2008
3/3 アクセス数激増異変

 私にとって「大事件」が一段落したのでまとめておくことにした。え~と、日附を確認して書こう。あれはいつだったか。ライブドアブログのアクセス数一覧を見る。2月6日か。
 問題となる文章を書いたのはいつだろう、6日にこの「事件」が起きるのだから5日なのか? 確認する。けっこうめんどうだ。あ、違う、2月3日だ。とすると「事件」が起きるまでに三日も間があったのか。これはいま知った。このことも謎を解くことが出来なかった理由のひとつだろう。

※  ※  ※

 2月6日夜、ブログの管理ページを開くとアクセス数が300になっていた。正しくはこの時点では248とか、そんな数字になる。
 どこにも宣伝せず30人の友人とひっそりとやっている私のブログのアクセス数は、当然のごとく30前後である。時には12なんてことも多い。30人の友人が毎日読んでくれるわけではない。

 しかしそれは当然だ。思いつくまま好き勝手なことを書いている。ひとつのテーマに絞っていない。アイドルタレントならなにを書いてもファンに喜ばれるだろうが一般人にそんなことはありえない。たった30人ではあっても彼らの好みは様々で、海外ネタを楽しみに来る人もあれば挌闘技ネタだけを追っている人もいる。政治ネタは好きだが挌闘技ネタは読まないという人、音楽ネタは好きだがスポーツネタは読まないという人、いろいろだ。けっきょく私のブログ文章をぜんぶ楽しめるのは私だけになる。

 それは友人処刑、おっと、ぶっそうだなATOK、諸兄もわかっていて、まあ「当たり」は週に一度ぐらいしかないと割り切って気長につきあってくれている。それが私のホームページになる。地味ではあるが安定した日々だった。地味と安定は自分が望んだものだから理想的な日々と言ってよい。唯一絡んでくる気狂いのCNXというのもここのところおとなしくしている。そろそろ啓蟄なのでまた動き始めるか(笑)。春先は気狂いの季節だ。ともかくまあ、平和でおだやかな時間だった。

※  ※  ※

 それがいきなりこんなことになった。深夜には300を突破した。たかが300なのだが普段30なのだから、これはもうとんでもない数字になる。間違いなく何か異変が起きている。何が起きたのかと焦る。私に解決のすべはない。このままでいるのは気味が悪いので、パソコンプロのS君に原因探しを頼んだ。
 いったいなにをどうするのか知らないが、さすがは専門家、あっという間にS君は原因を探し出してきて教えてくれた。

 原因は、2月3日に書いた私の「現実を見ていない視点──ターザン山本氏のコラムより」のURLを、誰かが2ちゃんねるの「ターザン山本氏を批判するスレ」に貼ったから、だった。


http://blog.livedoor.jp/moneslife/archives/50872746.html

 2ちゃんねるとはなんとすごいのだろう。ターザン山本氏を批判する専門スレがあること自体おどろきだが(だってあの人、いま最前線で活躍していないのに)、そこに私のブログを「こんなことを書いているヤツがいるよ」と貼っただけで、見知らぬ270人もがやってきたのである。なるほどなあ、芸能人なんかの失言なら、それが10万20万となって「炎上」にもなるだろうと理解できた。

 原因がわかればなんて事はなかった。というのは、そこは山本氏を批判するスレだったから、同じく山本氏のコラムが現実のスポーツ紙の事情を見ていなくていい加減だという私の批判は、彼らから攻められることはなかったからである。原因がわからない一時はブログを閉鎖せねばとすら覚悟した。どうやって閉鎖するのか知らない。どうするんだ? いまもって知らない。一応知っておかないと(笑)。

※  ※  ※

 原因に気づかなかった私が鈍いのはたしかだが、その理由はいくつかある。
 一番大きな理由は、私がターザン氏のブログの読者ではなかったことである。存在は知っていた。今までにも何回か行ったことはあった。でもまあ読むほどのものではないし、というか、私はブログを読み歩くことをまったくしていない。「お気に入り」に登録してあるブログもない。では常時接続のネットでなにをしているかというと、Wikipedia、価格コム、Amazon等での調べモノ、2ちゃんねるの「ニュース速報+」「芸スポ速報」で世間の話題を知ることに利用している。あとはインターネットラジオに接続してJazzやClassicalを聞くぐらいだ。

 このときも、たしか「芸スポ速報」で、前田日明が{Hero's}から撤退と知り、そこからどういう流れだったか、「前田が『某プロレスライター』を批判している文」に行き、そこからその「某プロレスライター」であるターザン氏のブログにたどりついたのだった。ターザン氏のブログを読んだのは二年ぶりぐらいか。「お気に入り」にも入っていない。

 するとその日がたまたまターザン氏が朝青龍に関して書いている日だった。その現実を見ていない内容のズレに呆れ、ブログに書いた。きっかけとしては、大の相撲ファンとしてターザン氏のいいかげんな切り口が看過できなかった、になる。
 もしも2ちゃんねるの「プロレス板」を読んでいて、延々と「ターザンウォッチング」が続いていることを知っていたら書かなかった。私は揉め事には近寄らないことにしている。書くとしてもホームページの「マスコミ論」の中に書いた。これだったら目立つこともなかったろう。

 推測するに、私の友人の誰かがこれ(=2ちゃんねるにURLを貼る)をしたとは思わない。前記、30人限定のはずなのに42人の日もあると書いたように、なにかのきっかけで来ている見知らぬ何人かもいるのだろう。そのうちのひとりがやったと思われる。

 まあ荒らされることもなかったし、というか、万が一そんなことが起きないように、もともとコメントは書き込めないように設定してあるから、原因がわかればなんてことはなかった。アクセス数も、それ以外にはターザンに関することは書いていないようだとわかると、すぐに落ち着いて、またもとの数にもどった。

------------------------------

◎ ターザン山本氏とのこと

 ところで、ターザン山本氏に競馬の仕事のきっかけを作ったのは私である。
 最初は、昭和61年に私が自分の文章が載った日本中央競馬会機関誌『優駿』を山本氏に送ったことから始まる。
 私は山本氏が作っていた「ザ・ジャンボ鶴田」「ザ・天龍源一郎」「ザ・タイガーマスク」「ザ・アマリロ」等の「プロレスアルバム」が好きだった。発刊はベースボールマガジン社の別会社・恒文社である。ほとんど全部買った。いとしい本なので、多くの本を捨ててきたが、いまも何冊かは持っている。後にそれが『週刊ファイト』から転職してきてまだ目のでなかった山本さんがほとんどひとりで作っていたものと知る。それの成功で氏は後に編集長に抜擢されたようだ。

 こどものころから大のプロレスファンだった私は『優駿』の文章の中に、「フランク・ゴーディッシュは、どんな楽しみも、仕事にしてしまえば苦痛になると言った」と書いた。高名な哲学者のことばのように。フランク・ゴーディッシュはブルーザー・ブロディの本名である。ま、ちょいとしたイタズラだ。その号を山本さんに送った。すぐにお礼のハガキをもらった。それで親しくなった。

※  ※  ※

 当時、『優駿』には、月代わりの「巻頭随筆」というページがあった。文字通り巻頭に1ページ、各界の著名人が競馬に関するエッセイを書くのである。

 私はそのページの担当者に「週刊プロレス編集長山本隆司氏」を推薦した。山本さんが『週プロ』の編集後記に何度か競馬のことを書いているのを目にしていた。競馬好きなのを知っていたからだ。でもこれは冒険だった。
 競馬会は常に競馬のイメージアップを願ってきた。バクチ、肉体労働者の遊び、借金、身の破滅、という世間のイメージを払拭したかった。よって『優駿』の巻頭エッセイを依頼されるひとは、学者や文学者、経営者が多かった。そういう高尚な方々がイギリス留学時代の競馬の思い出を語ったりする趣向のページだった。馬券やギャンブルの話は好ましくない。

 競馬会が最も縁を切りたいことばは「バクチ」と「ヤオチョー」だった。だからそこに「ヤオチョー」の代名詞のようなプロレス関係者を登場させるのは大冒険だったのである。いまも思う。よくぞ編集者は私の推薦を受けてくれたものだと。競馬好きの高名な文学者や大学教授が出尽くしていた時期であったことがさいわいした。
 山本さんも場を意識して、穏当な随筆を書いてくれた。

 武豊とオグリキャップによるブームがくる前夜である。宝島が競馬ムック本を出す計画をしていた。後にこの百冊以上も出ることになる競馬ムック本の成功によって、これを企劃した女性編集者は宝島社の役員にまで出世する。でもそれは後の話。そのころは『優駿』編集部に誰かいい競馬ライターはいないかと挨拶にきていた。

 『優駿』の巻頭エッセイにターザン山本の競馬随筆が載った。それを読んだ宝島編集者はすぐに『週プロ』編集部に連絡して競馬ムック本への原稿を依頼する。なんでもやってみたい山本さんは二つ返事でオーケーする。これによって「競馬ライター ターザン山本」が誕生した。それから二十年……。

 当時「競馬最強の法則」もまだ創刊されていない。このすこしあとから「季刊のムック本」として出始める。ただKKベストセラー社は昭和50年代に高本公夫さんの馬券本は発刊していた。私がオグリキャップの本を出す出版社としてKKベストセラー社のIさん(後の最強の法則編集長)に交渉に行くのはその翌年になる。

※  ※  ※



 その後、山本さんとは後楽園場外で何度か会い、ことばを交わした。日曜日だったから、仕事を抜け出して馬券を買いに来たときだったろう。
 競馬場で見掛けるようになるのはだいぶ後になる。つまり競馬ライターとして売れっ子になってから、山本さんは競馬場に来るようになった。仕事絡みで。それまでは後楽園場外派である。

 あのころの『週プロ』は輝いていた。あのままターザン山本はプロレスマスコミの先頭を走るひとだと思っていた。なのに山本さんには人生の大転機が訪れる。というかもう「プロレスマスコミ」なるものが終ってしまった。上手に転身した山本さんのかつての部下である谷川サダハルンバの栄光を思うと複雑な気分になる。

 私が最も頻繁に武道館や国技館、田園コロシアムに通ったのは昭和50年代だった。このころはもうプロレスに距離を置いていたのだろうか。熱心に雑誌は読んでいたが、あまり会場には行かなかったような気がする。

 私は創刊号から『ゴング』を読んできた『ゴング』派である。それがターザン山本編集長時代には『週プロ』を買っていたのだから、あのころの『週プロ』は熱かった。



 私は一貫して山本さんを支持していたわけではない。女房を古手川祐子に似た美人と自慢し、その奥さんには直木賞を取る文才があると村松友視さんが保証してくれた、などと書き始めたあたりから、「おいおい、だいじょうぶか!?」と思うようになっていた。

 私が山本さんの感覚を決定的にヘンだと思ったのはSWS問題の時だった。
 それまでにも露骨な新日贔屓、全日嫌いをやったり、いきなり馬場に近づいて全日贔屓になったり、ブレる姿勢に首を傾げていた。いつしか『週プロ』というマスコミが権力を持ち暴走を始めていた。プロレスの方向性などどっちにでも引っぱれるという傲岸さが顔を出しはじめていた。これを不快に思いいち早く気づいた長州は、ある意味さすがだと思う。私は彼は嫌いだけれど。

 『週プロ』の表紙に、ハレーションで片目だけ赤い天龍の顔のアップ写真を見たとき、私の中で『週プロ』は終った。コピーは「プロは金で動く」だったか。後々天龍もこの表紙で傷つけられたイメージは図りがたかったと語っている。馬場を裏切りSWSに移籍した天龍への、ターザン山本の攻撃だった。

 私は格別の天龍贔屓だったわけでもSWS贔屓だったわけでもない。むしろ長年の馬場好きだったから、新日一辺倒の『週プロ』が全日寄りになったときはうれしかったし、金の力で選手をひき抜くSWSのやり方には批判的だった。天龍が移ったときはショックだった。全日が潰れてしまうのではないかと案じた。

 だけどそれらを割り引いても、あの悪意のある表紙は許容しがたかった。マスコミがここまでやっちゃいかんだろうと思った。それはもう私怨に思えた。ああいう表紙、ああいうコピーに、部下の人達はどう感じたのだろう。尋いてみたいものだ。



 しかしこのあとの「新日取材拒否事件」では、私は『週プロ』を支持した。いろいろある(笑)。
 ターザン山本の暴走には呆れたが、同じく長州の「力道山感覚」にも抵抗があった。力道山はプロレスマスコミなど認めていなかった。みな自分が食わしてやっているのだと豪語していた。取りまきでしかない。実際そうだった。提灯記事しか書かない。長州はそれを理想とし、「(プロレスマスコミは)『東スポ』があれは他はいらない」とまで言いきっていた。これまたひどい話。時代錯誤である。

 餘談ながら、こどものころから一貫してプロレス好きだったから、私は新卒の時、プロレスマスコミへの就職を考えたことがあった。やめたのはこの理由による。プロレスマスコミ内部のことは知らなかったが、おそらく、あくまでもプロレスラー優先の世界だから、マスコミとはいえ、書く自由はないだろうと思った。まずいことを知っていても書いてはならない世界なのだろうと。若僧の直観的な推測だが、正解だったことになる。

 気に入らない記事を書く『週プロ』を長州新日が取材拒否した。新日の記事がない『週プロ』は苦境に立つ。私は『週プロ』がんばれと応援した。といっても毎週缺かさず買うぐらいしか出来ないけれど。
 負けないと思っていた。しかしそうではなかった。部数が激減し、山本さんは編集長を降ろされる。閑職に廻され、やがて退社する。長州の完勝だった。

 山本さんの暴走に納得できない面もあったにせよ、この結末は、プロレス界にマスコミは存在しないことの証明だろう。批判が許されない異常なジャンルである。
 ミスター高橋や高田のカミングアウトによる衰頽は自然の理だった。





 いま山本さんはプロレスに関わっていない。競馬は「最強の法則」でインタヴュウ取材をしている。長いときが過ぎ、いろんなことがあった。馬場はもういない。鶴田さえもいない。橋本も冬木もいない。兄弟のようだった前田と高田は不仲になってしまった。ふたりにインタビューしたころが懐かしい。

 山本さんもご自分の競馬文章の最初が、昭和62年の『優駿』巻頭随筆であることは覚えているだろう。でもそれを裏で画策したのが私であることはご存じないはずである。
 競馬ライター・ターザン山本を誕生させた仕掛け人であることは、私のささやかな自慢だった。
 だが最近、山本さんの競馬智識があまりにいいかげんなことを知り、私はそのことを恥じるようになっている。あそこまでひどいとは思わなかった。そのことはまた競馬の項目に書くことにする。ひとつだけ書いておくなら、山本さんは、競馬その物ではなく、競馬に狂っている自分が好きなのである。そういう競馬ファンは多いし、それはそれでよいことだ。だがそういうひとは競馬を書く側になってはならない。なるのなら、それなりの覚悟と責任、姿勢が要る。山本さんにはない。競馬が好きな自分に酔ったまま、誤った文章を垂れながしている。そのきっかけを作ったのが自分だと思うとき、私は赤面して俯くしかない。



 この異常アクセスの日から、私も2ちゃんねるのターザンスレを読むようになった。山本さんが思いつきで間違いだらけのことを日記に書くと、2ちゃんねるがそれを取りあげておもしろおかしくチャカす。このコラボレーションは笑える。日々の楽しみとなった(笑)。

 ただ、ひとつだけ書いておくと、みな山本さんをとんでもない競馬好き、馬券好きのように思っているが、それはちがう。
 競馬というのは休みのない連続ドラマだから、休めないのである。休んだらストーリィがわからなくなってしまうのだ。だから休みなく続けるか、きっぱりと足を洗うかのふたつにひとつしかない。
 山本さんのように彼女が出来たら競馬を休み、休んでも平気、というひとはニセモノである。これはもう今までにも何十人もそういう馬券狂のふりをしたニセモノを見てきたから断言できる。

 こういうひとは代償行為として競馬をやっている。燃える仕事、あいする彼女、そんなものがいないゆえの馬券狂である。よってそれらが見つかると、見事なまでにきれいに競馬から去ってゆく。
 今の山本さんもそうである。たまに馬券を買ってハズれているが、あれはもうストーリィがわからなくなっているから宝籤と変わりない。単に金が欲しいだけだ。やっていることも彼女の名前と共通の馬を買ったりと初心者丸だしである。あの年になって初心者にもどってしまうということは、今まで馬券に哲学がなかったことの証明になる。哲学というと大袈裟だが、時代遅れの血統論でも、「ダートの長距離なら××だ」なんて単純な騎手信仰でもなんでもいい、その思い込みが馬券好きの熱さになる。あのひとにはなにもない。そのことが今まで買ってきた馬券が欲求不満解消の代償行為だったことを示している。

---------------

 ターザン山本さんのことを書いたことから異常なアクセス数となっておどろいた私だったが、そのあと、もっと大きな波を被ることになる。それは大阪府の橋下知事のことを書いたときだった。その波は今までのさらに10倍大きかった。一日50アクセスぐらいで友人だけがやってくるブログが、突如3000アクセスの大波に見舞われることになる。

============================================

◎さらに10倍の波がやってきた



4/16  ホームページをやっていてよかったと思う瞬間



 ホームページ読者用のメールアドレスgooにタカハシさんというひとからメールが届いていた。名前に覚えがない。誰だろうと思う。攻撃的なメールだったらいやなのですこし緊張する。ここのところ見知らぬブログ読者が増えていて、好意のメールもいただくが、サヨクからの攻撃も多い。平気だけど(笑)。

 つけ焼刃じゃなく、長髪のサヨクっぽい、アサヒシンブンを読んでいたのが、牛歩のごとくだが、一歩一歩歩んでたどりついた境地だ。生半可には動じない。

 誰だろうと思ったら、競馬場のパドックで何度もご一緒したあの「タカハシさん」だった。安心した。まあ今の私には、タカハシさんで浮かぶのは、彼ひとりしかいない。

 報道陣用パドックで何度も馬体のことを話したものだった。残念ながらふたりとも診立てはいいのだが馬券に結びつかない。去年のダービーだって、「ウォッカとアサクサキングスをふたりで褒め称えつつ買っていない」のだ。



 ところで、この報道陣用パドックは一般席の前にある。早くから来て最前列を取ったと思っていた人には、メインレースになるとどかどかとカメラマンやライターがやってきて自分たちの前に並び、パドックが見えなくなってしまう。とても不快なものであろう。「なんなんだ、こいつらは!」という怒りの声を何度も聞いている。ごもっともである。 私は競馬ライターになるまえに「ただの競馬ファン」の時期が十年以上あった。それが私の原点でありいちばんの誇りだ。
 ハッキリ言っちまえば、学生からすぐに競馬のプロになっては競馬が見えない。予想や血統評論のプロにはなれても、競馬全体を語る視点は持ち得ない。だから私は新卒で競馬のプロになったひとをちっとも羨ましいとは思わない。

 その間、自分が特権とは無縁だったから、こういう怒りの声はよくわかる。報道陣用パドックで、背中から聞こえてくるそういう声を聞くのはつらい。でもかつて自分がそうであったからこそ言える。「ちがうところに行け!」と。

 その場所は、目の前に鉄柵で区切られた空間があり、誰か関係者が来るらしいと最初からわかっている。賢いファンはそんなことは知っているからそこに席取りはしない。広いパドックをぐるりと囲んだ中で、報道陣用のそのスペースなんてほんのすこしなのだ。いくらでも他にいい席はある。普通のファンが朝早くから並び正しく席を取っていたところを、何らかの権力でどけどけとやられたら怒って当然だ。だが最初からそれ用に区切られているところに後からひとが来たからと怒るのは筋違いである。一般ファン当時の私だったら、一度は失敗しても二度目はしない。「あそこは後から報道カメラマンの来る悪い場所だ」と結論して近づかない。現にただのファンのころ、私はオッズ板下を定点にしていて、そんなところには近寄っていない。

 なのに毎回そこにいて、毎週のように怒っている年輩者もある。もしかしたらそれが楽しみなのかもしれない。人それぞれだ。怒ることを楽しみにしているのなら、それこそこんなのはよけいな意見になる。


 


 タカハシさんと会って話したのは、いちばん近いものでも「ダービーのパドックでのウォッカ讚歌」だから、もう一年近く前になる。その辺のことは競馬ファイルに書いた。馬の見方が自分と似ているので近しい感じをもったことを覚えている。
 しかし私は東京競馬場のパドックでタカハシさんと会い、共通の友人に紹介され、互いの名前を名乗っただけで、名刺交換もしていない。パドックで会うだけの人だった。

 一二度、競馬場帰りの酒席で一緒になったことがあり、そのときタカハシさんが「林家たい平」を褒めたことを覚えている。今までそういう飲み会で百人にも及ぶひとと接してきたけれど、落語好きはいなかった。假にいたとしても、「たい平=『笑点』」という程度だったろう。競馬ファンは日曜は競馬場に行くので『笑点』は観ていない。私のように録画までしているのはまれだ。

 なにがきっかけだったか、そこでタカハシさんがたい平の能力を高く評価していた。すぐに本格的な落語好きだと判った。彼の音曲が本格派であることに目をつけていた私は、競馬ファンでは得難い人に会ったと思ったものだった。そのことは「落語」の項に書いた。でもそのとき、タカハシさんと一緒にたい平を語ってはいない。そこにいる長年のつきあいの連中は私が落語好きであることを知らないし、そういう競馬関係者が集っている場で自分の趣味を開陳することを私は好まなかった。タカハシさんもまた親しいひとではなかったし。
 それでもたい平の魅力を正しく理解している本格派の落語好きと出会ったことはとてもうれしいことだった。



 そういうタカハシさんがいきなりメールをくれた。きっかけは先日私が「レープロ」に書いた文章を読んでのことらしい。そこから私の名でネット検索し、ホームページを見つけ、そこにあったgooのメールアドレスに連絡をくれたのだ。
 と、ここまですべて競馬関係だから、これらは「競馬ファイル」に書けばいい。それようの【競馬抄録玉】まで用意してある。

 なのにここに書くのは、タカハシさんの交遊が競馬では収まりきらないほど広いと知ったからである。



 メールは二通あった。一通は、その「レープロ」を読んだということ。またそのうち飲みましょう、だ。
 私のホームページを適当に読んでくれたらしい。すると共通の趣味の落語がある。タカハシさんも私がかなりの落語好きと知っておどろいたらしい。そこからまた話が拡がっていった。それでもう一通書いてくれた。

 まず、タカハシさんはたい平とは遊び仲間であるとのこと。個人的に親しいという。ただの落語ファンの視点ではなかったのだ。これはテレビディレクタ(私はプロデューサと書いたが、ご本人が「使いっ走りのディレクタですから」と謙遜しているのでしたがうことにする)なら十分にありうることだ。落語に理解のあるかただとあらためて確認した。このことで「競馬」だけではなく、「落語」の項目にも書かねばならない、となる。

 さらには私が私淑している「高島俊男先生と交遊のあるかた」とわかったのである。今度は《『お言葉ですが…』論考》にも書かねばならない。これにはおどろいた。なにしろ先生が夏を過ごすあの「長野の別荘」にも行っていて、先生の文中にも登場しているという。「今度上京するときに待ち合わせて飲みにでも行きますか」と言われると、それはそれでうれしいけれど、私はまちがいなく先生に叱られるうすらばかなのでびびってしまう。

 タカハシさんの方も、パドックで一緒に馬を観ていた競馬ライターが、自分と同じ落語好きであり、高島先生をあれほど敬愛していると知って驚いたようだった。二通目のメールはあれこれに触れた長文である。

 これらの拡がりのすべては、「レープロを読んだタカハシさんが、私の名前をネット検索してホームページを探し出し、そこをあれこれ読んで、競馬以外の、落語や高島先生のことを見つけてくれたから」である。私は何もしていない。ひたすら、そこまでやってくれたタカハシさんと、「レープロ」に書かせてくれたYさんに感謝するのみである。
 そしてもうひとつが、「私がホームページをやっていたこと」だ。





「ホームページをやっていてよかった」と、心から思う瞬間である。
 たとえばこれがブログのみであり、「木屑鈔(ぼくせつしょう)」で何度か高島先生の名を書いていたとしても、タカハシさんもそこまでは気づいてくれなかったろう。ブログの内容を分類しておき、項目に「ことば」とあったとしても、タカハシさんがそこをクリックして面識のある髙島さんの項目を見つけだしてくれることはなかったろう。あくまでもこれはホームページというものを持ち、トップページに《『お言葉ですが…』論考》という項目を立ち上げていたことの恩恵である。

 もちろん《『お言葉ですが…』論考》という専門のブログをやっていれば気づいてもらえる。しかしそこまで徹底もしていない。これはなんでも詰め込む日記的なブログと違い、項目別に分けて作れるホームページの差になる。世間ではホームページは最近すっかり人気がなく、ブログにお株を奪われてしまった感がある。かくいう私も最近ブログばかり書いているけれど、こういうことがあるとその価値を見直す。淡々と項目を積み重ねるホームページを作り続けてきてよかったと心から思えた。

 皐月賞で中山開催が終る。それから東京の「ダービー、オークス開催」だ。それが終るともう一年の半分が過ぎてしまう。早いなあ。
 山ごもり蟄居生活なので今年の中山は全休してしまった。こんなの何十年ぶりだろう。ソンクラン目的に二月から四月までチェンマイに行くときでも、必ずそのまえの正月開催の中山に行っていた。資金を稼ごうと。結果、減らしていたが(笑)。

 東京は行く。タカハシさんと、たい平や高島先生を肴に飲み明かそう。
 まずはそのための軍資金に皐月賞を当てないと。

6/18  インターネットのない生活

 今年の6月前半はパソコンと無縁の生活だった。正しくはさわりたくてもさわれない生活、か。体調を崩し、友人の家で世話になっていた。
 友人が勤めに出た後は、結核みたいな咳をしつつ(ほんとに結核かもしれない)部屋でずっと本を読んでいた。
 その本が古い(笑)。友人の趣味だ。三島由紀夫を読み返したなんて何年ぶりだろう。いや何十年ぶり、か。同時にまた、気になっていたが読んでいなかった「ゾウの時間ネズミの時間──本川達夫」のような本も何冊か読めた。動物は大きさによって感じる時間の長さがちがうという論である。読書傾向のちがうひとの本棚は勉強になる。

 パソコンがないといられないのではないかと心配だった。急ぎの仕事はない。心配はあくまでも趣味の世界。
 インターネットは無関係。これは家にいてもメールぐらいしか利用しない。仕事関係へはあらかじめ「友人のところで静養するので、なにかあったらケイタイへ」と連絡してあった。急ぎのPCメールが届いていることもない。仕事的には問題なし。

 心配だったのは、この十数年缺かさずパソコンで日記を書いてきたことにある。読書や映像への感想から、「駅前ですごいセクシーな女を見かけた」「700円の弁当がまずかった」「iPodで落語を聞いていたら寝過ごして川崎まで行ってしまった」とか、くだらないことまで細かく書いている。それがもう生活の一部になっている。たまにあわただしい日が続き、三日ぐらいたまってしまうと、書かねば、早く書かねばと焦って焦ってたいへんだ。習慣として根づいている。
 ノートと手帳は持参したが、それにメモするだけで我慢できるだろうか。なにしろキイボードなら早打ちでいくらでも書けるが実際に字を書くのはハガキ一枚でも億劫なほうだ。

 友人宅にもパソコンはあった。旧い旧い非力な型。でもそれは気にならない。テキストエディターで文章を書くだけだ。充分に足りる。
 今時インターネットに接続していないのも珍しい。といってアナログ人間でもない。訊くと、メールもネットでの調べ物、通販の買い物も、すべてケイタイでやっているとのこと。充分に今風のデジタル人間である。パソコンを使う必要性がないと言う。なるほど、こんな生活もあるのか。ケイタイは電話にしか使わない私の知らない世界である。

 私はやっぱり大きな画面で見ないとだめだ。いま19インチを2台使い、ひとつで文章を書きつつ片方を辞書類の表示専用にしている。この2面使いに慣れてしまうと1面だけでは物足りなくなる。ましてケイタイのちっこい画面など見たくもない。
 友人の14インチディスプレイにも近寄る気はなかった。これは私のあげたディスプレイだが。

 それでも世話になって数日経つと、友人の本棚にも飽きてきて、パソコンをやりたくなる。私は友人のパソコンに触ってみた。
 私の愛用のソフトはなにもない。テキストエディターで文章を書きたいのだが、好きなソフトは入っていない。インターネットに繋がっていればDownload出来るのだが……。
 国語和英英和の辞書ソフトもない。類語辞典などあるはずもない。まあいつもの自分と同じような環境を望むのは贅沢だと諦める。文句を言い出したら安物キイボードのタッチからして気に入らない。有線マウスもわずらわしい。なにより椅子が気に入らない、これじゃ腰を痛める。不満ばかりになってしまう。

 その日は、ノートパッドで短文を書き、バッグにUSBメモリがあったので、それに保存した。不慣れな他人のパソコンでは、そこまでが精一杯だった。
 三日ぶりにパソコンが使えてうれしいというより思うように操作できないストレスの方が大きかった。前々からわかっていたことだが、私はパソコン使いというより、カスタマイズした自分のパソコンが使えるだけなのだ。

 とにかくまいったのはMS-IMEのバカさかげんだった。ここを読んでいるひとにも使用者は多いだろうからことばを抑えるけど、とてもとてもとても、あんなものは使えない。だけど世の中、無料でMS-IMEが使えるのに、あえて1万円するATOKを買うひとはそんなにいないのだろう。MS-IMEを使い、パソコンの日本語入力装置とはこんなもの、と思っているのなら不満も生じない。
 でももしもあなたがそれなりの量の日本語を日々入力するひとなら、ぜひともATOKを使ってみてほしい。すぐにその差に気づくはずである。8千円の価値は充分にある。

 しかしIMEというか、むかしふうにFEPと言うなら、バカさには慣れている。FEPの黎明期からつきあっているのだ。だからそれには我慢がきくとしても、MS-IMEが使いづらいのにはまいった。あちらに責任はない。使いなれていない私の問題だ。

 よろこばれるだろうとH子さんのパソコンにATOKをいれてやったことがある。ところが彼女も、たまに遊びに来てそれを使う女友達からも、「使いづらくて困る、元にもどしてくれ」と言われて削除した。あれほど憤慨したことはない。ソフトなんてそんなものだ。



 前回MS-IMEを使ったのは2002年のチェンマイのインターネットカフェになる。そのときはそういうことが異国で出来ること自体に感激していたから、なんとかがんばって使いこなした。そのときも使いづらいとは思ったけれど。

 そういえばバンコクのインターネットカフェで、タイ語用キイボードでかな入力したら、あるべきキイがなくて焦ったことがあった。今じゃ懐かしい想い出だ(笑)。なんだっけ、「む」か「ろ」か、ないのである。そこいら中を押しまくったら、へんなところに割り振られていた。

 それから6年も経ち、自分用にカスタマイズしたPCばかり使ってきたから、もうMS-IMEの使い方なんて忘れてしまった。OS再インストールは毎度のことだから数え切れないほどやっているが、やってまっ先にするのがATOKのインストール、MS-IMEの削除だ。そこまで嫌いなものが使えるはずもない。

 思うようにゆかないことに苛立ち、何度も友人のPCをぶち壊したくなった。自分をなだめつつ、牛歩ののろさながらなんとか書きあげ、友人に会社からUPしてもらったブログ文章が、【競馬抄録玉】の「6/10 ダービーメモ」「6/12 安田記念メモ」、【芸スポ萬金譚】の6/10「映画──香川照之の魅力」になる。6月前半はこれしかやっていない。
 いつもの10倍もの時間を費やしたので、個人的には想い出の文章になった。もちろん時間を費やしたのは推敲とかそんなことではない。単に使いづらいパソコンなので時間がかかっただけだ。

 とはいえこれらもサナトリウムにいる時間をもてあましている患者のような状況だったから書けたのであって、あんなパソコンは二度と触りたくない。

 そういうひどいもの(失礼)でも、あったのでさわってしまった。あそこで我慢すれば半月間パソコンにさわらずにいられるかという実験が出来た。もったいないことをした。
 ただごく少数ではあれ、ダービーや安田記念に関する私の文章を読みたいと言ってくれるひとがいるのだから、書かずにはいられなかった。いや書いたことは正解であろうし、あんなもの(失礼)でも、あったから、それができた。すなおに感謝したい。

 実は二ヶ月前にHDDレコーダが壊れ、私はいま、二十五年ぶりにVTRのない生活をしている。ぜったいに我慢できないだろうと思っていた。よくある「時計がわりに朝、テレビをつけ、ニュースを見る」ようなことを除けば、私はもう長年テレビをリアルタイムで見たことがない。好きな番組を録画しておき、好きなときに見る生活が染みついていた。いわば「テレビに振り回されない生活」である。録画装置がなくなったらそれが出来ない。見たい番組はいくつかある。みなヴァラエティ番組だ。かといってその時間にテレビの前にすわるのはいやだ。

 すぐに修理に出すか、新品を買うかするだろうと思っていた。と。このへん、あいかわらずの他人事風。
 SONYに問い合わせたら「検査で2万5千円。あとは故障状態によりそれに上乗せ」と言われた。そのためにはまずは送るための箱がないなあと悩む。HDDレコーダを挿れる適当な段ボール箱はあるようでない。どこで調達しよう。
 それに、そんなに修理代がかかるんだったら、あらたに買った方がいいのではないか、と考える。まずまちがいないのだが、私のHDDレコーダの故障はささやかなものである。ある日、いきなり電源が入らなくなったのだ。それこそヒューズが飛んだようなもの。千円もしない部品を替えるだけですぐ直るはずだ。でも検査だけで2万5千円。高いと思う。だったら中古を買うかとソフマップを覗いたり、価格comで安い新製品を探したりしているうちに時は流れ、前記のような「療養生活」もあったりして、ふと気づくとテレビを見なくても平気な自分がいた。

 もともとテレビとは縁を切りたいと願っていたから、これは私には大事件だった。こんなに簡単に実現するとは思わなかった。いやもちろん壊れて一週間ぐらいは禁断症状があった。いまも外出するとき、留守録しておきたいなと思うことがある。それでも、いつしかなんとかなっている。こんなものか。



 私はかつて品川と茨城で8台のVTRを使っていた。外国に行くときはそれらを駆使して興味ある番組をすべて録画した。あのころは「世界ウルルン滞在記」なんかも録画していた。なつかしい。ヒサモトが出るようになってから一切見ていない。

 東京にもどるとき、VTRは友人にあげたり田舎においてきたりして、HDDレコーダ1台だけをもってきた。それが壊れた。
 田舎においてある4台も壊れていないし、それは遠いから別にしても、御徒町のH子さんにあげたのだけでも2台あり、1台は使っていないから、貸してくれと言ってもってくればVTRはすぐにでも使える。でもそんな気にならない。せっかくTVとの縁が薄まりそうなのだからそうしようと思っている。ないならないでなんとかなると知った。

「ヘキサゴン」や「さんま御殿」を留守録を利用して缺かさず見てきたから、外出していて見られない回が2週続いたときは、ものすごく焦った(笑)。いまは平気。その時間、家にいるときはまだ見ているが、もう外出していて見られなくても気にならない。これがまあ正常な状態。ああいうのを缺かさず録画して、そのあとDVDにまで焼いていたのが異常。

 時間は同じ量ある。テレビを見なければ、その分ほかのことが出来る。いまだ一日中外出して、深夜に帰宅するようなときは、ゴールデンタイムのあの番組が見たかったなあと思うことがままある。そうして長年生きてきた。午後8時からのヴァラエティ番組を、深夜や明け方に酒を飲みつつ見るのは、それはそれで愉しいものだった。でも未練を断ち切り、このまま突っ走ってみようと思っている。

 パソコンはテレビとは違う。いやまったく別だ。なにしろ縁を切りたいと思っていない。パソコンがないといられない。仕事が出来ない。絶対必需品だ。大切な相棒である。
 だからこそ半月間さわらないという実験の出来る貴重な機会を逃してしまったのは大きい。実質的にさわらなかったのは最初の三日間だけで、そのあとは上記のように不満だらけながら、けっこうノートパッドに雑文を書いたりしていた。この絶好の実験チャンスを逃したのは悔やまれる。

 6月14日に自宅にもどってからは、もう今までとまったく同じ。朝起きたらまずPCに向かうことから一日が始まる。ここのところ人並みに外出が増えてきたが、部屋にいるときはほとんどPCに向かい、音楽を聴き、映像を見、文章を書いている。やはりあの実験の15日間を逃したのは惜しい。15日間パソコンにさわらないと自分はどうなるのか知りたかった。

 そういう機会はまたあるだろう。ほんとに結核かもしれないから入院するかもしれない。
 でももうノートがある。今度また友人のところで休ませてもらうことがあるとしても、私は私用にカスタマイズされた使いなれたラップトップをもってゆく。この前のようなことはない。
 そんなことを思えば思うほど千載一遇の機会を逃した気がする。

 パソコンに半月さわれなかったら、私はいらいらしていられなかったのか。それとも、それはそれで割りきり、紙の辞書を引きつつ手書きで書き始めたのか。どっちなのだろう。


inserted by FC2 system