2003──下半期
03/7/7
あまりに週刊誌的な(03/7/7)──週刊実話の記事

 北海道静内武牧場の武勇さんが謎の死を遂げた。そのことが載っていたので普段はまず絶対に読まない『週刊実話』(以下、ジツワ)を立ち読みした。
 ぼくがジツワを読まないのはヤクザ話に興味がないからである。ジツワがどれぐらいヤクザ話をメインにしているかというと、ヤクザは週刊誌のことをジツワというぐらいなのである(笑)。文春や新潮に載った話でも彼らは「ジツワで読んだのだが」と言うそうだ。同じくどの週刊誌の記者が取材に行っても、上に取り次ぐとき「ジツワが来ました」となり、もめて怒ったときも「おんどりゃジツワごときが」と、常に週刊誌というものの一般呼称としてジツワが使われているそうである。実話。

 ぼくのヤクザ嫌いは徹底していて、『仁義なき戦い』に代表されるヤクザ映画もいっさい見ていない。だからよくある会話で「ヤクザ映画を見た後、映画館から出てくる人って、みんなこう肩を揺すって、ヤクザになってるんだよね」なんて冗談にも頷くことが出来ない。欠落している知識のひとつとして「ヤクザ映画」がある。補おうともまったく思わない。
 そんなわけで土方をやっていたころ、飯場においてあったのを手にして以来ではないかというぐらいひさしぶりにジツワを読んだのだった。
(そういえば競馬関係で知り合ったジツワの記者がひとりいる。語るほどの人ではない。覚えているのはカラオケで『怪傑ハリマオ』を唄うのが好きだというぐらいだ。)

 なんともひどい内容で、苦笑というかうんざりというか、憤懣やるかたないため息をつきつつコンビニを出てきた。出入りのフリーライターが書いたのだろうけど(競馬のことはそれなりに詳しかったので、もしかしたら知ってるヤツかもしれない)、ここ百年ぐらいの武一族のちょいとしたトラブルを大仰に取り上げ、結びはなんと、「正に呪われた一族としか言いようがない」である。最初に結論ありで、それを言いたいがために無理矢理こじつけた感じである。ふざけるのもいいかげんにしろと呆れてしまった。あんな栄光の一族をたったこれだけのことで「呪われた」とは、よくもまあやるもんだ。
 
 殺された(他殺の可能性が高い)武勇さんは競馬界一の人気騎手、というか日本競馬界の宝物、武豊騎手の遠縁にあたる。父武邦彦調教師の従兄弟か、従兄弟の子供か、まあそんな関係だ。そのことからこの事件も「武豊騎手の遠縁にあたる牧場経営者が変死」とマスコミでは伝えられた。
 武家は競馬界における名門である。日本競馬界の創始者である函館一門の流れを汲む。調教師、騎手の一族として名を馳せてきた。騎手としては、武邦彦がターフの魔術師と言われ、今その息子である武豊、幸四郎が大活躍している。
 そういう大きな一族であり、多くの人が関わっているのだから、この百年の間にいくつかのもめごとはあった。八百長疑惑とかそんな感じのものだ。そりゃあるだろう、一門の数多くの人間が百年も関わっているのだ。それらのどうでもいいようなものを二つ三つ並べ、今回の武勇さんの事件と結びつけ、無理矢理「呪われた一族としか言いようがない」って結論なのである。なにをどうすればこんな書きかたが出来るのだろう。書いたヤツのツラが見たい。

 しかしまあこれは、いかにも週刊誌的な──この場合の「週刊誌的」とは侮蔑の意味合いだ──起承転結を採った文章ではある。ただ、いくら週刊誌でも、このカビの生えたような手法は二十年ぐらい前に絶滅したのではなかったか。たとえばテレビのワイドショー、あるいはドキュメタリの結び、レポータがしかつめらしい顔で言う。「果たしてこれでよかったのでしょうか。私たちはもう一度も考え直さねばならない時期に来ているのかもしれません」。ぼくらがこれを笑いのネタにしていたのはもう二十年以上前になる。どんなテーマでも、最後に「もういちど考え直さねばならない時期に来ているのかもしれません」とやれば、それなりにまとまる。なんとも便利なコトバだった。さすがに最近のテレビはこれをやらない。あまりに無神経で不細工だと現場の人間が気づいたからだろう。

 この週刊誌の手法も、これと同じく、とうに絶滅したあまりに古色蒼然たる大時代的な切り口ではないのか。
 いや罪はもっと重い。なぜならこの場合は、切り口以前に事実として成り立っていないからだ。武一族は、一般的に言えば華麗なる一族になる。それをいかにもスキャンダラスに「呪われた一族」にするのはいくらなんでも無理がある。弟コンプレックスの強かったユタカの兄ちゃんが覚醒剤やってつかまるなんてなさけない話があったが、あれもべつに呪われちゃいないだろう(笑)。

 とはいえメディアは消費者あってのものだ。これを読んだヤクザ(およびそれに準ずる読者)は、馬券に負け、「チクショー、また武にやられた。あのやろう、なんであんなに勝つんだ」なんて喚いているときに、「いやよ、こないだジツワで読んだんだけどよ、あいつの一族ってたいへんらしいよ。呪われてんだってよ」となり、溜飲を下げる機会があるのかもしれない。あるだろうな、この記事を読む連中なら。とするならこれは、読者レヴェルに合わせた名文(?)なのか。

 この文を読んで真っ先に思い出したのは三十年近く前の「報知新聞」だった。当時の報知は、一面の下部に、天声人語のようなコラム欄をもっていた。スポーツ専門紙ではない時代の名残だったのだろう。そこで前日話題になった「大相撲のまわしがゆるんだいちばん」を取り上げていた。いわゆる「ゆるふん」で、まわしがほどけそうになり、局部が見えそうなてんやわんやのいちばんがあったのだ。その短いコラムの結びが、なんと「(スポーツ競技の衣装として問題のある)まわしというものを考え直さねばならない時期に来たのかもしれない」だったのである。

 バッカじゃないのと思った。たったいちばんである。序の口から結びのいちばんまで取り口がいくつあるのか知らないが(手元の資料で数えることは出来るがこの場合こまかいことはどうでもいいことだ)、假に一日百番としよう。すると一場所十五日で──ここからアラビア数字──1500番、一年6場所で9000番、10年で9万、百年で90万、江戸時代までさかのぼり、アマ相撲の数を加えたらいったいどれぐらいの数になるのか。それをたったいちばんのゆるふんから、なんで「まわしを考え直さねばならない時期に来た」のか。当時ぼくは学生だったが、なんともこのあまりに強引な牽強付会には──ダジャレで不快と書きたいところだ──言いようのない「型にはまった醜悪さ」を感じたものだった。抗議が殺到したものと確信している。
(餘談ながら、当時の報知には、寺山修司の競馬予想コラム『風に吹かれて』が載っていて、ぼくは愛読していたのだった。)

 テレビ番組のワンパターンな結びも、あきれた報知新聞のコラムも、何十年も前の話である。さすがに今はこんなのはない。でもジツワの話はつい最近だ。
 週刊誌の記事に本気で腹を立てたりしちゃいけないんだろうけど、いやはやなんともあきれた文章だった。そういうものを書くライター、それでよしとする編集者、編集長がいまだにいるのかと、あきれてしまった。ぼくの知っているそのジツワの記者というのも、まったく切れ味がなく、よくこんなので週刊誌の記者をやっていられるものだというレヴェルの人なのだが、そんな人でもやっていられる職場ということなのだろう。もうジツワなど二度と読むことはない。
 蛇足ながら、これはぼくが競馬関係の仕事をしていたとか武騎手のファンだとか、そんなこととは関係ない。あくまでも週刊誌の記事作り姿勢に関する憤懣である。
(メモとして。アップしたのは7/7だが事件のあったのは6/8。ジツワを読んで憤慨したのは6/20日頃と思われる。)
03/8/15
朝日AERAの捏造体質
(03/8/15)


「無責任な報道するなよ!」石原知事定例記者会見で朝日(AERA)を非難

 AERAという怪しげな雑誌があるんだけど、堀 紘一なる人物がインタビューで(堀へのインタビューを朗読)
「..外形標準課税の時、私はアドバイスした事があるんだ、やめた方がいい、絶対負けるよって」
 私は彼に助言を求めた事はありませんし、彼に会った事もない。

(堀が石原との会談で石原がしゃべったとした部分を朗読)
「いいんだよいいんだよ話題が出来たから」

 こんな馬鹿な事、私が言うわけがないんだ、これは都議会と都庁に対する冒涜ですよ、名誉毀損ですよ。聞き手のなんとかっていう編集部が書いてるんだけど、ほんとに失敬先番な話でね。何を根拠に...
 しかもですよ、「話題が出来たから」で済む事じゃないでしょ! こんな無責任な報道するなよ! 朝日だか何だか知らんけれども!! 朝日の猛反省を促します」

(註・この「失敬先番」の「せんばん」は「千万」だろう。調べてみたが、やはりそうである。まあテープ起こしだから誤字もあろう。)



 朝日の捏造体質をご理解ください。なおこれは都知事の定例会見で、音声で発表されたものです。文に起こしたのは2ちゃんねるのヒトです。以前のタテカワダンシの北朝鮮拉致被害者に対する発言(=あんなとこを歩いているのが悪い。拉致されて当然だ。親の育て方が間違っている)と同じ形式ですね。

 さてこの記事の裏側はどうなんだろう。堀紘一て人が容貌や「朝ナマ」での発言等、あやしいヒトであるのは確かだ。どうにもこの種の東大からアメリカのなんとかかんとかで学び、そのご帰国して経済アナリストなんてのは嘘っぽくて信用できない人が多い。金儲けはうまいんだろうけど。
 一方、新興の馬主として競馬場で身近に接していることもあり(あのみえみえのカツラはやめたほうがいいと思うけど)、サンスポに書いている競馬コラムの視点には好意を持っている。どっちだ。

 2ちゃんねるのスレッドでは、石原贔屓が一斉にホリへの攻撃を始めた。よくある形で、そういうカツラのことなども含めてボロクソである。まあ普通はこうなる。すると比較的冷静なヒトが、
1)石原慎太郎が嘘をついている
2)堀紘一が嘘をついている
3)朝日が捏造した

 のどれでしょうと三つのパターンを挙げて問題を簡素化した。
 それでも沈静化しないホリ叩きの中で、さらにまた冷静なヒトが、

アサピー「堀先生、コメントをお願いします」
堀ゲーハー「そうですねぇ、もしアドバイスを求められたら、やめておいた方がいい。 と申し上げるかもしれないですね。 マスコミの取り上げ方もあり、話題先行となってしまいましたが、今一度 議論を重ねてみる必要もあるのではないでしょうか?」
 てな感じのコメントをアサピーフィルターにより加工したのでは?


 と書き込んだ。
 私はこの路線だと思う。よほど石原さんの300万票が気に入らなかったのか──まあ、脅威だろうよね(笑)──AERAは特集を組み、石原叩きを連載でやっていた。その線上のお得意捏造がこれだったろう。いくらなんでもホリさんも、会ってもいないヒトと対談をしたと嘘はつかないと思う。
 この問題、朝日はどうでるのか、ホリさんはどう発言するのか、進行が待たれる。もう結果は出ているのかな?



 以前もこの欄に引用したが、石原さんが障碍者の施設を見て回ったときの発言、「こういう人たちは生きている価値があるんだろうか」に関する記事は印象深い。
 朝日の文章を読むと、「なんてえ野郎だ、いいかげんにしやがれ! 何様のつもりだ!」と誰でも思うだろう。あれを読んで、それでも石原さんを好きでいるのはむずかしい。それどころか憎しみの炎すら燃え立つ。まして肉親に障碍者を抱えていたなら顔も見たくないと思うに違いない。
 ところがその発言を順序立てて純粋に採録した東京新聞の同じ記事を読むと、石原さんが、ほぼ「ただ生きているだけの状態」の彼らに、胸が痛む、という感覚で発言していることが素直に伝わってくる。
「なるほど、こういうふうに発言の順番を変えると、こう仕上げられるんだ」と、悪意の捏造をするための教科書のようである。それこそ沈痛な面持ちで言ったことを、傲岸に高笑いしながら言ったように誘導できるのだ。もちろんさすがに発言内容は変えていない。並べ替えと削除の妙である。

 マスコミはこわい。切り口次第でなんとでも人を誘導できる。救いなのは、日本には朝日新聞以外のものもあることだ。朝日がどんなに自分たちの思うように国民を誘導しようとしても、思いこみのない他紙に、素直に報道されたらむしろこんなふうに恥を掻くだけである。しかし「朝日だけを読んでいる人」にはそれは伝わらない。問題はそこなのだ。

 かくいう私も、インターネットというものがなかったらことの真実を知らないままだった。彼のその部分発言だけが宙を飛んで回り、週刊誌の見出し的に届いていた。詳しくは知らないままだ。石原さんを支持していても、あの人もよく言い過ぎるから、ついポロっと言っちゃったのかなあぐらいに思っていた。つまり、石原支持でいながら、石原さんを信用していなかったことになる。
 ところが世はインターネット時代。あっという間に「朝日新聞と東京新聞の記事を対比させたもの」を読むことが出来た。朝日がどこをちょんぎり、順番をどう並べ替えて記事を都合よく作り替えるかが解る見本となった。インターネットのすごさ、まさにIT革命だなと思った出来事である。そしてまた、石原さんを信用していない自分を知って赤面したものだ。
03/8/15
AERAの思い出──1枚2万円(03/8/15)

 創刊された頃だったか、AERAに書いている知り合いのノンフィクションライターがうれしそうに語っていた。なんでも原稿料が1枚2万円で、20枚で40万だから、それだけでも生活して行けるほどだ、と。えらいひとのことはわからないから自分クラスの判断で言うと、当時の平均は5000円ぐらいか。エロ出版社の出している競馬雑誌だと2500円なんてひどいのがあった。白夜とか(笑)。ぼくは当時から仕事を選んでいたので書いていない。いまや血統に関しては第一人者になりつつある吉沢譲治なんかから聞いた。彼は若くして三人の子だくさんだったからなんでも書いていた。でも競馬ブームの頃はただでも書かせてくれという競馬ライター志望者が多かったから、その安いエロ出版社でさえも強気だった。そんなのを相手にしないほどぼくが悠々としていられたのは、競馬専業でない多分野のライターだったからである。

 8000円だとかなりよかったほうだ。ダイナースクラブの会報は当時から1万円だった。これはありがたかった。対談原稿の連載はもちろんだが、世界のあちこちにビジネスクラスで飛び、これだけのものがもらえるのだから感謝である。放送原稿だと、週一の放送、一ヶ月で20万円のような契約。これまた時代が変ったからで、同じ事を数万円からやってきていた。ぼくも書き原稿で1枚2万円の仕事をしたことはあったが、それは宣伝紙関係の3枚とか5枚程度の原稿が多く(だからこそ単価が高い)、数十枚の原稿に単価として2万円を払うところは知らなかった。図抜けて高額だったのはたしかだ。そのノンフィクションライターは節操なくなんにでも書く人だった。それこそ思想もジャンルも関係なくだ。やたら書きまくる。その彼が喜んでいるのだから、雑誌掲載原稿の単価としては当時一番だったかもしれない。

「ケーちゃんも書くかい、紹介するよ」と言われた。なぜかそのころ業界仲間から私は「ケーちゃん」と呼ばれていた(笑)。実のところ当時の私は今ほど思想に目覚めていない。当時も今も気持ちは同じだが論争できるだけの礎がなかった。意見を言ってもすぐに論破されるんならおとなしくしているしかない。
 そのノンフィクションライターたちの集いに、誘われるままに参加して、美浦の吉永厩舎(ミスターシービーの厩舎。当時はまだ離婚前で吉永みち子さんがいた)に泊まりがけで遊びに行ったりした。その中にいたAERAの編集者と親しく話したりもした。名刺交換をして、いちど編集部に遊びに来てくださいと言われる。行かないままに縁は切れた。あれで行っていたら、酒席を通じて仲良くなっていたし、発注を受け、どんなメディアも一度は書いてみたいものだと思っていたから、きっと書いたろう。そうして今、「忘れてしまいたい恥ずかしい過去」がひとつ増えていたように思う。

 宴席で焼酎の話などをして気があっていたのになぜ編集部に行かなかったかの理由は明白だ。金である。そのノンフィクションライターがあまりに原稿料の高さを賛美するものだから、そこに行ったら金欲しさに来たのかと思われるのではないかと、それで行かなかったのだ。朝日系というのは原稿料、取材費をけちらないことでは有名だ。そのことによってシンパを確保している面はある。同時に、「うちの原稿料、取材費の味を覚えたらよそでは書けまい」と誇っているのもたしかだ。そう考えると、いつでも食わねど高楊枝の私が近寄らなかったのは当然かもしれない。

 個人的に景気がよかったこともある。いや悪かったら、物欲しそうに思われるのではないかと、それこそ意地でも行かなかったろう。その友人のノンフィクションライターは、離婚した妻子に仕送りをするために、無節操に仕事をしていた。そのことに批判的だったこともある。とはいえそれは、ひとり者の私にとやかく言えることではない。結婚して子供を作って離婚しておきながら仕送りをしないヤツよりははるかに好意的だった。

 フリーランスのライターがみなそうだというわけではない。きちんとてしている人はいつでもきちんとしている。後に「コリアン世界の人々」で賞を取る野村さんなんかは、ぼくに「潮」誌に掲載されるコメントをとるだけでも、「創価学会系の雑誌だけどいいですか?」とはっきり明示してくれたものだ。う〜む、書いていて思い出す。ぼくは「潮」に載ったことがあるのか。ほんの数行とはいえ。ま、宗教系はこちらに実害を及ぼさず会員同士でやっているかぎりそれほどのものではないと思っている。サヨクのほうがずっとたちが悪い。

 それ以前もそれ以後もAERAは読んだことがない。今後ももちろんないだろう。朝日ジャーナルの頃から嫌いだった。好き嫌いは確立していた。バカだったので理論的に批判できなかっただけだ。前記文章を書いたのでむりやり「AERAの思い出」なんて雑文を書こうと思い立ったのだが、その「1枚2万円にはしゃいでいたノンフィクションライターの笑顔」ぐらいしかない。おそまつ。
03/10/7
今週の『週刊現代』


 巻頭、ヌードの次にモノクログラビアの二世議員特集。批判。
 写真入りだ。それはいい。ぼくは二世議員肯定派なのだが、それはそれなりに勉強した今の感覚。むかしは反感を持っていた。議員が世襲なのはおかしいのではないかと週刊誌が特集することに文句はない。今週の政治記事の流れは、『週刊現代』『週刊文春』は安倍晋三叩き、『週刊新潮』はどちらかというと持ち上げ、で、それはそれでかまわないのだけれど。
 ところがこの『週刊現代』の特集、単なる自民党批判なのだ。(公明党や保守新党もひとりかふたりいたかもしれないけど気づかなかった)。
 最初のページが引退するナカガワとエトウ。引退はするが息子が立候補すると親子で写真対比だ。そのあとに石原三男のこと、オヤジと兄貴の写真。ついで小泉親子二代の写真(祖父も含めて三代なのだからどうせなら三代並べろ!)、名門の安倍三代(先代晋太郎、母の父・岸信介総理大臣、これまた祖父の安倍寛はなし)を並べて、いかに世襲している政治家が多くてろくでもないかとの特集だ。
 で、野党は一切ない(笑)。そこがへん。おかしいよねえ。いっぱいいるのに。

 今回の選挙で最も話題の二世議員は、与党側の石原三男さえしのぐ野党最大党首の息子「カンナオト二世」だろう。あれだけ二世議員と、それを生み出す風土を非難していたのに、平然と自分の息子を立候補させる矛盾。それこそ皮肉の大好きな週刊誌なら、カン親子の写真を載せ、「あれ? カン議員、世襲は否定だったのでは?」なんてからかうのがまともな姿勢だ。なのに野党側にも山といる二世議員は完全に無視。まるで二世議員という悪弊は自民党のみとでも言うがごとき偏向ぶり。合流した自由党の小沢も二世議員だ。いくらでもいるぞ。特集はいいが偏るなよ!
 立ち読みしてあきれて本を置いたあと(間違っても買わない)、念のためにもういちど手にした。「今週は自民党特集、来週は野党特集」とでも書いてあったら早とちりになるからだ。そんなお断りはなかった。要するに講談社にとって、非難する二世議員とは自民党だけを指すらしい。野党の二世議員は批判対象にならないらしい。おそまつだ。

 ひどいなあ。ほんとにひどい。大きなマスコミがここまで偏向していいものだろうか。まあそれ以前にもっともっと影響力があって偏向しているテレビのクメやチクシがいるが。それとはまた違った影響力が活字にはある。
 こんなのを読んで染められる無知は多い。現に染められたままでそれに気づかない哀れな被害者を大勢知っている。反対のものががあるならまだいい。「二世議員は許せない」と『週刊現代』と同じく50万部出る週刊誌で、野党の二世議員ばかり特集して非難し、まるで与党には二世議員はいないかのように偏向報道する週刊誌があるなら、それはそれで釣り合いがとれていることになる。でもそうじゃない。

 ほんとにヘンな国だ。自分の国に誇りを持てないような教育を小学校から押しつけ、おとなになっても、いかに国を背負う政治家がくだらないかと嘘ばかり作って足を引っ張る報道ばかりしている。へんだへんだ、ほんとに狂ってる。
 人類史上、こんな奇妙な国家は存在していない。国の基本は自国を誇ることにある。誇るように指導し、それに反発する多少のアンチが出てきて釣り合いがとれる。ところがこの国は、誇れない誇らないことがインテリの証明のようなっている。ヘンだ。
 冷戦時代の、西側のアメリカ、イギリスでも、東側のロシア、東ドイツ、北朝鮮でも、そしてそれが終った今でも、国の基本は自国と人民の誇りにある。
 おかしいなあ。ほんとにヘンだ。それでいて奇妙な部分でバランスをとっている国だからよけいに気味が悪い。

 今週のキョセン
 安倍晋三批判。その手法が相変わらずなので苦笑する。彼の批評方法は、むかしから一貫している。欧米を基準に置き、日本の後進性、歪みを指摘するという、欧米コンプレクスの強い日本人を自分の色に誘導するものだった。「こんなことアメリカだったら許されませんよ。オーストラリアではね」なんて感じだ。それは中国人、朝鮮人を見たら日本人は悪いことをしましたすみませんでしたと土下座しなければならないと思いこんでいた無知な田舎高校生(わたしね)には、説得力に満ちた智性的な手法だった。

 時が過ぎれば、どんなバカでも自分なりの努力をして目が開く。自分の目で世界を見てくれば感覚は変る。
 相変わらず同じ手法で、今でもその洗脳方が通じると勘違いしているキョセンが哀れでならない。舛添が120万票取った選挙で、キョセンは、タジマヨーコやオーニタよりもすくない票しか取れなかった。そのことでふてくされる。100万票行かないことに不快を表明していた。ここにも自己評価の勘違いがある。私からすると今でもキョセンに票を投じた人が34万人もいたことのほうが不思議だ。

 安倍晋三が、クメチクシ的マスコミからのイメイジダウン仕向け質問「タカ派と言われているが」に応えた「拉致国家に対し、日本人ひとりの命を真剣に護ろうとすることをそう呼ぶ人がいるなら、タカ派と呼ばれてもかまわない」発言に、キョセンがイチャモンをつける。正面からは何も言えないから、「安倍晋三クンはタカ派の意味を知っているのだろうか。現に世界中で今でもタカ派、ハト派は使われている用語だ。アメリカの××が、イスラエルの××がなんと呼ばれているか知っているのか。政治家として勉強不足である」というもの。
 安倍の言った「あんたらがタカ派なんて呼称で自分を呼び、足を引っ張ろうともかまわない。私は、そういう呼称など気にせず、自分の思うような政治の道を歩むだけだ」という本筋を、「タカ派、ハト派という言葉の解釈」にズラして責めようとしている。なんともお粗末だ。小泉首相憎しから、宅間に対する「死刑は当然だと思う」発言に三権分立をわめきたてて誹謗したのと同じ手法になる。それしかイチャモンのつけようがない。もっとも真っ正面から、「あんたは拉致被害はでっちあげだって言ってたよね」と指摘されたら何も言えなくなる。残っているもんな、文章で。社民党のドイと同じ感覚だ。なぜ社民党に属さなかったのか。

 思えば、たった半年での議員辞任はうまい方法だった。あのままでいたら身動きできないところに追いつめられたろう。さすがに逃げ出すのは未だに機を見るに敏である。タレントとしての動物的本能なんだろうな。

 講談社はいつからこんなに狂ってしまったのだろう。たけしの「フライデー襲撃事件」からもう何年経つんだ?
03/10/8
週刊誌話──『Yomiuri Weekly』『週刊文春』『週刊新潮』


 最近、病院の待合室で『Yomiuri Weekly』を読むのが楽しみになっている。  巻頭でヤマタクこと山崎拓自民党副総裁特集。恥ずかしながらヤマタクが小学校四年で失明して片目だと今まで知らなかった。防衛庁長官の頃から名を覚えたが小泉政権で幹事長をやるまで興味のない政治家だった。今も魅力は感じていない。

 地元で開かれた励ます会は三千人を超す盛況。瀬戸際だから必死だ。そこで「山崎さんは日本の政治になくてはならない大切な人。落選させてはならない」と熱弁をふるったのは東京から駆けつけて司会進行を担当した田原総一郎なんだと。この人、戦後民主主義のサヨクと毛嫌いしていたが、誰とでも寝るやすもんの電波芸者だったのかと認識をあらためる。過日の森前首相を中心にした講演会(「レイプする人はまだ元気があっていい」と発言した議員がいて問題になった会)での司会も田原だった。レイプ発言よりもそのことのほうが意外で印象的だった。テレ朝でのサヨク発言と普段日本全国でやって稼ぎまくっていることとの差がかなりある。日曜朝の「サンデープロジェクト」になんで自民党議員は出るんだろうと不思議だったが、これまた自民党と社会党がなれあいだったように(ケンカも出来レース)、裏じゃつながっていたのか。タレントに腹をたてちゃいかんなと自分をいましめる。

 ヤマタクは落選だろう。民主党から出る新人の古賀というテニスプレイヤに負ける。自民党は副総裁を比例区で拾うのか。落選の原因は『週刊文春』が延々とやり続けたあの愛人スキャンダルである。ショウベンを飲ませただの、中絶すればするほど味がよくなると何回も中絶させただの、母親とやらせろと迫っただのと気持ちの悪い性癖をこれでもかと報じられたなら女ならずとも敬遠したくなる。今回、女房と娘三人がヤマタクのために必死に選挙運動をしているとのこと。あんな報道をされていちばん辛かったのは奥さんだろう。娘も気の毒だ。

 しかしそれは閨房の中の出来事である。そこでどんな変態行為をしようとそれは当人達の問題だ。当人同士が納得していればそれは普通の行為になる。しゃべる女も狂っていれば大々的に報じるマスコミもあまりにゲスだ。そのゲスが『週刊文春』だったことが気分が悪い。

 先日、フランスのシラク大統領に日本人女との隠し子がいることが既定事実として伝えられた。この十数年に公務とは別に40回近く来日しているのだから、ただの親日家でないことは明らかだった。なのに今まで伏せられてきたのは、フランスには「政治家の性スキャンダルには触れないというマスコミの決まり事がある」からだとか。さすがにおとなの国である。
 そういう感覚はかつては日本にもあった。というか、そんなことは大事の前の小事でどうでもいいことだった。当然だ。清廉潔白であることが美しいわけではない。泥にまみれても突き進むブルドーザーが必要な時代もある。むしろそれが政治家の本道だろう。よく引き合いに出されるが、伊藤博文は、今で言うなら色魔、変態のたぐいだった。いい時代だったから業績を残せた。まっとうな政治面での能力を評価された。今だったらマスコミに抹殺されていたろう。
 気持ち悪いサヨクマスコミがのさばるまで、愛人のいない政治家のほうが珍しいぐらいだった。国を引っ張る気概を持つ男が女房の尻に敷かれていちゃ話になるん。カンのように。いやあいつも愛人はいたな。トノムラだっけ。いまカンをボロクソに言ってるらしいが。

 そんなどうでもいいことが政治生命を断ちかねない時代になった。いやな時代である。ヤマタクの性癖は男から見ても気持ち悪くなるものだが、だからといってそれで政治家の座を追われるってのも筋が違う。
 『週刊文春』を使ったヤマタクへのスキャンダル仕掛け人は小泉政権憎しのノナカヒロムだった。現在の『週刊文春』編集長・木俣は京都出身で、父の代からのノナカの子分になる。

 ノナカと言えば──ああ、時の経つのが速すぎる、先週号の記事について書こうと思っていたら書かない内にもう今週号が出ている──彼が被差別部落出身であることは有名だった。活字になったことはない。最大のタブーだった。ところが先週号の『週刊新潮』にそれが何度も活字で登場する。あれにはおどろいた。初めてヘアヌードとやらが解禁されメジャな週刊誌上で見たときと同質のおどろきだ。まさか週刊誌上で最大権力をもった政治家の出自として部落なんてことばを見るとは。

 トリックは簡単だ。ノナカ本人が発言したからである。それの再録という形を取っているから罪悪感のないまま掲載できる。ネタは二発。
 一発目はヤマタク攻撃。ヤマタクがれいの下半身事情で「自分を告発した愛人と名乗る女は部落出身であり、自分のスキャンダルを載せたらそのことが公になり困ったことになるぞ」と『週刊文春』編集部を脅したのだとか。それが問題ありとの指摘だ。この女はそうではないと確認されたというから、ヤマタクもどんな汚い手段を使おうと掲載をやめさせたかったのだろう。愚かだ。それは「部落」と呼ばれるバクダンがそれだけ効果があるということでもある。

 もう一発は麻生太郎攻撃。なんでも自派の会合で、ノナカが、「麻生太郎が、部落出身のノナカに政権は任せられないと何度も発言していることは差別発言であり許せない」と激昂したとか。場は凍り付いたらしい。そりゃそうだろう。麻生は、発言の事実はないと文書で返事したと書いてある。

 そういうやりとりの再録だから部落の文字も掲載が可能だった。現政権を揺さぶるために、自らのタブーとされる出自まで武器に使う、まさにノナカの最後っ屁攻撃、自爆テロである。毒まんじゅうを撒き散らしているのはノナカ本人だ。だがその効果はあるまい。せいぜいヤマタクの落選ぐらいだ。それも比例区で拾ってしまえばそれで終りである。
 ノナカヒロムという政治家の終焉は自民党の恫喝型政治が過去形になるということだ。めでたいことである。

 そのノナカ師匠から恫喝型政治を受け継いだムネオちゃんはどうするのか。マツヤマチハルと新党結成との噂。比例区で20万病(←すごい変換だ)取れるのか。"北海のヒグマ"中川一郎の怪死から二十年。跡目争いの確執はどろどろしたものだったが、中川昭一と鈴木宗男の今を見れば、勝負あったか。

 もどって『Yomiuri Weekly』の話。
手紙の中の日本人」という連載はすばらしい。今回は「山本周五郎から、東北の作家・大池唯雄への追伸」。いやあいい内容だった。今回で74回だったか。もう本になっているだろうな。買って読みたい。いい企画だ。こういう良質のものにふれるとうれしくなる。
『週刊文春』でかつての好企画「待ってました、定年」をやっていた加藤仁さんがここにいたのもうれしかった。この「待ってました定年」に出てくるタイの話は美しい。

町田康のエッセイを何度も読もうと試みているのだが、20行ほど読んだだけでつらくなって毎回投げてしまう。芥川賞受賞作の「ぐっすん大黒」もそうだった。読み切っていない。
 受賞作が掲載された『文藝春秋』で、あたらしい感覚と絶賛する銓衡委員の中、宮本輝が「読んでいると気分が悪くなる」と最後まで大反対し、受賞作と同時に掲載された銓衡評でも信じられないほど激しい言葉でこの作品を否定していたのは記憶に新しい。前代未聞の銓衡評だった。直木賞銓衡評でヤマグチヒトミがわがままなことをよく言っていたものだが、ここまで激しくはなかった。私なんか、この宮本の激しい否定のことばで興味を持って読んだのだった。でなきゃ受賞したばかりの芥川賞受賞作を即行で読むことはない。

 どうやら彼は、熱愛するファンと、生理的に受けつけないタイプに分かれるかなり個性的な書き手のようだ。同じく連載中の室井佑月のものなど楽しく読めるのだから根は深い。ひとことで言えばリズムになる。私は彼の文章を読んでいるとズッコケテしまうのだ。ほんの20行のあいだに何度もつっかかって不快な目に遭えば読む気はなくなる。道路にたとえるなら、20メートルほど歩くあいだに何度もけつまずくような道は散歩する気になれない。彼のファンには私がズッコケル不愉快な部分が快感なのだろう。盆踊りに乗れないブラジル人とサンバについてゆけない日本人ノヨウナ差か。どうしようもない隔たりだ。今となっては否定していた宮本輝に救われる。私は宮本的なんだと自分を納得させられる。あれがなかったら町田康を楽しめない自分にすこしばかり落ち込んだかもしれない。

 今週の『週刊文春』。阿川佐和子の対談に登場するのは義家弘介。あの退学高校生を受け入れて再生させることで話題になった北海道余市の高校(私立北星学園)の出身者であり、現在そこで教師をしている人だ。阿川が対談中、三度も泣いたなんて目次に書いてあるからやばいなと思いつつ読んだが、立ち読みのコンビニで泣いてしまった。周囲を伺いつつ涙を拭く。日本も捨てたもんじゃないと思えるのは心の救いになる。

 ここと高島さんの『お言葉ですが…』を立ち読みしたら読むところがない。『週刊文春』はなんでこんなことになってしまったのか。おそろしい。かなしい。ある意味、誰が権力を握ろうとそれをボロクソに言うのだけを売り物にしている講談社系はどうでもいいのだが(もしも民主党が政権を取ったら今度はそれの悪口を売り物にするだろう。かつて権力者だった小沢一郎をあれだけボロクソに書いていて今はもちあげているのが笑える))、『週刊文春』のこの変節だけは容認しがたい。編集長ひとりの感覚で、ここまで変節するものだろうか。変節というより堕落か。下卑た女性週刊誌のようになってしまったことが「疑惑の銃弾」の頃から愛読してきた身にはなんともかなしい。

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 『週刊文春』補足
 何度か「編集長が替わり『週刊文春』が変ってしまった」と嘆いている。これだけだとマスコミの現状をなにもしらない無知みたいなので補足する。
 きょう『文藝春秋』11月号を買ってきた。それで、何ヶ月前かを思い出した。文春が「反小泉路線」を前面に出し始めたのはいつだったろう。巻頭で讀賣のナベツネに小泉政権をボロクソに言わせたりして(小泉政権をボロクソに言っているナベツネを巻頭に起用した、と言うべきか)、あきらかな方向転換が見えたものだった。

「アンチ小泉政権」はあの時からの文芸春秋社の総意である。よって『週刊文春』がヤマタクの女問題や「面会を求めてきた息子に会わない小泉は冷たい心の男だ」と特集するのは、ノナカの子分である木俣編集長個人の判断ではなく、もっと上からの意志と言える。ただ、そのやりかたが「下品な女性週刊誌のよう」であるのは、この木俣という男の感性だろう。
 私がいま『週刊文春』に反感を覚えているのは、傾向よりもその「品質」である。「同じやるにしても、もっとまともな方法があるだろう」と思えてならない。私の場合は、木俣編集長への反感であると限定できる。
03/11/4

『週刊アスキー』ウタダのコラム


 『週刊アスキー』にウタダなんとかというののコラムがある。この名前の書きかたは敵意ではなく純粋に覚えていないから。興味のない人だ。字は宇田多ではなく歌田だった。ほんとに名字はいろいろだ。それが今週は政治&選挙のことを書いていた。
 まず「小泉首相を評価する」と始まる。その理由は「今までの首相は密室の中で作られてきた。よって視線はそっちを向いている。国民を無視してきた。国民に語りかけようとした首相はこの人が初めてだから」である。

 これは正しい。小泉さんの功績(=旧型自民党議員からみたら罪悪)の上位にランクされる。旧型の自民党政治家からみたら最もいまいましい点になるかもしれない。たとえば亀井だ。彼は今までの古老権力者が密室談合で作り出す総理大臣としてなら充分に成算があった。だが小泉型首相が定型として固まってしまった今、決して首相にはなれない過去型の政治家になってしまった。中曽根以上に小泉憎しと恨みつつ死んでゆくことだろう。彼が総理大臣になるなら小泉より前でなければならなかった。それが時代的に無理だったのなら元々なれる人ではなかったことになる。

 次に財界人の「小泉政治の評価は50点から60点」を引用し、「50点から60点でも支持されてしまうのが不思議だ」と感想を述べる。「現在の政権の人気は、自民党ではなく古いものを変えてくれるかもしれないという小泉首相個人への支持なのだろう」と推論してゆく。そうして結論は「今回は自民党には投票しないことに決めた」になる。

 これが結びだと筋の通った起承転結になるのだがページがあまったからか(笑)民主党にも触れ始まる。するとそのホームページに書いてある、いわゆるマニフェストが、あれもやりません、これもやりません、というやらないだらけの約束であることにきづく。そこで素朴に「やらないことを売り物にするってのもへんなことだ」と思う。自然に「でもダムを造らないと主張することで知事になった人もいる」とつながってゆく。これもまともな人なら当然気づく点だ。

 道路やダムを作ることを約束して地元の支持を得てきたのが自民党議員なら、民主党議員は作らないこと、進行中のものをやめることを売り物にしている。それはアンチであり、裏側志向だから所詮表よりは落ちることになる。しかし汚いもので、カンナオトなんて諫早湾干拓をやめることをマニフェストに書いているのに九州での遊説ではそれに触れない。日本人を拉致した北朝鮮スパイの釈放願いに署名していながらしらんふりをする。二世議員を避難していたのに自分の息子は出している。矛盾だらけである。
 さて自民党に投票しないことに決めたウタダさんはどこに入れるのか。

 と、これを取り上げたのはウタダさんのことはどうでもよく、これがパソコンのあれこれしか興味のない人のためのパソコン週刊誌に書かれたことが印象的だったからだ。見開き2ページだから一冊の中で最も長い唯一まともなコラムになる。対談コーナーと連載小説に4ページってのがあるが。
 そういう週刊誌のコラムで丸々選挙がテーマだったから新鮮に映った。
 ただしそれはこの雑誌を「パソコンオタクの読む政治になど興味のない人のモノ」と決めつけているからで(これはこれで正しいと思うが)、2ちゃんねるでもわかるように、パソコン好きは意外なほど政治に興味を持っていることが証明されている。

 先日、「インターネット使用者にネットでアンケートをとったら『次期政権は民主党を中心にしたもの』が60%となり自民党を中心とした20%を大きく引き離した」と報じられた。そのあとには「インターネットを使用する知的な層は民主党支持者が多い」とアサヒを始めサヨク系はおおはしゃぎだった。

 一読して嘘だと思った。インターネットを使用しているパソコンユーザーは、きわめてまともな歴史観、政治観をもった人が多く、むしろ自虐史観のサヨク系は少数なのである。私はそこに希望を見いだしてインターネットをやっている。ネット世界も自虐史観に満ちているなら今すぐにでも足を洗う。
 今の世である。情報操作はかなわない。すぐにこのアンケートの裏側が調査され不正が指摘された。このアンケートを実施したのが朝鮮人起業家の主催するもので意図的に不正な操作が行われたと発覚したのだ。「民主党支持が60%」とはしゃいだマスコミはその真相は伝えない。この点で情報操作は存在していることになる。

 パソコン好きには意外に政治好きが多い。パソコンのことにはいっさい触れずパソコン雑誌のコラムに選挙のことばかりを書いたウタダさんのコラムは、共感反感を含め、その姿勢は読者には好評だったのかもしれない。
03/11/12
『諸君』12月号


 巻頭の「幹事長室発、拉致解決への道──安倍晋三、横田早紀江、佐藤勝巳」が充実している。鼎談。(と書いたら「書き屋のATOK辞書」が三者会談に直せと言ってきた。無視。)

 横田さんは拉致被害者めぐみさんのお母さん。佐藤さんは被害者の会の事務局長である。あらためて拉致問題に関する安倍さんの行動のすばらしさを確認する。昨年北朝鮮から帰ってきた時も、ただひとり被害者家族みなさんの宿泊所に赴き一時間にわたって事情説明をしたこと等が横田さんの口から語られる。れいのチクシとのやりとり、「タカ派でけっこうです」発言、6千人を集め入れないヒトが黒山となった昨年の抗議集会をいっさい報道しなかったチクシの番組、そのことをチクシにゲストに呼ばれたとき、「ニュース23を見ているかたはご存じないでしょうが」と切り出した安倍さんの痛快さ(こんなことをよろこんでちゃいかんのだが)。穏和な横田さんがチクシテツヤがと呼び捨てにしていたのが怒りを表していた。

 日本人を拉致した北朝鮮のスパイを釈放するよう韓国に要請署名したドイタカコ、カンナオト等のこと、唯一署名したことを謝罪したのは江田五月だけであり、ドイもカンもいまだにしらんふりだ。先日の選挙中、テレビの「自民党、民主党幹事長対談」で民主党の岡田は「その事実(カンの署名)は確認しているんですか、あなたはカン代表に名誉毀損で訴えられますよ」と発言。安倍さんに「もちろん確認しているので申し上げているのです」と言われていた。オカダはバカ男と確認。岡田は北朝鮮に飴をしゃぶらせろという意見だ。どうしようもない。

これは1999年の国会における安倍さんの発言である。
145回-衆-日米防衛協力のための指針に関する特別委員会-05号 1999/04/01
○安倍(晋)委員
<略>
 ついででございますが、この辛光洙事件につきましては、皮肉なことでございますが、盧泰愚大統領が来日をされたときに有志の議員が韓国人政治犯の釈放に関する要望というのを出したわけでありまして、二十九人の政治犯、この人たちはイノセントであるから返してもらいたいという要求を出されたんですね。この二十九人の中に何と辛光洙が入っているんですね。我が国の原敕晁さんを誘拐した、入れかわった辛光洙自体が、その段階ではまだ裁判は始まっていませんでした、捕まった段階だったんですが、それも入っていたということであります。
この釈放しろと言った有志の議員の中には、土井たか子さんとか菅直人さんも署名をされているというわけでありますが、こういう状況の中に我が国があるんだということも理解をしておいた方がいい、私はこういうふうに思うわけであります。


 横田さん、佐藤さんが安倍さんをほめるとき、「まるでアメリカの政治家と会ったときと同じ感じだった」というのは、なんとも日本人として悲しい。増元さんもまったく同じ事を口にしていたとか。
 拉致被害者家族会のみなさんはアメリカへも早期解決のために陳情に行った。そのとき彼らの話を聞いて一緒に涙を流してくれた議員もいたという。また「あなたたちの気持ちはわからないけれど、わかるように努力し、解決のために尽力する」と言ったとか。その誠実さがみなさんの記憶に残ったらしい。ところが日本の議員は、すぐに「あなたの気持ちはよくわかる」と安易に口にして、それでいて二十年以上も陳情しているのになにもしない。そういう中、安倍官房副長官に接したとき、アメリカの議員と同じ自分たちに親身になってくれるものを感じたというのだ。それは安倍さんに対する最高のほめ言葉なのだろうが、比喩として考えたとき、なんともわびしい感じがする。まったくそれまでの日本の議員はなんなんだと腹が立つ。ドイやカンのような国賊は論外として、問題はノナカやナカガワのような自民党内のガンだ。

 「塩爺の小泉政権うちあけ話」もおもしろかった。
 塩川さんが「小泉」と呼び捨てにするのもかっこいい。なにしろ福田赳夫のもとで訪問者のタクシー手配をしていた書生時代から知っている。「あいつが総理になるとは思わなかったよ(笑)」なんて気安さもいい。変人であり徒党を組まない小泉さんにとって、塩川さんの存在は心の支えだったようだ。といって親しくはない。べたべたはしない。「でもなぜかあいつとは同じ事を考えている」と言う。

 小泉さんは自分の政治改革を「田中型政治から福田型政治へ」と塩川さんにいったとか。岸信介、(秀才の兄に反発していたが)佐藤栄作、福田赳夫の流れを金の力でむりやり変えて割り込んだのが土建屋の金権政治屋・田中角栄だった。塩川さんは「あのころから政治家じゃなくて政治屋が増え始めた」と言う。「ニッカ」「サントリー」という懐かしい当時の流行り言葉を聞いて思い出した。総理大臣になりたい派閥領袖が票を飼うためにひとりに一千万円払う。中には二人にいい顔をして二人からもらうなんて小ずるいのが出てくる。これがニッカ、三人からもらうのがサントリー、ひどい時代だった。中央が腐れば末端も腐る。私の田舎の村会議員選挙でも、一票一万円で同じようなニッカ、サントリー現象が起きていた。

 ガソリン税、重量税等道路行政に関する悪法はほとんど全部田中角栄が作っている。川が氾濫して水浸しになる使い道のない河川敷をただ同然の値段で買い占める。自分の権力でそこに堤防を作り灌漑整地すれば一等地になる。ただ同然の地が何億、何十億に化ける。魔法のような錬金術である。そうして作り上げた金をばらまいてのぼりつめた男だ。あとに続く多くの自民党政治家はそれに倣った。新幹線の走る場所、高速道路の走る場所をいち早く安値で買い、工事が決定してからそれを国に高値で売って金を作る。手本はみな角栄である。それが政治だった。民衆もまた右肩上がりの時代にあったからそれを許した。そうしてはびこった「田中型政治」を小泉政権が今、終らせようとしている。

 小泉さんの「自民党をぶっこわす、改革する」を、「単に橋本派をつぶしただけじゃないか」と揶揄する向きがあるが、「田中→竹下→小渕→橋本」と続く最大派閥を分断し日陰の身へ追い込んだことは、まさに「田中型から福田型」への模様替えになっている。族議員による利権構造が生まれにくくなっているのだ。その価値は後世が判断するだろう。小泉さんは日本の宰相としてはあきらかに変人であり、偉大な安定した業績とは無縁だろう。だが、確実に悪しき膿を出してくれる。そのあとに安倍晋三が続けばいい。彼は「強い宰相」になれる逸材だ。

 塩川さんは「二大政党制」にも疑問を呈していた。それは「かりに民主党が政権を取ったとしても親米になる。ならないとやってゆけないことを彼らもわかっている。二大政党とは、親米と反米の対立構造を言うのであり、どっちも親米では二大政党制にはならない」との意見。なるほどね。民主党が政権を取ってもそれは亜流の自民党でしかないということであり、亜流よりは本物のほうがまともってことか。

 数ヶ月前のこの『作業記録』に書こうと思って書いてないネタに、「民主党のカンやオカダが渡米してアメリカの政府要人と会談し、民主党の存在をアピールしようと思ったら、あちらから来ても会う気はないと言われて訪米を中止した」って話があった。親小泉政権のブッシュ陣営に「来ても会いませんよ」と言われて行くのを辞めたのだ。ブッシュ大統領クラスではない。そのもっと下の連中である。かっこわるい。なによりあれだけ反米的なことを言っておいて平然と会いに行こうとする感覚=行けば会ってくれる、それで日本の国民からも人気が得られると思っている図々しさがみっともない。それこそポーズだけでも「イランの戦争等、アメリカは間違ってばかりいる。かりにアメリカの大統領が当党首のカンに会いたいと言ってきても民主党は断ります」ぐらいやればいいのに。それこそがパフォーマンスだろう。まあとにかくこの人たちはかっこわるいことばかり。

 インタヴュアは塩川さんと三十年来のつきあいになるという政治記者の屋山太郎さん。この人の語る塩川さんのエピソードがいい。新聞記者としてヨーロッパに赴任しているころ、塩川さんが訪欧したことがありあちらで会ったのだという。帰り際にさりげなく子供はいくつと尋ねられる。小学校三年生と一年生と応える。屋山さんは答えたことすら忘れていた。すると帰国した塩川さんから「三年生」と「一年生」の本が送られてきたという。その種のものに飢えていた子供たちがどれほどよろこんだことか。なにしろ三十年以上前の外国だ。さらには翌年、さりげなく「四年生」と「二年生」が送られてきたのだとか。引退したいま明かされるから美しい。しかも屋山さんは議員ではない。塩川さんらしいエピソードである。

 この種のことを最も得意として頂点にのぼりつめたのが気配りの竹下首相。手下の議員夫人の誕生日、後援会有力者夫人の誕生日には欠かさず花が届き、みな竹下ファンになったという。このころの筆頭秘書がいまの青木だから、実質的な手配は彼がやっていたのか。
 同じようでこの二つには大きな違いがある。竹下のは自分が出世するために必要な連中への気配りであり、塩川さんのは、それとは関係なく、ごく普通の人としての友人への気配りだ。
 塩川さんはあっさりと引退して名をあげた。中曽根さんはしがみつこうとして晩節を汚した。人それぞれである。

 この『諸君』を読んで、文藝春秋全体が狂ってしまったのではないことを確認できてほっとした。木俣編集長の『週刊文春』だけが狂ったのだ。
03/11/13

先週の『週刊現代』

 巻頭特集が「今こそ小沢一郎総理待望論」。はああ〜。小沢が自民党にいたころいかにボロクソに言っていたかを覚えている身には苦笑するのみである。よくも臆面もなく言えるものだ。小沢が変ったのならともかくなにも変っていない。ただ節操なく自民党にいたらボロクソで野党に移ったから支持しているだけだ。しかしなあ、この種のマスコミってのは過去にどういう発言をしたか覚えていないのだろうか。それはまあアサヒシンブンを見れば覚えていないとはよくわかるけど(笑)。都合のわるいことはぜんぶ忘れるものな。結論として、政治家をどうのこうの言えるだけのマスコミは日本にはないってことか。
03/11/13

今週の『週刊文春』

 バカらしくて読む気になれん。巻頭のグラビアでは落選した話題の連中として自民党系を中心の作り。石原息子は載せてもカンの息子は載せない。載せる価値すらないと判断したならいいけどね。『週刊現代』と同じ作りになってきた。ヤマタク落選のところでは、見出しに「(笑)」とつけていた。みっともない。それが品位を落とすことになぜ気づかないのだろう。本文は読まない。とにかくキマタが辞めるまで『週刊文春』は読まない。
 それでも昨日『諸君』を読み、文芸春秋社全部が狂っているのではないと確認できていくらか安心している。

 いつものよう『お言葉ですが…』だけを立ち読みして去ろうとしたとき、『週刊金曜日』との関わり以降いっさい読まなくなったシーナマコトのエッセイに目をとめる。「ポルトガル」「ファド」の文字が目についたからだ。いまポルトガルに行っているらしく、下町の酒場で本場のファドを聞いた感想である。音楽に詳しくないシーナさんの文章はともかく、ファドの情景が浮かんできて猛烈に旅心を刺激された。

 ポルトガルに行ったのって何年前だろう。7年ぐらい前か。ヨーロッパの西の外れ、「ここに地終り 海始まる」のロカ岬では、ここまで来たという証明書を発行してくれる。もちろん有料、いくらだったか。おのぼりさんよろしく、それを作ってきた。A-5版。係の女が古代っぽい書式で手書きしてくれてなかなか雰囲気のあるいいものだった。
 赤面しつつ弁明するが、ぼくは観光地でこんなことをしたことはない。どこに行ってもおみやげとか名物とかを買わないから、それなりにあちこち行っている割にはその記録となるものをほとんどもっていない。これは特例である。このときそれをしたのは人がいなかったからだ。どんなに腹が減ろうとラーメン屋ですら並ばないのだから観光地で並ぶはずがない。目の前に広がる霧に煙った厖大な大西洋を望む岬の外れに人影はほんの数人ほど。そういう有料サービスをしているのも偶然そこで知った。地味な狭いオフィスでオネーサンが手書きで書いてくれた。しかしまああの海は、ほんとに「この先には地がない」という感じで、あそこから旅だった当時のポルトガルの航海者は勇気があったと感心した。なにしろあの先は海の水がごうごうと落ちている地の果てと言われていたのだ。地球が丸いと実感するのはたいへんだったろう。

 ホームページを初めてよかったと思うことに、自分のノウミソに記録しただけじゃ人には伝わらないからとデジカメで写真を撮るようになったことがある。それで初めて記録するのもいいなと思い、今はまったくそれをしてこなかった世界のあちこちのことをすこしばかり悔いている。いま書いたロカ岬だって自分の写真をここで公開したいと思う。まったく撮ってない。思い出作りに写真を撮りまくる日本人を異常と思うが、ぼくのようにまったく撮らないのもこれはこれでちょっと問題ありか。

 その雰囲気のある証明書をスキャンして画像で入れたいのだが、なにしろそんなことをしたことがなく、保存の概念がないものだから、いつの間にかどこかに行ってしまった。でも部屋のどこかにはある。なにかのついでに見かけた記憶があるのだが……。まあいいけどさ、「思い出作り」は嫌いだから。
 リスボンが気に入って長逗留したのも海産物がうまいからだった。数少ない再訪したいところだ。写真のような記録物がないので、もういちど好きだったヨーロッパの地を以前と同じようになぞってみたい気持ちがある。旅嫌いだからこんな気持ちになるだけでも、これはこれでいいとしよう。
03/11/17
月刊PlayBoyのクラプトン



 今月号の月刊PlayBoyはエリック・クラプトン特集。まあこれといって目に附くものもなく、たいしたものではないのだが、彼の歴史をきれいなグラビアで見ると楽しい。略奪したジョージ・ハリソンの奥さんもきれいだわ。略奪といっても、親友の女房を好きになり、正規の離婚後再婚したもので、その後は三人で食事したりもしたという。わからん世界だ。

 気になったのは次のような文章。書き手は東郷かおる子とかいう人。
「男から見るとクラプトンは理想の大人の男というイメージがあるが、女からすると守ってあげたくなるような弱い面のある男」ノヨウナこと。細かいことは忘れたが大意は間違いない。「おまえら男からするとクラプトンは男らしい大人の男かも知れないけど、あたしら女からすると守ってあげたくなる、ほっとけないタイプの男なのよ。男にはわからないだろうけどサ」と言っているのだ。「男と女ではこんなふうに感覚が違うのだ」であろう。

 これに納得すると、なるほどねえ、男と女ってのはずいぶんと違うものだなとなる。丸く収まる。印象的な好エッセイだ。
 だけどそうなのか。まったく納得しがたい。ぼくにとってクラプトンというのは、年上の人だけど、ギターが特別に上手なだけの、麻薬と酒におぼれる、線の細い気の弱いハンサムな青年だった。ハンサムにもタイプがある。彼はいかにも蹴ったら折れてしまいそうな女顔の細身のハンサムだ。本業もミュージシャンではなくギタリストだった。それが時を重ねるに従い総合的な音楽家として育ち、決してうまくはないが味のある歌を唄うようになり、大きな存在になっていった。それを心からよかったなあ、おまえって立派だよと言いたくなる。つまりこちとらは男だが、感じるものは東郷なる女が言っている女の感覚と同じなのである。そうしてぼくの周囲の男もみな同じ感覚だ。だから彼女の言っていることはその通りなのだけれど、「男はこう思っているだろうけど」に対しては、「ええ? 思ってないけど」と反発してしまう。

 まあこれは年齢もあるだろう。あの渋い歌声の大人のたたずまいのクラプトンから接した若者(といっても三十代もここに入るのか)には、クラプトンはあこがれの完成された大人だったのかもしれない。でも長髪でベルボトムジーンズの時代から知っている身には、どう考えても彼は渋い大人ではなかった。だから東郷ってのに「男はみんな同じ感覚だろうけど、あたしら女はね」と言われると首をかしげざるをえない。男でも関わった世代でかなり感覚は違うはずなのだ。この女が何歳でどのような経歴か知らない。聴いたことある名のような気もするからそれなりにババアなのだろうか。だとしたら男をなめている。それはおまえら女だけの感覚ではない。

 ぼくの世代ならクラプトンに対する気持ちはみなぼくに近いと思っている。いや金沢のK(四十代半ば)と話したときも、やつも「クラプトンがこんな形でビッグになるとは思いませんでしたね」と感服したように言っていた。クラプトンはギターは最高にうまいけど、線の細い、たよりないタイプの男だった。彼を、渋い、頼りがいのある、理想のおとなの男と思う人は、古くからのファンでは少数派だろう。
03/11/21
『週刊新潮』の山田直樹さん

 『週刊新潮』の創価学会批判キャンペーンについては別項で書くとして。このことだけ取り急ぎ。
 この連載が始まったとき、署名記事で書き始めた山田直樹という名を見て、度胸のあるライタだと感心した。なにしろ学会のいやがらせたるや想像を絶している。宗教の信者とはキリスト、イスラムからオウムに至るまですべて狂信者である。常識は通じない。ぼくはどんな大金をもらおうと宗教批判の記事だけは書けない。腰抜けと後ろ指を指されようと出来ない。どれほどこわいものか知っている。それを始めた山田さんを、なんと度胸のある人だと感心していた。

 数日前、彼がついこの間まで『週刊文春』専属で記事を書いていた人だと知る。どうしようもなくつまらなくなった『週刊文春』に愛想を尽かし『週刊新潮』に移って骨太の記事を書き始めたのだ。1957年生まれ。応援したい。がんばってください。いま自宅や家族にいやがらせがたいへんだろうな……。
03/11/24
手直しの基本──TBSの捏造


《『お言葉ですが…』論考──やさしいことはむずかしい》を書くのに、『お言葉ですが…』から高島さんの文章をスキャンして引用した。近日中にアップ予定。

 そのときなにげなく読み返していて、「石原三男落選に思う」に引用した箇所を間違っていると気づいた。11月9日の文。今は《日々の雑記帳》の「政治」に納めてある。以下の部分。
《当時弟裕次郎が「うちの兄貴はだらしないところがあってパンツを二日も替えなかったり、女中のついだみそ汁からワカメが垂れていても平気だったりする」と「うちの兄貴はズボラなんですよ」と強調しているのを読んで、寮暮らしの貧乏東大生だった高島さんたちは、「パンツを毎日替えるのか!」「女中が飯を!」とおどろいたそうだ(笑)。》
 以下のように訂正した。
当時弟裕次郎が「うちの兄貴は繊細なのか無神経なのかわからない。味噌汁のわかめがお椀の外に垂れていたと女中をどなりつけるかと思えば、同じパンツを二日つづけてはいて平気でいたりする」と「サンデー毎日」で語っているのを読んで、寮暮らしの貧乏東大生だった高島さんたちは、「パンツを毎日替えるのか!」「女中が飯を!」とおどろいたそうだ(笑)。》

 慎太郎さんは味噌汁からわかめが垂れていたと女中を怒鳴りつけたのである。それをぼくは勘違いして平気と書いてしまった。記憶とはこんなふうにいい加減だから怖い。ちいさなことだが気づいたら直さねばならない。それが礼儀だ。謝罪もしたいがどこにしたらいいのか(笑)。
 といってもこれは単なる勘違いだ。気をつけねばならないけれど。

 先日TBSが石原さんの「韓国併合を100%正当化するつもりはない」という発言を、作為的に「正当化するつもりだ」に変えた。音声の部分をわかりにくくしていかにもそう聞こえるように処理し、テロップを流したのだ。ちょっと今の時代にメジャなキイ局がやることとは思えない。あまりにお粗末だ。あまりに歪んでいる。在日朝鮮人(パチンコ屋経営)が金を出して設立したプロダクションが作っている番組だから、石原憎しからの意図的な改竄(かいざん)であることは間違いない。そういうふうに作る人がいることは割合素直に理解できる。しかしそれをそのまま放送してしまう感覚が信じられない。どう考えても不自然な作り方になっている。

 ああいう番組を見ていて思うのは、そのまんま反日的なことをしゃべっているセキグチヒロシなんてのは、なあ〜んも考えていず、ただ指示されるままにそれらしきことをしゃべっているだけなんだなあということ。この人も35年前の「ヤング720」から見ている。(どうでもいいことだけど、「ヤング720」ってのは毎朝7時20分からやっていた若者向け情報番組。720はセブンツーオーと読む。飛行機ボーイングの名前でそんな呼び方が流行っていた。それの司会を今で言う若手イケメンだったセキグチとか竹脇無我さんなんかが日替わりでやっていた。いま思うと斬新な企画だった。ぼくはめったに見なかったけど、毎朝学校で話題にするヤツもいて熱心なファンも多かった。あ、これもTBSかな。)

 毎度書くがクメも同じ。でもクメがすごいのは、いまは自民党の敵を演じているが、その気になれば明日から完璧な自民党の味方、民主党の敵も演じられることだ。その意味では極めてすぐれたタレントではある。節操はないが。チクシは心底からサヨクなのでそれは出来ない。セキグチは頭が悪いのでやっても様にならない。セキグチをニュース番組に起用しているTBSはなにを考えているのだろう。容易に操れるから楽なのかな。そういやテレ朝は夕方のニュースキャスタにイシダジュンイチを起用したことがあった。イシダは父親がアナウンサだったからやりたくてたまらなかったらしい。でもなあ、中身のない人はやらないほうがいいよ。本人のためにも。
 クメと言えばTBSラジオのアナ時代、愛人の女(番組アシスタントに手を出した)が自殺未遂をしたことがあった。おおきなスキャンダルだった。自分も業界に関わっていた時代なのでよく覚えている。そのごしばらく干されていた。

 あの事件以降、完全に女房の尻に敷かれる。女房が仕事に口を出すようになった。ニューステでもクメのスタイリストを担当し女帝と呼ばれているとか。先日週刊誌で写真を見た。たまらんなあ、あんな厚化粧のしわしわばばあに仕事場まで仕切られたら。たしか若くして結婚した同い年の女だった。カンとパターンが似ている。カンはふたつ年上のイトコか。朝鮮人が日本人を嗤うとき、日本人は三親等でも結婚できる畜生だというのがある。ぼくも母方の祖父母が畜生なので笑えない(笑)。しかし自分の感覚で考えると、イトコとの結婚てのはちょっと現実味がないが……。

 古女房とは、男が魅力を身につけ自由に振る舞えるようになったとき、老けた女であるということになる。クメの中で、年に何億も稼がなくてもいいから、あんな古女房に指図されずもっと自由に生きたいという気持ちは強いだろう。女好きなのは有名だし実際に口がうまいからもてる。それを封じられてああして女房の尻に敷かれてニュースキャスタをやっているのだ。カンやクメはしあわせなのだろうか。カンには総理大臣になるという夢(笑)があるからいいだろうけど、一生遊んでいけるだけの金を持ち、ニューステをやめたクメは、これからの自分をどう設定しているのだろう。女房は、単発のもっとビッグな番組──たとえば世界のVIPと対談するような特番──を望んでいるらしい。とにかくぴったりとマークされている。クメが「クメさんのこと大好きなんですう」という女子大生とか、「クメさんの番組を担当することが夢でした」なんて若手女ディレクタとそんなことになる可能性は、鬼の目に監視されているからあり得ないんだろう。なんだか気の毒だ。

 あの人がいちばん輝いていたのは、ラジオでしゃべりまくっているときであり(上手だった。おもしろかった)、テレビ番組なら「ピッタシカンカン」だった。ひょうきんなだけのアナから「日本のニュース番組を変えた」とまで信奉者からは称えられる存在になったけど、心の中には、「やったぜ!」とは違う、「こんなはずじゃなかった、おれの人生」はゼッタイあると思う。ま、よけいなお世話だけど。

附記・そのクメがニューステを辞めると話題になると、さっそく「TBSのアナ時代から注目していた。当時からおれの跡を継げるのはこいつしかいないと思っていた」と持ち上げて話題にするのがキョセン流。「へーちゃん」と呼んで親しみを強調し、「たけし」と呼び捨てにして自分のポジションをアピールするのと同じ手法。これもクメを持ち上げているようでじつは自分のアピールになっている。クメは不愉快なんじゃないか(笑)。
 そんなことを思っていたら、キョセンのこの他者を利用して結局自分をもちあげる方法は、猪木のプロレス論「5の力の相手を9にまで高め、それをたたきのめして10の自分をアピールする」を思い出した。今じゃ小学生でも知っているリクツだけど、これが初めて「『私、プロレスの味方です』で語られたときは新鮮だった。キョセンと猪木は同じだったのか。なるほど、似てるわ。プロレスがいまみたいになってしまった時代、村松さんはどう思っているのだろう。
03/11/24
『文藝春秋』12月号──天才たち


 今月の『文藝春秋』の大特集は「天才たち」。ぼくの好きなジャンルだと武豊、羽生善治、石原慎太郎等。これらは作家やライタが書いたもの。
 同じ棋士の島朗が書いた羽生論がすばらしかった。島は六段時代に島朗研究会、通称・島研を結成する。私的な研究サークルだ。彼が誘ってそこに参加したのが俊英とは言われていたがまだまだ海のものとも山のものともわからなかった無名の若手たち。それが羽生、佐藤、森内という現在棋界をしょって立っている錚々たるメンバだった。ほんとにすごいね、これ。三人とも名人になっている。島は彼らと切磋琢磨することによって記念すべき第一期竜王という歴史に残る快挙を成し遂げる。その名はこの島研の人を見る目の確かさで名高い。

 その島の文章がまるで芳醇な香りを放つワインのような奥の深い名文だったので、高橋源一郎の書いた武豊論がまことにつまらない。島のそれと比べると気の抜けたサイダーのよう。ヨーロッパで武豊の母親と話したとき、ユタカが子供のころ部屋で浮いていたと聞いたとか。彼は本当は空が飛べるのではないか、とすると馬は負担重量がないのだから、あんなに勝てるのは当然だ、ねえお母さん、あれって冗談だったんですか、ほんとだったんですか、という話。おもしろいのだけど前後の作品と比べるとあまりに軽すぎる。

 といって彼に罪はない。こういうのはあくまでも全体との比較の問題だ。重苦しいところに軽いのがあると救われた気になるし、軽いものばかりの中にすこし真面目なものがあるとピリッと締まった感じになる。全体が学術論文みたいな堅苦しいものばかりだったら彼の軽さをさすがプロと思ったろう。が今回はペケ。前後の文章が適度に学術的でほどよく堅苦しく、充実したものばかりだったので、彼のは軽薄さのみが目立ってしまった。「競馬代表としてもっとまじめに書け」と言いたくなった。彼自身も今号を手にして、周囲の充実ぶりと自分の軽さに、「しまった、こんなことならもっと真面目に書くんだった」と思ったことだろう。寄せ集め文章に参加するのはむずかしい。ぼくは競馬のそれ(たとえば宝島シリーズ)を誇りとして拒んできたが、そういう競いから逃げたとも言える。基本は好戦的なので場として魅力がなかったからだと思っているけれど。

 京大の闘争の時代、どんな時でも白川の研究室は深夜まで電気がついていたという話。インタヴュウでは、「冷房がなくて夏場はステテコでいたものだからガードマンに用務員と間違えられた」なんて話も出てくる。93歳の今も朝は八時半から研究室にこもるとか。これを父に勧めてまだまだ偉大な先輩がこんなにがんばっているのだと思ってもらおう。

 『週刊文春』が狂ってしまったので文春本誌と『諸君』のまともな充実ぶりにほっとした。
03/11/27

「田中真紀子が決して忘れない民主党議員の罵詈雑言」──『週刊新潮』

 なんか読んでいてくすくす笑いたくなるほど楽しくなってしまった。
 彼女が外相をしていたという(今となっては信じがたい人事だが)あまりにおろかしい時代に、舌鋒鋭くつっこんだ民主党議員の彼女への発言録なのである。視点はちょっと意地悪だがなにしろ捏造ではない。単なる記録の羅列である。だからよけいにおもしろい。みんなすごいことを言っている(笑)。ただしこれに限っては言われるほうに問題ありと民主党議員の肩を持ちたい。それがいま呉越同舟なのだから笑える。はああ、呉越同舟なんて何十年も前から知っている言葉だが初めて使った気がする。なかなか機会がないものね。これはまさにどんぴしゃだ。あうはずのない敵味方が小さな同じ船に乗っている。でもそう考えると旧社会党系のいる民主党自体が呉越同舟か。いや自民党だってカネマルとかノナカのような北朝鮮よりの売国奴がいたんだから同じだな。

「田中真紀子の言葉遣い」として別項にまとめようと思ったのだが簡単にここにまとめると。
 私はあのような年配の人が「ドタキャン」とか「パニクって」と語るのを初めて聞いた。しかも場は国会の外務大臣答弁の場である。新鮮を通り越してあきれてしまった。私はこれらの言葉を日常でも使わないけれど、かりに使っていたとしても、年配のかたと話す仕事の場では使わないだろう。若者なら誰もが使っているたかが言葉の問題とも言えそうだけれど、どうも私にはそうは思えない。この辺に彼女の本質的な勘違いがあるのではないか。

 彼女には「総理大臣にしたい人、ナンバーワン」の時代があった。かくいう私もファンだった。「電波少年」でアポなしの松村の取材を気持ちよくうけている彼女の笑顔を好意的に受け止めた。小渕、梶山、小泉の三候補による自民党総裁選を「凡人、軍人、変人」と切り捨てたときは爆笑とともにその類い希なセンスを称えたものだった。
 変人の小泉さんを首相にしたのは彼女の力である。閉塞的な時代が彼に期待を抱かせたのだが、そよ風を豪風にしたのは彼女の弁だった。前々からの小泉ファンであった私は彼女に感謝し同時に彼女の豪腕にも期待した。しかし細腕の小泉さんが意外にしたたかであり細身の奥に鋼を忍ばせていたのに対し、彼女は豪腕風でありながらレンガのようにもろかった。

 前記の「ドタキャン」「パニクって」等の言葉遣いに関して最も重要なのは、それらがすべて「自己弁明の際に発せられたもの」であることだ。彼女は痛いところをつかれた際に、必死に自分を正当化しようとあせってしゃべりまくった。あせるほどにボロを出した。経済大国の外務大臣が野党にその不手際を指摘され、「ドタキャンがありまして」「そのとき私はパニクっておりましたので」と連発するのは醜悪だった。私の中でタナカマキコという人の正体が見えたのはあのときだったように思う。彼女は期待される有能な政治家ではなく、ただのおしゃべりおばさんだった。一度そうなってしまうと後の「スカートをふんづけられて」等の発言も失笑の対象でしかない。

 このことに関して舛添要一はぼくなんかより遙かに前から見抜いていた。人気者である彼女への嫉妬もたぶんにあったろうが、彼女が最高に人気があり、ぼくもまだ期待していたころ(=世間の人気も最高潮)に、「あんなのはただの漫談ですよ。中身は何もない」と言い切っていた。さすがと思った。

 と彼女を批判するのなら、そんなお粗末な人を外務大臣の要職につけた小泉さんも非難せねばならないようだが、そうもまた思わない。彼女がなりたくてたまらない椅子が外務大臣だった。自分の能力にも英会話にも自信があったらしい。力になってもらった恩人だから小泉さんもそれを了解した。そのことによって彼女の化けの皮ははがれた。苦労人の田中角栄には情があった。それが人を引きつけた。彼女にはなにもない。弁が立つだけだ。ただのヒステリーおばさんである。日本国としてはあんな人を外務大臣にしてしまってとんでもない失態だったのだが、ぼくは彼女の正体を全国民に知らせたのだから、それはそれで価値があったと思っている。あれがなかったらいまだにぼく(=世間全般)は彼女のファンであり、日本初の女総理大臣として期待していたはずだ。

 話もとにもどって。
 その無能な外務大臣時代に、彼女の化けの皮をめりめりと引きはがした民主党議員の苛烈な質疑を再録したのがこの『週刊新潮』の特集なのである。「あなたの英語能力では」と自慢の英会話能力をあざけった質問、「そういうことでは精神鑑定の必要が」とキチガイ扱いした質問、あのサトウという弁護士出身の議員のネチネチした指輪に関する質問、それらが納められている。小泉政権を批判するのに隙だらけの彼女は絶好のターゲットだった。彼女が自民党にいたとしてもおもしろいのに、なんと今回、民主党に実質的に属したのだ。民主党議員の「あのときはあのときであり」なんていいわけも笑える。

 タナカマキコの犯した最も大きな罪は、「やっぱり女はだめだな」と多くの男に思わせたことだろう。

 こういうのが"おとなの週刊誌"の正当な特集である。
『週刊文春』はあの有栖川宮を語った詐欺事件の関係者と安倍幹事長が一緒に写った写真があると大騒ぎしている。んなこたあどうでもいいや。もうすこし内容のある記事を書いてくれ。
03/11/28


先崎のエッセイ──触れてはならないもの──今週の『週刊文春』

 棋士・先崎学はまだ四段の二十歳のころから弁と筆が立ち、将棋ファンのあいだでは有名だった。彼もまた羽生世代である。同い年だ。私生活でも親しいことから彼の書くエッセイの中の羽生も、本格的な島朗の評論とはまた違って楽しみにしたものだった。今でも覚えているものに、「休暇に羽生と一緒にオーストラリアに旅行した。飛行機が故障しとんでもない事態に陥った。でも不思議に落ちるとか死ぬとはまったく思わなかった。だって羽生が一緒なのである」というのがあった。十代でタイトルをとった羽生がまだ二十代前半の、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い、上り坂の時代である。もしも私がその場にいたとしてもまったく死ぬとは思わなかったであろう。だって羽生が一緒なのだ。実際にいた人がそう書いてくれると実感がある。先崎には将棋の仕事でロングインタヴュウしたことがある。そのときも私は開口一番「先崎さんは筆才があってすばらしいですね」と話しかけたものだった。

メモ1・ATOKが筆才(ひっさい)を変換しないので読みが間違っているのかと焦って辞書を引いた。私がいちばん恐れているのはものを知らないことではなく間違って覚えていることなのである。たとえば「十手(じって)」を「じゅって」と思っているように。
 すぐに出た。問題なし。差別用語を全廃しているのはともかく、なんでこんな普通の言葉がないのか首をかしげる。辞書登録した。

メモ2・以前まったく面識のない×××がいかにも知ったかぶりで「競馬とプロレスのライターの某氏」などと書いたとき、「もっといろいろやっているからどうせ書くなら正確に書けよ」と思ったものだった。自慢じゃないが──ほんとになんの自慢にもならんが──あちこち多方面でやってるぞ。将棋もそのひとつだ。なによりぼくの競馬文もプロレス文も読んだことのない×××に知ったかぶりをされて不愉快だった。

 先崎が『週刊文春』に連載エッセイをもったのは何年前だったろう。これをまとめた単行本が一冊でている。すでにその前に数冊将棋エッセイを出している。それでもここが晴れの舞台であったのは間違いない。私は彼の出世よりも彼を採用した文春のセンスを認めたものだった。

 毎週愛読していたのだが、さすがに棋士が毎週読者を楽しませるものを書くのは苦しいようだと感じ始め、最近は遠ざかりつつあった。やはり両立は無理なのである。強い棋士は修行僧のような生活をしている。酒も飲むし麻雀もするから修行僧とは見当違いの比喩だが、とにかく一日の大半を将棋のことばかり考えているのだ。先崎はいま充実し強くならねばならない。三十三歳。クラスはB1。八段。その年齢だ。引退した米長さん(先崎の師匠)ならともかく、毎週『週刊文春』の読者を楽しませるだけの種々雑多なテーマは現役の指し盛りの棋士としては無理である。彼ならそれは可能だがそうしたら将棋がダメになる。本格的な将棋エッセイならいくらでも書けるし将棋のじゃまにもならないが、それでは『週刊文春』である必要がない。いくらなんでもコアな将棋ファンのためだけにあのページは許されないだろう。

 知人のかなざわいっせいが『週刊競馬ブック』に毎週10枚の競馬エッセイを連載している。何年になるだろう。最初は競馬本や必勝法の紹介で始まったが、やがてネタに窮し、私生活をすべてさらげだし、親兄弟から友人等も引きずり込んだスサマジイものになっていった。熱心な読者も多いし、それが彼の口過ぎなのだからよけいなことは言えないが、ケツの穴まで見せるどころか、ハラワタまでも見せて連載を続ける姿勢には、いかに週刊誌の長期連載がたいへんであるか思い知らされる。
 そういうものなのである。先崎のおもしろ度が落ちてきたのもむべなるかな。

 というところでむべの話。

 花話──むべ

 先崎のエッセイ、今週のテーマは「触れてはならないこと」である。エッセイを書くときに「政治と宗教にだけは触れてはならない」と多くの人に忠告されたという。誰もが政治宗教のどれかに関わっているから、必ず不愉快になる人を生んでしまうからだとか。それはまあ私だってわかっている。商業文章では書かない。だからこそ私的なホームページでは過激にもなる。
 先崎はその教えを守り、今まで書いたことはないけれど、じつは自分は床屋政談のように政治のことをわいわいと仲間内で話すのが大好きなのだとカミングアウト(?)する。

 今回の選挙の結果に関し、「けっきょく小泉さんと○○○○の政権なのね」と結論が出た、でもこの○○○○を書くことは出来ない、宗教に触れてはならないのだと言っているのだが、そりゃ誰にも伏せ字が創価学会であるとわかるだろう(笑)。私は普段こんなものがあっても読み過ごすが○○と伏せてあるから興味を持ってしまい、○が四つだからそうなのだと考えてしまった。三つだったら公明党か。いや○の中は池田大作かもしれない。まあ創価学会だろうけどね。伏せ字にすることによってよけいに人の目を引いている。ここまできてしまうと、書いてしまったのと同じだ。「触れてはならないこと」として書くこと自体がすでに触れてしまっているのである。まことむずかしいものである。

 で、いつものように人のものを読みつつ考えは自分に向かう。
 三十人ほどの友人知人に限定してこっそりとやっているホームページだが、その中にも確実にぼくの政治、宗教の話で不快になっている人はいるだろう。それはわかっている。
 たとえばサトシはこどものときに洗礼を受けた正規のクリスチャンである。「おれはキリスト教はキライだ」と書いたのを読んで気分がいいわけはない。ただぼくは、ブッシュの暴走はキリスト教原理主義の典型であり、北アイルランドの痛ましい殺し合いはカソリックとプロテスタントの対立であり、ケネディの悲劇もそこに根ざしており、ノヨウナコトを無視して物事を語る気はない。それらに触れなかったら何も書けない。現在の世界の構図がキリスト教とイスラム教の対立であることも明白だ。アメリカもイラクもブッシュもフセインもビンラディンもアルカイーダもそれを抜きにしては語れない。さらに煎じ詰めればキリスト教の思い上がりとなるだろう。

 一方でまた世界に伝播した(力づくで布教したと言うべきか)二千年の歴史を持つ宗教であるから美術と音楽の荘厳さは類を見ない。格式の高いものよりも圧巻なのはぼくらの日常にしみこんでいる賛美歌からのメロディがいかに多いかだ。下衆な例で言えば「たんたんタヌキののキンタマは」なんてメロディも賛美歌である。だいすきなヨーロッパのClassic音楽、アメリカのゴスペル等もキリスト教抜きにはあり得ない。熱心なキリスト教信者・曾野綾子さんには敬服している。批判と賞賛は両立する。
 つまりぼくからすると、誰それを不快にするからと筆を押さえることこそ誰それに失礼なのだとなる。

 同じくサトシがキョセンやキヨシローを好きなのを知っている。ぼくは彼らを批判する。そのことによってサトシを啓蒙することは出来ないだろうし、しようとも思っていない。思うのはただ、サトシを不快にするからと彼らのことには触れないのは、かっこわるいということだ。そんな遠慮をしたホームページなどやりたくない。それが原因で絶縁になる覚悟もして書いている。假に絶縁したとしても、十年後二十年後に、「そういえばあのころ」と気づいてくれればそれでいい。「後に見直してもらえる今の嫌われ者」がぼくの目指すところだ。ぼくからするとそれらのタブーを迂回してのトゲのない日常的日記など存在するに値しない。

 ちょうど今テレビが、ブッシュ大統領が電撃的にイラクの兵士を訪問したと伝えている。感謝祭の日に大統領が自分たちのところに来てくれたのだ。うれしいだろうなあ。れいによってサヨクは単なるスタンドプレイと言うに決まっているが、兵士の気持ちになって見ろ。これがどれほどうれしいことか。小泉さん、それがやれるか!? やってみせてくれ。8月13日に前倒しで靖國に行ってこちとらを失望させたままだ。大向こうをうならせる仕掛けを期待したい。
 クリスマス、ハロウィン、サンクスギビングデー、みな楽しい行事だ。ぼくが批判しているのは(もうやめたけど)「キリスト教徒でもない日本人が」であり、信者の祝うお祭りは大賛成である。クリスチャンの教会での結婚式にはなんども列席している。感動的ないい結婚式が多い。

 サトシの名を引き合いに出してしまったけど、それ以外にも数少ない読者の中にも、「貴兄と考えはまったく違い、とても同調しかねるのですが、なぜか毎日欠かさず読んでは考えさせられています」なんて意見は多い。それでいい。ぼくは今後も居心地のいいだけのものを目指す気はない。なれあいはきらいだ。
 その他、創価学会信者がいることもわかっている。これは隠しても出てしまうものだから見破れるのだ。遠慮するつもりはない。それで切れる縁はそれまでと割り切っている。

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餘談・「声に出して読みたい日本語」だったか、そういう分野でベストセラ作りに成功したサイトウナントカが何週か前に連載を終えた。つまらない連載だった。
 彼は、そういうアイディアでうまく日本人の、日本人的な誇り、時代的な嘆き、向学心の隙間をつっつくのが上手だった。しかし「これは日本語の名文だ、みなさんこれを読みましょう」と他人のふんどしで相撲を取るのはうまかったが、彼自身に筆才はまったくなかったのである。なんともつまらない文だった。これは「第二の高島俊男」を作り出そうとした『週刊文春』のめがね違いだった。でもあれで大ベストセラだからうまい商売だったなあ。ぼくには言葉の専門家というより企画の上手な広告屋のように見えた。あれのヒットで明治大学でも助教授から教授に出世したのだ。かしこい人なのであろう。
03/12/3


テレ朝とノナカ──敵の敵は味方の論理

 テレ朝の昼のワイドショー。ヤマモトシンヤがノナカヒロムにインタヴュウ。もちあげるもちあげる。対談前、「さすがの私もきょうはどきどきしています」だって。だれだよ「さすがの私」って(笑)。
 まるでもう国民のことを考える真の国士のドキュメントのよう。ノナカセンセーのかっこいいこと。いやはやあきれてなんも言えん。橋本政権の幹事長をやっていたころ、テレ朝がノナカをどう伝えていたかを知っている身には、ぜひとも当時のそれと対比しつつ流してくれと言いたくなる。ニューステに代表されるテレ朝ってのがそのときそのときでどんな番組作りをしているかがよくわかる。それこそ親会社・アサヒシンブンの伝統か。

「敵の敵は味方」の論理。現政権に反発するものはすべて味方となる。講談社系が「いまこそ小沢一郎」とやったのと同じリクツ。あのノナカヒロムが心優しい庶民の味方、真の政治家として描かれている。「町の声を聞いてください」で流されるヴィデオもノナカを称える声ばかり。「引退しないで欲しかった」「ほんとはやさしい人だと思う」って、いったいだれがどれほど思っているんだ。それを聞いて涙ぐむなよノナカ(笑)。二人しか流れなかったけど、そんなの100人以上聞いてもそれしかいなかったんだろう。いや金を払って言ってもらったのか。最初から仕込みか。
 ノナカの後釜にすわった自民党のタナカ議員も、「一歳で被爆した経験を持つ真の政治家」って、なんだかノナカ絡みだと自民党までヨイショする。気味悪いな。ここまで節操なくていいのか。

 結びにアシスタントの女がよくあるパターンで、「わたしなんか抵抗勢力ということばに踊らされ、ノナカさんの本当の気持ちがわかっていなかった。今となってはそれが恥ずかしい」って、恥ずかしいのはそういうころころ変える発想だよ。
 色紙に「真実一路」と書く。「真実一路北朝鮮 万世金日成閣下」でどうだ。あの大きな瘤のあるロシアの傀儡に、会えて感激し、平壌で跪いた男だ。誕生パーティには日本でも毎年欠かさず出席していた。同和地区出身の町議、町長、府議、国政と階段を上り詰めた男としては夢にまで見るあこがれの人だったのか。

 まだまだ生臭い。現役の政治家そのものだ。もうすぐ暴露本も出る。ヤマモトの「もういちど生まれ変ったらなにになるか」という番組を丸く収めるためのお定まりの質問を「そんなことを考えたことはない。まだ生きるつもりですから」とやんわりと拒む。潔く引退した好々爺と結びたかったヤマモトは鼻白む。こんな脂ぎったノナカが枯れるはずがない。このまま引っ込みはしない。
 それはそれで大賛成。ぜひともタレントとして「TVタックル」等に出てもらいたい。役者として魅力のある男だ。出て、自分に都合のいいことだけをしゃべれば、ハマコーが黙ってはいまい。北朝鮮癒着と矛盾に切り込むはずだ。それはまずいから貴重な自分たち寄りの駒としてテレ朝はそんな使いかたはしないか。

 小泉首相を演出家と言い、小沢一郎を壊し屋と言い(かつては悪魔と罵った)、大衆政治家(?)のカンと小沢が合うはずがないと言い、タナカマキコを早稲田でクメさんと演劇をやっていた役者(でしかない)と言う。その感覚をタレントとして発揮するといい。テレ朝は専属評論家になってほしいと動いているだろう。今回のこの番組はその一弾か。今後も「サンデープロジェクト」等出演が続く気がする。

 テレ朝がノナカを専属扱いして持ち上げれば、日テレ、フジがそれに反した動きをする。それで日の目を見る事実もあるだろう。このままノナカの旧悪が「潔い引退」なんて風呂敷で覆われたらたまらない。風呂敷に隠した毒まんじゅうを投げまくっていた真の姿を晒すにはまだまだ第一線にいてもらわないと困る。時が過ぎたとき、引退後テレビ出演していたのは失敗だったと彼自身が思う日が必ず来る。それは先の話。今は出まくってボロを出してくれと願う。それにしてもテレ朝、なにをどうすればこういう変節が出来るのか……。そしてノナカ、おまえあれほど罵っていたテレ朝によくもしゃあしゃあと……。
03/12/4


 『正論』1月号──TBSの石原発言捏造について

 無署名の編集部原稿であるがとてもよくできていて感心した。
 先日の「朝鮮併合を100%正当化するつもりはない」を「正当化するつもりだ」にテロップのみならず音声もわざとわかりづらくして意図的に改竄したTBSの姿勢を、流れを追って糾弾している。石原さんはその前の韓国・中国マスコミの日本批判に対して、「日本の新聞が仕掛けている。毎日新聞か」と名指しで毎日を非難していたらしい。あれはそれに対する毎日新聞系列のTBSを使った意趣返しだったことになる。

 石原さんの「三国人」「支那」発言に関して、「三国人」は呉智英さんの、「支那」は高島俊男さんの意見(共に過去の『正論』に掲載論文)を引用して、それらが差別用語でないことを証明している。まったくあれは揚げ足取りだった。だがそれが「臭い物にはふた」の伝統で揚げ足とりではなく常識になりつつある。だからこそ物議を醸す発言は価値がある。

 例によってすでに新しい辞書は、それらの正しい語源を引きながらも、「現在では差別用語であり使ってはならない」と注釈しているらしい。そういう形でことばを規制し置き換えていっても切りがない。押しつけられた憲法を改正することなく、「このような解釈も可能だ」と苦し紛れの拡大、曲解解釈をやっているのと同じになる。お茶を濁すだけでは解決にならないのに、いつまでこんなその場しのぎを続けてゆくのだろう。石原さんは、問題を提起するというだけでも偉大な存在だ。ほんとに、石原さんがいなくなってしまったらいったい誰がこれをやってくれるのだろう。

 好きな人の正論が連続して気分がよかった。呉さんや高島さんのような言論人がいることがうれしい。

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11/6 土曜日
 喧々囂々のイラクへの自衛隊派遣問題で、評論家の三宅さんが言っていた。「(首相や政府首脳が)最初にきちんと言っておけばいいのに、『安全なところに』などと、いいかげんにごまかすからこんなことになる」と。その通りである。

 イラクは危険であること、国際的な立場で派遣が必要であること、被害が出る可能性があること、だからこそ国軍としての認知と誇りが必要であることを小泉首相は言えばよかったのだ。言ったら政権は大揺れだろうが、それで潰れるか憲法改正に進捗出来るか大きな節目になる。

「そんなところに行ったら自衛隊が危険じゃないか」って、認知もしてこなかったくせに野党が言うのは筋違いだ。「安全なところと確認できたのか」って、子供が遠足に行くんじゃないんだ。日本国軍人として戦の場に出るのである。名誉の負傷も死もそれが任務である。安全なところにだけ行くのなら、いつまでたっても自衛隊は、災害救助要員、大学を落ちてゆくところがないヤツの就職先、の範疇を出ないだろう。それだけの誇りと覚悟をもつ立場にするのが先決だ。

 子供に、箸を使ったら喉をついてしまう危険があるからスプーンにしなさいと言う過保護ママの感覚で自衛隊のイラク派遣が語られている。自衛隊員には、日本国軍人としてイラク復興に尽力したいという気持ちがあるだろう。同時に、国民から日本の誇りと日章旗で送り出されることもなく、ままこ扱いのままイランなんぞで死んでたまるかとも思っているだろう。いま派遣されて死んでも、野党が「それみたことか」と現政権を批判する材料にするだけで自分たちの名誉の戦死には誰も注目してくれない。バカらしくてやってられるかになる。本質的な議論がなおざりにされている。
03/12/6


「政治の道具に使うな」と政府に憤り」──スポニチ

 午後から図書館で勉強する。どういう力関係なのかこの田舎町の公民館にある閲覧用スポーツ紙がなぜかスポニチなのだ。まあ田舎のことだからじつは管理人の好みとかそんな程度と思われる。

 ぼくがスポニチを読んでいたのはこれがいちばん売れている時期だった。
 あれはほんとに不思議なもので、「いちばんおもしろいと思って買って読んでいるスポーツ紙が、いつもそのときいちばん売れているスポーツ紙だった」という事実がある。それはぼくの感覚が「ごくフツーの人」ってことだ。「世に適合している」ってことになる。あまりそうじゃないのでこれはほっとしたことのひとつになる。スポニチがつまらなくなったなと遠ざかると、不思議にそれは売り上げが落ち目になったころなのだった。

 スポニチはいかにも毎日新聞系らしく政治に関してやたら反体制だ。アサヒ系のニッカンも同じ。政治的な出来事があった翌日にサンスポとニッカンを読むと、同じ出来事があったとは思えないほど違っている。総選挙のころ、「ヤッシーが小沢とタッグを組んだ」とニッカンが大きな写真で連日報道していたのが笑えた。もろに偏向しているのである。そういう理由でニッカンは嫌いなのだが、今あまたある中でスポーツ紙としての完成度が高いのも確かだ。売れているのも納得できる。ネット版も頻繁に更新し充実している。同じ偏った反体制でもスポニチはおもしろくない。やはり売れていない。納得である。

 小見出しはひさしぶりに読んだそのスポニチからのもの。自衛隊員が自分たちのイラク派遣のことを政治の道具に使うなと憤っているのだという。その通りである。私も「自衛隊イラク派遣を政治の道具にするな」と憤っている。意見は一致した。
 が、「政府に怒り」で苦笑する。政治の道具に使っているのは野党だろう。怒るのは野党に対してでなければおかしい。与党側は、このことが「政治の道具」に使われ、政権崩潰につながったらたいへんだと派遣に踏み切れずにいる。政争の道具として、千載一遇のチャンスとばかり使いまくっているのは野党側である。政権を取りたい民主党はもちろん、社民党や共産党もこれを声高に論じれば拉致問題による自分たちの衰退が隠せるとばかり大張り切りだ。自衛隊員が怒っているのは確かだとしても、それをうまく政府に向けてのものと方向を変えて報道するのがスポニチの手練である。
03/12/7


サンデープロジェクト──自衛隊イラク派遣問題

 タハラソウイチローは石原さんがゲストの時はおとなしくなってなかなかよい(笑)。というかいつものよう仕切ろうとしても石原さんは聞かないから相手にならない。きょうも「どうですか、これはどういう意味なんですか」と言質でもとろうとしているのか都政とは関係ないことを問うても、「そんなことあたしに訊かれたって知りませんよ」と木で鼻をくくったよう。
「このことをですね、小泉さんに言ってくださいよ」とのおべっか気味の物言いには、「あんたが言えばいいじゃない」と鼻で笑う。痛快至極。タハラ、へこへこしてやがんの。

 この場面を見るたびに、ジャイアント馬場のチャンピオン理論を思い出す。馬場はチャンピオンのたたずまいとして挑戦者を回らせろと言ったわけだが、ヒクソンの周りを回ってしまった高田や石原さんの周りを回っているタハラを見ていると、格が違うと自然にそうなってしまうのだと思い知る。

 最初が岡本首相補佐官。男だねえ。あらためて奥さんの死が惜しまれる。前々から絶賛していた部下だった。
 岡本さんは、身辺の警備問題が解決したらすぐにまたイラクに行くとのこと。いまは警備の問題でストップをかけられているらしい。テレビの前で敬礼したくなった。

 次いで石原さん。その向こうにちらちらとタナカヤスオが見える。すこしやせたようだ。
 石原さんは文句なし。

 次いでタナカ登場。気味の悪い口調で言いたい放題。慶應の草野教授がきちんと反論してくれる。「外交フォーラム」からの奥さんの文章引用で国連重視を訴えるがすぐに草野さんが「イラク通信」からの奥さんの文で反論したのでほっとした。タナカが奥さんの意見を自分に都合のいいように引用し、解釈しようとしたのだが、草野さんが、いやこちらではこう言っていますよ、そんな一部だけを都合よく引用するのはいかがなものかと釘を刺したのだ。これはぼくレヴェルでもわかっていたことだし当然なのだが、なにしろテレ朝のサンプロだからして、そのまま押し切るのかと思ったから、草野さんはほんとに見直した。タナカもその辺は引くべきところは引くのでまともに進行した。人の意見などまったく聞かない「朝生」の出演者よりははるかにまし。

 しかしまあいきなり「カトウコウイチを総理大臣にしたらどうか」と始まったのにはあきれた。それが「真カトウの乱」だという。この案はどうでしょうかとミヤザワに問うが居眠りヨーダのごときミヤザワ返事せず。気まずい間。タナカ懸命に「きっとミヤザワさんも同じ考えなので黙ってしまったんでしょう」なんてごまかす。ミヤザワはボケたのかと心配したが最後に登場したら雄弁にしゃべったからそうではないようだ。

 タナカはれいの人工膀胱の手術でこれから三週間入院だそう。それをタハラが尋いたら、「小腸を切って人工膀胱にして」と必要以上に詳しく説明。そのときに「お食事時間近いのにすみません」は礼儀正しかったけれど、そのあと「ペニスには問題はなく」だって(笑)。日曜の午前中、テレビでペニスと聞くとは思わなかった。よかったねえ、まだペログリできるのかな。1月半ばに退院して18日の番組には出るそうな。どうでもいいけど。

「絶対に首相にしてはならない2K」ってのがある。カトウコウイチとコウノヨウヘイだ。親中国親北朝鮮の売国奴だ。こんなのが日本のトップになったらたいへんなことになる。二人とももう目はないから安心しているがタナカがいけしゃあしゃあと言うものだから、まだこんなのもいるんだと感心した。

 森さんが総理大臣になったとき、金沢のKの家にいた。石川県から出た総理大臣だから地元はおおはしゃぎだ。Kのお父さんも浮かれていた。Kは冷静だったのでぼくは森さんという政治家をあまり買っていないと正直に言った。するとKが言った。「でもコーノヨーヘーがなるよりはまだよかったでしょ」と。そうだった。あの密室談合でコーノになる可能性もあったのだ。中国に気を遣って台湾で飛行機から降りなかった男だ。思えば密室談合でノナカらが作り出したのが森政権だった。その時点ではノナカもアオキもキングメイカだった。ある意味、頂点の時だ。まさかその森の不人気が自分たちの言うことを全く聞かない小泉政権を作り出すことになろうとは思いもしなかったろう。森総理を作り出した時点ではノナカと小泉さんの権力差は横綱と十両ぐらい差があった。小泉さんが総理になってもまだノナカは、自分が横綱で小泉なんてのは平幕ぐらいに思っていたろう。ところがところが、である。痛快だ。
 あのときコーノだったらと思うと寒気がする。森前総理の「天皇を中心とした神の国」発言も全文を読むとなんの問題もない。ただあの人は旧型の政治家でうまく時代に迎合できなかった。

 コーノと若き日に相思相愛だったタナカマキコってのも笑える。コーノマキコになっていた可能性もある。いや婿養子だからタナカヨーヘーか。角栄さんが神楽坂の芸者に生ませた息子二人はいま何をしているんだろう。二人とも慶應卒で顔がお父さんにそっくりだった。初めて二人の写真を世に出したのは(出してしまったのは)月刊PlayBoyだったか。亡くなったときマキコは腹違いの弟二人に一銭も財産分与しなかったらしい。この辺にもあの人のゆがみがある。
 コーノとマキコは今も親中国で共通だ。ヨーヘーが嫌いだと息子のタローも嫌い。同じ事を言っている。脂ぎってるのがよく似ている。オヤジがもうすぐ引退だと楽しみにしていたら息子が出てきてしまった。
 カトウコウイチを押すタナカにしらけたが安心していられたのは次に石波さんが出るのが解っていたから。ここでも草野教授の意見はよかった。見直した。競馬ライターの加藤栄さんに似ている。タハラが「こんなときにこんな番組に出る防衛庁長官はいない。それだけでも評価する」と言っていたがそれはその通り。きょうもあちこち掛け持ちして熱心にしゃべった。

 最後にミヤザワが出てしゃべる。シンスケに意見を求める。ズレている。シンスケは才人だが政治は無理だって。サンマみたいにしないほうがいい。文珍は特別だ。
 この番組でシンスケにオッと思ったのは1回のみ。今回の選挙前、民主党のオカダが出て「ニッサンのカルロス・ゴーン社長を見てください。トップが変れば変られるんです。日本も民主党が」とやったら、すかさず「おたくもトップを外人にしないとなりまへんな」と。あれには笑った。
03/12/12
続続・『日刊ゲンダイ』の報道姿勢


 きょうの『週刊新潮』によると、「日本人外交官二人を殺したのはアメリカ軍の誤射」説を言い始めたのはアサヒのタオカであり(ここまでは知っていた)、それを記事にして世に広めたのはアサヒの『AERA』であったと知る。あんなクソ雑誌まちがっても読まないので知らなかった。『週刊新潮』は「マスコミ界ではモノ笑いのタネ」とコバカにしていた。
 『日刊ゲンダイ』のキチガイ報道と思っていたが、本家はやはりアサヒだった。まあ考えてみりゃ、飲み屋で体制の悪口を言ってくだを巻いている酔っぱらいの域を出ない『日刊ゲンダイ』に、そこまで狂った発想をオリジナルで考えつくほどの智慧(?)はない。いつも尻馬に乗るだけだ。こんな智慧はないほうがいいが。

 こういうことの情報取捨はむずかしい。田舎暮らしで、日々図書館に通っている。図書館はどこもここもサヨク系が多いので必ず『AERA』は置いてある。ゼッタイに読まない。私はああいうものを読んで腹立ちながらもそれもまた楽しみに出来るほど心が広くない。不愉快になるモノには近寄らないのが基本だ。
 だが、「どれどれ、アサヒのキチガイども、今週はなにを書いているのかな」という餘裕があったなら、『日刊ゲンダイ』への不快な思いはもっと早く原因がわかって解決していた。アサヒを読まなくても、ネットでこの珍妙な説の出所を探すことは出来た。すべきなのかどうか。
 それにしてもタオカ元帥(2ちゃんねるでの侮蔑愛称)は狂っている。ああいうのが夜な夜なサヨク酒場(いくつも知っている)で珍妙な説をそれこそ口角泡を飛ばして喚き散らしているんだろうな。仕事柄、何度かそんなサヨク酒場にも行かねばならないことがあった。ママは当時の女学生闘士だったりする。皇室への汚い侮蔑発言を聞かされるだけで、とてもじゃないがいられるところではなかった。奴らにとってそれが酒の肴なのだ。
 日本を骨抜きにしようと、ああいう憲法、教育基本法を押しつけて実行したのはアメリカだけど、あまりに効果がありすぎて困っているのも奴らだろう。いわば堅物にすこしはやわらかくなれとエロっぽいことを教えたら色キチガイになってしまったようなものだ。

 サヨクは狂っている。
 いま、「9.11もアメリカの演出」との説が流れているそうな。イラク攻撃を正当化し輿論をもりあげるために、飛行機でワールドトレードセンターにつっこんだあれもアメリカ自身がやったことなのだとか。んなアホな。敵国を攻めるときでも遙か上空から自分たちは傷つかないように爆弾を落とす国である。自分たちが傷つくああいう方法をするものか。もしもするとしたら、真珠湾の時のように、壊されてもいいビルに、殺されてもいい有色人種を集め、同じく有色人種ばかり乗った飛行機をつっこませるだろう。
 韓国では、「大韓航空機の爆破は韓国の自作自演」との説が流布されているとか。いや、これは本が出たのだったか。このことで災いを避けるために金賢姫一家が雲隠れしたらしい。

 サヨクは憎むべき敵をおとしめるためならなんでもする。手段を選ばない。なにしろご本尊のレーニンの宣言にそう書いてある。革命成就のためなら流言飛語をおおいにやれ、そんなことの正当性にこだわる必要は全くないと。

 以前も少し書いたが、競馬評論家Iさんに弟がいる。五十男だ。学生運動時に公安にいじめられ、大学を中退した。今は名古屋で競馬関係の予想紙を出して食っている。その公安憎しの感覚は異常だ。
 彼は「オウムサリン事件」を公安の仕業という。ああいうカルト宗教を根絶やしにするために公安がサリンを巻いて世にアピールしたのだと本気で主張して譲らない。普通に話していれば普通の人である。だが奥底に(これもトラウマであろうか)とんでもない狂気を秘めている。こういう人が怖い。

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附記・きらいなメディアからもすこしは情報を集めないとと思いネットの政治関係を読む。
 アサヒのサイトが(たぶん本紙も同じだろう)「わたしの彼を戦場に送らないでと札幌でイラク派遣反対署名運動をする女」を写真入りで大きく取り上げていた。しかしなあ、千も一万もを無視して自分たち好みの一だけを大々的に取り上げるこの姿勢はなんなのだろう。許されるのか。こんな女と別れろよ、その自衛隊員も。

 TBSやテレ朝の番組に出てくる顔面モザイクで音声を変えた自衛隊員はみな行きたくないと繰り返す。悪質な情報操作だ。ある現役自衛官は、そのテレビに出たヤツが「毒ガスマスク」と発言していて、隊員ならそんな言いかたをするはずがないから、あれは仕込みによるヤラセではないかと憤慨していた。これじゃみな腰抜けのように思われる。悔しさに歯がみしているのは彼らだろう。
 『週刊新潮』によると、「特別手当が1日3万円出るので志願兵も多い」とのことだ。また「バブル景気でいくらでも就職先がある時期にあえて入隊した世代は意気が高い」には納得した。ぼくらの時には、学生運動全盛だったし、タカダワタルが「自衛隊に入ろう」などと歌って嘲笑していたころだ。大学にも入れず就職先もないからと仕方なく入隊する連中が多かった。バブル期に敢えて国防のために入隊した連中はそれらとは違っているだろう。
 なによりもまず憲法を改正し、防衛庁を国防省とし、彼らを誇りある地位に任ぜねばならない。
03/12/13
 『噂の真相』 小田嶋隆「ビートルズは死んだ」

 「資本主義商品論」というコラムである。いきなり「ビートルズは死んだ」とタイトルがあり、その理由として、ジョンやポールが死んだからではない、プロデューサが殺人容疑で逮捕されたからではない、マイケル・ジャクソンに著作権を買い占められたからではない、とそうではない理由が並べ立てられる。じゃなんなんだと、わくわくするというよりいらつくころ、「あのLet it be Nakedが出たからだ」となる。
 ここまで読んだなら、「Naked」が好きなぼくがこいつに反感を持っても当然だろう。どう考えてもこいつの主張は「あんな最低のアルバムを出してビートルズは死んだ」と言っているのだと思う。それが自然だ。

 ところがまたそこからこいつの意見はねじれてゆく。こいつの言いたいのはその「Naked」がcccdなるメディアで出たことが問題なのだという。それは不正コピー防止のために不要なノイズを混入させたりした最低のものなのだそうな。主張は「ハマサキナントカなんてのの歌ならともかく、人類の偉大な文化遺産であるビートルズをそんな最低のメディアで出したことは許せない。よってビートルズは死んだ」となるらしい。ビートルズ自体はもちあげている。
 cccdで出したのは、日本のレコード会社が「cdの売り上げ減は不正コピーによるもの」としたことが理由だが、それが理由にならないことを、彼は「今年日本で一番売れたCDはcccdではなく、コピー可能のCDで出たスマップの歌(コノヨデヒトツダケ)」と例を出して反証する。それはその通りだろう。「Naked」の売り上げはCDだろうがコピー防止機能のついたcccdだろうが無関係だったはずだ。彼の主張は正しい。正しいのだけれど。

 要はいかにも『噂の真相』のコラムらしく、レコード会社のコピーされまいとして品質の悪いCD(=cccd)を出すというセコい戦略を非難することがメインなのだった。ビートルズはつけ足しのように思える。主義主張のぜひはともかく、コラムの起承転結としてはへただ。ビートルズファンを味方につけねばならないのに、反感を持たれてどうする。結果として納得できる内容なのに、スムーズに読めず、読後感がよくなかったのは書き手の能力として問題であろう。

 『噂の真相』も、あと三号で休刊という名の廃刊か。うれしいようなたのしいような。(←これ、へんだな。フツーはうれしいようなかなしいような、か)。

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