02/1/22

ボブ・サップとコニシキ
(02/1/22)

 たいへんなBob Sappブームであるらしい。連日テレビで観ないことはないとか、いま日本で一番の人気者、とかワイドショーでは言っている。テレビを熱心に観ないので格闘技以外の分野で彼がどれほど活躍しているのかは知らない。それでもきょうのCD発売とかのニュースではネプチューンと一緒に出ていたから彼らのヴァラエティ番組等にも出演しているのだろう。

 初めて観たときから大ファンであるからして、本国アメリカでも「ジャパニーズ・ドリームを叶えた男」と話題になっているらしい大成功にはご同慶の至りだ。願うのはアスリートとしての本分を忘れないでくれよとそれだけである。ナチュラルに強いことで人気を得たのだ。それが基本である。

 しかしまあ彼の気配りはたいへんなもので、『紙のプロレス』ではテレビ視聴率まで(しかも正確な数字をコンマ単位で記憶していた)気にしていることを披露していたし、猪木祭りにおける対高山戦でのフットボール流タックルの姿勢で場内をどよめかせたことも、「自分の経歴でNFL出身がアピールされているようなのでやってみた」とか、したたかな計算のしようなのである。

 なんてことを書いているのは実はBob Sappのことを書きたいからではない。大好きな人のことは書かなくてもいいのだ。
 なぜここにこんなことを書き始めたかというと、今朝のワイドショーで興味深いコメントがあったのだ。ボブがワシントン大学の薬学部出身のインテリ(しかも飛び級進級)で、おそろしく飲み込みが早く、礼儀正しいというのはもう常識だ。彼がどんなに優れたアスリートであり、CMキャラとしておもしろいとしても、状況に適応する能力がなければこんなに話題になることはない。決め手は頭の良さである。

 そのことに関してワイドショーのコメンテイターのひとりが、「コニシキさんに通じる頭のよさですよね」と言ったら、もうひとりが即座に「コニシキさんよりはずっといい人だと思いますけどね」と応じ、司会者が「コニシキさんもとってもいい人ですよォ」と丸くまとめて次のコーナーに行ったのだった。
 ぼくはこの「コニシキさんよりはずっといい人だと思いますよ」と言ったコメンテイターのひとことが心に残った。それを見抜いてきっちり発言した彼に好感を持った。
 頭の回転の速さ、とんでもない大男の外人、黒人とサモア系と出身は違うが色は真っ黒、と二人に共通する部分は多く、二人を結びつけて語る感覚は常識的であろう。だからこそそこでそういう意見を言うのはなかなかのものなのだ。
 ぼくは、二人を結びつける感覚を普通だと思うし、一般的に当然のものと容認しつつも、ほんとはぜんぜん違うのにな、わかってないなと思っていたから、ワイドショーごときでそのことをしっかり見抜いて発言する人がいたことにすこし驚いた。あ、まてよ、そうか、あの発言は鳥越俊太郎だったから(ワタシ、この人、クメやチクシと並んで大嫌い)けっこう裏のことも知っていたのかな。

 ボブ・サップとコニシキはまったく違う。性格のいいヤツと、根性の悪いヤツという時点で、全く似て非なるものなのである。いちばん大切なのはそこだ。つまり、見た目の大きさや黒い外人、頭の良さから二人をくっつけて論じる人は、実は最もなにもわかっていない人になる。
 言いたかったのはそれである。
02/3/9

勘違いの技
(02/3/9)

 金曜の深夜。土曜の明け方。
 2月17日の武道館大会から、ある意味小橋復帰戦以上に楽しみにしていたNOFEARとWILDⅡの試合をいま見たところ。ずいぶんと待たされた。2/18に早速メインが放送されたので、次はこれだろうと二週間ほど録画予約までして待っていたのに、どうでもいいライガーあたりを流してきょうまで引っ張ってきた。だめだよ、こんなふうに出し惜しみしちゃ。手段として良くない。今はそんな時代ではない。武道館の盛り上がった二試合を連続放映してファンをつかみ、あとの二週は余韻で引っ張ればいい。まだテレビ局は勘違いしている。もう出し惜しみの時代じゃない。K1の石井館長から学びなさい。

 試合は、前半を見ているだけで激しく失望した。ぼくの最も嫌いな新日的我慢比べごっこになっている。
 なにが嫌いといって、佐々木や中西のラリアート連発、高岩のパワーボム連発、中西のアルゼンチン連発など、あれほど嫌いなものはない。起きあがりこぼし式のジャーマン連発なんてのもあった。くだらん、ほんとにくだらん。プロレスのおもしろさは「あれが出たら終り」と思わせての、そこに到るまでの盛り上がりだ。テーズがバックドロップを、ゴッチがジャーマンを、ロビンソンがダブルアームを、ハンセンがラリアートを連発したか。
 技がないと思われていたシンが、たったいちどだけアルゼンチンを出した。かつぎあげたと思った瞬間、もう猪木はギブアップしていた。だからこその技の評価、レスラの評価だろう。バカだなあ、ほんとにみんなバカになっている。勘違いしている。

 その新日のくだらなさをなんでノアが真似をする。馬場の教えを忘れたのか。だいたいが三沢が使ってこそ意味のあるエルボーパットを前座のジュニアから全員が連発するなよ。
 試合は後半になって、かつての全日らしいいい試合になったが、試合後のインタビューがまたよくない。新日で天山や中西が吠えているのとまったく同じパターンだ。ノアが新日の悪影響を受けている、イヤな気分を再確認した夜だった。
 せっかく寝る間もない忙しい仕事の合間に無理矢理時間を作ってみたのに。つまらん。


 関東では、全日の中継は日曜深夜が定番だった。ところがこの3/9は土曜の明け方である。
 三沢以下が脱退して新団体『NOAH』を作った。日テレはそれまでの全日中継から手を引く。しばらく間をおいて『NOAH』中継を始めるのは規定の約束事だった。馬場が日本プロレスを脱退し、全日本を立ち上げたときとまったく同じことが起きた。歴史は繰り返された。

 ただし状況はだいぶ違う。馬場の時は旗揚げ戦から土曜午後七時のゴールデンタイム中継だった。主立った日本人レスラは馬場ぐらいしかいない。鶴田はまだ新人だった。馬場の交友から外国人レスラは超一流が出そろったが。
 それと比べると『NOAH』は、全日の主要レスラが河田を除き全員移籍したのだから、すぐにでも一時間番組を作れるだけの駒が揃っていた。
 ということですぐに全日の後釜に座ったのだと思いこみそうになっていた。そうではない。すっかり忘れていたが、しばらくは中継がなく、苦労したのだ。金曜、土曜の深夜をうろうろし、やっと現在のように日曜深夜に落ち着いたのだった。
 ここで書いていることは長年の持論なので毎度のことだ。私にとっていちばん価値のあったのは冒頭の「金曜の深夜。土曜の明け方」だったことになる。(03/5/16)
02/5/3
迷走新日本
(02/5/3)

 昨夜の新日はひどかった。あれでは視聴率も取れないし、ますます苦境に立つだろう。どうしようもない。WWFとPrideの真ん中で、なにをしたらいいかわからなくなってしまっている気がする。ぼく個人としては、日本ではWWFは無理だし、Prideは一ジャンルを確保しているのだから、ごく普通に、今までの新日でいいのだと思っている。プロスレファンのいちばんの特徴は、あたたかいことだ。レスラ側の気持ちを斟酌し、自分たちがつらい目に遭っても、プロレスを愛し、信じ、ついてゆこうとする性質だ。なのに、彼らはなにを惑っているのだろう。自分たちに自信がなくなったから、ファンが離れていってしまうと不安になり、挙動不審になっているようだ。まるでそれは、おれについて来いと自信満々だった男が、自信をなくしたため、女にも遁げられるのではないかと、急におどおどと女の機嫌を取りだした様に似ている。女は、おれについて来いという強引な男が好きだった。他の男はみな女の荷物を持ってくれるのに、自分の荷物を持ってやろうなどとは考えもしない男の身勝手さが好きだった。それが今、自分の機嫌を取ろうと愛想笑いまで始めている男に愛想を尽かそうとしている。男もまた自分に尽くしてくれた女に愛想を尽かされそうだと気づいている。だが男はその原因を、自分が世間の男並みにやさしくなかったからだと考えている。その勘違いに気づかない。

 なにがいやだといって、WWFを真似たあのマイクアピールほどいやなものはない。なにを勘違いしているのだ。あれがこれからのプロレスには欠かせないと思っているのか。蝶野、中西、天山、みな同じである。吠えねばならないと思いこんでいる。まあ新日はそうやってかってに落ちていってくれと思うのだが、どうにもノアの森島とか力皇あたりが悪い影響を受けていて困る。日本人の美は、感情を抑えることにあるのだ。

 高山がいかんなく実力を発揮していて気持ちよかった。が、最後に負けてやることがまた決まっているからスッキリしない。どうにもチャンピオンの風格がない永田相手に、こんなに強い高山がどんな負け方をするのだろうと思うと、燃え上がるそばから冷えてゆく。

 しかし新日もいよいよどん詰まりだ。プロレスのチャンプとは元々作るものである。それにふさわしい素材であると長老たちが認め、それに適合した青年が、作られたチャンプとなり、やがて本物に育ってゆくのだ。顕著な例がNWAだ。ルー・テーズがジン・キニスキーに譲る。キニスキーがドリー譲る。ドリーがブリスコに、ブリスコからレイスに、それはチャンプになる資格の選ばれし者の禅譲の歴史だった。好い素材がない時はどうするか。本物がしばらく假チャンプになる。いわば、最良の社長候補がいないので会長がまた社長に復帰するようなものだ。テーズやレイスが何度もチャンプになっているのがそれになる。
 WWWFになるとすこし違って、ベビーフェイスからベビーフェイスへと移ることはなく、合間に短期間のヒールチャンプが存在したりした。まあぼくのWWWF嫌いは三十年以上だから筋が通っている。サンマルチノの頃からあそこは嫌いだ。

 永田なんてのはどうみても課長止まりの男である。こういうのを社長にしなければならないのだとしたら人材がもう枯渇している。ミルコの左ハイキックに秒殺された男をIWGPチャンプにせざるを得ないとは……。ましてこの永田がミルコともういちど闘い、逆に秒殺して雪辱を晴らす可能性はまったくあるまい。ミルコは金のため喜んで試合は受けるだろうが。
 もっとも世界に誇るメガバンク、みずほホールディングの社長があの前田とかいう裏庭のシイタケみたいな男なのだから、新日のチャンプが永田であるのも世の流れか。秋山も永田に負けてやるためにベルトを小川に預けて丸腰になったし、井上編集長が言うように「底が丸見えの底なし沼」とはわかっているが、なんとも最近のプロレスには引く一方だ。

 しかも終りが最悪だった。
 猪木時代、地方からの生中継。6人タッグ。もうすぐ放送終了とディレクターが合図を出せば、了解しましたと猪木の延髄切り炸裂。肩の辺りをかすっただけなのにマードック大げさに前方一回転。カウントスリー入って猪木がダー。ご丁寧にも試合終了後も痛そうに後頭部を押さえるマードック。そこに古館アナ、来週までさようなら。さすがはストロングスタイルとうならされていた時代と同じ事をやってくれた。高山は負けてやるビジネスをしに来たのだから、十分に強さをアピールしてあれでいいと言うかもしれないが、どうにもあの終りかたはストロングスタイルすぎる。おわりだな、ほんとおわり。

 プロレスは元々どさ周りだ。田舎芝居だ。だから筋を知っている「国定忠治」でも「一本刀土俵入り」でも「瞼の母」でも、目の前でやっている斬り合いが竹光であること、ほんとは当たっていないこと、敵同士をやっている二人がほんとうは兄弟であること、仲良しであることなどをぜんぶ飲み込んで、気持ちよく涙を流し、木戸銭に合うだけの楽しみを得た。提供する役者と、得ようとする観客の相互信頼で成り立っていたのだ。いまそれが崩れても、まだあんなに信じようと、東京ドームに足を運ぶ心暖かいファンがいる。なのにやっていることは、なにをしたらいいかわからなくなり、迷走状態のまま、彼らの心を冷えさせることばかりだ。
 でもここまで来たのだから、もちろん最後までつきあうけどさ。
02/5/4

ダイナマイトキッド自伝
(02/5/4)

 だいぶ前に買って途中で投げていたダイナマイトキッド自伝「PureDinamite」を読む。
 なんともつまらん本だ。それでも、読破しなければ感想も言えないとがんばって読み切った。
 初めて彼を見たのは国際プロレスだった。長髪でかっこいい、小柄だけどほんとに気の強い爆弾小僧だった。美青年だった。

 たしかに彼の書いた本なのだろう。だって、おそろくし表現が画一的で単純だ。訳者のウォーリー山口(今は全日のレフェリーか)は、なるべく原作の味を出すように苦労したようだ。でも全編あちこちに「ぼこぼこにしてやった」のオンパレードでは、いくらなんでも楽しめるものでもない。

 なぜなのだろうと考える。この種の本は、他人の自伝ではあるが、そこに自分を重ね合わせて楽しむのが常道だ。初めての国プロへの来日、佐山タイガーとの闘い、全日への転出、WWFの裏側、と彼の書いたこの二十年を自分に重ね合わせれば、それだけで楽しめるはずなのだが……。

 ルー・テーズ自伝と比べると--あれは訳者がテーズの親友でもある流智美さんであることが大きい--あちらが、それに自分の人生と重ねることをしなくても、いやむしろ重なる部分よりも知らない時代のことを純粋に読み物として楽しめるの対し、これは、なんとも中身がなくて薄っぺらなのである。そりゃしょうがないよなあ、巡業中のレスラ同士の笑えないイタズラと、ステロイドでの体作り、不仲になった連中とのこと、と、あまりに実話だからこそおもしろくないのだろう。と同時に、ここにはやはりイギリス人と日本人の感覚の差がかなりあるようにも思う。キッドは自伝を書くに辺り、彼なりに「おもしろいと思われること」を考えたはずである。読者に喜ばれることだ。それは「感動的なこと」でもいいし「許せないこと」でもいい。それは実際にたくさんあるように思う。だがそれを選出するキッドのセンスと、読者であるぼく(それはぼくに限らず日本中のプロレスファンと言ってしまって差し支えないだろう)との間に、どうしようもない溝があるのだ。

 キッドに限らず、テリー・ファンクやウイリアム・ルスカなどが日本を巡業中にやった数々のイタズラを今までに数多く見聞きしているが、ぼくはただの一度も笑えたことがない。たとえばそれは、「控え室で眠っているレスラの体にビニールテープを巻きつけて両端から火をつける」とか、「ステロイドをくれと行ってきたレスラに注射器に牛乳を入れて渡す」とか、「深夜に酒を飲んでいるとき、わからないように昂奮剤を相手の酒に入れ、一晩中眠れないようにする」とか、「試合用のブーツにウイスキーを一本注ぎ込んでおく」とかの類で、彼らはこういうことが楽しくて楽しくてたまらず、仕掛けただけでもう笑い転げ、さらには後々まで笑いのネタにするらしい。もちろん中には生真面目なレスラもいるから、怒った相手ともめて殴り合いになったりもする。

 これをレスラの特殊性と考えることも出来るし、事実レスラはかなり特殊な人種であり、さらにはキッドなどはその中でも特別に変っているらしいのだが、根本にあるのはそれ以前の、白人と日本人の違いのように思う。ぼくなりに今までの白人とのつきあいを考えると、やはり感覚は違うのである。そういう場でいつも、冗談の感覚の差に戸惑いを覚えてきた。

 キッドは四十代で車椅子の生活になってしまった。異常だったものな、一時のあの体は。
 従兄弟のデイビーボーイ・スミスとの絶縁とか、なんとも読んでいて胸の痛くなる本だった。それでも救いは、子持ちの女性と再婚し、彼女との仲が、とても円満であるらしいことか。
02/7/26
大仁田コンプレックス
(02/7/26)

 医療費負担増の強行採決で、大仁田がテレビ目線で暴れていた。彼の思惑通り、きょうのワイドショーでは「あの人が大暴れ」と取り上げられていて、願ったり適ったりだろう。同じような形で馳が取り上げられたことがあったが、これはべつにそれらしきことをしていないのに、週刊誌がプロレスラ議員をおもしろおかしく取り上げたものだった。大仁田の場合はそれとは違う。「ついに目だつ機会が来た」とばかりに、わざとらしく議長に抱きつき野党から護る形で、目立とうという姿勢が丸見えなのだ。これがその役職に徹し本当にそう思っているのならまだいいのだが、単にテレビに映って自己アピールしたいだけでしかないから醜悪だ。ときおりカメラを意識してカメラ目線になってしまうのがなさけない。大橋巨泉に「辞めないで!」とにじり寄りつつ、やはりカメラ目線だったツジモトと同じパターンだ。

 大仁田に貴重な票を入れた40万人はバカだ。
 ぼくは誰よりも大仁田の才能を評価している。UWFが「真に強いもののプロレス」と左に触れたとき、今こそ右だと、「強くなんかないけど、それでもプロレス」と逆の振り子を利用して成功した手腕は図抜けている。
 が、それと政治は別だ。彼に政治理想などありはしない。彼の国会議員は目立ち根性の果てにあったものでしかない。しかも立候補前に、金の計算で自由党から自民党に乗り換える事件も起こしている。もっとも小沢一郎もあの野村サチヨを擁立した程度の感覚だから、大仁田で一議席取ろうとしたそのことでまず間違っている。バチがあたったってところか。これに関しては痛み分け。いずれにせよ大仁田に国会の一議席を与えるなんてのは気違い沙汰だ。
 今も「思ったより時間を取られて全然もうからねえ。これがあと五年も続くのか。なるんじゃなかったな」が本音なのである。国会議員という最高の身分を楽しんではいるから、当選するなら、次回もプロレスの合間にまた出てくるだろうが。
 大仁田に入れた40万人は、ぼくには理解不可能の人々である。結局そういう人は、大ファンのようでいて、プロレスラ大仁田のことも、わかっていない人なのだろう。プロレスラ大仁田厚を正しく理解し、政治とはなにかと考えたなら、彼に清き一票は入れるはずはないのである。

 それにしても日本人の学歴コンプレックスってのはおもしろい。大仁田の自己申告は「高校入学後、三日で自主退学」である。それがノンフィクションライターの調べで実際は進学していないことがわかってしまった。そりゃ調べればすぐにわかる。「高校に行かなかったよりも、行って三日で自主退学のほうがかっこいい」と思う感覚がなんだか哀しい。たしかに大学中退は何年通っていようと中退したら高卒だから、「高卒」と書くよりも「早稲田中退」と書いたほうがずっと格上には見える。「入るだけの学力はあったが大学など無意味と判断してドロップアウトした」となるからだろう。そういえば「中退」って学歴を書く人って多いよな。大仁田もそう考えたのだろうか。嘘がちいさいだけに切ない。野村サチヨのコロンビア大学卒業の大嘘のほうがまだ救われる。

 大仁田の右に振れたプロレスは支持するのだが、そういうふうに秀でた芸人が性格破綻者であるのもまた事実であり、優れたプロレスラは、人を引っ張ったりすることには向いていないのである。付き人であった江崎(ハヤブサ)が嫌われてすぐにクビになったのは有名な話。自分より容姿もよく運動神経もすぐれている若者をかわいがるほどこの種のスターは心が広くない。最初に来るのは嫉妬であり、その芽を摘むことだ。右に並ぶものは親兄弟でさえ殺すのが獨裁者の掟になる。そういう人間が民のために尽くす政治家になれるはずがない。
 荒井社長の自殺にしおらしいコメント「せめて電話でもくれれば」には腹が立った。半分は大仁田が殺したようなものだ。よういうわって奴だ。
03/1/21
 午後七時からW-1を録画。

 あとで見て、なんともつらい気持ちになった。こんなことをして何の意味があるのだろう。新星のサップがこの一年で築いてきたものを、ホーストが十年かかって築いてきたものを冒瀆しているだけだ。最もおちょくられているのはプロレスそのものである。武藤の「プロレスlove」はぼくとは違うようだ。

 前日熱心に打ち合わせをしつつ一緒に練習したのであろうホーストは、STFもどきを公開し、卍にならないコブラを披露し、決め技はスクールボーイである。二流のWWEを日本でやることに何の意味があるのだ。

 ホーストは受け身までは覚えきれなかったのだろう、ホーストの体を気遣い、サップが決してボディスラムをやらず抱えたままコーナーに走っているのが印象的だった。ボディスラムは、初歩の技であると同時に、信頼関係の上に成り立つ難度の高い技でもある。下手なハンセンが落とし方を間違ってサンマルチノの首を大怪我させてしまったように。

 ただ、ホーストが試合後に「すごくおもしろかった。ぜひまたやりたい」と言ったのは本音だろう。怪我の心配もなく、打ち合わせ通りに進行させ、観客を熱狂させるのだから一度嵌ったら抜けられない魅力に満ちている。役者冥利というヤツである。だから大仁田のように何度でもカムバックしてくる。馬場は、テリー・ファンクの最初の引退の時でもそれを信じていなかった。テリーが控えにいるときには歩けないほどもう膝を悪くしていたのを知りつつも(私も普段びっこをひいて歩くテリーを何度も目撃している)、プロレスという観客を手のひらで踊らせる醍醐味を知ってしまったものに引退などはありえないと断言していた。業であり麻薬である。
03/5/8

試合順
(03/5/8)

 先日の新日ドーム大会プロレス特番(5/4)が大阪にはなかったらしい。関東は午前1:40から4:30までだった。さすがに三時間はたっぷりあり、いつもなら冗長に感じる控え室前からのレポートとか、あのやらんでもいいあれこれも、それなりに合っていたように思う。つまりあれにいらだつのは、実質45分しかない中継でいらんことをするなというあせりなんですな。

 K-1とかPRIDEでもいつも思うのは、単純に試合順に見たいってことだ。それがいちばんいい。次第に盛り上がるよう、長年の経験から、それでも大型興業だからさらに侃々諤々の論争をして、試合順は定められている。なのにせっかく考え抜いて並べられたそれを、テレビ局はがらがらぼんで、また振り出しにもどしてしまう。
 とはいえ、その順でやると、何時に何があるかを視聴者が読んでしまい、そこだけしか見ないとテレビ局側は考えるのだろう。実際テレビ視聴者ってそんなものらしい。

 サップとミルコのPRIDEなんかすごかった。午後10時から始めて、次の試合がそれであるように見せてじつは違う試合という裏切りのくりかえしで、11:15分ぐらいまで引っ張った。それでサップの試合は1ラウンドKO負け。インターネットで結果を知っている人はそれがわかっているが(むかしは『東スポ』に電話して尋いたものだ)、知らない人は今か今かと待ち続けてしまう。そういう手法も必要であろうし、一般的にはきっと効果があるのだろう。第一試合から順番通りに見て盛り上がりたいぼくからすると小賢しい無意味な努力に思えてしまう。
 今回の新日もずいぶとんいじくりまわしていた。小橋蝶野と高山永田の連続するダブルメインイヴェントを離したのは正解だろう。

 いちばんつまらないと思ったのは、村上とエンセンにまたも「場外で謎の大流血」を使ったこと。もうだれもが流血というのは金具やガラスを使わなければありえず、鉄柱にぶつけても瘤ができるだけとわかっているのだから、あんなのはやめたほうがいい。小原に場外に連れ出された村上が、いつの間にかとんでもない流血になっていた。額から血が噴き出している。そうとう深く切ったのだろう。村上とエンセンのまともな試合が楽しみだっただけに旧プロレス(それも悪い意味だ)のドタバタになってしまったのは残念だった。

「金具やガラスでないと」と書いたが、前田のキックで藤波が大流血したのはすごかったな。ニールキックを放ったとき、シューズのかかとで目尻が切れたのだった。藤波のまぶたには今もあのときの傷がある。

 10日の土曜午後は、こちらは「Zero One」特番がある。上記新日のドーム大会と同じく5/2に開催されたもの。放映はテレビ東京。大阪はテレビ大阪だ。あちらでもやるかな。メインは橋本小川と武藤小島戦である。年六回の特番形式の放送が決まったとか。橋本小川を応援しているのでうれしい。ただなあ、「高速カウント」は力道山プロレスで卒業している。(近年のファンなら女子プロのアベシローか)。あまりにむかしのプロレスにもどるのも考え物だ。
 有料テレビを持っていないのでまだサムライの放送を見たことがない。楽しみだ。と、書いているのは忘れないため。もしかしたら橋本のプロレス先祖返りに失望するかもしれない。

zero-oneテレビ観戦。(5/10)
 いかにもプロレスらしいプロレスで、会場も後楽園だからいい雰囲気で盛り上がっていた。よかったなあ、橋本、と言いたい気分。
 小川がプロレスが上手になっていておどろいた。がそれはもう格闘技戦が出来ないということでもある。すこしさびしい。大仁田が週刊誌で「おれに小川の体があったら」と言っていたがそれはそれで正論。でも大仁田に小川の体があったら今のようにのしあがれなかったのもたしか。その辺はうまくまとまっているものだ。大仁田は体がなく弱いからのし上がれた。
 きょうのレヴェルを保てるなら年六回の特番放送は安泰だろう。もういちど「よかったなあ、橋本」。
03/6/19

大崎さんのエッセイ
(03/6/19)

 16日(月)発売の『週刊現代』を三日遅れで立ち読み。思想的違いから読むと必ず不快になるので近年講談社系の雑誌は一切読まなくなった。愛読していた頃もあったのだが。
 それでも今も、一応立ち読みで目次を眺めたりはする。この号から大崎善生さんのエッセイ連載が始まっていたので読んでみる。

大崎さんは早世した将棋棋士・村山聖の伝記で売り出した人だ。その当時は『将棋世界』の編集長をやっていた。タイトルは『聖の青春』だったか。マンガにもなった。それがノンフィクション賞を取り、編集長を辞めて作家として獨立した。ついでに二十歳も年下の将棋界のアイドル女流棋士・高橋和ちゃんまで嫁にしてしまった。話題の新人作家まではご同慶の至りなのだが、最後のところだけは嫉妬である(笑)。それは多くの将棋ファンの気持ちだったろう。棋士のことを描いた作品が世間的にも話題になり、よかったなあと我が事のように喜んでいたのに、まさに冷や水を浴びせられるというやつで、なんで四十半ばのやつがヤマトちゃんを……、と一気に批判的になったりした(笑)。聖はサトシ、和はヤマトと読む。ぼくは大和からヤマトは読めたが、聖がサトシであるのは、この棋士の名を知るまで(この本じゃなくてずっと昔にね)知らなかった。読めなかった。

 実はいまだにこの作品をきちんと読んでいないので語る資格はない。これはそのジャンルのファンにはよくあることだが、村山聖の闘病に関しては長年の将棋ファンであるからかなり知っている。亡くなったとき「将棋世界」は追悼特集を組んだ。大崎さんはそのときの編集長だ。あらためてそれをベースにして書かれたノンフィクションを読むかとなると、二の足を踏んでしまう。ご両親から取材した知らない話が満載であるとはわかっているのだが、闘病記も亡くなったときの師匠や親しかった棋士の追悼文も詳しく読んでいるし、まして最高の作品であり物語である棋譜に長年接してきたのであるから、こういう本にすぐに飛びつくこともないのである。これまた将棋ファンに共通の感覚のようだ。どこかの将棋サイトで同じような意見を読んだことがある。
 本も、コアな将棋ファンを対象にしたわけではない。売り出されたばかりの時、本の帯にこう書いてあったのが印象的だった。《将棋を知らないかたでも楽しめます》。将棋専門書と思われ遠ざけられることを怖れたのだろう。

この帯があったのはのほうのようだ。たしかに「将棋の子」では、将棋を知らない人は敬遠してしまう。



 村山の逸話で、これは同居していた師匠の森信雄が語っていたことだが、なんとも切なく印象的だったのは、村山が、爪や髪の毛を切ることを嫌ったこと、垢でさえも大事にしたことである。内蔵を患い、短命であることが確定していた彼にとって、伸びてくる爪や髪は、生きているという命の象徴だった。どんなに師匠に怒られても、なかなか切ろうとはしなかった。ぼくが将棋ファンとして当初彼を好まなかったのは、いかにも不健康そうなデブで、髪の毛も伸びし放題で汚らしかったからである。そんな不治の病のことなど知らない。知らずに見れば、彼はいかにも不健康そうな見苦しい青年でしかなかった。だからこそこの逸話を後で知ったときは胸に響いた。
 そういう彼への思いを自分なりに持っていたから未だに話題のこの作品を読んでいない。それはまたあらためて読んでから書くとして、『週刊現代』のエッセイの話である。

 エッセイの第一回目は難しい。何十万もの読者が、初めて登場したヤツに、手厳しい目を向ける。それが功成り名を遂げた以降ならともかく、だいたいにおいて週刊誌の起用するこの種のものは、旬のものを狙うから、一部愛好家の間では既にブレイクしていても、世間一般にはまだまだ無名の時が多い。そのかわりそれがおもしろいと強烈な吸引力になる。

 しばらく前、ぼくがすでに相性が悪いと結論していた『週刊現代』を愛読していたのは、浅田次郎さんが『勇気凛々ルリの色』の連載を始めたからだった。当時の浅田さんは『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞を取ったばかりの、知る人ぞ知るおもしろい作家であった。この連載中に『蒼穹の昴』で直木賞を落とされ、『鉄道屋』で受賞し、やがて卒業して行く。見事なタイミングの起用だった。彼に目星をつけた編集者は鼻高々であったろう。この後『週刊文春』に『壬生義士伝』を連載したりするが、「浅田次郎の週刊誌エッセイ」と言ったら『週刊現代』の手柄である。週刊誌連載ではその前に『アサヒ芸能』に小説「プリズンホテル」を連載したりしている。でもこれはまあまだ〃極道作家〃が売りで、アサ芸しか相手にしてくれなかった時期とも言える。だからであろう、浅田さんは「プリズンホテル」を愛しい作品として挙げている。ぼくもあれは「浅田ワールド」のひとつの頂点と思っている。

 大崎さんも、将棋雑誌編集長からノンフィクション作家へと転身を果たした話題の人ではあるが、まだまだ一部の好事家支持の人であるのは間違いない。これが真の意味のメジャーデビューと言えるかも知れない。ほとんどの『週刊現代』読者はまだ知らなかったのではないか。おおすべりの確率大である。
 最近このすべったパターンで、『週刊文春』の斉藤孝がある。『声に出して読みたい日本語』でベストセラーを出した明大教授だ。このころはまだ助教授だった。文春はちょうど高島さんも息切れしていたことでもあり、日本語ブームの折り、第二の高島さんとして大々的に売り出したのだが、まったくつまらなかった。すぐに模様替えとなり、今は『説教名人』というタイトルで、古今の作家・有名人のコトバを引き合いに出す連載になっている。と書けるのも手元に資料として『週刊文春』があったからで、ほとんど読まないのから普段ならタイトルも出てこなかった。だっておもしろくないのだ。こういう例を見ると、高島さんの存在を目黒孝治さんが「奇蹟的な結合」と書いた意味がよくわかる。1960年生まれの斉藤さんに高島さんの二代目は無理だった。言っちゃえば『声に出して読みたい日本語』も、成功は声に出して読みたいほどのうつくしい日本語(の文章)を寄せ集めるという企画の勝利であり、斉藤さんがおもしろい文章を書いたわけではない。同じくこの連載も、毎回登場する説教名人の名言は光っても、それを解説する斉藤さんの文章は凡庸でつまらない。

 と、大崎さんの『週刊現代』デビューを簡単に書くつもりだったのに、脱線ばかりしている。またまた長くなってきたので、急いでまとめよう。
 結論として大崎さんのエッセイがこれからどうなるのかわからない。抱腹絶倒のおもしろエッセイとして話題になるのか、いつの間にか消えて行くのか。話題作にしたいと編集者は気合いが入っているが、週刊誌はシビアであるから、切るときも冷酷である。ただ第一回目に関して、私には、なんとも印象的な部分があった。書きたいのはそれである。



 大崎さんは、第一回目の自己紹介として、自分をヘンテコなヤツとし、それがどこから来たのだろうと話を進めたのである。北海道の小学生時代、外人レスラの追っかけだったという。それもレスラの泊まっているホテルに押しかけ、インタビューを試みていたというのだから、その積極性はなんともうらやましい。そしてそこに出てくるレスラがぼく好みであるから、たまらない気分にさせられた。ジン・キニスキー、ドン・レオ・ジョナサン、ドリー・ファンク・ジュニアなのである。

 そうして今回書いているのは、ジン・キニスキーのホテルに押しかけたら、彼はやさしく部屋に招待してくれて、ケーキをご馳走するからちょっと待っていろと言って、隣の部屋で着替えを始めたそうなのだ。それを大崎少年は盗み見る。そのとき後ろ姿の股間から見えた「でっかいキンタマ」が忘れられないって話なのである。そんなことばかりしていたから自分はヘンテコなやつになってしまったと結んでいるのだが、私の思いは、ホテルまで押しかけてきた半ズボンの小学生二人を(半ズボンと大崎さんが書いている)、室内に招待し、やさしく接し、ケーキまでご馳走するNWAチャンプの(そのときはもうドリーに譲っていたか)キニスキーなのである。桜井康夫さん命名の〃荒法師〃が通り名だったが、真っ赤に紅潮するクシャクシャ顔の容貌から〃平家蟹〃とも呼ばれていた。強いレスラだった。ベルトを取ったのがテーズ、譲ってやったのがドリーというだけで偉大さが伝わってくる。キッチン・シンクとシュミット流バックブリーカーだ。

 私は、消極的に消極的に生きてきた。つまらん人生である。でもこれはこれでしかたなかったのだと、ある意味ベストの生き方だったのだと思うようにしている。それでもこういう取り返しのつかない(←日本語のつかいかたをまちがっていますが)話を聞くと、おれももっと積極的に生きるべきだった、あのときドリーに思い切って話しかければ……、とのいくつもの悔いが胸をよぎる。大崎さんは小学生の時から積極的にレスラに話しかけ、でっかいキンタマを覗き見るような生き方をしてきたから、村山聖の話で売り出し、高嶺の花のヤマトちゃんをゲットできたのだ。高校生の頃からあこがれてきたドリーに会えても、話しかけられなかったおれは……。
 早朝のコンビニで、三日遅れの週刊誌を立ち読みしつつ、私はなんだかせつない思いに包まれていたのだった。

大崎善生 Oosaki Yoshio

経歴●北海道札幌市生まれ。早稲田大学卒。日本将棋連盟に入社。
  『将棋年鑑』の編集、『将棋マガジン』編集部を経て、『将棋世界』編集長を務める。
  平成13年退社して作家活動に入る。
受賞歴●第13回新潮学芸賞(平成12年)『聖の青春』
  第23回講談社ノンフィクション賞(平成13年)『将棋の子』
  第23回吉川英治文学新人賞(平成13年)『パイロットフィッシュ』
03/7/21

ゴングの思い出
(03/7/21)

 中学生の時から買い溜め、物置においてあったプロレス雑誌を、大学生時代、知らないうちに捨てられてしまったときはショックだった。高一の時に『ゴング』が創刊され、それまでの「プロレス&ボクシング」から乗り換えた。
 評判のいい『ゴング』はすぐに「別冊ゴング」を出すようになる。それは日本初の(すくなくともぼくの知っている限りで)別冊という名の毎月発売されるプロレス専門誌だった。本誌は「プロレス&ボクシング」と同じくボクシングを含んでいたのである。当然ぼくは「別冊ゴング派」になる。毎月発売が楽しみで楽しみで学校帰りにすっとんでいったものだった。本誌が30日、別冊が15日だったか。当時のこれらを思うと、ボクシングがいかに下火になっていったかがわかる。みるみる扱いページが少なくなって行った。敗戦国日本の希望の星であったボクシングが、役目を終えた時期であった。今も伝説的に伝えられる高視聴率、ファイティング原田海老原博幸が活躍したのはこの前、ぼくが小学から中学の時期になる。

 プロレスのほうは、力道山死後一時落ち目になったものの、馬場猪木二大スター路線が成功し絶好調になりつつあった。あまりに儲かるので芳の里遠藤幸吉がめちゃくちゃやっていたころである。後にそれが猪木の反乱原因となり、新日設立、馬場の全日設立、日プロの崩潰へとつながってゆく。

 『ゴング』は力道山感覚をひきずっているベースボールマガジンン社の「プロレス&ボクシング」とは違い、プロレス少年の要望を満たす新しい感覚に満ちたプロレス誌だった。編集長は竹内宏介さんである。当時十九歳と知ったときはなんてかっこいいんだとあこがれたものだった。日本一若い編集長である(らしい。そりゃそうだろうね)。高校を出てすぐになったのかと思ったが、先日の『紙のプロレス』かなんかで(なんだったかメディアを覚えいない)誰かが彼は中卒でがんばったと言っていた。いったいどういう経緯でなったのだろう。たしかなのは『ゴング』を発刊していた新日本スポーツ社は他に発刊物のないちいさな会社だったことだ。ミニコミ的出発だったのか。ぼく的には竹内さんは立志伝中の人物になる。今も尊敬している。最近のプロレス雑誌は竹内さんと流智美さんの昔話だけが楽しみだ。

 『ゴング』は「まだ見ぬレスラ」としてミル・マスカラスを発掘してブレイクする。一時、毎号マスカラス特集のようだった。ブレイクといってもプロレス誌内のことだからたいしたことじゃないか。
 当時ロサンゼルスでマスカラスのライバルとして活躍していた悪役はグレート小鹿である。ロッキー・ジョンソンもいた。WWE嫌い(これはまた別項で書こう。先代のビンスのWWWFの頃から嫌いで筋が通っている)であるぼくは、近年のWWEと名を買えたマクマホンジュニアのところでスターらしいザ・ロックとかいうのにもなんの興味もなかったが、彼がロッキー・ジョンソンの息子、ピーター・メイビアの孫(ジョンソンの妻がメイビアの娘なのだろう)と知ったときは、ウタダヒカルがフジケイコの娘と知ったときと同じ感慨に打たれたものだった。ザ・ロックは黒人とサモアのハーフになる。
 『ゴング』は「来日させたいレスラ」のような投票を始める。それまでプロレスラは現地のブッカーが選び、来日したものを雑誌が紹介するという形だった。後追いである。ファンの関われる分野ではない。それがこのときから、マスコミがファンとともに待望のレスラをピックアップし、プロレス会社に要望するという形になって行く。先読みだ。その筆頭であり成功したのがマスカラスなら大失敗した筆頭はスパイロス・アリオンになろう。

 これらのことを思うと、慎太郎さんが「いい時代を生きた」と言うように、ぼくもプロレスファンとしてはいい時期にいたなと思う。とはいえ誰だってそのときはそう思うから、今のプロレスファンの子供たちもそれなりに満足はしているのだろう。あくまでもこれは全体史を見ての[感想]である。
 総体的に言えるのは、そのジャンルの「青年期」に自分も「青年」で関わることである。慎太郎さんが言うのは敗戦国日本の復興青年期に自分も青年として関わってきたということだ。ぼくもプロレスマスコミの少年期に少年で関われたことをしあわせと思う。

 大阪の『週刊ファイト』を辞めて上京し、ベースボールマガジンン社に入社した山本青年が、マイナーな仕事である「プロレスアルパム」をヒットさせ、やがて編集長にまで上り詰め、ターザン山本と異名を取るまでになる。そして新日との取材拒否の確執から没落し落ち武者になって行く過程も、青年期としてリアルタイムで経験できた。先日『週プロ』等は全部捨てたが、この「プロレスアルパム」は取ってある。あれはまごうことなくプロレス本の傑作である。消極的で人と知り合いたいなどと思うことのないぼくが、珍しく自分から競馬本を送ってターザン山本と親しくなったのに対し、竹内さんとは未だに面識がないままなのは、ターザンとは時代を同じくしているが、竹内さんは先輩だからであろう。ここを読んでいる人でプロレス好きの競馬好きはサトシとkurikintonさんぐらいしかいないのだけど、ターザン山本を競馬マスコミに引っ張ったのはぼくなのである。これもまたそのうち、回顧談的に書いてみよう。

03/10/15

『東スポ』の桜井さん、勇退


 プロレス週刊誌で『東スポ』の桜井康雄さんが勇退したと知る。勇退? よくわからん。
 桜井さんはこの文章では「ミスター東スポ」とされていた。
 それは事実だが、それ以前に、すこしばかり古いプロレスファンにとって、桜井さんこそ正に「ミスタープロレスマスコミ」であった。ルー・テーズの「鉄人」の命名こそプロレス評論の元祖・田鶴浜弘さん(流智美さんの師匠)に譲るが、その他はサンマルチノの「人間発電所」、ボボ・ブラジルの「黒い魔神」、フリッツ・フォン・エリックの「鉄の爪」、ジン・キニスキーの「荒法師」と、スターレスラの主立ったキャッチフレーズのほとんどを作ってきた。
 それは当時の絶対的ナンバーワンプロレスマスコミ『東スポ』のプロレス部門にいて、それらを発信しやすい立場にいたということ以上に、氏のコピーライター的センスが秀でていたからだろう。(ナンバーワンプロレスマスコミ『東スポ』と言えば、『週プロ』編集長・ターザン山本の報道姿勢に反感を持った長州のことば「プロレスマスコミは『東スポ』さえあればいい」は象徴的だ。レスラ側にとって都合のいい御用マスコミという意味になる。)

 二つの例を書く。
 高校生時代から大好きなプロレス編集者に『ゴング』の竹内宏介さんがいる。私が会ってじっくりとお話をうかがいたいと願う数少ない人の中のひとりだ。当時、『東スポ』とも先発の「プロレス&ボクシング」ともひと味違う新刊のプロレス雑誌『ゴング』はプロレスファンの田舎高校生にとって希望の星だった。考えてみれば十九歳の竹内さんが編集長だったのだから、十五の私に受けるのは当然だった。
 だがどうも竹内さん、このレスラのキャッチコピーや技の命名で桜井さんのセンスにかなわなかった。その一例にハイジャック・バックブリーカーがある。
 ドン・レオ・ジョナサンが初めてオリジナルのこの技を披露したとき、『ゴング』は忠実にその技と形を説明する、「リバース・クルスフィック・バックブリーカー」(とかなんとかそんな感じの)命名をした。田舎の高校生である私は「おお、かっこいい」と思ったものだった。ところが『東スポ』紙上では当時頻発していた航空機乗っ取り事件から急速に普及していたハイジャックなることばを用い、「ハイジャックバックブリーカー」と名つけられている。私は断然『ゴング』の命名の方がかっこいいと思った。なんの関係もない世間の大事件と結びつける『東スポ』のあざとい感覚を嫌った。だがあっという間にハイジャックバックブリーカーが普及して今に至る。まあ「今に至る」もなにも、あれはジョナサンしか使えない幻の技になっているが。間違っても中西みたいなバカが興味を持たないことを願う。あいつのせいでどれほどアルゼンチン・バックブリーカーの価値が落ちたことか。

 竹内さんは近年、思い出話として、「あの簡潔な命名方にはかなわなかった」と語っている。これが桜井さんのセンスになる。とはいえ私はそのころ桜井さんを知らない。あくまでもそれは「『東スポ』の命名」になる。それらがすべて桜井さんの業績(?)と知るのはもっとずっと後のことだ。
 当時、後のUWFのようなものを夢見て、プロレスのうさんくささを嫌っていた私は、そういういかにもプロレス的な命名方が嫌いだった。純粋に技の形に英語を当てはめようとする竹内さんの感覚を支持した。でも桜井さんの俗物性にはかなわなかった。ある意味、人生を教えてもらった人になる。

 もうひとつ。近年のものでは(といってもう二十年以上経つのか)ホーガンの「アックス・ボンバー」がある。ハンセンのラリアートを真似し、肘を曲げることですこしでも獨自性を出したいと願っていたホーガンは、当初「ホーガン・ハンマー」と名乗っていた。マスコミはホーガンのラリアートと書く。なかなかホーガンハンマーは普及しない。ラリアートの変形でしかないのだから当然だ。それではインパクトが弱いと猪木と一緒にホーガンをスターにしようとしていた桜井さんが考えたのが「斧爆弾──アックス・ボンバー」である。ホーガンも気に入り、それを叫びつつ披露するようになった。やがて『週プロ』『ゴング』全プロレスマスコミがそれに倣い、一気にこの技は市民権を獲得して行く。すぐれた技の命名がどれほどリングを活性化させるかの好例になる。今の大森のファンは、それがホーガンの真似ではあるとは知っていても、こういう命名の由来は知らないだろう。

 数えだしたら本が出来るぐらい桜井さん命名による愛称や技の名は多い。原康史ではなく桜井康雄してのこの辺のことをまとめた一冊が欲しいところだ。『紙のプロレス』がゲストに呼んで聞いてくれないかな。聞き手は吉田豪がいい。
 日本語として秀逸なものに「延髄斬り」がある。単なる後頭部へのしょぼくれたハイキックが、桜井さんのこの命名でどれほど凄味を持ったことか。その神通力に、外人レスラなど猪木のつま先が後頭部ならぬ肩をこすっただけでもみな前方に一回転しスリーカウントを聞いてしまったほどだ。起きあがった後も痛そうに後頭部を押さえていた。おそるべし、ストロングスタイル。ディレクターから生放送終了三分前の合図が出ると、即座に反応する猪木の藝人根性の見事さよ。

 少年サンデー(マガジンだっけ? いやサンデーだよな)に連載されていたプロレスマンガ「闘将ボーイ」で披露された骨法の技「首落とし」を盗んだ藤波が、ドラゴンスリーパーなどと名つけてオリジナル技を装っても、こういう形のインパクトは生まれない。あれは骨法に礼を尽くし、了解を得て「骨法の首落としだあ!」と古舘に叫ばせた方がまがまがしくてよかったろう。
 餘談ながら、この「闘将ボーイ」とは、競馬のトウショウボーイの時によく新聞の見出しになったものだった。プロレスマンガの「闘将ボーイ」の根底に最強馬トウショウボーイがあることは間違いない。かようにプロレスと競馬は親密だ。ついでにいうと、この「闘将ボーイ」を最後に私は六歳の時に創刊されてからずっと読み続けてきたサンデー、マガジンから足を洗ったのだった。三十を超えていた(恥笑)。

 さて冒頭の「勇退」の話。
 桜井さんは記者としても出世頭だった。若くして編成局長になっている。『東スポ』なる児玉よしお(どう書くんだっけ、右翼の巨匠は。誉士男だったか)が作ったいいかげんな新聞社の内部人事がどうなっているのか知らないが、取締役まで行っていたのだからやがては社長になっておかしくない人だった。それが今回「勇退」し、『東スポ』と縁を切り、プロレスライター原康史としてやってゆくというのは、内部の権力争いに敗れたということなのだろうか。私のような門外漢にはわからない世界だが、社長になるべく争い敗れた常務とか専務なんてのは、平取締役でいることはよしとせず、みな退社するようである。そういうものなのだろう。桜井さんもそうなのか。

 原康史と言えば、私が高校生当時から「プロレス&ボクシング」や『ゴング』に連載を持っていた。梶原一騎もそうだが、逆算してみるとこのひとたちみな、二十代でもう書いている。「世界最強決定戦」なんて夢の世界一決定戦の連載小説があった。十六人のスターレスラがトーナメントで世界最強を争うのだ。当時はNWA、AWA、WWWFと分かれていたから、サンマルチノとバーン・ガニアが闘うなんて想像するだけで夢だったのだ。一ヶ月(=一回)一試合で進んで行く。長年の連載の結果、そうして当然最後は勝ち抜いてきた馬場と猪木の決勝戦になり、これまたお約束通り両者ダブルノックダウンになり勝負つかず、握手しておしまいになる(笑)。『東スポ』の桜井さんと作家の原さんが同一人物とは知らず、毎号楽しみに読んでいたものだった。とはいえ原さんの文章はあのころから陳腐でクッサイ表現が多く、昔も今も私はプロレス小説家・原康史のファンではない。

 当時の私は、国鉄の駅が近くになく、『東スポ』(5円)は、たまにしか読めなかった。それでも大試合の翌日には、結果が知りたくて30キロ先の国鉄駅の売店までバイクで走って購入していた。田舎の私鉄の駅でも報知(そのころのナンバーワンスポーツ紙)やいくつかは売っていたが、どれもプロレスなど報道しない。『東スポ』と「デイリースポーツ」だけだった。ともに置いてない。

 高校二年の時、駿台予備校の夏期講習のために上京した。東京は毎日『東スポ』がいつでもどこでも買えるのだと感激した。あたりまえだ。十八で東京に出た。「これで毎日『東スポ』が読める」と満足したことを覚えている。もっとも東京に出たら出たで、今度は翌日午後の『東スポ』が待ちきれず、大試合の夜には編集部に電話をして結果を聞いたりした。それ専門の記者が残っていて、何十人何百人の電話に同じ事を応えているのだろうに、まったくいやがらず親切に教えてくれた。話しているだけで、互いにプロレスファンだと心が通じてうれしくなったものだった。古き良き時代の思い出になる。

 その一年三百六十五日欠かさず読む「プロレスの『東スポ』」の赤字の一面が、年に何十回か違う話で占領される。それが「競馬」だった。どんな形であれ馬券にはハマったろうが、『東スポ』がなければ競馬を覚えるのは何年か遅れたに違いない。強いものが大好きだから昭和三十九年の「シンザン三冠達成」や昭和四十四年の「タケシバオー日本初の一億円馬」を伝える毎日新聞(当時の我が家の愛読紙。後にこれを大学受験に出るからと信じて私が頼んで朝日に替える)を覚えているが、予想の仕方、馬柱の読みかたは知らなかった。『東スポ』は私の競馬の師匠である。渋谷の喫茶店で、大学の先輩に、『東スポ』の馬柱の読みかたを教えてもらったときの感激(この小さな枠になんと多くの情報が詰め込まれているのだろう)は、今も覚えている。

 それは宮本さんという「ジャーナル研究会」の人だった。私の所属していた音楽サークルは、そのサヨク系のジャーナル研究会と部室を折半していたのだ。音楽サークルのリーダーがそこに属していて軒を借りていた。そのリーダーがいまテレビ東京で「ガイアの夜明け」をプロデュースしている伊藤さんになる。宮本さんはジャーナル研究会の部員として願い通り讀賣新聞に就職した。今頃なにをやっているのだろう。三十二年前に田舎から出てきたばかりのニキビ面の後輩に馬柱の読みかたを教えたことなど記憶にないだろう。やがてそいつが競馬文章まで書くようになったとは想像の埒外に違いない。機会があったらお会いしたいものである。なんてことを思ったりするのも秋だからでしょうか(笑)。

 桜井さんは今も原康史として『東スポ』に「馬場と猪木」なるプロレス物語を書いている。もう十巻ぐらい出ているのか。それはミスター高橋による暴露本の出たご時世に、切り口といい語り口といい、おそろしくアナクロに映る。三十年前とまったく変っていない。唇をゆがめ、鼻で笑いつつそのアナクロプロレス文章を読んでいると、時折泣きたくなるような懐かしさに打たれることがある。

 『東スポ』のプロレス記者として、原康史というプロレス物書きとして、桜井さんはしあわせものである。桜井さんの命名したキャッチコピー、技は、プロレスファンの中で永遠に生き続ける。それはターザン山本がどんなに過激な毒を吐きまくっても到達できる境地ではない。私にとって「ミスタープロレスマスコミ」は桜井康雄さんである。お勤め、お疲れ様でした。(←ヤクザかいな)。
(思いつき10月9日に『ゴング』を読んで。実際の記入15日。)
03/11/9

『NOAH』を憂う!


 深夜。選挙速報も決着した時間に日テレ『NOAH』中継。私は途中で一時寝てしまい、この時間にまた復活した。
 新日との交流が深まるにつれ、『NOAH』も新日風のうんざり流血が増えてきた。今夜も邪道外道により杉浦が流血。いやだなあ。しかも試合後、通路でカミソリで切っているのがみえみえの意味のない流血。やめてもらいたい。

 そもそもテリーやブッチャーの流血で人気の出た全日は、あまりにそっちに走りすぎ、反省し、流血と両リンのない四天王プロレスに方針を変えて王道を築いた。なぜいまごろ『NOAH』が悪しき全日の時代に帰ろうとしているのかわからない。タイトル戦前の小橋の流血も当然意趣返しとしてタイトルマッチでは小川流血につながってゆくのは見え見えだったし、『NOAH』が悪い意味で新日に染まってゆくのを見るのはつらい。縁を切れ。

 『NOAH』に愛想を尽かすとぼくは完全なプロレスファン撤退になる。そうなったらなったでいいのだが多少の未練はある。それは、『NOAH』自体がダメになったのではなく、新日との交流でダメになりつつあるからだ。いやそれも『NOAH』の選択なら『NOAH』自身でだめになることなのだが……。
 ただししがみつきはしない。ぼくが長年プロレスファンでいられたのは盲目的にならなかったからだ。溺愛母親型愛情とでも言うのか。自分の好きなものにはアバタもエクボ的な盲目的愛情を注ぐタイプの人(=一例として新日ストロングスタイル礼賛者)とは根本から違う。馬場嫌い三沢嫌いの猪木は、新日が『NOAH』と交流することを快く思っていない。だが新日との交流で『NOAH』が没落すれば猪木の願い通りになる。なんだかなあ。

今年の「猪木祭り」は日テレ主催なので『NOAH』勢の参加もありうるとか。当然王者の小橋参加が噂されている。やだなあ……。
03/11/15

猪木祭り──ミルコ対高山


 大晦日の日テレ猪木祭りにミルコ・クロコップが参戦する。TBSダイナマイトの目玉は「サップ対曙」だ。知名度、世間の評判は圧倒的に曙であり、それとは比較のしようもないが、それでも格闘技ファンの注目を集めるには最高の選手だろう。もしもどちらかひとつしか見られないと限定されたなら、ぼくは相手次第ではミルコのほうを選ぶ。それぐらい魅力的な選手だ。そういえば先日、「クイズヘキサゴン」で、ミルコの国の名前に関する問題が出て、全員が「クロアチア」と答えていたのには愕いた。ミルコがいなかったら芸能界のアイドルだとかお笑い系なんて誰一人知らない国名だろう。スター一人の存在は大きい。

 対戦相手には小川の名が流されていた。猪木のもつ切り札になる。だけど小川はやらないのではないかと思っていたら、いつの間にか「小川か高山」と二人の名が並列され、きょうあたりはもう「高山が有力」と確定的になっている。小川は「そんな話、聞いてもいない」といつものアルティメットファイト嫌いの発言をしていた。高山なのだろう。なにかの間違いで小川になることを願うが。

 総合における高山の戦績はほめられたものではない。彼の名を一躍あげたドン・フライとの一戦がある。壮絶な殴り合いを誰もが絶賛し称えたが、ほんとにあれはそんなにすばらしかったのだろうか。たしかに互いの首根っこをつかまえたまま顔面を何十発も殴り合ったのはすごいシーンだった。観客が沸いた。だけどあれは「プロレス的な盛り上がり」だろう。高山は腫れ上がった顔のまま、その夜のパーティにも出席し、酒を飲み、プロレスラのタフさをアピールした。これまたプロレスである。若い頃のぼくだったらこの試合、この行動に感激した。年間最高試合だと驚喜したことだろう。
 しかしあのときはそう感じなかった。単なるプロレス的パフォーマンスにしか見えなかった。プロレスラがカミソリで切った額から血を流し、上半身を真っ赤に染めながら、それでも戦い続ける凄味と変わりがない。あの場で求められていたのはそれではなかったろう。パーティ出席も、そんな無理をして後遺症が残らなければいいがと心配しただけだった。と、ぼくは高山の身を案じている。単に否定しているのではない。

 まずあの試合、フライのパンチは高山の顔面に当たったが高山のは当たっていない。総合の試合においてあのシーンが評価されるなら、あの壮絶な殴り合いで決着がついていなければならない。あれでフライをノックアウトして初めてほめられることだ。あるいはあれでノックアウトされてもよかった。そのことで総合の名シーンとなったろう。しかし実際には高山ひとりが顔を腫れ上がらせただけだった。それでも倒れず高山のタフさをアピールした(=フライのパンチが効かない?)にすぎなかった。どう考えてもあれはプロレス的シーンであり、ぼくは昂奮することが出来なかった。

 たとえばヒョードルのパンチだ。マウントポジションになり右ストレートを叩き落とす。下になったノゲイラが必死になって交わす。パンチは当たらずマットにめり込む。空振りだ。ただの空振りにすぎない。なのに寒気がする。総合の凄味は、顔を腫れ上がらせつつの何十発も当たったパンチではなく、一発の空振りにある。そうであるべきだろう。
 サップ戦は腕ひしぎ逆十字で負けた。あれは決まってない形だけのもの。もしも決まったらたいへんなことになるとレフェリーが止めただけらしい。これもサップをもちあげるプロレスだった。そしてかなしいことに、ああして殴り合ったドン・フライが、吉田に負け、先日は全日の川田にすら負けている(これはプロレスだろうけど)。

 今の高山の魅力は「負けても価値の落ちない男」にあるらしい。まあ天山のGⅠ優勝、IWGP奪取(高山の譲与)も見えていたことだし、それはそれでいい。高山のありかたも今のままでいい。大男の好きなぼくには魅力的なレスラだ。短い接触だったが同じ大きな男としてのあり方を教えてもらったという馬場との思い出話もいい。高山の兄さんは高山より背が高いそうだ。鶴田の兄さんもそうだった。とにかくぼくはプロレスラ高山が大好きだ。

 で、猪木祭り。ミルコの相手がその「負けても価値の落ちない男」ではつまらないだろう。断じてそれは「あのミルコに、もしかしたら勝つかもしれない男」でなければならない。たとえ壮絶なノックアウト負けをしてもだ。安田がレ・ヴァンナを負かした前例があるから高山にもまだ可能性もあろうが、常識的には会場を沸かせるシーンはあっても左ハイでのKO負けだろう。プロレスラに総合は出来ない。プロレスの基本は受けることだ。総合は受けないことだ。水と油である。プロレスラ高山は受けてしまう。受けて勝てるほどミルコのパンチとキックは甘くない。

 だったらぼくは永田のほうにずっと魅力を感じる。残念ながら勝てるとは思わないけれど、永田は「負けても価値の落ちない男」ではない。勝ちたいと願い、勝つかもしれないと期待できるなら、対高山よりミルコの相手としてずっと魅力的だ。

 高田が永田を批判した「勝つまでプロレスをやめて追いかけろ」は正論だった。だが永田が反論した「ぼくは高田さんのように負けたからといって一ヶ月も飲んだくれていられる立場にはない(高田はヒクソンに負けたあと悩み落ち込み、そうしていたと語っていた)」も筋が通っている。

 だが今の永田なら、ミルコ戦だけを考えて新日マットを欠場できる立場にいる。今の立場にいながら『NOAH』とのタッグ戦のことしか考えていない永田は、どうやってもミルコには勝てないと結論をだしたことになる。そのことによって高田への筋の通った反論もただの詭弁だったのかとなってしまう。
 高山戦が永田戦になることはないだろうし、永田のほうがより魅力的だとはぼくのようなのの発想であって、商品としては高山戦のほうが世間的には価値があるのだろう。

 いまのところ、猪木祭りが8時から11時、ダイナマイトが9時から11時過ぎと決まったようだ。どっちを見よう。まだPRIDEの参戦すらある。となったら民放三局が格闘技を中継して視聴率を取り合うことになる。これもまた昨年の猪木祭りが対紅白歌合戦の番組として過去最高の数字をあげたからで、相変わらずテレビ局はいいかげんである。これで今年全員討ち死にだと来年はなにもないなんてことなる。(日テレと猪木祭りは3年契約なのでそうはなるまいが。)

 かつてタイに通い始めたころは東京で3台、田舎で2台のヴィデオデッキ計5台を駆使して番組の予約をしたものだった。田舎は月に一度の定期停電があったから東京での予約は必須だった。そんなにテレビが好きだったわけではない。海外に出ている間に「日本から取り残されるのではないか」と怖かったのだ。浦島太郎になる恐怖である。次第にそんなことどうでもよくなり今じゃヴィデオデッキは1台しかない。物置にもう1台あるがもってくる気もない。よって大晦日も、ひとつを見て、ひとつを録画、になる。どっちになるのだろう。売り物の「ミルコ戦」「曙戦」を同時刻にぶつけてくるかもしれない。

 紅白歌合戦のほうは、猪木の言葉を引いて「いつなんどき、どんな番組の挑戦でも受けます」と言ったとか(笑)。しゃれている。結局、猪木はこういう形で世間の中に"歴史"をもっている。猪木以上のプロレスラには誰もなれない。能力的に猪木以上であっても時代が味方しない。

 ついでに曙のすごさについて。
 とんでもない器だと連日スポーツ紙を賑わしている。パンチを受けていたトレーナーがあまりの力の強さに肩を壊してしまったとか、連日一度に二人を相手にしてスパーリングしているとか。そのひとりである二代目グレート草津があまりのすごさに驚嘆したとコメントを出している。

 さてこれをどうとるかだ。主催者のダイナマイト(K-1)が豊富な資金にものを言わせて宣伝活動をしているのは間違いない。トレーナーが肩を壊したなんてのも大嘘で、じつは曙はどうしようもないでくの坊かもしれない。
 が、相撲ファンのぼくは素直に曙の強さを認め、そうであってほしいと願っている。初戦の相手にサップを選んだのは、話題性のためでもあり、同時にキックの出来ないサップなら適当と判断した(曙ではなくK-1スタッフが)からだろう。もしも相手がホーストだったなら、曙は一瞬の突進力でサップのホースト戦以上の圧勝をする可能性もある変わり、右ローで膝を痛めうずくまってしまう危険性も高い。
 ともあれ、楽しみな大晦日である。

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