3/1 | 「20世紀少年」を完読する 『20世紀少年』(20せいきしょうねん、20th Century Boys)は、1999年から2006年まで週刊ビッグコミックスピリッツで連載された浦沢直樹のSFサスペンス漫画。 完結編である『21世紀少年』(21せいきしょうねん、21st Century Boys)は、2007年1月から7月まで連載された。 単行本は『20世紀少年』が全22巻、『21世紀少年』は上・下巻の2巻が発売された。 ※ ストーリー 日本が高度成長期のまっただ中の1970年代。夢と希望に満ちあふれた時代。少年たちが空想した世界。地球滅亡をもくろむ悪の組織、東京を破壊し尽くす巨大ロボット。世界は混沌とし、滅亡に向かっていく。それに立ち向かい地球を救う、勧善懲悪の正義のヒーローとその仲間たち。こんな下らないストーリーを“よげんの書”と、少年たちは名つけた。大人になるにつれ、そんな空想の記憶は薄れていく。 しかし、1997年、コンビニエンスストアを営む主人公のケンヂは、お得意先一家の失踪や幼なじみの死をきっかけに、その記憶を次第に呼び覚まされていく。そして、世界各地の異変が、昔幼い頃空想した“よげんの書”通りに起こっていることに気づく。出来事に必ず絡んでくる謎の男“ともだち”との出会いによって、全ての歯車は回り出す。(Wikipediaより) ------------------------------ 映画「20世紀少年」を見る ------------------------------ というわけで、映画「20世紀少年-第1章」を見て、私は投げだしていたマンガ「20世紀少年」への興味を復活した。そして一気に完読した。全22巻と、解決篇の2巻を。 Amazonのレヴュウでは厳しい批判もあるようだ。以下、それらを読みつつの私見。 ------------------------------
毎度、浦沢直樹特有の・・・,
これまで同様、浦澤直樹特有の 広げた風呂敷は大きく、最後は尻すぼみ を地でいく作品です。 とはいえ、最初はこれ以上ないってくらい面白いので 読んでみるのも良いかも。
------------------------------ 上ふたつの批判的視点もよくわかる。流れに矛盾はあるし、なにより「いくらなんでも記憶力が悪い」と笑える。この作品を描くきっかけは、「浦沢が小学校の同窓会に出たら、どうしても思い出せないヤツがいた」ことからだとか。影の薄い同級生が基本テーマになる。 作品でもそれがすべての伏線になっている。だけどあそこまで思い出せないってことはありえない。あれじゃビョーキだ。だって一緒に活動していたのだから。 それに、こども時代のことは忘れてしまうものではあるが、同時に強烈に忘れないものでもある。原っぱに作った秘密基地と、自分達で考えだしたマークは、おとなになっても覚えている。たかが三十代の青年が小学生時代のことをあんなに忘れてしまうことはない。だって私なんかいまでも断片まで鮮明に覚えている。あのように思い出せないのは不自然だ。假に忘れていたとしても、見れば一瞬で思い出す。すべての記憶が一瞬でもどってくる。それを「なんだったっけ、これは。たしかに記憶にはあるマークだ。このマークは何だっけ!?」と記憶喪失者のように悩むことはない。すぐに思い出す。私なら忘れないが、たとえ忘れたとしても見たならすぐに思い出す。その辺の設定があまりに極端すぎる。 ※ 一方、三番目の肯定派のひとの文章、「時代性」にも深く肯く。これは都会のこどものころからマンション育ちの二十代青年が読んでも理解できない作品だ。聡明な青年は私のようにこんがらがることもなく、スッキリとストーリィを理解できるかも知れないが、作品の背景にあるおもしろさは永遠にわからない。それは浦沢が自分の年齢を基本として描いた作品だからしかたない。それを楽しめないとこの作品はわからないだろう。 批判的なレヴュウを書いたひとはいくつなのだろう。背景がわかるひとの感想はみな三番目のようになるだろう。いわゆる「時代の共有」だ。 マンガの世代は常に若者中心だ。いやいや元々マンガとはこどものものだった。少年のものだった。「少年××」の上の「漫画××」や「ヤング××」と題された青年漫画誌は、漫画放れしない(出来ない)団塊の世代以降を狙って作られたものだった。社会人になった団塊の世代が漫画ばなれ出来ず、スーツ姿で、電車の中でサンデーやマガジンを読んでいる光景は一時社会的にも批判された。 私もまた漫画を卒業できないひとりなのだが、次第に少年誌や成人誌でもスピリッツ等の青年コミック誌に興味がなくなり離れていったのは自然の理だった。二十歳前後を読者として設定したマンガ雑誌を四十代で読むのはさすがにキツい。もっとも私と同い年でいまだにサンデー、マガジン、ジャンプを読んでいるひともいる。あれはすごいなと思う。 こういう時代性を持った作品が大ヒットし、楽しめることに、すなおに感謝したいと思う。 映画がなかったら、私は未だに「20世紀少年」を理解できず逃げだしたひとりだった。すべては映画のお蔭である。 |
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「Happy!」を通読する Wikipediaより 概要 1994年から1999年にかけて『ビッグコミックスピリッツ』に連載された。2004年に1ヶ月につき2巻のペースで完全版が出版された。 2006年4月7日にTBS系列でスペシャルドラマとして放送された。2006年12月26日に「Happy!2」が放送された。 本作誕生の経緯 1993年に『YAWARA!』の連載が終了し、浦沢は次作はミステリー物を描こうとしたが、ビッグコミックススピリッツ編集部よりもう一度スポーツ物をという要請があり、スポーツ物を描くことを受諾した(後にミステリーものは『MONSTER』として執筆される)。 当初はバレーボールを扱おうとしていたが、バレーボールの最終目標がオリンピックでは『YAWARA!』との差別化が図れないことから金を稼ぐことを目的としたプロスポーツ物、さらには主人公が周囲からブーイングを浴びせられる女性を主人公として構想した。 本作は熱狂的なブームを呼ぶこともなく、浦沢本人としては影の薄い作品となってしまったと完全版15巻あとがきにて後述しているが、1990年代後半からの景気の低迷をうけ、「ちょっと早すぎた作品だったんじゃないか」とも同時に述べている。 あらすじ 両親と死別し、幼い弟妹の世話をする高校3年生、海野幸はある日、事業に失敗し蒸発した兄の借金2億5000万円を背負うことになってしまう。そこで高校に退学届を提出しプロテニスプレイヤーとなることを決意するが、日本プロテニス界の有力者、鳳財閥会長の鳳唄子にテニス界からの永久追放を通告されてしまう。 ------------------------------ 大好きだった「YAWARA」の次作としてスピリッツで連載が始まった。おおいに期待したがつまらなく、期待外れと投げてしまった。 その理由は、マンガらしい荒唐無稽さと生真面目なスポーツ物の真ん中へんだったからのように思う。 祖父から英才教育を受けたYAWARAは天才だった。次々と現れる日本のライヴァル、世界の強豪に懐深く次々と技を繰りだして勝ちすすんだ。それがおもしろかった。挌闘マンガの醍醐味である。 しかしこのマンガには「必殺技」は登場しない。「YAWARA」と同じ恋愛模様があり、ライヴァルがいて、丹下段平的怪しげなコーチも登場するのだが、練習は極めてまともにスポーツライクであり、マンガ的大技は炸裂しない。主人公の最大の武器は無尽蔵のスタミナである。「血の流れないボクシング」と呼ばれるほど挌闘技の要素の強いテニスだが、挌闘技的に盛りあげるには無理な素材なのか。 強豪を幸が破るパターンも、みな「最初はリードされるが、球筋を見きわめ、終盤になって逆転する」というパターンのみ。これしかないのだろうが「マンガ」としては退屈だ。 いや、そういう意味では、YAWARAもごくまともだった。タイガーマスク的な必殺技は登場しない。ふつうのごくまともな柔道技を極限まで究めているだけだ。だから浦沢スポーツ作品では荒唐無稽な必殺技は登場しないのがふつうとなる。 なら、あれほど柔道では盛りあがったのにテニスがつまらなかった理由は、テニスの責任なのか!? これまたむかしからスポーツマンガの舞台としては定番なのだが……。 ※ その分、全編を通し、これでもかというぐらい主人公は虐待される。マスコミからいじめられる。テニスファンから嫌われる。真実を知っている読者は、それに肩入れするという効果なのだろう。あまりにわざとらしい。 大きな大会に日本人娘がふたり出場したなら、いくらひとりがスター選手であり、もうひとりがラッキーガール(と思われた)としても、同じように注目される。スター選手に注目するスポーツ紙があったとしたら、じゃあウチはこっちだとばかりにマイナーな方を応援するマスコミも出て来る。それが世の常だ。ましてそれが世界的大会で勝ちすすんだなら、日本中が熱狂する。なのにしない。無視されたまま。ここのところだけ妙に現実離れして「マンガ的」なのだ。 全23巻の大作であり、浦沢としては思い込みはあるにせよ、客観的に見た場合、失敗作となるだろう。今回全巻読み返し、極端な設定の人間模様等、とてもおもしろいのだが、肝腎のテニスが地味だ。どうせなら現実にありえない必殺のサーブやボレーやスマッシュを思いきり散りばめてもらいたかった。 ※ テニスよりも地味と思われるゴルフだが、このあと読む「風の大地」は思いっ切りそういう「秘技」が展開されている。マンガの素材として、ゴルフがテニスよりも向いているとは気づかなかった。スポーツマンガのテーマとしてはテニスの方がずっと定番だったわけだが。 たぶん浦沢は過去の作品を研究し尽くし、今までとは違った秘技の出て来ないテニスマンガを狙ったのだろう。その気持ちはわかる。だが結果としては失敗だった。それに、最終話、ウインブルドンで優勝した幸がいまだにとんでもないボロアパートというのも不自然だ。スポンサーがほっておかないだろう。 半端な作品になってしまったのは残念である。もう彼が単純明快なこういうスポーツものを描くことはないのだろうか。まあそう思えば「YAWARA」と並んでいとしい作品ではある。 ※ 餘談ながら、小山ゆうの失敗作に「スプリンター」がある。これも大ヒットした「がんばれ元気」というボクシングマンガのあとを受けての作品だった。しかしいかな小山でも、10秒という100メートル競走の世界をボクシング的に盛りあげることは出来なかった。 一方、「風の大地」の原作者坂田は、「奈緒子」で駅伝をテーマに盛りあげている。これは素材として理解できる。 視点を変ると、100メートル競走を少年相手のスポーツマンガのテーマとして取りあげたのは誠に異能であると感じる。 もうひとつ餘談ながら、どうして相撲漫画の傑作は生まれないのだろう。「のたり松」も「播磨灘」も、小山の「ももたろう」も、みなもうひとつだ。梶原一騎プロレスのような傑作が生まれてもいい土場だと思うのだが。 ------------------------------ 陸上界と柔道界 どうでもいい話だが、「YAWARA」が話題のころ、実在のヤワラちゃんとして田村亮子が登場した。髪形もマンガの「YAWARA」と同じにして。 ミヤコ蝶々そっくりの不美人な娘に「YAWARA」が汚されたような気がして激しく失望したものだった。 ど派手な結婚式はテレビ中継された。誰があんなものを見るのだろう。 陸上界が、オリンピックチャンピオンの高橋尚子を選抜競走で2着に負けたからと代表から外したのに対し、柔道界は選抜選手権で一本負けした田村を代表に選んだ。 高橋を出さなかった陸上界、規則をまげて田村を出した柔道界。どちらが正しいのか。 田村が結果を出したのだから柔道界は正しかったと言える。だが田村を負かしたのにオリンピックに出られなかった選手は気の毒だ。なんのための銓衡会だとなる。 陸上界も野口みずきという新しいスターが誕生し金メダルだったから結果よしとなる。しかし高橋が出ても結果を出していたろう。野口とのメダル獨占もありえた。 どちらを支持するかとなったら、規則に忠実な陸上界か。いや、規則をねじ曲げても「世界の舞台では経験のある田村」との解釈も捨てがたい。 しかし柔道界は、規則をねじ曲げてまでもメダルにこだわるのなら、なぜ明らかな誤り判定のときに強硬な抗議が出来ないのか。選手を畳みから下ろし、全試合ボイコットするぐらいの気魄がないのか。問題はそこだろう。 |
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「風の大地」を通読する Wikipediaより 『風の大地』(かぜのだいち)は、ゴルフを題材にした日本の漫画。原作は坂田信弘、画はかざま鋭二。小学館刊行の青年雑誌「ビッグコミックオリジナル」に1990年から連載される。1993年度の小学館漫画賞青年一般部門を受賞した。 概要 24歳という(ゴルフ界では)遅い年齢でプロゴルファーを志した主人公沖田圭介が、恵まれた体格と熱心な練習、さまざまな人との出会いによって成長し、メジャートーナメントなどで活躍する様を描いている。主人公の師となる小針春芳、トーナメントで優勝を争う尾崎将司やグレグ・ノーマンなど、実在のゴルファーも多数登場する。 大会が始まると一打打つだけで一話が終るほど展開が遅い。 ------------------------------ 私はゴルフにまったく興味がない。創刊号から読んでいるビッグコミックオリジナルも、いつしか好きな作品をいくつか読むだけになってしまった。その私に缺かさず読ませているのだから作品の力とはたいしたものだと思う。 以前「月下の棋士」(能條純一)が話題になっていたころ(いつだろう1995年ぐらいか)、将棋を知らない友人のライターが夢中になって読んでいるのを不思議に思った。将棋好きの私は噴飯ものの内容にとてもじゃないが読む気にはならなかった(とはいえ将棋ファンの礼儀として毎回読んではいたけれど。) すぐれた作品は興味のない読者まで引っぱる好例だろう。 ※ 初期のころはいいかげんに読んでいた。ところが何年か経ったころから毎回真っ先に読むようになる。それは主人公の沖田が海外のトーナメントに出て、スーパーショットを連発するようになってからだ。その場でのキャディとの出会いもおもしろかった。 その間に帰国しての鹿沼カントリーでの巻もあるのだが、もうつまらなくて読めなかった。 初期がおもしろくなかったのは、「京大中退、遅めにプロゴルファーを目ざし、栃木県鹿沼カントリーで修業」という原作者・坂田信弘の自伝めいた展開だったからである。沖田もかなり冗舌で軽薄だった。 それが海外のトーナメントに出るようになるともう聖人というのか哲人というのか信じがたい男になる。そのあたりからおもしろくなった。それは5年10年かけての進行で磨かれたキャラだからなのだが、実際の進行では彼はまだゴルフを覚えてから2年半しか過ぎていない。1990年連載開始だから19年かけてその歳月を描いているわけである。 全英オープンのあと全米オープンで沖田は宿命のライヴァル、シルバー・スコット・ウォーレンと再会し、また闘うことになる。そのとき沖田は「ウォーレンと会うのは一ヵ月ぶりなのに、不思議だ、もう何年も会っていなかったような気がする」とひとりごちる。これ、坂田さんのギャグなのか(笑)。 マンガ内世界では一ヵ月しか過ぎていない。でもその一ヵ月間の出来事を誌面では4.5年かけて描いたから、シルバー・スコット・ウォーレンが誌面に登場するのは4.5年ぶりであり、読者はみな「おひさしぶり」と沖田と同じ感想を持った。それを沖田が誌面でつぶやくのがいい。けっこうツボにはまって笑った。とにかくこの作品は進行が遅い。 ヒロイン麗子と肉体的に結ばれるのも、誌面では出会ってから10年ぐらい経っているので、貞淑な麗子、温厚な沖田という感じだが、物語の時間で見ると、けっこう初対面から早い時期にヤッテルことになる(笑)。沖田、けっこう手が早い。 ※ 海外のトーナメントから帰国して、次の大会までのあいだ、鹿沼カントリーでの時間を描いた章があった。国会議員とヤクザめいた連中との賭けゴルフの巻である。つまらなかった。これが終り、また海外の章が始まってほっとしたものだった。 原作の坂田さんはプロゴルファーとしては大成していない。だから全英オープンやマスターズで活躍する天才日本人ゴルファー沖田は、原作者が造りだした架空のキャラ、夢の存在になる。だからおもしろい。 ところがこの鹿沼カントリーでの「ヤクザとの賭けゴルフ」的な話は実体験があるのだろう、また初期と同じ「自伝・体験」めいてつまらないのである。流れとしても、タイで優勝し、全英で2位になり、オランダでも優勝した沖田が、いまさら汚職まみれの国会議員とそのヤクザ秘書との賭けゴルフでは白ける。これは失敗の章だろう。 ※ 毎号読んでいるときから感じていたが、登場人物がみな哲学者である。そして哲学的なことばを吐くときはみな「文語」になるのが笑える。 沖田はものすごく難しい哲学的なこと、あるいは詩的な表現に富んでいる。どれほど英語が巧いのか。 悪役のきたならしい発言、卑怯な行為もあまりに極端である。ゴルフというテーマ、青年誌での連載、かざま鋭二の整った作画、ということから、調和の取れたおとなのマンガのように思いがちだが、悪役人物の極端さは梶原劇画となんら変らない。沖田のあまりに崇高な精神に最後には悪役が反省して善人になってしまう点も似ている。 ※ かざま鋭二の整った作画、と書いたが、疑問点もある。四人のいる絵で、沖田は180センチ以上ある大男だとして、185ぐらいあるのか、それと並んで頭ひとつ低い麗子は女にしては背のある168ぐらいとしても、その麗子よりもまた頭ひとつ低い笠崎は155ぐらいになってしまう。それよりもさらに低い大阪弁土建屋の石倉はもう140センチか。笠崎もプロを目ざしている研修制である。いくらなんでも小柄すぎる。この辺の雑な部分がいくつか目につく。 現在、マスターズでプレーオフに持ち込みながらも足首の怪我で辞退、休養中。さて今後はどんな展開になるのか。 |
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「あずみ」完結──第2部? 概要 『あずみ』は小山ゆうの漫画作品。 ビッグコミックスペリオール(小学館)にて、1994年から2008年にかけて連載され、「第1部・完」となった。単行本は全48巻。引き続いて、幕末を舞台にした続編『AZUMI』が連載されている。 徳川幕府初期、太平の世を作り上げるため、内乱の芽を摘む暗殺集団の一人として「爺(小幡月斎)」に育てられた少女「あずみ」の戦いと苦悩を描く。戦国から太平の世へと移りゆく中で必要とされなくなった武人たちの不満にスポットが当てられており、過渡期ゆえの社会不安が物語のベースとなっている。 1997年度第一回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞のほか、1998年には第43回(平成9年度)小学館漫画賞青年一般部門を受賞した。(Wikipediaより) ------------------------------ 小山ゆう作品のファンなので第1回から缺かさず読んできた。単行本も買い揃えてきた。しかし20巻あたりで疲れた。その後はスペリオールの立ち読みになった。今回単行本をまとめ読みした。完結である。あしかけ15年か。 疑問は最初からあった。手塩に掛けて育てた少年剣士10人を仲間同士で闘わせ5人にするというのはいくらなんでも不自然だった。冷酷さをアピールするための効果──たとえばアメリカのグリーンベレーが隊員に小犬を育てさせ、そのあとにその犬を殺させて冷酷さを養う、というような──はあったろうが、その後あずみが心の支えとして育ててくれた爺と仲間を偲ぶようになると、やはり不自然だった。あれは作者もやりすぎたと思っているだろう。 それらの矛盾と、終りのない殺戮の連続に、単行本購入は20巻でやめてしまった。 今回、最終刊48巻まで通読して、読後感は、やはり疲れたとしか言いようがない。 いやはやどれほどの人間が死んだことだろう。まとめ読みするとよけいにそれが重くのし掛かってくる。よくもまあこれだけ救いのない暗い話を15年も描けたものだ。 ※ すこしの休憩を挟んで第2部が始まった。舞台は幕末である。第1部はまだ家康の生きている時代だから250年ぐらい時空を飛んだのか。すると言うまでもないことだが同じ容貌、同じなの「あずみ」ではあるがまったくの別人物となる。 第1部での暗さに作者も疲れたのか、こっちのあずみは明るく剽軽で、血腥くない。 しかしじつのところ私は、この第2部を楽しめていない。第1部の暗さと重さからまだ立ちなおれず、明るい第2部をすなおに楽しむ心境になれていないのだ。 あずみという同じ、同じ容姿でやる必要はあったのだろうか。個人的には第1部で彼女を封じて欲しかったと思う。 第2部の単行本を楽しく読めるようになるのは、私の場合、あと何年も先だろう。 ------------------------------ 上戸彩主演の映画「あずみ」を二作とも見ている。他項ですでに感想を書いているけれど、ひどいものだった。繰りかえしになるがもういちど書く。 上戸があまりに非力なのである。腕などいかにも今風の娘らしくか細くて、筋肉などまったくない。とても剣など振りまわせたものではない。 だから私は思った。すばらしい運動能力をもった新人を発掘して主役をやらせたら様になるのにと。「あずみ」の魅力ははち切れんばかりの太腿だ。強く逞しく美しくなければならない。その点でも失格だった。上戸が似合うのはあずみに助けてもらう非力な町娘の役である。 だが企劃そのものがそうではないのだと気づく。そもそもが「ヒット作のマンガと人気者上戸彩の合体」なのだ。さらにいえば「ヒット作のマンガ」もどうでもよく、「人気者上戸彩の映画」が最初にある。主役を替えろという私の主張は「最初に上戸彩ありき」なのだから本末転倒になる。 私の考えは、「私の大好きなマンガ『あずみ』を映画にするなら、マンガ『あずみ』のファンが満足できるだけの映画にして欲しい」である。映画を作る側はマンガ「あずみ」ファンのことなど考えていない。「上戸彩主演」で、いかに金を稼ぐ映画を作るかだけである。「あずみ」はたまたまアンテナに引っ掛かっただけなのだ。そんなものに期待したこちらが間違っていた。 とはいえ私はもともとこの作品の映画化になど興味はない。一応二作とも見ているが、たまたまである。1作目は深夜映画だった。深夜と言うより早朝だったが。2作目はDVDか。興味もないし期待もなかったので別段不満はない。 たぶん映画を見た人の多くは上戸ファンであり原作とは無縁だったろう。マンガ「あずみ」のファンがそのためにのみ映画館に出かけ、原作と比べてよかったわるかったという議論はなかったろう。まったく別物なのだから。 ------------------------------ それにしても血腥いマンガだった。こんなものを長年描いていたら小山ゆうの精神がおかしくなってしまうのではないかと心配した。 しばらくは明るい世界を描いて欲しい。 |
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4/1 | 傑作漫画、初期設定の矛盾と失敗(の楽しみ) 今回好きな名作マンガをいくつか読み返して、あらためて初期設定の失敗を楽しんだ。これはまとめ読みして気づいたのではなく読んでいた当初からわかっていた。しかしそれは同時進行だから薄い感覚だ。まとめ読みするとそれが強烈に「え? えっ!?」と伝わってくる。 連載当初私が「風の大地」に興味がなかったのはゴルフと無縁だからである。と同時に、初期設定が原作者の元プロゴルファー・坂田信弘の自伝的要素の強い 今回「課長島耕作」は読んでいない。「取締役」と「常務」 |
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