2012
1/2  NHKの「閑話休題」──誤用はここまできている



 NHK-BSに「大逆転将棋」という年に一度の正月特番がある。1996年からやっているらしいから長寿企劃だ。私はBSを見られないので今まで見たことがなかった。今回友人に送ってもらったファイルで2011年度のものを見た。初体験。おもしろかった。1月2日、演歌歌手鳥羽一郎のおろおろした姿に噴きだしたのが今年の笑い初めとなった。私がテレビを見て噴きだすなんてめったにないから、かなりおもしろかったことになる。

「大逆転将棋」とは、プロの対局──しかも名人戦を始めとする重要対局──で、投了した局面から、プロ棋士と芸能人の将棋好きが対局を始めるというものである。今回初めて知ったので「である」なんてえらそうに言えないが。「らしい」にしよう。そういう趣旨の番組らしい。
 素人は勝った方をもつ。プロは負けた方をもつ。脱出不可能な必至がかかっていたり、15手詰め程度の追い詰めが見えていたりする。プロとしては逆転不可能な場面であり投了したのだが、「新聞棋戦の投了図から素人が指し継いだら勝敗が逆になった」とよく言われように、素人になると話は別である。この企劃はここから始まったのだろう。

 テレビ棋戦ではこのような場面はあまりない。ディレクターからの指示もあるのだろうが、ほぼ頭金にちかいところまで指す。誰でも投了図が納得できる。でも大きな棋戦では後々まで残る棋譜であるから、棋士は己の美学にそって負けを認めた時点で投了する。

 過去の放送の勝敗を調べたら、勝った側をもっているのに、芸能人がみな負けているのだった。



 鳥羽一郎で噴いたのは、このひと、おそろしいほどのヘボ将棋で、プロの勝った絶対的に優勢な局面から始めるも疑問手連発であっというまに逆転されてしまう。そこまでは他の出演者もそうだからいいとして、今度は追い詰められると角筋に飛車を逃げたりする。それに気づくと「あ、タダか!」とすでに指したのに手をもどしてしまうのである(笑)。スタジオに失笑が起きる。いわゆる待ったであり、縁台将棋ではよくある光景だ。しかしまさかテレビでそれを見ることになるとは思わなかったから私は噴いた。鳥羽の行為も、「あ、待った、ここ、待ったにしてくれる」なんて頼む縁台将棋によくあることなら、プロ棋士も「いえ、待ったは許されませんから」となるのだろうが、指しておいて、プロ棋士が指そうとしたら、「あ、これタダだ」とやっと気づき、駒をもどしてしまうのだ(笑)。棋士も苦笑するしかない。スタジオの失笑に気づいた鳥羽は、顔を真っ赤にして、棋士に小声で「すみません」と謝ったりしている。私はそういう鳥羽を見て思わず噴きだしたのだけど、それは決して意地悪なものではなく、なんともほのぼのとしたものだった。私も、たいしたことない私から見てもヘボなひとと数多く指してきたけど、一度指した手を、「あっ」と言って元にもどしてしまうひとは知らなかった(笑)。みな気づいても、さすがにそこまではしない。鳥羽のやったことは、ほんとにほんとにへぼな縁台将棋ではこんな光景があったんだろうなと昭和20年代、30年代を思い出すような、なんともほほえましいものだった。



 そしてまた、鳥羽のあまりのヘボぶりに、その後の芸能人の対局の時にも解説の神吉宏充(マイナー将棋指しのかんきひろみつを一発で変換するのだからGoogle日本語入力はえらい! 感動した!)が、「この局面でいちばんダメなのはこれですね。この手を指しちゃいけませんよ。これだとこうなって王様が取られてしまいます。鳥羽さんなんかやりそうですね」とからかったりするものだから、即座に鳥羽が「やりませんよ、いくらなんでも、ぼくはそんなのやりません!」とむきになったりして、それがまたおかしい。いやはや楽しい番組だった。今年2012年の正月番組にも鳥羽は出たらしい。去年の仇討ちだ。どうなったろう。そのうち見るのが楽しみだ。

 しかし全般的に、近年将棋に関わるようになった講談師の山崎バニラだとか、スポーツライターの二宮清純だとか、芸能界では有段者で強いらしい香田晋とか、いくらなんでも下手すぎる。私も年齢による棋力の低下に愕然としているのだが、それとはまた別次元。おそらくこの番組を見ている将棋ファンの90%以上は彼らよりも強く、そのヘボぶりを笑ったろう。でもだからこそ楽しいのだが。ああ、お天気予報の森田さんが出ていたが、このひとはかなりしっかりした将棋を指していた。
 というのは将棋に関する話で前振り。やっと本題。

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 画像の「閑話休題」である。正しくは「閑話休題、言帰正伝」であり、その字のとおり、「さて、脱線はこれぐらいにして、本来のテーマにもどりましょう」という意味だ。
 現在の政局を語っていて、つい最近の若者の流行り言葉なんてことに脱線したとき、また本来の政局の話にもどるとき「閑話休題」と使う。「おっと、ちょっと脱線してしまいました。元にもどりまして」だ。

 ところがしばらく前から(さてこの“しばらく”がむずかしい。何年前からなのだろう)この「閑話休題」を、「ここで一服」というまったく逆の意味で用いるひとが増えてきた。高島俊男先生が『お言葉ですが…』で取り上げたのでももう十年は経つか。読者からの御注進があって、高島先生が取り上げた例はアサヒシンブンのコラムのタイトルだったから事は重大だ。素人のかんちがいではないのである。この時点でこの勘違いはかなり浸透しているようだった。世の中には、「話は元にもどって」の意味である「閑話休題」を逆の意味で、「ちょっとここで一休み」と思っているひとがかなりいるらしい。私がそのことをこのホームページに書いてからでももう6年は経っている。

 私はそれでもそれはごく一部の勘違いだと思っていた。しかしこのNHKの「大逆転将棋」のこのコーナーを見ておどろいた。



 ここでの「閑話休題」も、《「大逆転将棋」という芸能人何人かがプロ棋士と対局するメインテーマを「ちょっとここでひとやすみ」して、気楽な将棋よもやま話でお楽しみください》という使われかたである。誤用はここまで来ていた。おそらくこれもこの番組は17年ぐらい続いているのだから10年ぐらいはやっている名物コーナーなのだろう。そしてこうして続いているということは、制作しているディレクターが勘違いしているのはもとより、将棋ファン視聴者からの抗議もないのだろうし、現場にいる棋士たちも不思議とは思わないのだろう。なんともおそろしい時代になっている。国営放送が誤用を先導しているのだ。

 おそらくこの勘違いは、「休題」にあるのだろう。本来の意味は「題を休んで脱線していた閑話はここで終り。本題にもどります」という意味だが、今では「ここですこし本来の題を休んで閑話をしましょう」と誤解されているのだ。

 閑話休題の誤用はネットのブログでしばしば見かけていた。へんなひともいるものだと思っていたが、ことばは多数決のものだから、もうこんなことを書いている私のほうがへんなひとになるのだろう。いやはやすごい時代だ。

 浅田次郎の「私淑」

 それはさておき閑話休題
1/6

 新党きづな改名騒動──「きずな」から「きづな」へ

 民主党を抜けた9人が「新党 きずな」を結党した。その後、党名を「きな」から「きな」に改める。
 きづなが正しく当然の改名なのだが、これを扱った2ちゃんねるスレを見ると、そのことを知らない人も多いようだ。なんともイヤな気分になるのは、民主党嫌いがそのことからこの件を否定していることだ。それとこれとは別問題である。



 いま2ちゃんねるで唯一たまに書きこんだりするスレがある。テーマは<きっこさん>だ。先日、柳美里を持ちあげているものがあった。有名人大好きの<きっこさん>は一時柳美里と仲よくなりそうになった。どっちがどうなったのだったかヘビとナメクジの話なのでどうでもいいが、流れ的に柳美里が<きっこさん>を嫌い、<きっこさん>がフォローしようとしたが柳美里はツムジをまげたまま、というような状態になっている。らしい。そのことで柳美里を評価する書きこみがあった。







 投稿はふたつあるが投稿者は同じ。こういう解釈はへんだ。気分が悪いので思わず書きこんでしまった。







 柳美里という醜悪な在日朝鮮人に関しては書く気にすらならない。いくら<きっこさん>が嫌いでも、だからといって柳美里を「さんつけ」で持ちあげる感覚はおかしい。なあにが「作家の観察力と嗅覚」だよ(笑)。最も信じられない輩はこんなタイプである。
 敵の敵は味方だが、敵の敵でも敵である場合も多い。じゃあ柳美里が<きっこさん>になつかれてふたりが仲よくなり、お互いに絶賛しあうようになったら、このひとは今度はなんと書くのだろう。「柳美里さんは作家の観察力と嗅覚できっこを評価したみたい。さすが」とでもやるのか。
 その可能性は大いにある。ふたりとも日本を貶める狂気の反日分子としては共通なのだから。
 このスレには期待が大きい分、この書き込みにはしらけた。これ以後不快でしばらくこのスレを離れた。といっても三日間だけだったが(笑)。

 と書いて思いだした。以前このスレに上野千鶴子信者が現れたことがある。なんでこんなのがこのスレにやってくるんだと不可解だったが、この書き込みはそれと同一人物かもしれない。ところで以下「ず」と「づ」の話をするのだが、上野千鶴子は自分の名を「ちずこ」と書くのか。「ちづこ」ではなく。鶴(つる)が濁って「ずる」なのか。



 民主党の落ちこぼれというか、泥舟から逃げだした小狡いヤツというのか、そういう連中が新党を作った。そいつらの結成する新党など興味はない。そもそもこのネーミングは最悪だ。まったくもって興味のないどうでもいい話になる。

 でも「きな」と「きな」の表記問題には興味津々。以下、2ちゃんねるのスレを拝借。いらない部分は削除した。削除の大部分は「民主党のカスどもが」という悪口。それは私も同じ。でもそのこととコトバへの興味は別物。

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1+7 :ゴッドファッカーφ ★ [↓] :2012/01/04(水) 00:20:15.01 ID:???0 [PC]

 民主党に離党届を提出した内山晃元総務政務官(千葉7区)ら衆院議員9人は3日、国会内で会合を開き、党名を「新党きづな」とすることを決めた。当初は「きずな」とする案もあったが、最終的に「きづな」に落ち着いた。代表に内山氏、幹事長に渡辺浩一郎氏(比例東京)、政調会長に斎藤恭紀氏(宮城2区)がそれぞれ就任することも決まった。4日に総務相に結党を届け出るとともに、記者会見を行う予定だ。

*+*+ YOMIURI ONLINE +*+*



6+2 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 00:24:09.14 ID:pUBIgQid0 (1/5) [PC]
> 絆の語源は諸説あり、「頚綱(くびつな)」「騎綱(きづな)」「繋綱(つなぎつな)」の意味、
> 「引綱(ひきつな)」の上略など、動物を繋ぎとめる綱という点で共通している。

「きづな」とは、動物を繋ぎとめる綱、かあ。

 もともと「綱」だから、本来の意味がそうであるのは当然。かな表記も「きづな」が正しい。



106 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 00:55:42.59 ID:9z+oY3cIO [携帯]
つくづく年寄りどもってセンス無いなあ

こんにちは→こんにちわ
すみません→すいません
みたいな改悪だろこれ

ぜんぜんちがうよ(笑)。年寄りどもがセンスないんじゃなくてアンタが頭悪いだけ。

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298 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 03:41:13.91 ID:KiQGJEDB0 (2/2) [PC]
地震(じしん)→ぢしん
融通(ゆうずう)が利かない→ゆうづうがきかない
世界中(せかいじゅう)→せかいぢゅう
訪れる(おとずれる)→おとづれる
躓く(つまずく)→つまづく
力ずくで→力づくで
鬼退治(おにたいじ)→おにたいぢ

 わかっているひともいる。こういう正しいかな遣いにもどる日は来るのだろうか。私は小学生の時の夏休みのドリルで、こういう形のフリガナにしてバッテンを喰らった怨み(笑)がいまだに消えない。どう考えても私が正しい。地球(きゅう)なのに、なんで地面(めん)になるのだ。

 ひとは、生きて行くために妥協する。妥協した自分を傷として抱えて行く。私は納得できないまま、それでもテストで点数を取るために「じめん」と書くようにした自分をいまだに引きずっている。
 高島俊男先生が「絆」を「きずな」の「すな」で分類している「逆引き広辞苑」のおかしさを指摘してくださったとき、長年の悔しさがやっと晴れたものだった。



300 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 03:48:32.62 ID:JRkftkmF0 [PC]
旧かな遣いを復活させればいいのにね
日本語の乱れはかな遣いを壊したGHQに雇われた敗戦利得者によるところが大きい

 2ちゃんねるのどうでもいいスレでも、きちんとしたかたはいる。うれしいことだ。正にこれは敗戦によって狂った一例だ。

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306 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 04:37:21.69 ID:ZYgKpHDP0 [PC]

うわーこれ投票の時に年寄りが間違えるぞ

 バカ。こういう見当違いがいちばん嫌いだ。年寄りはまちがえない。年寄りは「きづな」と書く。分派した民主党の連中がこだわったのも、良識ある年配者は「きづな」と書くのではないかと気づいたからだろう。



330 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 06:30:59.55 ID:5GsgZcAS0 [PC]
ちょっとカムイ伝思い出した…

新党いづな落とし

 カムイの「飯綱落とし」が出て来たのはコミック好きとしてはうれしい。しかし思うのだが、それを知っているのはかなりの高齢のはず。「飯綱落とし」を知っている最少年齢っていくつぐらいだ? このあとも何度も出て来た。何歳のひとが書き込んでいるのか。

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349 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 07:42:17.49 ID:II4QykC/O [携帯]
ずとづで悩むくらいなら漢字で書きゃいいのに。

 そういうことじゃない。

377 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 08:10:01.87 ID:jPqq43w80 [PC]
だいたいこういうのは、占い師だの鑑定士だのに見てもらったら「づ」が良いと言われたってパターンだ。

 だから、そういうことじゃないんだよ!



400 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 08:33:23.01 ID:jc11V7z90 [PC]
いじわるよりいぢわるのほうが萌えるってのと同じレベルですね

 ちがいます。

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439 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 10:16:42.01 ID:bNZOWwNd0 (3/4) [PC]
民主党ばかづら(バカ面)といったら怒るやつも半分くらいだろうけど

民主党バカずらといったらある地方の民主党員はみんな怒るとおもうけどな

言葉って大事だね

 いいセンスずら(笑)。静岡方面か。銭ゲバ。

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515+1 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 13:11:27.19 ID:T2qJK9d40 [PC]

きずななら変換できるが

きづな
なら
木津なになる

きづな

きずながただしい

 こういう書きこみも多い。正否の判断基準を「ワープロで変換できるかどうか」にしている。困ったもんだ。
 高島先生が「辞書のまちがいを指摘しても、みな辞書を絶対的に信じているので、こちらの意見を聞いてくれない」と嘆いていたことを思い出す。
 歴史ある高名な辞書でもまちがいは多い。ましてIMEはただそこいらのコトバを掻き集めただけのしろものでしかない。画一的な規定にしたがっているだけだ。それは最もすぐれているATOKで変換できない差別用語を確認すればすぐにわかる。こういう意見はかなしくなる。あまりにお粗末。




557+1 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 14:35:13.54 ID:aH9d1nfl0 [PC]
これな、いかにミンスがバカかよくわかる話だよ。
本来絆は「きづな」

ただし 「国」の決定で発音でず、づになるものは「ず」を使うって決めたわけだ。
つまりこいつらは国家の法の体現する仕事にもかかわらず、それを踏みにじってるわけだな。

まあミンスな時点ですでに論外だが

 これは冒頭に書いた「柳美里を認めるひと」に通じる。このひとは絆が本来は「きづな」であることを知っている。でもミンスが大嫌いだから、国が決めた「ず」にしたがわないミンスを否定している。私も大嫌いなミンスだが、この件に関してはさからうミンスを支持する。



636 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/04(水) 18:08:43.82 ID:M9fKhNhI0 [PC]
広辞苑には「きずな」しか出ていない。
大修館の「新漢和」には絆の意味のなかで「きずな(きづな)」とある。

こんな定着した「きずな」を、語源に従って変えるって?
お前ら、国語政策も語源に従うのかよ…馬鹿だw

 広辞苑にも私の愛用している第4版には「きづな」がある。広辞苑は新版になるほど存在しなかった「従軍慰安婦」とか下劣な「ドタキャン」とか、どうでもいいコトバを載せて品位を落としている。「きずな」が、どれほど定着しているのか知らないが、直すべきものは直さねばならない。この意見は「ここまで定着している憲法を今更いじるのかよ。馬鹿だ」と言うのに通じる。まことにみっともない意見。民主党嫌いとそのことは別の話。こいつこそバカだw



683 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 19:31:29.65 ID:ZcM7zIdF0 (2/4) [PC]
こういう「つ」の使い方は、今時だと白痴っぽくみえるんだけどなぁ。

 いや、白痴っぽいのはあなたです。



706 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/04(水) 20:16:10.45 ID:VzprfLIz0 [PC]
×ひずめ
○ひづめ

 これはそう。蹄に「爪」はないけど、爪関係だから「ひづめ」。

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795+1 :名無しさん@12周年 [↓] :2012/01/05(木) 20:22:57.24 ID:569bxjvu0 [PC]
「きづな」 とか 「きずな」 は、昔、日教組全盛期に教育委員会を牛耳ってた頃、ぢ→じ  づ→ず  に統一しましょう って決めたから。

一番良い例が 政治
もともと「せいぢ」だった。ちあんの 治なので 濁音になると「ぢ」になるわけ。そういうの多いよ。

まぁ どちらにしろ元民主党だから、どうでもいいけど。

 正論!

799 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/05(木) 20:36:03.40 ID:Q0VsOPEx0 [PC]
>>795
国府津 こうづ
縮む ちぢむ
真鶴 まなづる
小槌 こづち
蟻塚 ありづか
馬鹿力 ばかぢから

やっぱり譲れないのはある

 そう、譲れないものがある。たとえ横峰の参加している民主党のクズの集まりに関するどうでもいい話でも。

803 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/05(木) 21:24:26.33 ID:Uf5xa63i0 (2/2) [PC]
大地 だいち
なんだから
「ぢめん」で「ぢしん」なんだよな 元々

漢字だって新字にして意味なんてなくなってきてる

820 :名無しさん@12周年 [] :2012/01/06(金) 17:27:46.90 ID:wtonbl4t0 [PC]
歴史的かな遣ひの方を採用したら無學の人達に頓珍漢なツッコミをされてしまつたの図(圖:づ)

 少数とはいえわかっているひともいるのだと安心した。たぶんにそれは若い人である。暗闇に光を見た。

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 すぐに消えて行く政党だろうし、まことにもうどうでもいいのだが、ともあれ「きづな」を「きずな」にしたのではないことはよかったと思う。そしてまたちいさな話題ではあれ、こういう波が起きたのはいいことだ。話題になれば気づく人もでる。
 この問題が解決されることはあるのだろうか。すぐにでも改正出来ることなのに。

 治癒(ちゆ)、治療(ちりょう)なのに、政治になったら「せいじ」。地球(ちきゅう)、地理(ちり)なのに、地面は「じめん」。こんな矛盾でこどもを悩ませるならスッキリ改正した方がいい。こどものころ私が苦しんだように今も悩むこどもはいるはずだ。だって筋が通っていないのだから。まともだったものを改悪した弊害なのだから。

 送りかなへのこだわり──終るは終らない

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【附記】──1月21日のブログの文

 ブログに以下の文を書いた。本物を見るとほっとする。


1/23
 誤用「号泣」が多すぎる──号泣とは声をあげて泣くことである!



把瑠都、全勝V逃すも母、新妻に感謝の号泣

13日目で悲願の初優勝を決めた大関把瑠都が、土俵上での優勝インタビュー中に号泣した。(デイリースポーツ)


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 いくらなんでも誤用の「号泣」が多すぎる。「号泣」で検索すると、あっちもこっちも号泣ばかり。

ごう‐きゅう【号泣】ガウキフ
大声をあげて泣くこと。「悲報に―する」(『広辞苑』第4版)


 検索で出てくるタレントに関するそれらのいくつかには私も見聞したものがある。過去の苦労話をしていて、感極まり、ことばにつまり、そっと目尻を拭ったりする。それだけだ。涙すら見えない。ただ目尻を拭ったので泣いたのかな、という感じ。なのにそれが「たかじん、号泣!」なんてタイトルになっている。おかしいよ、日本語が。

 号泣とはその文字からもわかるように「大声をあげて泣くこと」だ。「おーいおいおい」と、あの朝鮮の葬式の泣き女のように、声をあげ、身を震わせて泣くことだ。目尻の涙をそっとぬぐったり、まぶたを押さえたりするのは号泣ではない。声をあげまいと唇をかみしめ、滂沱と涙が頬を伝うのも、どんなに水量が多くても号泣ではない。号泣と使う場合の必須条件は「声」だ。声をあげることだ。

 上記把瑠都も、最初はそっと目尻を拭うだけだった。さらに拍手と歓声で盛り上がり、国技館に来ていた母親と奥さんが手を振ったりしたものだから、頬を涙が伝っていた。しかし声は出していない。假に把瑠都が「ウッウッ」と声を出したとしても、それは「嗚咽を漏らした」だ。「号泣」ではない。
 素人ブログならともかくマスコミ人として、記者として、あまりにコトバに雑すぎる。

 自称「美しすぎるニポンのブロガー」とかも、PCでアニメを見ては毎日のように<母さん>と抱き合って「号泣した」を連発している。とてもとても俳句の素養のある日本語に厳しいひととは思えない使いかただ。頻繁に「涙が止まらない」状態になるようだから情動失禁を病んでいるのだろうし、彼女(笑)はほんとに一日に何度も「号泣」しているのかもしれないけど。

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 私が今までの人生でいちばん泣いたのは、まだ目も開かない状態のときに捨てられていたのを拾い、トイレから教え、哺乳瓶で育て、16年間暮らした、私にとって最高の友であり息子であり恋人であった猫の死だった。よくある猫の死のようにある日目の前から突然消えないでくれとくどいほど言い聞かせて育てた。

 何度かの大病があったが、それでも強く生き抜き、天寿と呼ばれる齢までになった。食欲不振なので毎日獣医に通い点滴を打っていた。私は私の猫は二十歳過ぎまで生きてくれると思っていた。信じていた。
 医者から、血管がぼろぼろだし、もう寿命です、点滴も受けつけませんと死の宣告をされた。腎臓が悪くて水分が取れないのか、毛並みも肌もパサパサになっていた。
 数年前、腸の病気をして大腸を切り取ってからは自分で排便できず、私がお腹をもんで、しごくようにして排便させていた。私が外国に行っているあいだは、父母が二日に一度獣医のところにタクシーで行き、排便させてもらっていた。あらためて親の恩も思い出す。

 動けなくなる前、彼はゆっくりと家の周囲を散歩した。思い出の地を一歩一歩かみしめるようだった。私はそのまま消えてしまうのではないかと、よろよろと歩く彼の後ろを遅れて着いて回った。
 事実、金沢の友人が育てた彼の妹は、その一年前、同じような形で消えたという。友人も家の周りをゆっくりと散歩する老猫を案じ、後をつけたそうだ。彼女はそんな友人を「着いてこないでよ」とでも言うように何度もふりかえったという。ほんの一瞬、目を離した隙に消えた。だから友人は愛猫の死を目にしていない。

 彼は約束を守ってくれた。確認するように、家の周りの、田んぼや畑を、竹藪を、小学校の校庭を、ゆっくりと一周し、家にもどった。
 その夜から動けなくなった。トイレに行こうと立ち上がろうとしても腰が砕けてしまう。その気配を知ると私が抱きかかえてトイレに運んだ。
 それから一週間、老衰で水も食事を受けつけなくなり、昏睡状態に陥り、5キロあった身体が骨と皮になって、私の腕の中で息絶えた。2000年1月10日、午前3時10分。私は一週間、ほとんど寝ていなかった。1時間程度の細切れ睡眠だ。眠っているあいだに逝かれたくなかった。だが、逝かれた。2時半までは覚えている。いよいよそのときが迫っていた。彼の心臓はトクトクトクトクと早鐘を打つように速くなっていた。水さえ飲まずそこまで生きただけでも奇跡だった。一瞬私の意識が消えた。眠ってしまったのだ。目を覚ます。心臓が止まっていた。時計を見た。3時10分だった。そのときの私の姿は文字通りあの朝鮮の泣き女だった。死骸を抱きしめ、ヒーヒーと声をあげ目を真っ赤に腫らし身悶えして泣きじゃくった。あいするものに去られることがこんなにかなしいのかと思い知った。それまでにももうさんざん泣き、覚悟していたのに、命の炎が消えるとはこんなにもかなしいのかと知った。
 鏡を見ると泣きはらした顔のみっともない自分が映っていた。私は猫の遺体を抱いた自分をデジカメで撮った。もうこんなに泣くのはこれだけにしようと思い、それでも泣いた。あとからあとから涙があふれ出た。
 私の猫も、猫らしく死んだのだと思う。彼はきっと私の眠るときを待っていたのだ。スッと姿を消して、猫らしく、消えたかったのだと思う。だけど私との約束があるから、それはしなかった。でも最後の最後、死ぬ瞬間だけは私にも見せたくなかったのだろう。だから私が疲れ果てて眠るのを待ち、その瞬間に逝ったのだ。

 私は猫を抱き、階下の父母のところに行った。父母ももう私の泣き声からそのときが来たのだと起き出していた。猫は父母に迷惑も掛けたがかけがえのない安息も与えてくれた。母は、年に一度しか会えない(会いに来ない)孫などより、私の猫のほうがよほどかわいいと言って溺愛してくれた。

 後に母から聞いた話によると、隣家(田舎だから敷地も広いしだいぶ離れている)では、深夜のただならぬ気配に、私の家でなんかとんでもないことが起きたらしいと噂したと言う(笑)。私は文字通り大声で泣いたのだろう。本人としては、それはみっともないと唇を強くかんで「嗚咽」のつもりだったが、「号泣」だったのかもしれない。

 四年後に、同じく医者から「長くても半年」と死の宣告をされた父が、老衰し、点滴を受けつけなくなり、やがて意識を失い、骨と皮にやせ衰えて死んでゆく姿は、彼の死に行く姿と同じだった。七年後の母もまったく同じだった。彼は死に行く姿を教えてくれた。まるで親の死に動じるなと身をもって教えてくれたようだった。
 だから私は両親の死を「号泣」することなく迎えられた。彼が教えてくれたのだから、あれは一度きりとして、男として、決してもう号泣してはならないのだと思った。



「号泣」とは、テレビ番組を見たりしてするものではない。
 テレビ番組を見て泣く場合もあろうが、それは決して「号泣」ではない。安易に使うことばではあるまい。

 私はこのあとは順番通り妻子に送ってもらいたい。妻子を先に亡くすような試煉だけは許して欲しい。
 親の死でも耐えたのだ。また号泣するようなことはしたくない。号泣は一度だけでいい。

 あの世にいったら彼に会いたい。また彼に会えるのかと思うと、一緒に暮らせるのかと思うと、私にとって死はすこしもこわいものではない。むしろ甘美な誘惑だ。この感覚も問題だが。


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