2007
5/29
首相の言った「慚愧」

 5月28日午後、松岡農水省が自殺した。その日の夕方、安倍首相がテレビカメラを前にした会見で「慚愧に堪えない」と発言した。
 リアルタイムで見ていて、とっさに「あ、間違えている」と思った。といってうすらバカであるので自信はない。急いで辞書を引いた。慚愧は「恥ずかしい」という意味のはずだ。やはりそうだった。
 まさか「あんなのを登用したことが恥ずかしくてならない」の意味で使ったのではあるまい。

 このことばの誤用で真っ先に思い出すのはリュウ・ミリとかいう在日朝鮮人の左巻き作家が文章の中で使った誤用である。まああまりに有名なので引用はやめる。大嫌いな女が誤用したからといってざまあみろとは思わなかった。形として残ってしまうから恥ずかしいなと感じただけである。嫌いな人が恥をかいてもそれは気にならない。
 しかし支持している自民党の首相がやってしまったのだから目を覆いたくなる。

 Googleサイドバーの機能にメモ欄があって重宝している。そこに「首相 慚愧」とメモして新宿の飲み会に出かけた。あとで書こうと思った。

 29日。このことを書こうとPCを立ち上げ、どこかで話題になっているかと探した。検索下手なので苦労するかと覚悟した。が、2ちゃんねるの「ニュース速報」ですぐに見つかった。

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首相コメント「慚愧に堪えず」、「残念だ」の間違いか

 安倍首相が松岡農相の自殺について、「慚愧(ざんき)に堪えない」と述べたことについて、「『残念だ』という意味で使ったのであれば、間違っている」という指摘が出ている。

 「慚愧」は「恥じ入ること」(広辞苑)という意味だからだ。首相周辺は「最近は反省の意味でも使われており、問題はない」としている。(読売新聞)


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 読売新聞が大きく扱っていた。すでにスレは飽和状態だった。他社も同様に取り上げたのだろうか。
「柳美里も裁判に負けたときにおんなじ間違いしてたよね」という書き込みがあった。
 そうか、あれは「石を泳ぐ魚」裁判のときの発言だった。敗訴したことに対して「悔しくてならない」の意味で「慚愧に堪えない」とあの女は書いたのだ。知り合いの特殊な容貌の人をモデルにして書いたひどい小説だった。負けて当然である。

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 首相の発言を生放送で見たことは大きい。文字でしか知らないと単なる揚げ足取りの言葉遊びになってしまう。
 私は生放送で見たから断言できる。これは首相の明らかな誤用である。首相は「残念だ」と言おうとした。「慚愧に堪えない」がそういう意味だと間違えて覚えていて、ああいう場で使ってしまった。それだけである。しかし立場のある人はまちがいを正せないのだろう。《首相周辺は「最近は反省の意味でも使われており、問題はない」としている。》は苦しい。でも立場上しかたないのか。

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「朝日は皮肉ってるのか?」という書き込みを見てアサヒシンブンに行ってみる。


■「任命責任感じる」

 衝撃の大きさを隠しきれない様子だった。

 28日、首相は松岡氏の自殺について「残念だ。慚愧(ざんき)にたえない」と記者団に繰り返した。「任命責任の重さを改めて感じている。私は松岡大臣の任命権者。当然、責任を感じている」「有能な農水相だっただけに、政権への影響は大きい」とも語った。

 慚愧の意味は「恥じいること」。首相周辺は「こういう結果に至ったことへの自らの責任を、この言葉に込めた」と解説する


 なるほど、さすがはアサヒである。人の失敗はこういうふうに利用するのか。勉強になる。
 読売新聞の記事に対し「揚げ足取りをするな」という書き込みがあった。たしかにそんな感じもする。でもこのアサヒの記事を読むと、読売は単に誤用に関して指摘しただけだとわかる。
 そこにこのアサヒの記事である。この底意地の悪さはどうだ。首相が言葉を誤用したことを承知の上で、そのことには触れず、あえて本来の意味の「恥じ入ること」を用いて首相に恥をかかせている。
 読売は揚げ足を取った。それだけである。ところがアサヒは揚げ足をさらに高く上げさせ、おろさせないようにして恥をかかせている。いやはやこの意地の悪さはすごい。
6/5
ATOK錯乱!


 OSが固まった。動かない。どうしようもない。毎度のことだ。しょうがない。あきらめて電源を切る。電源を入れて起動する。

 するとOSが消えていた。ショック。いやOSはある。だが難渋時間も掛けて築きあげてきた私固有の設定はみなふっとび、初期状態になっていた。ATOKも消えMS-IMEになっている。その他インストールしておいたソフトはみな飛んだ。ファイルとしてはあるのだがレジストリが飛んでいるからみな入れなおさなければならない。これが「固まった」「電源を切る」「再起動」の一瞬で起きるのだからMSのOSはおそろしい。こんなものが何万円もの商品として流通している。

 とはいえこれも初めてではない。先日経験している。PC事故のオーソリティだ(泣)。そのときはあまりのショックに腰が抜けた。だってたいへんな時間を掛けてこつこつと作り上げてきたOS環境が一瞬にして消えたのだ。初めての大ショックだった。今までも数え切れないほどOS再インストールはしている。でもそれは不都合が頻発するようになったからとか、ハードが壊れたからとか、あきらめざるを得ない理由があった。それがない。ただ固まったから電源を切り、再起動させたら消えていたのである。なんとも無惨な話だ。

 それでも気を取りなおしてせっせと復仇に勉めた。何日も掛けてやっともとの状態にもどしたのに、それから荷週間ほどでまたこんなことが起きた。たぶんまた荷週間ごには起きるのだろう。最早達観の神鏡である。

 しかしそういうあらゆるMSOSの自己を体験し慣れているつもりの私にもとんでもない初体験が舞っていた。ATOKの錯乱である。

 すべてのスタートアップも消えてしまった。サウンド設定も飛んでしまった。私は貴堂音シテ記音凡てお麩にしているのだが、それらもみな初期状態にもどる。だからすごいデカい音で貴堂温雅成り、急いでスピーカーをお麩にする。
 すべてが飛んだようで残っているものも幾つか或る。ディスプレイ設定は飛ばない。それはすくいだ。解像度とデュアルディスプレイ設定は生きている。

 気を取りなおし、まずは私にとって最も重要なATOKを入れる。それからブラウザをインストールし、(お気に入りもみな消えているから)献策して愛用のソフトを捜して入れてゆく。
 するとその肝腎要のATOKが狂っていたのである。これは初体験だった。こんな形で事故にあったとき、私が最初に入れるソフトはいつもATOKである。正しくは『一太郎』になる。私はいま『一太郎』を使わないけれどヴァージョンアップ版の『一太郎』もATOKもほとんど同じ値段なので『一太郎』を買い続けている。
 ATOKを入れてデフォルトで入っている大嫌いなMS-IMEを削除することがこういう字体出会したとき真っ先にやることになる。そのATOKが狂っていた。なにがどうなったのか。

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 それから数日経ち、だいぶ私の好みに合わせて洗練されてきた。上記の文はいま書いたものだが、それでも上記のようにかなり狂っている。治ってなのである。挿れた島嶼はもっともっとひどかった。あまりの腹立ちにそのとき記録した文がある。(とうしょ=島嶼とはちいさな嶋野ことであるらしい。なんでこれが当初や投書より先に出るのか……)。
 そのときのニッキ

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ATOKが完全にバカになってしまっている。どこでどうなったのか人名優先になっていて以前と同じIMEとは思えないほどひどい。これから洗練されてゆくまでの時間を思うとうんざりする。しかし先日のクラッシュでもここまではひどくならなかった。どういうことだろう。
いまも「じかん」で、「時間」よりも先に「字間」「次官」が出る。そんな莫迦なことがあっていいのか。「さき」も女の名前が立て続けに出て「先に」に変換するまでなんどキィを捺したことだろう。まいった。どう考えても優先順位が狂っている。

でも設定を調べるとなっていない。まあこれも再伸、最深、再診、砕身、再審、細心、最新のATOKにすれば直るのか。ああああああ、なんで「最新」を出すのにこんな使ったこともない多くのサイシンを出さねばならないのか。なんど変換キィを捺させるのだ。世の中には「最新」より「再伸」を使う人の方が多いのか。意地悪しているとしか思えない。並べる順序が逆だろう。
長年使っているATOKにこんなに腹立ったのも初めてだ。変換がまともに行かないと文章を書くことがこんなに不愉快だとはしばらく忘れていた勧角である。だって。なんだよ「勧角」って。感覚より先になんでこんなものが出る。いらいらして書いていられない。


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 このときの不愉快は格別だった。なにしろ初体験である。いまもたいして変っていない。PCをぶち壊したくなったのはいつ依頼だろう。ちょっと記憶にないほどだ。そりゃあむかしのFEPはひどかった。フロッピー1枚の時代。白字書なんてのが逸ったほど御返還がひどかった。だがそれは黎明期だ。文節変換は未だ出来てない。単語を変換し、助士を入れ、また単語を変換する時代だった。当時はしかたない。時代が違う。いまなぜこんなことが起きたのか。

 気味が悪いのは私は何もしていないということだ。PCが突如偏重しOSがいきなり初期状態にもどった。それはまあMSのOSだからそんなこともあるだろう。だがそこから清紀に再インストールしたATOKの変換効率がなんで狂わねばならないのだ。そこが理解できない。
 今までもこれを遣るとATOKは初期状態になった。松百に再インストールするのだから東漸だ。私の多用する競馬の「単勝」を出そうとすると必ず「嘆賞」が真っ先に出た。それを飼い馴らして「単勝」が最初に出るように育ててゆく。それには慣れていた。だが今回の乱臣はそれとはまた違う。かつてないほど意味不明の変換を濫発するのだ。こんな気味の悪いATOKに接したのは初めてである。

 これで設定が「人名優先」になっているのならまだ納得できる。直すことも出来る。だが現実にそうなのに設定を見るとそうではない。
 変換はあきらかに逆になっている。つまり「じかん」を変換しようとしたら、最も使わないに「字間」「次官」「時間」と出るのである。これもATOK使いの達人なら設定で変更できるのかも知れない。私は今までこんな目にあったことがないので対処法を知らない。

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 MSのOSの錯乱は毎どの事である。所詮MS清貧はこんなものと割りきりLinuxに引っ越そうと思っていた。だがATOKへの愛着は別物だ。唯一自分になびかないJust SystemをMSはIMEをただにすることでつぶしにかかった。遊猟のIMEが無量でついてくるのだ。ATOKを売って生活しているJust Systemのショックはいかほどであったろう。私はJust Systemを支持した。ATOKを買い続けることでMSの戦略を拒んだつもりだった。勘定的な物だけではなくATOKを使ったらもうMS-IMEなど使えない。能力が違う。

 しかし時代は変っている。H子山にPCをあげたときATOKを入れてやった。感謝されると思っていた。だが膾炙でMS-IMEしか使ったことのない彼女は使いづらくて困っていたと知る。絵画教室のジョシュの娘が使いづらくて困ると嘆いていることを知って私は彼女のPCからATOKを削除した。かなしかった。そんな時代でもある。今の世の中みな無量のMS-IMEを使い、遊猟のATOKなど知らない世代も多いのだろう。IMEの使いかたもMS-IMEが標準なのか。

 なんでATOKにこんなことが起きたのだろう。「MS-IMEの鈍い」と介錯するしかない。一瞬にしてすべての設定が消え、OSを入れたときの初期状態にもどってしまう。これだけでも信じがたいが、きっちり削除したはずのMS-IMEが復活して、「ここは私の場よ」と腫脹しているのだ。つい数分前間でまともに動いていたATOKは一瞬にして消えている。再インストールしても、その変換効率はまるでMS-IMEのような気が狂ったかの誤変換の連続である。やはり「MS-IMEの鈍い」なのか。

 PC事故に冠してはオーソリティと自負しているがこんなショックは初めてである。

6/10
 ATOK辞書大削除

×ATOK錯乱紊乱狂瀾
 上記のような形の、今まで経験したことのないATOKの事故が発生した。事情はわからない。その修整法も知らない。しかたないのでそのまま使っている。今も「じじょう=事情」を出そうとしたら磁場、二乗、自縄、自浄、治定、辞譲と出て、そのあとにやっと事情が出て来た。どういう順番で並んでいるのか。将器とは思えない。これも「正気」を出そうとすると、将器、鍾馗、笑気、沼気、匠気、小器、勝機、商機、詳記のあとにやっと正気が出て来る。普通に現代文を書いている人で「将器」なんて使う人がいったいどれほどいるのか。なにを考えているのだろう。気が狂いそうである。
 私がこのソフトをより便利に使おうと思っていじくりまわし、なにかよけいな匝瑳をしてしまったというのならわかる。すごいな、匝瑳だって。匝瑳、走査、捜査、操作でやっと操作が出る。しかしそうではない。或る贔屓なり、ある日いきなりPCが壊れて日本語入力ソフトまで狂ったのだ。その流れがこわい。

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 しかし起きたことをいつまでも悔やんでいてもしょうがない。時間は掛かるが分掌を入力して行くたびに憶えさせて行けば、何ヵ月後かにはまともになるだろう。分掌はもちろん文章である。辞譲に分掌、将器、匝瑳のようにふだん使わない単語が表示されることも、そう思えば勉強になる。

◎辞書改造
 これをきっかけにATOKの辞書から使わない単語の削除をすることにした。長年ATOKを愛用しているが本格的にはやったことがない。部分的には毎日やっている。たとえば「たんしょう」である。私の使うのは競馬用語の「単勝」がほとんどだ。だからその他のまず使うことのない「嘆賞」「炭床」「探勝」「短小」等を削除してしまう。そういうふうに入力のついでに削除してきた同音異義語がいくつかある。たぶん二百、三百程度だろう。
 それは今後も粛々とやり続けて行かねばならない。それとは別に使うことのない不要な単語が何万も入っている。以前からそれを削除したいと思っていた。でもその方法を知らなかった。ATOKの学習能力というのは優れているのでこちらがそういう単語をあまり使わないとわかると速やかに優先順位を変えて対応してくれた。だからさほど深刻でもなく、削除方法を憶えることもなく今まで来てしまった。
 しかし今回はちがう。こんな狂ったATOKを信頼することは出来ない。

 使わないので削除したい何万もの不要単語、まずは人名である。
 昨年半年ほど友人の代理でデータ入力の仕事をした。アルバイトである。そのとき初めてATOKが兼ねそなえている豊富な地名、姓名が役立つことを知った。懸賞に当選した人の名簿を作る仕事があった。日本中の地名、人名に即座に応じる姿は見事だった。「へえ、こんな苗字もあるんだ。なんて読むんだろう」と読みかたすらわからない苗字を推測で入力する。するとすぐに変換してくる。なるほど、私にとってじゃまでしょうがないあの何万もの不要な人名はこんな仕事に役立つのかと、長年つきあっている親しい友人の今まで知らなかった有能な面を見たような気がした。

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 たとえば私がつかう「みき」は、姓名の「三木」と、木の「幹」、可能性として「お神酒」の「御酒」ぐらいである。安藤美姫の「美姫」は辞書登録してある。最新版だと変換されるのだろう。こういうことにはとりわけ熱心なようだから(嘲笑)。しかしATOKにはこれら以外に「美樹」に代表される何十もの人名の「みき」が入っている。以前からそれがじゃまで、なんとか消したいと思ってきた。


●FEP時代の後遺症

 こういうのは初期のPCとつきあってきた者特有の感覚であろう。つまり「FEPの後遺症」だ。
 MS-Dosの時代、今のIME(Input Method Editors)はFEP(front end processor)と呼ばれていた。もちろん有料である。OSのMS-Dosにはなにもついてこなかった。これがおそろしくバカだった。しかしそれはいま思うと、なんとなく昭和三十年代に通じるほのぼのとしたなつかしさでもある。
 私がいちばん愛用し、辞書作りに熱心だったFEPはWXだった。

 当時、有志が作った辞書を使うのと同様に「白地図」ならぬ「白辞書」なるものが流行った。製品にある辞書を消してしまい、なにもないところからフロッピーに自分だけの辞書を作るのである。けっこうおもろしく、私も凝ったものだった。

 たとえば「わたしはきょうまでいきてきました」は今では「私は今日まで生きてきました」と文節変換されるが、当時は「わたしは」で変換せねばならなかった。それからまた「きょう」で変換する。「きょうまで」はちょっとキケンだった(笑)。
 もしも一気に文節変換したなら「私歯京摩出胃来て気摩下」のようなとんでもない変換になった。そんな時代だった。「白辞書」作りはそういう単漢字変換をすべて消してしまうことから始まる。だから「わたしはきょうまでいきてきました」と入力して変換を押すと、そのまま平かなの「わたしはきょうまでいきてきました」と出るだけである。なにひとつ変換されない。そこに「私」「今日」「生きて」を単語登録して行く。すると「わたしはきょうまでいきてきました」で文節変換すると一発で「私は今日まで生きてきました」となる。これは当時としては大感激だった。それがしたくて毎日せっせと自分だけの「白辞書」作りに励んだものである。

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 その感覚がいまも残っているから、よけいな変換をする辞書があるとそれを削除したくなる。前々から思っていた。なのにしなかったのは前述したように昨今のATOKは学習機能が優れており、「あ、この人は宛名書きをしている人ではないらしい。地名人名優先ではないな」とすばやく判断し、それらを後まわしにしてくれるからだった。
 いま辞書が狂っている。それでもしばらく使っていれば学習機能でまともになるとは思う。そういう意味でのATOKに対する信頼感は大きい。それでもせっかく思いたったのだから前々からやりたいと思っていた辞書の大掛かりな削除をやってみることにした。

 やりかたを調べる。すると、いらない単語をファイルとして出力し、そのファイルに登録されているものを削除せよと命令すればいいらしい。その気になって調べたらやり方は簡単だった。
 品詞の中の「人名」をクリックして一覧出力させる。そこにある単語を辞書から一喝削除した。この辺がATOKが狂ってしまったという所以である。ATOKの頭脳なら「一括」と「削除」を関連つけて憶えているはずだ。なぜこんな意味不明な「一喝削除」なんて単語を出すのか理解できない。

 人名は2万ほどあった。その中で私が友人の名前として書いたり、文章の中で使ったりするものは500もないだろう。そしてまたこのことがとても重要なのだが、私が使うその500の内、200ぐらいは作らねばならないということである。つまり2万もあるのに、私にとってはぜんぜん便利ではないのだ。落語家や力士、時代劇に登場するような名前はみな単語登録してある。出ないのだからせざるを得ない。毎度言うが長年活躍している落語家や横綱大関の名が出ずデビュウして数年の芸能人(さらに数年後にはいなくなるようなタレント)がフルネームが一発で出るなんてATOKの姿勢はおかしい。

 本来なら私はその2万の人名の一覧から、私が使いそうな名前の千程度を撰びだし、残りを消去すべきだったろう。だが私はそれをせず一気にぜんぶ削除した。
 続いて思いきって「姓名」もやってみた。
 よっていま私のATOKでは、「すずきいちろう」を変換しようとしても「すずきいちろう」と出るだけである。これから「鈴木」や「一郎」「一朗」を登録して行かねばならない。

 それは「有るものの中から選ぶ」ことに慣れた人には信じがたい愚挙であり、関わりたくない労苦になろう。だが私のように「白辞書」まで作ったような「無い状態から造りあげる」ことが好きな者には苦労と呼ぶほどのものではない。日々の楽しみですらある。

 私にとっての苦痛とは、たとえば「にしだとしゆき」と打ち、「西田敏行」が欲しいのに、多くのまぎらわしい「としゆき」が表示されることなのである。間違えるわけには行かないから検索して調べることになる。その場ではわかる。だが時が経つとまたこんがらがっている。そのことの苛立ちと較べたら「としゆき」と平かなしか表示されない方がよほど気楽なのだ。

「辞書登録すればいいではないか」と言う人もいるだろう。だが「浅田次郎原作作品に西田敏行が主演するのはもううんざりである」のように否定的に使う名を辞書登録するのもちょっと手結港がある。すごいな、なんだこれ、地名か? どの辞書にも載っていない。「抵抗がある」と書こうとしたのだが。これで「ていこう」って読むのか? 削除だ、こんなもの。
 最新の映画「椿山課長の七日間」は西田で似合っているが、テレビ東京でやった一連の浅田作品は、彼の体形と顔では無理なものが多かった。

 ATOKのあまりの狂いにこちらまで狂いそうだが、23万語ある辞書は、こうしてひとつひとつ毎日修正して行けば、やがてまともになる。阿吽の呼吸で私に応えてくれるIMEになる。それは小石を積みあげて石垣を作るような本来なら触りたくもない迂遠な作業なのだが、なにしろ毎日休まず一日十時間はPC作業をしていて、その間ATOKは常に一緒にいる。だから確実に一週間、一ヵ月と向夏は目に見えてくるはずだ。それを楽しみに続けよう。「向夏」は『広辞苑』にも載っていない。すごいなATOK。「効果」よりも「向夏」優先か。

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◎私の宝物

 いちばん好きだったFEPのWXは、何度かVersion Upした。そのたびに買った。そして時の流れの中でWXⅡで息絶えた。Windows以前である。それからはATOKになる。どれぐらいもう使っているだろう。十五年ぐらいか。JustSystemをつぶそうとしたMSがOSにMS-IMEを無料でつけるようにして、さらにはATOKからヘッドハンティングしてMS-IMEをよりよいものにしたのに、それでもATOKはつぶれなかった。有料でもいまだに売れている。

 私がMSのJustSystemつぶしを否定するのは、そのことによりMS-IMEしかなくなった事態後を憂えるからである。OSに無料でMS-IMEがついてくる。そのことにより有料のIMEを作っている会社はみなつぶれたとする。
 そうなったら、MSが「これからはIMEは別途購入してもらいます」と言っても従わざるを得ない。だってIMEはもうこの世にMS-IMEしかないのだから。

 しかしそれだけでATOKを使い続けているわけではない。すぐれているからだ。もしも初期の段階でATOKを知らず、MS-IMEでPCに親しんだなら、IMEとはそういうものと思っていたろう。なにより無料でついてくるのにあえて有料のものを買おうとは思わない。世の中にはそんな人がいっぱいいるのだろう。
 それにしても不思議なのは、そういうJustSystemのATOK作り職人をヘッドハンティングまでしながら、MS-IMEがATOK以上になれないことである。

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 この十五年ほどのあいだに登録し続けてきた「ATOKユーザー辞書」はいま2万9千語ある。私の宝物である。これがないとなにも出来ない。
 PC事故ばかり繰り返している私だがこれだけはもうUSBメモリ、フラッシュメモリ、稼働しているみっつのHDDのそれぞれ、DVD-Ram、CD-RWと、可能な限りあちこちに保存している。いわば百年前からのウナギ屋のタレとかばあちゃんの代から続いているぬか床とか、そういうものであり、ATOKを使い始めた十数年前からの積み重ねであるから、これだけは守り抜かねばならない。
 たまに、ほんとにたまにであるが、他者のパソコンで文章を書こうとすることがある。たとえば昨年バイトしていた会社で企業への挨拶文を作るような場合だ。するとまずCtrlとCapsの位置が違うことからして使いづらいのだが、変換しようにも辞書が洗練されていず、使いづらくてたまらない。形式的な文ですらそうだから、私的なものはもうこのユーザー辞書なしには書けないことになる。

 HDDクラッシュ等の事故でOS再インストールをすると、まず最初に『一太郎』を入れ、ATOKの辞書ユーティリティで、この自分の辞書を入れることを真っ先にやる。

 今も毎日10個ぐらいは辞書登録している。これからどれぐらい増えるのだろう。
 たまに中身を見ると、もう使わないと思われる語句が入っていてしんみりする。それだけ時が流れているのだ。
 チェンマイに入り浸っているころは「ち」で「チェンマイ」「チェンライ」と出るように設定していた。それぐらい頻繁に使う文字だった。今はそれを削除している。それほど多用する文字ではない。いちいち「ちぇんまい」と書くことにしている。

 チェンマイと言えば、私はローマ字入力も一応ブラインドタッチで出来るが、日本語はかな入力で書くことにしている。以前、当時流行りだしていたチェンマイのインターネットカフェで日本の友人に文章を書いていたら、私はローマ字入力で「ちぇんまい」と打てないと知り愕然したことがあった。私のローマ字入力は、ローマ字入力というより、英文をアルファベットで打つときのモノであり、日本語をローマ字で入力するためのものではないと知った。あとで「ちぇ」は「cye」と学んだ。こんなのローマ字入力専門にやっていないとわかるはずがない。そのときはどうしたのだったか。Chiangmaiと打ったような気がする。友人は一部だけアルファベットになっている分を受け取り奇妙な気分だったことだろう(笑)。
 知人の競馬ライターかなざわいっせいは、馬券が外れたときの文に「ぐぎゃあ」とか「ぶぎゃあ、わしゃもうだめ」とよく書いたりする。ローマ字入力と知った。どうやって書くのだろう。どう考えてもかな入力のほうが簡単で速い。

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 長年ユーザー辞書登録の主メディアは64MBのUSBメモリである。これ当時8千円した。それでも特価品だった。いま8千円だと1GBが買える。20分の1になった。いやはや。
 2万9千語あっても1MBくらいか。おお、確認したら960kbだった。そりゃそうだよね、フロッピー一枚に分厚い単行本が入るんだから。

 さて、狂ったATOKはいつごろまともになってくれるのか。狂った人間は治らないが、これは機械がぐちゃぐちゃに壊れてしまったようなものだから、ひとつひとつ丁寧に部品を修理してゆけば確実に治る。その意味では希望的である。

7/20
 アルツハイマーとキチガイ水

麻生氏失言:政権ゆるみ露呈 「安倍後継」レースに影響?

 麻生太郎外相が19日の富山県高岡市での講演で「アルツハイマーの人でも分かる」と発言した問題は、選挙戦に入っても閣僚の「失言ドミノ」が止まらない政権のゆるみを露呈した。
政府・与党は「的確性を欠く」(塩崎恭久官房長官)と批判しながらも、外相がすでに発言を撤回し謝罪したことから、これ以上は問題視せず、沈静化をはかる方針だ。麻生氏は「ポスト安倍」の有力候補の一人と見られていることから、参院選で与党が惨敗した場合に予想される政局にも影響するとの見方もある。

 参院選の投票日を9日後に控え、政府与党内からは「軽率だ。選挙戦にマイナスはあってもプラスになることはない」(自民党町村派幹部)「もう勘弁して。緊張感を持ってやってくれ」(公明党幹部)「どこから矢が飛んでくるかわからない。民主党には敵失はないのか」(首相周辺)と悲鳴に近い嘆きが漏れた。

 久間章生前防衛相の米国の原爆投下をめぐる「しょうがない」という発言で、辞任の引き金を引いた公明党は今回「久間発言とは性質が違う。これで辞めろと言えば、『女性は産む機械』発言の柳沢伯夫厚労相も辞めなければならない」(幹部)と、事態を早期に収拾したいという姿勢だ。

 麻生外相は獨特の「べらんめえ」調の話術が一部の有権者に人気だが、時に脱線し、「不規則発言」がたびたび物議をかもしてきた。自民党政調会長だった03年5月には、日韓併合時代に日本政府が朝鮮の人々を日本名に変えさせた「創氏改名」について「朝鮮の人たちが『名字をくれ』と言ったのがそもそもの始まりだ」と語って批判を浴びたこともある。

20日、鳥取県倉吉市での演説でも「酒は『きちがい水』だとか何とか皆言うもんだから、勢いとかいろんなことありますよ」などと、またもや問題表現を口にした。
 自民党内には、麻生氏の今回の発言について「総裁候補の有力候補がこんなことを言うようでは、もっと慎重な人を求める声が出てくる。党内で麻生さんを推す動きが鈍るだろう。参院選後の政局でも、この発言は響くと思う」(町村派幹部)との見方もある。

 一方、野党は「全く人権感覚がない」(社民党の福島瑞穂党首)などと批判を強めている。民主、社民、国民新の3党は罷免を要求する構えだ。
毎日新聞【佐藤千矢子】 2007年7月20日 22時28分


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この「アルツハイマー」に関するニュースを知ったとき、あらためて「ことばの置き換え」の限界を感じた。
 麻生さんは日本と中国の米の値段に関して「それはもうどんな人でもわかることだ」と言いたかった。

「白痴でもわかる」
「ぼけ老人でもわかる」
「気違いでもわかる」
「バカでもチョンでもわかる」

 これらはみな使えない。そこでドイツのアルツハイマー博士の名を出したわけだが、これまた社民党をはじめとする連中の食いつくところとなった。
 英語には寛容な?日本だ。この場合、「そんなのクレイジーでもわかる」と言ったらどうだったろう。やはり精神病方面から抗議が殺到したか。
「バカでもチョンでも」のチョンは朝鮮人の蔑称とは関係ない。それでも音が同じだとそういう言葉狩りに遭い使えなくなっている。

 さて、麻生さんはではなんと言えばよかったのか。「幼稚園児にでもわかる」とでもすれば無難だったか。でも幼稚園児は賢い。もっと惚けている人でもわかるという意味で、なにに置き換えよう。まったくせせこましい国である。

 要するに「××でもわかる」というのは誰かを貶める比較表現だから、万民平等の日本では成立しない言いかたなのである。おかしいな、格差社会のはずなのに(笑)。
 じゃあ今増えているワーキングプアはどうだ。「そんなのワーキングプアでもわかる」。これも抗議が殺到するか(笑)。

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 このアルツハイマー発言は麻生さんにも非はある。しかしそのあとの二題はひどい。創氏改名に関してはそれは政治家としての意見だから抑え込むことは出来ない。批判と非難は自由だ。だがこのマイニチシンブンの女記者の感覚だと発言そのものを否定している。とても新聞記者の意見とは思えない。今までこういう発言ひとつで大騒ぎされ辞任してきた閣僚がどれほどいたことか。麻生さんがまだいまも閣僚であるだけ以前よりはまともになってきたと言えるのか。

「キチガイ水」に関しては何をか言わんやだ。そういう慣用句がある。それを「キチガイ」ということばに限定して非難したら日本語が使えなくなる。こういうことを取り上げて鼻を高くしている連中がまさに気違いである。「狂気の沙汰」だ。

「民主、社民、国民新の3党は罷免を要求する構えだ」って、あきれて口がきけん。こんなことでいちいち罷免していたら国政は成り立たない。くだらん連中である。


7/29
タナカマキコのアルツハイマー

「麻生氏こそアルツハイマー」

田中真紀子氏が演説会で批判

 田中真紀子・元外相は28日、鳥取県米子市で開かれた演説会で、19日の講演で麻生外相が「アルツハイマーでもこれくらいは分かる」と発言したことについて「自分がアルツハイマーだからそんなこと言ってるんでしょう」と述べ、麻生氏を患者にたとえて批判した。

 田中氏は「口の曲がったわけのわからないおっちょこちょいの外務大臣が『中国のお米と日本のお米の(価格の)計算が分からない人なんてアルツハイマーだ』だって、自分がアルツハイマーだからそんなこと言ってるんでしょう」と語った。

 麻生氏は講演の翌日に「不適切だった」と陳謝し、発言を撤回している。(2007年7月28日23時55分 読売新聞)

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これ、おもしろいなあ。大笑いした。
 タナカマキコは一見アルツハイマー発言をした麻生を非難している(=アルツハイマー病に苦しむ人の味方)ようでいて、実のところ麻生とまったく同じ事を言っているのである(笑)。
 それはアルツハイマー病をキチガイにすればよりわかりやすい。「そんなのキチガイでもわかる」という発言を批判して、「キチガイでもわかるって言ったのは自分がキチガイだからでしょ」と言っているに過ぎない。

 言葉狩りの連中はタナカマキコに抗議して、発言撤回と謝罪を求めるべきである。
 そうでないと禁止用語の使用が「内容によって左右される」ことになってしまう。
 つまり「アルツハイマーは悪」としては使ってはならないが、「アルツハイマーは善」としてなら、使ってもいいことになる。
「そんなのアルツハイマーの人でもわかる」はダメ。
「心は安らかで、まるでアルツハイマーです」はよいことになる。

 新聞がそのことに触れていないことが不可解だ。でもこの読売の記事を読んだなら、まともな人ならまず誰もが、「???」と思うだろう。しょうがないオバハンである。

7/29
 カンナオトの役不足

選挙結果の大勢が判明したことを受けて、自民党の安倍首相や公明党の太田代表など各党の党首クラスが次々とテレビに登場して会見をした。しかし民主党の小沢代表が登場しない。「なぜ出てこないのか」とテレビ朝日のスタジオで問題になった。

 テレビ朝日では本来、田原総一朗氏が小沢代表にインタビューする予定だったようだ。田原氏はスタジオで怒りの声をあげた。「本当は小沢さんが出てくるはずだった。(それなのに)小沢さんが出ないんだ、突然。公党の党首が、いま勝ったわけでしょう。やっぱり出るなら、出なきゃ!」古舘キャスターも「なんで?」といぶかしがるばかりだ。

 田原氏は怒りが収まらない様子で、「民主党の幹部たちに言いたい!小沢さん出ろ、と」とボルテージをあげた。さらに黙っている古舘キャスターに向かって「言いなさい、あんたたち。今、言えなきゃ、腰抜けだよ!」とけしかけた。
 それから15分後、テレビ朝日の中継画面に民主党の幹部が登場した。しかしそれは小沢代表ではなく、菅直人・代表「代行」だった。古館キャスターが聞く。

 「大変失礼ですが、小沢さんはこういう戦況の流れができている中で、なぜ出てこないんですか?」それに対して、菅代表代行は「体調不良のため」と説明した。「小沢代表は、遊説の疲れで医者のほうから少し静養したほうがいいという指示があったそうで、一日、二日静養すると連絡がありました。選挙中も含めて大変がんばっていたので、そういう遊説疲れだと聞いています」

 田原氏の怒りが耳に残っていたのか、古舘キャスターは「電話でもいいから声を聞きたいところですが…」と食い下がった。しかし、菅代表代行は「たぶんそう遠くない時期には、静養された後に出てくると思います」と答えるのみだった。
 日本テレビ「ZERO × 選挙2007」でも同様。村尾信尚キャスターが菅氏に、「小沢代表に(出演を) お願いしたのに」と噛み付いた。菅氏は、「小沢代表は(選挙戦の疲れなどから)医者から1日、2日静養したほうがいいと言われて…」と、言葉を濁し、「私では役不足ですが」と述べた。(Jcastより)



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カンナオトはよくこういうまちがいをする。まあよくあるまちがいなので揚げ足をとるつもりはないが。一応メモとして。

やくぶそく 【役不足】
(1)俳優などが与えられた役に満足しないこと。
(2)能力に対して、役目が軽すぎること。 
「―で物足りない」 
大辞林 第二版 (三省堂)

 それよりも問題なのは、小沢は病弱で首相の激務はこなせない、という事実だろう。というか誰もが知っていることではあるが。


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 馳星周の役不足

 バンコクを舞台にした馳星周の小説「マンゴー・レイン」を読んでいたらこんな一節があった。



「プラチャイ・ソーポンパーニット──あんな男を相手にするには、明らかにおれは役不足だった」

 この長ったらしい名前のタイ人は軍隊で鍛えた太い首を持ち、常に拳銃を携帯している。丸腰のチンピラである主人公は、とてもじゃないがあんなヤツにはかなわない、との意味で言っている。正しくは「力不足」であり、より適切な表現をするなら「荷が重い」とでもするのがいいだろう。

 流行作家の作品にはこの手の間違いが多い。でもそれはどうでもいいことだ。娯楽小説は楽しければいいのである。国語の教科書じゃないんだから。

 この作品はバンコクを舞台にしているから読み始めたのだが、いま、バンコクを舞台にしているからこそ頻繁に細かいミスに気づき、楽しめないでいる。それはそういう理由で借りてきた私の責任だ。著者の問題ではない。宮本輝の「愉楽の園」とか、そういう視点で読む本で満足したものはない。もういいかげんやめよう。

「サリカ・カフェ」を「サリ・カフェ」だろ、とつっこむような人は読まない方が無難。「ヂャイ・ジェーン」とかタイ語のカタカナ表記もかなりいいかげん。カタカナオタクはもちろん読まない方がいい(笑)。でも「ジャイ」ではなく「ヂャイ」にしたり、かなり友人の手を借りて気を遣ってはいる。

10/18
 坊主刈りの廃止

 亀田次男が金髪を「坊主刈り」にして登場した。テレビは「丸刈り」を連発していた。
 そうか、「坊主刈り」はもうメディアでは使わないのか、と思う。私は実生活で「丸刈り」という言葉を使ったことがない。ああいう髪型はこどものころからいまにいたるまで常に「坊主刈り」と呼んでいた。

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「坊主」で思い出すのはたけしの番組だ。生放送だった。そこでたけしが自然に発言した「坊主丸儲け」に抗議の電話が殺到し、司会がお詫びする事態になった。電話を掛けまくったのが坊主であるのは間違いない(笑)。
 子供時代から「坊主丸儲け」だと思っていた。なにしろ元がかからない。戒名をつけるだけで50万、100万の世界だ。しかも「顧客」がなくなることはない。いい商売である。近所の生臭坊主には婿が多かった。実子は娘しかいない。しかしいわゆる「既得権利」だから、それも半永久的に続くおいしい権利だからなんとしても護りたい。京都の佛敎大学あたりに声を掛けて婿探しをする。声を掛けられる佛敎大学の学生の方も、食いっぱぐれのない永久就職先が見つかるのだから渡りに船だったろう。茨城の田舎に関西弁の坊主が婿入りしてきたりした。そんな形で三代婿が続いている寺もある。

 親が死に、あらためて「坊主丸儲け」に接した。戒名を一文字多くしてもらうだけで坊主への礼金はウン十万円高くなる。世間体もあるし子は無理をする。字数が戒名の格になる。なにより墓石に並んだご先祖がずっと九文字の戒名なのに自分の親だけ字数を減らすわけにも行かない。無理をしても高い戒名にする。まさにボロ儲け。いい商売だなと思った。
 もちろんそれが尊敬できる僧侶ならこんなことは書かない。でっかいクルマに乗って贅沢している生臭坊主だから書いている。
 自分たちでも「坊主丸儲け」だと思っているからこそ──なにしろ現実に誰もがそう思うからこそ昔からいままで言い伝えられてきた表現なのである──あまり他人に言われたくない。テレビ局に抗議し、いつしか放送局が自主規制する用語になったのだろう。くだらん。

 その流れから同じく「坊主刈り」も放送メディアでは規制するようになったようだ。なんとも不自由な世の中である。

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 きょうおもしろいものを見た。
 ワイドショーが、亀田次男の丸刈りにかこつけて、「過去、丸刈りにして話題になった人」を特集していたのだ。暇な話である。それを見ているこっちはより暇人になる(笑)。野球の落合監督、アントニオ猪木と、あとは誰がいたのだったか、みな過去の編集映像である。
 その中のひとりに「丸刈りになって四国八十八カ所巡りをしたカンナオト」がいた。年金未納問題を追求し、自民党の年金未払い議員を、当時流行した「だんご三兄弟」にかけて、得意満面で「未納三兄弟」と攻撃していたら、自分も払っていないのがわかってしまい、坊主になってお遍路さんを始めたというお粗末。もっともカンナオトの場合、未納は役所の手続きミスで彼自身には気の毒な展開だったと言われている。大嫌いな人だけれどその辺は正しく書いておこう。でも他人を攻める前に、自分は大丈夫か確実に調べてからすればよかったのに、とは思う。

 それらの丸刈り映像は編集映像だったのに、なぜかこの人だけ過去の映像に続き、いまの姿でも出演してコメントしていた。
「身を引き締めて出直すという意味で坊主頭になるのは意味があります。さしずめいまいちばん坊主頭にならねばならないのは、安倍首相を後継者として指名した小泉元総理ではないか」と。
 おかしかったのは、カンが何度も「坊主頭」とあのガラガラ声で言っているのに、画面下部の字幕ではすべて「丸刈り」になっていることだった。
 さすがに「坊主頭」のときに「ピーッ」とならなかったのは、まだそこまでの規制用語ではないのだろう。

 私は今まで「丸刈り」なんて使ったことがないし、これからも使いたくない。でも誰もが「丸刈り」になり、「坊主頭」「坊主刈り」が死語になってしまったら、いつしか影響を受けてそうなるかもと思っていた。
 カンの連発する「坊主頭」に、まだ同じ感覚の人は多いのだと意を強くした。カンナオトに励まされたのは初めてである(笑)。
 このカンの連発する「坊主頭発言」を聞いて、テレビ局に抗議の電話をした暇な坊主はいただろうか。

11/10
 すべからく「すべからく」すべし

 「すべからく」はよく誤用されるコトバである。「すべて」の強調型のように使われてしまうのだ。小説から雑誌記事まで今も昔も頻繁に見かける。この誤用に関する考察は前々からいくつもの書物で取り上げられていて、中でも呉智英さんと高島俊男さんの論が有名だ。高島さんは誤用に至る流れを分析し、正しい使いかたを紹介している。碁の観戦記から手本となる文があげられていた。いわば学問的。呉智英さんはすこし斜めの視点から、誤用そのものより「なんでそんなコトバを使うのか」の心理に切り込んでいる。

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すべからく【須く】
〓副〓(為スベカリのク語法。多くの場合、下の「べし」と呼応する) なすべきこととして。当然。三宝絵詞「抑説き給ふ経の文についてすこぶるうたがひあり。―あながちおぼつかなさをあきらめむ」。徒然草「―まづ其の心づかひを修行すべし」。「学生は―勉強すべきだ」(
『広辞苑』より)

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漢語の「必須」などの「須」の字の訓読のために「すべし」のク語法から作られた。

「須」の古典中国語としての意味は前置詞で、意味は「need to」、「する必要がある」。

そこから一般化した日本語としては、当然、妥当、必要、義務、の意で使われ、通常は述語もまた義務や命令の意味の言葉(「べし」など)で受ける。

例:「友と交わるには、 すべからく三分の侠気を帯ぶべし」

しかし義務の意を含まない文に応用されて近年、「必然的に」「当然のように」「そうあるべきこととして」という意味用法が派生した。この点について「すべての」の意で誤用されるとしばしば指摘されるが、この派生義を「すべての」の意味であると捉えるのは正確ではない。本来の用法が当為の意味を含まない断定文に応用されたとき、「そうするのが当然」の語気が「そうであるのが当然・必然」の意味にずれたと見るべきである。

たとえば、「美しいひとの精神はすべからく美しい」は「すべて美しい」ではなく「必然的に、必ず、決まって美しい」の意である。

ただし上記のニュアンスもなく、完全に「すべての」という意味で使うのはもちろん誤用。

ただ、この誤用の指摘においては、「すべからく=all」として使うことの誤りを単純に指摘するというよりは、カッコつけてわざわざ難しそうな言葉を使おうとしてスベってしまうという浅薄さ、見せかけの教養を気取ることへの批判が含まれるようである。
(はてなダイアリーより)

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 下線部分は呉智英さんの論からの影響である。このコトバの「誤用の向こう側の心理」に踏み込んだのは呉智英さんが最初だった。
「はてなダイアリー」には呉智英さんご本人の投稿が掲載されていたので引用する。私は呉智英さんのこの本をもっているが書き写すほどの熱意はなかったので助かった。


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この問題についえは、私は自分の著作で何度か述べているが、簡単にまとめて再論しよう。

無知は恥ずかしいが、それはそれだけのことである。失敗は私にもある。誤字誤用も然り。
「須く」は「すべし」のク語法による変化であり、意味は、義務・命令・当為である。非常に分かりやすく言えば、「すべからず」が禁止(するな)なのだから、「すべからく」が命令(せよ)だと思えば、当たらずといえども遠くはない。

だが、誤用がこの十余年、特に目につく。それは「須く」を「すべて」の高尚な雅語だと思ってのことである。そして、この誤用者は、ほとんどスベカラク次の二種類の人である(上野よ、どうしてこの文章を「すべし」で結べると言うのだ)。一つは、上野に代表される反権威・反秩序・反文部省の人たち。そして、もう一つは、前者ほど多数ではないが、宮本盛太郎など、前者とは逆に反権威・反秩序・反文部省の人たちに反感を覚えながら、単に、反反権威・反反秩序・反反文部省を対置することしかできない人たち。この二種類である。

そこには、次の心情が見てとれる。まず、前者。権威主義的な雅語・文語を批判しているつもりのその心の底では、自分が雅語・文語をつかいこなせない妬みがとぐろを巻いている。この人たちが権威批判をするのは、自分が権威から疎外されているからにすぎない。次に、後者。この人たちは、戦後民主主義の中では、本来は権力に関わる立場にいながら、言論界ではしばしば少数派の悲哀を味わ(原文ママ)わされている。言ってみれば、アメリカにおけるプア・ホワイトである。プア・ホワイトの妬みの構造は、前者と類似している。つまり、前者も後者も、心情的に、自分が正統になりえないことの都合のいい大義名分として、反正統を唱えているのである。

というようなことも、やはり省みれば、誰の心の中にもスベカラク存在する(上野よ、これはどうだ)。だから、これについても、単純な無知無学よりねじれている文だけ、卑しいが、私のみが石もて打つことはできない。
しかし、民主主義は、この卑しさを制度的・構造的に生み出し増殖させる。それは、平準化=「易しさへの強制」の逆説である。漢字は難解であり権威主義的であり、特権階級にのみ奉仕するものだとして、民主主義の名において、易しさへの国家権力による強制が行われた。当用漢字制度などの漢字制限である。「須く」も、この一環として、国家権力によって抹殺されたのだ。

それでも、国家権力によるどんなに理不尽な蛮行があったとしても、結果的に、易しさの実現が成功し、ひいては、あらゆる権威が消滅する社会が到来したのなら、それはそれでかまわない。だが、現実に到来したのは、漢字制限による言語表現の混乱と、それに乗じて、反権威を大義名分にする権威亡者の跳梁だけであった。

ここにこそ、民主主義の究極形がスターリニズムとファシズムであることが、はっきりと現れている。

呉智英『バカにつける薬』 第二章 バカを撃つ p.62

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 「すべからく」は、気になるコトバを取り上げるようなホームページ、ブログでは最も人気のある誤用コトバだろう。私が今まで取り上げなかったのは、このコトバの誤用と誤用に対する正解の指摘があまりにもうあふれていたからである。上記、呉智英さんの本から引用する熱意がなかったと書いたが、それはやる気のなさとはまた違う。自分の中ですでに結論の出ていることをなんで今更、になる。結論とは「私は使わない」である。呉智英さんが指摘しているように、こういう言葉を使うのは一種のかっこつけであり、それを嫌う私は使わないと決めた。使わないと決めたコトバだから他人の誤用などどうでもよかったのだ。現実問題として「すべからく」を使わねばならない場面などまずない。

 例えば「しょんぼりする」という意味である「憮然」は、「ムッとした」「ブスっとした」の意味で誤用されている。そこいら中、もうどんな小説でもそうなっているから、今更「正しい意味」なんてどうでもいいようだ。いや世に流通しているのが正しい意味になるのだから、それがもう正解なのだろう。だけど私は本来の意味での憮然を使いたい。そのことにこだわっている。正しい意味で使ったのに誤用だと思われるのはしゃくに障る。だから私は「憮然」をコトバのテーマとして取り上げる。
 対して「須く」は使う気がない。必要もない。だから取り上げなかった。

 呉智英さんが指摘しているように雅語文語を使う場面にはある種の気取りがある。しかも無意味な気取りだ。そういうものとは無縁でいたいと願う私には縁のないコトバだった。

 文語の簡単な例だと「熱き心」なんてのがある。前後は今風の文章だから「熱い心」が自然なのだが、より思いを伝えたいと心を込めると、自然に筆は「熱き心」になってしまうらしい。真保裕一さんがやたらこの「き」が好きなのだけど、あれはやめてほしい。

 形は違うが「お前は漢だ!」のような漢字の使い方もそれに類する。「おとこだ」と言いたい。でも「男」よりも「漢」のほうが意味が濃い(?)ように思うのか、こういう場合、まず「漢」になっている。根本は雅語文語コンプレックスと同じだろう。
「漢」は漢民族が作った字だから漢人の男子の意味に使われている。それだけだ。本来の字の意味は川であり「黄色い水」のような意味でしかない。それはサンズイからも容易に想像できる。「男」は「田圃に力」で「おとこ」の意味があるが、「漢」は漢民族のおとこを表すだけだ。「悪漢」「痴漢」「破廉恥漢」等の悪い意味にも使われるように英雄的な意味合いはない。なのに「男だ」より「漢だ」と粋がって書く人の感覚がかなしい。2ちゃんねる的な若い男に多いのが嗤える。これも「無知の涙」である。漢民族が大嫌いな私は「お前は漢だ!」とだけは言われたくないと願っている。

 この「漢」も「熱き心」も「すべからく」も使う人の心理は同根である。その感覚の貧弱さと空威張りをしたがるみっともなさを呉智英さんは指摘している。

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 そんなわけで、私は「すべからく」を今までも使ったことがないし、これからも使うつもりはないので、誰が誤用していようとあまり興味はない。なのにいまごろこんなことを書いたのは、いま立て続けに読んでいる横山秀夫さんの小説に何度も出てくるからだ。
 乱発はしていない。それどころかここぞというときに決めのセリフで使っている。だからこまる。
 前後を考慮し、どう好意的に解釈しても、どうしても「べし」には繋がらない。とてもおもしろい小説なのに、この不必要な「すべからく」が出てくると流れが止まり白けてしまう。なんでこんな無意味で不必要なことばを使うのだろう。「癖」と割り切ればそれまでの話なのだが……。

12/12
「氏病」は「死病」で「氏」を省略

 外国人の名前がついた病気で最初に覚えたのは「バセドー氏病」だったろうか。そこにある「氏」から、「発見者の学者の名がつけられるのだ」と知った。いや最初は「バセドーさんという人が最初に罹ったのではないか」とも思った。でも「氏」が着いていることからたぶん先生の名前なのだろうと想像し、解説を読むとそうだった。
 「クロイフェルト・ヤコブ氏病」は、クロイフェルト先生とヤコブ先生の二人の名から取ったのだと知る。クロイフェルト先生の意見はたいしたことがなかったのか、やがて「ヤコブ病」になる。そのころから「癩病」も「ハンセン氏病」と呼ぶようになっていた。
 いまこの種の病名で最も一般的なのは「アルツハイマー氏病」であろう。

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 ところがいつのころからか表記に「氏」が消えてしまった。「バセドウ病」「ハンセン病」「アルツハイマー病」になった。不思議でならなかった。最初に学術的な論文を発表した先生に失礼であるし、「氏」を省いたら、先生の名から来ていることをわからない人が増えるだろう。人名なのか地名なのかすらわからない。

 よくあるクイズに、「レオナルド・ダ・ヴィンチのヴィンチとはなにか?」「ミロのヴィーナスのミロとはなにか?」がある。答は「ヴィンチ村出身のレオナルド」という地名と、「ミロス島で発見されたヴィーナス像」という場所である。
 これらと同様に病名から「氏」をとってしまっては、「ハンセン病のハンセンとは何でしょう?」とクイズになってしまう。いったいなんでとってしまったのだろう。

 過日それが「氏病死病に通じ、患者がいやがるから」という嘘みたいな話が原因であると知る。俗説なのかもしれない。いまだに信じられない。そんなことってあるのだろうか。都合の悪いことになんでも蓋をしてしまう日本という国ならあるかもしれない。いや、患者と家族の心を思いやったやさしい対処ととるべきなのか。

 これらの病気は難病であり、あまり表に出ないから話題にはならなかったが、高齢化社会となり痴呆症が一般的になるにしたがい、すでに「アルツハイマー」は「氏」のないまま、人名であることからも離れ、「頭の呆けたヤツという日本語」として一人歩きしている。麻生太郎が「そんなのアルツハイマーでもわかる」と言って問題になり、タナカマキコが「そんなこと言うのは自分がアルツハイマーだからでしょう」と攻撃にならない自爆をしたのは記憶に新しい。

 「アルツハイマーとキチガイ水」「タナカマキコのアルツハイマー」

 この場合も「アルツハイマー氏病の人でもわかる」ではない。「アルツハイマーでもわかる」とそこまで日本語化している。麻生もタナカも「アルツハイマー氏病」と認識していたなら、それは病気の人を差別することになると理解して口にしなかったろう。

 このことでいつも思うのは、カタワ→フグシャ→シンタイショウガイシャ、さらには「障害者」を「障がい者」と、都合の悪いことはみな言い換えてごまかしてきた日本人だが、ではアルツハイマー氏病を発見したのが「高橋先生」「鈴木先生」だったら「タカハシ病」「スズキ病」にしたか、ということである。しまい。日本全国の高橋さんや鈴木さんに気を遣ってべつのことばを使っているはずだ。「認知症」という新語を造ったように。
 つまり「氏病は死病に通じる」と「氏」を省いてしまったのは、それが自分たちとは無縁の外国人の名前だからなのだ。これは悪い意味での「島国根性」そのものであろう。

 ドイツ人のアルツハイマーさんと結婚した日本人女性、ヨーコ・アルツハイマーさんや、そのあいだに出来た坊やのケイイチ・アルツハイマー君とか、日本在住のアルツハイマー姓の人はみな、「氏」が省かれていやな思いをしていることだろう。本来は「その病気をいち早く発見し世間に知らしめた偉い博士の名前」なのに、まるで存在自体が呆け老人のように思われる。

 いまの日本には「ドイツの精神医学者アルツハイマー博士」のことを知らずに「アルツハイマー」と使っている人も大勢いることだろう。中には地名と思っている人もいるだろうし、あるいは人名と知っていても、「最初にかかったのがアルツハイマーという名前の人」という勘違いもあろう。やがて日本人特有に「アルツ」とか「アルハイ」とか約されてゆくのか。いや「アルツ」はきっともう使われているのだろう。「あいつちょっとアルツがかってるからね」のように。まあそこまでこなれるとかえって問題はなくなるような気もする。
 でも日本にいるハンセンさんやアルツハイマーさんはいやな思いをしているだろうなと気の毒になる。

 かくいう私も父がデンマーク人でバルトリンという苗字なので、若い頃は恥ずかしい思いをしたものだ。
 というのはもちろん嘘だが、以下の引用で最近ではこれも「氏」が省かれていると知る。カウパー氏腺も。よくない傾向だ。
 ささやかな抵抗だが、私はこのホームページでも「アルツハイマー氏病」と「氏」を入れて表記している。

バルトリン腺(―せん)は、大前庭腺とも呼ばれ、女性の膣口の左右に一対存在する分泌腺である。粘液(バルトリン腺液)を分泌し、膣分泌液と混ざり、性交時の潤滑さを促進する。

バルトリン腺は、男性のカウパー腺に相当する。バルトリン腺の袋は会陰の比較的浅いところに存在する。対して、カウパー腺の袋はそれよりも深い位置に存在する。

この腺の存在について最初に記述されたのは17世紀で、デンマークの解剖学者キャスパー・バルトリン(孫)(1655 - 1738)による。いくつかの情報源において彼の祖父であり神学者で解剖学者のキャスパー・バルトリン(祖父)(1585 - 1629)が発見したと誤って記述されている。Wikipediaより

12/13
 「幕開け」と「極めつけ」に幕引き

 偶然見かけたNHKの「言葉に関する番組」が、「極めつけか極め付きか」「幕開けか幕開き」か、とやっていた。
 正解は「極め付き」と「幕開き」。アンケートによると60%以上の人が「極めつけ」「幕開け」と誤用しているそうである。中でも「極めつけ」は「極め」が附いているという意味だから「つき」でなくてはならない。

 私もやったような気がする。急いでグレップソフトでハードディスク内を検索した。すると二件ほど該当文章が出てきた。「幕開け」が一件、「極めつけ」が一件。三十年ものあいだに書き溜まった大量の文章だから傷は浅いと言えるが。

 すぐに直そうと思う。ところが直せない。それは活字になったものだった。コピーで「新たな時代の幕開け」とやっていた。恥じる。もうひとつ競馬文章で「これは極めつけである」と書いていた。
 ホームページ内の文章なら直せるが過去に活字になったものはいじれない。なんとも悔やまれる結果になった。

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 私は三十年前から使い始めたワープロによる文章もtxtに変換し、その後のNEC-98時代の文章(これはtxtで共通)もみなハードディスクに入れて保っている。当時はフロッピーだったがハードディスク時代になったら移植し、CDやDVDにコピーしつつ保存してきた。宝物である。残念ながらそのまえの手書き放送原稿はなくしてしまった。
 (以前も書いたが)初めて買ったハードディスクは80MBだった。高かった。これでもう一生ハードディスクは買わなくてすむと思った。嘘のような話である。1.4GBのハードディスクがついたFMVを買ったときも、「もう一生」と思った(笑)。なんともはや。いま手元に30GB2台、160GB2台、80GB1台がゴミとしてある。捨てねばならないのだがやたらゴミに厳しいこの地域で、なんの日に捨てたらいいのかわからず捨てられずにいる。
 80MBのハードディスクを買い、「もう一生ハードディスクは買わなくていい」と思ったのはあながち間違いではない。私が三十年間で書いた文章は80MBに達していないからだ。文章量はそんなものである。だけどいま、OSが最低でも4GBを必要とする時代になってしまった。それにあの80MBのハードディスクがまだ動いていたとしてもパラレル接続だから使えない。80MBのハードディスクが7万2千円だった時代。


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