2016
4/2(土)
●「風の大地」──土建屋・石倉の名前は!?──毎度思う編輯者の怠慢

 好きな漫画を読んでいて「ん???」と思うことがある。設定の矛盾だ。長期連載になると初期の設定を作者が忘れてしまうのか、へんなことを言いだしたりする。こちらもマニアではないから細かく覚えているわけでもないのだが、「たしかあそこでは、こう言っていたはず」と思う。どうにも気になって以前のそのあたりを探してみる。するとやはりこちらの記憶が正しく、作品のほうが誤っていると確認する。まあ確認してもなんの意味もないが(笑)。
「島耕作シリーズ」のそれはあまりにありすぎて、ひとつの項目にしてまとめたいほどだ。いまでは作者の弘兼憲史さんも矛盾を承知でて愉しんでいるのだろうと解釈している。



 以下は、ビッグコミックオリジナルに20年以上連載が続く大河ゴルフ漫画「風の大地」から。「大河」と書くと浪浪たる人生の流転がありそうだがじつは時間はほんのすこししか流れていない。20年で2年半ほど。これは坂田信弘原作の特徴。「奈緒子」なんてもっとすごかった。

 取りあげるのは「主人公・沖田を応援する地元栃木の土建屋・石倉の名前について」である。
 初期から登場している重要な脇役だ。

 下はアメリカジョージア州のオーガスタでの一場面。沖田のマスターズ出場に、先輩の研修生・笠崎、クラブ造り職人の健三、土建屋・石倉が応援に来ている。
 本来の石倉は酒が強い。だが会社倒産の危機から自死を決意している石倉は、泣き上戸となりすぐに酔い潰れてしまう。異変を感じ、案じた笠崎と健三がそれを語っている場面。



 ここでの石倉の名は、笠崎が語るのも本人がつぶやくのも「石倉作造」である。



 第54巻より。ここでは「石倉三郎」になっている。


 下の画は、沖田に執拗に絡む地元栃木の代議士に対して怒り心頭の石倉が、「おれが政治家になってやる!」と宣言し、女房がそれを支持するシーン。
第55巻より。


 ここでは石倉の名は「石倉清」となっている。

---------------

 その後もその代議士による執拗ないやがらせは続く。やくざが鹿沼カントリーに乗りこんできた。石倉は真っ向からそれに立ちむかい、ヤクザに擲られてしまう。そのとき彼は自分を「石倉三郎」としている。


---------------

 「風の大地」はこのあと「七年間の空白」となる。これは話の展開上、24歳という遅い年齢でゴルフを始めた沖田が、いかに天才とはいえ、わずか三年弱の経験で世界一を争う舞台にいる不自然さを弱めるためと思われる。一気に二十代で世界一になるのを避けたのであろう。なにしろ現実時間では20年連載している=20年の歳月が流れているが、作品内の世界ではたったの2年半なのである。だから沖田と妻の麗子は、連載の時間においては、互いに一目惚れする出会いから何年もの時間を掛けて男と女の関係になるのだが、現実の時間では意外に早い。
 この作品におけるいちばんの矛盾は、開始当時は剽軽で明るい性格だった沖田が、いつしか寡黙で思慮深い哲学者みたいなキャラなってしまったことだろう。みんな文語体で会話している。沖田の英語の堪能なこと(笑)。

 アメリカでの左足首のケガを治して沖田は帰国する。鹿沼での自転車トレーニングの際、いつも声援を送ってくれる地元のこどもたちが交通事故に巻き込まれ死んでしまう。自分がこどもたちに声をかけたからあの事故は起きたのではないかと自分を責める沖田はクラブを擱いた。そして7年の歳月。新婚だった沖田は麗子とのあいだにふたりの子を授かっている。

 遺族からも、復帰してくれることがこどもたちの願いと諭され、沖田は復帰を決意する。七年ぶりに握るクラブ。感覚を確かめる沖田に、ボール拾いをして協力してくれたのは、七年間ゴルフ場で柴刈りをしていた時期の後輩田宮と、長年の友人である土建屋の石倉だった。宇賀神が死んでしまい、笠崎がプロになることを断念して地方で出家した今、脇役、土建屋・石倉の価値はますます高まっている。
 下は、復帰の場を全英オープンと定め、ゴルファーとして再起する沖田の練習後のことば。



 ここで石倉は自分を「石倉祥男」と名乗っている。よく名前の変るひとだ。作造から三郎、今度は祥男である。次は何にするのだろう。

---------------

 この種のものに接するたびに思うのは、「なぜスタッフは、編輯者は、それに気づき、指摘してやらないのか!?」ということだ。

 私はゴルフをやらない。ゴルフ漫画は読まない。その私に二十年間読ませているのだから「風の大地」はすごいと思う。「あぶさん」も「浮浪雲」も「釣りバカ日誌」も十年以上前に厭きて抛りだしているのに。
 とはいえゴルフが好きではないのだからたいした読者ではない。そしてまた私はこまかいことなどどうでもいい読者である。その私が一瞬で気づくのだから、一緒に作画しているスタッフ、出版社の編輯者はもっと早く気づいていると思う。いや、直っていないのだから気づかないのか、信じがたい。

 毎度言うけれど、私は当事者(この場合は原作者の坂田信弘、作画のかざま鋭二)の誤りはしかたないと思う。そんな勘違いは誰にでもある。当事者だからこそ気づかないミスがある。それが第三者にはよく見えたりする。一流のプロが見えないものがど素人に見えることもある。これなんか典型的なそれだろう。読者である私が気づくことになぜ担当編輯者が気づかないのか、それが仕事ではないのか、その感覚が理解できない。

 といっていいかげんな読者である私も即座に気づいたのではない。「石倉三郎」と読んで、これは役者の名前と同じだから、「このひとの名前、三郎じゃなかったよな」と思ったのだ。そうして前の巻を確かめて「石倉清」と確認する。「いいかげんだなあ」と思っていたら、今度は「石倉祥男」と出てきたのでおどろいた。さらに調べて「作造」時代もあったことを知る。
 担当編集者はそういう思いをしないのだろうか。気づいてもしらん振りなのか。わからない世界である。



 同じようなことはいくつか書いている。
 たとえば「浅田次郎の〝私淑〟の使いかたはおかしい」でも同じ事を書いているが、私はそこで「編輯者は超売れっ子作家となった浅田には意見ができないのか!?」とも推測している。それはあり得るだろう。浅田の言葉づかいには誤りが多い。今時の若手作家のラノベでもあるならともかく、私なんかには読めないような難しい漢字熟語を多用する漢字崇拝中国崇拝の浅田なのだ。あきらかな誤用なのだが、どう考えてもその誤用のしかた(レベル)がおかしい。すなわちそれは浅田というひとの無学の証明なのであろう。無学なひとほど、漢字を多用し、英語仏語独語を混ぜてくる。それでいてふつうの常識に缺けていたりする。

 それでもここにはまだ逃げ道がある。假りに編輯者が浅田の誤用に関して、思いきって意見を述べたとする。恥を掻かされた、生意気なことを言いやがってと屈辱と怒りで浅田が顔を真っ赤にしたとしても、浅田には「正しくはそうかも知れないが、いまはみなこういう使いかたをする。だからわざとしているんだ」と言い逃れられる。たとえば「みみざわり」は「耳障り」であり、耳に障りのあることと決まっているが、「みみざわりがいい」が使われるようになり、それに合わせて「耳触り」なんて漢字の使いかたも生まれた。同じ意味で浅田の誤用には逃げ道がある、と言える。だけど、この「風の大地」には逃げ道がない。登場人物の名前がたびたび変るのは、単なる作者のケアレスミスである。

 繰り返すが、原作者やマンガ家のミスは、それはそれでしかたないと思う。誰だってミスはあるのだ。しかしそれを支える職業をしていながら、それに気づかず看過している編輯者は、プロとして、職業人として、恥ずかしい、と私は思う。

---------------

【追記】──自分がすぐれた編輯者を知っているが故に思うこと──4/6
 私は競馬文章を書くものとして、編輯者に恵まれた。本家JRAの編輯者という誇りもあったろう、それはそれはとても厳しく誠実な仕事をしてくれた。上記のような不注意なミスをするのはいつも私であり、それを指摘し、直してくれるのが編輯者だった。

 といってすべてがそうではない。たとえば武豊&オグリキャップによる大競馬ブームのころ、競馬雑誌がこれでもかというぐらい創刊された。それらはみなブームに乗って儲けようというヤカラであり、その出版元はほとんどがエロ出版社だった。現実に制作するのはその下請の編プロだったから──この「から」が正しいかどうかはともかく──編輯者のレベルは低かった。こんなにひどい連中もいるのかとあきれた。それはまあ本家JRAの編輯者と、ブームだからと手を出してきた競馬などなにも知らない編輯者を比べるのは酷だが……。頼りにならないからと割り切り、不注意なミスをしないよういつもより気を遣って書いたが、すぐれた編輯者とのタッグで書き手1+編輯者1で=3になる世界になれていた私には、1+1が1にしかならない世界はきつく、極力仕事を受けないようにした。お蔭で後々思い出して赤面し身悶えするほど恥じるような失敗はない。多くの同業者がそれをやっているが。いや、そういう方々は後々までそういう書きすて原稿を思い出して恥じるなんて感覚は持っていない。

 ごく一部のすぐれた編輯者、その他あまたの杜撰なひとのあいだに、ふつうではあるが真面目なひともいる。
 たとえば競馬用語で「あしいろ」というのがある。競走馬がレースを走るときの様子を示すことばだ。そのときの編輯者は一冊の雑誌の中で「あしいろ」は「脚色」で統一しているからと、私の書いた「脚いろ」を「脚色」に直してきた。私はそれに対し、「〝脚色〟はきゃくしょくのイメージが強いので、そう読まれないよう、私は〝脚いろ〟と書くようにしています」と主張して譲らなかった。認めさせた。

 なんともちいさな話で恥ずかしいが、それでも私のような者でも、こういうことを編輯者とやりあっているのである。その編輯者も「おれの作るこの本ではみな〝あしいろ〟は〝脚色〟なのだ」とのこだわりがあったらしく、譲らなくてたいへんだった。

 というようなことからも、メジャー漫画誌ビッグコミックオリジナルの、巻頭カラーになるような大作「風の大地」で、脇役石倉の名前が思いつきでちょいちょい変ることに対して意見を言わない(気づかない?)編輯者が私には理解できないのである。


inserted by FC2 system