2006

06/3/3  PO の意味?

 今日は「将棋界の一番長い日」と呼ばれるA級順位戦最終局が一斉に行われる日である。むかしから将棋界の一大名物の日だった。NHK衛星放送第二で生中継されているのは知っていたがBS放送と無縁の私は見たことがなかった。運良く今年はたっぷりと堪能できた。

 深夜まで続いた激戦は7勝1敗だった羽生と谷川がともに勝ち、16日に挑戦者決定戦が行われることになった。楽しみがまたひとつ増えたわけである。

 将棋の美しさに日本の伝統を守っていることがある。碁のほうはすっかり洋風になり、洋装に机と椅子での対局である。それはそれで世界に普及するための戦略としていいだろう。中国も朝鮮も強い。すでにその範囲では国際化されている。

 将棋の方はしっかり日本の伝統美を守っている。タイトル戦のときは若手棋士も百万円以上する和服をあつらえて望んでくる。もちろん対局は畳の間であり、脇息がある。中国や韓国から奨励会(プロ棋士養成所)に入った少年もいるがまだ大成した例はない。

 今回は将棋会館での順位戦であるから和服はいなかったが、畳の上での正座姿が美しかった。対局室の名も「高雄の間」「鳳凰の間」のように日本的なのがいい。碁ではなく将棋を好んだ自分に納得する。

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 羽生と谷川が同星になり3月16日に挑戦者決定戦が行われることになった。
 午前1時、画面にはA級順位戦の星取り表が出て、羽生と谷川の上にPOとシールが貼られた。それを元に解説が始まる。

 それまでに何度も「プレイオフ」という言葉がアナの口から出ていたから英語嫌いの私でもわかったけど、せっかく和風を守っている将棋の場に横文字はいやだった。渡来した野球やサッカーなら不満はないが。
 星取り表が伝統に則り縦組みだったのが気分がいい。長年将棋界はこれである。こういうのもネットのことだから横書き横組みの方が楽に決まっている。こだわっている将棋界の姿勢が好ましい。

 私が競馬ブックという競馬予想紙、週刊誌を好まないのは横組みだからである。かといって全面的な否定ではない。渡来のモノであり横文字の血統が主をなす競馬文章は横組みの方が向いている。競馬ブックには先見の明があったといえる。私の場合は単に今まで馴染んできたモノへのこだわりだ。
 今やネット社会だからなにもかもが横組み全盛だが、競馬の馬柱と将棋の順位戦の星取り表は、縦組みの伝統を守ってもらいたいと願う。

 しかしその縦組み星取り表の上に貼られたシールは「PO」であった。
 見事なほど浮き上がり違和感があるのだが、時代と簡便さを考えたら仕方ないのかもしれない。
 あえて日本語でやるとしたら「挑戦者決定戦」では長すぎるから、略した「挑決」という紙でも貼ることになるか。それよりは素直に「PO」ということなのだろう。

 ということで将棋連盟から星取り表をコピーしてきた。上記画面。こんなふうに縦組みなのである。だがここでも下に「プレーオフ」とある。そういう時代なのだろう。しかしこれ、しばらく前なら(そのしばらく前がいつかは難しいが)確実に知らない英語であったはずだ。日本全国でPOからずぐにプレイオフ=決定戦と連想できる人はどれぐらいなのだろう。
 テレビはしかたないが、将棋連盟のこの欄はぜひとも「挑戦者決定戦」として欲しかった。

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 ただし、基本として、高島俊男さんが指摘しているように、漢字もそういう使われ方をしてきた。今やたら英語やフランス語、ドイツ語を会話や文章の中に交ぜて高尚ぶる連中と同じように、むかしの漢字もそういうこけおどしや見栄のために多用されたものである。今も変わりないが。
 だからこそ高島さんの言う「和語はなるべく当て漢字を使わずひらがなで」が意味を持つ。

 よってここで挑戦者決定戦と書こうとプレーオフと書こうと対した違いはない。「ことば」は簡便で意味が伝わるのが第一義である。プレーオフで視聴者が全員わかるならそれはそれでいい。
 なのになぜか私には引っかかってしまった。その理由は簡単で、私がプレーオフということばが自然に使用される場に関わってこなかったからであろう。生活的に馴染みがないのである。野球その他で馴染んでいる人は、将棋に使用されても違和感を持たなかったろう。
 将棋でもこんな感じで使用するのだと耳にしていれば、数年後には私自身が「今年もまたプレーオフだよ」と使っているに違いない。だからこそ違和感を感じる今、書いておかねばならない。
06/4/14  私淑と実家

 雲南で『お言葉ですが…』を読んだときだから第三巻とかそのあたりに、「私淑」について高島さんが書いていた。
 正しい意味と使いかたに納得しつつも、私も世の中に流されてゆく方かなと思ったものだった。

 私淑とは、直接的な指導を受けない場合を言う。『広辞苑』は以下のようにしている。

し‐しゅく【私淑】
[孟子離婁下](私ヒソカに淑ヨしとする意) 直接に教えを受けてはいないが、その人を慕い、その言動を模範として学ぶこと。直接教えを受けている人に対しては「親炙(シンシヤ)」という。「ゲーテに―する」


 言われてみるとそうだったと思う。クイズで出たなら正解が書けそうだ。「私淑と親炙」の違いである。普及度知名度はだいぶ差がある。
 わかってはいても現実に使われている誤った「私淑」に、さして違和感を覚えない自分がいる。言葉とはこんなふうに変ってゆくらしい。

 高島さんは、「わたしは誰それ先生に私淑している」と耳にして違和感を持つ。高島さんにとって私淑とは、『広辞苑』の例にあるゲーテや、近代なら「福澤翁に私淑する」のように直接的な教えを受けていない人との関係で使う言葉だ。いま生きている先生に直接教わっている人が「私淑している」と口にするのは、高島さんには不可解な表現だった。

 この誤用は「私淑」の「私」から来ているのだろう。「個人的に、私的に、私塾で、教えを請うている」という感覚から来た勘違いだ。高島さんはそのことに首を傾げつつも、どうやら世の中そうなりつつあるようだ、と諦めている。

 私は(今風の使いかたの意味で)私淑している人がいないので、この言葉を使ったことがなく、使ったことがないから誤用したこともなかったが、充分にまちがえる可能性のある言葉だった。
 私はいま、お会いしたこともない高島先生に私淑している。これは正しい使用法になる。

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 以前高島さんが同じような形でとりあげたものに「実家」があった。実家とは本来嫁いできた女の生まれ育った家の意である。夫婦げんかをしたとき女房の言う「実家に帰らせて頂きます」が代表的な使いかただ。女用のことばである。これは私も高島さんと同じ感覚だった。
 より正確には「嫁いだ女用」だろう。獨身でひとり住まいをしている女が、休日に親元に帰るとき、それは「実家に帰る」ではなかった。嫁いで苗字の変った女が旧姓の生まれ育った家に帰るのが「実家に帰る」だった。

 ところが今では男子学生が「夏休みは実家に帰る」のように使う。高島さんはこれを不思議に思いつつ、これも世の流れかと割り切る。そして、「自分たちのときはなんと言っていたのだろう」と考え、「田舎に帰る」だったと思いつく。

 私もそうだった。学生時代、家に帰るとき「田舎に帰る」と使っていた。私の場合は実際に田舎だからいいが、そうでない人はどうしていたかというと、大都市の出身者は「大阪に帰る」「名古屋に帰る」「札幌に帰る」と言っていた。都市名が共通語である。
 それほどの大都市でない場合、たとえばM先輩は「四国に帰る」と言っていた。やがて親しくなり互いに情報をもてば、「香川に帰る」になり「丸亀に帰る」と、より地域的な言葉になって行く。私の場合も後半は「茨城に帰る」になっていた。

 実家という言葉がのし上がってきたのは、その簡便さなのだろう。
 たとえば埼玉の地方都市出身なら、東京都心から1時間だから田舎ではないとも言えるし、一般には知名度のないちいさな市も多いから充分に田舎でもある。生まれ育った地、親の居る家、ひっくるめて「実家」と言ってしまうのが楽でいい。そうして元々は女用(というか嫁用)のことばを男も使うようになった。これは言葉のジェンダーフリーだろう(笑)。男の乱暴な言葉を女が使う場合は多いが逆はすくないから、珍しい例かも知れない。

 ことばの誤用や変遷、まちがった文法による日本語に対し、高島さんは、ぜったいにそれはしてはならないと激怒する場合もあれば、「ま、いいか」となる場合もある。私淑も実家も後者だった。
 ことばとは他者に意を伝えるものであり時代と共に変ってゆく。通じることが第一義である。
 私の場合もう「実家」を使うことはないが、「私淑」を使うときには、いつもこのことを思い出しそうだ。


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 浅田次郎さんの「私淑」──07/6/10

 浅田次郎さんの小説「王妃の館」を読んでいたら「私淑」が出てきた。
 登場人物は中年の男性編輯者ふたり。異なる大手出版社に勤めているライバル同士である。担当している流行作家を追ってパリまで来た。次作の奪いあいだ。ひょんなことから同室に泊まることになる。ひとりのとき一方がひとりごちる。「内心では彼に私淑していた」と。
 
 これほど本来の意味から逸脱した「私淑」も初めてなので新鮮だった。上記のように「私淑」の本来の意味は面識のない人、過去の偉人等を慕うことである。現在誤用されているといっても、それにもまだ「先生と弟子」ぐらいの関係があった。しかしここで浅田さんは「私淑」を友達関係まで落としている。いくらなんでもこれはひどいのではないか……。

 ここで使われている「私淑する」対象は、本来の意味である(面識のあるはずもない)過去の偉人や、存命だが面識のない高名な学者等ではなく、いつも作家を奪い合うようにして仕事をしている同年配の同業者なのである。たまには酒も飲み、いまも一緒の部屋に泊まっている知人でありライヴァルだ。「直接教えを受けている先生=私淑」というのが現代の典型的誤用だが、さらに大きく逸脱して、年のちかい友人に対する「内心では認めている、一目置いている」の意で使われている。すごいことになってきた。

 これがその大手出版社における、とてもイヤな上役、大嫌いな人だが、その能力に関しては認めざるを得ない大先輩でもあるならまだわかる気もするが、齢の近い三十代の編輯者ふたりの仲に関して「私淑」は、さすがにちょっと、と感じた。



 漢字大好き、中国崇拝の浅田さんは異様に漢字を多用する。私なんかには読めない難しい漢字も数多く出てくる。一方で氏の文章にはこういうふつうのことばの誤用も多い。なかなかスーパーマンにはなれないものである。

 しかしイヤミをひとつ言わせてもらうなら、こういうありふれたコトバを誤用している作家が、読めないような難しい漢字を連発し、どんなに高説を宣っても眉に唾をつけたくなるのはしかたがないだろう。

 毎度思うのだが、世の中にはこういうことに対する抗議に命を懸けているような人がいる。テレビでタレントが慣用句をまちがって使ったりするとたちどころに何十本もの電話がかかってくるらしい。活字にはないのだろうか。小説雑誌連載時に読者から指摘され、編輯者が作家に伝え、単行本化するときに手直しするというのはよいことだと思うのだが。

 私はタカムラカオルという作家が政治思想的に合わず大嫌いだけれど、彼女が単行本の文庫化のときにかなり手を入れて直すという姿勢はとてもよく理解できる。そういう姿勢は必要だろう。それにしても浅田さんにはがっかりすることばかりだ……。

5/3

 五体満足──言葉狩りについて


私は基本的に言葉狩りに反対である。
 しかし制限して当然と思ってもいる。目の見えない人が盲と言われて楽しいはずがない。かといって「群盲象を撫でる」まで書けなくなるのは行き過ぎと思う。
 ここにあるのはことばの簡便性と言い換えのわずらわしさ、そして「差別」の視点の問題であろう。でも差別ってのは人間の根源だからねえ、無くすのは「戦争のない社会」を作るぐらいたいへんだ。というか人間の業に反している。

 かといって片手のない人に気遣って「片手落ち」を使えなくするような制限をしていったら、ことばはずいぶんとあじけないものになってしまうだろう。(「あじけ」に「味気」は無意味な当て字なので使わない方がよいようである。)
 その辺の匙加減が難しい。

「片手落ち」は片腕のないひとを不快にさせるからと放送禁止にした。じゃあどうしたかというと「手」を抜いて「片落ち」というのだそうだ。「それでは、あまりに片落ちじゃないですか」のように。
 たしかに「手」はなくなったが、だからといって片手しかないひとがこの表現を聞いても平気なわけでもあるまい。耳にするたびに「片手落ちから手を抜いた表現だ」と意識するに決まっている。
 つまり、ここにある効用は「使う側が楽になった=抗議の可能性を遮断した」である。「こうすりゃ文句は言えまい」であり、考えているのは自分のことだけだ。体の不自由なひとに気を遣っているのではない。

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私の不快は、言葉狩りそのものより「言い換えの狡さ」から来ている。「抗議と言い換えのいたちごっこのくだらなさ」である。片端、不具者を身体障害者と置き換えても、時が経てば「シンショーシャ」という新たな差別用語は生まれてくる。ことばとはそういうものだ。それが人間の本質なのだから防ぎようがない。

 私の不快は、そういうことを口角泡を飛ばして言い立てる人にあるのではない。目先だけをごまかしてそれでよしとするお役所仕事に対してである。畢竟それは中国や朝鮮との外交姿勢へも通じる。根源と向き合わずその場しのぎのごまかしをしているのだから小狡い相手にはつけこまれる。いつまで経っても解決しない。

「障害者の害の字は問題なので障がい者と書くようにしよう」という運動?も、まあそんなことをする人も必要なのだろうとは思うが(笑)、内なる差別意識は、こういうことに気づいて先頭切って運動する人に強いのではないかと思わずにはいられない。

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シマダシンスケがテレビで「おまえ、あたまおかしいで」「あたまおかしいちゃう」を連発して笑いをとるたびに「きちがい」を思う。
 三代目金馬の落語(艶笑小咄)に頻繁に登場する、「こうなるともうきちがいです」「まるできちがい」とまったく同じ使いかただ。女に惚れて周囲が見えなくなった男の滑稽さを金馬はこう言ったりする。会場はどっと沸く。それは単に「きちがい」がラジオで流れても問題がなかった時代、問題なので置き換えた今、という違いでしかない。そういう言いかたをしたいのは人の本性だから抑えようがない。そしてまた人の生活にはそう表現するしかない行動が満ちあふれている。

 なんとしても発言したい「きちがい」を「あたまおかしい」とはうまく置き換えたものだ。差別用語として禁止されないことを祈る。時間の問題だとおもうけどね。なぜなら「あたまおかしい」人たちは、この世に「あたまおかしい」人がいることを認めていないから。だから「あたまおかしい」んだけど。

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そういう落語CDには、当時の表現をそのまま録音したのでご理解願いたいのような但し書きが附いている。まあきちがいのようなことばがピーになってないだけいいか。
 最近では病膏肓にいるというか、「この話は当時のものであって現在では存在しません」ノヨウナコトまで書いてある(笑)。これは「落語CDを聞いて同じ事をしようとしたヤツが問題を起こした→その家族がCD会社を訴える→あらかじめそれを避ける」ということなのだろう。まさにきちがい対策である。そこいら中、転ばぬ先の杖ばかりで笑えることが多い。すこしも楽しい笑いではないが。

「洗った猫を電子レンジで乾かそうとした→猫が死んだ→猫は乾かせないと電子レンジの説明書に書いてない→電子レンジ会社を訴えた」というアメリカの話を思い出した。やな世の中である。
(この電子レンジの話、および勝訴はじつは作り話という説もある。)


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「片手落ち」がNHKの大河ドラマで「片落ち」と使われていると知って奇妙に思う。なにもそんなにしてまで使わなくても、他の表現で置き換えればいいだろうと。

 そういう「なにもそこまで」と思う言葉狩りがある一方、「このことばはなんでだいじょうぶなのだろう」と思うものもある。私にとって「五体満足」はその代表だった。

 これを逆手にとって、乙武氏が「五体不満足」と題した本をベストセラーにしたのは1998年だった。一応当時立ち読み読破している。のちに「あんなもの、ぜったい読まない」という人に出会ったときは、読んでおいて良かったと思った。

 身も蓋もないことを言ってしまうと、乙武氏のような障碍者はむかしもいっぱい生まれてきていた。なのになぜ現存していないのか。生まれてすぐたいへんなことが起きたと殺してしまったからである。間引きだ。今の世の中、それは出来ない。殺人罪になってしまう。

 こんなことを言うと信じられない若い人もいるだろうが、私の田舎では「あの子は双子だった」と言われる人がいっぱいいた。双子が生まれたとき、むかしの田舎では畜生腹と言って嫌われた(恥だった)から、片方を間引いてしまうのである。産婆と親が相談して。だから「生まれてきたときは双子だったと噂される双子ではない人」が大勢いたのである。五つ子ちゃんが愛でられる今、信じがたい話だが。
 いや五つ子ちゃんはその後を隠してひっそり生きているから「愛でられる今」はおかしいか。じゃあなんと言う。「乙武氏がスポーツジャーナリストをやる今」とでもするか。

 乙武氏の「五体不満足」というタイトルを見たとき、「五体満足」なることばの通用は風前の灯と思った。だが意外にもその後も芸能人の妊娠報告等で「五体満足な子なら男でも女でも」のような発言をたびたび耳にした。言葉狩りの嵐の中でまだ生きているのかと不思議だった。

 今回2ちゃんねるの「ニュース速報+」にあった「京都府宮津市が葬式の清め塩廃止を呼びかける→市民から反発」の関連から、品川区がパンフレットに掲載し、「ことば五体満足狩り」をしていることを知った。
 品川区は三十年籍を置いたところなので格別に印象的だった。このことに納得する理由もある。

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 「清め塩問題」──京都と品川区






(品川区のパンフレットより)


おばあさん(亭主の母か?)が嫁に言われる形になっている。孫の誕生をよろこんだだけなのに言葉狩りにあって気の毒としか言いようがない。こういう嫁はもらいたくないものだ。孫の誕生をよろこんでくれている姑の心より、言葉狩りに気が向いている。いやな性格である。

 おばあさんが嫁の影響を受けてジェンダーフリーにならないよう切に祈る。この品川区のパンフにはジェンダーフリーも強く勧められていて「お茶は自分で淹れる→女に淹れさせるのは性差別」となっている。嫁からの影響で目覚めたばあさんに茶は自分で淹れろと言われるおじいさんを心配する。
 一気にヘレン・ケラーから「人権の大切さ」まで出てくるぜ(笑)。こりゃ孫の誕生も祝えないのか。

 こういう流れになってくると「五体満足は禁止用語」の流れは一気に加速する。なにしろ手足の一部が闕けた表現さえ問題にするのだ。共通一次試験だかなんだかの「足切り」さえ問題にする時代である。それらと比して五体満足ということばは「総合的」である。手足その他ぜんぶ含んでいる。言葉狩りの嵐の中で今まで生き残ってきたことの方が奇蹟的だ。ついにとどめを刺されるか。



 それにしても、狂ってるな品川区。
 私がこの区に対して最初におかしいと思ったのは、もう二十年以上前だが、いきなり区役所への返信封筒に「品川区役所御中」と印刷されて来たときだった。「御中」はこっちが書くものであって、おまえらが封筒に印刷するものじゃないだろうと嗤った。

 区役所に勤めているらいぶさんが、図書館の仕事や選挙係や、いろんなことを体験できてうらやましいと思っていたのだが、一面で、こういうパンフ作りをさせられることもあるのかと思うと、急に羨望の念が消える。
 しかし私にとって真の恐怖は、もしも新卒でこういうところに勤めていたら、上役や同僚の影響を受けてこういう人間になっていただろうということにある。そんなことはしなかったし今からそうなることもないのだから、そんな杞憂は無意味なのだが(いや杞憂はもともと無意味なものだが)、二十代の私なら鼻息荒くこんなパンフを作っていた可能性がある。そうして同じ考えの女と職場結婚か。いやだいやだ。

 京都の「清め塩問題」関連として品川区のこのバンフを知った。両者は共通要素ももっているし理解できることだ。それはそっちに書くとして。ここは「五体満足」のこと。

芸能人の美男美女に「できちゃった結婚」が驚異的に増加している。もう「できちゃった結婚」とは言わないんだったな、なんだっけ、なんでもいいや。
 少子化の傾向が強まると必ずこういうふうに作用するのだから生き物とはよく出来ている。元々私は美男美女カップルに子供がいないのはもったいないと思っていたからこの傾向は賛成である。今後も続くだろう。
 彼らは人気商売だからこの種の言葉狩りには敏感である。子供が出来たとき、会見前にマネージャが釘を刺すはずだ。「五体満足ということばは使うな」と。
 うまく「健康な子」「元気な子」と言い換えるのもいるだろうし、つい慣用表現として使ってしまい問題にされるのもいるだろう。いや今の時代、芸能人バカップルには五体満足ということばを知らないのも多いか。アダチユミと結婚したイトダなんて、これを発言して問題になるという以前にことばとして知らないな。関係者は安心だ。
 次にこのことばを発言して問題にされるのが誰か、楽しみである。


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片落ち
「片落ちという表現も古い言いかたであって××時代の文献××にすでに登場している」なんて抗議はなしね。それぐらいは調べて書いている。
 サヨク系の人はこういう意見が好きだ。得意気に切り込んでくる。しかし私からするとそれがなんなのだ、となる。私にはイチャモンとしか思えない。
 私は自分が生きてきた時間、世界の中での片手落ちと片落ちを感覚で語っている。古い文献なんてどうでもいい。片手落ちと日常的に使われていた世界があった、それが使えない世界になった、テレビドラマで片落ちにした。言いたいことの基本はそれである。

 片手落ちを意味することばを、かつて「片手落ち」と常用していた。同じ意味で「片落ち」も古くからあったが、それは日本が工業国として進化するに従い、機械等のふるい型を意味する「型落ち」と聞き間違えることもあるので、片手落ちを意味することばとしては、片落ちより「片手落ち」が使われるようになっていったのである。
 それは今の時代でも、型落ちがあるからあえて片落ちと使うのは、やはり不自然になる。

 こういう問題は、そのNHK大河ドラマで「片落ち」と使った脚本家に問えば、「本当は片手落ちと使いたかったが問題があるので片落ちにした」と言うだろう。それだけの話である。
 私の問いかけは、そのことを感覚的に理解できる人との話なのであって、それを理解できず文献に行ってしまう人とは話がかみ合わない。話すだけ無駄なのだ。
 その脚本家は問うてもそうは言わないかもしれないが、強制的に自白剤でも使えば必ず白状するはずである。
 という信念のもとに私は書いている。そのことと「片落ちは古い表現であって文献にも……」は別の話になる。



 辞書を読む


辞書を読もうと思った。枕元に置き、眠る前、睡眠薬代わりに、あるいは目覚めたとき、頭の訓練に読むのである。
 前々からやろうと思いつつしなかったのは、そのための適当な辞書が大嫌いな広辞苑しかなかったからである。小型辞書を読破した車谷長吉さんは大好きな広辞苑に挑むことを目標しているらしい。あの人はアサヒシンブンに載ることを夢見てがんばった広辞苑大好きな人だから私とは違う。私は広辞苑だけは避けたかった。しかしそれしかなかった。

 それこそ高校生のころから使っている旺文社の小型辞書があるのだが、さすがに語彙が少なく、肝腎の調べ物が載っていないことが多い。そこそこの中型辞書が必要だ。

 辞書は数年前の「講談社類語辞書」以来買っていない。しかしこの「高校のころから」を思えば、これほどコストパフォーマンスの高いものはない。なにしろ使うほどに体の一部になるから飽きて捨てることがない。
 さらにその前に買ったのが角川の類語辞典になる。その前は小学館の漢和辞典か。と思い出せるのがいかに買っていないかだ。お恥ずかしい。

 普段使う辞書はみなHDDに入っている。電子辞書もワープロと同じで夢の機械だったから、取り入れたのは早い。Ms-dos時代、テグレットの『章子の書斎』と『光の辞書』で初めて連携が適ったときは夢のようだった。それから電子辞書はずいぶんと買っている。というかこちらは思い出せないほどあるゆるものを買った。最初のころは、光の辞書も学研もフロッピィだった。Windows3.1のころか。Win95.98でCD辞書が普及した。Win2000以降、愛用していた『大辞泉』が対応しなくなったのが痛い。それ以後メインの電子辞書は広辞苑とBookShelfになっている。
 このホームページでも語句の説明として引用しているのは広辞苑が多い。嫌いなのでなんとかせねばならない。「広辞苑によると」という他者の方式を嫌いつつ自分でやっていたのでは笑えない。

 今はさらに常時接続だとネット上に豊富な辞書をもっているようなものである。ウイキペディアWikipediaに助けてもらいつつ、まちがいの多さにうんざりしたことは別項で書いた。

 百科事典ウイキペディアWikipedia考

 いつしかそれに慣れてしまっていた。
 最近ADSLが異常に調子が悪く、インターネットラジオを聞いたり調べものをしたりどころか、メイルさえ送れない状態になったりすることすらある。また友人のTさんが常時接続から撤退し、小説を手書きにするというメイルをくれたことにも触発されて、私にもあらためてアナログ回帰の傾向が出てきた。辞書を読むのもその一環になる。


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私は今、故人の作家が仕事場として使っていたマンションを住まいに借りている。故人の仕事場をそのまま保存することを条件として格安の値段で借りた。
 そういえばそのとき、故人の資料類を自由に使っていいと言われたのだった。
 ということで資料部屋の辞書棚を覗く。するとちょうど適当なのが二種類見つかった。
 それが写真の講談社日本語大辞典と、三省堂の大辞林である。

 直感で『週刊現代』『日刊ゲンダイ』への思想的反感から自分が講談社の辞書を使うことはあるまいと思う。第一候補は三省堂大辞林だった。念のため調べる。
 二冊を寝室に持ち込み、いくつかのことばをチェックした。

 すると大辞林にはこちらが毛嫌いする形で「従軍慰安婦」なんてバカなことばが載っており、まるでアサヒシンブンを読んでいるよう。一方講談社にはそれがなかった。
 ということから私としては意外な結果で講談社の辞書を通読することになった。

 しかしこのGJってのは笑える。「Great Japanese Dictionary」の略らしい(笑)。愛称のGJはどれほど普及しているのだろう。私はむしろ2ちゃんねるで覚えたGJ(グッドジョブ)を思い浮かべてしまった。

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睡眠薬代わりに読むなら、若い頃に30万円も出して買った平凡社の百科事典を読めばいいのかと思いつく。これのほうがまだ一冊は薄くて読みやすい。しかしこの25冊の大部が今ならCD1枚なのだから、なんとも時代を感じる。それはまあ当然で、いまどきデジカメの写真一枚入らないからと誰もが蔑視するフロッピィディスクに、分厚い単行本が入ってしまう。テキストの文字は容量が小さい。カラー写真を多用しない限りDVDどころかCDで充分なのだ。

 さてそんなわけで、ここのところ毎日GJをベッドで読んでいるのだが、重くて大変だ。眠くならない(笑)。眠ってもその重さでうなされて目覚める(笑)。
 睡眠薬という意味では、2ちゃんねるの「ニュース速報+」で、どうでもいい事件を流し読みしていると、猛烈に眠くなることを知った。これは効く。
 今のところきちんとノートを畳んでから寝ているが、へたするとそのまま眠ってしまい、ノートをベッドから落として壊してしまうなんてことも起きかねない。睡眠薬代わりもむずかしい。

6/17

 Bossa Novaのカタカナ表記

 Bossa Novaはポルトガル語の「あたらしい感覚」の意である。
 通常の日本語カタカナ表記は「ボサノバ」。まあこれでいいんだけど、Vはヴで表すことにしているので、面倒だけど私はボサノヴァと書く。これってローマ字入力の人には面倒の意味がわからないか。BAかVAでしかないから。私はかな入力なので、バとヴァにはだいぶ差があるのです。

 このことにこだわる意義は、すでに他項で書いているが、「それがBであるかVであるか自分にわからせるため」である。外国語のお勉強だ。他者に押しつける感覚はまったくない。うすらバカの自分に注意をうながすのである。

 バランスと書いてあればそれはBalanceでありB、ヴェランダと書いてあればVerandaと、うすらバカにBとVを言い聞かせているわけである。日々の勉強だ。それは「バかヴァか?」と迷ったとき、すぐに英和辞書を引く習慣にも繋がる。

 さてBossa Novaのカタカナ表記は、一般にどうなっているだろう。こういうときネットはどんな百科事典よりも役に立つ。
 もちろん文句なしに多いのは「ボサノバ」である。次に私と同じようなVに対するこだわりからか、「ボサノヴァ」がすでに一般的であることに意を強くした。なんと186万件である。ブとヴに対する音楽業界のこだわりはかなり早かった。文学や新聞などよりも。ミュージシャン名を分ける必要があったからだろう。
 それがここまでの「ボサノヴァ」表記の普及のように思う。基本として音楽用語だし。
  もしかしたら音楽ライターはもう「ボサノヴァで統一している」と言い切ってもいいかもしれない。

 もちろんそれが正しいという気はない。こんなことに正しいもまちがいもない。ボサノバでいいのである。ことばは通じることが一義。あくまで個人的なこだわりの世界の話だ。

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 実は私は「ボッサノヴァ」と書きたいのである。なぜなら「ボッサ」とすることで、アルファベット綴りがBosaではなく、もうひとつSのあるBossaであることを覚えられるからだ。

 こわごわ検索してみた。あるといいなと願いつつ。すると「625件」と出た。ボッサノヴァと表記してホームページを作っている音楽好きも多いと知る。よかった。これからは自信を持ってボッサノヴァと書いて行こう。
 ボサノヴァの186万件と比すと625件は話にならないが、この世でたった一人の××よりはいいだろう(笑)。
 ボサノバはボサノバでいいじゃん、と思う読者には煩わしい表記だろうが、そういうことなのでお許しを。もちろんボサノバはボサノバでいいんですからね。そこんとこ勘違いしないでください。

 念のため「ヴォッサノヴァ」なんて人もいたりして……と調べてみたら一件だけあった。これはBなのだからヴォは明らかな誤りである。

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【附記】──Nさんからメイル

先ほど、「Bossa Novaのカタカナ表記」を拝読いたしました。

「ヴァ」の表記、ふと思い出したのは、小学生の頃に見たSF特撮番組「スペクトルマン」です。結城さんは覚えておいでですか、この番組?

この番組の主題歌で、最後のフレーズが「ネヴィラの星の 正義の勇士~♪」となったいたのを覚えています。
子供心に母親に「ヴィ」って何?って尋ねた記憶もあります。おそらく設定資料には出身地が「NEVIRA星」とでもなっていたのでしょうか?

今となっては調べようもないことですが、主題歌を担当したであろう音楽業界のかたは早くから「ビ」と「ヴィ」の違いを認識していたということでしょうか?
35年位昔の話です。


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すぐに返事を書いた。

Nさんへ
いや、たぶんね、その当時は使えたのですよ。
そのあと昭和40年代後半に、そういうのをやめようという文部省的な動きがあったのです。
いま、正しい年度を挿れられないのが残念ですが。
なんでもかんでも単純にしようという流れが。

競馬の馬の名前で言うとね、古い馬にはヴが使われています。
ところが昭和50年代にはいると目にしなくなります。
これも正確な年代はいま言えませんが、文部省と仲のいい?競馬会が馬名のヴを禁止したのですね。

そして、平成何年かから使用可能になります。
それで有名な活躍馬がエアグルーヴです。
ハイセイコー時代育ちのぼくには「使えない」という思いこみが強く、エアグルーヴをエアグルーブとたびたび書いては編集部に直されたものでした。

昭和50年代にあった現エリザベス女王杯の前身は「ビクトリアカップ」と言いました。
今年新設された古牝馬のGⅠレースは「ヴィクトリアマイル」です。時の流れを感じます。
かといってぼくの大好きなそのビクトリアカップを勝ったビクトリアクラウンは今だったらヴィクトリアクラウンかというと、そうもなりません。なぜか? 9文字字数オーヴァーです。
おお、ここでも偶然オーヴァーが出てきました。Overですから。

Nさんの想い出はまだヴが使えた時代なのでしょうね。
ぼくも調べてみます。

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 こういうやりとりが楽しい。Nさん、ありがとう。
6/21

 撤収と撤退

★小泉首相 サマワの陸自撤退を正式に発表

・小泉首相は20日午後、首相官邸で記者会見し、イラク・サマワで活動している陸上自衛隊の
撤退を正式に発表した。

「本日、政府はイラクにおけるサマワ地域の陸上自衛隊の部隊を撤収させることを決定いたしました。厳しい環境のもとで活躍してくれたおかげであり、私は自衛隊諸君に対して、心からの敬意と感謝を表明したいと思う。私の任期中に撤退したいとか、しなければならないということではなくて、たまたま今の時点で、総合的に判断して、私が首相の時に派遣した部隊が撤収した」

-小泉首相は会見で、自衛隊による復興支援活動の成果を強調し、今後も経済面などでイラク政府の支援を続ける考えを示した。

 また、小泉首相は自らのイラク訪問について「他国に対して餘計な配慮を使わせるんじゃないかということを考えると、現時点で訪問することは考えていない」と明言した。

 政府は今後、月内にサマワの陸上自衛隊の
撤退を始め、7月中の完了を目指す方針。
(2006年6月20日 アサヒシンブン)

 首相が「撤収」と語っているのをそのまま収録しつつ(変られたら困るが)、自分たちのことばではキッチリ「撤退」と言い換えているアサヒシンブンの姿勢がわかる。


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 勝谷誠彦さんの日記に「撤収」と「撤退」について書いてあった。一部抜粋させて頂く。

■2006/06/21 (水)大人扱いで最高裁死刑認定鬼畜の実名なぜ報じない。

昨日の自衛隊の日記で「撤退」という言葉を無意識に使ったら複数の自衛隊や情報関係者からご指摘を受けた。
「撤退」というのは敗北して退くという語感が強い。正確には「撤収」であって実際に軍の中で使われている用語としては必ず「撤収」だと言うのである。

なるほど例えばグーグルで「撤退」とだけ入れてみると出てくるのは企業が新たな市場への参入に失敗するニュースばかり。明らかに敗北の感触なのだ。
確かに小泉さんも会見では「撤収」と言っている

そう言っているのに朝日の見出しではあくまでも「撤退」(爆笑)。

<首相、イラク陸自撤退を正式表明/防衛庁長官が命令>

この悪意は執念としか言いようがない。

いい加減に使ったゆえのブレはあるとしても「撤収」と表記しているのは読売と産経と中日の各紙。

一方で「撤退」とどうしても負け戦にしたいのが朝日に毎日に北海道新聞それからウェブ上の表記ではTBS。

どははははは。いやはや見事な色分けである。私もひとつ勉強しました。と同時にこのような鮮やかな発見もあった。しかし今日も左に旋回を続ける「撤退」組はここから何も学ばないんだろうね。

いまもっとも「撤退」が求められているのが福井俊彦日銀総裁なのは衆目の一致するところだろう。


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 そうかあ(笑)、そりゃ簡単に推測できたことではあるが、ここまではっきり色分けされると笑ってしまう。アサヒマイニチは当然だが、困ったもんだねドウシン(笑)。そういえばこのあいだの飲み会でも北海道の左翼性とヨコミチをなんとかしろで盛り上がったっけ。移民の地だからか、道民はサヨク色が濃くて困る。「ウェブではTBS」も本当に爆笑だ。

 こういうメディアによる用語の比較、確認は誰でも簡単に出来ることだけど、きらいなものには近づかない私には決して出来ないことになる。新聞各紙のこういうものを比べるぐらいの融通はあるべきと思うのだが、どうにもアサヒやマイニチに近づく気になれない。将棋名人戦問題でマイニチを読んだのは本当にひさしぶりだった。

 結びの日銀総裁への一撃も痛烈だ。(この後も本文は続いています。)


引用させてもらった勝谷誠彦さんの日記
http://www.diary.ne.jp/user/31174/

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●お疲れ様とご苦労様

2ちゃんねるより
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1150898403/


 イラクのサマワに派遣されていた陸上自衛隊の撤退が決まった。まずはご苦労さまでしたと敬意を表したい。
派遣から二年半。交代はあったからといって、隊員たちの苦労は想像を絶するものがあったろう。その重大任務から開放されて、ようやく故国の土を踏むことができる。

▼派遣時にそれこそ賛否両論が渦巻いたのは、危険地域であること、最小限の武器しか持ち込めないことなど、平和になれたわが国ならではの戸惑いがあまりにも強かったためだ。戦争を経験したことのない軍隊(ここでは自衛隊のことだが)が、はたして死傷者も出さずに無事任務を完遂できるかどうか、という疑問は反対派ならずもまずは抱く。

▼しかし多くの自衛官は武人の本務として潔く任地に赴いた。派遣反対の論調を掲げるメディアの中には、本人や家族から「行きたくない、行かせたくない」という本音を引き出そうとしたが、徒労に終った。自衛隊とは、国を守るという崇高な使命を帯びた集団であり、ノブレス・オブリージュ(犠牲的使命感)という意識がなければ務まらない職務である。

 鉛筆一本でおまんまを食える人間とははなから覚悟が違うのだから、「こわい、行きたくない」などという答えを期待する方が無理なのである。武士道は健在であった。サマワでは、彼らに対する信頼が大変厚いことを派遣隊長の一人のインタビューで知ったが、さもありなんと思った。

 復興支援に危険も省みず来てくれて、インフラ整備や給水活動にあたり、しかも規律正しく、礼儀正しい彼らが「嫁を世話するから残ってくれ」というもてようだったのはその証拠だろう。帰国するまではまだ安心できないが、隊員たちが汗を流した重みがいつか必ず結実する日が来る。
東海新報 2006年06月21日

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 これに対するコメント。

4 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/21(水) 23:01:38 ID:8BT6Rrsq0
襲撃されて死者が出たほうがいいと思っていた日本人が、間違いなく野党・朝日新聞あたりにわんさといただろうな 心から軽蔑するよ

奴らをあざ笑えるように、一名の負傷者も出さず帰還して欲しいと願っています。

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8 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/21(水) 23:02:59 ID:g7w4LlFI0
>>4
古館は凄かったぞ
撤収なのに、撤退撤退叫びまくってた

さもありなん、ですね。いかにもテレ朝らしく「撤退」と言いそうです。

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9 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/21(水) 23:03:17 ID:NrRQeaE80
>>1
>まずはご苦労さまでしたと敬意を表したい。

「ご苦労様」ってのはわざと使ってるのかな?


「ご苦労様」は上が下に言うときの言葉ですね。「撤退」もおかしいです。この人はわざとじゃなく、単なる無知でしょう。「東海新報」ってのがどういうものか知らないけど、この文章は低レベルです。意見コラムを書く人としては問題です。たぶん「東海新報」が、この程度の人がこんな発言をする程度のメディアなのでしょう。


14 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/21(水) 23:04:32 ID:4AQCK0Ku0
>>9
目下への言葉遣いだよね。
さすが鉛筆一本でおまんま食える業種だねw



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●2ちゃんねるK1(寺澤慶一氏)問題の撤収と撤退

470 名前:▼・ェ・▼[] 投稿日:2006/06/21(水) 01:01:26 ID:5CLwth6P
・・・・・ということで、総員
撤収!


ほな さいなら  GTwww

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484 名前:チアングラーイの住人[] 投稿日:2006/06/21(水) 18:58:16 ID:3VMNIllq
と、思ってサイト見てきたが鞘を収める準備はしてるんだね。
撤退とか撤収の話題に振っておいて、自分もそろそろ
撤退といったストーリー展開をお考えなのでしょう。

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494 名前:イチョンス[] 投稿日:2006/06/21(水) 23:34:16 ID:1FKj/OkL
撤退とか言ってたけど、どうせ奴らは見てるだろうから。

お前らはクズです。ゴミです。鼻紙です。
口ばっかりです。

とりあえず、早いトコ裁判してケイイチぶっ潰してくれよ
で、裁判いつ?


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470のらちゃ犬さんは私の前掲の文を読んでいたらしい。きっちり理解しての「撤収」。
 そのあとの二つ、剛毅ブリ軍(笑)は撤退を使用。そこまで言葉を使い分けられる知性のある連中とは思わないが、本能的に「撤退」と使っているのが、なんだか笑える。

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 ちょうど『作業日誌』に、勝谷さんの日記を引用させてもらい、「言葉──撤収と撤退」を書いたところだった。この言葉の使い分けが新聞によって異なるのだから嗤える。
 するとこれを読んで、「K1(寺澤慶一氏)問題から撤退を考えているらしい」と「危ない海外」に書きこんだのがいると知る。

 唖然。ガックシ……というヤツである。精神病患者の特質は総ゆるものを自分に結びつけてしまうことにある。というかそれしか出来ないのだが。

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 むかし、筒井康隆の本で読んだ話。そういう例の紹介。
 パチンコ(朝鮮企業の遊技施設ではなくゴムひもに小石などをはさんで飛ばす玩具)にしか興味がない精神を病んでいる息子がいる。親は、その他のことにも興味を持つまともな人間になってもらいたいとリハビリを施す。もうだいじょうぶだとなって退院してくる。
 父親が質問してみる。
「いま興味があるのは?」
 息子は女だと応える。やっと女に興味を持つ普通の男になったかと父親は安心する。
「女と出会ったらどうする」
「抱きしめて、裸にする。パンツを脱がせる」
「うんうん、それからどうする」
「パンツからゴムひもを抜いてパチンコを作る」
 ぜんぜん治ってなかったというお話。これが病人である。

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 イラクから陸自が撤収するという政治的に極めて大きな問題、それを読売や産経は正しく「撤収」と書き、アサヒやマイニチ、TBSは「撤退」と書いた。勝谷さんの日記からそれを知り、「言葉」の使い分けとして意見を書いているのに、まったくお門違いのK1(寺澤慶一氏)問題と結びつけて狂犬が絡んでくる。彼にとって世の中にはK1(寺澤慶一氏)問題しかないのだろう。どんな出来事もそれと結びつけてしか考えられない。嗤うよりも泣きたくなった。
 たしかにこんなのとは関わり合いたくないから撤収したくなる。
 あ、でもコイツは、それに関してはしっかり「撤退」と書いていた(笑)。アサヒ並の捻れ根性はあるらしい。だから気狂いは怖い。
「文学」板での知性も2ちゃんねるなら、こういうのが生息しているのもまた2ちゃんねるである。これもこれで「2ちゃんねるは奥が深い」になるのだろう。


6/28

 続・撤収と撤退


マイニチシンブンの反論

発信箱:「撤退」と「撤収」 山田孝男(編集局)

 政府は自衛隊をイラクから「撤収する」と発表し、毎日新聞は「撤退を決定」と報じた。これに対し、一部で「毎日は『退』という字を用いて敗北感を強調し、自衛隊をおとしめている」「政府発表を故意にねじ曲げている」などと言い立てる向きがあると聞き、驚いている。

 どの辞書で調べても「撤退」と「撤収」は、ほぼ同義である。英語ならwithdrawalだ。
 毎日新聞は、イラクからの外国の軍隊の引き揚げに言及する場合、凱旋(がいせん)か敗走かというニュアンスとは無関係に「撤退」という表現を使ってきた。

 小泉純一郎首相は「撤収」と発表したが、自衛隊だけ表現を変えるのはバランスを欠くという判断で、小紙の記事や見出しは「撤退」が基本になっている。

 「退」は退却の退、W杯1次リーグ敗退の退であり、その不景気な字面を嫌う自衛官の心情は理解できる。ポツダム宣言受諾は「敗戦」か「終戦」か。二つの言葉にこもる心理的意味の隔たりは大きい。そこまでの差はないにせよ、身命を賭してイラクに赴いた自衛官が「退」に過敏であって不思議はない。さはさりながら、政府の仰せに恐縮して用語を改めるまでの話ではないと私どもは考えている。

 面白くないのは、待ってましたとばかりにこういう問題をメディアたたきに利用する扇動家の存在だ。今から69年前、国会質問に「軍人を侮辱する言辞」があったかどうかで陸軍大臣と議員が争う騒ぎがあった。防衛庁が「自衛隊を侮辱する言辞」に目を光らせる時代でなくて幸いだ。お先棒担ぎの言葉狩りに自重を求めたい。(毎日新聞 2006年6月26日)


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 2ちゃんねるの「ニュース速報+」
【論説】「撤退」と「撤収」…メディア叩きに利用する扇動家が"お先棒担ぎ"の言葉狩り★3
 より

4 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 21:29:07 ID:XQxdlLxi0
まあ、この反論からは
意図的に負のコノテーションを与えるために「撤退」を使ったことが明らかだな。
頭の悪い反論だ w



6 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 21:30:20 ID:b1f9jm/P0
自分で仕掛けた地雷を自分で踏むような記事だな・・・


10 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 21:33:22 ID:RHzZMul40
>どの辞書で調べても「撤退」と「撤収」は、ほぼ同義である。

じゃあ撤収でいいじゃん


17 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/28(水) 21:35:40 ID:cJCXD4MK0
>>10
だよな
公式発表を変える必要性を感じない。


21 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/28(水) 21:38:03 ID:mBY602TT0
言葉を大事にするならニュアンスも大事だよ。
なぜ二つの言葉が生まれたのか、考えろよ。
同じことを表すならそんな無駄なことはしない。
表すニュアンスが違うから二つの言葉が現にあるわけだよ。



29 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 21:43:32 ID:naT4A1br0
こういうときってたいてい同じ英単語で表せるから同じですって書いてあるよな
日本語は英語から派生したものなのか小一時間問い詰めたい


30 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 21:44:25 ID:kZawGaXw0
「退」は退却の退、W杯1次リーグ敗退の退であり、不景気な字面だと毎日新聞自ら認めているのだから、毎日はそういう意図でこの言葉を選んだのだろうと思うのは当然のことだと思うけど。


46 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 22:36:01 ID:CwuCKHFY0
<撤退と撤収はほぼ同義である>同義でないよ。
撤退:陣地を引き払い退却すること
撤収:軍隊などが引き上げること
毎日新聞はどんな辞書を見ているんだ。左翼者編纂辞書か。



49 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 22:49:07 ID:sW0nAaUR0
>政府は自衛隊をイラクから「撤収する」と発表し、毎日新聞は「撤退を決定」と報じた。
これに対し、一部で「毎日は『退』という字を用いて敗北感を強調し、自衛隊をおとしめている」「政府発表を故意にねじ曲げている」などと言い立てる向きがあると聞き、驚いている。


驚くなよ。
みんなは知ってるよ、毎日新聞はそんな事を平気でできる新聞だって事をね。



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 と、これらの意見を並べるだけで私が口を出すことは何もない。いいなあ、2ちゃんねる。これと比べるとあちらの2ちゃんねるはあまりにレヴェルがひくい(笑)。でもどっちも2ちゃんねるだ。

 マイニチシンブンは撤収と撤退は同じものとし、政府は撤収と発表し首相もそう口にしたが、我が社は常に撤退を使うのだとそれに従った。
 それでいいんじゃない。それがマイニチシンブンの姿勢なんだから。
 みっともないのはこういう弁明を書くことだ。

「メディアたたき」「扇動家」「言葉狩り」
 なに言ってんだよ、撤収という言葉を狩って撤退にし、扇動して、まともに撤収と書くメディアをたたいているのは自分自身だろう(笑)。
 お粗末な新聞である。

「撤収」と表記しているのは読売と産経と中日の各紙。
一方で「撤退」とどうしても負け戦にしたいのが朝日に毎日に北海道新聞それからウェブ上の表記ではTBS。どははははは。いやはや見事な色分けである。
(勝谷さんのコラムより引用)

 これ以上の説明は必要ない。


6/29
続々・撤収と撤退


●山田孝男氏の嘘がバレる(笑)どうすんだ……

 マイニチシンブン編集局の山田孝男サンは、以下のように言い切った。
【論説】「撤退」と「撤収」…メディア叩きに利用する扇動家が"お先棒担ぎ"の言葉狩り★3
 より。


55 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/28(水) 23:07:25 ID:sW0nAaUR0
>毎日新聞は、イラクからの外国の軍隊の引き揚げに言及する場合、凱旋(がいせん)か敗走かというニュアンスとは無関係に「撤退」という表現を使ってきた。──山田孝男(編集局)


毎日新聞が本当にこれを徹底してきたのか?もしこれが嘘だとすると、この文章そのものが崩潰するぞ。
おい山田さんよ、本当に毎日新聞はこれをルールとしてきたんだんだな。
「撤収」と書いた記事があったら、あんたは大嘘つきで、根拠のない理由であんたのいう「煽動家」を侮辱したことになるぞ。

山田さんよ。謝るなら今のうちだぞ。


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 ということで調べる人がいた。Google検索。すると「撤収」と使っているマイニチの記事がぞくぞくと出てきた。以下引用はその一部。

米国:イラク駐留米軍、年内撤収開始も--司令官が見通し-南北 ...
米国:イラク駐留米軍、年内撤収開始も--司令官が見通し. 【ワシントン及川正也】 イラク駐留米軍のケーシー司令官は11日、米CBSテレビのインタビュー番組で、駐留 米軍(約13万人)の規模について「今の調子でイラク治安部隊が強化され、政府が ...
www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/ archive/news/2006/06/12/20060612dde007030013000c.html - 12k -

イラク:年内の段階的撤収開始は可能 駐留米軍司令官-今日の話題:MSN ...
ブッシュ米大統領は12、13の両日、大統領山荘キャンプデービッドでイラク問題を 政府・軍高官らと集中討議する予定。大統領やラムズフェルド国防長官は現地司令官の 判断を尊重する姿勢を示しており、ケーシー司令官の見解は撤収計画の判断材料になると ...
www.mainichi-msn.co.jp/today/archive/ news/2006/06/12/20060612k0000e030034000c.html - 13k -

米国防長官:イラク駐留米軍の撤収、具体的に日程示さず-アフリカ ...
ワシントン及川正也】ラムズフェルド米国防長官は25日、米CNNテレビのインタビュー 番組で、イラク駐留米軍の撤収について「いったん(タイムテーブルを)決めてしまう と、その(撤収の)規模や日付に縛られ、決していい結果にはならない」と述べ、 ...
www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/ afro-ocea/news/20060526k0000e030083000c.html - 15k -

イラク:正式政府発足 陸自の撤収後も支援継続--小泉首相-中近東 ...
小泉純一郎首相は21日、金沢市内で記者団に対し、イラクの正式政府発足に関連し「 人道支援や復興支援は続けていく。支援を引き揚げるということではない」と述べ、陸上 自衛隊の撤収後も政府開発援助(ODA)などによる支援を継続する考えを強調した。 ...


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>毎日新聞は、イラクからの外国の軍隊の引き揚げに言及する場合、凱旋(がいせん)か敗走かというニュアンスとは無関係に「撤退」という表現を使ってきた。──山田孝男(編集局)

 と山田サンは大見得を切ったのに、検索したら「撤収」と書いているマイニチシンブンの記事がわんさと出てきた(笑)。ほんとはもっともっとあるのだが切りがないのですこしだけ貼った。
 これはみっともない。かっこわるい。編集局の人間が自分の属する新聞の文章を調べることもなく雰囲気だけで発言したことになる。しかも「編集局」所属だ。とんでもないミスになろう。

 興味深かったのはこの問題が起きる6月20日以前の記事にマイニチシンブンは「撤収」と使っていて、山田サンの言い分が完全に誤りなのは当然として、その後の記事でもマイニチシンブンがごく普通に「撤収」と使っていることである。

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62 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/28(水) 23:51:17 ID:QmPooEo20
読売新聞のコラムに毎日と朝日と他の新聞の「撤退」「撤収」の使用状況が載っけてたよ。
朝日は最初「撤退」で、後で「撤収」に転向だったかな。


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 この読売のコラムは探したが見つからなかった。ただ、世の中そういう悪意が指摘されたので「撤退」派が、「撤収」に転向する傾向はあるらしい。それはごく一部のサヨクでもない限り、まともな日本人なら「撤退」に負け戦のにおいを感じ取るということの証明であろう。

 雰囲気だけで書くのはよくないので、行きたくないけどアサヒのサイトに行ってみた。

 すると

陸上自衛隊について、今の時点で撤収を決めた政府の判断が「適切だ」と見る人は34%で、「もっと早く撤収すべきだった」が53%と半数を超えた。「まだ撤収すべきではない」は6%だった

 のように、「撤収」が連発されていた。たしかに転向したようである。まあ転向はアサヒのお家芸だ(笑)。

 しかし転向はまだいい。「撤退」と使う意図的な悪意をまともな読者の感覚が駆逐したのだ。アサヒなんぞ、読者の一部が「撤退」を支持していると感じ取ったらなにが何でもそれで押し切ったはずである。それこそが朝鮮日報のアサヒシンブンである。それがすんなり転向したのだからプロ市民読者の支持すらなかったのだろう。

 どう考えても日本語のニュアンスとして「撤退」とは、そこで戦闘があり、それに敗れて退いたときに使う言葉である。「戦闘」とは銃撃戦に限らない。それこそ「論争」でもかまわない。いずれにせよ「闘い」があり、敗れて退くのが「撤退」だ。イラクの陸自にそれを使うことが不適切であることはまともな日本人なら誰でもわかることである。

>毎日新聞は、イラクからの外国の軍隊の引き揚げに言及する場合、凱旋(がいせん)か敗走かというニュアンスとは無関係に「撤退」という表現を使ってきた。──山田孝男(編集局)


 問題はマイニチ編集局の山田さん。マイニチは以前から「撤収」を使っていたのだから、あきらかな間違いを真逆に言い切ってしまったことになる。これは当然謝罪が必要になる。いや「謝罪」なんてかたくるしいものではなく、すなおに誤りを認めて修正すべきだろう。だってあまりに単純明快な誤りなのだから。はたしてマイニチにそこまでやることが出来るか!?

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69 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 00:26:32 ID:/j6WJnw9O
風の息づかいを感じられれば、こんな惨事は避けられたのにwww。
悪意満々で記事書いて、しかも逆ギレで恥さらし。風とは言わんから空気くらい読め、ボム新聞。


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81 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 01:20:33 ID:SnhMR8JH0

ぶっちゃけ、毎日新聞が「撤収」という言葉を狩っただけの話なんだが。

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92 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/29(木) 02:03:47 ID:MY7+Dou00
別に撤収でも撤退でもいいけど(本人がいちいち言わなきゃ気にもならん)
政治家の言葉尻の揚げ足とって言葉狩りまがいの事してるのはあんたらマスコミの常套手段じゃないかなと思いますよ

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100 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 04:03:34 ID:713OQjjd0

 この件は最終的に毎日新聞が“撤退”することになるでしょうw

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118 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 04:35:36 ID:YzRxRmH90
>>どの辞書で調べても「撤退」と「撤収」は、ほぼ同義である。
つまりは微妙に違うって自ら言ってんじゃねえかw

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126 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 04:43:29 ID:713OQjjd0
いや、“撤退”使いたい新聞は使えば言いと思うよ。それをどう思うかは読者の判断だから。
問題は、批判されたことに対して、「同じもんだ」と子供の言い訳言っちゃったことw

ハッキリ言って、物書きのすることじゃあない


これは前記した私の意見と同じ。言うのは構わない。それがその新聞の姿勢だから。問題はそのあとにヘリクツをこねたことです。しかもそれがまちがってた(笑)。

「物書きのすることじゃあない
」はすこしおかしい。この場合「物書き」は無関係。
 ジャーナリストとして、新聞記者として、編集局の社員として、明らかな誤りである。


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179 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/30(金) 02:37:25 ID:8sB6VwLE0
「撤退」と「撤収」は同じ意味だと毎日が考えるならどうしてわざわざ政府が使ってる「撤収」と言う言葉ではなく毎日が言う不景気な字面である「退」の方に置き換えたのかを問われることになるわけだが・・・。

完全に自分から語るに落ちてるな・・・。


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180 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/06/30(金) 02:37:29 ID:AvRLHBvE0

>どの辞書で調べても「撤退」と「撤収」は、ほぼ同義である。
ダウト


てったい【撤退】〔名・ス自〕部隊などが、陣地・根拠地を捨ててしりぞくこと。

てっしゅう【撤収】〔名・ス他〕取り去ってしまい込むこと。特に、軍隊で部隊をまとめてその場所から去らせること。

by 岩波国語辞典


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私には非常に興味深いことばの問題だったが、スレが立ってから二日半経っても書き込み数はたったの180だった。殺人事件等が一晩で1000を超してしまうのと比すと地味な問題だったことがわかる。
 アサヒはしらんふりして「撤収」に転向しているし、マイニチもこのまましらんふりのようだ。「発信局」という部署から山田孝男サンは消えたらしい(笑)。
 見知らぬ人たちと意見が通じたような楽しい2ちゃんねる体験だった。


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不思議な現象!(7/3)

 なんとも不思議な体験をした。このスレが突如として消えたのである。
 最後の書き込みは以下。

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203 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/02(日) 02:59:58 ID:14YtgZdH0
毎日も駄目だよな。

凱旋なのか敗退なのか、字面で判断する話じゃねーだろ。
きっちりと、イラクに行って検証すりゃあいいじゃねーか。
当初の目論見どおり、イラクが復興したなら凱旋。復興出来ないなら敗退だ。
言葉遊びなど関係ない。
バカかよ。この新聞は。

204 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/02(日) 03:03:50 ID:8u/5AHJk0
オナニー記事ばかりかいているからだなwwww


205 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/07/02(日) 03:04:50 ID:IFKQ9QfL0
毎日オナニー

206 名前:名無しさん@6周年[sage] 投稿日:2006/07/02(日) 03:09:10 ID:7gQREPjC0
>>198
大方そのレベルなんだよ、マスゴミは。
今までは言論の場を寡占することで得た「権力」で稚拙な主張を世間に押しつけることができてただけ。

207 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/07/02(日) 19:14:59 ID:0DG6lJhT0
自衛隊北朝鮮派兵まだぁ



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 人気のあるスレではなかったがぼちぼち書き込みはあった。それがたった207の書き込みを最後として消えたのである。私は保存しておいたので207まで持っているが、そうでなかったら「幻のスレ」になっていた。
 どう考えても2ちゃんねる管理側が削除したとしか思えない。そしてその理由はマイニチシンブンが依頼した、としか思えない。どういうことなのだろう。こういうことって2ちゃんねるではよくあるのか?
 その後、この問題に関する論争はスっと2ちゃんねるから消えてしまった。不思議でならない。
 こういうことって2ちゃんねるでは日常茶飯事なの? 詳しいかた、教えてください。


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 やっぱりヘン!(7/15)
 下の「もしも高島さんなら」に、「そういうのはdat落ちといい2ちゃんねるの板ではよくあることです」という宮嶋さんの意見を紹介し、「それでもやっぱりへんだと思う」と書いたのだが、今日2ちゃんねるを見ていて、自分の意見を確信した。この場合は宮嶋さんの言うdat落ちではないと思う。

 というのは、「芸能人に関するスキャンダル情報」のようなスレが立ったのである。それを見てクリックしたら、立ってからまだ30分ほどなのにもう書き込みが出来なくなっていて、すぐに消えてしまった。そういう形で登場し、不自然な形ですぐに消えて行くスレを、「撤収と撤退」のあと、意識的に見ていて、2、3回見かけた。

 いまさらどうでもいいことだけれど、ぼくはあの「撤収と撤退」スレが、200ほどのレスで不自然に消えたのは、決して「いわゆるdat落ち」ではないと確信している。


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●阿川佐和子の「撤退」
 7月3日の「TVタックル」を見ていたら、冒頭で阿川佐和子が「自衛隊がイラクから撤退」と使っていた。そのあとに明らかな編集が見られたから、三宅さんや青山さんから「撤退ではなく撤収です」という指摘があり、彼女は言い直したと信じたい。もちろんテレ朝は「撤退」の部分を使った、と。
 ただ阿川弘之さんの娘である人が「撤退」と使ったのは事実である。

7/7
続々々・撤収と撤退

◎もしも高島さんなら?

「撤収と撤退」に関して宮嶋さんから意見をいただいた。
 まずはスレが消えたことに関して。

「不思議現象」については、おそらく他の方からのご指摘もあったかと思いますが、「dat落ち」という現象だと思われます。詳しくは、はてなやwikipediaでの解説を参照下さい。

当該スレッドも「ニュー速板」の「圧縮判定」にかかったものと考えられます。
ニュー速のような回転の速い板では、ゆっくりと充実した議論をするには向かず今回のようなことが起こるのは普通のことです。

う~む、そうなんでしょうか。「dat落ち」は理解しましたが、いくらなんでも早すぎるように思うのです。それと、勝谷さんが取り上げたことによりそれなりの話題になったし、私のような「アンチアサヒ」「アンチマイニチ」「アンチTBS」にとっては格好の話題だったように思うのですが、「マスコミ」板とかにもその後一切見えないのです。
 普通、「ニュース速報」で話題になったら、それぞれ専門の板で引き継がれて行きます。7月2日の午後7時に書き込みがあるのに3日の昼に消えていたのはいくらなんでも早すぎると思うのです。
 私なりにdat落ち(この専門用語は今回宮嶋さんに教えてもらって知りました)の現状というのは知っているつもりです。自分の興味のある話題なのに世間的にはたいしたことないのか、あっという間に300番、400番と落ちていって、消えて行くスレを見てきました。どう考えてもこのスレに関しては不自然としか思えません。

 しかしかといってマイニチシンブンの要請により2ちゃんねるから消えたという私の推測はより現実性がないと思います。そんなことをしたらますます燃え上がるのが2ちゃんねるですから。
 結局、アサヒも撤収に転向したし、マイニチは以前から撤収と使っていたとわかって、一気に投稿者の熱意が冷えたということなのでしょうか。なぜ「マスコミ板」に「マイニチシンブンの撤収と撤退」が立たなかったのか不思議です。

 デカいことを言い、しかもそれが間違っていた「発信局」のヤマダタカオに謝罪文を書けと迫るのはいかにも2ちゃんねる的楽しみだと思います。まだ解決していないと思うし。そんなにスッと消えるものでもないでしょう。
 不思議です。どうにも納得できません。

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「撤収と撤退」論争ですが、わたしも最初は同じような感想でした。
ですが、高島先生流に考えると、どうなのかと疑問を持ちました。つまらない漢字の違いの問題と斬って捨てるか、それとも高島先生がお嫌いなサヨクへの反感を示されるか、どちらも可能性としてありそうな気がします。
結局は両者の合わせ技ということになりましょうか。
1.意味はどちらも違わない
2.なら政府の使う言葉を使うべき

立場としては結局、既存のものと同じになりますね。
ただ、高島先生ならば、勝谷氏のコラムにあるような、自衛隊関係者が「撤収」と「撤退」の差にこだわることそれ自体を愚とする、という論座をまず持ち出す可能性もありますし、その可能性はわたしたちとしても常に意識する必要があるのではないでしょうか、と70年代サヨク的ドキュメンタリーの終り方をあえて使って結びとしてみました(これは、この一文を書くとき、そういうフレーズを最初に想起してしまった自分自身への蔑みと戒めです)


そうですね、高島さんのひねくれ度合いだと、「撤収なのに撤退とはけしからん」と単純に行くのではなく、もうひとひねりありそうです。それこそが持ち味ですから。自衛隊のこだわりにまで踏み込みそうです。
 私は、ほんとに取り上げてくれないかと思ったのですが、『お言葉ですが…』のテーマにするにはあまりにちいさかったようですね。これって真におもしろいのは「ことば」としてではなく、「サヨクマスコミの悪意」ですから。

 先日、比較的あたらしく知り合った人に、自分のホームページの性格として書いたことなのですが、私が高島さんに感謝する最大のことは、「文部省指導色に染まっている自分の目を覚ましてくれるから」になります。
 たとえばちかごろの若者の「肯定のぜんぜん」が気に入らず、「ぜんぜんのあとは否定が来るのだ」と憤ります。街のアンチャンネーチャンならいいけど、将棋の羽生が「ぜんぜんいいと思います」と使っていたりすると気になってたまりません。「まったくちかごろの若者は!」と腹立ちます。
 ところが高島さんも肯定でぜんぜんを使います。それを読者に指摘され、「戦前ではふつうに肯定でも使っていた」と教えてくれます。結果、「ぜんぜんのあとは否定」と学校で習ったことを丸飲みにしている自分を恥じることになります。まあ未だに馴染めず使ってはいませんが。

 一方でまた「なにげに」なんて気味悪いものが若者言葉として流行り、ぜったいおかしいと思うけどもしかしてこれもこれでいいのか? と思ったりすると、はっきり「そんな日本語があるわけがない」と言い切ってくれます。頼りになります。

 電車の中での会話として、「徳川ケイキ」と言っている人がいて、もうひとりが「ヨシノブだろ」と注意する。ケイキと言った人は赤面してヨシノブと言い直す。
 それを耳にした高島さんは「いや江戸時代も明治もむしろケイキが一般的だった」と教えてくれます。私の知識はもろに「ヨシノブだろ」レヴェルですから、これが目から鱗になります。

 最近読んでくれるようになった人たちに、そんな説明をしました。博識の高島さんを盲従的に尊敬しているのでなく、そのひねくれ度合いが心地いいという話です。うまく伝わったかどうか……。

 と書いていて、宮嶋さんもまた高島さん的資質をもっているかただと気づきました(笑)。
 またいろいろ教えてください。

7/3
物書きと百姓

 宮嶋さんが意見をくれた。「物書き」ということばに対してである。
 阿川弘之さんが「物書き」という言いかたを嫌い、「文士という適切なことばがあるのに何故そんな言いかたをするのか」と書いているそうである。それで宮嶋さんは、私も「物書き」と使っているようだがどう解釈していますか、と上手に刺激してくれた。感謝。
 このサイトの中で、私は何度も自分を物書きと名乗っている。

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 それで思ったことはふたつ。
 ひとつめ。三十代半ばのころだった。北海道の牧場取材でかわいい娘さんと知り合い、東京にもどってからもたまに食事をしたりしていた。彼女は獣医関係の学校から牧場に研修に行っていたのだった。
 その当時二十歳の娘さんが、話しているとき、やたら私に対して「物書き」と言うのである。ごくふつうに「物書きってお仕事もたいへんですよね」「いつごろから物書きになろうと思ったんですか」「やはり物書きとしては」のように。

 私は自分のことを自分で物書きとはよく言っていたが、他人から言われたのは初めてだった(笑)。
 なんとなく、遙かに年の離れた娘にそう言われることはあまり気分が良くなかった。それでおじさんが娘さんに常識を教えるつもりで、「物書きが自分のことを物書きと自称するのはいいが、他者が物書きと連発すべきではないのでは?」と言った。娘さんは恥を掻かされたと感じたのか、いぶかしげな表情をした。
 だいぶ前のことだがよく覚えている。

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 餘談ながら、昨夏また東京にもどった際に、その娘さんにも静岡の実家宛に引っ越し通知を出した。今年の正月に年賀状が届いた。こども二人に囲まれた三十代半ばのおばさんになっていた。しあわせそうで安心した。
 もうひとつ餘談。ダイユウサクが勝つ有馬記念のとき、私はこの娘さんと美保の松原上空をセスナ機で舞っていた。メジロマックイーンから行き、たっぷり儲けるつもりだったのに地上に降りたらダイユウサクなんぞという出ていたことも忘れていた馬が勝ち(単勝万馬券)、ダントツ人気のマックイーンとの組み合わせでも馬連は7600円もついていた。スティーブ・マックイーンとマツダユウサクで「俳優馬券」と言われた年である。

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 もうひとつ。そのことで「百姓」を思い出した。もともと百姓は美しいことばである。ご飯を食べるときは誰もが「お百姓さん、ありがとう」と感謝して食べたものだ。中国では今もレストランに「百姓茶屋」とあったりして一般的に使われている。字からもわかるように悪いことばのはずがない。でも日本では「このどん百姓!」のような罵りことばの流れからかいつしか禁止用語になってしまった。時代劇の中にも一切出てこないのが不自然で笑える。

 私の田舎の友人は、農業をやっている自分を誇り「おれは百姓だ」と言う。「農業とか農民とかいう言いかたは嫌いだ」と。
 しかし彼もまた他人から、特に嫌いな人間から、「あんたら百姓は」「おまえらは百姓として」のように言われたならいい気分ではないだろう。
「物書き」について考えていて、そのことを思い出した。

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 宮嶋さんから意見を求められて、以上ふたつが瞬時に思ったことだった。
 好意を持っていた娘、しかもまだ世の中のことを知らない二十歳そこそこの娘さんから言われてもあまりいい気持ちはしなかったのだから、私も敵対する人から面と向かって「物書き」と言われたら気分はよくないのだろうと推測する。幸か不幸かまだ経験はない。

「撤収と撤退」にあった2ちゃんねるの書き込み。

126 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/29(木) 04:43:29 ID:713OQjjd0
いや、“撤退”使いたい新聞は使えば言いと思うよ。それをどう思うかは読者の判断だから。
問題は、批判されたことに対して、「同じもんだ」と子供の言い訳言っちゃったことw

ハッキリ言って、物書きのすることじゃあない


 を見ても、私は第三者ながら、こういう匿名の人の「物書き」と言う表現にいい気持ちはしなかった。この場合は「新聞記者として」が適切であろう。というか、こういう発言をする新聞記者と「物書き」は職業としてニュアンスが違うと思うのだが。
 私個人の狭義のこだわりとして「物書き」と「ジャーナリスト」は異なるように思っている。いやこれはあきらかな誤りで、文章を書いて口を糊しているなら誰もが「物書き」であるから、ジャーナリストも含まれると解釈すべきだろう。ただ私は新聞記者と物書きはちがうと個人的にこだわっている。

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 阿川さんが「物書き」を嫌ったことには時代を感じる。当時は「どん百姓が!」と同じように、「たかが物書き風情が!」という言いかたが蔓延していたのだろう。いや今でもあるだろうけど私はさほど感じたことはない。これは一種の「時代感覚」とも採れる。
 こういう形で新聞記者を貶めるとしたら「たかがブン屋が!」になるのか。その意味でも上記2ちゃんねるの「物書き」はやはり不適切のように思う。
 農業をやっている友人の「おれは百姓だ」のように、私も「おれは物書きだ」と思っている。そもそも「小説」だって「小人のとるに足らない説」という中国の詩を高等とする視点からの差別語である。世の中そんなものがあふれている。(書いて思った。日本語は難しい。これは「中国という国が、詩を高等とし、物語を軽視してきた流れである」という意味だ。だが「中国の詩を、高等にしてきた」ともとれる。難しいね。)

 さて阿川さんがこだわった「文士」だが、私はもちろん三文物書きなのでそんなことは名乗れない。しかしもっとまともな作品を世に問いステータス?があがったとしても、この言いかたにはあこがれない。自称することもないし言われることもないだろう。なんだろうな、これ。阿川さんとの世代差だろうか。
 やはりいちばんいいのは中国でも通じる「作家」のように思う。

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 まったく面識のない寺澤慶一さんという人のホームページに、私は「自称タイ通フリーライター」と身分紹介されている。
 私は自分をタイ通だと思ったこともないし自称したこともないので、この部分に関し訂正してくれと要求するつもりでいる。
 しかしその後の「フリーライター」は適切だろう。その程度の存在だ。これは意味不明な日本語なので正しくはフリーランスフリーライターだが。
 これに抗議は出来ない。そのことにも抗議できる身分になれるよう、今後も日々精進して行きたい。(7/7)


06/9/1
 カンパツを入れず

 「間髪を入れず」は俗に「カンパツを入れず」と続けて言い、髪がPatsuと発音されることが多い。正しくは「カン、ハツを入れず」と「hatsu」である。
『広辞苑』を引いてみると下記のようになっている。
(毎度書くことだが私は『広辞苑』信者ではない。出来るなら使いたくない。でもいま使いやすい電子辞書が『広辞苑』しかないのだ。MSの新OSに対応せず使えなくなったCD版『大辞泉』を恨めしく思っているとは何度も書いた。こういうふうに「『広辞苑』では」と書くのは不本意だ)
 敢えて(ハツ)と入れているのはそれだけ御用が多いということだろう。このハツが半角カタカナなのが笑える。そういう規定なのか。こんなもの2ちゃんねるでしか見たことがない(笑)。

○間髪(ハツ)を容れず
[文選、枚乗、諫呉王書] 間に髪の毛一本を入れるすきまもない。事が非常に切迫して、少しもゆとりのないことにいう。転じて、即座に、とっさに、の意。
『広辞苑』より

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 こんな常識的なことを敢えて書いたのは、「あれはね、カンパツじゃないよ、カン、ハツを入れずと言うの!」とテレビで主張していたのが伊東四朗だったからである。あまり自分を主張しない人なのに、このときは「どうにも我慢できない」という意志が見えて新鮮だった。三宅祐司との会話だった。

 『ゴーマニズム宣言』の小林よしのりが、靖國神社のみたままつりに献灯して話題になったことがあった。そのとき小林は印象的ないくつかの提灯を絵で再現している。その中のひとつに「英霊よ、今この国がおかしくなりつつあります」という文字の伊東四朗という人の提灯があった。
 ありふれた名である。ごく一般の人だろうか。それともてんぷくトリオ時代から見ているあの人だろうか、と思った。私の中でてんぷくトリオや電線音頭の伊東四朗と自分と同じ思想の芸能人伊東四朗が繋がらなかった。前々から好きな人であったので、もしも同一人物ならうれしいとは思ったが……。

 それがこの「カン、ハツを入れず」で一瞬で繋がった。まちがいない、あの提灯はこの芸能人の伊東四朗さんだと。

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 芸能人にはオーハシキョセン、アイカワキンヤのように左利きが多い。セキグチヒロシもそうだが、何故か私はあの人には腹が立たない。というのは中身のない人がポーズでやっている左利きだからだ(笑)。商売である。中身のない人間が知性的な人を演じようと思ったら左利きを演じるのがいちばん安易で効果が高い。その最大の成功者がクメヒロシか(笑)。

 そしてまた他所でも書いているが、藝人というのは反体制でいいのだと思う。そのことから生まれてきた芸術も多い。私はアイカワキンヤは嫌いだが、彼が爆笑問題に語った「藝人は反体制でいて欲しい。いるべきだ」はそれでいいのだと評価している。
 古来より藝術は時の支配者の庇護の元に発達してきた。しかし近代になってからはそれがなくても生き延びられるようになり、ヘミングウェイ、ピカソのような藝術が生まれるようになった。それもそれでいい。
 アメリカのミュージシャン、俳優もほとんどが民主党支持者である。カントリー系ミュージシャンを除けばシュワちゃんのような共和党は珍しい。
 日本の役者もその路線である。だけどヤマシロシンゴが小泉首相を「あいつのやったのは息子を役者にしただけだ」と得意げに言っているのを聞くとイヤだなあと思う。受けねらいが見えるからだ。そういうのを見ていると学生時代の自分の未熟さを思い出し赤面する。

 だからまあ芸能人の多くが左巻きであっても気にならないのだが、ひとりやふたりはそうではない本物が欲しいと思う。それが伊東さんであったことがなんともうれしい。
 果たして載っているだろうかとwikepediaを引いてみた。すると長文の紹介の中に以下の文があった。

 芸能界では珍しいが筋金入りの保守思想の持ち主であり新しい歴史教科書をつくる会を初め各種の団体の賛同者になっている。また石原慎太郎とともに戸塚宏の有力な支援者である。

 しかし伊東さんがそれをテレビで語ったことはない。一方、キョセンやアイカワ等、左は好き放題にしゃべっている。そこのバランスが不満だ。
 慕う人の多い伊東さんだから、芸能界にはその薫陶を受けた藝人が数多くいるはずである。それは誰なのだろう。ぜひとも知りたいものである。

 芸能人がそうだったと知っても、誰でも彼でもうれしいわけではない。たとえば北島三郎ご本人、一連の弟子がみなそうだとしても、私は感激もしないし喜びもしない。彼らの場合は任侠という方面から来たものであり私の望むものとは違う。
 伊東さんから教えを受けた三十代、四十代の芸能人がいるはずなのだが、それは誰なのだろう。
(アイディア06/9/1。文07/1)


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