2007


 『週刊ファイト』の休刊、井上編集長の死

 『週刊ファイト』が休刊になると知った。来週号が最終号だと。休刊すなわち廃刊である。なぜか正面からそう言うメディアはすくない。2006年の「9月一杯で休刊」らしい。
「そうか……」と思った。驚きはしなかった。私が毎週缺かさず買っていたのは昭和50年代である。貴重な週刊紙だった。そう「誌」ではなく「紙」である。やがてより充実したグラビア誌である『週ゴン』や『週プロ』が出てくると、(一時は三誌紙とも買っていたが)次第に『週刊ファイト』が抜け落ちていった。

 小学生の時から愛読してきた『月刊プロレス&ボクシング』が『週刊プロレス』になったのはいつだったろう。1983年7月。昭和58年か。ミスターシービー三冠の年だ。『ゴング』の方が好きだったけど。
 佐山タイガーのデビュは1981年4月23日。昭和56年。ホウヨウボーイとモンテプリンスの一騎討ち秋天。ヒカリデュールの有馬記念。というより第一回ジャパンカップの年だ。
 当時タブーだったことをいかにも大阪らしいアングラさでビシバシ書いてしまう『週刊ファイト』はそれまでのプロレスメディアとは違った新鮮なものだった。プロレスメディアの代表といえば毎日読んでいた『東スポ』である。『東スポ』は御用新聞だった。プロレス界に都合の悪いことは一切書かなかった。
 『週刊ファイト』で今も鮮烈に覚えているのは、来週デビュウするタイガーマスクの正体を佐山サトルと書いてしまったことだった。さらには「いる人間から一を引いたのだから、それが誰かはすぐにわかる」とまで書いた。書いたのはもちろん井上編集長。

 タイガーマスクが田コロでソラールとやったのは、あの伝説のアンドレVSハンセンの日。「ラッシャー木村の皆さんこんばんは事件」の日でもある。1981年9月23日。デビュ戦からちょうど5ヶ月経っている。このとき印象的だったのは私たちの後ろにいたサラリーマン二人組が、「いいか、ぜったいに秘密だぞ」と言いながら、「タイガーマスクの正体って元新日本の佐山ってレスラーらしいんだ」と周囲を気にしながら話していたことだった。それこそこの秘密を下手に口にしたら殺されるぐらいの感じで。そんな時代だった。
 そんなこと誰だって知ってるよと、大人げない私は、タイガーマスクが出てきたので「がんばれ、佐山!」と大声で叫んだ。その二人があっけにとられていたのがおかしい。大人げないことをやっているが当時は私も二十代だった。

 『週刊ファイト』の情報公開の姿勢には感激した。当時毎週缺かさず買った『週刊ファイト』を5年分ぐらい取っておいた。まだ関東では買うのに苦労した時代である。しかし紙質の悪い週刊紙であるから、すぐに日に焼け、それはただの古新聞の山になった。でも当時自作プロレス本を作るぐらいプロレスに凝っていた私には、それは業界に気を遣わずキツいことを書いてくれる愛しい教科書だった。

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 私はなぜ『週刊ファイト』を卒業してしまったのだろう。もちろん近年の井上編集長が一線から身を引いたものには興味がないが、あのころはまだ井上さんが先頭に立っていたのだ。
 井上さんの弟子であるターザン山本が『週プロ』で頭角を現してきたからだろうか。『週プロ』編集長になる前、『週刊ファイト』から移籍したばかりの三十代新人のターザンはプロレスラー名鑑を担当している。一冊丸ごとひとりのレスラーを特集したグラフィックなムック本である。これは今も10冊ほどを保持している。どこかのダンボール箱に入っている。傑作だった。ターザンはこれで名を挙げ編集長に抜擢された。

 『週刊ファイト』を卒業したのは、井上編集長があまりに猪木贔屓だったからのように思う。『週刊ファイト』とは『週刊新日』『週刊猪木』だった。世を挙げてのプロレスブームに新間営業本部長は「プロレスブームではない。新日ブームなのだ」と豪語したが『週刊ファイト』もそれに倣っていた。その視点が気に入らなかったのだろう。私はそれほど新日信者ではなかった。全日と五分に好んでいた。だからターザンの作ったムック本でも「ザ・アマリロ」というドリーとテリーを特集したものが好きだったりした。
 その中で人気絶頂のテリーが自分には日本から山のようにファンレターが来るがドリーにはまったく来ないので誰か書いて欲しいと語っていた。初来日の時(昭和43年)からドリーのファンだった私は、誰も書かないのなら返事をもらえるかもしれないと、本気でドリーにファンレターを書こうかと考えた。アイドルタレント等に興味のない私にとって、これは人生で唯一の「ファンレターを書こうか書くまいか」と悩んだ件になる。結局書かなかった。今も書けばよかったと悔やんでいる。

 後に馬場と親しくなるターザンだが当時は新日一辺倒だった。そういう『週プロ』を愛読していたのだから『週刊ファイト』は新日贔屓すぎてイヤだ、というのは当たらないか。たぶん、井上編集長の薫陶を受けて育ったあたらしい木であるターザンの方が、私の感性には合っていたのだろう。
 昭和60年に競馬の仕事を始めたとき、私は迷うことなく自分の書いた『優駿』(そこにはブルーザー・ブロディの一言を引用していた)をターザンに送った。すぐに礼状をもらった。次に各分野の有名人が月代わりで書いていた『優駿』の巻頭エッセイにターザンを推薦して採用してもらった。これがターザン山本の競馬初仕事である。ここからターザンは「競馬宝島シリーズ」等に声を掛けられたりして競馬の仕事をするようになる。現在も大活躍中だ。ターザン山本氏と競馬マスコミを結びつけたのが自分だというのは私のささやかな誇りになる。

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 ターザン『週プロ』編集長時代に「新日からの取材拒否事件」があった。あの時期私は毎週缺かさず『週プロ』を買った。新日の取材拒否に負けて欲しくなかった。その分、全日の記事が多かったことも楽しかった。取材拒否したターザンの天敵は長州力である。
 しかしこれはあっけなく『週プロ』の負けでけりがついた。取材解禁とともにターザンは解雇された。世の中にはそんなに新日ファンが多いのか、新日の記事が載っていない『週プロ』はそんなに売れなかったのか、と残念でならなかった。

 力道山はプロレスマスコミを自分たちが食わしてやっているのだと言い放ち、そういう扱いをした。実際当時のプロレスマスコミもプロレス(=力道山)に都合の悪いことは一切書かない御用マスコミだった。
 長州の感覚は力道山だった。自分たちが居ることによって成り立っているプロレスマスコミが自分たちに都合の悪いことを書くことを許さなかった。ターザン山本『週プロ』の長州への敗北は私にとって強烈な記憶のマスコミ的事件になる。

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 やがて私は『週ゴン』も『週プロ』も卒業し、『紙のプロレス』が一番のお気に入りになる。
 さらにミスター高橋や『泣き虫』の影響もあったのか子供時代から一途だったプロレスをとうとう卒業してしまう。プロレスを見なくなり『PRIDE』や『Hero's』を好むようになった。

 そうして知った『週刊ファイト』の休刊だった。そして年が明けてから井上編集長が昨年の12月13日に亡くなっていたことを知る。時代の終りを感じる。

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 ネットで探した画像が「猪木は死ぬか!」しかなかったのでこれしか載せられなかったが、井上編集長の著書としては、私にはこれより兄弟本の「猪木を信じよ!」の方が印象深い。(多くの本が未だにダンボール箱に入ったままなのだが果たして「猪木は死ぬか!」「猪木を信じよ!」はあるのだろうか。持ってきたような引っ越しのとき捨てたような……。)

 そこではウイリアム・ルスカが「金のために猪木に負けてやった」と酒場で語っていることを聞いた人が編集長に本当でしょうかと相談していた。信じたくないのだが言下に否定も出来ないのだ。編集長の答は「猪木を信じよ」だった。
 ルスカが重病の妻の医療費を稼ぐため猪木に負けてやったのは今でこそ常識だが、当時はもちろん私も猪木を信じた。猪木のバックドロップに敗れたくせに陰でこんなことを言うとは、ルスカとは何と女々しい奴だろうと嫌った。そんな時代だった。

 しかし晩年『紙のプロレス』ならぬ「Kamipro」に登場した井上編集長は、「ハリー・レイスってのはとんでもない奴でね、来週金のために馬場に負けてやるなんて平気で言っちゃうんだ」と語っている。NWAチャンプのレイスである。馬場の一週間天下の話だ。それはもう馬場好きの私だって馬場がNWAチャンプにしてもらい、レイスが帰国するときにはベルトを返すというのは読めていたけれど……。長年記者をやってきた井上さんはそんな裏事情も知っていた。ならなぜ「猪木は死ぬか!」「猪木を信じよ!」と言えたのか。猪木は死なないし猪木は信じられない。馬場対レイスと猪木対ルスカは同じプロレスだろう。

 あの世に行ったら是否とも井上編集長にこの辺のことを聞いてみたい。私にとって編集長の死は、あっちの世界に行ったらとことん話してみたい人がまたひとり先に行った、だけである。
 かなしみはない。

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 ところでこの文章を書くために「プロレス2007」というこのファイルを新たに作ってしまった。かなりの確率でこのファイル、今年中にこれしか書かれないような気がする。どう考えても今の私がプロレスのことを書くとは思えない。さてどうなるか。

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後日註・調べてみたら昨年06年もプロレスは「佐山と前田の再会」という一テーマだけだった。今年もそうか!?
07/3/1
 ゴング廃刊! ガセネタ?




週刊ゴング廃刊決定

先日、代表取締役社長の前田大作容疑者がコンピューター関連機器会社「アドテックス」(東京都港区)の民事再生法違反事件で逮捕された日本スポーツ出版社は、27日までに「週刊ゴング」の廃刊を決定、編集部員全員を解雇すると通告しました。40年の歴史を持つプロレス専門誌「ゴング」は来週発売号をもってピリオドを打つことになりました。

<「週刊ゴング」とは?(WIKIPEDIA」より(敬称略)>
ベースボール・マガジン社でプロレス&ボクシングの編集長をしていた竹内宏介を日本スポーツがヘッドハンティングし、竹内を編集長・総責任者として1968年に月刊誌「月刊ゴング」として創刊。当初はプロレスだけでなくボクシングも扱った格闘技専門誌だった。1982年にボクシング部門を月刊ワールドボクシングとして分割、プロレス専門誌化される。1984年に週刊化され現在の誌名に変更。
http://www.zakzak.co.jp/top/2007_02/t2007021910.html

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 1968年の創刊号から闕かさず読んで来たひとりとして複雑な思いである。最初はベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」に対抗したものだったので、中身もプロレスとボクシングだった。私はプロレスのみを読みたかったので、このすぐあとに出る「別冊ゴング」に特に思い入れがある。「別冊ゴング」とは月刊のプロレス専門誌だった。本誌のゴングが毎月1日発売、別冊は15日発売だったか。別冊の方を毎月待ちわびては購入したものだった。

 このプロレス専門の別冊ゴングが「週刊ゴング」になる。ベースボールマガジン社の「プロレス&ボクシング」が「週刊プロレス」だ。週刊誌になってからは私は『週プロ』の方を読むようになり、そのあたりから「ゴング」との縁は切れてしまった。立ち読みは闕かさずしていたが。

 近年はもう立ち読みさえしなくなっていた。たまにするそれは『NOAH』の大きな大会があったときだけだった。
 思いこみというなら、昨年廃刊になった『週刊ファイト』とは比べ物にならない。ファイトを読んだのは二十代後半の時だった。別冊ゴングは高校生時代である。
 プロレス会場に足繁く通ったのはそのファイトを読んでいた時期だった。一緒に行った金沢のKやM、コニシとか、プロレス仲間も多く、自家製のプロレス誌を作ったり、いろんな意味で最もプロレスに充実?していた時期になる。だが私にとって胸が切なくなるような濃密なプロレスへの思いは、田舎の高校生のときの「別冊ゴング」とともにある。「まだ見ぬ強豪」としてスパイロス・アリオンやミル・マスカラスにあこがれていた時代だ。情報が乏しかった時代の乏しかったからこその充実を感じる。昭和三十年代へのいとしさと同質か。「別冊ゴング」なんて欄外のミニニュースまで暗記してしまうほどだった。

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 プロレスを殺したのは誰なのだろう。まだ死んでいないと怒る人もいるかもしれないから、私がプロレスを卒業してしまったのは何故なのだろう、とした方が無難か。
 それは時代の中で必然だった。私はそれを「先祖返り」と解釈している。
 本来のプロレスは権力者に庇護されて、あるいは権力者の権力の一部として、真剣勝負だった。パーリトゥードだった。
 それが発展し見せ物として成り立つようになる。各地を廻る巡業であるから怪我は大敵だ。マットは柔らかくなり、その分、派手に空を飛んだりするようになった。大技の連発で長時間闘ったりした。それが行き着くところまで行ったとき、先祖返りが起こった。1分も掛からず終っても、真剣勝負ならその方が価値があると思われる時代が来た。ぐるりと一回りして元にもどったのである。

 ということは、今の真剣勝負であるが故に残酷で地味な短時間の闘いがまた一回りしたら、信頼し合っている者同士が相手に怪我をさせないように闘うプロレスの安心感にまた脚光が当たる日が来る、とも言える。

 しかしそんな日が来て、かつてのように子供達がゴールデンタイムのプロレスを楽しむようになったとしても、私がまた以前のようにプロレスを好きになることはないように思う。
「プロレスは卒業するもの」と言われてきた。私は頑固に留年を続け卒業しなかった。それは校舎の崩潰、あるいは学校の閉鎖のような形で訪れた。いまだ卒業したのか追い出されたのかわからないのだが、もう復学だけはないように思う。
 今も土曜の深夜、PC作業をしていて、ああもうそろそろプロレスだな、と思うことがある。ネットの番組表を見る。棚橋、永田などと書いてある。見る気がしない。見ない。『NOAH』の我慢比べのような試合もつまらない。ブロレスは「あれが出たら終り」でなければならない。
 創刊号から読んできたゴングの廃刊で切れかかっていた糸がきれいに切れた。突然のことではなく緩やかな死だったから、かなしみはない。


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ガセネタ?

 というところで以下のような否定的なニュースが流れた。ガセだったのか!?
 でも最高時で30万部近く売った『週プロ』が今その十分の一であるように、プロレスマスコミ全体が青息吐息であるのは事実。今回は回避されたとしても先は見えている。

老舗「週刊ゴング廃刊」 社員もビックリのガセネタ? (J-CASTニュース)2007/3/ 1

 プロレス雑誌の老舗で40年も続いた「週刊ゴング」が2007年3月7日発行号で廃刊になる、というウワサ話が07年2月28日から流れ、ネットの掲示板やブログでは廃刊を惜しむカキコミがあふれている。ところが、調べてみると、正式決定はされていない様子。真相はどうなのか。

 夕刊フジは07年3月2日付の紙面で、「週刊ゴング廃刊」という見出しを躍らせた。記事には「週刊ゴング」だけでなく、「ゴング格闘技」「LADY'Sゴング」の3誌が揃って幕を引く、と書いている。

 J-CASTニュースは日スポに取材してみた。すると、非常にあわてた様子で、
「今日(07年3月1日) 急にそういう問い合わせが多方面からたくさんあって、社員全員がビックリしているんです。調べてみても、廃刊するという報告も、上の決断も何も無くて、対処に困っているんですよぉ~。本当に何もないんです。こんな事聞いてすみませんが、こんな時はどうすればいいのでしょうか?」と、J-CASTニュースが逆に質問をされてしまった。

 今回急に「廃刊」が騒がれた原因について、あるサイトに掲載された「告知」ではないか、と日スポはいう。それは格闘技専門の電子書籍サービス「ファイト!ミルホンネット」に07年2月28日に掲載された「記事」だ。

 日スポ側はこう推測する。

「社内の見解では、イタズラか、もしくは、社内にそうなればいい(廃刊になればいい)と思っている人がいて、意図的に出したのだろうと…」

 プロレス人気の低迷と、経営難で、以前から休刊、廃刊の噂があった。ただ、プロレス界、そして同社の看板雑誌が、「来週廃刊」をそんなに急に決められるものなのだろうか。

 先の夕刊フジには、「ゴング」の杉本貴公統括マネージャーのコメントも掲載されている。
「そういう話が広まりつつあることは知っています。ただ私の立場では、今は止めるとも止めないとも、なんともいえません。来週発売するゴングの誌上で、なんらかの話を載せることになります」


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 いつものように……
 3月8日、『ゴング』はいつものようにコンビニに並んでいた。なにかコメントがあるかと探したが何もない。どういうことなのだろう。もしも完全なガセネタだとしたら最初に流したところは責任問題である。

廃刊しません!週刊ゴング一部報道否定

 約40年の歴史を持つ老舗プロレス雑誌「週刊ゴング」が“廃刊騒動”に巻き込まれた。発行する日本スポーツ出版社(東京都中央区)の前社長が、同じく社長をしていた「アドテックス」社の資産隠し事件で逮捕され、とばっちりを受けた格好。一部で「来週で廃刊決定」と断定的に報じられたため、同社では2日、廃刊報道を「誤報」と強く否定した。ただ、資金繰りが厳しいのは事実のようで、プロレスファンをやきもきさせている。

 “廃刊騒動”は先月28日、プロレス・格闘技専門の電子書籍販売会社のサイトのニュースコーナーに「週刊ゴング廃刊決定」と報じられたのが発端の1つ。日本スポーツ出版社が2月27日までに廃刊を決め、編集部全員に解雇通告したとした上で「来週発売号をもってピリオド」と伝えた。今月1日には一部紙も「ついに廃刊」と報じ、前社長が残した巨額債務がとどめを刺したとした。

 同社の前社長前田大作容疑者(51)が、社長を兼務していたコンピューター関連機器会社「アドテックス」の資産隠し事件に絡み、2月19日に逮捕されたことから、同誌の存続不安説は、プロレス関係者の間でもともとささやかれていた。翌20日には新社長が就任し、新たなスタートを切ったが、「廃刊報道」で、1日以降、同社には読者から問い合わせの電話が相次ぎ、ネット上にも廃刊情報を論じる書き込みが多数なされた。

 こうした事態に同社ではこの日「廃刊の報道を強く否定させていただきます」と否定声明を出した。新社長が資金繰りに奔走していることや、今後部数やコストを削減する方針は事実だが「廃刊という事実はございません!」という。同社によると、2月27日に社内会議をし、そこで会社側は編集部員らに対し「もし退職希望者がいれば、辞表は受理します」という話はし、実際に希望者もいたが、解雇通告はしていないという。同社では「この経緯が誤解されたのかもしれない。『ゴングを残していこう』という話はしているが、廃刊や解雇通達報道は誤報です。今回の報道には正直びっくりしている」と話した。

 ただ「お金の面は正直厳しい。いつ『試合終了』となるか分からない雰囲気もある」(同誌関係者)との声もあり、先行きには不透明感も漂う。

 プロレス雑誌をめぐっては、老舗の「週刊ファイト」(新大阪新聞社刊)が昨年秋に休刊したばかり。68年、月刊誌として創刊し、84年に週刊化された「ゴング」の行方をファンは気にしており、読者歴20年以上の都内の自由業男性(35)は「『ゴング』は客観的で幅広い情報に加え、インタビューに深みがあり面白い。『ゴング』が休刊したらプロレス週刊誌は『週刊プロレス』だけになってしまう。今後の行方が非常に気になる」と話している。

[2007年3月3日8時56分 ニッカンスポーツ]


3/14
 ゴング 廃刊!

 先週号がいつもと変らず発刊され、ただのひとこともこの件に関して触れられていなかったので、部数減による苦しさはあっても当面はこのまま続くものと思っていた。
 だから今日コンビニで以下の表紙を見たときは驚いた。

 先々週初めてこのニュースを知ったとき、月刊の創刊号から読んできた身として、切なくはあるがかなしみはないと書いた。
 しかし今日、ゴングと言えばマスカラスなのだが、そのマスカラスがしみじみとこの三十年を回顧しているインタビュウを読んでいたらなんともたまらない気持ちになった。

 深夜、『ゴング』に関するニュースを探す。
 通販の書店があったので行ってみると下記の表示。本来ならここに最新号の表紙があり購入法と値段が書いてあるのだった。すでに最終号は取り扱いをしていないと言うことになる。



 こういうわびしさがいちばん効く。
 手あかのついたギター侍に「残念!」と言われるのがよけいに悔しい。
 プロレス週刊誌『ゴング』はもうないのだと確認した瞬間だった。


 弊社発行の「週刊ゴング」は、本日3月14日発行の通算1168号をもって一時休刊のやむなきに至りました。読者、販売店、広告スポンサー各位をはじめ、長年にわたり弊社をご支援いただいてまいりました皆様に、心より感謝の気持ちを伝えるとともに、深くお詫び申し上げます。
 弊社は、1968(昭和43)年、東京は千代田区神田での創業以来、皆様の温かいご援助に支えられ、プロレスを中心としたスポーツ雑誌の発行により業界の一翼を担うまでに発展させていただきました。
 来年には創業四十周年を迎える予定でしたが、弊社をめぐる経済環境はバブル崩潰後より、いまだかつてない厳しさにさらされたため、経営は悪化の一途をたどってまいりました。
 皆様のご協力とスタッフの努力が幸いし、「週刊ゴング」自体は購読部数を確保してまいりましたが、長引く不況の中、弊社自体の経営環境が悪化するとともに、今回すでに皆さまもご存じの通り、弊社代表前田大作の逮捕という不祥事に直面し、最悪の事態に追い込まれました。
 創業と同時に創刊しました月刊誌「ゴング」は、1984(昭和59)年に月刊誌から週刊誌へと移行し、雑誌名も「週刊ゴング」と改め現在に至ったしだいです。
 月刊誌「ゴング」創刊以来39年間、幸い各位のご理解ご協力を得ることができ、微力ながらも多くのプロレスファンの方々をはじめとして、社会一般の方々にもプロレスの情報をお伝えすることができたと自負しております。
 来年1月には、創刊四十周年の節目を迎える予定でしたが、経営環境の悪化を克服することは容易ではなく、今回、読者の皆様をはじめ関係各位の方々の期待に添えることなく、多大なご迷惑をおかけする苦渋の選択を決断せざるを得ませんでした。
 最後に、改めてこれまでのご愛読、ご支援に心からの感謝を申し上げるとともに、お詫びと休刊のご挨拶とさせていただきます。

 39年間の長きにわたり、本当に有り難うございました。

 2007年3月14日
                  株式会社 日本スポーツ出版社
                       取締役 内田 幸文
                           役員 一同

 『ゴング』を熱心に読まなくなって長いから感傷的なことを書く気はないが、田舎の高校生時代、毎月の発売を心待ちにしていた日々を思い出し、すこしばかり胸が熱くなった。
7/30
 カール・ゴッチの死




 カール・ゴッチが亡くなった。82歳だった。
 レスリング・オブザーバー誌の記事に以下の赤字の部分が出てきたので感激した。
 日本人が名つけた「プロレスの神様」があり、「新日」、前田と高田の名前が出ている。

 ゴッチが身体能力としていちばん高く評価していたのは佐山だったが、プロレスラーとしての活動期間が短かった彼はここでは評価されていないようだ。高田は体が硬いのでゴッチはあまり評価していなかった。かくいう彼も堅いが。

 He ended up becoming a legend in Japan, where he was eventually nicknamed "The God of Professional Wrestling." He was the trainer for New Japan Pro Wrestling and later the original UWF, and his influence in students like Akira Maeda and Nobuhiko Takada led to the rise of shootfighting and eventually MMA in that country.

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 2ちゃんねるの「芸スポ速報」板にスレが立っていたので読んでみる。
 するとあちらこち間違いだらけだったので呆れた。誰かがまちがったことを書くと、直してやるのはいいのだが、それがまたまちがっている。そこいら中、しったかぶりガキンチョの誤情報だらけ。世の中、こんなものなのだろう。こういう自分の得意な分野があると、2ちゃんねるがいかにまちがいだらけの場であるかよくわかる。

 それはそれで割りきり、知らない世代が誤情報であれなんであれしんみりしているのだから、よいことだと思うことにする。故人に関しては、どんなことであれ口にして偲んだ方が喜ぶとも言われるし。

 ゴッチというのは猪木が作り上げた幻想だ。それも誰のためでもない、自分のためにだ。猪木自身がそう口にしていた。猪木の「5の力の相手を8にまで引き上げ、それをたたきつぶして自分の10をアピールする」という演劇論にぴったり当てはまる。

 恩人であるゴッチさんになんてことを言うのだと、その猪木の物言いを憎んだのが前田だった。ほんとうに純粋だ。不器用な性格がゴッチと似ているのだろう。
 同じ出自でもまったくゴッチとあわなかったのが長州だった。
 私の前田好き、長州嫌いはここでも筋が通っている。

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 きょうはなぜかゴッチやテーズのことを考えていた。
 深夜に知った偶然の訃報だった。

 家族愛に恵まれなかったゴッチだが、最後は娘が看取ってくれたのだろうか。

 ビル・ロビンソンが自伝でゴッチに触れている。彼はゴッチを最強とは認めていない。
 私も彼を「プロレスの神様」などとは微塵も思わない。
 私にとってミスター・プロレスはルー・テーズである。
 ゴッチはプロレスという商売に順応できなかった不器用なひとだ。

 それを自分を光らせるために「プロレスの神様」に仕立てた猪木の戦略のなんと鮮やかなことか。
 ただしゴッチが、四六時中いかにして相手を極めるのが有効かと考えていた、そういう意味での「職人」であることはまちがいない。しかしこの職人、作品を収める取引先もなかった。
 日本というやたら職人芸を好む世界と接することにより、結果的にこういう評を得られたことはしあわせだったろう。それはこの英文を読むとわかる。そこにはプロレス的業績はなにも書かれていない。日本でのことばかりだ。古くは、彼は日本プロレス時代にもコーチとして招かれている。猪木とはここで知り合った。全日で指導したことある。コーチとしてすぐれていたことは事実だ。ただし花形レスラーでなかったことはもっと事実だ。

「プロレスの神様」とされ、ゴッチとして記憶されるが、彼は世界王者のフランク・ゴッチの流れではない。カール・イスタスだ。そこの差が彼の現実だろう。私は間近で二度しかあったことがないし、コトバもほんのかたことの英語でしか交わしていない。でもたったそれだけでも、いかに偏屈かは伝わってきた。
 MSGの控え室でビル・ミラーと一緒にバディ・ロジャースをたたきのめした。日本人はやたらこういう逸話を好む。本当は強くないチャンピオン、ロジャース、無冠だが本当は強いゴッチ、と。私もそういう話が大好きだった。
 金髪で派手でハンサムで人気抜群だったロジャースを、馬場はチャンピオンの中のチャンピオンと絶賛している。子供の頃わくわくしたこういう逸話も、今は、単に売れない二流レスラーがチャンピオンに嫉妬しただけ、と解釈している。セメントでは強かったかもしれないがプロレスはそういうものではない。花があるかどうか、演技力、アピール度合いの問題だ。

 晩年のゴッチは猪木と絶縁状態になりお互いに悪口を言いまくっていた。本来水と油のふたりである。猪木が自分のプロレスに真剣味を加えるためゴッチを利用したに過ぎない。だが、ゴッチが日本でこれだけ有名になれたのが猪木のおかげであるのは否定しようもない。そこに私は人生の複雑さを感じてしまう。

12/3
小橋、復帰!



がんで右の腎臓を摘出という苦難を乗り越えたプロレスリング・ノアの人気レスラー、
小橋建太選手(40)が2日、東京・日本武道館で約1年半ぶりにリングに復帰した。
タッグマッチでフォール負けしたが、超満員の観衆が大歓声を送った。

小橋選手は「ファンの声援があったから復帰できた。今度は自分が勇気を与える番。
誰にでも元気を与えられるレスラーを目指す」と今後の健闘を誓った。

京都府出身で「鉄人」のニックネームを持つ同選手にがんが見つかったのは、昨年6月。
翌月の手術は成功したが復帰は絶望視され、医師からも「まず生きること」と言われた。

リングへの思いを捨て切れず、懸命なリハビリや食事制限に取り組み、
驚異的な恢復力を見せて復活。「これがゴールじゃない」とファイトをアピールした。

日本経済新聞


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このプロレスの項目に書くことは「『ゴング』 廃刊」「ルー・テーズの死」「カール・ゴッチの死」と暗い話題ばかりだった。今回のこともまず「小橋、癌で腎臓摘出」というニュースが先にあったわけで、おめでたいだけの話題ではない。それでも絶対に無理と思っていたことなので、なんとも、心の底から「よかったなあ、小橋、すごいなあ」との思いが浮かんでくる。プロレスの話題でこんなに浮き浮きしたのはいつ以来だろう。新人時代の短パンでいそいそと先輩レスラーの面倒を見ていた小橋の姿が思い浮かぶ。あれから二十年、外国でプロレスを経験することなくトップに立った唯一の選手である。
 報道が日経というのもなんだかうれしい。それだけ価値のある話題なのだ。

 写真を見ると、胸の筋肉はいくらか落ちているが、相変わらず激しいファイトを展開したようだ。
 しかしほんとうに大丈夫なのだろうか。心配でならない。
 落馬した騎手が大地にたたきつけられた衝撃で腎臓損傷する事態になるように、腎臓は衝撃に弱い臓器である。つまみ枝豆の奥さんである江口ともみがゴーカートの事故で摘出にいたったのも同じ経緯だった。
 プロレスの基本は受け身ショーである。体をすり減らしての肉体演劇だ。癌でひとつを摘出した小橋にそれが出来るのだろうか。気力でそれをこなしたとして、ひとつだけの腎臓はついてゆけるのだろうか。まして今のプロレスは、私の大嫌いな「がまんごっこ」になっている。そのトップを行くのが『NOAH』だ。そのことがあるから、小橋が絶対にもどってくると宣言しても、無理はするなと思っていた。
 今も思いは同じである。無理をするな。命を縮めてどうする。馬場に休めといわれても休まず両膝を毀してしまった。そのとき馬場は、まだトップではなかった小橋に、「いまに休みたくても休めない立場になる。だから今は休んで膝を治せ」と諭している。小橋は休まずあんなことになってしまった。

 無理をしないで欲しい。晩年の馬場のように、いるだけでいいのだから。

【附記】
 昨夜の『NOAH』中継でもうやったのか!? 見逃したことにいま気づいた。『NOAH』のその日の試合をその日に流す積極性に感心しつつ、来週放映と勘違いしていた。昨夜午前1時半からなのは知っていた。でもこの試合とも思わずPC作業をしていた。悔やまれる。スポーツ紙を読むと、ムーンサルトはやるわ、三沢に雪崩式エメラルドフロウジョンを喰うわ、たいへんだったらしい。復活を祝うというよりほんとに心配だ。体は大丈夫なのか。

2009
2/26

 バーン・ガニアが惚けた!?

 認知症のガニア氏を捜査 往年のプロレス人気選手

 25日の米ミネソタ州の地元紙などによると、1960、70年代にプロレスの人気選手だったバーン・ガニア氏が、養護施設内のトラブルで殺人の疑いを持たれている。

 報道によると、1月末に施設内で97歳の男性が転倒し、腰などを骨折。合併症で2月14日に死亡した。遺族は83歳のガニア氏が男性を床に投げつけたと話しており、警察では殺人罪が適用できるか調べている。当時、男性、ガニア氏とも認知症の治療中だった。

 ガニア氏は、プロレス団体AWAを起こし、中心選手として活躍した。(共同)

2009/02/26 18:29


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 ひさびさにプロレス関係のニュースでショックを受けた。テーズやゴッチの死も冷静に受けとめたけれど、これはなんとも胸中複雑である。

 私はもともとガニアのファンではない。なにより背後から抱きついてのスリーパーホールドというフィニッシュホールドが嫌いだった。それはテーズのバックドロップとはかけはなれた地味な技だった。
 NWA全盛の時代、いくら「世界三大王座」などと言っても、AWAもWWWFもローカルタイトルであることは田舎の少年でもわかっていた。日本のインターナショナル王座とかわりない。

 国プロが関係を作り来日するようになっても、レスラーとしてまったく興味のないひとだった。もちろん初来日のときは大きな期待をした。でもがっかりした。エドワード・カーペンティアとか、あのころ「まだ見ぬ強豪」に過剰な期待をしたプロレス少年には落胆することも多かった。

 ただガニアというひとは、当時既に禿頭ではあったが、荒くれ者の集うプロレス界では珍しい知性的な目をしていた。なかなか新鮮な風貌だった。金のない吉原さんから高額ギャラをむしりとる銭ゲバぶりを発揮し、なんとも好きになれないキャラではあったが、それはそれで、ミネソタ州に確実な地盤であるAWAというものを作りあげたしっかりもののイメージを受けた。
 この国プロとガニアの関係から、アメリカに渡ってビル・ロビンソンやモンスター・ロシモフがスターになっている。

 プロレスラーが殺人事件を起こせばがっかりするし、ジェシー・ベンチェラがミネソタ州知事になったと知ればうれしい。
 そういう明暗を分ける事件の中で、ガニアというひとは、しっかりと金を貯めこんで悠々自適の老後を送るひとだと確信していた。それがこんな事件だからおどろいた。まして認知症とは……。

 知りたくないいや事件だった。



 宮戸との縁から日本で餘生を送っているロビンソンはしあわせなんだなと思った。
 活躍したレスラーのいやな話は聞きたくないものだ。


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