探してみよう。

 そういえば「まったく文章から情を感じない」と切り捨てた「圓生の録音室」の著者、高須さんの人柄を絶賛する文章にも出会った。困った(笑)。

 志ん朝論が読みたかった! 
 落語のネタの元をたどった力作。論文として発表したものをまとめ編纂したので文章はかたい。多くの註があり、参照しつつだから読みづらくもある。
 なぜなのかとその辺を探っていたら、なんと著者は昨年三十九歳の若さで早世していたのだ。彼を偲ぶ友人たちが彼の落語論文をまとめ、素人の読者にわかりやすいよう多くの註を施したのがこの本になる。一読するだけで労作だとわかる。
 いや著者は若いながらもたいへんな博覧強記の人であったというから、この種の調べ物をすることが楽しくてたまらず、苦労の労は似合わないかも知れない。大好きな落語のことを思いっきり楽しみながら書いた労作ではなくて楽作か。

 大の志ん朝ファンであり志ん朝論を書くことが願いだったとか。健康ならきっとあと数年のうちに完成させてくれたろう。残念でならない。読みたかった。
 志ん朝論の敷居は高く、いまだにまともな本が出ていない。出ているものはみな読んだが駄作ばかりである。書いて欲しいと願う人は敷居の高さを知って引き返す。平然と書いて出したのは敷居の高さにすら気づかない鈍い人なのだからまともなはずがない。よって志ん生の本やお姉さんの語り本から志ん朝を偲ぶのが精一杯となる。
 この人ならきっと真っ正面から志ん朝に取り組み、見事なものを書き上げてくれたろう。返す返すも早世が惜しまれる。

岩波書店刊 2940円  
05/8/9
 新作落語の魅力

 土曜か日曜の午後にNHKのヴァラエティ番組がある。どっちだったか。いまネットの今週の番組表で確かめようと思ったら高校野球の中継でなかった。たいしたことではないのでどうでもいい。私がその番組を見たのは偶然だったし。いや、もしかしたらこれから毎週見るので重要かも知れない。
 ちょうど街中に自転車で出かける前の時間になる。なにかいいものがあったら録画予約して行こうと番組表を見ながらテレビを点ける。けっきょくはなにも録画するものはないのだが、そのとき偶然目にしたのがこのNHKの番組だった。
 むかしからNHK嫌いで今もニュースと相撲以外は見ない。最後に紅白歌合戦を見たのが四十年前、最後に大河ドラマとやら(笑えるネイミングだ)を見たのは、売れない役者だった緒方拳が大抜擢を受け「太閤記」の主役になる年だったから、これまたそれぐらい前か。ニュースだってNHKは定期的にやるから重宝しているだけで他局もやるときはそちらに回す。よくもわるくもクメヒロシのように個性を出した方がニュース番組もおもしろい。NHKはあまりに没個性だ。だからこそアサヒシンブンとの自民党代議士の圧力ウンヌンの闘いは感情が出ていておもしろかった。

 「新婚さん いらっしゃい」とか「パネルクイズ」があった曜日のように覚えているから日曜日だろうか。NHKに回すと演芸を演っていた。若手漫才があり、コントがあり、トリは落語だった。そのとき見たのが柳家喬太郎。演目は「結石移動症」。
 こどものケンちゃんの体に石が出来て体内を移動する。多くの医者がさじを投げたが鍼灸医の堀田が治療に手を貸す。やがてケンちゃんの尿道から石が出て無事解決。「鍼医堀田とケンちゃんの石」である。あまりにくだらなくて笑った。

 翌週もまったく同じような状況でこの番組にぶつかった。出かける時間なのだがあえて待つ。トリは落語家だ。時間的にみな新作をやるようである。今週は誰なのだろうと。
 志の輔だった。ネタは「ハンドタオル」。これは志の輔のセンスを世に広めた有名なネタ。あいかわらずおもしろい。

 残念だったのはふたりとも時間が10分もなかったこと。これがむかしからテレビの落語に対する扱いである。思えばこういう短時間の中で単純明快でやりやすいということから「寿限無」あたりを連発され私は落語に失望していったのだった。そのシステムはいまもかわらない。漫才やコントの10分と比して、ムード作りから始めねばならない落語は著しく不利である。だがそういう状況の中でも、ふたりはしっかりと自作の新作で自分を主張していた。見事としか言いようがない。

 私はもともと新作落語ファンだった。協会よりも芸術協会に好きな落語家が多かった。若いときの音楽もそのごの文章書きも私の人生もまた新作一生みたいなものである。だったらもっと新作で勝負している噺家を応援すべきと思う。応援なんて言いかたは口幅ったい。好むべきだ。古典落語を聞き比べているなんていやらしい。なにより古典落語に心酔しているならともかく、名作と言われているもの、たとえば「文七元結」や「芝浜」「鰍沢」等を、くだらない話だと思っているのだから、やっていることに矛盾がある。
 古典落語にあるどんな男と女の感覚の差よりも「ハンドタオル」の方がわかりやすいし納得もする。志の輔を好むなら「唐茄子屋」や「紺屋高尾」ではなく新作を聴くべきだ。そう自分に言い聞かせた。

 志の輔はNHKで築いた人気でメジャなところからCDを多数出しているが喬太郎はどうなのだろうと調べた。
 すると『落語のワザオギ』から出していると知る。これは一種のインディーズなのであろうか。説明には円丈の新作落語を出すのが発端だったとある。

 図書館は権威主義である。よってなんらかの賞をもらった作品だと一般には知られていなくてもしっかり所蔵されている。落語CDもその流れにある。なんであんなに三枝の全集があるのかと首を傾げていたが、あれは彼が賞をもらったからだろう。そういうものとリクエストの多い志ん生志ん朝はあってもこの種の新作は購入されない。500枚余も落語CDのある新宿図書館にも円丈は1枚もないといま確認した。円丈ですらそうなのだから喬太郎などあるはずもない。だったら買ってやろう。それが応援だ。ということで私の落語好きはあらたな方面に突入の気配である。
inserted by FC2 system