──落語話──




 落語ファイルを作るに当たって、サイト内を「落語」で検索した。
 どうやら私がホームページに書いた落語に関する文章でいちばん古いのは以下の「02年3月3日 吃音症」のようである。これは純粋には「落語」ではなく「どもりと吃音症」ということばについて書いたものである。それでも私の文に落語家の名前が登場するのはこれが最初のようだ。最初が大嫌いな圓歌というのは不満だが。
 以下、「落語」に絡む文を日附順に並べてみた。2004年秋以前は落語に関係のない文章も多く、「落語」で期待されると期待外れになるだろう。申し訳ない。

 こどものときからずいぶんと落語を聞いてきたが、それは当時の娯楽番組としてそれしかなかったからである。まあ田舎の子供に古典落語がわかるはずもない。いやテレビというぶつ切りで話芸を放り出すメディアではまともな落語は語られていなかった。大の人気者になった円鏡が小話を並べるだけのキャラで売ったことが象徴的だ。

 二十代後半に三遊亭の獨立騒動があり、仕事で関わったが、それでも夢中なることはなかった。
 昨年秋、毎日父を病院に見舞うとき、なぜかクルマの中で聞くものとして、突如として落語に気づいた。
 私にとってクルマの中で聴く音楽とは、聴きながら自由にその他のことを考えられるものであった。思考のBGMだった。そう出来るものばかりを聴いてきた。
 それが、父の遠くない死が確定してからは、思考したくない。かなしいことばかりが溢れてくる。だから思考の出来ないBGMを聴きたくなった。聴かねばならなかった。毎日往復三時間クルマを運転する。その間の音楽が必要となった。それにはまず歌である。何十年ぶりかでタクローを聴いた。おかげでうろ覚えだった「春だったね」や「人生を語らず」をしっかり歌えるようになった(笑)。

 しかし慣れてしまうと歌を聴いても物思いに耽るようになってきた。次のより強いクスリが必要だ。
 そうして、図書館で見かけた落語カセットテープを借りることを思いつく。これは効果があった。筋書きに聞き惚れていればよけいなことは考えられない。子供のころに聴いた志ん生に救われた。クルマの中が寄席になった。隣町の図書館のテープをあらかた聴いてしまったあと、やがて県立図書館のCDにたどりつく。

 父がいなくなるかなしみから逃れようとする落語だったから、いちばんつらい十月、十一月のあたりはCDを借りてきてはコピーし、関連書籍を読み、と狂ったように親しんだが、父がいなくなってしまうとふっつりと聴かなくなった。妻がかけつけてくれたこともあったろう。
「落語復活の日」と題した小文を読むと、年が明けた今年の二月末からまた聴き始めたようだ。その間、日記は書き、発表していたが、検索してみると、「落語」は二ヶ月間一切出てこない。「落語復活の日」とはまた私がまともな精神状態にもどりつつある記念日だった。

 昨年のそれは、苦しいときの神頼みのような、すがったものだった。さいわいにも基礎知識はあったからすなおに落語世界にとけ込めた。でもそれは非常事態だ。よく貧乏なときだけ宗教に入信し、そこそこ暮らせるようになると抜けてしまう人がいるがそのレヴェルだった。

 今度のは違う。体系だって落語が見えてきた。苦しみから逃れるために聴くのではなく、聴くこと自体が楽しい。聴きたい作品、読みたい本が自然に浮かんでくる。本物である。長くつきあえるいい趣味を得た。

 外国に行くときもCDを持ってゆこう。いやハードディスクに納めたほうが嵩張らないか。まだiPodは持っていないがああいうものにも入れてみよう。志ん生が、馬生が、志ん朝が、文楽が、圓生が、旅先のささくれだった心を癒してくれるはずである。「ささくれだった」なんて書きたくないが「中国」であるからそうなるに決まっている。だがどんなささくれも名人達人の語りが癒してくれるだろう。

(05/4/11)
02/3/3

吃音症──円歌
(02/3/3)

 日曜の明け方、朝の五時、NHKで円歌の落語をやっていた。相も変わらず高田馬場の駅員時代を振り返り、歌奴時代の「山のあなあな」のツカミから入ってゆくのだが、なんとも奇妙に思えたのは、当時の「ドモリ」をすべて「吃音」に替えていることだった。

「あたしはね吃音だったんですよ。こ、こ、こ、こんにちはって挨拶さえ吃音になっちゃって。なんとかそれを直したいと思い切って噺家になろうとしたんです。で師匠のところに、し、し、し、師匠、あ、あ、あ、あたしは吃音なんですけど、は、は、は、噺家になれるでしょうかって訊いたら、師匠が、そ、そ、そ、それはたいへんだなって、師匠も吃音だったわけで」と笑いを誘っても、、その何度も何度も出てくる「キツオン」ってことばの響きが引っかかって笑えない。

 それはぼくだけじゃなくて会場だってそうだったろう。時代が時代といえばそれまでだが、こんなものは聞きたくないやね。なんともつまらない時代だ。ドモリだった青年ががんばって落語をやり、それを直したという話を、ドモリと使って出来ないんじゃ世も末ですわ。もしもそれを聞いて局に抗議する吃音症の人がいたら、その人のほうがまちがっていると思いましたけど。

 いや、そんなことをするドモリの人はいないんだよね。テレビでドモリということばを連発したら局に抗議は来る。でもそれはそういうことを趣味としているサヨク人権派がやるのであって、実際のドモリの人とは無関係だ。局もそれはわかっているから、ドモリに気を遣っているのではなく、そういう狂っている抗議魔と無縁になるために、臭いものにフタならぬ「臭くなりそうな可能性のあるものにフタ」をしているのである。世の中、病んでいる。バラエティ番組で意味もなくドモリと連発するようなことには反対だけど、落語のこんなところまで規制してしまうとは……。

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 談志が「圓歌ってのが嘘つきなのはよく知っている。あいつが若いときドモリだったってのはたぶん嘘だ」と書いていた。
 なるほど、高田の馬場の駅員で「たったったったっ、タカダノババアー」って言ってたなんていかにも嘘くさい。また彼の性格からして、「自分はドモリだったががんばってこうなれた。だからドモリの人もがんばって自分のように」なんてストーリィは好みだろう。
 彼が入門した師匠の二代目円歌(この人は圓ではなく円の字をわざとつかった)はひどいドモリで、ふだん話すときはどもっていた。それが高座にあがると直る。有名な逸話で取締中のところを通りかかった。職務質問される。落語家だと応えたがそれがドモる。警官に「ドモリの落語家などいるはずがない。怪しいヤツだ」と連行されたってのがある。
 そこに入門した三代目圓歌が「今は直ったが、落語家になる前はわたしもひどいドモリだった」ってのは良くできた嘘のような気がする。すっかり信じていたが談志の話を聞いて(読んで)みょうに納得した。
 談志説を信じる。(05/2)
02/3/11
スズキムネオ問題

←02/1/30に、云南のテレビ画面を撮った写真

 帰りの車の中で中波ラジオを聞く。最近ラジオはNHKFMしか聞かない。宗男議員が話題になっているだろうとスイッチを入れた。思った通り、落語家くずれから局アナまで、みな知ったかぶりに宗男議員の悪口オンパレードだ。ただしすべて見てきたような嘘ばかりである。こちらは国会中継の二時間二十分を、前回の時も含め、リアルタイムでしっかりと見ているから(ヴィデオまで録っている)こういう連中のいいかげさが手に取るように解る。

 ある局アナが言う。「イエスかノーかって訊かれてるのに、訊かれてもいないことを延々としゃべるのは時間稼ぎで腹が立つ」と。これは違う。ああいう質問にイエスかノーかなんて即答できるはずがない。これは宗男議員が正しいと断言できる。

 ぼくなりにたとえるなら。
 野党議員の質問は「あなたは李下で冠を正しましたね。イエスかノーかで応えてください」と言っているようなものである。正したことがあったとしてもイエスと言ったら自分の非を認めたことになる。相手の思うつぼだ。だから宗男議員が「その前にですね、私の被っていた冠の形とですね、風が強かったあの日の天気について言いたいのですが」と話し始めるのは当然である。李下で冠を正したり瓜田で靴を履いたりしてはいけない。政治家なら尚更のことだ。だがそれをいきなりイエスかノーかで応えろと言われたら、風に吹き飛ばされそうな形状の冠であったこと、その日が突風の日であったことを説明したくなるのは当然だろう。イエスかノーかなんて迫るほうが問題だ。だがそれに対して一斉に「イエスかノーかだけ応えてください!」「そんなことは訊いてない!」のブーイングとなるわけである。

 それはイエスとだけ応えさせて自分たちに都合のいいように相手を追いつめてゆきたいという戦法だから、野党は野党で正しい。それを拒む宗男議員も正しい。間違っているのは、その状況判断をせず、真剣に中継を観ることなく、雰囲気だけで「時間稼ぎだ」とか「ずるい」とか聴取者受けのためだけに言う局アナやタレントの姿勢である。

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「政治・思想」──鈴木宗男証人喚問──02/3/11~

この「落語家くずれ」って誰だろう。伊集院光か? もうすっかり忘れた。(05/4/5)
02/7/27
北海道とカムチャッカ

 落語の中で北海道は常に「とんでもないところ」である。カモが田んぼに降りてきてもそのまま凍りつくから、稲を枯れるようにカモを刈り取れるとか、ショウベンをしてもすぐに凍るので、男便所にはトンカチが、女便所には釘抜きがあるなんてことになっている。すなわちそれは、そういう噺が出来た頃、蝦夷がいかに遠い地域であったかであろう。いわゆる差別である。

 好き勝手に話をいじれるようになった今でも、『左遷』とは北なのだろうか。この感覚が不思議だ。那覇だったり奄美大島、屋久島にしたりしたら問題なのか。カムチャッカの代わりに台湾と言ったらおかしいのか。そんなことを考えた。南国だと食物も豊富で気楽なイメイジがあるから左遷にはならないのだろうか。

02/8/25

 シンスケと文珍

 この番組(註・サンデープロジェクト)を見ていつも思うのは、島田シンスケは何を考えてこの番組に出ているのだろうということだ。彼には確たる政治思想はないし、語るだけの基礎教養もない。総合司会の立場らしいが、思いついたように田原に話を振られると、ほとんど田舎の中学生的なドギマギした応答しかできない。前記の高市の場面でも「みんなでしっかり考えていかないと」と生徒会長(笑)みたいなまとめ方をしていた。バカである。出ないほうがいいのに、これもステータスと考えているのだろうか。「鑑定団」で上品有識の石坂に下品無知の構図で対抗しているときなど活き活きしている。ああいう番組に絞ったほうがいい。

 これとまったく違うのは文珍だ。彼は土曜朝の日テレで、明確に政治姿勢を示した司会進行をしている。これは清々しい。番組の思想的内容は大きく異なるのだが、この場合それは関係ない。要は、文珍の勉強をしている男の自信が見える堂々とした司会に対し、シンスケは目が泳いでおどおどしながらの司会なのだ。
 これは両人の資質の差でもあろうし、若い頃、漫才ブームでシンリュウが売れている頃、シンセサイザー落語とか新しいものを探して苦労していた文珍との経歴の差でもあるのだろう。
「ヤングオーオー」の頃から見ていたが、文珍がこんないい形に化けるとは想像できなかった。単純に言ってしまえば、そういうふうな物事を考えるのに、文珍が優秀であると、それだけのことなのだろう。シンスケは並以下だ。あの種の番組は、計算高いシンスケとしては失敗になる。辞めたほうがいい。
 私としては文珍の価値を見直すことが出来た幸運を喜ぶだけだ。


 このあとシンスケは深夜枠だった「キスいや」がゴールデンタイムに移ったり益々好調になり、一週間のうち六日はゴールデン枠に番組を持つようになった。日本一の売れっ子司会者である。数ある担当番組の中でもこれだけが唯一味を出してない。どうするのだろうと思ったら04年3月いっぱいで辞めた。
 そうして暴行事件を挟んで、復帰していまに至る。
 文珍の番組も05年の四月で終ったのだったか。あとで確認。(05/4)
02/11/2

いっ平と三平


 数日前に、林家いっ平が真打ちになり真打ち披露パーティがどうとかで、スポーツ紙にインタビュー記事があった。
 そこで彼はハワイで石原裕次郎に会ったときの思い出を語っていた。裕次郎は「昭和のスターは、おいらと美空ひばりとあんたの父ちゃん(林家三平)、三人だけだよ」と言ったそうだ。いっ平は裕次郎が自分のことを「おいら」と言ったのと、自分の父親が三大スターに入れられていたのが印象的だったそうな。この三人が昭和の三大スターなのか。ひばりに裕次郎に三平を足しても、彼らが死んだとき、なにをしていたか覚えていない。やはりワタシは大多数の日本人ではないのか。これはもう確定的だ。

 でも、これはこれで自信を持って言えるのだが、私は三平のファンだったから、全盛期の彼の高座やくだらなくもおもしろいネタや、脳溢血で倒れた後のリハビリ中に「徹子の部屋」に出たときの痛々しい印象や、いくつものことを鮮明に覚えている。だけど彼が死んだときのことは覚えていない。ガーンとショックを受けたとか、そんな思いもない。それが普通なんじゃないのか。すぐれた芸人に関しては、芸の場を覚えているのがほんとで、年取ってから死んだとことを(まあ三人ともまだまだ若かったけれど)そんなに強烈に覚えているものなのか?

 あの人が死んだとき
02/11/13






北朝鮮拉致被害者に対する立川談志の暴言

立川談志の発言。彼のホームページより。
家元「拉致騒動を語る」
「もちろんやったほうが悪い。やられたほうは全く悪くない。でもネ」。
家元のご感想は、日本には“恥と外聞”がなくなったということ。さらわれるような場所に行ったことを本人も家族も地域社会も恥とせず、「身内のことでお騒がせして申し訳ない」の一言もない。そもそも日本が朝鮮の人を大勢拉致した事実はどうなる、とあえて問題提起される家元。
「今こういうことを喋るのが、一番いけないんでしょうネ。謝りましょうか」


 どんなに落語がうまかろうと、こんな発言をする藝人は支持できない。「さらわれるような場所」って、彼らがいったいどこに行ったというのか。近所にタバコを買いに行っていきなり殴られ袋に詰め込まれた人もいるんだぞ。なぜそれを本人や家族や地域社会が恥とせねばならないのか。
 沖縄政務次官をやっていたころの酔っぱらっての記者会見、政治家としてのあまりの無知ぶりを失笑されたことを思い出す。さらには、選挙カーで、円鏡や円楽が応援演説をしていた選挙風景を思い出す。そしてまた、北朝鮮と戦争をやれと言っていた近年を思い出す。この発言も、世間がみんな右だからあたしゃ左を向くよという藝人的シャレと取ることも可能だが、この人、政治的な発言では昔からズレっぱなしなのである。落語がうまいからすべて許されてきた。およそ気の利いた発言などしたことがない。その愚かさを指摘してやる人が周囲にいないのだろう。裸の王様だ。哀れである。

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 ひさしぶりに(ホームページをアップしている間)ネットを渡り歩いたら、発言の全文を書き込んで話題にしている人がいた。読んでみる。
 いやはやひどいものだ。こんなものに本気になってもしょうがないからここにはペーストしないけど、要するに談志が言いたいのは「歌舞伎町から新大久保あたりの東南アジア人やヒスパニックが大勢いるところを真夜中に歩いていたら何があっても文句は言えまい。そんなところを歩いていて拉致されたようなものなんだから、泣き言ばかり言わず、そういうふうになった自分に対し恥を知れ、恥を!」ということらしい。むちゃくちゃだ。
 彼の論理によると、拉致されるヤツにはみんな拉致されるだけの原因があった、となるらしい。これはねえ、私もへそ曲がりだから、みんながみんな同じ事を言っていると違うことを言いたくなる方だけど、そもそもの認識が間違っているわ。なんともお粗末な話である。
 金正日は映画が大好きで「男はつらいよ」も全部ヴィデオでもっていて、韓国人映画監督を拉致したりしている。落語は好きじゃないのかな。談志を拉致してくれ。これだけのことを言ってるんだから拉致されたらさらわれた自分が悪いと認め、おとなしく北朝鮮の土となるだろう。
 あまりに腹立ったので全文を掲載しておく。

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●立川談志発言全文

 日本中が全部あの北朝鮮の問題。まあそれもしかたない。仕方がないっていうよりも、なんで話題にして、それで視聴率稼いで商品を売ろうっていうことですから、向こうに言わせりゃ冗談じゃない、それだけの宣伝しなけりゃ宣伝っていうより報道しなけりゃいけない理由があるって言うだろうけどね 。
 あれ観ててね「こういう発想を今喋ることがね、とにかく一番良くない」って言うけどね、そういう場合どうですか。こういう言いかたしたらどうですかね、怒られるんですかね。こういうまくらをふればまだいくらかなるけどね。オレはズバッと言うけどね。

 あの遺族たち、遺族って言うのかな、まあ,犠牲者の、犠牲者というか拉致された家族ですね、彼ら、これ私、寄席で言うとね「てめぇら」とか、こういう言葉を使うんだけどね、恥も外聞も無いのかねっていうこと。
 まああえて言うけど、あれは拉致とはどうも考えられない。誘惑ですよ誘拐。うまい事言われて連れて行かれちゃった、ね?

 もちろん中には幼いっていうか横田めぐみさんみたいな例がある。それにしてもね、自分の家族または町内、そういうもんがしっかりしていればね、誘拐されるような所に行かないんですよ。何であそこの子あんなところ歩いてるのとか、あんなことでよくあんなとこついてって北朝鮮までってね、周りから言われる。自分もそれを言っとかなかった恥だ、誘拐された者に対する教育をしてなかった。
 よほど自分の意思で行ったんなら別ですよ、ええ,往年のあのソビエトへ亡命した俳優の、出てこなくなっちゃった杉本ナントカと、あのね、あれはてめぇで越えてったんだ国境を。それはいいよ。

 恥も外聞もないのかってこと。自分の恥、身内の恥。「ああ,私たちの不注意でもってあんなことになって日本中をお騒がせしてすいませんね」っていう恥、それから外聞、外から聞こえてくるね「何だあそこのウチは,誘拐されるようなとこ行くな」

 あたしゃ新宿に今もいますがね、あの裏通りコマの裏なんか夜中歩けないですよ、あたしゃ平気で歩いてるけど。あの路地裏の、あの日本人がほとんどいないような東南アジアの連中の中で、あそこ歩いてて連れてかれたってある程度しょうがない。

 いい悪いったら悪いですよ。やった方が悪い。やられた方は全く悪くない。そうしないと物事が成り立ちませんから。だけどそこ歩いてきゃ「あんなとこ歩くからいけないオマエ,夕方あんなとこ歩いたり、また夜あんなとこ歩くな。サラリーマンがナニかしに行ったんじゃないか」と同じようにあんな海岸線を歩いてるとか、あんな林の中を一人歩いて、詩人じゃあるめぇし。

 周りから聞こえてくる外聞てゆうのがある。自分から出てくる恥も外聞も無いのかっていう見方が、それがないのかね日本人は。コレを聞いたら日本人怒るのかね?
「何だ,あの談志のバカヤロウ、冗談じゃない、連れてく方がよっぽど悪いじゃねえか、 ええ、こっちは何の罪も無いのにみんなで寄ってたかって連れてかれて教育されてあんなになって」こう言い切るんですかね?

 だとするなら、日本人がどれほど朝鮮人を誘拐というか拉致してった? コレ拉致ですよ。それで毎度言ってるように、北海道の炭坑から返さないの、ね?
 はい、金正日マンセーマンセーの代わりに天皇陛下バンザイバンザイ天皇陛下のために死ぬって。言っちゃ悪いけど昭和天皇と金正日どっちが頭が良いかと言ったら、向こうのほうが良さそうに見えたっていうのもこれもいけない事なんですかね?
 ええ、なら謝っちゃおうか。


※ 非難が殺到し、この文章はすぐに削除された。今となっては貴重である。
02/12/5
落語のいいかげんさについて


『お言葉ですが…』の高島さんがまた胸のすくようなことを書いてくれた。

 前半は日本生活も長い中国人が書いた日本と中国を比較した寝ぼけた日本人論への揶揄。なんでもそいつは「『葉隠』に武士道とは死ぬことと見つけたりとあることから日本人の自殺を論じている」のだそうな。そのいい加減さから、高島さんはそいつが『葉隠』を読んでいないのは間違いないと断じている。痛快至極。そこからの話もおもしろかった。



 その後に書かれた一部がこれ。まずは画像を読んでください。
 私は以前から落語のいいかげんさには腹が立っていた。ここで高島さんが取り上げているのは明治大正に作られたから江戸知識がいいかげんとのことだ。明治大正に作られたものは西洋礼賛の気風に満ちているから、どうしても江戸を否定する視点がある。しかしこの種の原因はそればかりではない。もっと具体的に切実なのは、戦後民主主義の影響を受けて、今を起点にして江戸時代を論じている作品が多いことである。ここにあるような「昔は切り捨て御免と申しまして」なんてフリを聞くと私は無性に気分が悪くなったものだった。これは子供の時からそうだった。なんの知識もないときから、そんなとんでもない時代が260年も続くはずがあるまいと思っていた。それは後の学習で証明される。実際はたとえ百姓といえどケンカ沙汰から切ったりしたら武士のほうも切腹ものである。それだけ厳しい規律だった。

 これらの発想は、敗戦国がアメリカ様に押しつけられた民主主義からの誤った類推である。自分の存在を勘違いしている落語家ほどその色に染まっていったのは言うまでもない。落語家ってのは、落語だけやっていると一芸に秀でた凄い人だなと思えるのだが、調子に乗ってその他のことをしゃべると急にバカ丸出しになり、あっけにとられたりする。先日大きな波紋を呼んだ立川談志の拉致被害に関する発言も決して特殊ではない。落語家は総じてあのレヴェルである。いや、大きな波紋とはなっていないな。まともな有名人があれだけの発言をしたらたいへんなことになったのに、週刊誌スポーツ紙ですら相手にしなかったところに落語家のかなしみがある。だからこそ目立とうとしてあんな人格破綻者が出てくるのだが。

 私も何人かの落語家と酒席をともにしたことがあるが、いつもその程度の低さに呆れたものだった。先人の作った多くの作品の上に乗っかっているから、積み重ねた知識としてシャレをパターンでは知っている。しかしそれを当意即妙に返したりはまったく出来ない不器用なのが多い。こちらのほうがよほど笑いのセンスに優れている。爆笑問題の太田のような切り返しが出来るのは落語家にはいない。でもそれは当然の流れのようにも思う。所詮こぶ平だのいっ平だのが先輩をゴボー抜きして出世する世界である。あんなのに抜かれて我慢しているのだ。その程度である。才人のいられる世界ではない。

 そういう落語家もそれなりの年齢になると師匠と呼ばれることに慣れ、噺家の立場を超越して大御所を演じたくなってしまうらしい。それほどの人物などいるはずもない。真にかしこい落語家はよけいなことはしないようにしている。
 先日テレビで円歌のドキュメントを見た。ひどいものだった。ドモリの駅員出身で、自分はその程度のただの人であると逆説的に主張するのだが、たしかに言われなくてもその程度のものであることがよくわかるひどいシロモノだった。あいつが300万のメガネだの500万の腕時計だのを自慢していたことを思い出す。

 『笑点』で歌丸が低レベルの政治批判をしてこれみよがしに拍手をもらうのをくだらないと思っていたら、先日はその路線を楽太郎が継承したらしく、何度も塩川さんと竹中さんを批判して不景気で笑いを取ろうとしていたのが醜悪だった。本人は気の利いた事を言ったつもりで受けを狙っているのだが客席にまったく受けない。世相批判をすればそれだけで受けるという藝人の底の浅さがなさけなかった。よしなよ楽太郎。みっともないよ。

ATOK不満

 興味のあることはついつい何度も書いてしまうものだが、この「ATOKが落語家や力士の名を変換できない=芸能人の変換はやたら得意だ」という不満ほど何度も出てくることはない。我が事ながら、かなり真剣に怒っているらしい。

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 いつもATOKの悪口を言っているが、横綱大関は変換できるようである。ありがたい。さすがに朝青龍のようになったばかりのは辞書登録しないとダメだが。ぜひとも落語家や作家のほうも充実させて欲しい。
(02/9/22)

ところでATOKは「出久根」という苗字が出なかった。これは私の田舎の苗字なので私には子供の頃よりなじみがある。出ないので驚いた。珍しい難読苗字かもしれないが直木賞作家なのだから辞書に入れるべきだろう。
 毎度の愚痴をまたここで言ってもしょうがないが、若手タレントのフルネームを一発で変換させたり、「記者が汽車で帰社する」なんてのを一発変換すると自慢するより、出久根さんのような直木賞作家や、談志、志ん朝、小さんのような著名な落語家や大相撲の力士等の名前を変換できるようにすべきではないのか。どう考えても、数年後にはどうなっているかわからない十代のタレントの名前が一発変換されて、十年以上相撲を取っている力士や、それこそ何十年も活躍している落語家の名前が変換できないのはあきらかにおかしい。(02/10/10)
 『お言葉ですが…』──縦書き横書き

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 ATOKに対し、以前から不満に思っていることにこの「北尾」の苗字が出ないことがある。横綱になった男の苗字なのだからフォローすべきだろう。
 相撲、落語家の名とか、人間国宝レヴェルでも、こういう分野に関してはおそろしくお粗末である。それはいい。しかたないと思う。なにもかもがそうならだ。ところがアイドルタレント的な珍名には異常に早く対応する。すなわち辞書を編纂している連中がそのレヴェルなのだ。不愉快である。
(03/6/18)

 苦労したのは、力士の名前である。ぜんぶ辞書登録しなければならない。朝青龍や魁皇、白鵬などはすでにしてあったが、琴奨菊のような若手や、古顔でもきらいな力士はしていなかった。これの登録が面倒だった。
 ATOKはアイドルタレント等の名前が正しく出るらしい。たとえばマツウラアヤと打ったらそこにまちがったアヤは出ないようになっているという。そういえばイワキコウイチと打ったら正しいコウイチが出たという経験がある。しかしそんなこと(=イワキに続くコウイチはこれとプログラミングする)より落語家や力士の名を入れてくれと思う。すくなくとも数年で消えてしまうモーニングムスメのメンバを入れるよりは落語の大御所や横綱大関のほうを優先すべきだろう。この辺に私のジャストシステムに対する不信感がある。せっかくマイクロソフトに攻められているけどがんばれよと応援しているのにしらける理由だ。
 いまモーニングムスメと書いたのは、たしかムスメを娘と漢字にして書くと末尾の「。」が出るのである。ATOKはそれを自慢していた。そんなくだらないことに関わり合いたくないのであえてムスメとカタカナにした。そういえば長年のユーザーだから『一太郎2005』の優待販売のパンフレットが届いていた。どうしよう。いつまで経っても直らないわるいくせである。だんだん愛想が尽きてきた。
(05/1/17)


02/12/11
書くことの意味


 現在のような時勢の時、ネット上の個人のホームページ、日記の類は、おおまかに三つに分かれるようである。
 ひとつは私のように、選挙なら選挙、イラク派遣ならそれと、目の前の話題と全力で伴走するもの。これは、それはそれでエライとも言えるがなにをやっているかわからなくなりがちだ。一種の欲張りバカ。ごく一部。20%。
 いちばん多いのが中道路線。「世間はまあ総選挙で大騒ぎですが」と、大きな出来事には一応触れはするが、意見を言うことなく、音楽であれスポーツであれ、そのホームページのテーマへと進んでゆくもの。まともな感覚である。それでも時には我慢できず、「今回だけは民主党に入れます」なんて思わず書いてしまったりもする。ほとんどがこれ。まともか。 

  9.11アメリカテロのとき、「世界中が震撼した」なんて表現が多々見られた。ほんとではあるが大嘘でもある。世界には、そんなことがあったことすら知らない民も大勢いた。また日本のような国にいて情報として知りはしても、「傘がない」のように、「問題はきょうの雨、傘がない」と自分のことしか考えないヒトも多かったろう。好きな女に振られそうだという大問題と比したら、ニューヨークで5000人死のうがたいしたことではない。そんなものだ。地球でも割れない限り、世界中が震撼することはない。

 いろいろと考えねばならないことが多い。そういうときこそ落語の話が癒しになるという人もいよう。こういうときに、そんな話など読む気にならないという人もいよう。また、私のこのページを開き、「また政治の話か」とうんざりして閉じるヒトもいよう。人それぞれである。それぞれが自分に正直に興味あることを書いている。

 私はいま目の前の出来事から目をそらすことが出来ない。イラクで外交官二人が殺されたときは数日間落ち込んだ。今も心中で解決はしていない。それが正直な日常なのだから無理してそこからズレる必要もあるまい。ネット上の関わりとはいえ、私は現在のような情勢の中で、お気楽な旅日記など読む気になれない。私は私の正しいと思う道を歩むしかない。

 自衛隊が派遣されたら、その間、禁酒することにした。日本代表として働く彼らのために私が後方支援として出来ることはそれぐらいしかない。

 派遣された04年4月から第一次隊が帰国する10月まで半年間禁酒しました。
03/7/20
ヨネスケ
 三十年近く前、桂米助(いまのヨネスケ)がプロレスをテーマにした新作落語をやった。もうたいへんなプロレスブームなんすから」なんて言いつつ、「イノキ、ガンバーレ、イノキ、ガンバーレ」と「イノキ・ボンバイエ」をがなり始める。だめだこりゃと思ったものだった。

 彼の耳にボンバイエがガンバーレと聞こえたならそれはそれでほほえましいが、プロレス通を気取ってプロレスネタを高座にかけるなら、すこしは調べものもすべきだろう。いや真のプロレスファンならそれがボンバイエであり、どういう意味かを自然に知ってしまう。それがファン気質ってもんだ。ガンバーレとやっている時点でヨネスケの嘘が見える。ぼくはそれ以前から彼の自称熱狂的プロレスファンをまったく信じていなかったので至極納得できるいいかげんさではあった。その落語がおもしろくなかったことはいうまでもない。

タイのロケ番組

 よほどヨネスケが嫌いらしく今回調べたらサイト中に同じ事が三回も登場するので呆れた。ボケ気味なのは私か。(05/4)
04/1/20
 ついで本日のメイン。
隣の百円ショップダイソーへ
 最初に行ったのは前回目をつけていた「ゴムの木シリーズ」のコーナー。ゴムの木で作ったちいさなまな板や台所用品だ。箸立て等もある。もう十数年ゴムの木をそばに置いていて(何本も枯らしてしまって何代目かになる)いくら養分をあげても太くならないことが不満なので、大木から取ったこれらの製品を見ると不思議な気がする。室内の観葉植物のゴムの木は何年経っても親指程度の太さにしかならない。ぼくとしては腕ぐらいの太さになってほしいのだが。もっとも20メートル以上の大木になる樹液を取るゴムの木をゴムの木と思っている現地の人から見たら室内で育てられている鉢植えの観葉植物のほうが異様かも知れない。
 この製品の発想はどこから生まれたのか。想像するに、樹液が取れなくなって役立たずとなったゴムの木の廃品利用なのだろう。つまりは建材としては不適性なのだ。調べたが百科事典にはそこまでは書いてなかった。ともあれ木目もきれいだし前々からぜひ買いたいと思っていた。料理用のへらとか何種類かを買う。

 2ちゃんねるで読んでから興味を持っていた「100円CD」の棚に行く。定番は著作権のないクラシック音楽。どういう音源なのか唱歌の類もけっこうそろっている。

 落語の棚があった。かなり古い落語が15分ほど入っているものが並んでいる。さすがに100円CDだから1枚15分の1演目だけで終りだ。ラジオが音源か。演者もマイナだ。音質もかなり悪いだろう。
 2ちゃんねるで知ったのは「100円JazzCD」だった。今回あったのは1枚200円の上掲写真「ジャズヒストリーシリーズ」だった。とりあえずマイルスを買ってきた。5枚ほどあったシリーズ全部を買ってしまってもいいのだが、なんでもかんでもあればいいという時期は過ぎているので、どんなに安くても慎重になる。これはこれで正解だろう。どうせなら同じ安物でもプレイヤ名が載っているのをタイや中国で買ったほうがいい。

 その他あれこれと買って2500円ほど。200円のものも何点かあったので20点ぐらいか。ありがたいことである。たったこれだけの値段で大荷物だ。
 これでまた景気が恢復に向かいデフレからインフレになったらこの種の店はなくなってしまうのだろうか。それでも、これら一連の流れによって今まで千円していたものが、多少見てくれはわるいがほんとは百円で買える(作れる)と消費者は知ってしまった。この流れは止められまい。以前も書いたけれど、ぼくはどう考えてもマウスパッドが千円以上するものだとは思えなかった。パソコン小物大好きなぼくがマウスパッド蒐集をしなかったのはそれに因する。高品質と思われる(それでも本当は安いだろうけど)値の張るものを何枚か買って大事に使っていた。今が正常な値段である。果てさてこの流れは今後どうなるのだろう。
 帰りに入れたガソリン代を含めても1万円にならない楽しい買い物ドライヴだった。
04/4/23

 祝・お笑い番組の復活


 金曜夜九時からテレ朝で若手を中心としたお笑い演芸番組が始まった。「笑いの金メダル」というタイトルだ。日テレの「エンタの神様」の成功に刺激を受けて始めたというだけあって出演者もよく似ている。とはいえそれは私の好きな連中だから不満ではない。よろこびである。
「エンタの神様」と言えば土曜夜十時からで、考えてみるとそれは、しばらく前までは「電波少年」の時間帯だった。あれはあれで長年の習慣だったのに消えてしまえば忘れるのは(忘れられるのは)早いものだ。松村がノーアポでタナカマキコを訪ねたりムラヤマの眉毛を切ったりしていた。猿岩石がヤラセだなんてネットで盛り上がったものだった。あのヤラセもインターネットがなかったらもうすこしバレなかったかもしれない。外国に行くときは録画予約していったものだった。野球中継で放送時間がくるってまともに入ってないことのほうが多かったが。デッキを6台使っていた愚かな時代。

 振り返ってみると、テレ朝というのはNET時代からよく演芸番組を流していた。ぼくが中学生のころに毎週楽しみに見ていた落語や漫才の番組はNETがいちばん多かった。その理由は単純だ。当時から「ドラマのTBS」と言われていたし、「シャボン玉ホリデー」に代表される日テレのバラエティは評価が高かった。老舗はそれなりのカラーを持っていたが、後発のNET(なにしろそれは日本教育テレビの略だ)は、獨自のそれを作るだけの金も人材もなかった。よって寄席からそのまま中継するいわば手抜きの演芸番組が多かった。それと、これまた手間暇のかからない洋画放映である。ハリウッド映画にあこがれ、落語漫才大好きのぼくは、あのころずいぶんとNETを見ていた。
 時代劇「素浪人 月影兵庫」も楽しみに見ていた。先日、松方弘樹が父近衛十四郎が亡くなって三十年と言っていた。なんとも時の流れは速い。

 今巻き起こりつつあるお笑いブームが第何次であるとか、そんな知識はぼくにはない。考える気もない。すなおに楽しめるお笑い番組が増えるのがうれしいだけだ。今回のブームの基礎を作ったのは間違いなくNHKの「お笑いオンエアバトル」である。現在活躍中の連中はみなあそこで光っていた連中だ。はなわの弾き語りベースを初めて見たときの奇妙さは今もよく覚えている。

 さて「笑いの金メダル」では、先週アンジャッシュがチャンピオンになった。このままだと今週もまた連覇だろうと読んでいた。実力が抜きんでている。それはよくないことだ。「ボキャブラ天国」も中盤から爆笑問題の獨走のようになってしまった。あの番組のネタだけ田中が全部作っていたってのがほほえましい。もっともブームってのは必ずそうなる。漫才ブームは結局はツービートのそれになっていった。アンジャッシュ獨走は番組のためにもよくない。
 ところが今週は2丁拳銃がいいネタを見せてアンジャッシュを負かした。いいことである。2丁拳銃が東京に住んでもう4年になるなんて知らなかった。
 毎週楽しみにヴィデオにとる番組がひとつ増えたのはうれしいことだ。
(昨年暮れのM-1に関する原稿が半端なままなのを思い出した。仕上げないと。あの効果は多大なもので優勝したフットボールアワーの関東での躍進は著しい。)

 こぶ平の正蔵襲名
 これが発表になったのはいつだったろう。去年の今頃か? 

 これを知ったときまず感じたのは多くの人と同じく大名跡を彼が継ぐことへの素直な(?)不満だった。同時に「なるほど、この手があったか」と感心していた。
 一門の現在の最高権力者・香葉子夫人にとって、最も愛しい名は夫の「三平」である。最も愛しいのはお腹を痛めた我が子「いっ平」である。いっ平に三平の名を継いで欲しい。しかし常識的には三平の名は長男であるこぶ平が継ぐ。父三平を慕うことではこぶ平もまた香葉子夫人に負けない。いかな香葉子夫人でもこぶ平の三平襲名は阻止できまい。そのときにこのニュースだった。これは私からするといわゆる「寝技」とか「ウラトラC」なんて称ばれるものに属する。林家一門の大名跡である正蔵をこぶ平にやれば自然にいっ平に三平が転がり込んでくる。八方丸く収まる。香葉子夫人、してやったりだなと思った。大名跡を継ぐことになったのに記者会見するこぶ平にうれしさは感じられなかった。それは責任感から来る緊張と解釈されたが、私には「おれはほんとは大好きなお父さんの三平を継ぎたかったんだ。だけどかあさんにうまく丸め込まれちまったんだ」というこぶ平の叫びに聞こえた。

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 正蔵が大名跡であり、それをこぶ平が継ぐことが不快だなんてのはどうでもいいことなのではないか、と思うようになったのである。不快の矢はこぶ平から方向を変えて自分に向かって来た。そんなことを考えている自分に対する不快である。この発想の根柢にあるのは、正蔵という名人の名は林家一門の私物ではなく落語ファンすべての宝物である、それを実力不足のこぶ平が継ぐのは先代の正蔵を愛した落語ファンに対する冒瀆である、のような考えかたであろう。落語という藝事の神聖化であり、同時にそれはファンである自分の格つけにも繋がる。この種の奥底にあるのは、対象を持ち上げることによって自分もまた階段を上った気持ちになる感覚だ。それこそ私が生活、人生のすべてから唾棄しようとしている最もくだらんことなのではないか。

 そもそも落語界なんてのはこぶ平が先輩何十人も追い抜いて真打ちになるような世界である。いっ平もしかり。それに意見を言うのはいわば同族会社の息子の出世に他人が口出ししているようなものだ。
 最初にそれを知ったのは志ん朝だったがこれは志ん生の息子、馬生の弟であり、実力者だから納得した。係累ではない小朝がそれをやったときは拍手を送ったものだ。
 なのにこぶ平だと不満が募る。てなことを考えるそもそもが勘違いでありどうでもいいことなのではないか。「いったいおまえは何様なんだ」である。
 同族会社の組織運営に文句のあった談志なんて獨立してちいさな会社を作り、自分が社長になった。家元なんて名乗っている。これが正解だ。所詮そんな世界なのである。
 落語ファンがこぶ平の正蔵襲名に不満を感じるなんてのは、ウチダテマキコが横綱審議委員会のメンバになって、「これ以上こんなことが続くなら横綱を横審に呼びつけて厳重注意します」なんて勘違い発言をするのと同一線上のことである。
 私は、相撲取りや騎手に対して青少年の模範たれと理想の人間像を押しつける世間に、アスリートはその一芸にさえ優れていればそれでいいではないか、と思っているのだから、こぶ平の正蔵襲名に、落語家としての実力ウンヌンなんてことを口にしてはいけない。
 
 単に、じいさんの名を孫が継ぐだけであって、それを他人が「あのじいさんは立派な人だったから、あんなろくでもない孫にその名をあげてはいけない」なんて言うのはよけいなお世話なのである。

 あとでもうすこし書き足して仕上げるが、ともあれ襲名前に自分の意見を書けてよかった。
04/10/13
 おけつがこそばゆい──探偵ナイトスクープ&伊東家の食卓
 以前「探偵ナイトスクープ」のことをすこし書いたことがある。
 深夜に起き出したものの、夕方に呑んだひさしぶりの焼酎で宿酔いである。とてもパソコンに向かうどころではない。しばらくは「ドラクエⅦ」の職業レヴェル上げでもやるかとテレビをつけたら「探偵ナイトスクープ」が始まった。時計を見る。深夜3時15分である。まあ上岡龍太郎が司会をしているころから関東ではこんなとんでもない時間帯ではあった。しかも「この番組は関西で10月1日に放送されたものです」とテロップが出る。二週遅れでこんな深夜。それはいかにこの番組が関東では受けないかの証明だろう。岡部まりもさすがにおばさんになったと感じた。

 あちらではゴールデンタイムであるらしい「さんまのまんま」もこちらでは金曜の午前一時、いや深夜一時(土曜の午前一時)に定着している。これは関西テレビか。
 鶴瓶やざこばが即興落語をやる番組も深夜だった。あと文珍が元ピンポンパンのお姉さんと司会をする番組(このコンビは今の土曜朝八時の日テレ系情報番組にも持ち越されている。私も息のあったいいコンビだと思ったから当然であろう)も深夜だった。この二つと「ナイトスクープ」はみんなテレ朝だから、大阪の朝日放送の人気番組になる。関東と関西のこの落差はおもしろい。
03/11/2
 落語を聞きながら


 病院へ行く際、予定通り図書館に寄り落語のテープを借りる。昨日行こうと思ったが月曜は休館日だった。なにを借りようか迷ったが……、いやじつのところぜんぜん迷うことなく志ん生を借りていた。Jazzならマイルスから始めるようなものか。

 二本。「猫の皿」と「唐茄子屋」、「黄金餅」と「火焔太鼓」。よくできているもので計ったように(計ったのか?)一席が29分30秒なんてのが二席ずつ60分テープに納めてある。
 残念だったのはテープに収録日と場所が書いてないことだった。志ん生は明治二十三年生まれの昭和四十八年(ハイセイコーとオイルショックの年だ)八十三歳で没である。昭和三十六年十二月に脳溢血で倒れ、復帰したが、全盛期のようにはもどれなかった。これはね、しゃべりは脳溢血、脳梗塞をやったら無理だ。三平もそうだったし、オオシマナギサなんかもろれつが回らなくて痛々しい。長嶋ももうあの長嶋節を聞くことはないのかと思うとかなしくなる。

 脳溢血で倒れたのが七十一歳である。のりにのっているこれらの収録を假りに五十歳としたら、その二十一年前であるから昭和十六年になってしまう。そうは思えない。戦前のテープではないと思う。う~む、どうしたらいいんだ。私は録音状態や機材からこれは昭和三十年、三十三年ぐらいのものではないかと思っている。とすると志ん生はもう六十五歳、六十八歳になる。どうなのだろう。まだまだ艶っぽくて四十代、五十代のころの藝に思えるのだが……。
 でもあれだな、NHKが原盤、発売がポリドール。当時の金で二千円もして立派な解説書も着いているのに、肝腎のそれを書いてないってのは落ち度といわれてもしかたないだろう。

 秋晴れのいい日だった。稲のない田圃に秋の陽射しがきらきらする裏道を抜けて走った。(後日母に聞くのだが、これは陸田なのだそうである。陸稲-おかぼ-とはまた違うという。私は陸田と陸稲を同じだと思っていた。)
 窓を開けていた。気分がいい。山は色づきつつある。だいすきなカフェラッテを呑みながら、志ん生の落語に聞き惚れつつ、と書きたいところだが、最初は違っていた。どうやら私のすべての音をBGMにしてしまって考え事にふけるという性癖はかなり根強いらしく、なにを聞いてもすぐに頭の中で文章書きを始めてしまうのである。だからコトバのない音楽のほうがよく、いつしかインストばかりを聞くようになったのだったが、いやはや落語を聞きつつもそれを始めてしまっていた自分に気づいたときはさすがに苦笑した。
 最初の「猫の皿」は話が落ちたときにハっと気づいて聞き直した。知っている話ではあるが流れが解らなくなっていた。このあとは大丈夫だった。帰りに聞いた四話目になる大好きな「唐茄子屋」では声を出して笑ったりもした。

 田舎の図書館だがザッとみたところ百本はあった。毎日往復で二本聞けるが貸し出しが面倒なのでそれは無理。週に四本ぐらいとしても当分たのしめそうである。中にはきらいな落語家もいるし、いつもきょうのようには行くまいが……。

 ところで最近やっとCDの便利さに気づいた私としては(常人の二十年遅れか)やはりCDで聞きたいと思う。新宿のヨドバシカメラだったか、ソフトコーナーにずらりと落語CDが揃っているのを見たことがある。都市部のおおきな図書館だともう落語もCDで揃えている(これはテープで揃えたものを買い直すことになる)のだろうか。らいぶさんにメイルを書いて質問してみよう。
 CDコピーの楽さと便利さに慣れてしまったら今更ダブルカセットでコピーを録る気になれない。とはいえ私の出入りする田舎の図書館にはCD落語はない。となるといよいよ「カセットテープをパソコンに録音するためのアレ」を買うことになるのか。そこからCDに焼ける。安いのだと一万円以下からあるが、やはりテープノイズを消したり出来るいいものが欲しくなってしまう。そうか、競馬で当てて……。ビョーキは続く。
04/11/8
 図書館の落語素材──らいぶさんから 


 私の田舎の図書館は落語がテープのみである。今の時代、中心はCDとDVDであることは知っている。さすがに映像のDVDを公共図書館がどこまで揃えているかは疑問だが、都市部の図書館ではカセットテープではなくCDになっているかもしれない。らいぶさんに問うてみた。以下はらいぶさんが教えてくれたメイルからの抜粋。

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 お尋ねの落語CDの件です。私のところには落語CDが多数あります。カセットテープによる資料はもう購入していないので、新規に購入するものはすべてCDとなっています。東京の公共図書館では、多くの館で落語CDを収集しています。ただし、図書館によってかなり温度差があります。それは所属する地方自治体の「図書館資料収集方針」の違いによるものです。昨今の地方自治体を巡る財政難の中で、図書資料以外の資料(落語CDはAV資料などと図書館では呼んでいますが)の収集を取りやめた図書館もあるようです。因みに私のところは現在も収集中です。

 餘談ですが、私のところでは落語CD以外のAV資料として、音楽CDをはじめ、語学カセット、語学CD、カセットブック、ビデオ、CD-ROM、DVD等も収集しています。ただし、映像資料は著作権上の制約が多いため、積極的に収集しているわけではなく、ほとんどが寄贈されたものであり、内容も政府広報的なものや教育的なものばかりです。
 落語CDは利用者も多く、図書館の中では人気のある資料です。積極的に収集している図書館であれば、かなりの質と量を期待できると思います。残念ながら私のところはそこまでは行っていませんが、それでもかなりの量はあります。都内の公共図書館はそのほとんどがインターネットで蔵書情報を公開しているので(図書資料のみならずAV資料まで)、WEBサイト検索も一つの方法かもしれません。

 以上、簡単な図書館事情でした。大田区はインターネットでの蔵書情報公開を行っていません。東京23区では唯一残った区となってしまいました。区民からの図書館に関する投書の第1位も、「インターネットでの蔵書検索を」ですが、それに区のトップは応えようとしていません。図書館行政には冷たい区ですが、職員は一生懸命です。東京においでの際は、大田区の図書館にも寄ってみてください。地元や品川区とはまた違ったものが発見できるかもしれません。それでは。<らいぶ>


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 そうか、「蔵書情報公開」なんてのもあるんだ。それを調べればどこになにがあるんだかわかるわけだ。あらためてインターネットの便利さを全然利用していないことを痛感する。もっとも私の田舎の図書館はそれをしていないだろうし、していても世話になるほどの規模でもない。と書いていて思いつく。毎日水戸の病院通いをしているのだから水戸の図書館を利用できる。田舎には違いないが県庁所在地だから、いちばんおおきいところに行けばこの辺の町や村とは蔵書の数が違うだろう。そこならもう「CD落語」があるかもしれない。
 品川や目黒、太田の図書館に足をのばそうと思いつつそれをしていないのは、返却日を護りたいという気持ちが強く、今の状態では毎週の上京がむずかしく、それができそうもないからである。先々月から先月にかけては丸一ヶ月以上も東京に行かなかった。ゆけなかった。いや東京どころか徹夜で看病し、昼に少し寝るだけで、どこにも出かけられなかった。今はすこし楽になったが、私は父に最後の時間を自分の家で過ごしてもらいたいと願っているので、いつどうなるかわからない。とてもとても東京でモノを借りてくるなんてことは出来ない。<TSUTAYA>を利用しているのは7泊8日のそれを守れるからである。今は病院がよいの道すがらだからレンタルも返却も簡単だが、そうでない場合でも往復80キロを走るのはたいしたことではない。やはり東京日帰り往復はたいへんなのである。

 きょう早速水戸の図書館に行ってみようか。どこにあるかは知らないが数年前に出来た県庁ビルである可能性は高い。あれがいま茨城県で最も近代的で豪華で高いビルなのではないか。ふざけた話である。都庁ビルもそうだが、お殿様でもあるまいし、公僕がいちばん立派な高いところから民を見下ろすなんて、いったい何様のつもりなのだろう。県庁ビルを見るたびに不愉快になり(田舎のなにもないところにそびえ立っているから遙か彼方からでも見えるのである)、行くこともあるまいと思っていたが行ってみることにした。いずれ入管に関することでも行かねばならないところだし。
 東京並みにCD落語が揃っていることを願う。
04/11/10

「御乱心」三遊亭円丈
 出たのは昭和61年の春。三遊亭圓生一門が真打ちを大量生産する柳家小さん会長の落語協会の方針と対立して獨立するときの裏話である。内容はほとんど円楽の悪口だ(笑)。この数年前、落語協会から獨立した三遊協会の仕事と関わったこともあり当時新刊を買って読んだ。その後の本整理で捨ててしまった。
 きょう田舎の図書館にあったので借りてきた。こんなものがあるのも田舎らしくていい。当時はけっこう借り手がいたようだ。一気に読み終えた。十八年経っていると思うところもあり、当時とはまた違った感想を持った。

 私は圓生のファンだった。生前の師匠と単なる仕事の打ち合わせであるが、なんどか電話で話せたのは宝物である。初めて掛けたとき、弟子が出るのかとも思ったらいきなり師匠が出たのであがってしまいおろおろしたものだった。だって電話の向こうであの口調なのである。私はそのときちいさな企画会社で、新宿のホールでやる三遊協会の落語会を担当していた。寄席から閉め出された三遊協会はそういうシティホールで食ってゆかねばならなかった。電話は色物藝人の出演確認のためだった。予定では三球・照代になっていたが確認がとれていなかった。まだでしょうか、とせかす電話を掛けたら、いきなり師匠が「んなこといっても、あーた」と話し出したので、うっとりした(笑)。

 円丈のこの本は極めてドライに書かれており──十分にウェットだと言う人もいるかもしれないが──円楽や談志をボロクソに言うのはいいのだが、圓生までそうなってくると、当時はなんとも納得できない面もあった。今は円丈の怒りも、圓生なりに円丈を評価している点もそこはかとなく伝わってくるし、また死に対して泣かない円丈の気持ちも、なんとなくわかるような気もする。
 まさかこの本を読み返す日が来るとは思わなかった。人生なにがあるかわからん。

【附記】11/15 真打ちの名前
 忘れないうちに印象的だったいくつかをメモしておこう。
 まずこの本で圓窓がどっちつかずの裏切り者と書かれているが、私は当時からあの人の風貌が好きではなかった。円窓が落語がうまく、本格派として高く評価されているころから、どうにもあの人の顔が嫌いだった。ちいさな会社の意地悪い庶務課長みたいな雰囲気の人だ。志ん朝や談志のような風格も才気も感じなかった。円丈の話は意外ではない。

 円丈の前座、二つ目での名は「ぬぅ生」である。ぬうっとしているからだって(笑)。「ヌウショウ……。まるで世間におれはバカでーすと言っているような名前だ」と嫌っていた本人もいつしか気に入り、真打ちになれるってんでこの名で行こうとする。「初代 ぬぅ生」だ。それは許されず、師匠からいくつかの候補名をあげられる。ひとつを押しつけられるのではなくいくらか選択の餘地があるってのがおもしろい。この真打ちの名前を決めるくだりはこの本の中でいちばん笑ったところだ。

 ぬぅ生がだめなので圓生の流れから「ぬぅ円」はどうかと円丈が提案すると、師匠が「そんな中華料理店みたいな名前はダメ」。笑える。
 師匠の提示する「円駒」は「芸者みたい」と円丈がことわる。
円兵衛」「円左衛門」は、「天保二年の飢饉の時に餓死しそうな名前で」と円丈がことわる。
円筆」は、「エンピツ、そりゃちょっと……」となかなか決まらない。
円佐」といういい響きの名が出て決まりそうになる。しかし師匠が言う。「ただこの名前、先代、先々代と狂い死にしている」。円丈、びびる。笑えるなあ。

 そうやってやっと「円丈」の名が出る。初代、二代目といたそうだ。「すると師匠、わたしは三代目って事ですか」「いや、二人とも売れないってんで三月でこの名を替えている。そんな奴らのことは気にすることはない」ということで「初代 円丈」になったとか。楽しめた。

 いま落語協会のホームページに繋ぎ、会員の名を見ていたら「ぬぅ生」があったのでおどろいた。円丈の弟子なのだろう。師匠の若い日の名前をもらえてうれしいだろうか。これはこれで落語の常だけれど、圓生が若いころの円丈の外見からつけた名だから、ぬぅ生は一代で封印するのもありかなと思ったりする。いや、こうして使うことこそ師匠孝行なのか、とも思ったりする。あ、「ぬぅ生」は二つ目になって、2004年11月からだって。ホットなネタだった(笑)。

 林家正蔵(三平の父)と圓生が仲が悪かったの有名だが、ライヴァル心を燃やしていて絡んできたのは正蔵のほうで、と実態を知っている人が書くと生々しかった。

 いちばん印象的だったのは、円丈の「三遊亭」に対する誇りとこだわり。何度も「おれは柳家とともに落語会を二百五十年引っ張ってきた三遊亭の噺家なのだ」という言い回しが出てくる。以下、「御乱心」より引用。

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 俺はかなり物事をリベラルに考える方だが、その逆に物凄く小さなセクト主義者なのだ。俺は落語協会さえよければ、芸協が潰れようが、大阪の芸人が絶減しようが、そんなことはいっこう平気なんだ。俺は落語協会員であることが誇りだったし、こよなく愛し、落語協会は俺の母なる大地だった。俺は落語協会中心主義者だった。

 しかし、それより強く何より為して俺は二百五十年続いた三遊亭の噺家だということに強い誇りを持っていた。俺は柳家ではない、古今亭でも桂でも林家でもない。落語界を二百五十年、柳家と勢力を二分して来た三遊亭なのだ。三遊でも枝葉ではない三遊本流の円生の流れをくむ噺家だ。たとえ三遊亭にたまたま入門しようが、俺が新作を志し、高座を這いずり廻ろうが、十三年間叩き込まれた芸は、たとえどんな形にしろ、俺の血となって全身を駆けめぐっているのだ。こんな感じは多分理解出来ないだろう。出来なくても俺は三遊の芸人だ。俺は、プライドの高い三遊ナショナリストだ。

 極論すれぱ三遊国粋主義者だ。三遊派は落語が存在し続ける限り、永遠に一方の雄として繁栄を続けねばならない、という固い信念を持っていた。
 だが現実は、旭生、梅生を円弥の預かり弟子にというささやかな願いすら叶えられなかった。
(中略)

 三遊国粋主義者の俺から見れぼ、円生も円楽も円窓もみんな大バカヤローだ!
 第一、円楽など所詮、先代円歌に弟子入りを断られ、円生の所に来た枝葉の奴だし、円窓は、先代柳枝に死なれてやって来た預かり弟子だ。俺は違う。先代柳家つばめを知人から紹介され、その弟子入りを断って円生に入門した、三遊本流で純粋培養された子飼いの弟子なのだ。
 お前らなどに三遊本流を潰されたた俺の悔やしさがわかってたまるか。円生は三遊国粋主義者の俺の意見を聞いておれぱよかったのだ。

 落語界百年の計の為という前に何故、三遊派の勢力温存を計らなかったのだ。しかも戦いに負けた時に、たとえ土下座して地面に顔をこすりつけ泥水をすすろうと、三遊本流二百五十年の為にもどらなければならなかった。それが自分の面子の為に頭を下げられず、弟子をバラバラにし、三遊本流二百五十年の流れを止めて、自分勝手に死んでった。

 我が師六代目円生を絶対に許さん! 三遊亭は、六代目円生の為にだけあるんじゃない。円生は全部で六人いた。その六人目の円生は、自分勝手に潰してしまって他の五人の円生にどう申し訳が立っんだ。そして三遊本流の不世出の名人、落語界中興の祖、円朝に顔向けが出来るのか!
 円生は三遊本流の総帥なのだ。何時も三遊派の繁栄を考えて、先を読み、次の世代に円生を継承Lて行かねぽならない。
 その立場にある円生は、俺達を惨めな戦争孤児にLてLまい、落語協会にもどる弟子達は、三遊難民なのだ。いくら円楽、談志にそそのかされたとはいえ、六代目円生を三遊国粋主義者の俺は、絶対許さん。

 だが復帰するに当たり俺は、この三遊国粋主義を捨てるしかなかった。かつて繁栄を続けて来た三遊本流は、もう過去の夢なのだ。そして三遊派の俺達が戴くべき七代目円生は、永久に現われないのだ。それに円弥を中心として小さな枝葉にすらなれなかった。
 今の俺は、反逆者円生の弟子という烙印を押された一人の惨めな戦争孤児だ。それが落語協会みなしごに拾われて協会預かりという、難民キャンプに収容された孤獨な孤児だ。
 我が愛する祖国三遊本流は、戦争で減亡してしまった。一体俺が何をしたというのだ。俺の何処がいけないというのだ。俺の祖国は、何故なくなってしまったのだ。あんなに愛した三遊祖国は何処へ消えてLまったのだ。俺は祖国三遊が欲Lい。俺の祖国を返せッ。
 バカヤロッー
 円生のバカヤロー!

 
11/10
「落語手帳」矢野誠一
 自分で決めて始めた勉強だが、こんなのって意味があるのかと早くも疑問。こんな落語雑学を身につけても、しったかぶりの嫌みなオヤジになるだけではないのか。そう思いつつも、「猫の皿──これは関東の話で、こちらでこれをやったのは私が最初かもしれません。──米朝」なんて挿話を読んだだけで、早くもひとつえらくなったような気分になっている。やめたほうがいいのか。

 と悩んでいたら、「おれには忘却という強い味方があったんだ」と思いついた。上の写真にあるジャズ本を開けると、まるで受験参考書のように、「トランペット名盤100枚」の70枚ぐらいに蛍光ペンでチェックがしてある。自分が聴いたものを一枚一枚色塗りしていったのだ。蛍光ペンの色が水色から緑色と変るのは聴いた年度が違うのだろう。何年もに渡って蓄えた知識だ。

 しかし十数年後の今、全部忘れている。高校時代の英語辞書の単語を全部忘れているように。だから今も辞書のように手にしては助けてもらっている。何回聴いたかわからないSomething Elseの「枯葉」ですら、マイルスとアダレイ、ドラムのブレイキー以外は忘れていて、え~と、いま確かめる、ピアノがハンク・ジョーンズ、ベースがサム・ジョーンズ、と確認するありさまだ。つまり「こんな知識を蓄えたら嫌みなオヤジになってしまうのでは」と心配しなくてもこの頭の悪さでは覚えるそばから忘れてゆくから成りたくてもなれないだろう。「なってしまうのでは」は買いかぶりである。安心して読むことにしよう。
11/10
「寄席放浪記」色川武大

 その点これはそういう入門書、雑学書ではなく、尊敬する色川さんがチビチビと書きためた色川さん流の藝人思い出話だから安心できる。まだすこししか読んでないが、たとえば立川談志の項で、「先代のイメージが強いので今の談志になかなかなじめない」と出てくるとすごいなあと思ってしまう。先代はしらんわね、わたしも。
 そういえばこの図書館で色川さんがヴィデオで見た映画について書いている一冊があった。生前、かなりのヴィデオ映画コレクタだった。あれもこんど借りてこよう。色川さんにはもっと長生きしていろいろ書いてもらいたかった。いまだに阿佐田哲也のほうでも追いつける人はいない。いやいやそれこそ{坊や哲}の再ブームか。本物はいつだって輝き続ける。

04/11/11 県立図書館に行く

 さて今日の目的である落語CDの話。写真のようにずらりと揃っているのをみて驚喜したが、もういちどじみじみと演者を見て頭の中にハテナマークが連続した。どういうことだろう。つまり品揃えについてなのであるが……。

 大好きな、いや尊敬していると言っていい米朝の全集があるのは当然としても、小米朝、吉朝、小南、枝雀、雀々、雀三郎、ざこば、南光、文珍、仁鶴、はあ?「桂三枝全集」……。
 いったいここはどこなんだ。おれは雀々、雀三郎なんてしらないぞ。いやそれはいいんだ、彼らが思ったよりもうまい人であたらしい喜びを与えてくれるかも知れない。落語のCDがいっぱいあって、関西系も充実しているなら、それは喜ばしい。でもそうじゃない。関西系がずらりと勢揃いして、音楽やいろいろなCD棚の中で5列ぐらい占拠している中、関東は唯一談志が1列50枚ぐらい全集で揃っているが、あとはもうちょぼちょぼなのである。
 志ん生、圓生、志ん朝が5枚程度ずつ、金馬、文楽が2、3枚ある。それに比してなんと関西系の充実していることか。なんで志ん朝が三枝の足元にも及ばず、文珍や枝雀の半分もないんだ。歪んでる。偏っている。いくらなんでもこれはひどいだろう。文珍で15枚、三枝にいたっては全集のほかに、「三枝爆笑なんとか集」なんてのまで数枚ある。なのに関東の名人クラスはまったくない。どういうことなんだ、いったい! ここは茨城県の県立図書館だろうが!! 担当者は大阪人か。担当者によってこういう品揃えはいじれるのだろうか。なんとも不可解である。らいぶさんに質問してみよう。

 田舎の図書館の品揃え
04/11/13
 
 「志ん生の忘れもの」小島貞二

 「背中の志ん生」古今亭圓菊
 脳溢血から再起した志ん生は、頭は確かだが躰が不自由になった。それを弟子の圓菊が背負って寄席に出入りした、というのは有名な話なので逸話自体はよく知っていたが、当時の志ん生が60キロあり、背負っていた圓菊が52キロだと初めて知った。重かったことだろう。感覚として、晩年の志ん生が50キロ以下、がっちりしているように見える圓菊が70キロと思っていた。
04/11/15
 「唐茄子屋」覚書

(私は「おぼえがき」を「覚え書き」と書きたいのだが、辞書によると覚書のほうが正しいようである。これだとカクショに思えてしまう。だったらひらかなで書くのか。でも英語じゃ軽いものも戦争の議定書に使う場合もmemorandumでしかないようだ。だったらメモでいいのか?)

 過日、ふと落語を聞こうと思い立ち、図書館でテープを借りる。大好きな志ん生から始めた。クルマの中で「唐茄子屋」を聞き、思わず笑ってしまったのは予想外のことだった。私がいわゆる「お笑い」で笑うことはめったにない。かといって批判ばかりしている皮肉屋なわけでもない。お笑い番組は人一倍好きだし充分に楽しんでいるのだが、批評眼が錬れていることと、父譲りの「表情のあまり変化しない人」であることから、テレビを見たりラジオを聞いたりして笑うとか怒るなんてことはまずないのである。
 なのに笑ってしまった。めったにない。それで考えた。それは「子供のころからさんざん聞き飽きるほど聞いてきたものなのに、いまこうして見直すのだから落語ってのは奥が深いなあ」であり、「子供のころはたいしておもしろいと思わなかったものをこんなにおもしろく感じるのは、年を取って世の中がわかってきたからだろう」だった。落語の奥が深いのも真実なら私が当時と比べて廓話関連を理解できる年齢になっているのもたしかである。そのときはそう思っていた。
 私なりに「唐茄子屋」を聞き比べ勉強してシンプルな正解にたどりついた。それはたったひとこと「志ん生がおもしろい」である。それだけだ。

 きょう、志ん生、圓生、馬生、志ん朝に続いて金馬と圓菊の「唐茄子屋」を聞いてそう結論した。圓生はうまいし、志ん生の弟子であり息子である志ん朝はオヤジよりもおしゃれだったりする。だからそのときからこの結論は持っていたのだが「もしかして」があるから口に出来なかった。きょうの金馬と圓菊で確信した。

 金馬はめりはりの利いたしゃべり方をする。野太い通りのいい聲だ。武家ものなんかやったらうまいのだろう。この金馬は三代目で、いまのが四代目なのか。なにしろこのNHKが出している素材には「先代 金馬」と書いてある。ひどい話だ。いかにもNHKらしい手抜きである。四代目金馬は「お笑い三人組」の「はっちゃん」のころから知っている。そのころからしゃがれ声、だみ声で嫌いだった。テレビの高座もつまらなかった。あの人の落語を聞く気はない。子供のころ見ていたハゲ頭の師匠にはもうすこし期待したが……。

 三代目金馬の「浮世床」と「唐茄子屋政談」を聞いたが、くすりとも笑うところはなかった。なによりその威勢のいい野太い聲で主人公の「とく」が叱られると、クルマの中で私まで叱られているようで、いや怒鳴りつけられているようで、楽しむどころではない。すこしも粋とは思わなかった。笑うどころの話ではない。会場も沸いていなかった。当時はたいそうな人気者だったらしいが。


 志ん生を背負って楽屋入りする圓菊。左は同じく晩年はいつも付き添っていた娘の美濃部美津子さん。そこはかとなく雰囲気が志ん朝に似ている。貴重な、いい写真である。 「背中の志ん生」より。

 圓菊には期待があった。円丈の本に附録でついていた落語家の系図を見ると、馬生、志ん朝に負けないぐらい、圓菊も六人の弟子を持っている。みな菊の名を与えているようだ。昭和六十一年の本だから今はもっと増えてだいぶ様子も変ったろう。この時点でもう馬生は亡くなっている。五十代だ。志ん生は八十四まで生きたのに息子二人は早世である。「志ん生の忘れもの」によると、志ん生の名を継ぐと本人が決めたとき、それ以前の志ん生が早死にだったのでおかみさんは反対したという。五代目志ん生は見事にそれまでの志ん生早死に説を打ち消したが、すぐれた噺家のふたりの息子の早世がかなしい。
 圓菊と師匠の長男だった馬生は同い年である。昭和三年生まれだ。二十四で入門したときもう同い年の馬生は真打ちであり自分は駆け出しの前座であることから、同い年ではあまりにつらいと、圓菊は昭和四年生まれと鯖を読みひとつ年下にしたらしい。そのことで馬生との格差を納得するようにした。と「背中の志ん生」で告白していた。

 このとき末息子の志ん朝は獨協高校の一年生。「外交官になってオヤジを築地の料亭に連れてってやる」が口癖で志ん生夫婦も溺愛していたとか。やがて高校卒業と共に入門し、五年後、二十三で真打ちになる。圓菊は志ん朝を天才の息子だけあってものがちがっていたと絶賛しているし、じっさい志ん朝のすばらしさは非の打ち所がないのだが、圓菊が真打ちとなって二代目圓菊を襲名するのはその五年後、三十八の時だから、自分が入門したとき落語のらの字も知らない師匠の息子、高校生の坊やが、あとから入門してたった五年で真打ちになってゆくのを十三年間見ているのはつらいものもあったろう。もっともこのときの志ん朝は歴史的な何十人抜きかの出世だったし、ここまでの名人だから納得はしていたろうが。当時の志ん朝はワイドショーの司会をやってみたりあらゆることに挑戦していた。並べて語りたくはないが、いま小朝がやっていることの先鞭をつけたのは志ん朝である。

 子供のころ見た圓菊はおもしろくなかった。なにより公務員みたいな風貌であり落語家とも思えない。でもそれから三十年経っている。素材は当時のものだが私のほうに三十年の歳月がある。今の私なら楽しめるのかもと思った。なにしろ志ん生の弟子の中でも、中風から復帰した師匠を背負って寄席に通ったという息子よりも身近な弟子である。圓菊だけが受け継いだものがあるかも、と期待した。
 なにもなかった。やっぱりこの人、なにか勘違いしている。めちゃくちゃ威勢がよくて聲がでかい。二日間飲み食いできずふらふらで、着物も草履も垢汚れして、もうだめだと橋から身投げしようとする「とく」の、「もうこうなったら死んじまおうか」の部分も、侍相手に大見得を切る一新太助みたいに威勢がいい。飯をたっぷり食い精力が有りあまってる運動部の学生みたいだ。あほらしい。思わず「おいおい」と言いたくなった。ひどい言いかたをするが、こういう人は基本的に勘違いしていて、それはぜったいに直らないものなのだろう。緩急の間がない。いつでも大声で突っ走る。志ん生の当意即妙に変化し、ふわっと舞う感覚が、ちょうど聞いていたcobaの変化自在のアコーディオンと重なった。圓菊が楽器をやっても突撃ラッパしか吹けまい。私が思わず笑ってしまった志ん生の「吉原田んぼでのひとりごと」も、師匠のが、吉原での太夫との差しつ差されつの甘い思い出をいちゃいちゃむふふとひとり芝居で演じつつ、思い出したように言う気の抜けたような「とうなす~」で笑わせるのに対し、太夫との思い出話は剣道の稽古でもしているみたいに一本道だし、「とうなす──」も大声で喚いている。笑うどころの話じゃない。他流派ならわかるが、志ん生の最も身近にいた弟子である。いったいこの人は師匠から何を学んだのだろう。最後まで聞いたが、金馬も圓菊も途中で止めたくなった。

 ただこの種のタイプの落語家って意外に多いのである。こどものときから冗談がうまくみんなを笑わせクラスの人気者だったなんてタイプはあまり落語家になっていない。むしろそれが出来ないのが落語を学んでみんなを一度でいいから笑わせてみたい、でなったりする。この人、そっちのようだ。たけしやさんまのような才人はあっちに行ってしまい、落語には来ない。著書の経歴で見ると、厚生大臣賞だとか都民功労賞をもらい、手話落語を作り出し、長年刑務所を慰問している。まちがいなく「いい人」なのである。弟子にとってもやさしいいい師匠であろう。きっと常識人であり人徳のある人だ。私なんかインタヴュウしたら人柄に惹かれ即座にファンになるだろう。だが落語はおもしろくない。そこはこっちも譲れない。

 と、批判をするのが目的ではないのでもうやめる。言いたいことは以下。
「唐茄子屋」「唐茄子屋政談」に関する私の結論。どうにも大岡政談からもってきたという「政談」のほうはとってつけたような流れになっていてどうでもいい。楽しい話でもないし。圓生の覚書にあるという「とにかくあたくしは”政談”は聞いたことがないし、もともとあったのかどうか、あったとしてもごく短いものだったんじゃないでしょうか」に尽きる。これで充分。あの圓生が聞いたことがないといっているのだから。
「唐茄子屋」は、遊びが過ぎて勘当になった若旦那の苦労話とし、聞き所は偶然の出会いから一緒に唐茄子を売ってくれる江戸っ子の人情、田んぼでの回想のくすぐり、と割り切れば、志ん生に尽きる、とこれを結論にしたい。

【附記】 11/15 ほんまかいな
 「背中の志ん生」を読んでいたら、終いのほうに、「最近ますます師匠に似てきたって言われるようになりました。自分じゃあまりそうも思わないんですが、やはりあれだけ師匠の身近にいましたから」とあった。眉唾としか思えない。ほんまかいなである。そりゃ圓菊も七十半ばだし、この本を書いたときは(この本、書いてないな。しゃべりから誰かが構成したものだ。タレント本に似ている)七十ぐらいだから、私の聞いた三十年前とはだいぶ変っているだろうが、基本的なものはそうそう変るものではない。やはり今でもやたら威勢がいいのではないかと思う。どれぐらい変ったのか聞いてみたい気もするが。

04/11/15
 メディアの心遣い──収録時期の重要性

 落語を聞くのに私が手にしたメディアの発売元はNHKとビクターとコロンビア、ポニーキャニオン、アポロンミュージックである。アポロンてなつかしいな、あの「8トラック」の会社じゃないか。学生のとき歌で回った北海道別海の酪農家が、乳の出がよくなると8トラックで牛にモーツァルトを聞かせていたっけ。
 総じて思うのは、もっと素材の収録場所をきちんとしておいてもらいたいと言うことだ。図書館のものであるから、中には解説書が紛失してしてしまっていていつの音源なのかまったくわからないものもあり(これは私が新品を買えばいいことではあるが)難儀した。
 いろいろ調べてみると、収録場所をパッケージ(外装)にだけ書いて解説書には書かないものもあれば、解説書にだけ書いてパッケージやCD本体には書かないものと、いくつかのパターンがあることに気づいた。私は解説書のないものを借りてきたりして苦労したのだが、最初からCDそのものにもそれらを記録しておけば問題ないとも言える。つまりはっきり言っちまえば、その辺に最初から気を遣ってないのである。どうにも作りが雑だ。しかしそれは当時誰もそんなことは気にしなかったということだろう。

 桂米朝全集を出している会社(失念。後日記入──東芝EMI))はすばらしい。語りをすべて活字で採録した小本を附けているのである。これならわからない古い言い回しや見知らぬ地名も字で確認できる。ただしこれ平成元年のソースだから音声もいいし、あえて確認するほどのものもない。とはいえこの姿勢はすばらしい。古い作品にこれがあると最高なのだが、それは高望みか。

 漫然と聞いていてハッとしたことがあった。志ん生の「らくだ」である。それまでのものと口調が変っていた。口の中に泡がいっぱいたまっているようなしゃべり方なのである。ずいぶんと聞きづらい。それまで聞いてきたのが「脳溢血前」であり、これは「奇蹟的な復活後」なのだなと思った。調べて、昭和三十八年の音源だと分かった。
 志ん生は昭和三十六年に倒れている。七十一歳。三十八年に復帰。(正しくは三十六年の十二月に倒れて、三十七年の十一月に復帰。)圓菊が背負って歩く。四十三年からはもう高座に立たなかった。亡くなったのが四十八年。長男の馬生は「戦争中がいちばんうまかった」と言ったそうだ。評論家・保田武宏は「人気と本人の気力を加味すると昭和三十一年が一番充実していたと思う」と書いている。そこから倒れる昭和三十六年までが全盛であろうと。
 十六回の改名を経て五代目志ん生を名乗ったのが四十九歳の時。全盛期に年齢を当てはめると、六十六歳になる。先日聞いた「ローマの休日」と同じ年の絶品「茶金」は昭和二十八年。六十三歳。長男・馬生がいちばんうまかったと褒めた戦争中が五十代になる。満洲に慰問に行った昭和二十年、五十五歳のときはどんなだったのだろう。いずれにせよ放蕩の限りを尽くしてたどり着いた遅咲きの名人の座だった。
 「志ん生の忘れもの」によると、この満洲の時、圓生と一緒に慰問し、敗戦のあと、満洲で志ん生、圓生、司会がNHKの若手アナ、森繁久弥というファン垂涎の豪華な会が何度も実現しているとか。

 メディアに収録場所を明示してもらいたいと願うのは、色川武大さんが書かれている以下のようなことがあるからだ。収録してみる。他人の文を書き写すって近眼老眼が混じっている私にはけっこうたいへんなことになる。かといってスキャンはしたくない。
 といって何行か抜き出そうとしていたら<あまりに隙のない名文なので全文コピーして掲載することにした。スキャナをセットして接続し、ひさしぶりの大仕事である。色川さんの落語論をお楽しみください
04/11/15
『寄席放浪記』──色川武大──廣済堂(1986年刊)

名人文楽
 暑いにつけ寒いにつけ、桂文楽を思い出す。落語は季のものだから、どうも四季おりおりに思い出すきっかけが埋まっている。この本はなるべくポピュラーでない人、今活字にしておかないと忘れられるままになってしまいそうな人をあつかうつもりでいたが、"なつかしい芸人たち"に桂文楽が出てきてわるいという理由はひとつもない。

 つくづく思うけれども、昭和の落語家では文楽と志ん生が抜き出た存在だな。そのもっとも大きな理由は、二人ともそれぞれのやりかたで、自分の落語を造りあげたことにあると思う。古典の方に自分から寄っていってしがみつくのではなくて、自分の方に古典落語をひっぱり寄せた。
 古典というものは(落語に限らず)前代の口跡をただ継承しているだけでは、古典の伝承にはならない。前代のコピーでは必ずいつか死滅するか、無形文化財のようなものと化して烈しい命脈を失ってしまう。リレーというものはそうではないので、その時代に応じて新しい演者が、それぞれの個性、それぞれの感性で活かし直していく、それではじめて古典が伝承されていくのである。
 志ん生は天衣無縫の個性で、たくまずして新装した。志ん生の演じる「火炎太鼓」や「ずっこけ」や「風呂敷」や「お直し」は、それ以前の演者からは聞けなかった。私はあれは新作といっていいと思う。そうして志ん生自身がどう思っていたかしらないが、志ん生の口跡に残っている前代のコピー的部分は、どちらかといえば邪魔な部分だった。

 桂文楽は典型的な古典と思われているようだけれども、あれはコピーではないのである。速記本で前代の演者が同じ演目を演じているのを見ると、そのちがいがわかる。
 たとえば「寝床」は、往年は、周辺を辞易させる旦那の素人義太夫の方に力点がかかっていた。文楽のは旦那と長屋衆の心理のおかしさが見せ場になっている。「素人鰻」も、鰻をあやつるおかしさよりも、職人の酒癖と武家の主人の対応の話に主点が移されている。「鰻の幇間」や「つるつる」の主人公たちのわびしさ、「干物箱」の善公、「愛宕山」の一八、「明烏」の遊冶郎ご両人、その他いずれの登場人物たちも前代のそれより陰影が濃くなっている。それはただワザの練達だけではない。

 権力機構からはずれた庶民、特に街の底辺に下積みで暮さざるをえない下層庶民の口惜しさ、切なさが、どの演目にもみなぎっている。その切なさの極が形式に昇華されて笑いになっている。「厩火事」のおしまいにちょっとしか出てこない髪結いの亭主だって、その影を話の上に大きく落している。文楽の落語はいつも(女性が大役で出てきても)男の(彼自身)眩きだ。それが文楽の命題であったろう。

 そういえば志ん生の落語も男の語りである。ひと口に個性といっても、彼の個性は庶民のはずれ物に共通する広がりがある。落語は代々こうした男たちの眩きが形式化されたものなのであろうが、文楽と志ん生は、大正から昭和にかけでのこうした男たちの代弁者になった。特に文楽は、命題に沿って意識的にアングルを変え、ディテールを変えている。
古典落語と綱引をやるように互いに引っ張り合い、膂力で自分の命題の方に引き寄せてしまった。そうして結果的に古典落語を衰亡から守った。そこがすごい。

 落語はジャズに似ている。特に古典はジャズにおけるスタンダードのようなものか。もはや原曲のままでは通用しない。同じ材料から、各人各様の命題により、或いは個性により、獨特の旋律を生みだす。それが、なによりも古典落語というものである。
 文楽は、演目がすくなかった。本質的には不器用の人ともいわれた。そうして、絢欄たるワザの人ともいわれている。もちろん、すばらしい表現力に感嘆するけれども、その手前に、古い話をどうやって自分の命題に沿った形に造り直すかという問題があったはずである。私はむしろ、その点が演目のすくない理由だったと思う。自分の命題に沿えない話は演じない。そのうえ、ジャズがあくまでジャズであるように、あくまで古典落語として造り直すのである。いったん造り直した落語を、形式的に昇華するまで練る。これにも時間がかかったろう。そうしてそんな命題を表面にはケも見せない。

 ワザだけの伝承者ならば、才のある人はまだ他にも居る。いったん命題化し、それに沿って形象化するというむずかしい作業をやっている落語家が他に居るだろうか。不器用といわれ、たしかに時間がかかり、苦闘もしたけれど、それは当然のことではあるまいか。
 たとえば円生は、芸界の家に生まれ、芸に生きることを当然として育った。円生の芸は、芸の道を本筋として考える人の芸だったと思う。文楽や志ん生は、ただの庶民の子で、自分流の生き方をつかむまでじたばたし、手探りで芸の道に来た。せんかたないことながらそこがちがう。彼等はもともと特殊人ではなくて、普通人のはずれ者なのである。この点、当代の志ん朝と談志にはめると、どんなことがいえるだろうか。

 文楽は苦闘し、志ん生の個性は形になるに時を要し、三木助も開花したのは晩年に近かった。一方また逆に、若くしてワザが練達してしまう人が居る。こういう人は簡単に(でもなかろうが)ある点に達し、そこからが停頓の恰好になる。そういう例は古今に多い。はたして当代の落語家、何を感じるや。

 もう一言、蛇足であるが、桂文楽について私は尊敬する故に、ぜひ記しておきたい。文楽が入れ歯を入れる以前の芸を、今の若い人に見せたかった。昭和三十六年以前の芸である。この前七、八年間の桂文楽が最上の、すなわち本物の文楽であり、入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、正真の文楽とは認めがたい。LPなどをお求めの節は、ぜひ録音年月日をたしかめていただきたい。三十六年より以前の文楽のLPレコード乃至ヴィデオテープは、私にとって国宝級のものである。

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 私の言いたかった「収録場所、時間の明記の重要性」は結びに、いや「蛇足」に書かれている。桂文楽を聞くならぜひとも入れ歯になる昭和三十六年以前のものを、と色川さんは強調している。
 別項にある志ん生の項では、復帰後の志ん生はまたべつの味わいを出していると、文楽の入れ歯とは違い、脳溢血以前以後は気にしていないようだ。そうかもしれない。なにしろ高座で寝てしまっても許された人だから、くしゃくしゃしたしゃべりになってもファンはそれもまた楽しかったのだろう。私はまだそこまで達観していない。明らかに昭和三十六年以前のほうがいい。言葉にめりはりがある。聞くだけ聞いてそれを堪能したあとなら復帰後のくしゃくしゃも楽しめるかも知れない。
 と書いて気づいた。文楽が入れ歯になるのと志ん生が脳溢血で倒れるのはともに昭和三十六年なのか。当面は倒れる前の作品を意識的に聞いてみようと思う。

 いま聞いている文楽の音源を調べてみたら昭和三十七年だった。惜しい、入れ歯になっている。
04/11/15
 図書館員の自由裁量はどこまでか!? 

 先日らいぶさんに尋ねたことに返事が届いた。らいぶさん、ありがとう。
 質問は「県立図書館の落語の品揃えがあまりに偏っている。たとえば桂三枝好きな職員が、いかにも三枝の落語CDのリクエストが多いように操作して、公費で自分の好きな三枝の全集を揃える、というようなことは可能でしょうか」というものだった。以下はらいぶさんの答。

 お尋ねの件ですが、一般論としてひとりの図書館員の好みで図書館の蔵書が構成されることはありえません。というのも、資料購入にあたっては複数の人間が決定に関与するからです。通常は経験豊かな司書数名で構成する「選書会議」で購入候補を決定し、最終的には図書館長の判断で購入することが多いようです。図書館資料を廃棄する場合も同様で、一人の判断では廃棄できないはずです。 ただし、これはあくまで建前であって、職員数や予算規模の少ない図書館では、上記のプロセスが一部省略されることもありがちなようです。どこかの図書館でおこった「焚書事件」も記憶に新しいところです。あってはならないことですが。

 また、図書資料とAV資料では若干事情が異なります。一般の利用者からのリクエストも、図書については原則すべて受けつけますが、音楽CD等のAV資料は、リクエストを受けつけない図書館もあります。因みに私のところでもAV資料のリクエストは一切受けていません。予算の関係もあるのですが、公共図書館では図書資料を主としてその他の資料(AV資料等)を従とする場合が多いようです。ですから、図書については十分に吟味して購入するが、AV資料はそれなりに(適当に…)というのもありがちなことと思われます。経験を積んだ司書でも、落語や音楽に造詣があるとも限りません。

 話は少し変わりますが、私の図書館にも先日利用者からクレームがつきました。JAZZCDの構成が偏ってる、マニアックなものが多数あるが、スタンダードナンバーがあまりない、というものでした。音楽CDは経年劣化により廃棄する場合があります。スタンダードナンバーの多くはこうした経緯で廃棄され、その後買い替えをしなかったため、マニアックなものが多く残ったということもあります。書き込みや切り取りのため廃棄された図書の場合は、即時に同じものを買い替えることが多いのですが、AV資料はそのままといったこともありがちです。またその方面に詳しい職員が十分でないといったこともあります。

 県立図書館のような職員数も予算規模も大きい公共図書館で、収集資料の偏りがあるというのは私にとっても驚きです。上記のような理由か、たまたま落語に詳しい職員がいなかったのか、頭を悩ませます(笑)。いずれにしても公共図書館は、その自治体の「図書館のあり方」のような方向性によって違いが大きくなっています。情報発信を目標に、様々な企画や方向性を打ち出している図書館もあれば、言葉は悪いのですが「無料貸本屋」に徹している図書館、方向性も何も無く以前からの踏襲に固執する図書館、さまざまです。そういったわけで、図書館の蔵書構成も図書館によってかなりばらつきがあるということになります。

 以上思ったことを書きました。お答えになっているか、甚だ疑問ですがご容赦ください。私の場合は図書館学を学んだことも無く、当然司書資格もありません。こんな職員でも5年経てば「ヴェテラン」とみなされ、様々なことを要求されます。専門知識や資格を持つ職員も年限が来れば別の職場に移動です。今私が行っている講座の講師も元図書館員ですが、図書館から税務関係の職場に移動になり、職を辞して大学の非常勤講師として図書館学を学生に教えている人です。
 自治体によって程度の違いはありますが、公共図書館の抱える課題は大きいといわざるをえません。              <らいぶ>


 どこかの図書館でおこった「焚書事件」
 船橋西図書館で、左翼系の職員(図書館はサヨク系が多い)が、自分たちの意に添わない西尾幹二や井沢元彦等の書籍──私の大好きなものになりますが(笑)──をかってに大量処分したことが発覚し問題になった事件。
 私はこの事件そのものはよくあること(よくあってはならないが)だと思うし、発覚し、彼らが自費で弁償するという決着もついて、まあそこまでの事件だったと思っている。右翼系の図書館員(聞いたことがないが)が、気に入らない左翼系書物を廃棄して問題になるようなことだってあるだろうし。人は完全じゃないのだからしょうがない。
 おどろいたのは、どこでも報じたこの事件を、アサヒシンブンが存在しなかったかのように無視し、一切報道しなかったことである。これは問題だろう。もしも逆(=右翼系職員が左翼系書物を廃棄した)だったら、天声人語から社説まで使って大騒ぎしたはずである。その後もいくら抗議があってもしらんふりし、数ヶ月後、図書館員が私費で弁償してかたがついたとき、いかにももう過去の出来事のように数行だけ報じた。こういう新聞は読んではならない。

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音楽CD等のAV資料は、リクエストを受けつけない図書館もあります
 なるほど、そうですよね。それじゃまるで「無料の<TSUTAYA>」になっちまいますから。

先日利用者からクレームがつきました。JAZZCDの構成が偏ってる、マニアックなものが多数あるが、スタンダードナンバーがあまりない、というものでした
 私もこれは痛切に感じています。なんでこんなのがあるんだろうって首をかしげます。理由はらいぶさんの言うように、音楽CDは経年劣化により廃棄する場合もあるでしょうし、名盤の盗難とかいろんな理由があるように思います。図書館は無料レンタル屋じゃないから、そういう方面のリクエストにこだわる必要もないでしょうが、たしかに「なんでこんなにマニアックなものばかり揃ってるんだ」とは私も思いました。図書館の場合は、ジャズの歴史、流れがわかるスタンダードしか置いてない、でいいと思います。

 私は今回頻繁に図書館を利用して、利用者に対して腹立っています。やたらCDに傷がついていて、音が飛んでしまう箇所が多いのです。かなりひどい傷ですから、普通に扱っていてつくとは思えません。やはりそこには「ただで借りてきたもの=自分のものじゃないからとがさつに扱う」の神経が働いているように思えてなりません。どこの公衆電話も必ずプラスチック部分はタバコで焼かれているように、今の日本には、自分のものは大事にして、公共のものは大事にしない精神があるように思います。

 脱線しますが、タバコは煙の害にばかり話が行きがちですが、800度の凶器を手にもっているのだという面ももっと強調すべきです。近年のテレビでは「子供の目線に800度の凶器」のようなものもあるようになりましたが。ある意味、手に800度の凶器をもっていて電話で話していたら、目の前のプラスチックを焼いてみたくなるのは本能だとも言えます。本来ある破壊衝動です。だったらその凶器を持たせない、という形の行政指導は当然と私は思っています。最近路上禁煙も禁止されたので千代田区秋葉原が快適です。

 さて、県立図書館の落語CD偏りに関する私見ですが。
 おそらく、予算を回しての定期的な購入品が形だけの会議で決定したとき、該当商品としてあるのがそれ、ということのように思います。CDを出す会社としても、いまさらむかしの音の悪い名人の作品を出してもたいして数が裁けないし、だったら芸術祭なんとか賞とか、文部大臣なんとか賞なんてのを取ったものを大々的に売り出して全国のそういうところから買い上げてもらった方が商売になるのでしょう。そういう意味では桂三枝のそれなんかはたしかになんとか賞はよくもらっているようですし。ごく単純に需要と供給でしょうか。

 文京区のようにおらがまちの名人というこだわりもなく、「今年度落語CD購入予算8万円」があるとするなら、それに匹敵する近年出された商品がそれだったと、それだけのことのように思います。名人たちの古い作品を揃えねばと思う落語マニアの職員もいないだろうし。でもそれはひとりそういう人がいればすぐに変るものだとも言えますね。今回の私の場合、思ったよりも古いものがなかったことに関してはべつにしかたないと思っているのですが、「なんで三枝が全集で……」が怒りの発火点になりました。しかし商売のことを考えるとわかる気がします。ジャズミュージシャンもスタンダードをやってくれないかと思っても自作の新作を出します。そうでないと数の限られているCDだし、金にならないからですね。CDを出す会社の感覚はそれでしょう。
 何事もいいほうにとらねばなりません。名人級を聞いたあと、もしかして借りるかも知れない雀三郎とか南光とかが予想外にすばらしいものであったらいいなと夢想するこのごろです。(名人級を聞き終えたあたりで私の落語熱もひといき、と思いますが。)
04/11/16
 テレビ落語の功罪

 子供のころから演芸番組をテレビでよく見てきた。演芸番組が好きだったというより今で言うバラエティ番組が好きだったのだろう。テレビ黎明期には、それが「寄席中継」だったのである。それしかなかった。私が落語という話芸よりも漫才というスタンダップトークや奇術を楽しみにしていたことでもそれが分かる。
 先日ついつい筆が滑り、当時の私が貴重な落語に接しているかのような言いかたをしてしまった。明らかに間違いであるので当時のテレビ事情を正しく書き、自分の非を訂正しておきたい。
 テレビ放送が始まる。最初はどこの国でもニュース映像であったろう。やがて娯楽番組の需要が増してくる。まだ自前のものを作るだけの力が備わっていなかった時代、手軽に頼ったのが劇場中継であり寄席中継だった。
 私はその寄席中継を可能な限り、当時のこどもとしてはかなりマニアックに見て落語ネタや落語家の名を覚えたのだが、当時のそれがそれを知らない世代に自慢できるだけのものであったかとなると疑問である。いやそんなまどろっこしい言いかたはやめよう。当時のそれは最低最悪のものであり、私がそれを見ていたからといって自慢できるものなどなにひとつなかった、が正しい言いかたになる。多少悔しい気分もあるがその辺は正確に書いておかねばならない。

 一時間番組の寄席中継がある。テレビが企画するのはなにか。落語から漫談、漫才、手品、ものまねと放映時間内にてんこ盛りにすることである。それはそれでサーヴィスの形として否定されるものではない。落語にしても、人気の若手から大御所まですべて網羅したい、となる。するとどうなるか。ひとりの出演時間が短くなるのである。本来のネタとは無関係に。
 漫談も漫才も手品もまだよかった。自分たちで作ったものだ。自由にいじれる。落語も小話と新作はまだよかった。
 問題は古典落語であり、それしか出来ない落語家だった。テレビの都合で三十分の話を七分でやらねばならない。話はぶつ切りの意味不明のものとなった。私が当時聞いたもののほとんどはそれである。先日つい筆が滑って書いた「マニアなら垂涎のものも見ている」は大嘘になる。私が見たのは、現在の落語協会の重鎮である圓歌(当時歌奴)や金馬(小金馬)、円蔵(円鏡)、小せんの古典をぶつ切りにした意味不明の小話だった。小学生だった私ですら、「ええ、毎度ばかばかしいお笑いを」で始まり、話が盛り上がってきたところで、いきなり「おあとがよろしいようで」「お時間が参りました」で突然終る不自然さを感じていたのだからかなりひどかった。こういう時期に人気者になった三平や円鏡、スタンダップ漫談すら出来た談志等は、みな五分でも七分でも、テレビ局の都合に合わせられる器用さをもった人たちだった。それはまたそれが出来ない当時の大御所はスポイルされていったということでもある。私はテレビで「垂涎の的」の大御所などほとんど見ていない。彼らもまたテレビに媚びなかった。出なかった。いや假りに媚びたいと思ったとしても媚びようがなかったろう。テレビ向けに立ち回ることの出来る小器用なヤツだけが時代の寵児となっていった。

 そういう番組を熱心に見ていた私は、子供にめでたい名前をつけようとあれもこれも織り込んだらとんでもなく長い名前になってしまう「寿限無」、関係のない数字を入れてソバ代をごまかそうとする「時そば」、タヌキの恩返しでタヌキがサイコロになってくれる「狸賽」、たくあんをタマゴ、お茶を酒に見立てて貧乏人が花見をする「長屋の花見」、和歌をめちゃくちゃに解釈する「千早振る」等を小学生の時から知っていたが、それは名演名作に接して覚えたというより、ぶつ切りで繰り返されるそれらを、とりあえずだいたいの筋書きで記憶していったに過ぎなかった。テレビでやるそれはすべて半端だったのだから。
 たとえば「狸賽(たぬさい)」である。助けたタヌキが恩返しでサイコロに化けてくれる。これさえあれば連戦連勝だと、そのサイコロをもって賭場に出かける。やたら一の目が出る。タヌキに聞くと「一はお尻の穴なので出しやすい」と応える。十分以内の話だとこのあたりをサゲにするパターンが多かった。
 口にする目が確実に出るサイコロを怪しまれ、数字を口にするなと言われる。五の目を出すのに、「加賀様の紋だ。梅鉢。天神様だぞ」と言って開けたら、タヌキが冠を被って笏を持ち、菅原道真になっていたという本物のサゲを知ったのはかなりあとになる。そういう時代だった。

 テレビのお蔭で人気者になり金持ちになる落語家も出てきた。「山のあなあな」で売れっ子になった歌奴、現在の圓歌が、宝石入りの何百万円のメガネ、外国製の高級時計をするようになるのはこのころからである。いわゆる志の低い成金だ。テレビは何人かのタレント落語家を世に出したが、むしろ本来の落語を壊した面もおおきいだろう。
 しかしいつの時代、どこにもそれに危機感を持つ才人はいる。やがてそういうテレビの害に反発し、寄席復興の聲が聞かれるようになる。いち早くテレビのおもしろさに目をつけワイドショーの司会や役者としても活躍していた志ん朝がそれらを全部辞めて寄席にもどった。落語を壊したテレビとの決別が始まった。
 それは決してテレビの罪ではなく、黎明期にはしかたのなかったことでもあろう。何事もそういう経緯があって成熟してゆく。

 昭和三十年代はいい時代である。人心が荒廃していず、まともな日本人らしさがまだ残っていた。公共の場で騒ぐこどもは誰彼無く叱られた。叱ると同時にみんなであいした。子供はみんなの財産だった。日本がおかしくなるのは石油ショックを経て四十年代の終りから五十年代にかけてであろうか。もちろんそれはそのときだけの責任ではなく、戦前があり、敗戦があり、復興の二十年代があり、高度経済成長の三十年代があり、うぬぼれと飽食のきざしの四十年代があり、と流れに沿ってのものである。五十年代以降が醜く肥満した太鼓腹と成人病の時代だとしても、いきなりそうなったわけではない。
 そういう意味じゃ歌奴(円歌)なんてのの出世の道筋、きんきらきんの装飾品を身につけての落語協会会長就任までの人生が、昭和をすべて語っていると言える。それがつまりは現在の落語のつまらなさの象徴だ。なんか考えるほどに談志が正しく思えてくる。彼の信奉者ではない私としては不本意だが。

 とまれかくまれ私が文章を書く際にプロレスであれ競馬であれ何がテーマであろうと必ず手綱を引っ張るようにと意識しているのは、ついつい調子に乗ってむかしを美化しないようにすることである。これだけは気をつけている。たとえば昭和三十年代が人の心に餘裕があるどんなにいい時代だったとしても、ハエや蚊には往生した。いま住んでいる田舎ですら網戸でブロックし、無臭の電気蚊取りで退治できる現代がどれほど快適なことか。クーラーだってある。事実を無視した過去礼賛だけはしたくない。
 テレビの時代劇が嫌いなのも、あまりにむかしがキレイゴトになっているからだろう。だいたいが当時の便所を考えただけでうんざりする。いやあれは現代劇のおとぎ話として楽しまねばならないのか。しかし将軍様よりよほど快適な暮らしをしている身分として、どうにもあのウソを楽しむ気になれない。これもあと一回り年を取れば楽しみになるのだろうか。
 そういう虚飾を外して時代を語るうえで、昭和三十年代、四十年代のテレビ落語中継はひどいものであったと、むしろその反省の上に築かれ、数は激減したが、じっくりと一席聞けるようになった昭和末期、平成の世の方がよほどすぐれていると、両方を知っているものとして明記しておきたい。
 これは先日テレビで見てしみじみ失望した昭和四十年代の北の湖や輪島の時代の相撲がほとんど中腰で立っているいい加減なもので、いまのほうがはるかにしっかりした美しい立ち会いであることに通じる。
04/11/18
 むかしの録音物

 四代目橘屋圓喬の肉声を聞けないものかと考えた。名人中の名人である。圓生は「名人? そりゃ圓喬ただひとりです」と言った。志ん生は「そりゃね、あんた……(としばしの間をおき)、あの人には誰もかなわない」と言った。志ん生は本当はそうでないのに自分が最初に入門したのは圓喬と嘘を突いた。最後までつき続けた。それほどあこがれていた。これはもちろん嘘とバレているのだが、中にはそれを真に受けて圓喬に入門と書いている本もある。四十八で早世した圓喬の名は不世出の大名人として今も燦然と輝き続けている。
(過日、勉強していたら、最初から天才ではあったが、それを鼻に掛け生意気で評判の悪い時代があったと知って意外だった。)
 月の家円鏡のほうの円鏡は襲名されてゆくが橘屋圓喬は、落語界中興の祖・圓朝とともに、触れてはならない聖域だ。
 そこまでの名人ならなんとしても肉声を聞いてみたいと思う。雰囲気だけでもいい。だが大正時代に死んでいるから無理か。

 田舎の図書館を探し回り、やっと古いテープを一本見つけた。当時の演芸が収めてある寄せ集めの中に圓喬の名があったのだ。一本に十人以上も収めてある。どういうことかと思ったらみなひとり2分から3分だった。いわゆるSPレコードの時代だと気づいた。SPはショートプレイの略である。
 CD以前、アルバムレコードを私たちはLPと言った。CD時代の今もつい言ってしまったりする。これはSPに対する単なるロングプレイの略であり、コンセプトをもったアルバムを指す言葉ではない。
 むかしは(むかしっていつなんだ?)SPしかなかった。LPが出来たのは劃期的なことだった。

【附記】──圓喬の弟子!
「背中の志ん生」によると、志ん生は人前はもちろん愛弟子の圓菊にも「俺は圓喬の弟子だ」と言い続けたという。史実的に小円朝(二代目三遊亭小円朝)に入門となっていることもあり、それを圓菊のところに確認に来た人(作家)もいたらしい。圓菊は「師匠が圓喬の弟子と言ってるんだからそれでいいじゃないですか! それがわからない人には話してもしょうがない」と追い返したと語っている。反省した。私も知ったかぶりせずきょうからは「志ん生は圓喬の弟子」で行こう。志ん生がそう言っていたのだから志ん生ファンならそうすべきだ。

【附記・2】──二つ目のうれしさ
 同じく「背中の志ん生」に、「落語家は真打ちより二つ目になったときのほうがうれしいんです」とあった。力士が横綱大関になったときより「十両になったとき」、棋士が名人、八段になったときより「四段になったとき」と言うのと同じである。
 このふたつの世界はともに給金がもらえるようになる立場なのですなおに理解できた。力士だと、アバウトだが、たしか今も十両で月給百万、幕内でも百二十万とか、それぐらいの違いしかない。素人には入幕して一人前の感覚があるが当人にとってはなんといっても十両なのだ。幕下までは無給だから雲泥の差になる。それまでは付き人をやっていたのがそれを持てるようになる。棋士の場合は、むかしは四段になってもまだ薄給だった。当時は名人リーグ戦による段位が給料の基本額を決めていたので四段でいくら勝ってもたいして稼げない。四段と八段(相撲的には十両と幕内に当たる)では対局料が倍以上ちがった。相撲界のほうが進んでいる。今は四段でも強ければ竜王になれるシステムである。三段リーグ(ここは無給)を勝ち抜いて四段になればいきなり羽生のような年収二億も夢ではなくなる。
 落語家の場合は真打ちだと思いこんでいた。真打ち披露をするまではなかなか食えないからだ。二つ目で知名度もあり獨演会なんてとんでもないことをやっていたのは小ゑん時代の談志ぐらいである。だから意外だった。二つ目のうれしさを圓菊は「紋付きが着られるようになるから」としている。これを着て高座にあがれるようになると落語家気分になり、やめずにがんばろうと思うのだという。
 意外に感じたが、考えてみれば、前座には誰でもなれるのである。入門さえ許してもらえれば。一週間で逃げ出しても落語家に入門して前座名を名乗っていたと言える。二つ目もはしっかりと演目を覚えて演じられるようになってたどり着く地位だから、力士や棋士と同じく、当然なのかと思い直した。
04/11/19


「東都噺家系図」──橘左近
 落語関係の本を手当たり次第に読んでいる。玉石混淆と言うよりかなり石が多い。それはわかっていたから、たとえば鈴々舎馬風の本など、彼や円歌の話は飛ばして、文楽や志ん生、志ん朝の出てくるようなところだけを拾い読みした。当初は自分なりのブックレヴュウを書くつもりで借りてきたが、それほどのものもない。
 そんな中、きのう図書館で見つけ、初めて買いたいと思う本に出会った。それがこれ。その名の通り噺家の系図を書き、簡単な解説をつけただけの、ある意味極めてシンプルなものなのだが、とんでもなく時間を掛けた労作である。よって高い。

 図書館のものはカヴァーが取られていた。近年よくあるパターンで値段はそれに書いてある。これだとカヴァーを替えるだけで値段を上げられる。出版社は筑摩。Amazonで探し、画をもらうついでに見たら7140円だった。今度ジュンク堂に行ったとき買うか。悩ましい。
 著者は寄席文字を書くことが仕事。落語家でないことがかえっていい。こういう本を置くことが図書館のつとめのように思えた。

04/11/23
 志ん朝の「崇徳院」

 県立図書館へ。
 志ん生「替り目」「強情灸」「付き馬」
 志ん朝「酢豆腐」「鰻の幇間」

 志ん朝のCDが5枚しかない。ひどい図書館である。先日も書いたが、それでいて何十枚もの「桂三枝大全集」があり、その他に「桂三枝爆笑落語」なんてのまで四五枚あるのだ。あと何枚かの文楽と志ん生、三木助を借りたらもう借りたいものはなくなる。いや米朝や枝雀があるから父の病院に通うあいだ(あと何日だろう……)借りるものに事欠くことはないと思うが、やはり私は関東の落語が聞きたい。

 きのう、月曜の朝、高島俊男さんの「中国大盗賊」を買うとき、志ん朝の落語を集めた文庫本が三冊出ていた。私が自費でCD落語全集を買うとしたら志ん朝が最有力候補である。先日、父に「なく な よ」と言われた日、それでもクルマで聞いた「崇徳院」には笑った。あんな哀しいときでも笑わせてくれる藝の力に感動した。しばらくはCDコピーの日が続く。父のことが終ったら水戸の県立図書館なんて行かなくなるのは目に見えている。
 東京の文京区図書館に行って入手のむずかしい志ん生の作品を借りてくるのが次の目標になるのか。うむ、ここなら志ん朝全集もありそうだ。あるな、確実に。
04/11/25
 志ん朝のDVD

志ん朝「明烏」「船徳」
志ん朝「黄金餅」「大工調べ」
志ん朝「居残り佐平次」「雛鍔」

 これで近隣の図書館で借りられる志ん朝はおしまい。名残惜しい。あとは文京区図書館に頼るだけだ。志ん朝は買ってそろえてもいいけど今じゃ手に入らないような志ん生が揃っているはずだから覗いてみよう。
 「明烏」はファンの選ぶ志ん朝の好きな演目でいつもいちばんになるものである。「崇徳院」でも「酢豆腐」でも、とにかく志ん朝の「若旦那」はどれも絶品だ。それも、気弱、堅物、しったかぶり、うすらバカ、ぜんぶ演じ分けての絶品だから、まったくもってこの天才の早世が悔しい。

 あれこれ本を読んでいて、志ん朝はヴィデオを発売していないと知る。CD21枚がすべてなのだそう。しかし素材はあるはずだ。ずいぶんとテレビでも見た。TBSの深夜放送にも名演がある。なんで出ないのだろう。亡くなったのは平成十三年(2001年10月1日)だからもう三年も出ていないことになる。いや私の読んでいるのは当時の単行本だから今はDVDが出ているのかも知れない。その辺は調べものをするとして。
 とはいえこういうのは記憶のものだからべつに見たいとも思わない。頭の中に映像はある。でも聞いていて仕草でドっと受けていると、見たいとも思ってしまう。そんなことを言い出したら志ん生の「たがや」なんて「えっ、やっ、おう、とりゃー」と立ち回りの掛け声ばかりなのだからきりがない。
04/11/26
 志ん生の以前以後

志ん朝「三枚起請」「お若伊之助」
 もう志ん朝はおしまいと思っていたら誰かが借りていたのか一枚発見。ラッキー。

志ん生「泣き塩」「紀州」「権兵衛狸」「六尺棒」
志ん生「お直し」「甚五郎」「鈴ふり」

 きのう借りてきた本「名人──志ん生、そして志ん朝」の中で、小林信彦は、父親、自分、女房、娘と三代に渡る大の志ん生、志ん朝ファンであることを明言したあとで、脳溢血から復帰後の志ん生はひどく、ああいうろれつが回っていないものを販売するのなら、「以前、以後」と表示すべきとまで言い切っている。誰もが「志ん生を聞けるだけでうれしい」となってしまう中、これは勇気ある発言だと思った。
 私も言ってみたかったがそれを言えるほどの落語ファンでないと遠慮していた。すこしばかり胸の支えが降りた気分である。

 知らない志ん生を楽しみに聞き始めると、すぐに「あ、あたらしいヤツか」とがっかりすることが多い。志ん生は昭和36年12月に倒れた。(12月15日、巨人軍のパーテイ)。奇跡的に軽くすみ、翌37年の11月から復帰する。「あたらしい」とはこの復帰した昭和38年以降の音源である。昭和41年のものになると、獨特のあじわいと言えば聞こえはいいが、あまりのそのふにゃふにゃぐあいに、「この日本語を理解できる外人はどれぐらいいるだろう」と考えてしまったりする。「あにゃにゃがのんがあが、にゃんだったてえ、まあ、んなわけでありまひて……。うぉい! はんにゃあら」なんて感じで、正直ひどいと思う。これはやはり「いてくれるだけでいい」と楽しむべきものだ。
04/11/30
 「名人──志ん生、そして志ん朝」小林信彦
 きょう返却するので印象的な部分を抜き出しておこう。


 三遊亭歌笑。《「歌笑純情詩集」なるふざけたモノローグは、一度は笑えても、あとが続かない。歌笑が突出したのは、他が混乱していたからで、歌笑、小きん(のちの小さん)が若手三羽烏だったというから、レヴェルが低い。》

 餘談。小林さんも志ん生と圓生の満洲行きについて、「満州」ではなく「満洲」と書いている。うれしい。

 1960年、昭和三十五年、初めて志ん朝(当時、二つ目の朝太)を見る。
《ぼくが初めて朝太を見たのは、あくる一九六〇年、第一生命ホールだったと思うが、明るい屏風の前で「唐茄子屋政談」という大きな話をみっちりと演じ、主人公が吉原田んぼで、遊んでいた当時を回想する件りに瞠目した。とんでもない新人が現れた、というのが実感であった。》


《テレビやラジオで色白で二枚目の志ん朝を知った多くの若者が、生の志ん朝見たさに寄席やホールに集まった。そこでの志ん朝は、朝太時代からの正統派スタイルをまったく崩さず、春風駘蕩たる表情で大きな噺を聞かせた。タレント落語家らしく崩したり、漫談など、間違っても演じなかった。》
 そのころ田舎の子供であった私は、二枚目で「週間 志ん朝」なんてヴァラエティ番組をやり、真っ赤な外車に乗っているという志ん朝に反感を持っていた。きっと寄席でもテレビと同じような軽薄なことをしているのではないかと思っていた。反省である。ま、田舎の子供だ。わかるはずもない。
 
《志ん朝に不幸があるとすれば、ライヴァルがいないことであった。自称ライヴァルはいたが、真のライヴァルは存在しなかった。》
 いなかった。ほんとに志ん朝にはライヴァルがいなかった。でもそれでもあんなにすごい。必要もなかった。

《志ん生のテープやCDがいまだに売れ続けているのは驚くべきことだが、大したこともない落語家がCDや本をやたらにだすのは、みっともない。》
 ごもっとも。図書館から借りてきたものですら聞くに能わずと思うものが多い。ヒット曲狙いのCDのように、勘違いして出されたCDもたくさんあることだろう。

《志ん朝落語は、文楽の端正さと志ん生のナンセンスが微妙にミックスしたものと見ている。
 ご当人は「黒門町(桂文楽)に習った」と語っているが、しかし「寝床」は文楽版ではなく、明らかに三語楼→志ん生版である。》

 志ん朝を語るとき「文楽か志ん生か」はメインテーマだ。志ん朝は名人二人のいいところを併せた最高名人だろう。文楽より色気があり、志ん生より上品だ。
「寝床」は志ん生版だが「愛宕山」は文楽そっくりである。
 お姉さんの美津子さんは「天才志ん生にはなれないと悟った志ん朝は文楽を目指した」という世間的な意見に「そんなことはない」と言っている。(吉川潮との対談)。これは正しくもあり、また娘として姉としての感情が入ったことばだろう。

 志ん生に関する記述がいいが時間がないので志ん朝に関する部分のみにしよう。ただ資料となっている本が私の読んだものと重なっているのでそれほど知らない話はない。

《朝太の真打昇進を決めたのは桂文楽と言われるが、志ん生の熱望だったともいう。昭和三十七年の誕生日に、朝太は三代目・古今亭志ん朝を襲名し、真打昇進と決まった。すでにNHKのドラマ「若い季節」にレギュラー出演する人気者だったので、問題はない。
 不満があるとすれば、志ん朝に〈抜かれた〉人たちで、その代表が柳家小ゑん(のちの立川談志)であった。
 小ゑんは朝太に会い、「真打昇進を辞退できないか」と言った。朝太の昇進は親の七光りではないかという意味もあった。
 志ん朝はこう答えた。
「これは上の人たちのうちの親父に対する世辞だと思う。しかし、自分(の藝)もまったく駄目ではないと思う。……ひどけりゃ、『いくらなんでもそれは』ということになったと思う。それはなかったようだし、とにかく上の人たちが話し合って決めたことをあたしが辞退すれば、これはもう大騒ぎになっちゃうんだから。だからあたしは辞退しませんよ」(『SWITCH』94年1月号)
 文楽からの話があったとき、朝太が「勘弁してよ、父ちゃん」と辞退したことを、志ん朝の弟子の志ん五が証言している。〈文楽師匠が言ってくれているというので最後は引き受けた(志ん五)〉、引き受けた以上は、もう辞退はしない──その決意が、小ゑんへの言葉にあらわれている。
 公私ともに忙しいせいもあって、ぼくは志ん朝には特に興味がなかった。ただ、テレビ局で〈抜かれた〉側の人間の不満を耳にしたりした。》


《かなり早い時期に、志ん朝が父親の"深み"に対抗するために、
("粋"で行こう)
 と考えた、と円楽が証言している。》

 う~む、だよなあ。あの親父に対抗するとしたらそれしかない。それはベストの選択だった。

《志ん朝の唯一の挫折は昭和五十三年の落語協会分裂だったのではないかと思う。》
 志ん朝は分かれる圓生一門と起ち、のちに協会に復帰する。この辺の小林さんの資料は円丈の「御乱心」である。
 志ん朝というとあのルックスから、いや江戸前落語的に「容子(ようす)がいい」と言うべきか、気弱なお坊ちゃん的な性格を思うが、実際はたいへんな気の強さで、上記真打ち問題のときの小ゑん(談志)の辞退要請を蹴るのもそうだし、落語協会分裂騒動のときも、圓生が自分に継ぐ二番手を志ん朝、三番手を談志、四番手を円楽と指名した。場から圓生のいなくなると、すぐに談志が「おれがいなければ新協会はやって行けない。だから二番手はおれがやる」と宣言する。しかし志ん朝は「圓生師匠があたしを指名したんだからあたしがやります」と言って突っぱねる。それで談志が抜ける。そこから崩れていった。もしも志ん朝が談志に譲っていたら、新協会は圓生一門に、談志、志ん朝、円鏡と当代の人気者を全員揃えて、時代は変っていたろう。当時の人気者でこれに荷担しなかったのは圓生に藝が認められていなかったことを認識していて拒んだ三平だけである。
 あんな形で抜擢され、そしてそれを見返すだけの技倆を誇ってきたのである。気弱なら自殺している。気弱のはずがないのだった。

「夏目漱石と落語」と題された文は名文である。目から鱗。

《志ん生についての面白本は多いが、志ん朝は〈落語や藝については語らない〉というストイックな藝人だった。実は、志ん生もそうであり、自分の藝については何も語っていない。ストイックというよりも、シャイな父子なのだと思う。》
 そこがしゃべりまくっている談志との違いになる。プロレスで言うと猪木と馬場だ。見事にファンの気質も似ている。

《『SWITCH』1994年1月号の〈特集 古今亭志ん朝〉で、一人の女性インタヴュアがマニアックなまで食い下がって、聞きにくい質問をしている。志ん朝ファンは必読のもの。》

 読みたいなあ、どうしよう、大宅文庫に行けば読めるか? 多くの資料を読んだ小林さんが絶賛しているのである。 しかし本の「志ん朝全集」刊行が始まったし、これはそれ以前に書かれたものだから、どこかに収録されているようにも思う。探してみよう。
12/2
 CD貸し出しの真実

 志ん朝 「佐々木政談」「夢金」
 志ん朝 「唐茄子屋政談」
 志ん生 「黄金餅」「唐茄子屋政談」

 ひとつ発見した。
「志ん朝のCDがたった5枚しかないってのはどういうことだ。三枝なんてのが全集で揃っているのに!」と私は憤慨していた。どうやらそれは早とちりのようだ。たまに一枚ずつあたらしい志ん朝や志ん生を発見する。きょうはあらたに志ん朝を二枚見かけたのですかさず借りてきた。返却されたのだ。今まで貸し出し中だったのである。たぶん志ん朝は全集で揃っている。志ん生ももっともっとある。だってネットで調べたらいまだに志ん生は落語CDでも一二を争う売れ筋CDなのだ。なのにこの親子がほとんどないのは「いつでも貸し出し中だから」なのである。やっとそれに気づいた。私のようにパソコンでCDをコピーし翌日には返却する利用者は(とくに落語ファンでは)まずめったにいまいから、みな貸出期間のぎりぎりまで借りて何度も聞いてから返却しているのだ。ラジカセでテープに落としている人はいるかもしれない。そうして返却してくるから週に一度、運がいいとあたらしいCDに出会える。そうか、そういうことだったのか。まだまだ楽しみは残っていると知った。

 ズラリと三枝の全集が揃っているのは、「誰も借りないから」なのだった。関西系(上方と呼ばなきゃだめか)がずらりと並んでいるのは借りる人がいないからなのだ。先日推理したように毎年の図書館の購入予算とあらたに販売される新商品の関係もあろうが、こっちのほうが本筋であろう。
 先日読んだ小林信彦の「名人──志ん生、そして志ん朝」で、彼がいちばんこだわっているのは、自分も使って育った「消えゆく江戸前ことば」への執着だった。志ん朝が最後の使い手だったと言い切っている。おそらく大の落語ファンを自称する小林にとって関西弁の落語はまったくの興味対象外だろう。私にそれはなく、このあと聞くであろう枝雀や文珍もそれなりに楽しみにしているのだが、おそらく県立図書館に出入りする落語ファンも、興味のある落語とは関東のものなのだ。

 小林信彦といえば三枝が「およよ」なる言葉を流行らせたとき、著書のタイトルにもしていた彼が盗作であると主張し、本家争いでもめたことがあった。あれはどんな結末になったのだったか。小林が三枝を評価していないのは確かと思われる(笑)。

 談志も全49巻だかの「ひとり会」の他にも「ゆめの寄席」とかいう談志が演芸指南するようなCDが五、六枚そろっていて関東の噺家では随一の品揃えなのだが、まったく動いていない。いつも全巻揃っておいてある。彼のマスコミ的な人気を考えると不思議な気がする。おそらく図書館で落語CDを借りるような年配の(とかってに決めつける)落語ファンには談志嫌いがおおいのだ。ああいうリクツっぽく言いたい放題をする噺家は好き嫌いが極端になる。小林の本では徹底的に談志のことに触れないことで彼の気持ちを表していた。

 談志の人気とは彼を支持する(彼に師事する)有名人が声高に喧伝することと関係している。いまいちばん熱心なのは高田文夫であろうか。彼がラジオでしゃべるとき「家元」ということばが出ないことはない。先日「ごきげんよう」で小堺カズキが談志の魅力を語っていたが、内容は談志の本で読んだロシアンジョークがおもしろかったというロシアンジョークの皮肉っぽさのことであり、それはロシアンジョークを談志の本で読むまで知らなかった小堺の無知の問題であって、落語家立川談志の魅力とは無関係である。こういう形で彼をもちあげるパターンは多い。その意味で、先日読んだ落語本にも書いてあったが、立川談志とは新興宗教の教祖と考えるべき存在であろう。宗教であるからして心酔している信者とはまともな会話が成立しない。そしてまた心酔している信者は自分がそうであることを自覚していないからたちが悪い。
 とはいえ新興宗教が麻薬のように蠱惑的なのは入信していない身にも分かる。弟子の景山民夫(立川八王子)に「あんたほどなんでも知っているなら大川リュウホウよりよほど物知りだろう」と言ったら即座に否定した、なんてとこを読むと、やはり魅力的な人だと思ってしまう。談志と池田大作はどこが違うのだろう。
 極力彼に噺家としてのみ接しようとしつつ、数あるCDの中から「落語論」のようなものを借りてくるのだから私も同じ穴のなんとやらである。



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