01〜
09/3/20

「ヤング島耕作」

──後出しじゃんけんの狡さとおもしろさ


「島耕作」が偉くなりすぎてつまらなくなった。やはりいちばんおもしろかったのは「課長」時代だったなあとしみじみ思う。連載1回目に、浮気相手の部下から逃げようと小心翼々とした弁明をする姿にあるように、もともとはごく平凡な「課長」の日常を描くつもりだったのだろう。それがいつしか弘兼憲史の「もうひとつの夢の人生の具現化」みたいな路線になり、島耕作は超強運な(笑)スーパーマンの道を歩みだす。
 それとともに弘兼さんもビジネス書まで書くようになり「島耕作」は理想のサラリーマンとなっていった。しかし第1回を読めば、というかそこから読んでいるものには、この路線変更は苦笑ものだ。



02/7/12
あずみ-映画化-上戸彩
(02/7/12)


 コンビニにて。
 『ビッグコミック スペリオール』連載の『あずみ』が実写版で映画になるらしい。主演は上戸彩。知るはずもない。スペリオールを手にレジに向かおうとする。隣においてある写真週刊誌の表紙にその名が見えた。私は写真週刊誌が大嫌いで一度も買ったことがない。それはささやかな自慢のひとつになる。タレントのマンションの前に何日も張り付いて噂の相手の出てくるのを待ち受けるカメラマンなんつうのを(それ一枚で何十万円にもなるらしいが)哀れな職業と思っているのに、一方ではまた覗き趣味でそれを愉しみに買っていたら矛盾する。筋を通すのが生き方の基本だ。それらの先駆けだった新潮社のフォーカスが去年だったか廃刊になったときは、ただの一度も買わないまま廃刊になったことが妙に晴れがましかったものだ。新潮社には目立てばいいという悪い意味のマスコミ根性がある。それはチェンマイの殺人事件と関連づけてまた書くこともあるだろうが、フォーカスなんてのはそういう意味で、新潮社の悪意の権化のような雑誌だった。新潮社自体は嫌いではないのでフォーカス廃刊はうれしかった。講談社のフライデーはまだあるが、この場合は講談社そのものに愛想を尽かしているのでどうでもいい。週刊現代、日刊ゲンダイの歪んだ思想、NHKの放送で問題になった身障者の少年の本、と問題は山積している。大嫌いだ。私はこういうふうに書く場合でも、誌名を正確に書くように心がけているが、これらに関してはどうでもいい。たしかアルファベットが正式誌名だろう。大嫌いなものにそこまで誠意を尽くす気はない。

 初めてその娘の容姿を見た。それはまあ「あずみ」の役であるから、上戸彩がかわいいのは当然として、いったいどういう意図でこれを映画化するのだろう。そこがわからない。
 刺客であるあずみの本来の目的を徳川幕府と絡めて描くことは不可能だろうし、凄まじい殺陣のアクション剣豪映画とするなら、香港映画ばりのワイヤーアクションを使わねばならない。そんなことは無理だろうし、それに細身のまだ十六歳だという。上戸彩が向いているとは思えない。大ヒットマンガを原作にそこそこのものを作り、そこそこのヒットをねらったら大滑りの結果が今から見えているような気がする。
「あずみ」を映画化するなら、テレビ化でもいいけれど、深夜に放送する大人向けアニメ──「マスターキートン」のような──しかないと思うのだが。


 以上はスペリオールを読んで知った話。この後購入したスポーツ紙でもっと詳しいニュースを知ることになる。
 ワールドカップの時からずっとスポーツ紙を読まないようにしていた。
 しかしほんとにすごかったね、あのサッカー熱は。日曜の競馬をするときは買うわけである。それでいらないペイジを切り取って捨てる。すると──スポーツ紙って何ページあるんだろ、数えたことないけど20ペイジぐらいあるのか、もっとか──1,2,3,4,5,6,7,とずっとサッカーなのである。終面もそうだ。終面の内側もそうだ、それらをビリビリと破って捨ててゆくと、私の読むところは、競馬予想欄のメインのページと格闘技に関する小さな記事、社会面等で3ページぐらいになってしまうのだった。三紙買うから、破り取った部分が電車の網棚にたっぷりとなる。ま、あとで拾ったサッカーファンが読んでくれたことだろう。

 きょう、競馬もないのに久しぶりにスポニチを買った。それは一面が大相撲のことだったからだ。私は、自分の好きなものが一面になっていると、そのスポーツ紙を買うようにしている。それこそほんとにほんとに微々たるものだが、そんな形の応援はしようと思っている。まあ、競馬、プロレス、PRIDE、K1、大相撲といったところだ。相撲が優勝でもないのに一面になることは珍しい。よってきょうは、まったくスポーツ紙など読みたくない気分だったのだが、購入した。
 サッカーのお蔭でスポーツ紙から卒業できそうである。ありがたいことだ。ああいうものは毎日読んでいると癖になるが読まない癖をつければそれで済む。朝刊二紙と夕刊二紙でちょうど一日五百円。一ヶ月一万五千円の節約か。これだとたいしたことないが一年だと十八万になるから、ちょいとしたノートパソコンが買えるな。なるほどね。節約とはこんな発想から生まれてくるのか。一日五百円の節約ではなにも感じないが、そのことで毎年新しいノートパソコンが一台買えるとなると急に現実味を帯びてくる。まあだったら馬券をやらなきゃ億ションが買えていたとなり、今度は節約どころか己の愚かさ加減に死にたくなってくるからやはりこういう似合わない発想は止めよう。
 久しぶりに買ったスポーツ紙の大相撲記事は、残念ながら力士の休場が相次ぎ名古屋場所ががらがらで大ピンチという嬉しくないニュースだった。

 そのスポーツ紙にまた『あずみ』映画化の話があったので詳しく内容を知った。主役の娘は金八だかなんだかで男っぽい役柄をやって話題になった娘なのだそうで、原作者の小山ゆう(私はこの人の作品は全作読んでいる)の指名なのだそうな。ま、そういうことなら文句は言わん。当たったらシリーズ化するらしい。制作費6億円。興収目標30億とか。がんばってくれい。だけどあれをどう映画化するのか、いまだにわからん。
02/7/20
マンガ喫茶(02/7/20)

 午前一時からまたいつものマンガ喫茶。
 同年配の背広、ネクタイの人が、「眠りたいのだがいいか」と言って、一緒の時間に入店した。彼は椅子の上ですこしでも假眠したかったらしい。たいへんだなあ。金曜の夜、これはどういうことなのだろう。タクシー代の節約か。
 事情は同じようだが、私と彼とはまったく違う。彼の場合はすこしでも假眠をしたい、そのためならどこでもいいとマンガ喫茶を選んだのである。私の場合は、マンガ喫茶に行きたいと田舎からそれを目的として出てきている。全然違う。
 隣の席。一応二冊の本を持ってきていた。それとなく観察する「小池一夫原作 小島剛夕絵」の「斬殺者」だった。懐かしいなあ。そのうち読み返そう。それを二冊テーブルに置いたが、ほんの五分も読まないうちに椅子の上に丸まって眠り始めた。なんだかねえ、背広にネクタイの、間違いなく家庭持ちと思われる人のこういう姿は痛々しいやね。わからないのは、午前三時半にあわただしく出て行ったことだ。まだ山手線や井の頭線の始発は走っていない。いまもってわからない。タクシー代があったのならこういうところには来ないだろうし、あの人はなんだったのだろう。

 小林まことの「1・2の三四郎」20巻を読む。懐かしいなあ。少年マガジン連載時期は昭和五十年代始めである。大学生時代と被っていて、被っている時代の分は読んでいるし覚えているのだが、最後のあたりがわからなくなっている。近年になっての続編「1・2の三四郎2」のほうは単行本を全巻持っている。「What's Michael」を全巻持っているのは言うまでもない。猫好きのバイブルだ。でも哀しくなるから今は読み返さないが。「柔道部物語」は貸本で読んだ。近所のマンガ貸本屋に通い詰めた時代。あれと比べると、現代のマンガ喫茶ってのは天国ですわ。

 ラグビーもの、柔道ものが次第にプロレスものになり、最後はプロレスラになってしまう流れがおもしろかった。北条志乃は第一回から登場し「2」では三四郎の奥さんになって最終回も締めるキャラなんだね。これって「友情物語」なんだってあらためて感じた。

 予定としては、睡眠不足の日が続いていたので、午前三時ぐらいにはダウンしてしまい、六時ぐらいに起き出し、田舎に帰ろうと思っていた。なのにあまりにマンガ喫茶がおもしろく、眠らないままに朝になってしまった。

 先日の「あずみ」で思いだし、小山ゆうの「ももたろう」を読もうと思う。小山ゆうの作品も全作読んでいる。いちばんおもしろかったのは「がんばれ元気」だろう。ぼくの中では未だにボクシングマンガの最高峰と言われる「明日のジョー」よりずっと上に位置している。小山ゆうの作品で唯一通して読んでなかったのがこの相撲マンガ「ももたろう」だった。「元気」の頃から小山ゆうの描く女性は美しく色っぽく、それでいてそういうシーンはまったくなかったから読者の要望はひとしおだった。この「ももたろう」はそれが全開した作品で全編そればかりである。

 このマンガ喫茶の蔵書は三万冊であるらしい。ぼくがいま田舎で唯一欲しいのがこのマンガ喫茶なのだが、こんな大きいのは作れるはずもないし、維持が出来ないから、やはりこれは都会に住めということなのだろう。マンガの棚を見ていると「小学館」「講談社」「集英社」「その他」となっており、さらにそれが「少年」「少女」「青年」に別れる。世界一の発行部数を誇った「少年ジャンプ」と(集英社)と相性が悪かったぼくの読むのは、サンデーとマガジン系統の小学館と講談社になる。当然「青年」の部だ。そうして棚を見ていると、それぞれがスター作家を抱えていることがわかる。ぼくの好きな小山ゆうや浦沢直樹は小学館だ。弘兼憲史は「課長 島耕作」以降モーニングコミック(講談社)のイメイジが強いが、基本的にはビッグコミック賞(小学館)出身者であり、小学館の作品も多い。最近じゃ「黄昏流星群」が話題だ。

 アンチジャンプのサンデー・マガジン派だったが、さらにひとつだけ選べと言われたらマガジン派だったろう。会社で言うと講談社になる。それがそれらの棚を見ていると、どう考えても今の自分は小学館派であることを確認する。要するに青年になってから読み続けてきたビッグコミック、オリジナル、スピリッツ、スペリオールの影響なのだ。
 以前も書いたことがあるが、当時ビッグコミックと並ぶ青年コミック誌の双璧は「漫画アクション」(双葉社)だった。読んではいたが熱心な読者ではなかったのでアクション系の漫画には詳しくない。といっても代表的な「子連れ狼」などはもちろん読破している。あの頃の感覚で言うとビッグがビートルズ、アクションがストーンズだった。あくまでもあの頃感じた比喩でいうとだが。
 ぼくはアクションは、はらたいらに代表される半端なサヨク臭さがダメだった。当時はまだ思想は固まっていないのだが、今はあの頃からきちんと一本の線を歩んでいたのだとわかる。無知なのでそれを表現することが出来なかっただけだ。

 三十年前のアマチュア時代から知っている忌野清志郎のいい加減さなども、思えばぼくは、当時から批判的だった。漫画趣味にかこつけて昔を振り返れば、自分の人生が一本線になって見える。バカであったことは恥ずかしいが、今にいたる道は、常に一定していたとなる。久米宏や清志郎を好きな人と疎遠になるのは極めて自然だった。そこのところを異にしている人と人が仲良くすることなど不可能なのだ。それはまた、久米と清志郎が仲良しであることもまた理解できる。よくできているよねえ(笑)。ほんと、嫌いな人たちがみな仲良しなのだから安心できる。これで、自分の大好きな人が大嫌いな人と仲良かったりしたら悩むのだけれど。
03/11/7 玄人のひとりごと


 今号の「ビッグコミッオリジナル──玄人(プロ)のひとりごと」には笑った。主人公・南倍南がCDショップに行きヘッドフォンで試聴する。CDは昔のロックライヴ盤の復活ものである。どのへんなのだろう。ディープパープルとかグレートファンクレイルロードとかそんなものか? 詳しくないので知らない。とにかくまあそのCDを聞きつつむかしバンド組んでリードギターをやっていたらしい倍南はのりのりになる。恍惚とした表情になりアクションも自分で弾いている気分だ。れいの「目を閉じて持ってもいないギターを弾いているように指を動かすやつ」である。ぼくはどうもあれを見ると恥ずかしくてならない(笑)。もちろんやったことはない。
 ふと隣を見ると同じくのりのりのおやじがいて、その指遣いから同じCDを試聴していて、そいつはベーシストとわかる。さらに隣を見ると聞きながらドラムを叩いているのいて、となってオヤジ三人で、汗だくになりながらライヴの再現になる。もちろんヘッドフォンを当てての無音だからかなり気持ち悪い。周囲の若者が「なんなんだ、このオヤジ三人は……」と気味悪そうに見ているといういつもの落ち。
 笑った笑った。ぼく自身はロックバンドのコピーなんてやったことないから実体験とは無縁なのだけど、いかにもありそうな話だ。もちろんそれぞれ同じCDではあるが別々のプレイヤで聞いているのだから、聞いている曲目、箇所が違うはずで、三人が同じ形で盛り上がるのはおかしいという破綻はすぐに見えるのだが、それは全体のおもしろさからすればたいしてことではない。途中リードギターの倍満が「さあいよいよおれの出番だ」と張り切るとCDを早送りされてしまう部分があり、その理由を二人が「だってここで延々と20分もギターソロがあって、おれたちやることないんだもの」と言う。ひさしぶりに「玄人(プロ)のひとりごと」で笑った。

アップの際にネットで調べたら、ファンサイトがあるのがわかった。非公認である。そこにこの絵があった。こういうのを載せるとまた×××が「著作権違反」と騒ぐだろうが(笑)、そのときはこの非公認サイトとともに罪に服しましょう。ただし何度も言うように、作者のかたは、その非公認サイトもぼくのこの文章も、おもしろさを称えているものであり、無断転載を知っても決して怒らないと思いますけどね。
03/11/17 『二十手物語』と『新子連れ狼』

 『週刊ポスト』と言えば、先週からあの長年連載していた『二十手物語』が完結し『子連れ狼』の続編が始まった。これで立ち読みの楽しみが出来た。ともに小池一夫原作である。『子連れ狼』の絵師・小島剛夕は亡くなったらしい。追悼と書いてある。出身が紙芝居の絵描きだから高齢だったのだろう。
 『二十手物語』は通巻で何巻になったのか。100巻は超えている。『ゴルゴ13』には届かなかったか。60巻ぐらいまではリアルタイムで読んでいた。品川の住まいの近くの貸本屋で借りていた。その店も今はない。これからマンガ喫茶でじっくり読むことにしよう。かなり渋い店か大型店でないと揃っていないが。
 小学館はこの単行本でよくないことをした。ホントーにこれはよくない。一冊がまとまっていないのである。たとえば假に単行本第60巻があるとする。するとその内容は、「第五十章──凍て鶴──第三部」から始まり、それが真ん中あたりの第五部で完結し、そこから「第五十一章──怪盗鬼の松」が始まり、それのちょうど盛り上がってきた第二部のあたりで最終ページなのである。つまり一冊だけ買ってもひとつの章が読めないのだ。これはひどいだろう。このやりかたはきたない。次を買わせる手法としてはうまいとも言えるが。
 誰が考えた戦略なのか。小学館か、小池一夫か。海外に頻繁に行くようになって読むのが途絶えてしまうのだが、理由はそれだけではない。このやりかたに対する反感も大きい。その貸本屋から5冊ぐらい借りてきて読む。ご理解いただけるだろう、5冊借りてきても最初から終りまで納得して読める物語は3話ぐらいで、あとの2話は半端に引っかかるのである。ひじょうに後味が悪い。なにしろ、いつも途中から始まり途中で終るのだから。単行本とはそういうものではあるまい。

 新連載の『子連れ狼』は、大五郎と假親になる浪人が主役になるようだ。当時は双葉社の『週刊漫画アクション』連載だった。今はもう存在しないから小学館の『週刊ポスト』連載になった。小学館のビッグコミックと双葉社の漫画アクションは、当時の二大漫画雑誌だった。時の流れを感じる。ん? 売り上げ不振のアクションはエロ雑誌に模様替えしてまだあるんだっけ? 
 ぼくからするとビッグが自民党、アクションは社会党だったから、不振の原因もわかりやすい。サヨクの衰退だ。体制に反対さえしていれば支持者が集まってきて数がさばける時代は終った。いやほんと、もろにそのままである。アクションで世相批判のつまらない四コマ漫画を描いていたのがあのハラタイラだった。すこしもおもしろくなかったが、時の田中角栄首相を毎週批判するだけで気骨のあるインテリマンガのように評価する連中がいた。もちろんそっち方面だ(笑)。その誤解が「クイズダービー」での答え知りたがりにつながる。ぼくは無知だったし政治的信条もかたまっていなかったから正当な批判は出来なかったけどひとつだけ断言できた。それは「ハラタイラのマンガはおもしろくない」ということだった。

 大五郎がおとなになるにはまだ間がある。果たしてこれからどんな展開になるのか。

 これを見て思ったのが『レオン』の続き。リュック・ベンソンはあのころ将来『マチルダ』を作ると言った。ナタリー・ポートマンは今が旬。美の盛り。まさに『レオン』の続編、女殺し屋『マチルダ』を作る機は熟したと思うのだがどうか。
 『レオン』でのおませなマチルダはかわいかった。あれはリュック・ベンソンの考えでは、もっとセクシー(?)なシーンがあったらしい。ナタリー本人と両親の反対でなくなったという。こどもに興味はないが、でもなんというか、あのおしゃまな感じはなんとも言えずかわいらしかった。こどもの色気って不思議なもんだ。完成したら試写会から出かけDVDも買う。無理なのかな。噂すら聞こえてこない。
03/12/6

『あずみ』800万部、『バガボンド』3500万部!

 朝方のニュース。「今年いちばん売れたマンガ本は!?」とやっていた。そういう季節になった。で、肝腎のそれを忘れた。まあそういうニュースの連続する季節だ。そのうちまた気づいて書くこともあるだろう。
 心に残ったのは、いま時代劇マンガブームであり、その中でも「史上最高に売れたものがバガボンド」(吉川英治の宮本武蔵を原作にした作品)であること。これは知っていたが、こんなのも売れてるんですよと附録的に紹介されたのが私が全巻もっている『あずみ』。31巻で800万部。とんでもなくすごい数字なのだがそれでも『バガボンド』3500万部の四分の一以下でしかない。『バガボンド』の売れ行きを大好きな『あずみ』の数字と比較してあらためて感嘆した。

 餘談・先日読み返した西村寿行の本に「日本中、アズミと名のつく土地は帰化人の住み着いた地が多い」と書いてあった。無知なのでよくわからんが、長野の安曇野などもそうなのだろうか。それを読んだ寿行の作品はその長野について書いてあったのだからそうなのだろうけど。うすらばかだからどうしても帰化人(=朝鮮人)のことを考えると九州から山陰方面を考えてしまう。
 赤ん坊時代に拾われ育てられたという設定のあずみは、目が青く色白で、父は白人であろうという設定になっている。作者・小山ゆうは、彼女に名前をつけるとき、「帰化人の郷、あずみ」を意識したのであろうか。

 和語・あずみに関しては今度chikurin先生に訊いてみよう。

 手元の辞書を引くと。
《あずみ‐の‐ひらぶ【阿曇比邏夫】アヅミ‥
古代の武将。六六二年、新羅(しらぎ)と唐とに攻められた百済(くだら)を救うために水軍を率いて出征、翌年白村江で唐軍に敗北、軍を収めて帰国。──広辞苑》

 とある。この武将に連れられて来日した朝鮮人がその縁から地名、和名にあずみを使ったのだろうか? 勉強してから続きを書こう。
03/12/12 いがらしみきおの天分

 東京からもってきたもののひとつ。ほぼ二十年前の作品群。全作品揃っている。「さばおり劇場」「しこたまだった」「ネクラトピア」等。それらの中の何冊かを明け方に眠る前のような半端な時間に読み返した。
 あらためて、とんでもない天才だと思う。行くところまで行ってしまっている。二十年前にやりつくしていた。その他大勢の4コマ、8コママンガとは発想の次元が違いすぎる。
 やるだけやったこの時点で一度筆を折り、これからどうなるのだろうと案じていたら、数年後あの「ぼのぼの」で新境地を切り開いた。すごいヒトである。まさに「天才と狂人は紙一重」の紙一重の刃の上に立っている。
 ミニネタとしては、志村けんの「だいじょうぶだあ」のコントに、いがらしからの盗作が目立ったものだった。お抱えの構成作家がネタ出しの時に提出し、志村は知らないまま採用したのだろうが、だれかひとり信者がいたのか、ずいぶんと盗用が目立ったものだった。
03/12/12 「カムイ外伝」を読み返す

 現在、田舎町の三カ所の図書館を渡り歩いている。町にひとつしかないから三町村となる。自分の町のところに毎日通っていたら不審な顔(?)をされたのでちょうどいい。自宅浪人なのか浪人生のようなのが数人来ているだけで、午後三時をすぎると勉強好きな中学生がやってきたりするが、普段は人がいない。私のような成人は目立ちすぎる。なんとか考えて三町村巡回(笑)を思いついた。
 図書館はどこでもサヨク系の巣である。なんでだろうなあ。日本てのはサヨクのほうがインテリと思われるからか。そういう品揃えが目立つ。

 ここ一週間通っている隣町の図書館に「カムイ外伝」があった。こういうのも係の趣味なのだろう(笑)。
 上記の写真をネットからもらうために検索したら(上のは発刊元の小学館から)、「カムイ伝」に関する中身の濃い評論が見つかった。アドレスはここ。興味のある人は読んでください。

 http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/hondat/view/kamui2.htm

 このかたの文章がいいのは、「カムイ伝」そのものを語るだけではなく、社会情勢に触れていることだ。中でも「日教組のバイブル」なんてところは鋭く笑わせてくれる。力のこもった名文に、私ごときがあらためて「カムイ伝論考」を書く必要はないと感じた。よって「カムイ伝」の感想文はパス。
 「カムイ伝──第二部」を、《白土師匠よ、ふぬけたか! 「カムイ伝・第二部」は「花のお江戸の釣りバカ日誌」》は見事な喝破である。「カムイ伝」一部が、マルクスレーニン主義による学生運動時代のものとするなら、それから二十年後に描かれた第二部は、それら反体制学生が体制に飼い慣らされ、すっかりマイホームサラリーマンになった現状だというのは、全くその通りなので笑うに笑えない。そりゃ白土先生も疲れたろう。

 私は「カムイ伝」も「カムイ外伝」も全巻リアルタイムで読んだ。60年代末期からである。もう四十年近くになるのか。「サスケ」や「影丸伝」の後に出てきた作品だった。
 本編の「カムイ伝」は、あまりにマルクス主義の影響が強く楽しめなかった。支配者をすべて悪とし、それに立ち向かう庶民(農民、小作人、非人、下人、エタ等)の善のパワーを中心にした物語は、いくらなんでも私には偏りすぎていた。だからこそサヨクのバイブルとまで呼ばれたのだろうが。
 嘘だよね。百姓一揆が、じつは自分たちよりも位がしたの非人溜やエタ部落を襲い、火を放ち、強姦しての、かなりレヴェルの低いストレス発散であった事実も近年指摘されるようになっている。これまた民主主義という怪物が、歴史をすべて自分好みに塗り替えた一面だ。
「カムイ伝」に出てくる武士は、みな権力を笠に着てとんでもないことばかりしている。そうじゃないだろう。資料が見つかり、当時の下級武士が、今現在のサラリーマンよりも、質素に倹約して清廉に生きていたことが証明されている。そんなあーた、無礼討ちだなんて武士が好き勝手に百姓を殺していたら国が成り立つものですか。そういう面からは、白土三平の作品は、悪質なサヨクデマゴギーになる。日本の漫画文化として最高の地位にいるこの作品は、見方を変えれば一種の「トンデモ本」でもある。

 一方それのサイドストーリィである「カムイ外伝」は、抜け忍であるスーパー忍者(戦いの武技はもちろん医学薬学心理学動物学知らないものはないゴルゴ13以上のスーパーマン)の放浪(逃亡)物語であるから、リクツ抜きに娯楽作として楽しめる。なにしろ柳生一門のような傑出した剣豪でさえ歯が立たないほど強く、現代のハリウッド特殊メイクでも不可能と思われる変身をあっという間にやってのけ、怪我人がいたら的確な応急処置をし、とあらゆることに精通しているのだ。あまりの荒唐無稽さに笑ってしまうほど。でも当時は笑っちゃいけなかった。それが「外伝」だと割り切れる。
 個人的には、鷹、犬、熊、猫との動物の絡みがたまらない。後にビッグコミックに連載する「神話伝承シリーズ」の息吹がかいま見える。笑うと言えば「忍犬」はたまらない。人間と同じように毒薬を仕掛けたり、口に手裏剣をくわえて飛び跳ねる様には、やはり笑ってしまう。そんなすごい犬がいるものか。白土三平の中で、マルクス主義から階級闘争を描くくそまじめな部分と、あまりに荒唐無稽なマンガ的部分は、どう並列していたのだろう。不思議でならない。

 仕事の合間に息抜きに読むだけなので(ほんとは仕事そっちのけで没頭したいが)、一日一巻ぐらいのペースだ。あとは手塚治虫の「ブッダ」が置いてあった。その辺の感覚もおもしろい。嫉妬深い手塚が白土を意識することによって「火の鳥」や「アドルフに告ぐ」を生み出していったのは有名だ。「巨人の星」が話題のころ、それに嫉妬した話も印象深い。
 しばらくは三つの図書館に置いてある「サヨク系マンガ本」で楽しめそうだ。
04/2/16


支那竹しなちく──気遣いの滑稽
 あたらしいハードディスクにソフトウェアを再々再々インストール作業を延々とする。
 バックに、クメのニューステが流れていた。正確に言うと九時からの「TVタックル」を見たまま(ハマコー、サイコー!)作業していたらいつの間にかニューステになっていたのだった。きょうのTVタックルはよかった。とてもテレ朝の番組とは思えない。視聴率が稼げるならなんでもやるってことか。それがたけしの賢さなら賞賛せねば。
 そうしてBGVとして流れていたニューステが40分ほど過ぎたあたりか、クメがかしこまった口調で「先ほどの番組の中で」とお詫びモードに入ったのである。なにかあったかなあと考える。こういうのってわかるものだ。たいした問題ではなくても、たぶん波風を立てないようあとで謝るんだろうなと気づく。
 いやクメの場合は、あまりにひどいことを言い、視聴者から抗議があってお詫びがあるだろうと待っていても言わなかったりする。なんといっても「日航機墜落」で500人以上が亡くなった数日後、生放送の「ぴったしカンカン」の最中に、外国でまた大規模の航空機墜落があったと速報が入ってきたとき、「二度あることは三度あると言いますが」とニコニコしながら言った男である。その無神経さに呆れた。しかしほんとに呆れたのはこの後で、視聴者から抗議が殺到して番組の最後に謝罪するとき、「なんか一部で失礼な表現があったようで」と、なんでおれが謝らねばならないんだとふてくされていたのである。あれには、この人は心の壊れているヒトだと思ったものだった。クメは他人の痛みがわかるヒトではない。ニューステで悲劇を報じるときのいかにもの顔を見ると、作ってやがると思う。
 そのあいつがかしこまっている。なにがあったのか!? クメは言った。「先ほどのラーメンに関するコーナーで、シナチクという放送には不適切な言葉遣いがありました。訂正してお詫びいたします。正しくはメンマでした。申し訳ありませんでした」だって(笑)。ふざけてんのかと思った。まじめに語る気にもなれん。とりあえずそんなくだらんものを見かけたとメモのつもりで書く。

 「人間交叉点(ヒューマンスクランブル)」というのはビッグコミック・オリジナル連載、矢島正雄原作、弘兼憲史画で一世を風靡した傑作だった。あれって70年代後期の作品か。いま読み返してみると──これはぼくが個人的に古い蔵書(?)を読み返すというより、最近いろいろな形の傑作選として復活しているのでコンビニ等で手にすることが多いという意味になる──矢島の左翼性がよく出ていてなるほどなと思ったりする。たとえばもう二十年以上前の作品なのにしっかりと「東中国海」と書いてあったりする。これはもう筋金入りだ。あのころはその異様さに気づかなかった。

 それは画を担当した弘兼さんもそうだったろう。小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」を描くことによって口先だけの心情サヨクから闘う民族派に変身していったように、弘兼さんもまた「加治隆介の議」を描きつつ自身の思想を確固たるものにしていった。この当時は弘兼さんも心情サヨクか。

 『美味しんぼ』の原作者・カリヤテツは、最初は食マンガに徹していたがやがて我慢できなくなりサヨク全開となる。作品には、「支那そば」とのれんを出す店に抗議し、知り合いの警部の力を使って「中華そば」に直させる一篇がある。この辺の自分の好みのものにするためには平然と国家権力でも利用するところにサヨクの異常性がよく出ている。彼らの築く国家が、理想の共産社会を目指しつつ結果として悪質な皇帝と同じになるのは理の自然だ。

 それにしても、支那竹と出演者のひとりがたった1回だけ言ったことを敢えて大仰にわびる感覚にうすらさむいものを感じる。たとえばそれは、足の悪い友人の前でついついびっこと一度言ってしまったことを泣きながら何度も詫びるようなものだ。そのほうがゆがんでいる。
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