04/5/3

クルマの名前──CALIFORNIA

 父を接骨院に連れて行く。他県から帰郷しているのか遊びに来ているのか、やたら他県ナンバーが目立つ。
 信号待ちの時、目の前にいるクルマがニッサンのものであり、車体にCALIFORNIAと入っているのが見えた。ステッカーではない。ボディに板金で入っている。そういう車種らしい。長野ナンバーだった。つまらん名前だと思った。
 白人や黒人チンピラの勘違い入れ墨には笑える。漢字だ。ゲイリー・グッドリッジの「剛力」なんてのは数少ないまともなもので、いったいなにを考えているのやらというのが多い。マイク・タイソンは刑務所の中で毛沢東と入れてきた。それでイスラム教に改宗した(笑)。なんだかわからん。でも知らなければそれでいい。本人がかっこいいと思っているのだから。
 GEやFORDが新車にNAGANOとつけることはない。TOKYOでもあるまい。何をどう考えるとCALIFORNIAとつけられるのか理解に苦しむ。ニッサンのどういうバカがこんな車名にしたのだろう。

 中国のクルマのモデル名はかっこいい。みな漢字だ。本家だけあって決まっている。
 でもこれも北京オリンピック以降、英語ブームになり、売れるとわかったらそれらしきアルファベット車名が出てくるかも知れない。所詮は商売だ。いま無いのは中国車が世界市場と無縁だからにすぎない。東洋人が白人をかっこいいと思ってしまうのは外見へのコンプレックスからしかたがないのだ、という意見がある。かくいう私も長年そうだった。リッパなことは言えない。中国の変化を見守りたい。
 CALIFORNIAなんて車種で茨城県を長野ナンバーで走るのはかっこわるい。それだけはたしかだ
04/5/7

他人事 人事 ひと事 人ごと──あるいはひとけと人気

 NHKラジオのことばの時間。「他人事──ひとごと」の話。父を接骨院に連れて行く車中で偶然聞いた。この番組はおもしろいと思うのだが、かといって毎日熱心に聞く気にもなれない。どちらかというと近年の日本語の乱れに憤懣やるかたない(現場を離れた)ご老人向けの番組なのではないか。そういうことに敏感でなければならない立場にいながら、聞くのがつらくなって偶然出会っても消してしまうことがある。考えてしまって息抜きにならないからだ。考えたくないときもある。

 きょうのテーマは「他人事」と書いてどう読むか、だった。これは「ひとごと」に決まっているのだが私も前々から気にしていたので消さずに聴いた。意味は字そのまま「他人の事」なのだがこれを「ひとごと」と読ませるには無理がある。そう読ませるのだよと教育された人しか読めまい。かといってカナを振るのもわずらわしい。「人ごと」にするにも抵抗がある。「ひと事」のほうがまだいいか。
 NHKアナの発言は意外だった。NHKはすでに平成14年にこれに関する調査をしたのだという。それによると8割が「たにんごと」と読み、「ひとごと」と読む人は2割だったとか。世の中そこまで変っている。
 新聞は「人ごと」と表記することが多く、NHKは「ひと事」にしているとか。なるほどねえ。「いろいろ苦労しています」とアナが苦笑しつつ言っていた。
 この言葉に関する最大の障壁は「人事」である。これを「ひとごと」とすればいいのだが、これにはもうひとつ「じんじ」がある。「ひとごと」と「じんじ」は違う。これは「ひとけ」と似た問題だ。「人気」は「にんき」になってしまう。これも「ひと気」と書いたりする。

 私はこういう場合、高島さんの影響から率先してひらがなにするほうなのだが、この言葉の場合はそうスッキリとは行かない。というのは「ひとごと」と使う場合、それは「人の事」というよりも、「まあしょせんひとごとだしね」のように、「自分には関係のない他人のこと」の意味合いが強いからだ。その意味で「他人事」は表意文字漢字の優れた面が現れた視覚効果のある表現になる。だから「たにんごと」と読まれても気にしないなら「他人事」が望ましい。ただしそこに「ひとごとと読んでくれ」との気持ちがあるとビミョーである。どうしよう。「ひと事」とすべきなのか。他人事で突っ走るべきか。
04/5/9

トロイの木馬──Troyan? 
 雨の日の午後、昨年のパソコン雑誌を読み返していたらコンピュータ用語のページがあり「トロイの木馬──Troyan Horse」とあった。んんんん? と一瞬蒼ざめる。トロイの木馬はたぶんWooden horse at Troyとか言うのだろうと自己完結していたぼくは、コンピュータウイルスの流れからトロジャン・ホースと言うのだと知り、またひとつ賢くなった、トロジャンはパリジャンと同じような変化であろうとよけいなことまで書いた。4月1日である。
 正しいのがTroyanだとしたらTrojanと書いてわかったふりをしたことがまた物笑いの種になる。英語が得意な友人は、指摘してやろうか、でもそれも失礼かと遠慮していたのではないか。
 急いでパソコンを起動し、そのページを開き、もういちど辞書を引く。すると「Trojan」である。「Troyan」は人名でしかなく、しっかりと「トロイの木馬──Trojan Horse」とある。他の辞書もそうだから間違いないだろう。だったらこのパソコン雑誌にある「Troyan」とはなんなのだろう。小文字のyとjは似ているから単なる誤植なのか。だがこれで記憶したら後々までそう覚えていた。いやトロイはTroyなのだからTroy-anもまだ捨てきれない。

 バイクの思い出
 大学のころ、プロレス好きの後輩と話していて、プロレスの反則技、ブラッシーに代表されるかみつきをバイクと言ったらバイトでしょうと修正された。そいつは英文学部の知的なヤツで間違いは私であることは明らかだった。それでもなんとも釈然としない。未練たらしく部屋に帰り辞書を引いた。

bite──【@】バイト、【変化】《動》bites | biting | bit bitten、【大学入試】
【名-1】噛みつくこと、魚信、食い、(魚の)餌、咬合
【名-2】かまれた跡、刺傷、咬傷
【名-3】ひとかじり、軽い食事
【名-4】切れ味、鋭さ、辛辣(しんらつ)さ

bike──【@】バイク、【変化】《複》bikes、
【名-1】バイク、自転車◆【語源】bicycleの省略形
【名-2】ふしだらな女、尻癖の悪い女


 であり間違いはない。どう考えても噛みつくことが「バイク」であることはあり得ない。しかも高校時代からの愛用辞書にはしっかりと赤線が引いてあった。そりゃ基本単語だからいくらぼくでも「かみつく──bite」とは知っているのである。英文和訳に出てきたらそう訳したろう。ならなぜプロレスのかみつき技(?)はバイクだと思いこんでいたのか。それはプロレス雑誌でそう覚えたからである。これは自信を持って言える。あのころ読んでいた『ゴング』はかみつきをバイクと書いていたのだ。ぼくはそれで間違って覚えたのだ。とひとりで力んでも意味はない。釈然としないまま時は過ぎる。

 あれは二十八の時だったか。肉体労働者兼放送作家のころである。バイト先(いやそっちが本業か)の工事現場で同い年のヤツと知り合った。そいつも法政大学を出て落ちぶれている似たようなヤツだった。そいつがまたプロレス好きですぐに意気投合した。そいつが言ったのである。ある夜酒を飲んでいたら、「かみつきはバイク」と。やはり『ゴング』で覚えたらしい。あれほど救われた気分になったこともそうはない。英語なんてぜんぜん知らない人が作っていたプロレス雑誌にはそんな間違いがいくつもあったと思われる。

 話もどって。
 このパソコン雑誌で「トロイの木馬=Troyan Horse」と覚えたら、この「かみつき=バイク」と同じように後々まで引きずったろう。ぼくの場合、アンチウイルスソフトをDownloadするときにこのコトバをネットで見かけ、辞書を引いて覚えたということと、パソコン雑誌のパソコン用語欄で学んで記憶する、ということは紙一重の違いでしかない。もしもTroyan Horseで覚えたら、未だに気づいてなかったように思う。基礎知識のないうろ覚えは怖い。
04/5/11
 クイズエキサゴン

 フランス語はH(アッシュ)を発音しない。よってバッグ屋ヘルメスはエルメスとなり、名馬ヘリシオはエリシオとなる。それぐらいは知っているのだが、ヴィデオに録ってあった「クイズヘキサゴン──挌闘家大会」で、シリル・アビディが「エキサゴン!」と言っていたのに妙に感心してしまった。

 フランスに育ったら語頭のハ行は発音できないのであろうか。これで有名なのは朝鮮人が朝鮮語にはないため「語頭の濁音」が出来ないことだ。代表的なものに「カヤロー」がある。なにも「日本人はRとLの発音が」なんて悩む必要はないのだ。それが国民性ってもんである。朝鮮人でも日本育ちだと出来る。だから肉体的な問題ではなく(あたりまえだ)言語を覚える過程なのだろう。

 と考えていたら、むかし「ディランⅡ」のアルバムに隠し唄のように入っていた「マンテツのキンポタンのパカヤロー」を思い出した。といって、「おお、おお、あれね、知ってる知ってる」と言う人がいるとは思わないが。

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 フランス語といえば、チェンマイ『サクラ』のシーちゃんのお姉さん、チャーさんの家に遊びに行ったとき、大学でフランス語をとっていたと話したばかりに、なんで佛会話を話せないのだと地元の人にさんざん不思議がられて赤面した。
 チャーさんはフランス人と結婚してルーアンに住んでいる。ルーアンはパリから特急で一時間ほど。ジャンヌ・ダルクの死んだ町だ。あの辺ももっときちんと文章で残しておきたい。悩みはどこに言ったのか銀塩写真がないことだ。いいものをいっぱい撮ったのだが。


 CDにコピーしてあったのが見つかった。1枚掲載。丘の上からセーヌを望む。(05/12/7)

04/5/13
 バケツをひっくり返したような

 週末は天気が崩れるらしい。朝のNHKニュースで「きょうはバケツをひっくり返したような雨になりそうです」とアナが言ったのが、聞き慣れた慣用句ではあるが新鮮だった。

 たしかこれは気象用語(?)だったと思い出す。「バケツをひっくり返したような」は、激しい雨降りの状態を表す正規用語なのだ。それよりも強い雨降りはなんというかだ。正解は「滝の中(近く?)にいるような」だった。どこかで学んだ覚えがある。

 一見NHKのアナは「きょうは強い雨が降ります」というのを「バケツをひっくり返したような」と俗な譬喩でいったようでいて、じつは気象用語を言っていたのだ。
 こういうことも勉強したいが、さてどこでどうやればいいのやら。
04/5/13
 プエルトリコテンポイント

 バレーボール中継のアナが対戦チームの国を「ぷえる・とりこ」と言っていた。プロでもそう言ってしまうのかと新鮮だった。

 ぼくも若いころずっとそう言っていた。直したのは三十代半ばか。なにか縁があり勉強した人や行ったことのある人でなければ、普通に日本人がこのカタカナを読んだらそうなる。ぼくも地理の勉強をしたときには正しく覚えたはずだ。それがいつしかそうなったのは日本人の発音としてそのほうが自然だからだろう。正しくは言うまでもなく「プエルト・リコ=Puerto Rico」である。

 しかし、これは以前競馬文章でも書いたことがあるのだが、テンポイントという6文字馬名を「てんぽ・いんと」と読む人はいない。みな正しく「テン・ポイント」と言う。それはなぜなのだろう。母音のせいか。N(ん)があるからか。それともテンとポイントが誰でも知っている英語だからか。いやいやぼくがそう思いこんでいるだけで競馬のことなどなにも知らないおばちゃんなら「てんぽ・いんと」と読む日本人はいくらでもいるのか。
04/5/16  バレーボール、Volley Ball、ヴァレイボール 

バレーボールと書いていたVolley Ballを、VとYの発音の自分流の取り決めに従い、ホームページ内すべての表記を「ヴァレイボール」と置換する。こんなくだらない手直しも一気に置換できるコンピュータだから出来る。ありがたいことである。
 深い意味もなければとりわけこだわっているわけでもない。まして他人に強要する気など毛頭無い。要は英語を知らないバカがすこしでも英単語を覚えることに役立てようと心がけているだけである。

 と、ここで「ヴァレイ=谷」を思い出す。これぐらいは私でも知っている。谷間のValleyもバレーボールのVolleyも同じカタカナのバレーである。バレーボールのほうは「ボレー」のほうがよかったのではないかと思ったりする。とするとヴォレイボールか。通じないな(笑)。

 あ、思い出した。元々バレーボールはテニスのボレーをヒントに発案されたものだった。テニスではボレーというのだからやはりボレーボールが正しい。テニスはボレーなのに、なんでこっちだけバレーになったのだろう。

 踊るほうはBalletだから、これはバレーと伸ばさずバレッとするほうがいい。しかしBallet Dancer(バレーダンサー)をバレッダンサと音引き二つを削って書いたらわかってもらえないか。だけどバレーダンサーとは書きたくない気もする。まこと外国語のカタカナ表記はむずかしい。こういうのはBallet Dancerのことを日本語では「バレーダンサー」というのだ、と丸暗記して解釈するしかない。

04/5/12
 ダブる

 意識しないままごく自然に「ダブる」と使ってしまった。「サボる」の場合はまだ外国語(佛語)を日本語動詞にしていると意識しているが、意識しなかった分こちらのほうが重症か。「事故る」なんて日本語は使わないとエラそーに言っているどころじゃないな。
 でも「パニクる」「スタンバる」にはまだ抵抗があるが、どうにもダブるは使ってしまいそうだ。べつに重複するのほうが高級だとか正しいとかでもないし。
04/5/18
 あふれている殺人事件 

 父を医者に連れてゆき待っているあいだの待合室で読んだ讀賣新聞にこんな投書があった。
「最近のテレビ欄を見ているとやたら××殺人事件のようなタイトルが目立つ。現実にも心が暗くなるような殺人事件ばかりなのにどうしてこんなことをするのか。やめてもらえないか」

 ごくまともな意見である。しかしこれは「みんなが心を合わせれば地球から戦争はなくなるはず」と同じくあまりにキレイゴトすぎて恥ずかしい意見のような気もする。なのにここに取り上げたのは私も前々からこのそこいら中にあふれている「殺人事件」なるものに抵抗があり嫌いだったからだ。

 赤川次郎や西村京太郎に代表される「××殺人事件」なる安易なタイトルの推理小説群がある。最も売れるノベルスでもあるらしい。私はああいう推理小説なるもののおもしろさがわからない。いや勉強のためにかなりの量を読んでますけどね。でも「これはすばらしい。最高だ。これぞ小説だ」なんて思ったことは一度もない。

 人が殺される。刑事(あるいは素人の主人公)が犯人を追う。トリック。アリバイ。解決。
 より「本格物」なんて呼ばれるのも、まず人が殺される。密室。いったいどんな謎が……。
 ずいぶんと簡単に人が死ぬ。日常的な軽い話題としてころころ死んでゆく。次々解決される。これはことば遊びなのであって真剣に「殺人」と考えてはいけないのだろう。しかしなあ……。

 私も三十代のそこそこ売れていたライタのころ、競馬ライターであり競馬ブームだったから、「ダービー殺人事件」のようなノベルスを書かないかとよく誘われた。私は即座に断ったが、彼らの言った「とりあえずこういうものを売って名を世に出ることも必要だ」は一理あったろう。そんなものは嫌いだという私の摂理のほうが強かったが。
 これに乗ったというか自分から出版社に「ダービー殺人事件」とかを書き上げて持ち込み出してもらった人もいる。世に出てはいないようだから書けばいいってもんでもないようだ(笑)。

 テレビの人が殺されるようなドラマなんて長年見たことがないが、やるべきではないと思っている。日本はもっとアメリカのように、番組の内容も言葉遣いも、誰もが見られるテレビと、有料で見る映画等の区別をつけるべきである。

 そうして一方では、「イラクで人が死んだ。たいへんだ」とやっている。戦争なのである。人は死ぬ。50人、100人で大騒ぎしている。広島、長崎、東京大空襲じゃ10万人が殺された。かと思うと湾岸戦争の時の「油まみれの水鳥」のような気味悪いヒューマニズムが出てきたりする。

 そしてまたあの「人質事件」のようなバカがいる。「人の命がかかってるんですよ、すぐ自衛隊を引き上げてください」と泣き騒ぐ家族がいる。毎日何十人も小説やテレビドラマで殺されている。それを茶の間で楽しむこととてめーが好きで行ったのに殺されるかもとなったら泣き叫ぶ矛盾。
 捕虜の虐待なんていつだってあった。奪い犯し殺すのが戦争勝ち組の基本だ。それが楽しみだ。むかしとの違いは映像時代になってそれが公表されるか否かだけである。

 奇妙な時代である。テレビや小説の殺人事件をお茶の間で楽しみ、油まみれの水鳥に涙し(あの映像は戦争とは無関係だったが)、捕虜が虐待されたと憤慨し、報復の首切りに震え上がる。それらと現実の指先のささくれの痛みは別次元だ。
 まともに血を流す痛みを知っていたら、安易な殺人事件の乱発は出来ないと思うのだが。(5/18)
04/5/20
 しろくろとこくびゃく

 昨日、共に好調の白鵬(モンゴル)と黒海(グルジア)の対決があった。黒海が勝って共に3敗となった。どうも白鵬というと白のイメージでロシア系と思ってしまう。色の白いのは黒海のほうである。前日この取り組みに対して解説の北の富士が「どっちが強いかクロシロをつけてほしいですね」と言って笑いを取っていた。

 訓で言うと「しろくろをつける」と白が先。音で言うと「こくびゃくをつける」と黒が先に来るようだ。いろいろむずかしい。
04/5/27
 雨後の筍──死譬喩のいくつか 

 死語ならぬ死譬喩とでも言うべきものにこだわりがある。こだわりとはちがうか。ためらい、とでも言ったほうがいい。こだわりだと「おれは断じてそんなものは使わん!」になるが、そんなにかたくなでもなく、決め事を持っているわけでもない。ごく単純に「これってちょっと今の時代には……」と使用するのをためらう表現だ。あるいは、無知のまま気づかずなんの疑問も持たずに使っている表現もあろう。これは無知なのだから仕方ない。問題はよく知っている場合だ。

 私の場合その筆頭が「物事が相次いで出てくるときのたとえ──『広辞苑』」の「雨後の筍」になる。
 私は田舎者なのでそれを知っている。いや多少嫌みな言いかたになるが田舎者でも竹山を持っていなければこの譬喩は実感できない。田舎者でも知らない人は多いだろう。私は子供のころ、本家の竹山で筍掘りをして体験した。成人してから筍掘りの経験は二三度しかない。あれはあれでこつがあってむずかしい。

 まったくもって「雨後の筍」の成長力はすさまじく、午前中、まったく何もないところに顔を出したかと思うと、午後にはもう三十センチほどにもなっている。それがあちこちから信じがたい勢いで顔を出す。生命力なるものの強さに感嘆する。気味が悪いほどだ。植物がこれほど勢いよく成長する様を目前にすることはそうはあるまい。だからこそ古来よりの譬喩として残ったのだろう。
 しかしこれ、実感として感じられる日本人が今いかほどいるだろうか。いや譬喩なんてのは通じればいいのだから知らなくても言い。調理用のタケノコしか知らず皮のついた本物を見たことがない都会の子供でも、これがそういう意味の譬喩だと理解していれば使っても支障はない。コトバとはそんなものだ。「これはもう歴史に残る金字塔ですよ」とそれがピラミッドのことだと知らなくて使っても通じさえすれば問題はないように。

 ピラミッドだと遠いから気にならない。「エジプトでピラミッドを見たこともないのに金字塔なんて安易に使うもんじゃないよ」と言われたら反発する。だが「雨後の筍を見たこともないのにそんな言いかたをするなんておかしいよ」だと、妙にそうだよなあと思ってしまう。私は知っているので使おうとするのだが、そのたびに「読んでいる人は譬喩として理解してくれるだろうけど、そのうちの何割がほんとに雨後の筍を知っているだろう」とか、年配の人の中には「こいつは本当に雨後の筍を知っていて使っているのかと思っている人がいるのではないか。おれは知っているんだけど」と詮ないことを考え始めて結局使わない。

 結論として、出来るだけそういうよけいなことを思い浮かべてしまう譬喩は使わないほうがいい。問題は、それに匹敵する代替えの表現があるかどうか、になる。

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 さて、何年も前から書こうと思っていたこのことを今回やっと書けたのは、超ミニ版雨後の筍を体験したからである
 我が家の庭に観賞用の竹がある。大名竹という背丈の低い篠みたいな細い竹だ。1メートル四方ほどの地にこじんまりと四五本立っている。買ってきて植えたものだ。これがこの時期成長するらしく、地下を這い、何メートルも離れた玄関先や芝生の中にひょいと顔を出すのである。なんと強い繁殖力だろう。朝、見つけたときは5センチほどの鉛筆ほどなのに午後には15センチのウインナソーセージになっている。これはまだ発見が早いからで、生け垣の中に出たものは気づいたときにはもう1メートル半にもなっていたりする。生け垣までは七八メートルはある。どれほどの地下茎かと考えるとあきれるほどだ。
 玄関先に出たものは私がこまめに切る。父がけつまづいて転んだら危ないからだ。年寄りは転倒で骨折する。それが寝たきりの原因となり命取りになったりする。散見する七八本のそれが、切っても切っても翌日にはまた5センチほどになっているのである。そしてまたそっと近くにあたらしいのが出てきている。すこしは遠慮しろよと言いたくなるほどの繁殖力だ。このいたちごっこ(これまた死譬喩か)はまだまだ続きそうである。

【附記】  漢字の筍について
 筍という字について「竹の旬と書いて筍」と言う人が多い。それはたしかに見たとおりだ。この場合の旬は「いちばんすばらしいとき、おいしいとき」の意で使われている。料理番組でよく口にされたりする。「なにしろ竹の旬と書いてタケノコですからね」と。
 しかし正しくはこの旬は、上旬、中旬、下旬と使われる時の「十日間」の意である。タケノコは十日間で竹になる。「竹になる前の十日間の状態=竹の子」。そういう意味だ。竹の子は十日で成人する。「人を信じる者と書いて儲かると読む」ほどひどくはないにせよ漢字俗解はかっこわるい。ガッツ石松がこういうのが好きなんだよなあ。

【附記/2】 季語の竹秋──麦秋のこと
 アサヒが天声人語で「青々とした竹の美しい時期だ。これから夏にかけて益々その命を謳歌し」のようなことを書いたらしい。すると私が熱心に読んでいる数少ないネット掲示板「アサヒシンブンを笑いながら叩きつぶす掲示板」(正しくはアサヒシンブンは漢字。私が書きたくない)で早速それが取り上げられ、「竹は四月になると葉が黄ばみ出す。これが竹秋であり、季語は春になる。まったく天声人語も(笑)」と間違いを指摘されていた。笹類の季語は一般の草木とは逆になる。それを今の天声人語担当者は知らなかったのだろう。私ですら知っていたことだから、公称発行部数800万部の日本中のインテリが最も読んでいる新聞には、読者から山と抗議が届いたことだろう。

 アサヒは大嫌いだけど、それとは関係なくこういう仕事はつらいと思う。とてもザマーミロとは思えない。人はスーパーマンにはなれない。なるべく不得意な分野には口を出さないようにしている高島俊男さんですら専門分野で読者に間違い勘違いを指摘されて訂正しているのは毎度だ。なのにこの種のものはひとりが毎日多岐の分野にわたって書くのである。いくらなんでも無理がある。よって楽なものに逃げる。同じその掲示板での分析によると近年の天声人語は「三分の一が故人を偲ぶもの」だそうだ。なるほど亡くなった有名人を偲ぶ文章なら間違いも少ないし、仮にそれがあっても出典のせいにも出来る。

 競馬で覚えたことに夏の季語、麦秋がある。毎年初夏に「麦秋特別」なるレースがあり、スポーツ紙が「麦秋とは」と説明してくれるからずいぶんと早く覚えた。競馬にもたまにはこんな効用もある。

【附記/3】
 上記を書いてあらためて玄関先に行ってみたら、大名竹が繁殖しなくなっていた。そういえばここ数日、切っていなかったと思いつく。四月のころとはまったく違っている。切ったあとから伸びてきていない。「雨後の筍」の時期が終ったのだ。ほっとしつつ、すこしさびしくも思った。

 走馬燈のように──死譬喩? 最初から知らん(笑) 

 これは私が使わない(使えない)譬喩である。しかしまあ世の中には今もあふれまくっていて、先日も三十前後の芸能人が「もう苦労した当時のいろんなことがですね、走馬燈のように浮かんできて」としたり顔で語っていた。私はそれを見ながら「ほんとかよ、おい!」とひとりでつっこんでいた。不思議でならない。

 自分のほうの恥から書くと、私は走馬燈なるものを中学生の時まで知らなかった。当時のグループサウンズ、テンプターズの歌に「走馬燈のように」という歌詞があり、これは何だろうと思って調べたのである。それで知った。見事に絵として浮かんできて、とてもよく理解できた。しかし知識として知りはしたが、私は未だに走馬燈なるものを手にしたことがないし、当然幼児の思い出としてそれを持っていない。よって、「なんかねえ、いろんな思い出が、こう走馬燈のようにくるくると浮かんでは消えていって」とはとても恥ずかしくて書けないのである。ピラミッドに登ったことはなくても「金字塔」は使えるが、どうにもこの「走馬燈」は敷居が高い。

 これはもう田舎者としての素朴な疑問なんですが、ここを読んでいる皆さんには走馬燈とは身近なものであったのでしょうか。ひとつおしえてください。わたしゃ不思議でしょうがない。日本国中、思い出が浮かび流れる、といえばすぐに思い出すほど走馬燈って普及してるんでしょうか。私だけが田舎者の無知なのでしょうか。あ、そういえば「メリーゴーランドのように」ってのも笑えるな。使いません。

 湯水のように──死譬喩──悩み深い

 これが今、私の最も悩んでいるものである。日本は水の豊富な国であった。よってこんな譬喩が生まれた。しかし世界的には稀有なものであろう。砂漠の国では「湯水のよう」はまったく別の意味になるに違いない。
 塩田丸男さんが書かれたドキュメントにその辺のことを詳しく書いたものがあった。まだ本にはなっていないか。あれはぜひ手元に置きたい。水の分類をするのがテーマだった。地球上にいかに淡水が少ないかと分析し、飲用に適した水は0.4%しかないという話だった。金銭を惜しげもなく大量に使うことを湯水にたとえたこと自体が温泉国日本の特別さをあらわしている。
 私は西部劇を見ていても誇りっぽくなっていられない。ああいう時代の風呂はありがたかったろう。あの時代のスカーフとかタイなんてのもみなホコリよけだった。日本人のようにあの時代に庶民までお湯の風呂に入っていた民族はいない。「湯水のように」がふさわしい国だった。

 しかし今、日本は、「ガソリン1リットルより水1リットルのほうが高い国」になった。このことを知った年配のかたが絶句した気持ちがわかる。まさに「湯水のように」の表現の中で育ち、「ガソリンの一滴は血の一滴」の戦争時代を思ったら、ガソリンより水のほうが高いには絶句するしかない。
 この表現を使いたくない。現状にあっていない。しかしどうにも「湯水のように」の代わりになる適当な表現がない。頻繁に使いそうになり、そのたびに言い換えている。
04/5/27
 芋を洗うような──死譬喩

 ひさしぶりに土曜日の夕方、渋谷駅前に立った。とんでもない混雑だった。それを譬喩する「芋を洗うような」を思いだし、これまた通じないよな、と思う。
 この場合の芋とは里芋ではないかと思う。子供のころ、里芋を洗うのを見たことがある。大きなたらいのようなものに入れて、三つ又の木でかき回す。すると芋同士がこすれあって皮がきれいにむける。あれから来た譬喩だろう。さつまいももジャガイモも新しいものだし、これらに混雑を意味する「芋を洗う」情況はとりわけないだろうから、たぶんこれで正解と思う。

 この譬喩はいくらでも代替えが利く。なにしろたらいの中の芋よりも遙かに凄い混雑で誰もが知っていて説得力のある満員電車がある。「芋を洗う」も安らかに引退できるだろう。よってこれは苦笑して終り。

 蜘蛛の子を散らす

 芋を洗う、は完全に時代に埋もれたが後継者がいくらでもいるから気楽だと考えつつ歩いていたら、センター街のあたりで「蜘蛛の子を散らす」を思い出した。あれも私は見たことがあるので実感している。初めて見たときはなかなか感動的だった。充分に気味悪くもあったが(笑)。何百匹もの蜘蛛の子が一斉に八方に拡がって逃げてゆく様は幾何学模様のようである。
 このあとM先輩に会い、この話をすると先輩も見たことがあり、それから蜘蛛が嫌いになったのだと言っていた。M先輩は医者の一人息子だが、まあ時代的にこれぐらいは見たことがあったのだろう。私だって子供の時に見ただけでもう何十年も見ていない。今も窓の外に蜘蛛はいるが、さて蜘蛛の子が散る様子を見ようと思ったらどうしたらいいのか。譬喩は知っていても実際に見たことがない人も多いだろう。
 これまた都会の群衆の中に炸裂弾でも投げ込めば現代版「蜘蛛の子を散らすような」は、よりリアルに容易に実現するから、こんな古くさい表現に頼る必要もない。

 雨後の筍のように、芋を洗うような、蜘蛛の子を散らすように。これらは筍や芋や蜘蛛の子が一般的であり、譬喩の対象となる時代の表現だった。今それに代わる譬喩をしようとしたら容易に出来る。するとそこで筍や芋や蜘蛛の子に代わるものがみな人であることに気づく。筍より芋より蜘蛛の子より、人のほうがあふれている時代になったのだ。

 とするなら、「湯水のように」に取って代わって伝播してゆく譬喩もまた、「人」から生まれることになる。しかしこれ「消費」だからねえ。そこに「人」が使えるものか。かつては清純の代名詞であった女学生も、今や私にとっては汚物扱いだから、そんな転換もあるかもしれない。


 家庭訪問→保護者訪問 ???

 気になったことを机の前のボードにメモしている。
 しばらく前に書いたままになっている「家庭訪問→保護者訪問」というのがある。ぼくらの時に家庭訪問と言ったものを今は保護者訪問と言うのだと先日のテレビで知り、新鮮だったのでメモした。複雑な時代になったからそういう心配りは必要だろう。「家庭」と呼べるものがない子供もいる。両親がいず縁戚の人に育てられている場合もある。それは当人たちにとっては家庭なのだけれど、親兄弟という一般的な家庭の意味合いから外れるなら、保護者と名を変えたほうが軋轢はすくなくなる。この種の言葉の言い換えにぼくは批判的なのだが、こういうのは時代の要請でしかたないとも思う。

 以前らいぶさんに教えてもらった「最近社民党関係では、障害者を障がい者と表記する」という役所関係の話はおもしろかった。「害」というコトバは当人を傷つける。ぼくの考えは「障碍」という言葉を禁じたからいけない、につきるのだが、こういう表記によって「ん? なんでがいがひらがななの。どんな字だっけ? 害か。ああ、だから使わないんだ。考えてみると障害者ってひどい言葉だな」とみんなが考えるなら、それはそれでいいことだろう。おおもとを考えると、「身体障害者」という言葉を使うように決めた人は相当センスが悪い。physical handicapの直訳なんだろうけど。
 病院では今「患者」というコトバを使わないとも知った。患者の患は病を患う意味だから、それでなくても気弱になっている患者(って使っちゃったよ、なんて言えばいいんだ)を落ち込ませてしまうので、使わないようにしたという。といっても「患者さん」ではなく「××さん」と呼ぶだけらしいが。

 今の時代、家庭訪問を保護者訪問と言うのだと知ったことは、それなりのインパクトではあったのだが、かといってここにすぐにUPするほど強烈なネタでもなかったからボードに書いたままになっていた。それをきょう書いたのは、父を送って行った医院で読んだ讀賣新聞投稿欄に「家庭訪問の喜び」なる小学校教師の投書があったからである。内容はごく普通に、家庭訪問をすると子供との距離が縮まり、学校では知り得ない意外な顔を発見できて楽しいというものだった。日本で一番発行部数の多い新聞に堂々とある「家庭訪問」なる文字を見て、どうやらそれが全面的に言い換えられたわけではないのだと、また新たな事実を知ったのだった。よかったよかった。でなきゃ「今の時代、家庭訪問なる言葉は厳禁。保護者訪問と言うのだ」と、得意げにバカの一つ覚えを吹聴しているところだった。

 こういうのは新聞記者用、テレビ用の言い換え辞典を入手して勉強すれば一気にわかることである。それほど知りたくもないことだから、ぼちぼちこんな形で学んでゆこう。


クルマの名前──カサブランカ

 先日ニッサンのクルマにCaliforniaというのを見かけ、アメリカの州の名前のクルマには乗りたくないと書いた。
 きょう、父のいる病院に向かって走っていたら、目の前に「Casa Blanca」という名前のクルマが走っていた。カサブランカってのはスペイン語で「白い家」って意味だ。このクルマは「白い家」をモチーフに作ったクルマなのか。それとも都市の名前《カサブランカ(Casablanca)アフリカ北西部、モロッコ王国の大西洋岸にある港湾都市。重化学工業が発達し、鉄道・道路網が集中している。──小学館百科事典より》←これのことなのか。それともハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンの映画のイメイジなのか。なにをどうかんがえてもわからん。

 もしもこれが8人乗りの白い大型バンだったりするなら、スペイン語の「白い家」をもってきたのもわからないでもない。でも普通の小型乗用車だ。色は黒。なんでこれが「白い家」なんだ。重化学工業が発達しているモロッコの港湾都市なんだ。わからん。

 かといって地名や人名の借用を否定しているのではない。たとえばモンブランという山の名をとったケーキは雪をかぶった山のイメイジがある。しゃれていると思う。明治ブルガリア・ヨーグルトも、ブルガリアの人はやたらヨーグルトの国と思われてしまい苦笑しているようだが、食べ物へのイメージネーミングはそれはそれでいいだろう。そういうふうに「なるほど」と思えるなら、たとえそれになんの根拠も無かったとしても、借用ネーミングにも納得する。
 だが日本製の小型車にカリフォルニアだのカサブランカだのとつけることにシャレ心があるとは思えない。これは単に西洋コンプレックスなのではないか。西洋コンプレックスならまだいい。実際にそれはあるのだから。もしもこういうクルマに乗って「なんかこれに乗ってると、カサブランカを走ってる気持ちになれるのよね」とはしゃぐ利用者がいるのならそれはそれでいいだろう。しかしまずそんな人はいない。
 こういうネーミングは、ハリウッドの格闘映画が空手道場に「千客万来」って看板を掛けているような(実話)、的外れ失笑に近いのではないか。あるいは白人黒人の勘違い漢字入れ墨のような。
 実際にこういうクルマを買ってこういう会話をする人はいるのだろうか。
「おまえ、クルマ替えたんだって。なににしたの」
「うん。カサブランカ」
「調子、どう? カリフォルニアと比べて」
「出足はカサブランカのほうがいい。内装はカリフォルニアかな」
 いるとは思えないのだが。いるのか?

 私はそれをとてもかっこわるくて恥ずかしいからやめてくれよと思った。さらに考えてみるとこれまたこんなことを考えること自体が無意味に思えてきた。多くの日本人にとってそんなことなどどうでもいいのだろう。クルマはクルマであり走ればいい。車名などなんでもいいのだ。キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝い、それこそ本来の意味から大きく外れて、教祖の誕生日と前祝いとすら知らなくても、「クリスマスイブにひとりでいるのだけは避けたい」とそっち方面のこだわりが一人歩きする国である。私はいつもそれを教祖の誕生日を静かに祝う信徒に対して失礼ではないかと訝っているのだがそれこそが日本なのだ。「今が楽しければ本来の意味などどうでもいい国」なのである。

 MustangやJaguarのようなシンプルな車名はいい。しかし日本車に「野生馬」「豹」のような車名がつくことはない。中国車はそういう名である。と考えると、やはりこれも敗戦が原因となる。もしもあの戦争に勝っていたら(なにをどう考えても勝てる要素はなかったので、勝っているときに条件の良い停戦をしたら、になる)、日本車は日本語の車名をつけていたろう。それは「雷電」「隼」「紫電」「大和」「武蔵」のような戦艦名、戦闘機名を見ればわかる。あの戦争に勝っていたらネーミングは今もすべてそうなっていたはずである。ここにあるのもまた敗戦国の卑屈さだ。まあその卑屈さを逆手にとり国籍不明の商品を作って経済的に成功したこともまたたしかなのだが。でもやっぱりセコいな。

 カサブランカという車名を見て、ニッサンは都市名シリーズをやっているのかと思った。
 が車名はSubaru。会社は富士重工だった。「昴──Subaru」という最も美しい日本語の車名をもつ会社のCasa Blancaがやけにかなしかった。
04/6/5
04/6/6

競争馬──誤字の現実──産經新聞より

 産經新聞を読んでいたら斉藤由香という人の作品の書評があった。読んだことがないので知らない。今後も読むことはないだろう。この人のことはどうでもいい。北杜夫の娘、斎藤茂吉の孫であるらしい。
 その文中に、北杜夫の文庫本のことがあり、そこに「競争馬サイレンススズカ」と出てくるのである。なんでも北杜夫がサイレンススズカが薬殺されたが、自分ももうそろそろいいだろうかと家族に言ったら、あれは名馬だからそうなったのであって駄馬はまだまだ走らねばならないと言われたとか、そんな話だった。

 「競争馬」は「競走馬」が正しい。といってもあまり威張れない。私が三十二で初めて『優駿』に競馬原稿を書いたとき、最初に直されたのもこれだった。それだけ一般に「きょうそう」は「競争」であり、「競走」はマイナなのだ。
 問題はこれが産經新聞という讀賣アサヒほどではなくてもそれなりの部数を誇る全国紙における誤植だったことだ。校閲の人が見過ごしている。競馬もまだまだである。
04/6/14

ハンプ──でも日本語は?

 つい先日、いつものよう偶然見かけたテレビで、あの道路に段差をつくってガクンとさせ、スピードを落とさせるアレを「ハンプ」というのだと知った。この「ことば」の項で取り上げるのは、奇妙に思うことばや、今では使われないことば、使命を終えたと思われる古い比喩等である。そんな中でこれは異色だ。「何というか知らないので知りたいのだが、いくら調べてもわからないことば」だったのである。なんとかして知りたいと、「道路 段差 スピードダウン」でキーワードで検索したことすらあった。「道路工事用語」なんてホームページを探したこともあった。テレホーダイの時代だったので一晩中そんなことをしていたのである。それでもわからなかった。
 
 それを偶然つい先日見かけたテレビで知った。老人子供の多い細い街中の道を猛スピードで走られて困っている町内会がこれを採用したところ、一気に事故が減って効果があったという話の中で頻繁に使われていた。そうかハンプと言うのか。ハンプって英語のこぶのことだろう。駱駝にはこぶがある、とかそんな言いかたで覚えた単語だ。それぐらいはわかるが問題はまだ半分しか解決していない。日本語でなんと言うのか知りたいのだ。
「ハンプ 道路」で検索した。するとさすがにハンプが入っているからか続々と検索結果が出た。だがそれらはみな

◆車のスピードを落とすためのこぶ(ハンプ)
1970年代初頭に初めて導入されて以来、住宅地区を走る車のスピード規制に最も効果的とされてきたハンプ(hump=道路上に設けた「こぶ」状の障害)。
■車道面に設けた凸型又は凹型の舗装で、これにより車の速度を低下させるもの。


 のようにハンプの説明はしてあるものの日本語でなんと言うか書いてないのだった。《道路上に設けた「こぶ」状の障害》では日本語になっていない。それはPigを「猪から改良して食用にした家畜」と説明しているのと同じである。知りたいのはブタという日本語だ。けっきょくまだ見つかっていない。どなたか知っているかたがいたら教えてください。

 私がこれを強烈に意識したのはチェンマイだった。空港内の道路のような公共物から裏路地までいたるところにある。特に新興住宅地の道路はこれの連発で、それはそれでクルマにスピードを出させないためによいことであり、慣れてしまえばなんてことはないのだが、そんなものがあると知らない当初はひどい目にあった。

 バイクに乗って街をを走っている。いる。見知らぬ道路に入ってしまう。それもまた楽しい。夜だ。道路は見えない。スピードは30キロ程度でしかない。だがバイクでそれにぶつかるとガクンというショックとともにバイクが飛び上がる。ふっとんで転倒しそうになったこと一再ではない。前部の買い物カゴに入っている荷物が何メートルも先に飛び出して壊れたなんてことは何度もあった。何十回と経験して、とにかく見知らぬ道に入ったら徐行するようになる。なにしろそれは今回日本のテレビで見たような長さ2メートル高さ10センチぐらいのなだらかなものではなく、長さ30センチ高さ20センチの丸太のような障害物なのである。お手製でコンクリートを盛ったものが多い。これこそ文字通りのコブである。いやもうこれはコブを通り越してワナ、ハンプではなく見知らぬ侵入者に被害を与えるためのトラップとでも呼ぶべきものだった。

 クルマでもかなりの衝撃だろうが、バイクなら転倒して死亡してもおかしくない。なにしろチェンマイはまだノーヘル全盛だった。そういう場合タイの法律は、スピードを出していたほうが悪いとなるのだろう。日本の場合、どんなに素行の悪い不良であれ死亡した若者の家族がそのハンプの設置者を訴えたりして、私道ではあるが果たしてこのハンプの形状は適切なものであったか、なんて論議が起きる。案外、明らかに行きすぎた高さのハンプであり未必の故意があったなんて私道の持ち主が賠償金を支払わされるかもしれない。

 『サクラ』でもよく話題になったひとつだった。あれはひどいよねえ、あぶないねえ、と。でも誰もハンプなることばは知らず、みんなで首をかしげたものだった。
 そんなわけで積年の喉のつかえが下りたのだが、それが半分なのでよけいに気持ち悪い。
04/6/14

机下──

机下──先生様──拝──御中=敬称考
 机下は手紙の宛名に附ける敬称である。『広辞苑』から引用すると
《き‐か【机下・几下】
(「几」も机) 書簡で、宛名に添えて書く語。相手の机の下まで差し出すという意で、敬意を表す。案下。おそば。おてもと。「山田太郎先生―」》

 となる。
 常識として知ってはいたが使ったことはなかった。私も様々の敬称でもらったことはあるが(笑うかもしれないが私のことを"先生"と呼ぶ人もいるのだ。やめてくれと頼んだので今はいないけど)経験はない。父の所へ来る手紙でも見たことはなかった。
 今回「医は仁術」の先生におおきな病院への紹介状を書いてもらった。その宛名は「××病院消化器内臓担当先生御机下」だった。今度はその病院の担当医師からあらたに我が家から11キロ離れた病院への紹介状を書いてもらう。するとそれも担当先生机下だった。どうやら医者においてこの種の形式では「机下」が一般的らしい。こんなのも知っている人には常識以前だろうが病院とのつきあいがないので初めて知った。知識として知っている「机下」が使われている現場を知って新鮮だった。  父のところに来たもので印象的だったのは毎年の年賀状に「先生様」というのが多かったことだ。これは自分の感覚でわかる。「先生」だけでは軽いかと思い、つい「様」もつけてしまうのだ。無智な田舎者として共感していた。
 だから高島さんの『お言葉ですが…』で「先生に対して様は失礼=先生が様より格上、丁寧」と知ったときはしみじみと無学無教養を恥じたものだ。夏目漱石が自分に対して「夏目金之助様」でよこす弟子にとうとう我慢がならなくなり怒ったという話だった。とすると、私は父への年賀状を見て、圧倒的に多い「様」を支持していたのだが、何通かあり違和感をもっていた「先生」のほうが文章の礼儀としては正しかったことになる。いやはやなんとも無知はかなしい。しかしそれは夏目漱石の時代よりも「先生」の重みが薄れていたことも関係あるだろう。

 私が自分の人生における缺落として遺憾に思うものは、一に高校生時代の不充実であり、二に今も訪ねていって旧交を温める恩師と呼ぶ存在がいないことだ。大学でもゼミを取らなかったので恩師を囲んでのゼミ会とも無縁である。そう考えると、私はこれからも「「机下」や「先生」を使う機会はないように思える。それがちとさみしい。

 だいぶ前になるが、なにかの雑誌で藤原伊織の随筆を読んだ。電通時代(今も現役だっけ?)に取引先にファクスしたら、担当の女社員から「藤原拝 様」で返事が来て困ったという。彼が業務連絡の文章末尾に「藤原 拝」と書いたら、その女はそれが名前なのだと思いこみ、毎回返答を「藤原拝 様」で寄越す。この場合の「拝」は《書簡文などで自分の名の下に書いて相手に敬意を表す語──『広辞苑』》である。私もメイルに【結城 拝】としている。
 教えてあげるべきだろうか、いやそれも悪いような気もするし、と悩み、けっきょくは「藤原拝」なる人物になりきって仕事を終えた、あの娘は今どうしているだろう、今は拝の習慣を知っただろうか、という話だった。これは笑うよりも前に冷や汗が出た。私も二十代前半と思われるその女社員と同じ年齢なら同じ失敗をしたのではないか。日本全国苦笑した年配のかたと共に笑えなかった人も多かったように思う。

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 ついでに今まででいちばんあきれた話
 品川区役所から来た、なんだったろうあれは、区民税の督促とかそんなものだったか、返信用の封筒が入っていて、それに「品川区役所御中」と印刷されていたのである。前年まではなかった。こういうのは「行」になっているのを消して「御中」にするのが日本の常識である。世の中ここまで壊れてきたのかとなんとも奇妙な感慨を受けた。これには二十代前半だったとしてもあきれたろう。御中は「拝」と比べてもかなり知っているべき常識のレヴェルとして低い。
 区民にその手間暇をかけさせない親切のつもりなのだろうか。どう考えてもヘンである。まさか「区役所行の行に×をつけ御中と書く習慣を知らない区民が多すぎる。御中がないのは呼び捨てにされているようで不愉快だ。だったら最初から書いておこう」ではあるまい。あるのか、役所にはそんな感覚が。

 記憶に鮮明なのは二年ほど続いたあと、それがなくなったことである。やはり区民のあいだからいくらなんでもこれはおかしいんじゃないかと抗議があり変えたものと思われる。
 しかしその裏事情を考えてみると、「いちいち行を御中に直させるのは区役所として不親切です。区民にも不満があると思われます。サーヴィスのよい区役所を目指す上で、最初から宛名に御中と印刷したらどうでしょう」と提案した区役所員がいて、「おお、なるほどそれはいい考えだ。これからの役所にはそういう気配りも大切だな」と賛成した上役がいて実現したのであろう。提案した無智な若い区役所員までは許せても、「キミね、御中ってのは」と注意指導してやるのではなく採択してしまった上司は相当になさけない。

 これはたとえばスズキという人が、赴任した先で現地人にスズキと呼び捨てにされ、何度スズキさんと呼べと言ってもスズキと呼び捨てにされて不愉快なので、最初からわたしの名前はスズキサンですと名乗ったようなものである。これなら誰もがスズキサンと呼ぶ。案外外地に赴任した日本人には、メイドや運転手にまで姓を呼び捨てにされて不愉快になり、この方法を使っている人はいるのかもしれない。でもそれと役所が印刷物でそうするのはまた別である。

 しかし今の世の中、結婚式の出欠を問うハガキで、「行」を直して「様」にする部分を、ワープロで自分で作ったりすることも多いから、「様」にしている人も多いのかもしれない。昔はこういうのはすべて印刷所というプロが作った。だからそういうミスはない。できあがったものを見て若い二人がなるほどこうするものなのかと学んだ例も多いだろう。便利な時代になりなんでも自分でやるようになるとそういうミスが多発し、いつしかそれが常識となって行く。そのうち「行」を「様」に直すなんてことも廃れてゆくのかもしれない。
 かくいう私も二十歳で初めてそれをもらったとき、「行」を「様」に直すまでは知っていたが、「御名前」「御住所」の「御」を消すのを忘れてしまった恥ずかしい思い出がある。

【附記】──クンの思い出
 呼び捨てされたくないスズキさんが最初からスズキサンを名乗る、の話だが、私はタイで同じような失敗をしている。あちらでは敬称として相手の名前の前に「クン」をつける。目上の人に対する日本語の「さん」に匹敵する。ところがけっこう若い娘には、名前を聞かれたときにおどけて自分から「クン」をつけて名乗るのがいる。最初のころそれがわからず、名前を聞いたら「クン・ラー(ラーさんよ)」と名乗ったので、ずっと「ラー」と呼ぶべきところを「クンラー」と呼んでいたことがある。彼女はいい年をした外国人のおっさんに「さんづけ」で呼ばせるおかしみを楽しんでいたのだろう。くだけた場では長幼に関係なくみな名を呼び捨てにする。それこそ二十歳が五十を気軽に名前で呼ぶ。クンをつけるのはオフィスのようなきちんとした場のみである。水商売の若い娘におっさんがいちいちクンをつけて呼びかけるのはかなり笑える情況だったろう。たとえば「おい、ラー。ビールをもう一本くれ」のような時、常に「おい、ラーさん、ビールをもう一本くれ」と乱暴と丁寧がチグハグだったわけである。
 同じく恥話として、「チュウ・アライ(名前はなに)」と聞いたら「チュウ・ラー(名前はラー)」と応えたので、(早口のそれはチュラーと聞こえたので)、ずっと彼女の名前を「チュラー」だと思いこんでいたなんてこともある。恥は尽きない。

04/6/15
 風呂をたてる

 書くときに、こう書くしかないよなあと悩みつつ書いた。こういう表現は気になる人には目に附くものなのである。
 子供のころのような薪で沸かしていた形、その後の石油バーナーの形式、いずれも水に直接的な熱を与えて湯に変えることだから、これだったら迷うことなく「風呂を沸かす」と書いていた。
 二十数年前から電気による給湯式である。スポンジやタワシによる風呂桶の掃除をしたあとは、蛇口をひねればお湯が出る。「沸かす」という行為は深夜に電気がやっていることであり人の行為ではない。よって「風呂を沸かす」と使う気にはならない。それでむかしからの言いかたである「風呂をたてる」にした。迷いがあるから「風呂をつくる」も混在している。風呂桶を掃除したり、蛇口のお湯と水の割合を案配したりするから、「つくる」のほうが適当か。「たてる」は、昔風の薪で沸かす五右衛門風呂から最新のジャグジー風呂まで使用できる万能語だからこっちのほうが無難だろうか。

 「お風呂つくって」とは今も家庭内で日常的に使われていると思う。若い世代だと「お風呂にお湯入れて」のように直截的か。でもこれだとその前に風呂桶を洗うかどうかは含まれていない。汚れたバスタブにそのままお湯を入れてしまい、叱られ、「だってお湯を入れてとは言ったけどバスタブ洗ってとは言わなかったじゃないか」なんて言い争いもまた今の時代ならよくありそうだ。

 カタワのような言葉は精神的カタワのように転用できる。身体障害者のように具体的な言葉になるとそれは出来ない。片端→不具者→身体障害者という言葉の変遷を「言葉がより具体的になる流れ」との指摘がある。それに倣うなら「風呂をたてる」は、今時の子供にならなにをどこにたてるのだと質問されるような曖昧な言葉であり、「片端──片は不完全、端は物の端を表す」の曖昧さに匹敵する。身体に障碍がある人を指し示す具体的な身体障害者という言葉は、「風呂にお湯を入れる」という直接的な行為を示す言葉と共通する。直截的な言葉は行為行動の事象を限定し、昔からの曖昧な言葉は含みが多い、と言えそうだ。

 風呂の思い出といえば、子供時代の檜風呂と杉風呂を使っていたときの肌への温もりと香りが思い出深い。と書き始めたらきりがないのでこれはまた別の機会にしよう。
04/6/27


 ヤクザ・チンピラの自粛

「やすし・きよしと過ごした日々」(木村政雄著)を読んだ。まあ「本話」として記録するほどのものでもない。やすきよのマネージャをしていた人である。今は吉本を辞めた。
 このキムラマサオというのはラッシャー木村の本名(日本名)なので印象深い。小林省造と一緒にリングネイムをテレビで公募した時代が懐かしい。

 この中に、やすしがクメヒロシとの「テレビスクランブル」(日曜夜八時 日テレ)で問題発言をして謝罪した話があった。いったいどんなヤバいことを生放送で言ってしまったのだろうと思ったら、「それじゃヤクザと同じやがな」のヤクザなのだという。くだらん。これは誰が抗議してくるのだ。ヤクザか? あれはおれたちに対する差別用語だと言って暴力団方面のかたが抗議してくるのか? たけしが「坊主丸儲け」と言ったら坊主から殺到したのはわかる。お詫びのテロップが出ていたっけ。でも庶民がほんとにそう思っているのだから人の口に戸はたてられないよね。
 この「テレビスクランブル」は、回を重ねるたびにやすしが壊れてゆくのが見える怖い番組だった。最後は出演すっぽかしによるクビだった。キムラさんはこれはヤスシが消えかたとしてわざとしたことだろうとしている。

 ライト兄弟時代のダウンタウンの漫才を「おまえらのは、そこらへんのチンピラの立ち話やないけ!」と評したのはリアルタイムで見ていたし記憶に残る言葉だった。それがこの本では「おまえらのは、そこらへんの若者の立ち話だ」になっていた。やすしが若者なんてまともに言うはずがない。ずいぶんとこのキムラさんという人は言葉センスが悪い。これも生のままだとチンピラさんから抗議が来るのでそれをあらかじめさけたのだろうか。それともれいの「おまえら江戸時代やったらカゴカキやないけ」発言のやすし担当だったから、異常に神経質になってしまったのか。しかし世のチンピラさんから抗議が殺到しようとここでのやすしの発言は「チンピラ」でなければ意味がないだろう。私がこの本をまったく認めないのはその辺にある。いくらでもおもしろいことが書けたろうに最初から腰が引けてしまっているのだ。つまらない。

 蝶野の顔面へのハイキックを「ヤクザキック」と辻が呼び始めたとき、いかにもその名が似合う下品な技だったので、いいネイミングだと思った。しかしいつの間にか「ケンカキック」になっていた。これもヤクザから抗議が来たのか。どうにもそのへんのところがわからない。ヤクザということばはNHKの視聴者相談所にメイルで相談してみようか。

 父の関係から毎日のように病院に通い、体の不自由な人を見る。そうすると、志村けんのよろよろの年寄りを笑いものにするコントすら笑えなくなり、片手落ちということばを隻腕の人に遠慮して使わなくなったのも仕方ないかなと思えてきたりする。しかし「ヤクザ・チンピラ」は、坊主や片手落ちとはべつの次元にある。まったくもって不思議である。まさかヤクザ・チンピラが抗議してくるはずもあるまいし。

【附記】 ヤクザの思い出
 これは「チェンマイ日記」の中ですでに書いているが、友人のヒロさんとバンコクでタイの女たち(水商売ではなくホテルのメイド)と食事をしたとき、彼が私をヤクザヤクザと呼んで冗談にしたことがあった。「この人はヤクザだから気をつけたほうがいいよ」のようにだ。何度もそれを繰り返した。私はそれに本気で怒ってしまった。

 タイでヤクザ(ヤクサーと濁らず語尾が伸びる)は日本のヤクザから来た怖い人、最低の連中、つまりヤクザそのもののことである。どこかで日本語のヤクザがそのまま通じると知ったヒロさんは、片言タイ語の会話の中で、笑いをとろうとして言ったのだろう。女たちもすでにそれなりのつきあいがあり私を物書きとわかってくれていたから、笑いながら「ゴア(おお怖い)」と肩をすくめて反応していた。見過ごせばいいのだ。なにしろ二十代の頃など自ら「ヤクザな生きかたをしてます」なんて言っていたのだから。タイ語に不自由なヒロさんが言ったのは、子供が大人の前でウンコとかチンチンと言って注目を集めようとするのと大差ないことだった。

 でもヒロさんは子供ではない。オトナはことばに責任を持つべきである。それは後々ヒロさんのためにも役立つだろう。私はヒロさんに、ヤクザというのはタイではヒロさんが思っている以上に悪いことばである、私はヤクザではない、私は彼女たちにヤクザだと思われたくない、だから冗談であれ、人をヤクザ呼ばわりするのはやめるべきである、即刻やめてもらいたい、と、きっちりと正論を述べた。私の怒ったところなど見たこともなかったヒロさんは、私の激しい口調にすみませんとショボーンとしてしまい、女たちはおどおどし、場は白け、ヤクザということばに過剰な反応を示した私に、もしかしてこいつは本当にヤクザなのではないか? と嫌疑がかかってしまったのはなんとも皮肉だった。
 私の小者ぶりを表すエピソードで恥ずかしいが、しかしこれは外国においては気をつけるべき問題だろう。

 思い出した。「イラク人質事件」のころ、サンスポにこんな話があった。「記者の経験した拘留」というもので、サンスポの記者が旅の思い出を書いていたのだ。それは、学生時代エジプトを旅したとき、夜のピラミッドに登ってみたくて警備をうまく突破して登り始めたのだそうだ。もうこれだけで日本人の恥であり、読む気が失せ、なんでこんなことをわざわざコラムで書いているのだとあきれる。案の定、やっぱり警備陣に見つかって引きずりおろされた。そのとき素直に謝れば許して貰えたろうが、ついついテレビで見た中指を立てるポーズをしたのだそうである。すると相手が激怒してしまい、一晩拘置所に入れられた、という話である。そういう行為がどれほどの意味を持つかわかっていなかったのだろう。まさに日本人的な恥である。しかしそのことを平然とコラムに書き、あのころは若かったと頭ポリポリの反省しかしていなかったから、たいして事情は変っていない。

 私はこれからも外国でヤクザと言われたなら、私は違いますと反論する。「やくざのような生きかたをしている」とも言わない。ものをしらないのは怖いことだ。
04/8/3

 悪婦──異常なIME

 上記、普通に「悪婦」と使おうと思ったらATOKの辞書に「悪婦=あくふ」がなかった。信じられない。手元の辞書を引いてみたがどれにも載っている。ごくごく普通のことばだ。それがなぜ語彙数何十万何百万を誇り私ごときには読めないような難しい単語すら収録されているATOKにないのか。思うに「老婆」を「老爺はないのになぜ老婆ということばがあるのか、女性差別だ」と騒いだタジマヨーコみたいなバカに遠慮して、女を悪し様に言うことばをみな削除したのではないか。まさに異様な言葉狩りである。
 気違い、盲、唖とかを辞書を作る者が勝手に削ってしまうのは明らかな越権行為だが、それでもまだその臆病さ加減はわかるような気がする。しかしここまで来るとビョーキである。ため息つきつつ辞書登録するのは精神衛生上非常によくない。
04/8/14
 ひらがなの「まえ」


ひらがなの「まえ」──船戸与一
 船戸与一の近作をいくつか読んでいて彼が「まえ」を漢字で使わないことに気づいた。「それは二十年まえのことだった」「そのまえに」「俺のまえに立つな」のようにだ。同じく「下」も「した」と書いているようである。
 一方で「煙草を銜える」の「銜える」は必ず漢字で書く。「穿鑿」とか画数の多い漢字も乱発される。その中でのひらがなの「まえ」や「した」だから異常に目立つ。基本として好意的である。こういうこだわりは、いい。さて、デビュ作のころはどうだったのだろう。調べてから附記する。
04/8/17

 銭失い──IME&FEP

 いま「ぜにうしない」と打ったら「銭牛内」と出たので笑った。辞書登録する。まったくIMEとはどんな基準で作っているのだろう、こちらの知らない難しいというかどう考えても不必要やものがあるかと思えばこんなものもない、それでいて放送禁止用語は異常と思えるほど勤勉に削除してある。まったくもうと思いつつ念のために辞書を引いたら広辞苑にも見出しでは載っていなかった。「安物」で引くと「安物買いの銭失い」は載っているのだが「銭」の項目には「銭失い」はない。言われてみればあくまでも「安物買い」に続くことばであって獨立した単語として「銭失い」と日常で使用するものではない。假りに「銭失い」とのみ言ってもそれは「安物買い」が略されたものだ。その意味ではATOKを責めることは出来ない。なにしろ既存の辞書から写しているだけなのだから。不満に思った私がへんなのか。でも「安物買いの銭失い」と連続して打って「銭牛内」と出たのだからこういう俗に普及している言い回しが辞書になかったのはことわざや四字熟語に強いATOKとしては手落ちだろう。いや俗なありふれた言い回しではあるが正規のことわざでも四字熟語でもないから網の目から漏れたのか。微妙なところである。私のATOKは最新のものではない。最新のものでは追加したのだろうか。Versionを重ねるたびにひとつずつこういうのが充実してきたから改良してあるのかも知れない。

 しかしこれはMS-Dos時代のIMEのことを考えれば不満を感じるのがおかしいと気づく。いわばクーラの利きが悪いと扇風機時代を忘れて不満を言っているようなものだ。あのころはまともな変換など出来ない辞書にひとつひとつ単語登録してゆくのが楽しみだった。なのに今は辞書にないと不満に思っている。あるのが当然と思いこんでいる。自戒しよう。辞書のことばかりではなく生活全般の規範として。

 そういえば私はFEPはFront End Processorとすっかり使われなくなった現在もすぐに出てくるのにIMEの略は未だに覚えていない。FEPがIMEになったころ覚えたはずなのだが……。調べる。Input Method Editorか、これを機会にしっかり覚えよう。それだけFEP時代の記憶が強いのだろう。こういうのも一種の「いとしい時代」になる。
04/8/22

 毎度のお笑い──中国のCDより

 以下は上記の「中国女子十二楽坊」のCD裏面より抜粋。こういうネタ──「VOW」的な、とでもいうのか──はいくらでもあるが、それを披露して笑うことに熱心ではない。今もそのスタックしてしまうパソコンでスキャンしていて、つまらんことをしているなとしらけながらやった。つまり、私の話している外国語なんてのも下記のレヴェルだろうから、どうにもこういうものをあげつらって笑いにする感覚はないのである。ましてはしゃぐことはかっこわるい。自分が外国語に対してこんな形の赤っ恥をかくことを思えば安易にこれは笑えない。でもプロの仕事なのだから、誰かアドバイザーはいなかったのかとは言いたくなる。














04/8/29

 BRICs

 過日経済誌を読んでいたら、三十年後には世界の経済支配はこのBRICs=ブリックスになるという特輯記事があった。Brazil,Russia,India,Chinaの略である。三十年後はこのブリックスの時代になり、現在の先進六カ国、アメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの中でなんとかこれらと五分にやっていけるのは日米だけなんだそうな。

 ほんとかどうか知らないがブリックス各国が広大な領土と人口を誇る国であるのは確かだ。まあたとえるなら現在貧乏人の子だくさんの家が何十年後かに子供達が成人したら一人っ子の家より大勢の子供達が稼いで親は裕福になるってことか。そういやあ「一家十五人」なんてドキュメンタリをよくやっているがあれは誰が見るんだろう。十人以上の子供が成人すればみなそれぞれ家庭を持ち子孫が増えてゆくから、親は男として女として人一倍自分の子孫を残したという満足はあろうが、かといって子供達もそれぞれが生きるのに必死だろうから一人っ子の何倍も仕送りをしてくれて親が裕福に成るというリクツが成り立つとも思えない。まあこのたとえ自体が的外れか。

 日本の進路として絶対的に支那人とは合わないのだから同じ未来の大国ならインドともっと仲良くしろという意見がある。もっともである。日本人が外見が似ていることや漢字の輸入等から支那人を自分たちと同じに考えてしまうことは致命的な勘違いになる。肌の色の違いから割り切ってつきあえるインド人のほうがまだいい。

 ともあれBRICs=ブリックスなることばは覚えた。しかし私にはもう一歩眉唾である。今の中国の躍進による確定したかのような未来の大国化にも疑問の聲はある。中国の世界における現在のGDPは13%。たいしたものだと思うが清の中期には25%あったというからそのころと比べるとまだまだになる。果たしてこのまま順調に伸びるものであろうか。上記の大家族の譬喩はあながち見当外れと言えなくもなく、広い地所にバラックの家を建てて住んでいる貧乏人大家族が、必ずしもその地所と家族の多さを活かして豪邸に立て直し大勢で稼いで大金持ちになるとは言い切れないのである。ひたすら子だくさんの貧乏生活を繰り返すとも言えるのだ。

 ただ確実なことは、彼らは「先進国が開発した恩恵を受ける」のである。これはおおきい。昔ならどんなに図体がでかくてもあの中国が大国になるはずがないと言い切れた。ところが今は先進国の開発した技術がある。たとえば日本が作り出した冷害に強くて収穫率の高い米とその栽培法が確立されている。後進国は金を払ってそれを手に入れればいい。たいしたことのない国が大国になりやすい時代であるとは言える。それを先の「貧乏人の大家族」の譬喩で言うなら、昔はどんなに子供が大勢いようと金のない親(=自国)が全員に教育を受けさせなければみんなが稼ぐようにはならないとするなら、今は国(=他国の技術)が全員を大学まで行かせてくれる時代になった、となる。ロシアの地下資源等もこの譬喩で言うと、昔なら「使いようのないただのノッポの息子」も、今の時代は外国が養子に迎えてバスケットのスーパースターに仕立ててくれるようなものである。この伝でゆくならたしかにこれらの国々は地所と人口が多いだけで大国になる可能性があることになる。

 ブリックスになる前に、いまの先進国六カ国の時代のうちに死にたいと思う。貧乏で下の立場にいてもあんなに我が強くて言いたい放題の中国なんぞが上に立ったらと思うと考えただけで憂鬱になる。日本が対等の武力と外交術をもったまともな国になれば問題はないのだが、どうにも心臓部まで巣くったサヨクがいるこの国が核武装してケンカするだけの気魄を持(も)てるようになるとも思えないし、ブリックスが大国になるかどうかは疑問でも日本がお先真っ暗であることは間違いない。国を救うのは教育だ。早くまともな教育を始めねば取り返しがつかないことになる。もうなっているのか。危機を感じた県や市が対策の遅い国を無視して自分たちなりの教育を始めたことに救われる思いがする。

【附記】 sがいる(9/3)
 最初BRIC(ブリック)と書いたが、BRICs(ブリックス)とSを附けて呼ぶのが正しいと知り手直し。

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