04/2/20
 寄せ集めJAZZ-CDの楽しみ

 らいぶさんに買ってきてもらったJazzCDとM先輩からもらってきたCDで日々音楽三昧。
 新譜なんて買うことはめったにないから(それでもまだ封を切っていないCDが何百枚もある)新鮮な日々だ。封を切っていないのが山のようにあろうと、それは一見して興味がなさそうだから封を切らないわけで(もしかしてその中にとんでもない掘り出し物があるかもしれないのだが)、その点これらは聞きたいかららいぶさんにお願いしたものと、M先輩からの分もぼくが欲しいジャンルを前もって言って、先輩が選んでおいてくれたものだから、聞きたい作品ばかり。そりゃ楽しいに決まっている。

 このタイ製寄せ集めCDがいかにメチャクチャかをごらんいただこう。これは一連のJazzシリーズの18。こういう配列になっている。一枚にアルバム11枚。それで100バーツだからたまらない。そのことを過日「ぼくの持っているものを手数料100バーツで1枚に詰め込んでもらったようなもの」と書いたが、実際に手にするとその比喩とはだいぶ感覚が違う。別のたとえでいうと、「金を払って本箱を整理してもらった」ら、洋物、和物、時代物、SF物等、無茶苦茶な並べかたでよけいにこんがらがった、というところか。
 この配列を見ればわかるように、グローバー・ワシントン・ジュニアから始まって、次が日本人の渡辺貞夫、大御所のオスカー・ピーターソンとものすごい並びかただ。これだけでこの選別者がJazzをなにも知らないヒトだとわかる。
 ジョン・コルトレーンとジョン・スコフィールドが並んでいるのも苦笑するしかない。時代も芸風もまったく違う。ラッシャー木村とキムタクを同じ木村つながりで並べているようなものだ。もちろんこの比喩の場合ぼくにとってはラッシャーが格上になる。キムタクなんて一度も見たことがないから物まねを見ても笑えない。唯一知っているのはサリー(ふるいね!)と一緒に出ている富士通のCMだけだ。

 らいぶさんに買ってきてもらったCDが22枚。うち4枚はもっているから新しいのが18枚。1枚100曲として1800曲。好きなものは半分もないだろうが(ほんとにひどい選曲だ)それでも800曲ぐらいは楽しめるのかと思うと、なんだかその辺をスキップして歩きたくなる。中の1枚にジョージ・ベンソンだけをたっぷり集めたものがあった。これは助かる。なかなか全部の曲が好きだというアルバムもない。贅沢に選択して聞ける。
 こういう違法の楽しみもタクシン政権下で今回が最後だろうか。それとも果てしなくいたちごっこでまだまだ続くのだろうか。中国に行けば正規のルート(街の大きなCDショップ)で、日本で3000円する洋楽CDが200円で買えるから、それらを安く手に入れるということでは今後も支障はない。ただあくまでもぼくの望みはこの「詰め合わせ」にある。そう考えるとセンスがわるいなんていっていられない。大助かりだ。
 
 あらためてもういちど、らいぶさん、ありがとうございました。おかげさまで毎日楽しく聞いております。
04/2/21
 私の嫌いなジャズ──ドラムソロ嫌い

 これ、だいぶ前から書こうと思いつつ書かないままでいた。嫌いなもののことを書いてもつまらない。それでも今回何十枚ものJazzCDが新たに手に入り、それらを聞いていても、この種の音楽が流れてくると気になってならず、やはり受けつけないと確認できたので書くことにした。気に入らないなんてレヴェルではなく、そういう曲が流れてくると急いでCDを止めてしまうほど気にするようになっているから重症だ。

 ドラムソロがダメなのである。歴史(?)は古い。むかし、大好きなクレージーキャッツの舞台でも、必ずハナ肇によるドラムソロがあった。谷啓のトロンボーン、植木等のギター、犬塚弘のベース、安田伸のサックス、桜井センリのピアノと、それぞれがソロをやって拍手をもらった後、とどめとばかりにドラムソロになる。ハナが汗まみれになりながら叩きまくるといつしか客席からは盛大な拍手が沸き起こる。Jazzなんてものを全然知らないときからどうにもこれをかっこいいとは思えなかった。拍手は強要に思えた。同じく石原裕次郎の映画を始め、当時はこの汗まみれのタイコ叩きまくりというのが男のかっこいい場面として頻繁に登場する。私の感性はどうにもそれをかっこいいものと受けつけなかった。
 50年代Jazzの定番である。延々とやるドラムソロというのはその他の音楽にはなかったので、その後そんなことを考えることなく過ごしてきた。

 三十を過ぎてJazzがわかるようになり日ごと夜ごと聞くようになる。するとそこにはかなりの確率でドラムソロがあった。当然だ。好んで聴くのはハナ肇らがやっていた世代の音楽なのである。何人かが組んで演奏するとき、自己紹介としてそれぞれのソロがあるのは至極当然の成り行きだった。普段は主役のメロディ楽器を支える裏方のリズムセクションであるからこそソロを任されたときの張り切りぶりはハナ肇の代表作「バカがタンクでやってくる」そのまんまのノリである。うるさいと思った。好きではない。しかしそれは普段はいるんだかいないんだかわからないほど教室の隅でちいさくなっている勉強の出来ない大男が年に一度騎馬戦の時だけ主役になれるようなものだからあたたかい目で見なければと言い聞かせ我慢していた。

 そうしてしばらくの年月が過ぎ、それなりに耳に自信を持てるようになってくると、やはりドラムソロが耳障りに思えてくる。同じ退屈系でもベースソロにはそれは感じない。その他の楽器のソロはむしろ好きなぐらいだ。ドラムだけ受けつけない。なぜなのだろう。音階がないからか。いや音階はある。旋律がないからか。とにかくダメである。やがて退屈を通り越してうんざりになり、ここ数年ではドラムソロが延々とある曲は聴かなくなっていた。
 最近のジャズアルバムではドラマーがリーダーのものでもない限りまずドラムソロはない。やはりこれは昔風の大見得のようなものだから時代が変わればかっこわるいものの範疇に入ったのだろう。
 昔のものには多い。特にマックス・ローチがドラマーとして入っているものは必ず彼のソロがある。好きな人にたまらないものであろうが嫌いなものにもまたたまらない。そして私が聴くのはそういうブレイクのある昔のものばかりなのだった。

 私は仕事をしながら聴く快適な音楽として=よどみなく流れるものとしてJazzを好んでいる。運転中のラジオと同じ感覚だ。大切なのは気分良く運転できることである。選りすぐられたミュージシャンの至高の演奏には甚だ失礼ながらいわゆるBGMとして聴こうとしているのだ。ドラムソロというのはその流れを断ち切ってしまう。本質的に太鼓の音を好きではないとかいくつかリクツは考えられるが、当面このことがいちばん大きいようだ。いやしかし、流れが断ち切られてもそれが好きなものだったら、むしろハッとして聴き惚れるとか、ホっとして一息つくとか、よい方面にも考えられる。それをいらだったようにオーディオコンポであれパソコンであれ流れてきたら止めてしまうほど嫌いなのだから事は重大だ。考えてみると、音楽に対する好奇心は強く、なんでもひとかど聞きかじってきたのに、鬼太鼓座に代表される太鼓集団の音楽は興味がなかった。テレビのドキュメンタリにもよく「青春群像」のような形で取り上げられるが見る気がしない。いや、見るのだがおもしろくなくて途中で止めてしまう。これ、思想的な問題もあるのだが、それとは別に音楽的に好きなら聴いていたろう。世の中には太鼓の音を聞くだけで血沸き肉踊るという人もいるはずである。私はそれとは正反対のようだ。いやいや決して祭りの笛タイコは嫌いではない。どうにもあのドガシャカパンドッカンシャン、どんなもんだどんなもんだのジャズにおけるドラムソロを受けつけないだけなのだが。

 ハードディスクを大型に交換しスペースに餘裕が出来、らいぶさんに買ってきたもらったもの、M先輩からもらったものとCDも増えたので、これから仕事のかたわら手元にあるCDを假想CD-Rom化する作業が続くことになる。さいわいにも「Virtual Drive 8」はCDの中から曲を選べるので、除外するドラムソロのあるものをいまチェックしている。それらの曲を外して假想CD-Rom化する。今までの假想CD-Rom化ソフトウェアではこれが出来なかった。嫌いな音楽を決めつけてしまうことは自分に限界をもうけることであり寂しくもあるがこれはこれでひとつの結論としよう。
04/2/21
 コピー防止機能つきCD初体験

 CDマニピュレーターというCDをハードディスクに収めるためのすばらしいフリーソフトがある。以前「カウントベーシーとビル・エヴァンスというヘンなカップルが1枚になっている秋葉原で買った安物CDからビル・エヴァンスのみを抜き出す」のに使って重宝した。たいそう有名なソフトウェアだが使ったのはこのときが初めてになる。
 今回M先輩からもらってきた写真の「スイングジャーナルが選ぶゴールドディスクのパート2」という名曲寄せ集め2枚組CDにも、マックス・ローチとアート・テイラーのドラムソロがうんざりするほどはいっていた。このソフトウェアでそれらを除いた曲のみハードディスクにいれようとした。すると出来ないのである。いわゆる「コピー防止機能」だ。世間じゃもうかなり浸透しているのだろうがぼくは初体験だった。

 先日「ビートルズは死んだ」という『噂の真相』の記事に関する感想を書いた。それは「『Naked Let it be』が発売になった。これを聴いてビートルズは死んだと思った」と始まり、「それはジョンが死んだからではない。ジョージが死んだからではない」と引っ張るのだが、答は「このCDはコピー防止機能がついている。偉大な人類の財産であるビートルズの音楽を音質が良くないと言われているこんなものに録音して発売したのではビートルズは死んだも同然だ」という羊頭狗肉の例題にあげたいようなくだらないコラムだった。それはさておき。



 売れ線のビートルズはともかく、まさかこんなものにまでそれが適用されているとは思わなかった。なにしろ1950年代の録音作品がメインなのである。ステレオですらない。ビートルズのものだって60年代末期だから古いけれど、あちらはとんでもなく売れることがわかっている。数が出る。1枚でも多く売りたいのだからプロテクトをかける気持ちもわからないではない。だけど今更一握りの好事家が買うだけのこんなものにプロテクトをかけてどうするのだ。おそらくこのCDを買うJazzファンでこれらの音楽を知らない人はいないだろう。持っている曲ばかりのはずだ。ぼくも全部持っていた。ぼくがタイの違法コピーCDに求めるのと同じように、「スイングジャーナルが選んだベスト曲を1枚に集めたもの」として、すでに所有している多くのレコードやCDから自分で選曲しCDに焼く代わりに買って楽しむのだ。こういうジャンルの音楽にまでこんなことをするのは不粋である。たとえるなら国宝のある寺社が参拝を有料にしたのに倣って田舎の神社がそうしたようなもので、毎日参拝していた信心深い近所の年寄りの楽しみを奪ってしまうようなものだ。

 今までこんな経験をしたことはない。なにしろぼくのもっているものにそんなものはなかった。ということは、これは新しく発売になったCDであり、一定の日附以降のものはジャンルに関係なくプロテクトを掛けてあるってことか。でもその『噂の真相』の記事にあったが、昨年邦楽でいちばん売れたシングルであるらしいスマップの「世界にひとつだけの花」とかにはそれが掛かっていなかったそうなのだ。となるとなんでもかんでもそうではないらしい。なんでこんなCDに掛けたのだろう。



 CDマニピュレーターでは出来なかったが{VirtualDrive 8}では假想CD-Rom化出来たので、こんなものにプロテクトをかけたことには首をかしげつつもとりあえず満足して書いているのだが、今後みなこうなるのかと思うとお先真っ暗だ。気になった音楽をレンタルCDで借りてきてハードディスクに入れるなんてことも出来なくなるのか。ん? カセットテープに落とすようなことは出来るのかな。ダメなのはいくら世代を落としても音質の落ちないデジタルだけか? ならまだなんとかなるが。

 しかしそれよりも深刻なのは楽曲の選抜だ。この「スイングジャーナルのCD」にはぼくの嫌いなドラムソロのある曲が数多くあり、それらを除いてハードディスクにコピーした。2枚分がちょうど1枚分になったから半分はそれがあったことになる。名盤の誉れ高いソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』から『セント・トーマス』が入っていたが、マックス・ローチがうるさいので消した。ジャズを聴き始めた三十代初めに名盤中の名盤といわれるこの『サキソフォンコロッサス』を何百回と聴いたが途中のドラムソロを毛嫌いした記憶はない。とするとクレージーキャッツのころから好きなものではなかったにせよ、ここまで嫌いになったのはここ十年ほどの傾向なのかもしれない。それはやっと理解できるようになったJazzにとにかく今は修行中だと隷属していた時期を抜け出して我が出てきたということなのだろう。問題のある好き嫌いかもしれないがここは自分に正直を貫くことにする。



 ディスプレイの両脇にあるパソコン用スピーカーから流れてくる音楽も真後ろにあるミニコンポから流れてくる音楽も音質は同じようなものだ。だが心地よいものだけを選んだパソコンの存在価値は大きい。ハードディスク入れ替えでごたごたしていたここ数日は、それらのインストール作業中もずっとミニコンポで聴いていた。その間何度もドラムソロが聞こえてきて曲を飛ばすことがあった。CDを掛ける前にどの曲を流すか選べるなんてのは解決にならない。毎回そんなセッティングをするのもわずらわしい。なによりノっているときに中断させられるのがいやなのだ。
 今後このプロテクト問題はどうなるのだろう。救いはぼくの好む音楽が古いJazzやClassicであり新曲(新商品)を望んでいないってことだ。すでに保持している古いCDにあるものだけでも聴ききれないほどあるのがなんとか救いになっている。
2/26
ジョンスコの魅力──たまにはディストーション

 らいぶさんに買ってきてもらったCDに入っていたのでひさしぶりにJhon Scofield(以下ジョンスコ)を聴いている。
 ジャズギターはナチュラン・トーンで弾く。チョーキングは厳禁だ。ぼくが最近聴いているのはビル・エヴァンス等ピアノが多い。夏はだんぜんスタン・ゲッツのボサノヴァなのだけど(笑)。冬場はホーンもあまり聴かない。オルガンはかなり聴いていた。あれは暖かくていい。ギターはウェス・モンゴメリか、やはりらいぶさんに買ってきてもらったCDに入っていたので久々にジョージ・ベンソン(ウェスの再来と言われた)を聴いたぐらい。彼のギターは正統派だ。

 軽くディストーション(今このことばは使わないのか)を聴かせたギターの音色がなんとも新鮮である。Distortionはひずませる、ゆがめるって意味だからOverDriveのほうがかっこいいい。ぼくらのころにもうこのことばに取って代わられつつあった。でも今回のジョンスコのギターはディストーションと言いたくなるものだった。そうだよなあ、むしろオーバードライヴにはアンプ全開による自然のゆがみ音の趣がある。大音量だ。ジョンスコの押さえた音色でだみ声のように濁った音はディストーションでいいように思う。

 しかしこれ、ジャズなのかなあ。フュージョン(このことばも生きているのかどうか知らないけど)でしょう。どう考えても。ジョー・パス、ケニー・バレル、グラント・グリーンとか、ああいう正当なジャズギタリストを好む人はジョンスコを否定するんじゃないのか。これがラリー・カールトンやリー・リトナーだと最初からフュージョンと割り切れるから悩まないのだけど。またジョージ・ベンソンがどんなに新しいことをやってもそれはジャズ普及のための道化であって出自がジャズ本家であることはわかっている。その点どうにもジョンスコはあやふやなところにいる。

 ということでちょっと今ネットでジョンスコの評判を調べてみた。ほんの5分。当然みな好意的。でも評者はみな若者。「あんなのはジャズギターじゃねえ!」と怒るようなおじさんはホームページなんてやってないものねえ。やってたとしても嫌いなことは書かないのが基本だ。

 それでまた思った。ぼくはチック・コリアのような新しい方面にがんばっている人の音楽がダメである。セロニアス・モンクやレッド・ガーランド、バド・パウエル、ビル・エバンス等の大御所のオーソドックスな(当時は十分前衛で斬新だったのだけど)音楽を好む。ギターのジョンスコに匹敵するような他の楽器の斬新なミュージシャンを受けつけない。聴こうと努力するのだが快適でないものだから止めてしまう。なのにジョンスコは気持ちよく聴ける。これすなわち「ギターに関しては許容度が広い」ということになる。それは自分も弾けるし最もいろいろな音を聞いてきた楽器だからだろう。

 以前から知っていた人だしアルバムも何枚かもっているけど、こんな形で再会し、毎日聴いていると、なんだか古い友人との友情が復活したようでうれしくなってくる。ますます好きになるのか、飽きてまたオーソドックスなジャズにもどるのか。どっちだ。
04/4/23
 アトランダム再生の新鮮さ

 ぼくはパソコンで音楽を聴くとき、フリーソフトのKbMedia Playerを愛用している。この種のソフトも無償有償いろいろ使ってきたけど、これがいちばん使いやすい。もう一年半ほどこればっかりだ。かつて愛用していた「e-Jay」なんて今、見向きもしない。

 そういえば愛用しているフリーソフトそれぞれに感謝の気持ちを書いた「心から感謝を込めて」と題したシリーズファイルがあるのだが、今はサイトの容量不足から他の無料サイトに転送したままになっている。早くより大きな容量のプロバイダに引っ越して勢揃いさせたいものだ。
 そのKbMedia Playerで、好きな音楽を聴く環境になれていた。というかこれは誰もが音楽を聴く環境と同じだ。CDからハードディスクにコピーした音楽を、CD再生と同じに順序通りに再生して聴く形である。

 OS再インストールをやっていたついでに、これの前にほんのすこしだけ使ったことがあり、今はお蔵入りしている同じくフリーソフトのすぐれもの(これは外国製かな)のMedia Jukeboxをインストールし、久しぶりに使用してみた。これもとてもフリーとは思えない豪華なソフトウェアなのだが、ぼくにはKbMediaのほうがより使いやすかった。この辺はもう相性の問題である。

 MediaJukeboxも基本は音楽の入っているフォルダを選び、そこからCDを再生する形式だが、中に「パソコン内の音楽ソースを全部集める機能」がある。それを押してみたらデータ用のパーティションに入っている音楽や假想CD-Romの曲目、果てはWINDOWSの効果音まで全部を集めてきた。WINDOWSには蝉の鳴き声なんてのが入ってるんですな。

 それによると今ぼくのパソコンには1200曲ほどの曲が入っているらしい。聴ききれないほどインストールしたつもりだったので意外にすくないなと感じた。1枚10曲として120枚しか入っていない。だって中には1枚で100曲も入っているタイで買ってきた詰め込みCDもあるんだが……。ああそうか、マウントされていないから数えられていないんだ。それをやればもっともっと多いはずである。

 蛇足ながらこれも独立したハードディスクだからここまで集められのであって(1枚を假想CD-Rom化するのにはかなり時間がかかる)、まさかOS再インストールのたびにこれもやり直しているのではない。そこまでの根気もなければいくらなんでもそれほどのバカでもない。たぶんこういうのを別ハードディスク、または別パーティションにする智慧が回らずOS再インストールのたびにこれもやらねばならないとしたら、今までのように九割がた順調なハードディスクに再インストールすることはなかったろう。そっちのほうがよかったか(笑)。普通OS再インストールとはどうしようもなく調子が悪くなったものを直すための最後の方法だが、ぼくの場合はディスクを独立させていることもあり、九割方調子のいいものを十割にしようと頻繁にやったりしている。

 そのかき集めた曲は、後半はCDごとに整理されているのだが、なにがどうなっているのか、前半に50曲ほどアトランダムに並べられている部分があり、何も指定せずに再生するとその順にかかるのである。それが妙に新鮮なのだ。所詮はぼくの持っている一度は聴いたことのある、いやそれどころか中には毎日聴いている曲が流れてくるだけなのだが、いつもCD1枚まとめて聴いているのが、あれこれ混じって流れてくると、まったくの別物に思えてくる。お気に入りの曲ばかりかけてくれるラジオのようで浮き浮きしてくる。

 たとえばジョン・スコフィールドが1曲流れたあとにラリー・カールトンが流れてくると、その音色の違いがよくわかり、なるほどそうだったのかと感心する。より正直に言えば、なにが流れてきたのかよくわかっていない。ジョンスコの場合は有名な、いかにも彼らしい曲なので、ああジョンスコだなとわかる。そこにいきなりトーンの違った曲、しかし基本はギターインストゥルメンタルが流れてくると、なにしろいつもはジョンスコならCD数枚を同じフォルダにまとめ、何時間もジョンスコばかり聴けるような形にして聴いているから、音楽は同じものがしばらく続くと思っている。それで「これってジョンスコじゃないよな。カールトンだろ?」としばし聞き入り、あまり自信もないので確認したりする。そう思っている合間にもノラ・ジョーンズの歌声が流れてきたり、鳥の鳴き声が効果音で入っているナベサダになったり、ジョージ・ベンソンのスキャットになったり賑やかなのだ。あまりにあたりまえのことをおおげさに言っているようで恥ずかしい気もするが、CD丸々一枚を聴くのが音楽鑑賞の常として長年生きてきたので、しかも近年ラジオなんてまったく聴かないから、こんなことが異常に新鮮なのである。

 こういう形で「お気に入りの1枚」を作って楽しんでいる人は多いのだろう。CDでもMDでもそれこそ今の若者の主流か。それが偶然実現したことになる。ぼくは若いころ(カセットテープの時代だったが)でもそこまでやったことはない。ぼくにとって音楽とは作るものであって聴くものではなかったからだ。今でも過去の流行り歌に詳しいわけではない。でもそれと「音楽に詳しい」は別問題だ。ああそういえばあのころでも、音楽サークル以外で知り合った友人には、1本のカセットにレコードから自分の好きな曲だけを集めて聴いているなんて人はいたな。

 考えてみると何度かここにも書いた「××というアルバムの中の××が嫌いなのでその部分になると止めてしまう」という愚痴もとても長年パソコンをいじっている者の意見とはいいがたい。嫌いな曲は削除すればいい。好きな曲だけを集めればいいのだ。
 そういう発想がなかった。それはまず、聴くのが好きなアーティストのみであり、そこにはアルバムコンセプトがあるから、全部を飲み込むべきと思っていたからだろう。好きなアーティストではないが例外的にあの曲だけはいいな、という場合がぼくにはない。それは社民党は嫌いだけどあの議員だけは認める、というのがないのと同じだ。認めるほどの人が社民党にいるはずがない。社民党にいる人を認められるはずがない。つまり「いや、ぼくはね、社民党は嫌いですよ、支持してるわけじゃない、でもね、あの××って議員だけは見所があると思うんですよ」なんてのは、回りくどいことを言っているが、じつは社民党が好きで支持しているだけなのである。

 今度好きな曲だけを集めて1ファイル作ってみるか。いちいちCDに焼くとなるとバカ者ぽくって恥ずかしいが、ハードディスクの1ファイルにするだけなら誰にも見られないし。

【附記】
 假想CD-Romをマウントしたり、そこからコピーしてハードディスクに納めたりしてもういちどMediaJukeboxに集計させたら、総合曲数は一気に3800曲に増えた。ずいぶんと豪華なジュークボックスである。本物のジュークボックスって小さいのは60曲程度、200曲もあったらすごかった。
 今夜もそのMediaJukeboxで聴いている。いまDeep PurpleのSmoke on the Waterが流れ、今度は覚えのない女の歌が流れてきている。これ誰だろう。調べる。「Kiss Kiss」歌い手はHolly Valanceだって。しらん。なんだか新鮮です。(23日記録)

5/2
 ひさしぶりのタイ音楽 

 タイのポップスはあまり好きではない。どっちかというと泥臭い日本の演歌に相当するルークトゥン(野の子供、という意味)のほうが好きだ。ルークトゥンやモーラム(これは浪曲か)はカセットテープで500本以上収集した。タイポップスのCDは数枚あるのみ。とはいえきょう聞いたCDはいわゆる「MP寄せ集めアルバム」だから1枚に12枚のアルバムが入っている。おおざっぱに見ても120曲はあることになる。
 あまり聞かないのは常用しているで再生が出来ないからだった。タイ文字のタイトルが化けてしまいみな?????になってしまう。再生不可だ。MSのWindows Media Player(以下WMP)なら出来る。これは見事にタイ文字も表記する。なぜKbMpは出来ないのだろうと作者のホームページを訪ね、掲示板で質問してみた。こんなことをしたことはない。それだけこのすぐれたフリーソフトウェアにこだわっていた。大勢の支持者で賑わう掲示板にタイ音楽を聴く人はいなかったらしく、しばらく書き込みがなかった。作者のかたがすぐに返事を書き込んでくれたが彼もそういう異国の文字までは考えていなかったらしく詳しい情況を教えて欲しいとの逆質問になっていた。やがて識者があらわれ「タイ文字はUNIコードであり、このソフトはそれに対応していないから再生は無理であろう」と教えてくれた。それであきらめがついた。

 きょうひさしぶりに聞いたのは、せっせとハードディスクに曲を集めていた途中だったことがまずひとつ。パソコン雑誌を読んでいたら音楽好きがハードディスクに5000曲入れているのは常識らしく、3800曲で満足していた自分が悔しくなって追加を始めたのである。目標1万曲! こんなことでむきになってどうする。もうひとつは仲直りした妻(赤面)へのごますりである。彼女はタイポップスが好きだ。
 WMPでもアルバム1枚の連続再生は出来るから、これ以上ぜいたくを言ったら罰が当たるが、それでもやはり使い慣れたソフトで気持ちよく再生したい欲求は消えない。UNIコード対応をお願いしてみようか。ソフト制作者のかたにも万能でなるこのソフトが「そうか、自分の作ったソフトはタイ音楽の再生は出来ないのか」とはそれなりにショックとして伝わったはずだから。
 ひさしぶりに聞くタイポップスはほんにゃらしてなかなかいい。歌詞の内容を妻が教えてくれる。ビジネス用語のような堅い語彙では妻より私のほうが詳しいのだが、こういうくだけた表現では歯が立たない。つまりは私のタイ語は本で覚えたものであり、妻のは生活に根ざしているということだ。
 たまには毛色の違う音楽もいい。
5/3
 ダイアナ・クラルの魅力

 きょう何枚かのCDを詰め込んだことでハードディスクに入っている音楽は4600曲まで増えた。一人前(?)の5000曲までもうすこしだ。
 タイポップスにはすぐに倦き、またいつものようにアトランダムに曲を聴く体勢にもどった。するとなんかムードのあるいいジャズ・ヴォーカルが流れてきたのである。これ、誰だろうと調べたらDiana Krallだった。アルバムは「Live in Paris」。正月にらいぶさんにチェンマイから買ってきてもらったごった煮CDの中に入っていた1枚だ。恥ずかしながらぼくは初めて聞く。こんな発見があるからごった煮はたまらない。
 手元の資料で調べたら去年エルビス・コステロと結婚した、とある。コステロはさすがに女の趣味もいいや。このアルバムは2002年9月の発売。声に艶のある人だ。
 近年ぜんぜんあたらしい人を捜していないが、まだまだ好きになれるアーティストはいっぱいいるんだとうれしくなった。本当はもっとラジオを聞いて知らない音楽に触れないといけないんだけれど。

 するとまた抜群にいい音が流れてきた。調べるとリー・リトナーの「Alive in LA」からの一曲。いやあ、いいわ。
リトナーがこんなにまた幅を拡げているとは知りませんでした。ウェスばりのオクターブ奏法をやってみたり、センスのいい万能ぶりを見せていますね。調べたら1997年の作品だから今頃こんなことを言われても彼も迷惑だろうけど。(ウェスばりの曲は「Wes Round」という名なのでウェスに捧げたものなのだろう。こんなこともリトナーは軽々とやっちゃうんだねえ。すごいなあ。これぐらい弾けたらギターも楽しいだろう。)
 4600曲を流していれば、あと二三人はこんな驚きの発見がありそうだ。楽しみである。
5/3
KISSの映像

 昨夜、NHKアーカイブスでキッスの公演を流していた。K-1ラスベガス大会の時間を確認しているときに発見し、K-1が終った後の零時からの放送もすこしだけ見た。コンサートそのものよりあの火吹きのアクションを見たりしているうちに(当時はあんなものでも斬新だった)あのころの出来事をいくつか思い出した。

 KISSの日本公演で真っ先に思い出すのは、当時獨協大の学生でグラマラスな美女だったカタセリノが楽屋を訪ね、ホテルにお持ち帰りになったことである。当時の女性週刊誌が大々的に報じ、彼女はKISSファンから憎まれてたいへんだった。相手が誰だったかは知らないが(エースだね、たしか)、その後モデルから女優として売り出していったカタセを見るたびにぼくは、毛唐に抱かれた売国奴、尻軽のパンパンといつも眉をひそめたものだった。てのはもちろん嘘で単にエースがうらやましかっただけだが。それでも彼女がどんな形で活躍しようと(たとえば「極道の妻」とか)、ぼくには常に彼女の後ろにあのKISSの化粧とベロを出した顔が見えた。今でもそうだ。まことすり込みとはおそろしい。そのときが彼女の名を覚えた最初だったからだろう。
オクターブ奏法で一世を風靡したウェスは、悪い言いかたをするならそれ専門のヒトだった。それを開発し、それでビッグなった。いわゆる元祖だ。一方リトナーはその何十年後に登場した万能のギタリストである。ウェスには弾けないような速いパッセージをこなすかもしれない。でもそれが「超えた」かとなると話はべつだ。
 たとえば今の器械体操部みたいなトランポリンプロレスがなにをやろうと佐山タイガーマスクは超えられない。いや佐山タイガーはあまりに超絶だからもっと敷居を低くして、「猪木の相打ちラリアート」だ。ハンセンのラリアートに対して(ここを語る場合ラリアットと書いてはならない)ロープから帰ってきた猪木が相打ちに細腕を繰り出したという、今なら誰もが鼻も引っかけないようなあの出来事が、「おおおおお!!!」とテレビの前で仁王立ちしてしまうほどのインパクトを持っていたのは、すなわち時代であり、最初だったからだ。まごうことなく猪木はプロレスの天才である。そのインパクトと比べたら我慢比べみたいな今の乱発ラリアットごっこのなんと貧相なことか。かわいそうで涙が出そうになる。
 リトナーのオクターブ奏法は見事のひとことで、「ほんとにこの人はなんでも弾けるんだなあ」と感激したのだが、だからといって「ウェスを超えた」とは思わない。そういう問題ではないし、そう書いたのがいたなら(いたのだろう)これはもうハッキリそういう形でしか音楽を語れないバカ音楽評論家であると断定する。
 それは「猪木のラリアートを超えた」というなら、そこいら中のレスラ、誰もが超えているだろうけど、あのハンセンとの相打ちラリアートを超えたかと言ったら誰も超えていないのと同じだ。言うまでもなく本家ハンセンを超えたのは誰もいない。「ウェスを超えた」なんて言いかたにいちばん反発するのは当のリトナーだろう。思うに、心あるアメリカの評論はこんな言いかたはしないんじゃないか。こういうのが好きなのは日本だ。

 ところでぼくは最近、音楽そのものより解説書等のプラスアルファの価値に気づいた。というかもともとそれが好きだった。音楽を聴くとき、解説書の類があるからこそ楽しかった。まず音楽を聴き気になった部分を調べるときもあれば、最初に解説書を読んで聞き所を調べてから聴いたりもした。それは本来の音楽の楽しみかたとしては邪道であろう。がそれはどうでもいい。それが問題になるのは解説書によって感想が左右される人の場合だ。とはいえレコード附属の解説であるからして悪口は書いてない。それでも上記のように「ウェスを超えた」なんてある場合、それを鵜呑みにして周囲に吹聴して歩くか、そう思わないかは本人次第になる。フォークやロックの場合はライナーノートで十分だったが、ジャズになるともう何冊もの解説書を手にし、まるで辞書を引くように調べ、納得しつつ聞くのが、だからこそ楽しいと近年の楽しみかたの定番になっていた。

 ところが最近惚れ込んだ前記のDiana Krallのように手持ちCDから偶然知った歌手にはそれがないのである。バックミュージシャンもとてもよくて、これ誰なんだろうと思ってもわからない。おそらく若いメンバだからぼくの知っているヒトではないだろうが、ともあれ「これこれこんなヒトなんですよ」と教えてもらえれば、これから後の参考資料にもなるし、なんとなく納得する。その楽しみがまったくない。どうやらぼくは、なんも背景がわからないまま、とにかくいい音楽さえ聴ければいいというタイプではないようだ。むしろその背景を知りたい知りたいと欲求不満がたまる。
 特にジャズでは、若手Aが大御所Bが何十年も前に作った曲をすばらしい新解釈の演奏で吹き込み、そこには特別に若き日のBの相棒だったCがベーシストとして参加していて、じつはAは、もう死んでしまったBの相棒ドラマーDの甥っ子だったなんて話がよくある。何も知らずに聴いて感激し、解説書でこれを知ると喜びがまた新たになる。それがあるから楽しい。でもその解説がないと、ぼくには「若手のAが大御所の個人Bの作った名曲をいい演奏でやった」でしかないわけである。かすかに「このベースってもしかしたら」ぐらいは感じるとしても。いや感じたらよけいに知りたくなる。

 その気になれば、いまぼくが偶然接して気に入っている細かいことがわからない音楽でも、ネットを駆使すればかなり詳細にわかるのだろう。だがその調べて知るということと、好きな音楽を寝転がって解説書を読みつつ楽しむのはまた別に話になる。
 でまた云南の話になるのだが、あちらでもかなりの部分、安い値段で音楽そのものは手に入れられるだろう。とにかく今の中国には物があふれている。品質はともかく。そのころはDownloadでの配信も発達しているだろうし、メディアそのものの入手はさして苦労しないと思われる。だが寝転がって日本語解説書を読みつつ……の楽しみは無理になる。「ちいさなこと」と思う人がいるかも知れないが、これがちいさくないから困る。ぼくにとって音楽を楽しむことの半分ぐらいに匹敵するかも知れない。たとえば大好きな「ラーメンとギョーザとビールを楽しむ」には、スポーツ紙やビッグコミックが必須であり、なあんもないところで、さあ食えとそれらを出されても、なんか物足りないように、どんなにいい音楽を聴こうと補助知識がないと満足できないような気がする。

 全CDを検索したらDiana Krallは3枚もあった。うれしい。この人はいいです。おすすめします。今も聞いてます。アレンジがいいんだよなあ。誰なんだろう、縁の下の力持ちは。ロックファンなら「エルビス・コステロの女房」というだけで認められるでしょう。
5/4
 リー・リトナーのオクターブ奏法

 リー・リトナーのアルバムの解説に「ウェスを超えた」なんてあるらしい。まあこれは常套句ですね。オクターブ奏法で一世を風靡したウェスは、悪い言いかたをするならそれ専門のヒトだった。それを開発し、それでビッグなった。いわゆる元祖だ。一方リトナーはその何十年後に登場した万能のギタリストである。ウェスには弾けないような速いパッセージをこなすかもしれない。でもそれが「超えた」かとなると話はべつだ。

 たとえば今の器械体操部みたいなトランポリンプロレスがなにをやろうと佐山タイガーマスクは超えられない。いや佐山タイガーはあまりに超絶だからもっと敷居を低くして、「猪木の相打ちラリアート」だ。ハンセンのラリアートに対して(ここを語る場合ラリアットと書いてはならない)ロープから帰ってきた猪木が相打ちに細腕を繰り出したという、今なら誰もが鼻も引っかけないようなあの出来事が、「おおおおお!!!」とテレビの前で仁王立ちしてしまうほどのインパクトを持っていたのは、すなわち時代であり、最初だったからだ。まごうことなく猪木はプロレスの天才である。そのインパクトと比べたら我慢比べみたいな今の乱発ラリアットごっこのなんと貧相なことか。かわいそうで涙が出そうになる。

 リトナーのオクターブ奏法は見事のひとことで、「ほんとにこの人はなんでも弾けるんだなあ」と感激したのだが、だからといって「ウェスを超えた」とは思わない。そういう問題ではないし、そう書いたのがいたなら(いたのだろう)これはもうハッキリそういう形でしか音楽を語れないバカ音楽評論家であると断定する。
 それは「猪木のラリアートを超えた」というなら、そこいら中のレスラ、誰もが超えているだろうけど、あのハンセンとの相打ちラリアートを超えたかと言ったら誰も超えていないのと同じだ。言うまでもなく本家ハンセンを超えたのは誰もいない。「ウェスを超えた」なんて言いかたにいちばん反発するのは当のリトナーだろう。思うに、心あるアメリカの評論はこんな言いかたはしないんじゃないか。こういうのが好きなのは日本だ。

 ところでぼくは最近、音楽そのものより解説書等のプラスアルファの価値に気づいた。というかもともとそれが好きだった。音楽を聴くとき、解説書の類があるからこそ楽しかった。まず音楽を聴き、気になった部分を調べるときもあれば、最初に解説書を読んで聞き所を調べてから聴いたりもした。それは本来の音楽の楽しみかたとしては邪道であろう。がそれはどうでもいい。それが問題になるのは解説書によって感想が左右される人の場合だ。とはいえレコード附属の解説であるからして悪口は書いてない。それでも上記のように「ウェスを超えた」なんてある場合、それを鵜呑みにして周囲に吹聴して歩くか、そう思わないかは本人次第になる。フォークやロックの場合はライナーノートで十分だったが、ジャズになるともう何冊もの解説書を手にし、まるで辞書を引くように調べ、納得しつつ聞くのが、だからこそ楽しいと近年の楽しみかたの定番になっていた。

 ところが最近惚れ込んだ前記のDiana Krallのように手持ちCDから偶然知った歌手にはそれがないのである。バックミュージシャンもとてもよくて、これ誰なんだろうと思ってもわからない。おそらく若いメンバだからぼくの知っているヒトではないだろうが、ともあれ「これこれこんなヒトなんですよ」と教えてもらえれば、これから後の参考資料にもなるし、なんとなく納得する。その楽しみがまったくない。どうやらぼくは、なんも背景がわからないまま、とにかくいい音楽さえ聴ければいいというタイプではないようだ。むしろその背景を知りたい知りたいと欲求不満がたまる。

 特にジャズでは、若手Aが大御所Bが何十年も前に作った曲をすばらしい新解釈の演奏で吹き込み、そこには特別に若き日のBの相棒だったCがベーシストとして参加していて、じつはAは、もう死んでしまったBの相棒ドラマーDの甥っ子だったなんて話がよくある。何も知らずに聴いて感激し、解説書でこれを知ると喜びがまた新たになる。それがあるから楽しい。でもその解説がないと、ぼくには「若手のAが大御所の故人Bの作った名曲をいい演奏でやった」でしかないわけである。かすかに「このベースってもしかしたら」ぐらいは感じるとしても。いや感じたらよけいに知りたくなる。

 その気になれば、いまぼくが偶然接して気に入っている細かいことがわからない音楽でも、ネットを駆使すればかなり詳細にわかるのだろう。だがその調べて知るということと、好きな音楽を寝転がって解説書を読みつつ楽しむのはまた別に話になる。

 でまた云南の話になるのだが、あちらでもかなりの部分、安い値段で音楽そのものは手に入れられるだろう。とにかく今の中国には物があふれている。品質はともかく。そのころはDownloadでの配信も発達しているだろうし、メディアそのものの入手はさして苦労しないと思われる。だが寝転がって日本語解説書を読みつつ……の楽しみは無理になる。「ちいさなこと」と思う人がいるかも知れないが、これがちいさくないから困る。ぼくにとって音楽を楽しむことの半分ぐらいに匹敵するかも知れない。たとえば大好きな「ラーメンとギョーザとビールを楽しむ」には、スポーツ紙やビッグコミックが必須であり、なあんもないところで、さあ食えとそれらを出されても、なんか物足りないように、どんなにいい音楽を聴こうと補助知識がないと満足できないような気がする。

 全CDを検索したらDiana Krallは3枚もあった。うれしい。この人はいいです。おすすめします。今も聞いてます。アレンジがいいんだよなあ。誰なんだろう、縁の下の力持ちは。ロックファンなら「エルビス・コステロの女房」というだけで認められるでしょう。

 なんて書いてたら朝七時。急いでUP。
5/7  ひさびさに聴く「アンジー」

 チャンネルを替えつつ福田辞任のニュースを追っていたら、過去の福田の発言にかぶせてテレ朝のコミヤのニュースショーで、ポール・サイモンの「アンジー」が流れて来た。しばし名曲に聴き惚れる。ギター一本のインストゥルメンタルである。初めて聴いたのは高二の時か。ポール・サイモンは、ポール・マッカトニーと並ぶソングライターとして最高でありながら歌も演奏もうまい稀有の人だ。
 これはまだ彼が売れてないころにイギリスにわたり、そこで出会ったバート・ヤンシェ、ジョン・レンバーンの影響で覚えた奏法である。「Boxer」「四月になれば彼女は」等の秀逸なギターもこの当時の修練から来ている。

 彼らは後にペンタングルを結成する。ポール・サイモン繋がりでそれを知り、レコード屋を探して購入し、夢中でコピーしたものだった。ペンタングルのレコードを買うと手書きの楽譜が附いてきて勉強になった。もっとも彼らにあったのはギター職人とでもいうべき超絶技巧だけであり、ポールのようなスタンダードとなるヒット曲を作る才能はなかった。ギターテクのすごさとともに歌のつまらなさも印象的だった。
 あのレコードはどうしたのだろう。昨年東京からの引っ越しで捨てたレコードの中にあったのか。すっかり忘れていた。ペンタングルは今もCDで買えるのだろうか。時間があったらAmazonで調べてみよう。こういう形の「褪せない音楽」(あ、ペンタングルじゃなくてポールのほうね)はすばらしい。
5/8
 テレサ九回忌

「逝去的聲音」というタイトルがなんともいい。香港製
サブタイトルに「鄧麗君記念専輯──音楽極品」。漢字のよさを感じる。

 テレサ・テンが九回忌だという。昨夜何枚組かの豪華なCDが出たとニュースでやっているのをチラっと見た覚えがあるがそういうことだったのか。
 きょうの夕方のニュースでは台湾の九回忌の様子を流していた。私としてもなんの興味もなかったただの歌謡曲の歌手だった(むしろ偽造パスポートで入国し捕まったこともあり嫌いな歌手だった)のに、純粋に歌手として、後々とんでもない天才だと知って大ファンになった人だけに格別の思いがある。こんな経緯の歌手はひとりもいない。
 その原因は、台湾から来た歌謡曲の歌手に対して私に偏見があったからだろう。偏見と言うより思いこみか。もしもなにも知らず中国語の歌だけを聴いていたら最初からファンになっていたのは間違いない。彼女は初来日の時から天才だった。そういえばこれ旅のお蔭か。

 タイトルは「永遠的鄧麗君」中国本土貴州製。吹けもしないフルートを構えているところがかつてのスパイダースマチャアキを彷彿させて笑える(笑)。タイトルの永遠の「遠」の字のことで苦しんだ。シンニュウに元なのである。そんな字はない。意味はだいたい想像がつくが。漢和辞典を調べたら「遠の中国新体字」と判明。わかってよかった。

 旅行作家・下川ゆうじの「テレサ・テンを台湾の美空ひばりと言うのはアジアにおける彼女の地位を知らないからだ。テレサに失礼だ。美空ひばりこそ日本のテレサと言われるべきだろう」は彼の数少ない名言だ。それほどアジア全域においてテレサの地位は高い。

 テレサ全盛期の中国は「頽廃的音楽」と彼女の歌を禁じた。それでも闇で広く流通した。規制がなくなってからはどこでも流れている普遍的音楽となった。彼女の歌を求める民衆の声を政治の力では押さえられなかったことになる。中国市場のまさに山とあるCDの中で今でも台湾の歌手である彼女が常に最高の位置に置かれているのは我が事のようにうれしい。

 タイトルは「記念巨星珍蔵集──鄧麗君」
 中国本土製。「カセットテープ10本組135曲集」。昆明で買う。写真は解説と歌詞の中国製としては極めて上等な附属本。このカセットは質が悪く何度か聴いている内に音がおかしくなってきた。今はどこにあるのやら。でも惜しくないのはテレサの歌はこれからもいくらでも手にはいるからだ。この時もCD版があったのだが、そのとき持参していたのがカセットウォークマンだったのでテープ版を買った。菓子折みたいな豪華な箱(あくまでも中国的には、だが)に入っていてかさばったが、それはそれで記念だと思ったから、それをもったまま云南を旅したのだった。今度見かけたらCD版を買ってこよう。

 これはもう何度も書いていてまた書くのはすこし恥ずかしいが──と言いつつこれからも毎年書くような気もする──テレサと私は同い年であり、私は彼女がチェンマイのメイピンホテルで亡くなるとき、その時間、すぐ近くの屋台で酒を飲んでいたのである。百メートル以内だ。(と、これを自慢したいだけのようにも思うが)。
 その翌日だったか、翌々日だったか、『サクラ』で読んだ衛星版讀賣新聞で彼女の死を知り、やがてそれがチェンマイであり、帰国後、それが息を引き取るその時間にすぐ近くで酒を飲んでいたメイピンホテルだったと知る。
 奇妙な感慨にうたれたものだった。テレサを私なりに見送ったつもりでかってに満足している。最後を見守ったのが遙か年下のフランス人の恋人というのがちと気に入らなかったが。

 チェンマイとの組み合わせで思い出すミスマッチの楽しさに、「雨の日の時代小説」、「猛暑の日に部屋のクーラーをがんがん利かせた中でのショパン」、「中国語のテレサの歌声」がある。それが通り過ぎた過去の映像だと多少のさびしさも感じるのだろうが、時代小説もショパンもテレサも永遠のものだから、その気になればいつでも再現できる。そのことがうれしい。

「25周年記念品──鄧麗君」
 台湾台北製の2枚組。といってもばら売り。買ったのはチェンマイ。DKブックセンタ。このCDが特別なのは下の写真にあるようにバックカヴァーに「中国語曲名をタイ語で表示してあること」だ。こんなのは他にもっていないので貴重品になる。ということはこれ、最初からタイ輸出用だったのか。いや、台北原盤からタイで作ったのか。こっちが正解かな。

  裏表紙のこの文字。黄色と白のふたつのタイ語はなんなのだろう、どんな違いがあるのだろうと忘れかけた知識を総動員して懸命に読んでみた。最下段の中国語の雪=xueとタイ語の「ヒマ・デン=赤い雪」から推測するに、どうやら黄色は中国語のタイトルの音をタイ語で表記したものであり、白がタイ語のタイトルのようだ。仮に「桜の花」というタイトルの英米向け日本語CDだとすると、黄色文字は「sakuranohana」であり、白色文字が「Cherry Blossom」になる。

 一昨年の夏、さらにその数年前に蒲田でやった後藤さんのオフ会で知り合ったIさんとチェンマイで再会した。偶然だった。Iさんはらいぶさんの同僚。らいぶさんと初めてあったのもそのオフ会だった。二人は連れ立ってきたのだったか。
 Iさんは今回のチェンマイ訪問の目的はテレサが亡くなったメイピンホテルに泊まることなのだとうれしそうに言っていた。私もそんなIさんを見ていると、なんだかそれが自分のことのようにわくわくしてきたものだった。まあメイピンホテル自体は安普請のたいしたことないホテルだ。建築当時のことを知っている人はみな「あんなにあっという間に出来たビルはない。ありゃそのうちひっくり返る」と口をそろえる。私も時間的には知っているはずなのだがなぜか記憶にない。有名な売春窟のあったところだ。まだソンナコトをしていなかったのか。後にそこには行ったがそのときにはもう今のメイピンはあった。

 Iさんのニコニコはなんだったろう。私がここでテレサを礼賛していることを読んでいたからだろうか。だと思う。どんな大好きな人であれ、それが普遍的であることはありえない。ロック狂の青年にテレサの亡くなったホテルに泊まるのだとうれしそうに言ったら、このオヤジ、ばかなんじゃねえのと思われるだろう。私も好き嫌いが激しいからそういう傾向はある。とするならやはりIさんがうれしそうに私に語ったのは、同じテレサファンと確認していたからなのだと思う。また、もしもそうではなく、「アジアが好きな旅人なのだからテレサが嫌いなはずがない」という絶対的な確信をIさんがもっていてしたとするなら、それはまたそれでテレサの価値であり、すばらしい。

 思えば「オフ会」なんてものに参加したのはあれが最初で最後だった。いまこうしてつきあいのある人たちのことを考えると、それはそれで価値のあるものなのだと素直に思う。
 らいぶさんへ。Iさんとはメイル連絡が取れなくなっています。機会があったらパスワードを教えて、ぜひ読んでくださいとお伝えください。

Norman Brown──あまり歌わないベンソン!?

 ハードディスクに入れた6000曲を適当に流しているうちにまたあらたなお気に入りを発見した。ノーマン・ブラウンである。

●タイのジョージ・ベンソン人気
 最初聴いたときジョージ・ベンソンだと思った。「またか」って感じである。今のジャズ界において彼がどれほどの地位にあるのか知らないが、タイ人好みであるのはたしかなようで、タイでかき集めてきた詰め込みCDには、やたらと彼の作品が多い。ほぼ全作品が入っているのではないか。
 この違法詰め込みJazz-CDは番号順で出ている。「Jazz.1」「Jazz.2」のように。Classicも同じ。気に入っているミュージシャンが入っているものを適当に買い10枚ほどもっていたが、正月にらいぶさんにまとめて買ってきてもらったことにより、チェンマイで買えるものに関しては一通りそろった。23枚である。バンコクならあと数枚出ているように思う。なにしろこんなものを買うのは白人の観光客ぐらいだ。しかもRockと比べるとかなり売れ行きは落ちる。マニアにはたまらない一品なのだが。
 1枚にアルバム10枚が入っていると仮定すると23枚でアルバム230枚になる。Jazzの全分野に関してである。その中にベンソンは15枚ぐらい入っている。この「Jazz1」から23までナンバリングされたものはけっこういいかげんな作りでよくダブっているから、もっとあるかもしれない。ベンソンとケニーGがとりわけ多い。これは230枚の中にコルトレーンが1枚、マイルスが2枚しか入ってないことからも異様に多いことがわかる。タイ人の好みだ。

 私はジョージ・ベンソンが好きである。彼がギタリストとしても、そしてヴォーカリストとしても天才であり、ジャズのためにいかにがんばったかも知っている。「ジャズのため」とは、「マスカレード」のころから、タキシードを着て、JAZZが洗練された大人の音楽であることを世間にアピールするための広告塔に成りきったのだ。あだるとこんてんぽらりーじゃずとでも言うのか、まあそんなものだ。その効果は大きかった。えらい人である。日本のニューミュージック界にたとえるなら──って我ながらたとえがめちゃくちゃなような気もするが(笑)──フォークの連中が皆四畳半に住み貧乏を売り物にしていたとき、マンションライフとクルマを前面に出し、貧乏だけがフォークじゃないとあたらしい分野(=ニューミュージックなる呼び名)を生み出した荒井由実みたいなもんである。(先日パソコン雑誌に「曲名を一文字替える」という遊びがあって『ルージュの伝言』→「ベージュの伝言』てのには笑った。)
 一般にこういうことをすると、吉田拓郎がマンションに住んだだけで堕落したと武道館フォーク大会で帰れコールを浴びたように、本来のマイナなころから応援していたファンから、金のために悪魔に魂を売ったと批判されるのだが、ベンソンにはそれがなかった。(ごく一部にはあったろうが)。それは彼の技倆が図抜けていたからである。あの早弾きフレーズと一緒にメロディを口ずさむ凄技は圧巻だった。

 というところで今BGMをベンソンにしたのだが、うまいなあ、文句なしである。たっぷりもっていると「マスカレード」なんかとは毛色の違った曲も楽しめてあらためてこの人の多芸多才ぶりがわかる。
 先を急ぐ。
 このタイで作られた寄せ集めJazzCDの一大特徴は「イージーリスニングの傾向が強い」ということだろう。タイ人がそれを好きなのだ。サバーサバーイの思想である。フリージャズのようなもの、コルトレーンのようなものは好まない。いきおいベンソンやケニーGが増える。たまになにかの間違いのようにモンクが入っていたりするとでろ~んとした暗いピアノの響きに場違いな感じを受ける。
 それはそれでいい。私がこのCDに望んでいるのもパソコンで仕事をするときのBGMである。私はもともとコルトレーンのやろうとしたことはわかるつもりだが、日々の音楽として彼を聞きたいとは思っていない。音楽で哲学したいとは思わない。

 と、私もまたタイ人のようなジャズ観だから似たもの同士でちょうどいいのだが、それでもこれらの聞いてないCDを楽しみに開けると、ベンソンやケニーGばかりだとさすがに飽きてくる。タキシードばかり押しつけられると、たまには洗いざらしのジーンズのようなJazzも聞きたくなる。

●あまり歌いたがらないベンソン!?
 今回も文章を書きつつ『Media Juke Box』でアトランダムに再生していたらいつもの音が流れてきた。耳慣れたサウンドだ。まだ聞いていないジョージ・ベンソンだろうと思う。オクターブ奏法のあざやかさも似ている。そう思って聞いていた。でも微妙に違う。ちがうのかなあ、ベンソンだよなあ、と思いつつ、いややはりこれはちがうぞ、誰なんだ、と『Media Juke Box』を開きアーティスト名を確かめた。それがノーマン・ブラウンだった。 
 よく似ているのだがすこしばかり味が違う。こちらのほうがすこし堅いか。ベンソンが完成品であり、あまりに洗練されすぎているから、まだそこまでいっていないのが心地よい。

 ネットで調べてみた。「1970年生まれ、8歳からギターを始め、ジミヘン、ウェス・モンゴメリ、ジョージ・ベンソンにあこがれ、97年ぐらいから活躍中」とわかる。いま34歳で、世に出たのが二十代半ば。私が聞いて気に入ったのはちょうど三十歳のいちばんいいときの作品のようだ。私は遅れてきたファンか。いやいやまだそうでもあるまい。アルバムは4枚か。今から聞き込めば大ファンの一員になれそうだ。ウェスやジョージにあこがれてこの音を出しているのはわかる。なんかベンソンとは違ったいい味。隠し味の正体はジミヘンだった。
 Jazzファンのサイトに、彼を「あまり歌いたがらないベンソン」との評があり、おもしいろと思った。ベンソンは天才的にうまいこともあり、たしかにやたら歌いたがる。だから「インスト集」なんてアルバムまで出ている。彼のギターのファンでギターだけを聞きたいと思ってもそれは無理だからだ(笑)。ブラウンも歌っていてうまいようだ。気に入ったのは女歌手をゲストに迎えて歌ってもらったりしていること。チラっとその辺のサイトを読んだら恋人とかであるらしいが、その辺また勉強してから書こう。とりあえずうまい女ヴォーカルがあり、そこに彼のギターが絡むのは大歓迎である。
「Jazzにはあらゆる可能性があるから好きなんだ」と語っているとか。こういうタイプのJazzミュージシャンてのはステージではやらないけど、オフステージでふざけてロックギターを弾くと腰を抜かすほどうまかったりする(笑)。逆はないからそこにおける「おおきさ」は認めねばならない。
 もうすこし聞き込んでからもっとまともな感想を書こう。(5/18)
5/20
クラプトンのDVDはいずこ 



 ハードディスクの中のクラプトン「Unplugged」を聴いていたら、急に彼のステージが見たくなった。ステージを収めた2枚組DVDをもっている。ひさしぶりにSlow Handを見ようと思ったのに整理整頓が悪いので見つからない。こんなとき、もっときちんとしなくちゃ、と思う。こんなときだけ(笑)。

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 やっとのこと見つかった。きょうはひさしぶりにクラプトンコンサートだ。いまDVDプレイヤで観られることも確認した。ウイスキでもほしい感じだ。セミ禁酒中なので飲まないけど。
5/25  ドビュッシイの夜想曲

 船戸の『山猫の夏』を読み返していたら、顔にハエがたかる暑い暑いブラジルの安酒場で、ジュークボックスからドビュッシイの夜想曲が流れてくる場面があった。
 印象的なシーンだったのでCDからハードディスクに入れ、何度か聞いているのだが、どうもしっくりこない。

 こういう「ん?」、あるいは「おっ!」と思うシーンは、実際に取材の過程でそんなピント外れの組み合わせと出会い、「うん、これは使える!」という場合と、それこそ机上で「こんなシーンがあったらおもしろい」と作り出す絵空事の場合がある。この場合、どうにも現実とは思えない。すぐにそれは本来のジュークボックスに入っているようなボッサノヴァになるのだが、あるのか? ブラジルの田舎、人口二千人の町の酒場のジュークボックスにドビュッシイのピアノノクターンが?
 行ったことないからなあ。今もドビュッシイ聞いてるけど、いくらなんでもそれは、と思うのだが……。

【附記】
 その後『夜のオデッセイア』を読んでいたら、これはアメリカ南部の放浪物だが、ここでも「ドビュッシイの夜想曲」が登場していた。「夜想曲」だからカタカナで書くと「ノクターン」になる。この頻繁さから船戸がこれを大好きであることは間違いない(笑)。しかしニューオーリンズやブラジルの田舎のジュークボックスで現実に耳にすることがあるのかどうか。これは我が身で確認するまでわからない。でもこんなことを船戸は創作しないだろうなあ。ドビュッシイねえ……。(5/25)

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2009年7月
 何年ぶりか忘れたが船戸の「非合法員(イリーガル)」を読みかえした。完全に忘れているので初めて読むのと同じ。新鮮(笑)。
 おもしろかったので続いて「夜のオデッセイア」を読むことにした。最初のページに「ドビュッシーの夜想曲」が出て来る。「これ、ホームページに書いたなあ」と思い、ここを探しだした。2004年の5月、もう5年も前だとは思わなかった。父の死ぬのがこの年の12月、「最大もってあと半年」と宣告されるのが6月だから、まだそれを受けていない時期に書いたのか。あれこれ想うことは多い。

 相変わらず船戸とこれらの作品とドビュッシーの夜想曲はつながらないままだ。

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