-2003



03.10/15
『週刊アサヒ芸能』の新連載


 「プロレス名勝負集」「プロレス──酒と女」とかいろいろ形を変えて続いてきたアサ芸のプロレスコーナーが、今週から「師匠を語る」シリーズになった。第一回目は船木が藤原と猪木を語っている。
 猪木幻想のない船木が言いたいことを言い切ってしまっていてすごいなと思う。こういう言いかたは「闘魂下敷き」を使いスクワットをしつつ猪木に憧れていた高田(ノヨウナ世代)には出来ないことだ。前田は出来る。前田はプロレスにまったく興味のない空手青年だった。ただそれでも前田は世代的に猪木と直に接した部分がある。猪木の豪華マンションに行き、「あ、本物の倍賞美津子だ」と感激した場面を体験している。だからまだどんなに辛辣に猪木を批判しても底辺に情を感じる。
 十五で新日に入門し、父親のような齢の猪木にいじめられ、十八で海外修行に出て、一年後の十九にUWFに移籍した船木に猪木への心情的な思いこみは皆無だ。それと、いっちゃなんだが、実生活で父親をまったく知らずに育った船木には、本来そういう部分が欠けている。ぼくは彼と話していて、「この人、どっかヘンだ」と思った。船木にその自覚はない。そこが橋本と違う。同じく母の手ひとつで育ち父を知らない橋本は、「そういう育ちだから歪んだ部分があり、それはこの齢になって突然出てきたりするんだ」と発言したりする。それが出来る。そこが彼の味わいになっている。
「目立ちたがり屋で寂しがり屋」と船木は猪木を評する。「今の新日に関わるのも自分が忘れられたくないという(目立ちたがり屋で)寂しがり屋だから」というのは、ぼくと同じ意見になる。
 真の意味の師匠である藤原には心から感謝をし、藤原組から反乱を起こしたことを反省する。でもあそこで袂を分かつような無分別な部分がなかったらパンクラスは作れなかったと語っているのも興味深い。その通りだろう。パンクラスを持続させることが藤原への恩返しになる。

 アサ芸の一年間無料贈呈が終る前にと急いで《云南でじかめ日記──アサ芸の思い出》を書いた。が、いまだに送られてきている。律儀なことである。せっかくもらっても読むところがほとんどないのだが、この連載が始まってひとつだけ楽しみが増えた。

 それにしてもひどい連載陣だ。もうイヅツのバカを読んでいると腹が立ってならない。サイヨウイチとかテレ朝に出ているヤマモトシンヤとか、なんでやすもんの映画監督ってのは底の浅いサヨクが多いのだろう。って、これはまた別の話になる。

 ぼくにはあのころ藤原幻想があった。何も知らされていず対策も出来ていなかった前田が、それでもなんとか勝ったのだから、それから何年かを経た藤原なら関節技で秒殺だろうと信じていた。ぼくが第二次UWFを取材した頃、藤原は獨自にキックを習っているとかでUの練習場では会えなかった。赤羽かどこかのキックボクシングジムに通っていた頃だ。「取材したとき」ではなく「取材した頃」とアバウトに書いたが二週間通い詰めたから「頃」でいいだろう。

 若き日の佐山がキックボクサーに負けたのを油断負けとし、それ以後もプロレスラがキックボクサーに負けるなんて絶対に認めなかったのだが、藤原がニールセンにノックアウトされることによって、ぼくは初めて彼らの強さを認めたのだった。それによってまた前田の奇跡的な勝利が輝きを増した。素直になれば、負けた佐山が以降必死になってキックの練習を始めたのだから、それだけそれは威力のあるものとわかるはずだったが……。

 無名の新人・佐山聡が、猪木の格闘技戦の前座でキックボクサーと闘う意気込みを「スープレックスでぶんなげてやりますよ」と『東スポ』にコメントしていたのをつい昨日のことのように覚えている。翌日結果を知って落胆したことも。あの一件で佐山の名を覚えたのだった。
 イギリスから帰国してしょぼいマスクでタイガーマスクとしてデビュするのはそれから何年後か。あれは蔵前国技館で見た。あのころはよく通っていた。どうも数字がいいかげんだ。「それは調べればわかること」と前々から割り切っているからではあるが。
03/10/16
国技館──蔵前? 両国?


 「前田対ニールセン」は「両国国技館?」と思った。昭和六十一年である。あれはもう新装成った両国だったのか。
 相撲でもプロレスでもぼくが通った国技館は圧倒的に蔵前が多い。それでも両国も、新国技館オープンと同時に相撲を見に行っている。並んで相撲の切符を買った。それはつい近年の感覚が強い。ほんの十年ぐらい前と思える。まだ蔵前ではなかったかと調べものをした。

旧国技館が開館されたのは、明治42年。昭和25年の假設のまま蔵前国技館が開館され、昭和59年9月23日秋場所の千秋楽で35年の歴史の幕を閉じました。昭和60年1月9日に新国技館が開館され、35年ぶりに国技館が両国に帰ってきたんですね。総工費はなんと150億円!なぜ一時蔵前に移っていたかというと昭和20年12月に旧国技館を進駐軍に接収され、神宮外苑の野天相撲でかろうじて本場所を開催。どうにか興行を続けてきたが、観客はまばら。神宮外苑での本場所は22年の6月、11月23年の5月と3場所行われこの後東京の浜町の假設国技館で2場所しのぎ蔵前に本格的な建設を始めたのが24年の10月
でした。69連勝を飾った双葉山の人気で連日満員御礼を続け、協会の懐が裕福だったときの恩恵が戦後の危機を救ったとも言えます。蔵前に本拠を構えてから朝鮮戦争の軍需景気で客足も好調になり、初和30年代の前半は栃若人気で大相撲の人気を不動のものとしていきました。そして蔵前の土地を東京都に売り新国技館の用地を国鉄から手に入れるなど総工費の150億円の国技館は多くの力士が裸一貫で稼いだ資金で完成したのです。

(相撲雑学辞典より)

 とのことだった。両国が正しい。ネットは便利だ。こんなことも簡単に調べられる。
 「そのときはまだ蔵前だったんじゃないか!?」の疑問も、新国技館開館が昭和六十年と、一年違いだったから救われる。これで新国技館開館が昭和五十年代半ばだったりしたら、おれはもうダメだあと落ち込んだところだった。ほんと、年数に関してはダメだなあ。名勝負に関しても細部は覚えていても年次はまったく記憶していない。「あの試合は、××年の、ハッテンイチゴー」なんて即座に言える人は別世界の人になる。
03/10/18


 真実──船木誠勝

 船木の本を読む。Truthと副題が附いている。なんだかなあ、バカっぽいタイトルだ。かっこわるい。かといって船木のプロレス人生を振り返る本のタイトルとして適切なものも思い浮かばないが。
 今週から始まったアサ芸の連載で船木を見かけなかったら手に取ることもなかったろう。売りは「UWF時代の真実を語る」である。

 新鮮な話はなにもなかったが、それでまた逆に感心したのは、過激な他者攻撃もなかったこと。今も前田とパンクラスの尾崎社長は裁判沙汰で、つい先日二審でまた前田が負けたばかりだ。と書いていて気づく。まだ結審していないのだからそのへんのことには触れられなかったんだね。こんなことをこうして書いていて気づくんだから鈍い。いやになる。

 でもまあそれを割り引いても、船木流の他者をボロクソにいう部分がまったくなく読後感の悪いものではなく仕上がっているのはよい。中でも今じゃすっかりでくの坊ですこしもいい人じゃないとの風評が定着した藤波がとても温情のある人に描かれていて藤波ファンはうれしくなるだろう。十八でヨーロッパに武者修行に行く船木に藤波は50万円の餞別を渡す。藤波だけだったという。ここの流れもわかる。藤波は田舎中学を出てすぐにプロレス界に飛び込んだ船木にかつての自分を見ていたのだ。同じようなやさしさは、決して永田や中西のような大学のアマレス出身者には向けられなかったろう。こちらは長州や馳のグループだ。中学を出てすぐプロレスラになった船木は珍しい存在だった。

 しかしさらにそれらを割り引いても、前田のことなども、解散した後に詫びに来てマンションのドアにお詫びの手紙が入っていたとか、律儀な面を強調していて気分がよい。それらは船木がこの業界から身をひいたからこそ出てきたものだろう。ゴーストは安田だろうが、彼の感覚というより、船木の心がいま穏やかなのだと、いいほうに解釈したい。

 新日ドーム中継ではパンクラスの試合の時、船木が解説席にすわっていた。鈴木、船木という出て行った連中とも絡み、高山や藤田も入れ、『NOAH』とも絡みと、プロレスが総力を挙げてそこまでやっていて不調だから、先は暗い。とはいえ過去最低の入りといっても47000人も集まっているのだからたいしたものだ。いったいどんな人が行っているのか想像もつかない。私は今の親日は、頼まれても行かない。まったく興味がない。
03/11/21
高田『暴露本』考


 高田延彦がプロレス界の内幕を暴露した本が出るらしい。ニュースで報じられていたので2ちゃんねるのプロレス板に行ってみると、長州のWJがつぶれる話とともにたいへんな盛り上がりになっていた。発売は幻冬社。しかし誰もが「いつ出るんだ?」という問いには答えていない。素人の大騒ぎだ。11月23日のサイン会の予定しか載っていない。まだ誰も入手していないのはたしかなようだ。こういうとき2ちゃんねるって子供の集まりでかわいいなと思う。

 知り合いのプロレス好き編集者に連絡して印象的な部分をコピーして送ってもらうことにする。E-Mailを書いた。田舎じゃいつ買えるかわかったもんじゃない。それでも幻冬社だから今までの暴露本と比べたら格段に流通はいいだろう。

 Uインターと新日との絡みも、勝ち負けはもちろん決め技のあの四の字まですべてシナリオ通りであったと暴露しているらしい。それはすでにミスター高橋が書いたことだが、それでも高橋ですら、「それぞれの団体のトップ二人が、こんな感じの電話のやりとりで決めたのだろう」と情況を架空で設定して、いくらかはフィルタを掛けていた。その二人が誰かは誰だってわかるのだが、今回はもろに当事者である。プロレス好きに与える影響のおおきさは計り知れない。プロレスはこれで死命を制せられたとなるだろうか。(註・左の表現、正しいつもりで使ったがどうも情況的にふさわしくないようだ。ここは「とどめを刺された」と書くべきか。)

 今までプロレス関係の暴露本は、佐山の「ケーフェイ」から、ミスター高橋、猪木関係の種々雑多なものまで、すべて「プロレス界を石もて追われた人」が書いていた。より単純に言えば「金のもつれ」それだけである。「跡を濁す立つ鳥」ばかりだった。今回は違う。スターだったプロレスラ自身が「育ってきた地、自分の歴史に泥を塗った」のである。しかも「自分だけはすでに安全地帯にいる」のだ。まだプロレスをやっている後輩も大勢いるというのに、身分を保障された立場でご立派な意見を言ったことになる。信じがたい。

 高田というのは人はいいが頭が悪かった。ジャイアンツの原と似ている。あの種のハンサムはおつむの程度が同じなのだろうか。それはこの欄でも「モチベーション」をバカの一つ覚えのように連発する感覚や、脳にいいとなると引退試合にガムをかみながら入場してきたりする軽薄さで指摘してきた。芯となるものがないから周囲の連中に踊らされてしまうのだ。それは小沢一郎が海部俊樹を総理大臣にするときに言ったという「担ぐのは軽くてバカがいい」に通じる。高田はずっと担がれてきたからバカとしての軽さに適性があるのだろう。

 彼ら格闘家に通じるのは自己愛の強さとともに知的コンプレックスが強いことだ。猪木が村松友視さんにすっかり感化されてしまい言葉遣いまで村松風になってしまったこと。前田の多方面への異様な勉強法等枚挙にいとまがない。今回もそれなりに名のあるライタとの共著(実際は語りおろし構成だろうが)のようになっているらしい。彼のことばに踊らされてしまったのだろう。

 だが御輿の上に乗っていた高田のやるべきことは高山を始めまだプロレス界でがんばっているかつての後輩連中の応援であり、古巣の新日が盛況するための心遣いだったはずだ。担いでくれる人がいたからこそ御輿の上にいられたのだ。それが人の道であり、彼の得意なセリフ「男だ!」であろう。こんな形で暴露し自分だけいい気になっているのは男じゃない。すべてを否定し「PRIDEだけが本物だ」と言うことによってPRIDEのステータスが高まると考えたならそれはあまりに浅はかだ。そのことでどれほど彼を支持してきたプロレスファンの心を傷つけるかわからないのであろうか。

 ほとほと愛想が尽きた。あのボブチャンチン戦での怯えたような高速タップあたりでほんとは尽きていた。でもサトシが大の高田ファンなのであまり書けなかった。サトシはミスター高橋の暴露本は読むに値しないと読まなかったらしい。汚いものから目を背けたのだ。この辺がサトシの弱いところになる。目は背けちゃいかんのだ。好きなものこそ目をそらさず真正面から見なければならない。今回は大好きな高田の本である。どう思うのか、ぜひとも意見を聞きたい。
03/12/4
西村発言

 『週プロ』を立ち読み。
 西村の講演会での話を一部収録。長州政権下での「長州の言うことを聞いた連中は出世した。自分はそうではなかったので干された」ノヨウナ話。高田本なんかよりむしろこういうののほうが一般公開されることとして衝撃度は高い。ともに解っていたことではあるが。
03/12/6


大晦日に向けてヒートアップ!

 6日のK−1GPに元ボクシングチャンプ、フランソワ・ボタの名がある。知らなかったので急いで調べる。前哨戦で、目玉商品だったボタとサップがともに反則負けで姿を消し主催者は頭を抱えていたはずだ。客寄せのために二人を出場させリザーブマッチを組むのではと言われていた。その後のニュースを知らず、いきなり組み合わせを見たので驚いた。スポーツ紙のバックナンバーを調べて、ステファン・レコの欠場によるものと知る。ほんとにこのへんもちょっと目を離すとわからなくなる。11/25には確定していたようだから一週間以上遅れていた。レコはケガをしたのかなあと思う。

 ところが猪木祭りのニュースを読むと。
「猪木、あわてて追加組み合わせ発表」とあり、猪木が「村上和成とレイ・セフォー戦を発表した。ところがセフォーはK−1に出場、これはK−1を棄権したステファン・レコの誤りと判明」とある。はああ、引き抜きだ。う〜む、たしかにレコはハンサムな魅力的なファイターだけど、大金を払って引き抜いて村上と戦わせて元は取れるのか、というかそこまでやる価値はあるのか。それと、レコはベスト8まで進んだK−1を捨てるだけの価値をここに見いだしたのか。ちと疑問。

 さらには、「アーツ総合転身の決意」。K−1グランプリ1回戦でイグナショフとぶつかるピーター・アーツが、総合に転身の用意があると言明。これは前々から言われていたから本当だろう。腰のわるいアーツは立ち技だけのK−1より総合のほうが自分を活かせると判断していた。上背もあるし楽しみだ。ホーストの後継としてボンヤスキーも出てきたからアーツが転身してもだいじょうぶだ。
 しかしまあオランダは格闘王国だねエ。ぼくはオランダに行ったとき、ほんとにみんなデカくって、180センチ以上100キロ以上の大女に囲まれて、ぜったいケンカしても勝てないなとびびったものだった。みんなジャガイモをバケツで食うもの。ディック・フライが用心棒をしていそうなナイトクラブも迫力があった。
 そのアーツと戦うイグナショフも総合の用意があると言うので昂奮した。彼こそが第二のミルコになれる素材だ。楽しみである。

 PRIDEはラウンド無制限で「吉田対ホイス・グレーシー戦」を発表。これまた楽しみだ。吉田が簡単にホイスに勝ったとき、ぼくはまだ吉田の強さに懐疑的だった。田村戦でもまだ疑っていた。どうにもPRIDEが大切な商品である吉田を庇っているように思えたのだ。それが前回のシウバ戦で本物と知ったからもうホイスに負けるとは思わない。負けて認める強さもある。桜庭が試合放棄に追い込んだのはたしかにIQレスラの面目躍如たる勝ち方だったけど、あれとはちがったあっさりと今度こそ文句なしのギブアップ勝ちを奪って欲しい。でもぼくはホイスのファンでもあるから彼が吉田に勝ち、次は桜庭だ! とやってもいいんだよな。こういういいかげんな姿勢だからこそこんな齢までファンでいられた。

 プロレスは、ゼロワンに長州が登場。因縁ある大谷と対戦。
 これはほんとに不思議でどう解釈したらいいかわからない。長州と橋本、大谷の不仲は本物だった。プロレスは不仲では成立しないものだ。どういうことなのだろう。

 先日、何を思ったのか古いヴィデオをかけた。すると「新日対Uインター」が入っていた。偶然だった。タイトルすら書いてない。
 いきなり「山崎対中野」が始まった。とんでもないことをしていたんだなとあきれた。U所属時から二人は仲が悪かった。それを長州に引っ張られて山崎が新日に移籍したものだから、沈みかけた船からさっさと自分だけ逃げ出しやがってと中野の怒りは頂点に達していた。そのふたりをあんな形で戦わせたのである。ひどいことをする。目を背けた。なんとも後味がわるくその試合だけでヴィデオを止めた。
 あの対抗戦がすべて勝敗が事前に決まっていたワークだったとしても、ああいう部分に、全権を持つ長州が、不仲の犬同士をケンカさせて楽しむような残酷なことをしていたのがわかる。底意地のわるい男だ。あ、でも戦国の武将は部下にこういうことをさせたようにも思う。忠誠度を確かめるにはよい方法なのか。

 高田の本に「最初に負けてもその後に勝てばだいじょうぶと思っていたが最初に負けたら客が来なくなった」という部分があり、やっぱり頭が悪いなあと思ったものだった。武藤に四の字固めで負けたUに客がついてゆくかって。長州はほくそえんことだろう。あのワークを高田が飲んだ時点でUインターがつぶれるのは決まったも同然だった。負けを飲もうとも、長州の言う決め技、四の字だけは拒まなければならなかった。ファンがどういう幻想を自分に抱いているかわかっていないのだ。用賀の道場に通い詰めてくるUのファンに百人以上話しかけたが、みな「中野が本気になればアンドレなんて一瞬で関節技でギブアップ」と幻想を抱いていた。それはまあそれでバカだと思うが、ファンの気持ちなんてそんなものだ。肝腎要のそれを高田はまったくわかっていない。今回も「自分はプロレス界から追われた人間」と被害者意識ばかり肥大していて、自分がファンを裏切ったという加害者意識がない。こまったものだ。

 言い出した以上高田本についてもまとめないと焦っている。でもあまりに無内容なので書く気になれない。高田の弟のヤクザ話などあんなライターよりぼくのほうがよほど詳しい。男と逃げた母親のことだっていくらでも知っている。書かないだけだ。あの金子ってのはダメだ。まあこれは別にまとめる。

 長州はずいぶんと橋本に陰湿なことをした。大谷もいじめられた類だ。それがなぜいまプロレスが出来る。わからない。金か? いや金はあるだろうけどそれでは超えられない問題だと思うのだが……。(11/4)

附記越中と『NOAH』(11/5)
 と書いたので、「だったら越中の『NOAH』との絡みはどうなのだ!?」と思う人がいるかもと考えた。越中の全日離脱の基本は馬場夫人との確執だった。馬場はかわいがった越中があの猪木の戦力になることに頭から湯気が出るほど腹だったが、事情を知っていたので許してやった。元子さんは坂口の件にも関係しており(これは別項で書く)当時から女帝はだいぶ問題児だった。よって、長州についていったはいいが、WJ沈没で食いっぱぐれた越中が三沢に頭を下げたのはごく自然のことになる。二人のあいだに憎しみはないから上手なプロレスが出来る。かつての全日、今の『NOAH』ファンであり、長州嫌いのぼくとしては、「よかったなあ、越中」の気分。越中が長州の弟子になったのも、所詮外様の越中が新日で生き延びてゆくにはどこかの派閥に属するしかなく、それには当時反体制だった長州のところしかなかったのだろう。性格的に越中は長州の部下になるタイプではない。三沢と一戦交えた後はいいタッグパートナになるだろう。ほんと、よかったなあ。もどるべきところにもどれて。でもマイクパフォーマンスでひとこと言うたびに「コノヤロー」をつけるのはやめろよ(笑)。古いぞ。
12/7
19年ぶりの三沢と越中

 深夜の『NOAH』中継。昨日やった試合を日テレがさっそくきょう流してくれた。しかも一時間の特番。GHCタッグ戦と三沢越中戦。19年ぶり。
 昼、図書館のスポニチで試合結果を読んだら、81年6月18日の「浦和競馬場前特設リング」が初対決とあった。ああ、そうだったなと懐かしく思い出した。あのころこれは前座の名物だった。いつも越中が勝っていた。スポニチの記事によると、その後84年に一緒にメキシコに遠征するまで三沢の37戦全敗とか。勝っていないのは知っていたがこんなにもとは思わなかった。
 あるひ浦和競馬に行くとポスターが貼ってあった。全日が来ると。場所は競馬場前の特設リングだ。今もわからない。あそこにどういうふうに設置したのだろう。同じころ、帰郷した際、田舎の「青果市場特設リング」で見ている。でもそれは閉鎖空間だ。たしかに浦和競馬場前には広場と呼べるだけのスペースがあるのだが、あそこをどう囲ったのだろう。二人の前座名勝負数え歌は、あの22年前の浦和競馬場前特設リングから始まったのかと、ぼくなりに19年の空白を思った。

その後、ニッカンを読んだら《全日本に入門した三沢は81年8月21日のデビュー戦で越中の胸を借りた》とある。日附が違う。どちらが正しいのか。まあこんなことでもマスコミはいいかげんだとわかる。

 19年ぶりの試合は、果たして名勝負だったのかどうか。そういう思い入れがなかったらどうなのか。思い入れがあるので判断がつかない。一応ヴィデオに撮って保存版とした。決め技となったブレーンバスター形式から入るエメラルドフロージョンは新鮮だった。
 越中を見ていたら、新日で馳とライバルだったころ、『週プロ』にコラムをもっていた当時専修大の教授だった松浪健四郎が、教え子の馳に対し、「あんなステテコ野郎に負けるな」と書いていたことを思い出した。あれから彼は国会議員になり、チョンマゲで名を売り(あれは正しくはチョンマゲじゃないよね)、ヤジを飛ばす民主党議員に演壇から水をぶっかけ(これは痛快だった)、ヤクザとの金絡みで問題になり、今回落選してただの人にもどった。今後挽回が可能とも思えない。一方同じく国会議員になった馳は、石川県の森派の一員として着実に足下を固めつつある。前回の当選、今回の落選(比例で復活)は公明党の票に因る。前回は頼み込んで票をもらい受かった。今回はもらえず落ちた。民主党が200議席に達したら、政権のゆくえは「公明党次第」になる。それは問題だねえ。

 そうして想いは脈絡なく広がって行き(本人的には整然とした脈絡があるつもりなのだが)、なぜか「赤尾敏の演説を一度ぐらいまじめに聴いておけばよかった」に繋がっていった。大日本愛国党の赤尾敏総裁は、ぼくの時代には典型的な泡沫候補だったし、心情サヨクの学生であるぼくには、一顧する価値すらない存在だった。時が流れ、今になって、当時銀座でよく見かけた彼の演説を、一度ぐらいは始めから終りまでしっかりと拝聴しておけばよかったと想ったのだった。

 たいして期待もせずネットで探したら、フジテレビの「とくダネ」にも出演している岩上安身さんのサイトに以下のような文が見つかった。

救国のキリストか銀座のドンキホーテか
愛国党総裁 赤尾敏 24時間密着取材!
「平成元年の右翼……右翼の未来はあるか?」 1989 JICC出版局 1989
http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/right1.htm

 ぼくは赤尾さんが昭和17年に高得点で衆議院議員に当選していることを知らなかった。全国5位だという。またサヨクからの転身であることも知らなかった。初戦以来ずっと泡沫候補なのだと思っていた。勉強になった。なにより本屋でなにかを探してみようと思ったが、かといって田舎の本屋だから見つかるはずもないし、また田舎図書館でも見つからなかったろう。諦めていたから、ネットとはなんと便利なものなのだろうと感謝した。
 この文章は、ぼくが単行本になる予定のない気に入った競馬文章をサイトにアップしているように、岩上さんの同じ行為である。まだノンフィクション賞をもらう前の若い日に書いたJICCの思想的寄せ集め本に収められたもののようだ。ワープロ誤変換による誤字が何カ所か目について気になった。まあこれは自分のことは気づかないが他人のものはよく見えたりするからしかたない。

 そんなわけで、ぼくの深夜の「三沢越中19年ぶりの邂逅感想文」の結びは、「赤尾敏密着取材」になってしまったのだった。


 三沢が第一試合でデビュした1981年とはどんな年だったのだろうと調べてみた。
 プロレスとしては、「6月、鶴田がUNを防衛」とある。まだUNチャンプの時代だった。となとるパンツは黒になる前のあの二色の派手派手時代である。7月に「シンが乱入」とある。全日のシン引き抜きはブッチャー引き抜きの意趣返しだった。ブッチャー引き抜きとは猪木のIWGPの格つけ、一気に全日つぶしの戦略だった。

 ぼくは当時新日に熱心に通っていたけど──いまでも歴代の中で一番印象の強いレスラは誰だと尋かれたら文句なしに猪木になるだろう──このIWGP構想には苦笑していた。プロレスってのは、日本で言うなら、県チャンピオンが都道府県すべてにいて、そこに全国チャンピオンが巡回してきて防衛戦を行う形式で成り立っている。挑戦者のおらが村の県チャンピオンは善戦するが老獪な全国チャンピオンに翻弄されて反則勝ちだ。反則勝ちではタイトルは移動しない、よおし、次こそ、となる。全国チャンピオンは翌日は隣県で防衛戦だ。チャンピオンに必要とされるのは、どの県に行っても県チャンピオンを引き立たせ、おらが村のチャンプが勝てるかも知れないと熱狂させる資質だ。必然的に悪役になる。そういうおらが村の英雄・県チャンピオンの中から次の全国チャンピオンになる逸材が発掘される。そういう流れだ。

 猪木新間のやろうとしたのは、そういう県チャンピオンを全部廃止して日本チャンピオンひとりにしようということである。普段の県の開催は、県内を巡回して群チャンピオン、村チャンピオンの挑戦を受ける県チャンピオンの防衛戦で成り立っている。県チャンピオンを廃止してしまったら全国の都道府県は普段の興業はどうしたらいいのだ。まったく言っていることがプロレスの根本と矛盾している。
 それでもこれを「壮大な構想」と称える人もいたのだからいいかげんである。ぼくは幼少時からの熱心なプロレスファンであったが、こういう本質的な矛盾を無視して、「さすが猪木」とか「真のリアルワールドチャンピオンが」とわくわくするほどバカではなかった。なにより猪木のすばらしさとは、カナダのごく一部地方のローカルチャンプであったNWF(しかも金でパワーズから買った)を自身の力で権威あるベルト(すくなくとも日本のファンには)に育て上げたことではなかったか。いわば猪木はコネも学歴も家柄もないところから一流会社を育て上げた立志伝中の人物になる。なのにこのIWGP構想ってのは、そういう功成り名を遂げた成金が金で学歴や家柄を買おうとしているようなみっともなさがつきまとう話だった。NWAという権威を否定したからかっこよかったのに、新たな権威を作ろうとするんじゃ、単なる欲しがり屋だったのかと思われてもしょうがない。猪木戦略の根本的な間違いはこれだろう。いまIWGPが新日認定ベルトになっているのは当然の帰結だ。
 その点、馬場系はそういうホラは吹かない。もっともこちらは既製の家柄であるNWAを尊重するからこれもまたこれで問題ありか。現実的なたとえで言うなら、馬場は「やっぱり東大ですよ、だって現に世間の優秀な人材は」と言う自分が東大を出ているからという権威的なイヤラシサに満ちていた。それを否定し、真にすぐれた人材に学歴など関係ないと民間の「猪木学校」を作ったかっこいい人が猪木だったのに、生徒が増えて世間の評判があがってきたら、猪木学校を大学に認定してくれと文部省に陳情を始めたようなものだった。馬場の権威的な姿勢も悪臭紛々たるものだが、猪木の変節もものがなしかった。現在猪木批判が激しいが、それは猪木が、決してプロレスなど愛していなかったとバレてしまったからだろう。
 って、なんでそんなことを長々と書いてるんだ、おれ(笑)。きりがないので急いで終る。

 1981年を昭和56年と直すと急に印象がリアルになる。第一回ジャパンカップの年であり、ホウヨウボーイ、モンテプリンスの一騎討ち秋天の年だ。有馬はヒカリデュールか。クラシックは? ん? 印象が希薄ってことはすなわちあれだな、カツトップエースの二冠制覇。菊はシンザンの仔が初めてクラシックを勝つ。ミナガワマンナ。翌57年のアズマハンター、バンブーアトラス、ホリスキー、シービーの58年、ルドルフの59年、ミホシンザン、シリウスシンボリの60年と、充実一途の流れになるのでこの年はクラシック的にはエアポケットになる。
 後のサニーブライアンの年とそっくりだった。なのになぜあのダービーで単勝を買えなかったのか。鼻血が出るほどメジロブライトで勝負してしまった。死にたくなったけなあ、ほんとに。

 その他、将棋のこととか考えてみると、ぼくの中では趣味がシンクロしていないことを痛感する。そういう中、競馬を年月で覚えているからそこから記憶を引っ張ってこられる。これはありがたいことだ。

 そうか、まとめとして「三沢デビューの年、第一回目の三沢越中戦が行われたのは、カツトップエースがダービーを勝った直後、第一回ジャパンカップの年」と。これでいいや。

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