04-3~4
04/1/11
たまうとたもう


 学生の頃、北杜夫の「白きたおやかな峰」を読んだ。それに対して三島が、いい小説だと褒めた後、「でもあのタイトルはおかしい。文語と口語がまぜこぜになっている。『白いたおやかな峰』か『白きたおやかなる峰』のどちらかに統一すべきだ」と言ったと知る。これは誰のエッセイだったろう。遠藤周作かなあ。以来この「まぜこぜ」が気になるようになった。

 二十代の頃、読者として先達の競馬文章に不満を持っていたのは、決めのセリフになるとやたらそれが使われることだった。自分が書くようになったら(そのときは書くことになるとは夢にも思っていなかったが)それだけはやめようと誓っていた。
 文語のかっこよさの単純な例を挙げると「熱き血」である。「熱き心」でもいい。「熱い血」「熱い心」よりも様になる。かっこいい。らしい。「若い日のおもいで」より「若き日のおもひで」としたほうが決めとしては形になるという感覚のようだ。よって、競馬文章でも、それまでは口語調だったのに部分的にそうなるものが多かった。
 それはプロレス雑誌等でも同じらしい。天龍路線に『熱き心』が使われている。あれはやはり「熱い心」ではだめなのだろう。しかし冷静に考えてみると、日常では話し言葉としてはもちろん書き言葉としても使われなくなっている文語体が、こんなところでだけひょいと使われているのはかなり面妖なことになる。

「君、死にたまふことなかれ」と「たまふ」にしてしまったのは筆が滑ってのついついだった。「たまうことなかれ」でよかった。悩みは「たまうかたもうか」なのでこれに関しては悩み解決。無教養な者の無理遣いはみっともないので今後は使わないよう気をつける。
 丸谷さん、阿川弘之さんらが書かなくなったら旧かな遣い小説もおしまいか。高島さんも手紙はそうらしいが商業用文章は今に合わせている。清水義範との対談では「旧かな遣いで手紙を書くのはむずかしい」と言う清水に、「なぜ?」と素朴に疑問を呈していた。素養にない者にとってはむずかしいんですよ、高島先生。
04/1/22

七が三つでなあに?

 夕方、本屋へ出かける。
 車中で妻が、いったいどこで見たのか「七が三つ書いてある字はどんな意味か」と尋いてきた。字としてあるのならここに載せようと調べたがさすがに活字としてはないようだ。わかるでしょ? 七を三つね。
 「喜」の字を崩した形だと教える。意味も同じだと。「喜」の字は共通だからすぐに理解した。ついでに日本では七十七歳を喜寿といって祝うこと、それがこの略字の形から来ていることを教えた。米寿は米の字の八十八、卒寿は同じく簡体字の「卆」の字の九十、百歳の百寿は当然として、私はそういう漢字遊びの中でも、九十九歳を祝う白寿(白の字が百より一すくない)が好きだ。

 こういうふうに話が通じるとき、妻が(泰族であるが)漢字を習っていることをありがたいと思う。タイやミャンマーの娘だったらこういう会話はありえない。もっともそうだったら毛沢東について論争することもないからこの辺は一長一短だ。
 妻の地域にもまだ文盲は多い。それよりももっともっと多いのがミャンマーだ。云南では二十歳以下ではまずもう文盲はいなくなりつつあるが、ミャンマーの貧しい地域出身者には十代の少年少女でも多い。妻のいる中国と隣国のミャンマーは接している。ほとんど国境地帯だ。だがこの教育レヴェルに代表されるようにそこには歴然とした差がある。そのことを思うと中国はミャンマーよりも豊なのだと実感する。何度も書いているが妻が文盲なら私たちの交際はあり得なかった。始まりはしたが途切れてしまったろう。

 私はものを知らないうすらバカであり、とくにこの種の知識は缺陥している。それでもこのことだけは珍しく小学生の時から知っていた。というのは喜久枝という名の同級生が自分の名を書くとき、小学生にはむずかしい「喜」の字の代わりにいつもこの「七が三つ」を使っていたからである。このことがなかったら私はつい最近まで、いや未だに、このことを知らなかったかも知れない。
04/1/22

なし崩しの誤用
 最近のことばブームで、このことばに悪い意味がないことがよく指摘される。ことばクイズに出題される常連でもある。しかし相変わらず長年の誤用で、どうしても「なし崩し的に」と言うと、ズルズルとだらしなく、うまく相手を丸め込んで、正を悪に変えてしまうという意味での使いかたをされている。

1 借金を一度に返済しないで、少しずつ返してゆくこと。
2 物事を一度にしないで、少しずつすませてゆくこと。少しずつ徐々に行うこと。(国語大辞典(新装版)小学館)


 のように意味は「すこしずつすませる」であり、悪い意味はない。印象的なのはどの辞書を引いても真っ先に「借金」の字が出てくることだ。本来そのことに使われていたコトバなのであろう。
 私自身長年誤用していた者なので立派なことは言えないが(長年誤用していたからこそ気になるとも言える)、どうにもこの「忸怩」と「なし崩し」の誤用は目につく。いや耳につく。鼻につく。

 前記の国会中継でも野党側の小泉政権攻撃にやたらとこのことばが出てくる。きょうも社民党のヨコミツという役者上がりが質問していたとき、なんどかこれを使っていた。それは「なし崩し的に憲法を変えようとしている小泉政権は許せない」ノヨウナ言いかただ。正しい使いかたならべつに問題はないのだが、どう考えてもそれは「物事を一度にしないで、少しずつすませてゆくこと。少しずつ徐々に行うこと」の意ではないだろう。なにしろそれでは攻撃や非難にはならない。あきらかに彼は「わからないうちに小ずるい方法でいつの間にかこっそりと憲法を改悪しようとしている」の意で使っているのである。社民党の思想からもそれに決まっている。やはり彼は誤用している。
 その他テレビ等でもよく耳にする。そのたびに気になってならない。ここまでもう誤用が浸透してしまうと修正は不可能だろう。なにしろコトバというのは大勢の人が使っていたらそっちのほうが正しい意味になる性質がある。テレビでしゃべっているタレントのほとんど全部が「ら抜き言葉」なのだから、そのうち「ら抜き」という意識すらなくなるに違いない。私もこんな無用なこだわりは捨てたほうがいいのかも知れない。聞いた人のほとんどがそう解釈するのならそっちに行くべきなのだ。
 たとえば「なし崩し」に本来悪い意味がないからと、ある人の「すこしずつ徐々に行ったこと」(=善行)に対してこの言いかたをしたなら、「あいつはおれが一所懸命やったことをなし崩しと言いやがった」と憎まれるだろう。そのことのほうが遙かに大きな問題になる。

 しかしまあそれとは関係なくこのヨコミツってのがどうしようもない。社民党そのものだ。って社民党なんだからそうなんだけど(笑)。本気でこんなことを考えている同じ日本人がいるのかと思うと目の前が真っ暗になる。もう役者は廃業だから関係ないと思うが、間違ってもこの人が出演している作品を見る気になれない。いや社民党はそのうち消滅するだろうからまた役者にもどる可能性もあるか。この辺の「藝人と思想」もそのうちさんまの「サトウキビ畑」と関連して書こう。
04/1/27

させていただきます多用の無惨
「日本語の問題」を語るときの常連である「させていただきます」だが、今回のコガほどひどいものは初めて聞いた。
「ペッパーダイン大学に入学させていただきました」「学ばさせていただきました」と自分の行動にもすべて「させていただく」の連発である。
「街頭演説をさせていただき」「すべてはそこで話させていただきたいと」
「空港で記者会見をさせていただき」「国会のほうへ登院させていただき」と気持ちが悪くなるほどこれを連発する。しゃべることばの動詞がすべて「させていただく型」と言えるほどだ。なんなんでしょ、これ。
 どう考えても、「ペッパーダイン大学に入学し」「学び」「記者会見を開いて」「登院して」ですむ。なんでそんなに「させていただ」かねばならないのだ。

 思うに、この種の人たちには「尊大だと思われてはならない」という意識が強く働いているのだろう。それは内心は尊大であることの裏返しでもある。国会を聞いていても石原長男や石波防衛長官の言い回しにこれが目立つ。彼らは若いから「若造のくせに偉そうに」と言われることをことさら気遣っているのだろう。まして問題が山積の今、言葉尻をとらえられてはたまらないと、回りくどいその言いかたを連発することになる。なにしろタナカマキコの地元新潟での漫談ですら、わざとらしい方言の合間に「させていただく」が目立つぐらいだ。あの人、ずっと東京育ちなんだけど(笑)。わざとらしいよね、「おら」なんて言っちゃって。「お国自慢西東」の宮田輝の手法だな。誰もわからんか、こんなたとえ(笑)。

 内心傲慢な政治家が、「尊大と思われないように」と意図したとき、この「させていただく」は万能の免罪符として作用するのだろう。かつてなんでもかんでも『味の素』を振りかけたように、自身の行動・発言にすべてこれを一振りしておけばそれで安心なのだ。だけどこれ、ほんとにそうなのか? 効き目はあるのか?

 元々頭の悪いコガはボロを出さないよう県会議員時代からこれを多用していたと思われる。安易な手法だ。たしかに私のようにこういう「コトバの問題」としてこだわらなければ、中には腰の低い人だと好意的に解釈する有権者もいるのかもしれない。でもあれだね、「させていただく」でそう思う人は、そうとうコトバに鈍感な人だ。
 今回の場合は嘘をついたわけだからさらに立場が悪い。万が一そういう方面でつっこまれたらたいへんだと縮こまっているから、おっかなびっくりでしゃべるにつけ、あらゆるところにこの「させていただきます」が顔を出す。
 それにしてもここまで連発すると滑稽を通り越して気味が悪い。この言葉遣いひとつをとっても、この人が並以下であることがわかる。国政を任せられるタマじゃない。ま、言っちゃなんだけど、こういう世代のこういう学歴ってのは、「日本のまともな大学に入れなかった頭の悪い小金持ちの息子・娘が箔づけに行ったもの」だからね。箔つけだけど箔になっていないことを本人がいちばんよく知っているから、他大学の公開講座に通ったようなことですら(実際それすら行ってなかったようだけど)履歴書に記入して箔にしようとする。この人もかなりコンプレックスは強い。なかなか名門のお金持ちの息子だというから、プライドの高さとオツムの程度が釣り合わず、そのズレからこんなみっともない問題を引き起こしたのだろう。

 コガの今回の失敗は致命的だ。大学卒業うんぬんなんてのはどうでもいいが、今回の騒動で無能であることを全国に知らせてしまった。浮かぶことはもうない。だって無能なのだから。それがもう全国規模でわかっちゃったんだから。大学中退を卒業と嘘ついて、バレそうになったら人前で泣いちゃう四十五なんだから、もう救いようがない。イケメン(笑)を活かして地元でおばさん相手のテニススクールとかファッション関係、エステ方面の商売でもしてりゃよかったのにな。己を知らない上昇志向だ。

【附記】
 選挙演説に応援に来たタナカヤスオと並んだ映像を見た。おどろくほど顔が似ている。あきらかにタナカのほうがふてぶてしく悪相だ。体型もコガはすらっとしていてタナカは顔のでかいずんぐりむっくりである。似ているからよけいにコガの中身のないかわいい顔が目立つ。政治家はふてぶてしくなければならない。その点、大嫌いだけど、タナカのほうが適性があることになる。

【附記・2】
 登院した国会で卑屈にヘコヘコしていた。米つきバッタ。これも死語だなあ。なにしろ田舎者のぼくでさえ米つきバッタがヘコヘコする絵を知らないもの。
 みっともない嘘をついてやりだまにあげられた当人がへこへこすればするほどみっともないと思うのだが、今の彼は腰の低さで救ってもらおうと勘違いしているのだろうか。
 よせばいいのにタナカマキコのところにも行ってヘコヘコした。マキコさん、完全無視。いわゆる「鼻も引っかけない」ってヤツだ。一顧だにしない。あらためてこの人の冷たさが伝わってきた。まるで虫けらを見るよう。
 あそこでコガに笑顔を見せ、気にしないでがんばりなさいよと言って(声は聞こえないけど)ポンと肩でも叩く映像が流れたら見直す人もいたろうに。汚物を見る目線だった。国会内でのコガのヘコヘコ映像で、最も印象的なシーンだった。
04/2/10

牛丼パソコン

 この言葉を初めて聞いたのはちょうど一年前ぐらいか。なぜかいきなり流行りコトバのようにパソコン雑誌で連発されるようになった。意図するところは「牛丼のように安くて、誰もが手軽に買えるパソコン」の意らしい。IntelのセレロンやAMDのデュロンという安いCPUを使った5万円以下の激安値段パソコンの形容に使われていた。それでもメモリも128メガあったりして一人前の性能を持っているのだからたいしたものだ。むかしからのパソコンをやたら高級なものとして持ち上げ、周辺機器や小物まで高い値段に設定する傾向を苦々しく思っていた身には、こういう価格破壊は大歓迎だった。数年前、アメリカで1000ドルパソコンというのが話題になった。なかなか日本には普及しなかったがやっとその時代になったわけである。とはいえパソコンに関してのみ高級志向のぼくには直接的には縁のない話だった。懐具合は相変わらずお寒いが、それでもやっぱりこういうものを買うことは今後もないだろう。応援しているけれど。

 いまもこの安物パソコンの傾向は続いている。いいことだ。しかしこの誰の造語なのか「牛丼パソコン」という言いかたは使命を終えた。狂牛病騒ぎで牛丼販売が中止となる今、これは「二度と手に入らない絶滅寸前のパソコン」の意になってしまう。もしもまた牛丼が復活したとしても、一頓挫あったから、「なにかあって絶面寸前になったが、再び復活したパソコン」の意になってしまうだろう。そんな複雑な使いかたはされないから終ったコトバになる。最初から決してうまいネーミングだとは感じなかったから惜しいともなんとも思わない。パソコンという無機質なものと食い物が結びつかずうまい連結とは思えなかった。さらにいえばセンスの悪いコトバだと思った。

 それはぼくが牛丼になじんでいないからでもあるだろう。先日スポーツ紙で読んだかなざわいっせいの競馬コラムに「わしの主食である吉野家の280円牛丼がうんぬん」とあった。内容は「それすらも我慢して馬券につっこむぞ」というもので、生活感を売り物にする彼にとって、節約の形容としてすなおに出てくるそれだけ身近な食い物なのであろう。世間の感覚もそうなのかも知れない。ぼくが同じ意図で書くとしたら、「いつものラーメン、ギョーザにビール中瓶一本のビールを我慢して」とでもなる。ラーメンのほうが身近だ。牛丼は、秋葉原で年に数回食うぐらいでしかない。その理由を考えてみたら、ぼくにとって飯とは、酒と一緒にゆっくり食うもので、いわば一気にわしわしと流し込む牛丼は縁が薄いのだった。それとあの固定された椅子も嫌いだ。牛丼そのものは嫌いではなく、牛ザラにビールはうまいと思うのだが、なかなかのんびりそれを出来るチェーン店もない。そういう食い物ではないのだろう。店としても回転率勝負だからのんびりされてはたまらない。そんなぼくが秋葉原で食うことが多いのは、いつも歩き回るそこにある食堂がそれぐらいだからで、そしてまた秋葉原を歩き回るときのぼくは普段とは違い、お得意様を一軒でも多く訪問しようとする営業マンみたいになっているから、酒抜きで一気に食う飯として牛丼の意図とぴったり合うのだった。

 さて今後の牛丼はどうなるのだろう。狂牛病がひといきつけば今まで通り復活するとして。しかしあの病気が絶滅できるものであるかどうか。
 テレビのニュースを見て知った。あの松屋を、ぼくは数年前からしか知らなかったのだが、1970年代から操業していたという。とはいえどこでも見かけるようになった大発展が近年であるのはここ十年だろう。一昨年だったか、蒲田で人に道を聞いたら、「松屋の隣」と言われた。松屋とはぼくにとってデパートだったのでとまどった。「蒲田に松屋はなかったよなあ」と考えた後で、牛丼屋のことかと連想したのだった。それまで松屋で牛丼を食べたことはなかった。ぼくにとって牛丼とは吉野家だった。
 吉野家を応援する。牛丼は400円のものであった。それをこの時代に280円に値下げした感覚はすばらしい。一度倒産を味わっている会社でもある。個人的には、初来日した妻が初めておいしいと言った日本食(?)であることが印象深い。この苦境を乗り切って欲しい。って、これじゃ「コトバ」のコーナーじゃなくて単なる「牛丼の思い出」だなあ。
04/2/16

支那竹しなちく──気遣いの滑稽
 あたらしいハードディスクにソフトウェアを再々再々インストール作業を延々とする。
 バックに、クメのニューステが流れていた。正確に言うと九時からの「TVタックル」を見たまま(ハマコー、サイコー!)作業していたらいつの間にかニューステになっていたのだった。きょうのTVタックルはよかった。とてもテレ朝の番組とは思えない。視聴率が稼げるならなんでもやるってことか。それがたけしの賢さなら賞賛せねば。
 そうしてBGVとして流れていたニューステが40分ほど過ぎたあたりか、クメがかしこまった口調で「先ほどの番組の中で」とお詫びモードに入ったのである。なにかあったかなあと考える。こういうのってわかるものだ。たいした問題ではなくても、たぶん波風を立てないようあとで謝るんだろうなと気づく。
 いやクメの場合は、あまりにひどいことを言い、視聴者から抗議があってお詫びがあるだろうと待っていても言わなかったりする。なんといっても「日航機墜落」で500人以上が亡くなった数日後、生放送の「ぴったしカンカン」の最中に、外国でまた大規模の航空機墜落があったと速報が入ってきたとき、「二度あることは三度あると言いますが」とニコニコしながら言った男である。その無神経さに呆れた。しかしほんとに呆れたのはこの後で、視聴者から抗議が殺到して番組の最後に謝罪するとき、「なんか一部で失礼な表現があったようで」と、なんでおれが謝らねばならないんだとふてくされていたのである。あれには、この人は心の壊れているヒトだと思ったものだった。クメは他人の痛みがわかるヒトではない。ニューステで悲劇を報じるときのいかにもの顔を見ると、作ってやがると思う。
 そのあいつがかしこまっている。なにがあったのか!? クメは言った。「先ほどのラーメンに関するコーナーで、シナチクという放送には不適切な言葉遣いがありました。訂正してお詫びいたします。正しくはメンマでした。申し訳ありませんでした」だって(笑)。ふざけてんのかと思った。まじめに語る気にもなれん。とりあえずそんなくだらんものを見かけたとメモのつもりで書く。

 「人間交叉点(ヒューマンスクランブル)」というのはビッグコミック・オリジナル連載、矢島正雄原作、弘兼憲史画で一世を風靡した傑作だった。あれって70年代後期の作品か。いま読み返してみると──これはぼくが個人的に古い蔵書(?)を読み返すというより、最近いろいろな形の傑作選として復活しているのでコンビニ等で手にすることが多いという意味になる──矢島の左翼性がよく出ていてなるほどなと思ったりする。たとえばもう二十年以上前の作品なのにしっかりと「東中国海」と書いてあったりする。これはもう筋金入りだ。あのころはその異様さに気づかなかった。
 それは画を担当した弘兼さんもそうだったろう。小林よしのりが「ゴーマニズム宣言」を描くことによって口先だけの心情サヨクから闘う民族派に変身していったように、弘兼さんもまた「加治隆介の議」を描きつつ自身の思想を確固たるものにしていった。この当時は弘兼さんも心情サヨクか。
 『美味しんぼ』の原作者・カリヤテツは、最初は食マンガに徹していたがやがて我慢できなくなりサヨク全開となる。作品には、「支那そば」とのれんを出す店に抗議し、知り合いの警部の力を使って「中華そば」に直させる一篇がある。この辺の自分の好みのものにするためには平然と国家権力でも利用するところにサヨクの異常性がよく出ている。理想の共産社会を築くはずが悪質な皇帝と同じになるのは理の自然だ。

 それにしても、支那竹と出演者のひとりがたった1回だけ言ったことを敢えて大仰にわびる感覚にうすらさむいものを感じる。たとえばそれは、足の悪い友人の前でついついびっこと一度言ってしまったことを泣きながら何度も詫びるようなものだ。そのほうがゆがんでいる。
04/3/2
おきに


 と「お気に入り」と何度も書いていたらこんなことを思い出した。
 もう七八年前になるだろうか、チェンマイで静岡のMさんたちと夜遊びしていたときのことだ。Mさんがぼくの指名したカラオケのオネーチャンに関して、「あれがユーキサンのオキニですか」と笑いながら言ったのだ。それは初めて聞くことばだった。そのときぼくは情況からその「オキニ」なることばの意味するところを理解した。しかしそれはぼくの辞書にはないことばだったので、「タイ語で自分の気に入っている女のことをオキニというのだろうか」と思ったのである。嘘のようだけど本当だ。「まだまだ知らないタイ語があるなあ。もっと勉強しないと」と。
 それが日本語の「お気に入り」の略語であるらしいと気づくのは数年後である。そう書いている今も自信がない。たぶんそうだと思うのだが。

 これはMさんがフツーの遊び人であるのに対し、いかにぼくがそんなこととは無縁の清い生活(?)をしてきたかを表している。学生時代から三十年以上のつきあいになるM先輩を始めとする旧友たちと、ぼくはただのいちどもオキニのいるような店に行ったことがない。しかしそれはぼくだけがそういうものを嫌いで行かないというのではなく友人たちもそのはずである。みなは「オキニ」なるものを語彙としてもっているのか今度訊いてみよう。M先輩は音楽プロデューサという特殊な職業だからフツーのサラリーマンとしてやってきているOにも訊いてみよう。  相手と会話していて自分の知らない四字熟語が使われたりするとなんとなく恥じ入り勉強せねばと思ったりする。チェンマイの夜に訊いた「オキニ」にぼくは同じものを感じたのだった。ってこれ、どっかに獨立させて「ことば」の一項に入れたほうがいいな。
04/3/3
抜本的乱発!


 抜本的にどうでもいいや
 一昨日の国会中継だったか、民主党議員が小泉首相に食い下がる。
 こだわる点は《首相は「抜本的改革」と言ったが坂口厚生相は「抜本改革」と言った。的があるとないとではまったく意味が違う。この違いはいかがなものか。》である。何度聞かれても首相は「私は抜本的改革と言いました」と平然と応じ、あの魅力的な髪型をしている坂口大臣(最近私もあの髪型にした。魅力倍増)もまたすっとぼけて「抜本改革です」と言い切るものだから、民主党議員はもうだだっ子状態。「ちがうじゃんか、ちがうじゃんか、二人の言っていることが違うじゃんか。的があるとないとで大違い」とバカの一つ覚えのようにいやいやをしてだだをこねる。よってテレビの国会中継からはうんざりするほど「バッポンバッポン」の連続。

 そういやあバンコクに一度だけ行ったことのある競馬関係者のおやじが、会うたびに「ねえ、またタイ行ってきたの? バッポン行った、バッポン」としつこくバッポンを繰り返したっけ。よほどいい思いをしたのだろう。あれはBapponじゃなくてPappon。あの近辺を持っていた昔の地主の名前からとったストリート名だ。んなこたあともかく。

 抜本はバツホンが言いやすいように変化してそうなったのだろう。読みの試験ではそう書かねばならないし、人前でBapponをBatsuhonと言ったら無知と笑う人がいるだろう。バカ時代のぼくはきっと笑った。バカだけど奥ゆかしいので腹の中で。その程度を知っていることを優越感とする。愚者無惨。だが賢者への道を邁進、いや匍匐前進するうすらバカの今では、そんなことはどうでもいいと思うようになった。

 生活の中で、妻に身近な日本語を教える。百から九百を数えるのに、ゃくのHi、さんゃくのBi、ろっゃく、はっゃくのPiがある。この変化を覚えるのは面倒だろう。何度か直してやっていたけど、なんだかどうでもいいことに思えてきた。六百をろくひゃくと言ってもぼくがわかるんだからそれでいいんじゃないか、そんな気持ちである。もしもことばが言いやすいように変化してゆくのなら、妻もろくひゃくを日常的に何百回(これもBiか)何千回(これはZeだ)と口にしていたら自然にろくひゃくがろっぴゃくになるのではないか。なるならよし、ならぬでもよし。それよりも今はひとつでも語彙を増やすことのほうが大切だ。そう思うことにした。

 語学体験の本を読んでいるといずこもみな同じなのだなと思う。それは「ほんのすこし話せるころはえらいえらい上手上手と褒めてくれたのに、中級になったら発音が悪いとボロクソに言われるようになった」である。英語、フランス語はもちろんだが、韓国語、ヴェトナム語の体験記(なぜか筆者はみな女)にも書いてあった。ことばというのは必修である条件を別にすればおだてられて始める場合が多い。ぼくがタイ語やヴェトナム語を勉強したのも現地の水商売のネーチャンにじょうずじょうずと褒められてうれしかったからだ。しかしそれは一見の旅人に対してであって本格的に腰を落ち着けると対応も違ってくる。日本人のネーチャンもカタコトの韓国語やヴェトナム語が受けたものだからうれしくて語学留学と張り切ったのだろう。すると以前は挨拶するだけでうまいうまいと笑顔で褒めてくれた人が、今はそれなりのことをしゃべっているのにそんな発音じゃダメだと冷たく否定する。そりゃショックでしょう。

 ぼくも妻が日本に何年も住んで(その可能性はいまのところ低い)それでもひゃくとさんびゃく、ろっぴゃくの使い分けが出来なかったら怒るかもしれない。それぐらいでいいだろう。
 可能性は逆のほうが高い。すなわちぼくが雲南に住みヘンな中国語で笑いものになる形だ。しかしこれには抜け道?がある。それはぼくの話す中国語が、タイ族である彼らが話す中国語的タイ語とはまったく違う、テレビから流れてくる普通話(北京語)ということである。
 子供のころ田舎に、盆や正月、東京に何年か出た人が帰ってくる。集団就職で上京した少年少女の凱旋帰郷だ。彼らはみな気取ったような覚え立ての標準語を話す。それはきっと東京じゃ尻上がりの茨城訛りとバカにされているひどい標準語だったろう。だが数年前まで自分たちと同じダッペことばを使っていたほっぺの赤いネーチャンが「だからさ」なんてテレビと同じことばを使うと田舎者はみな萎縮してしまう。
 これと同じ効果?が云南でも期待できるはずだ。妻によると近辺の人はみなテレビの影響でなんとか北京語を聞き取れ理解できるようになりつつはあるが話せる人はいないという。幸甚である。私がそこに行って下手な訛っている北京語(三百をさんひゃくというような)を話したとしても、北京語にびびっている彼らに笑いものにされることはないだろう。
 ということから、私の進むべき道は「云南のダニエル・カール」となって、英語と山形弁ならぬ北京語と云南弁を使い分けて人気者になることなのである。

 話もどって、国会中継で「抜本か抜本的か」と細かいどうでもいいことを延々と、しかも喜色満面、鼻高々でやっているのを見ると民主党はだめだと思う。昨日もラジオで国会中継を聞いたけど、なんとか自民党の揚げ足をとろうとしている。重箱の隅突っつき作戦だ。相撲でいうなら変化技である。そうじゃないだろう。引き技や変化技で勝っても実力勝ちにはならない。「負けてなお強し」と相手をもちあげることになる。一気に押し出すか、がっぷり四つに組んで投げ飛ばさなければ意味がない。なぜそのことに気づかないのか。そもそもの戦う姿勢が卑屈になっている。それじゃだめだ。
 抜本的な改革が必要なのは民主党自身である。日本は二大政党制は無理ですな。
04/3/10
カタカナ表記の時代的変化


カタカナ表現の時代的変化──インシュリン?
 カタカナ表記は時代とともに変る。
 ぼくはSEXをセックスと書く世代だが石原慎太郎さんは「セクス」と書く。「我がヰたセクスアリス」だからセクスのほうが正統なのだろう。でも今の時代セクスと書いたら小さいツを抜かしたと思われる。

 過日テレビのボーリング番組で「ガタ」と表記していた。排水溝、溝のGutterである。ぼくはガーターと表記してきた。一般もそうだろう。女の靴下のガーターはGarterである。いま『広辞苑』を引いたら、靴下はガーター、ボーリングのガーターは「ガター」としていた。Rの数がひとつ違うから、靴下はガーター、ボーリングはガターが正しいように思える。とにかく今の日本語は音引きが多すぎる。マヌケになっている。とはいえ「ガター」と言ったらまだ奇妙な気がする。「ガタ」に至ってはボーリングという前提条件がないと日本語として通じまい。それをテレビがやっていたので新鮮だった。

 ヴィタミンのベータカロチンはカロチンと覚えたが最近は「カロテン」のほうが主流のようだ。これはCarotinならカロチンなのだろうが、Caroteneもあるから流動的か。ただこういうのは後から出てきたほうが強く、今時カロチンと言ったら古い人と思われそうだ。
 先日突如思ったのだが、デジタルってDigitalなんだよね。いやほんと英語を知らないのでデジタルってDegitalかと思っていた。Degitalなんて英語はない。Digitalならディジタルだろう。と思って英和辞書を引いたら、まっさきに「ディジタル」と表記し、次に「デジタル」としていた。だったらデジタルと言ってきたぼくがおかしいのか。いや世の中、かなりの部分デジタルで通っていた。ともあれきょうからディジタルにしよう。

 そんな中、ホルモンのインシュリンは「インスリン」で定着した。ぼくは膵臓からのホルモンとしてインシュリンと覚えた。高校生のころか。マスコミが変えたのはいつからだろう、意識したのは十数年前になる。いつしかインスリンになっていた。これもぼくの時代にそう言ったならなんだか東北なまりみたいだし失笑されたことだろう。Insulinは発音附き英語辞書を聞くとやはりインスリンと聞こえるし、古い辞書でもインシュリンとインスリンを併記しているのが多い。最初になぜインシュリンになったのだろうと素朴に思ったが、これ、インシュリンのほうがむしろ発音しやすいのだと気づく。インスリンて言いにくい。
 マイクロソフトのエンカルタ百科事典等、外国系のもので調べたらインスリンで統一されていた。一応親切にインシュリンでも引けるようになっているものもあったが、そのページに行くと文中の表記はみなインスリンだった。一方、小学館国語辞典のようにインスリンでは引けないものもあった。古い版だ。最新版では改訂されているように思う。

 元来こういうことを気にして楽しむほうだったが、ここのところ切実な問題とは感じていなかった。これまたなぜだろうと考えたら、放送関係の仕事をしなくなっていたからだと思い至った。活字世界ではどうでもいいことなのだ。こういう発音例は一応アナウンサの規定として社内で統一されているはずである。今度M先輩にその規定表を借りて気になるいくつかを調べてみよう。ATOKで別発売されている共同通信記者用の辞書を買えば手っ取り早いのだが、あんなゆがんだ記事を垂れ流すところの辞書は使いたくない。
 と思っていたら以下の記事。きょうのものである。インスリンに統一されたのではないと知りおどろいている。

コーヒーを飲めば飲むほど糖尿病予防

 フィンランド国立公衆衛生研究所の調査で、コーヒーを飲む量が多い人ほど糖尿病にかかる危険が小さくなるとする結果を、10日発行の米医師会誌(JAMA)が伝えた。同研究所が35~64歳の約1万4600人を調査した結果、1日3、4杯のコーヒーを飲んだ場合、飲まない人に比べ女性で29%、男性で27%糖尿病にかかる率が減少。1日10杯以上飲んだ場合、女性で79%、男性で55%の減少となった。 コーヒーに含まれているクロロゲン酸が血糖値調整に間接的役割を果たしている可能性があるほか、カフェインが膵臓からのインシュリン分泌を促進、血糖を減少させることも考えられる。米ハーバード大研究チームなどが行った別の調査でも同様の結論が出ているという。(ニッカンスポーツより)

 この記事を読んでまたキョセンの「みのもんたに殺されそうになった」を思い出した(笑)。すでになんどかもうここにも書いているのだけど、みのもんたのテレビでココアがいかに体によいかと特集したのを真に受けたキョセンが、それまで飲まなかったのに一日に何杯もココアを飲むようになったら血圧が上がり、あこち体の具合が悪くなり最悪の状態に陥ったが、やめたら元にもどった、あのまま続けていたら死んでいたとみのを恨むエッセイを書いたのである。いまもって惜しかったと思う(笑)。もうすこしだったのに。
 今回のこの記事でコーヒー業界はこれを前面に出してアピールするだろうし、単純な人は気持ち悪くなりつつ毎日10杯のコーヒーを飲んだりするのだろう。キョセンと同じ事をいう人がまた出てきそうだ。
04/3/10
ベータ版


 上記、耳慣れている(目慣れているか)ベータ版なることばをなんの疑問もなく使ったが、念のためどれほど一般的なのかと辞書を引いたらぼくの持っているフツーの辞書にはどれも載っていずちょっと焦った。そんなに偏ったことばだったか。検索下手だがなんとかネットの「Yahoo コンピュータ用語辞典」というサイトにたどり着き、以下の解説を得た。

ソフトウェアの開発途上版のこと。特に、製品版(無償ソフトウェアの場合は正式配布版)の直前段階の評価版として関係者や重要顧客などに配布され、性能や機能、使い勝手などを評価される版を言う。ベータ版は他の開発途上版と比べて重点的にバグ(プログラムの誤り)を解消しており、正式版の機能を一通り備えた完成品に近い状態だが、バグがあったりシステムに影響を与える場合があるため扱いには注意が必要である。また、一

定期間が過ぎると使えなくなるベータ版もある。
 便利だなあ。もしもインターネットがなかったらぼくは明日の朝一番で本屋に行き、新語辞典、コンピュータ用語辞典で調べていた。調べて確認してからUPしたろう。しかしこれでは本は売れなくなるよね。ネットで無料で調べられ、さらにこれらは毎週のように改訂されている。調べたい新語のない新語辞典なんかより遙かに便利だ。この種のことではもう活字文化は絶滅だろう。
 たまたま接続中だからそう言うことが出来た。いつでも調べものができる常時接続の魅力を知る。やっぱりそういう時代なのか。
 なお物書きのくせに新語辞典を、パソコン好きのくせにコンピュータ用語辞典すら持っていないのかと笑われそうだが、ぼくはこういうものには一切興味がない。辞書を引いてまで身につけねばならない知識とは思わないからだ。上記の水冷機の文でも冷却水の入れ替えが不要であるということを宣伝文では「メンテナンスフリー」となっていた。なにもこんなことばを使う必要はない。今までのことばで足りる。
 新聞を読みこなすために父は毎年新語辞典を買っている。あっという間に使えなくなってゆく過去の新語辞典がかなしい。と書いていて思い出した。ぼくも「現代用語の基礎知識」を毎年買いそろえていたのだった。自信を持って居直っから日は浅い。
04/3/10
いっさい


 きょうは何度か「一切」ということばを書いた。先日近くの温泉に父を送り待っているあいだ、『新潮文庫の100冊』の太宰治を読んでいたら、彼は「一さい」と書いていた。『斜陽』だったか。なんか奇妙に新鮮に映った。
 本来佛教用語であり「いっせつ」と読むこともある。ぼくの場合、結局がぜんぜん結局じゃない場合は「けっきょく」とひらがなで書いているように、一切もこれからは「いっさい」とひらがなにすべきように思う。
04/3/19
相撲中継の日本語


相撲中継の日本語──外来語はストップのみ
 相撲について書こうと思いつつ書かないまま早くももう六日目である。早いものだ。アナウンサの言葉遣いに関して書こうと思っていた。
 相撲業界には力士名や親方名にいい日本語があって好ましいと高島俊男さんも何度か書いている。

 ぼくはNHKの相撲中継に不満を感じことがなかった。一方、テレ朝の「大相撲ダイジェスト」には不快なことばかり連続していた。その辺のことを考えてみると、それが洋風和風の切り口の問題なのだと気づく。
 末期の「大相撲ダイジェスト」は無意味なコンピュータ・グラフィックなど多用し本筋とはズレたショーアップ路線に走っていて見るに値しなかった。それでも見ていたのは視聴率低迷で打ちきりかと噂されていたからである。テレ東の将棋番組の打ち切りですこしばかり危機感を持っていた。私が見ても視聴率のモニタになっているわけでもないから意味はない。それでもとりあえず応援の気持ちで見ては、見るたびに不快になっていた。昨年九月で何十年か続いた番組が終った。すぐにNHKが深夜と明け方にNHK版大相撲ダイジェストをやってくれるようになり、これがテレ朝的虚飾を取り払った本来の姿のダイジェストだったから、ろくでもないテレ朝の番組が終ってくれてよかったと快哉を叫んだものだった。

 ただこれに関しては全面的にテレ朝を非難する気もない。民放はスポンサと合間に広告代理店を挟んで成り立っている。「大相撲ダイジェスト」のような番組にもスポンサと広告代理店が入っている。常にワンクール=三ヶ月単位で考えるテレビ局と、目新しいことをやってスポンサから金を引き出す広告代理店は、なにかをせねばと思っている。なにもせず、勝負を放送し、ゲストの親方が解説するただそれだけでいいのだが、それでは代理店は金を儲けられない。新日プロレスを「ギブアップまで待てない」とやった感覚が相撲番組にも押し寄せる。やらなくてもいい無用なCGを使ったりしてスポンサに金を使わせようとする。失敗に終り熱心な視聴者が離れたりする。悪循環だ。ひじょうに醜悪な悪循環だけれど、それをしてスポンサから金を引っ張り出すのが広告代理店とテレビ局の仕事だから仕方がない。出来ることなら「これからも金は出す。スポンサでいる。だからよけいなことをせずに今まで通り淡々と放送してくれ」と鶴の一声で決めてくれるような大御所スポンサがいるといいのだが、そういう世の中でもないようだ。テレ東の「早指し将棋選手権」は相撲好きの笹川良一のおかげでもっていた。彼が亡くなり営業がかき集めてきたスポンサに受けようとあれこれ始まったときにあの番組が終ることは決まっていたのだろう。相撲や将棋の番組をいかにいじろうとたかがしれている。その意味では醜悪を通り越してこっけいとすら言える努力である。でもそれが民放なのだからしょうがない。
 ともあれ結果としてテレ朝撤退はよりよいNHKのダイジェスト番組を生み出して瓢箪から駒となった。

 ここからが本題。
 なんでNHKの相撲中継に不満を感じることがないのかと考えたら、あのいらだつカタカナことばがほとんどないからだと気づいた。私は、高田延彦がモチベーションを連発するのを醜いと感じ、慎太郎さんがやたらむずかしい英語を使うのにも日本語で言ってくれと思うぐらいカタカナ嫌いだ。
 先日M先輩からもらってひさしぶりにJ-Waveの仕事をしたが、それを仕切っている人の書いている定番ナレーションがカタカナばかりで頭が痛くなった。私の書いたのはそのナレーションに挟まれた語りの部分だ。あちらに合わせるのが仕事だから私の部分が浮かないように気を遣った。
 しかしこの問題に関しては自分の中で結論を出している。『お言葉ですが…』の高島俊男さんに目から鱗を落として貰った。つまり「日本人は本来外来語好き。むかしの漢字、今の英語」なのである。要するに四文字熟語を会話に混ぜるのも小難しい英単語を交ぜるのも根っこは同じなのである。今のカタカナことばの氾濫を日本語の乱れだとか、そんなむずかしい英語にはついてゆけないとか言うのは、カタカナと英語を漢字に置き換えても同じなのだ。

 この件に関して「英語はダメ、漢字はうつくしい」という浅はかな風潮は唾棄すべきだろう。
 昨年だったか、もう一昨年か、テレビ東京でそういうことを競うスペシャル番組があった。漢字の得意な家族の対抗戦だ。あの大食い競争と同じ番組である。「数字の入った四文字熟語」なんて問題が出て、父、母、子が家族対抗で、一蓮托生、二束三文、四面楚歌、五臓六腑、七転八倒なんてのを延々と言い争う。出なくなったら負けだ。小学生のこどもが私の知らない四文字熟語を連発していた。
 それを見ていて我が身の無教養を恥じるとか感心するとかの気分はまったく起きなかった。それどころか気持ち悪くなってチャンネルを替えた。それは赤ん坊に英語を教えて、幼稚園児の時ももうウチの中では英語で会話させていました、なんて子供自慢の夫婦に感じるのとまったく同じ気味悪さだった。
 高島さんのお蔭で、英語崇拝も漢字崇拝も同根なのだと悟れたのは私にとって大きな進歩だった。

 カタカナことばが乱舞するわけでもなく、かといってそれらしき漢語が跋扈するわけでもなく、と考えたとき、大相撲中継は見事なまでに「日本語の世界」なのだった。正当な日本の世界だからである。まわし、しめこみ、ちょんまげ、力水、等の様子用語。立ち会い、決め手、決まり手、まった、等の勝負用語、力士の名、春日野、武蔵川、高砂、九重、のような部屋の名、上手投げ、下手投げから始まる決まり手の名、すべて英語がないのはもちろんだが、漢字世界もくどくはなく、ほどほどなのだった。
(豆知識のコーナーで、大相撲協会に統一される前には、大阪相撲にカタカナの力士がいたことを紹介していた。)

 四時から六時までのラジオ中継を、いくつぐらいカタカナは出てくるのだろうとそれを意識して聞いた。出てきたカタカナは「ストップ」のみであった。それも初めての解説だという不慣れな親方が「朝青龍の獨走を誰かにストップして欲しい」と言ったのである。ここはぜひとも日本語で「とめてほしい」と言って貰いたかった。もしもそうだったならひとつもなかったことになる。ここまでうつくしい放送とは気づいていなかった。ああもちろん出身地であるモンゴルとかロシア、グルジアはあったけれど。
 テレビの放送でも、「先場所の勝負を録画でご覧ください」と言う。いまどき「ろくが」も珍しい。アンチャンネーチャンに「ろくがして」と言っても通じないのではないか。かくいう私もこの『作業記録』で「ヴィデオに録る」と頻繁に使っている。まあ録画なんてのはヴィデオが出来てから普及したサ変名詞であり、べつに大切にする必要もないが。
 私は野球もサッカーも見ないが、その理由として中継アナウンスが嫌いであることも大きいと気づいた。競馬もテレビアナがどうしようもないのでラジオで聞いて画像を見るようにしている。ラジオが正当派放送なので助かる。
 多くの趣味の中から相撲と将棋が大きな位置を占めるようになってきたのは必然だったのだろうか。格闘技と競馬は横文字の世界だけれど。
04/3/19  
因果な性格

 先日ASCIIをASKIIと間違って書いたことに気づく。こういうミスも不思議だ。水冷システムの記事を読んでいたら、そこが情報サイト「ASCII24」にリンクしていた。その記事を読んでいるうちに、「おれ、先月アスキーのことを書いたとき、もしかしてASKIIと書かなかったか?」と思ったのだ。さいごにIがふたつあるのは覚えているが、なんかCをKと書いた気がした。検索で調べたら出てきた。こういう勘違い間違いはまだまだいっぱいあるのだろう。それにしても毎度書くが、そういうことを一気に調べてくれるのだからコンピュータは便利だ。

 手直しした後、それをメモしておくのに「修正」というアイコンが欲しいと思い立つ。平凡だが「虫眼鏡」がいい。間違いを探していて見つけたという雰囲気だ。パソコンにインストールされている素材を調べたが気に入ったものがない。ここに入ってるものだけでも自慢できるほどあるだろうが。手持ちの何冊もの素材集で調べてももういっぽだ。この素材集も興味のない人から見たらなんとまあと笑われるほどある。好きなんです、こういうことが(照笑)。
 ネットに繋いでフリーの素材を探す。こんなときほんとにインターネットってのは便利だなと思う。生活、というかパソコンライフに浸透してしまっていると実感。もう足は洗えない。
 フリー素材を提供してくださっているかたのサイトを覗いたりして、けっきょくマイクロソフトのごくあたりまえのものが気に入った。
 それは連結した画像だったので写真加工ソフトでその部分だけを切り抜く作業をする。
 その画像に「修正」と文字を入れようとして、他にことばはないかと思う。インストールされている「類語辞典」で調べる。左のように類語が出てきた。
 同じ音の修正と修整はどうちがうのだろう。



しゅう‐せい【修正】
〓よくないところを直して正しくすること。「―案」
〓品行などがおさまって正しいこと。

しゅう‐せい【修整】
〓ととのえなおすこと。
〓写真で、原板・印画の傷を消し、または画像の一部を削り、描き加えるなど手直しをすること。
〓複製を鮮明にする目的で、原図にエア‐ブラシをかけて手入れをすること。レタッチ──『広辞苑』より


 同じ音でこんなのもあった。
しゅう‐せい【修成】
修正して完成すること

 もしかしてこれがいちばん適切か。
 とまあ「ASKIIをASCIIに直した」と一行書くだけなのにこれだけ寄り道しているのだから時間はいくらあっても足りない。面倒な性格である。できあがったのがこれ。
 倦きることがないのはいいが、こんなことばかりやっていていいのか、おれ。
04/4/2
モロハノヤイバ──ついでに捲土重来──さらについでに元兇

 風呂上がりに数分見かけたチクシのショーで、アメリカからのレポータが「モロハノヤイバ」と言っていた。両刃の剣の間違いである。これは字に書けば両刃の刃と重なっているから誤用がすぐにわかる。頭で覚えただけなのだろう。汚名挽回と同じくよく間違われる例として有名だ。でも芸能人ならともかくニュースショーのレポータが言ったのでおどろいた。
 ファミコン世代はこんな間違いはしないように思う。RPGで両刃の剣はよくあるアイテムだからだ。こういう子供時代のすりこみの記憶は強い。

芸能人ならともかく」と書いたのでついでに。
 賢いふりをしている芸能人がそういうミスをするとみっともない。ヤマシロシンゴとかワダアキコがよくやっている。かの稀代の毒舌家・ナンシー関が、テレビで板東英治が捲土重来を「ケンドョチョウライ」と言い、そう発音した芸能人は初めてだったので彼を見直したと書いていたことがある。それを読んだだけでなんとなく私の板東英治を見る目は変ってしまった。こういうことって、ちいさいけれどおおきい。

 さらについでに、学生時代、元兇をがんきょうと読んでしまったときの知的後輩の私を蔑んだ目が忘れられない。とはいえその目線が気になり辞書を引いてげんきょうと学んだのだから感謝もしている。でもその割りにはあいかわらずバカなので恥ずかしい。
04/4/2
ジュンプウマンポ


 きょう読んだ『Yomiuri Weekly』だったか(先週号)、テレビドラマ「砂の器」に触れ、映画、原作との違いを語っているコラムがあった。書評のコーナである。松本清張作品を薦めるのが目的だ。
 この作品に関して誰もが口をそろえるのは野村芳太郎作品の出来の良さだ。かくいうぼくもその一人になる。筆者もそうだったようで、今回原作を読み返してみたらあまりに映画と違うのでおどろいたという。彼(彼女だったか)の記憶している「砂の器」のシチュエーション、ストーリィはみな映画からのものだったとか。ぼくも読み返したら自分の「砂の器」に関する記憶がすべて映画からのものであることに驚くに違いない。
 その秀作映画の中に、警察会議のシーンで順風満帆をジュンプウマンポと言うシーンがあるらしく、筆者は「誰も気づかなかったのだろうか」と不思議がっている。これはほんとに不思議だ。こういう誤読は、識者でも勘違いしている代わり、無智な人が偶然それだけ知っていたりして、まさに三人寄れば文殊の智慧なのである。そうして映画制作現場とは三人ではなく百人もが寄っているところではないか。大勢のスタッフの前で演じ、何度も何度もフィルムを見直して編集してゆくはずだ。あんな名作にこんなチンケな熟語読み間違いがあるとは信じがたい。

 ところでテレビドラマでは重要なテーマである癩(らい)病に関する部分をスッパリ切り落としたという。そうでなければ今の時代、お茶の間に届けるドラマにはなり得なかったろうが、それじゃ気の抜けたビールであり、どこに緊張感があるのかわからない。スマップの中居主演でテレビドラマ化と聞いたときから首を傾げていた。それを伏線とせず話を進行させたなんて、いったいどんなドラマだったのだろう。

03/4/13
錯そう


 イラクの人質拘束事件で「錯そう」なることばが文字通り乱舞した。「情報が錯そうしている」のようにだ。テレビでも新聞でもどれほど見たろう。使えない漢字(使ってはならないとお役人が決め事をした漢字)をひらがなで書き、熟語の意味がわからなくなるという日本語の醜態の極みである。
「そう」ってどんな字だっけと考える。「糸偏に宋じゃなかったか!?」と思う。ほどなく自分たちでもその愚に気づいたのか読者から批判があったのか「錯綜(そう)」なる表記が現れ、綜の字は私の推測でよかったとわかる。難しい漢字など知らない私でも思いつくぐらいだから難しいものではない。これは送りがなではなくここに私が書いたように下にカッコをつけその中にひらがなを書いていた。なにもそんな面倒なことをしなくても……。自縄自縛ってヤツである。

 思い出すのは「拉致」である。これも北朝鮮拉致事件が表に出てくるまでは「ら致」と書いていた。なんとも奇妙に感じたものだった。
 高島俊男さんが『お言葉ですが…』の初期に「学生らイタされる」と題して書いている。「学生拉致される」が「学生ら致される」と書いてあったらだれだってそう読んでしまう。1995年の文章だ。今では「拉致」とテレビでさえ使っているが、それはほんの数年前からでしかない。
 使用頻度の少ない漢字は使わないよう国から通達がでる。決め事が発令される。当用漢字、常用漢字の愚である。さらには新聞社がそれにのって自分たちでも決め事をしてより規制したりする。アサヒの作ったアサヒ漢字とかもあるそうだ。

 アサヒと言えば、同じく『お言葉ですが…』に、アサヒが他社とは違ってこだわって表記する柔道の篠原のシノの字に関する話があった。これは漢字制限の先頭を切るアサヒには珍しく篠原のシノの字を、ここに書いている普通のものではなく画数の少ないヘンな字を使い、他社がみな篠原なのに頑固にアサヒだけそれを使い続けたのである。オリンピックのころだ。高島さんの追求からそれは「篠原が個人的にこだわっている略字」だったとわかる。やがてアサヒも普通の字になった。篠原の人権(笑)を大切にしたのだろう。先頭切って漢字制限をするかと思うと異様なこういうこだわりを見せたりするのはさすが自己陶酔のアサヒである。それはたとえば「喜田」という苗字の人が「喜」の部分をあの草書体の崩し字「七が三つ」で書いていたようなものであって、験を担ぐ篠原のこだわりはそれでよいが、なにもアサヒがつきあう必要はないのである。

 ところで同じく高島さんの『お言葉ですが…』ですがを引いたが、この「篠原のシノ」と「ら致」は根本的に違うので忘れないうちにメモしておこう。「篠原のシノ」とはアサヒを読まない私は知らないことであったし、知ってもいかにもアサヒらしいと苦笑するのみのどうでもいいことであった。一方、漢字とひらがな混じりの不恰好な熟語「ら致」は、その前から気になってならなかったのである。この「本を読んで問題に気づく」と「日常の中で前々から疑問に思っていた」にはおおきな相違がある。
 錯そうもまた、多くの日本人が奇妙に思い、そうしてまた私と同じように、「錯そうのそうの字ってどうだっけ?」と思ったことだろう。

 これらの漢字制限がよくないのは「上の人たちの都合のため」だからである。「いっぱい漢字があって、それを(愚かな民衆に)好き勝手に使われたんじゃわずらわしい。規制してしまえ!」だ。なにしろその根本にある「当用漢字」が、敗戦と今までの文化否定による「当面は使用するがそのうち全面禁止する漢字」から始まっている。雑であり非人道的だ。日本語をすべてローマ字表記にしようなんてことが真剣に考えられていた時代の産物である。しかし今そう考えている日本人はいまい。毎年すこしずつではあるが人名に使える漢字が増え続けているように。
 漢字なんてのは、お上が規制しなくても、あまりに画数が多くてとてもじゃないが頻繁に書いてはいられない字は自然に淘汰される。それをなにゆえ強制的にお上がやったかと言えば、自分たちの事務処理に都合がいいようにである。まさしくご都合主義からでた漢字制限だった。

 民を管理するのがお上の仕事であるし、それに世界一忠実に従うのが日本人だ。お上がそういう決め事をするのは毎度のことであり、従順な民が従えばいつものことだった。ところが規制以来これほどの時が流れたのに未だに従順な民が従っていない。不満の声がくすぶり続けている。それはいかにこの制限が民の日常を無視した悪報であるかの証左である。
 自分たちの決め事に従わせようとするお上、それを表面上は受け入れながらも長年の習慣を消そうとはしない民、よくある官と民のいたちごっこである。ところが今の時代、この真ん中に最もタチの悪いのがいる。マスコミだ。官の決め事を民に伝えているうちはよかったが、やがて自分たちが権力になると、自分たちでも決め事を始め、それに民を従わせようとし始めた。新聞をより簡単に楽に作るためにこの活字制限に乗った。民の味方として官と戦ってくれるはずのマスコミが官そのものになったのだ。漢字が真におかしくなったのはこれからだろう。「拉致の拉はめったに使用しない字なので使わない」と官は当用漢字(常用漢字)として前々から制定していた。しかし心あるマスメディアはその後何十年も「ら致じゃなんの意味かわからない」と「拉致」と表記していたのである。決め事を押しつけようとするお上と、わかったふりをして従わない民と、民の味方をするマスコミと、三者はそれなりのバランスをとっていた。マスコミが自分たちの都合を民に押しつける官になったとき、最悪の事態が起きた。それは正しい漢字を拾ってくる活字職人の世界が画一的処理能力のみを優先するコンピュータ印字に変った瞬間だった。

 とんでもなく画数の多い字、まずめったに使われない字は、自然に消えてゆく。それは自然にまかせればいい。
 めったに使われない字だからと「拉致」を「ら致」にする。これはお上の横暴である。だがお上とはいつでも横暴なものだった。これにすぐに従うマスコミがわからない。いやお上に従っているのではなく自分たちの都合か。
 それでもまだこういうひらがなは良かったのかもしれない。不幸な事件ではあるが北朝鮮問題のようなことが起きると復活するからだ。「拉致」の「拉」が復活すれば「拉麺」も普通になり、そもそも「ラーメン」とはどういう意味かも理解されるようになるだろう。
 あわれなのは「交叉点」の「叉」のようにこれぐらいしか使われないからと使用禁止にされ、あまつさえ「交差点」と音が同じだけの字を当てはめられ意味不明にされたしまった熟語だ。

 私は難しい漢字を使うことをかっこいいとは思っていない。書けないし書く努力もしてこなかった。そのことにコンプレックスはない。それはこのホームページに漢字が少ないことでもわかる。もしも漢字を書けないことにコンプレックスを持っていたらワープロを多用して必要以上にむずかしい漢字を使うようになる。そんな人は多い。それをかっこわるいというのが私の感覚になる。漢字多用も英語多用も同じ事だ。

 バラというのは「薔薇」と書くからうつくしいのだという人がいる。私は今でも書けないし書いたこともない。それでも文中に「漢字の薔薇でなければならない」と思ったときはこの字を書く。それぐらいでいいと思っている。日常で常にバラを薔薇と書いている人がいたら、たいへんだねえと同情する。そのこだわりに感心するより、薔薇といちいち書かなくてもいいバラとばらを生み出してくれた先人に感謝する。
 夏目雅子は、時のCMプロデューサ・伊集院静が「ちゅうちょ」をちゅうちょすることなく「躊躇」と書いたことにうっとりし、惚れたと言われている。この逸話を聞いたときは「そうか、そういうことだったのか」とまなじりキッと蒼空を見上げ、何度も躊躇と書く練習をした。お蔭で今でも書ける。ありがとう、夏目雅子さん。あなたは亡くなったけどこんな形で生きています。躊躇と書くたびにあなたを思い出します。

 冒頭に書いた私が「錯そうのそうの字を綜と思い出せた」は大きな意味を持つ。普段は使わない字であっても難しいものではないから誰もが思いつく。知らなかったとしても糸偏に「宗」だから「そう」と読めるだろう。こういう簡単な字を使ってはならないと決めたお上もくだらないが、もっとくだらないのはその取り決めを忠実に守り「錯そう」と表記しているマスコミだろう。というのが拙文の主題。

 ところでしみじみと疑問に思ったのだが、なにゆえ今回こんなに「錯そう」が連発されたのだろう。テレビも新聞も「錯そう」だらけだった。
 高島さんは交叉点ならぬ「交差点」という意味不明の漢字に対し、「だったら十字路でも四ツ辻でも他の日本語を使えばいい」と書いた。今回「情報が」と来たら、そのあとはなんとしても「錯綜」でなければならなかったのだろうか。他のことばはなかったのだろうか。ちなみに今『広辞苑』を引いたら「錯綜」の使用例として「情報が──する」となっていた。情報があれこれ入り交じって不確かな情況のときはとにかく「錯綜」しなければならないらしい。
 ともあれ今回の連発により「錯そう」はめでたく「錯綜」になれる可能性がある。それにしても「錯綜」という簡単な漢字をお上が使ってはならないと決めたからと「錯そう」と書くのはあまりに愚である。そんなマスコミのやっている官批判なんてたかがしれている。
 アサヒシンブンが戦争中、負け戦も勝った勝った勝ったと大嘘を書きまくり、一転して戦後はそれには一切触れずずあたかも一貫して戦争反対の立場をとっていたかのような厚顔無恥をやっている体質は(その他、スターリン礼賛、北朝鮮賛美も同罪)この辺のことにも通じている。
04/4/15
肉の争い


 三流エログロ雑誌を読んでいたら以下のような表現があった。
 とその前になんでそんな雑誌を読んだかだ。「実話ダイナマイト」という名である。こういうのは不思議なものでたま~に読みたくなる。しかも立ち読みではなく買ってしまった。興味のあるのは表紙見出しの「K-1外人選手をSEX接待した女」ぐらいだから立ち読み一分ですむ。それをまるで万引きでもするようにこそこそと買ってしまった。内容はおそろしくレヴェルの低い暴走族方面の話だったりするから、一読してしみじみとなんでこんな本を……と苦いものが浮かんできてみじめになった。逮捕されたときのタシロマサシやウエクサセンセーもこんな気持ちになるのだろうか。せっかく以前はすべてといえるほど買っていた大好きなパソコン雑誌ですら月に4冊と決めて雑誌中毒からの更正を計っているのにこれじゃ元の木阿弥である。こんなことがもたまにある。そうしてまた印刷直前に小銭でもつかまされたのか、肝心の「K-1うんぬん」は見出しだけで載っていないのだった(笑)。

 その中の「釈尊会」を報じる部分に、あの女優ワカムラマユミと結婚した150キロの怪僧について、「親子の争いは、ついには骨肉の争いにまで発展した」とあったのである。親兄弟との金銭トラブルを巡る醜い争いだからこの言いかたは自然のようですこしズレている。そこでの表現は、「親子間の醜い争いは次第にエスカレートし、ついには骨肉の争いにまで発展した」ノヨウニ使われているのだ。つまりこれを書いたライタは骨肉の争いをその文字の「骨肉」から、「争いの中でも最もおどろおどろしい醜く入り組んだもの」という最上級の意で使っているのである。しかし言うまでもなくそれは親子兄弟等血族の争いを示すものだからこの使いかたはヘンだ。どうでもいいことだが、私にすると「あまり見たことのない珍しい誤用」になるのでメモした。

 まったく宗教ってのは儲かるもんなんですな。
 宗教を「精神の癌」とする言いかたがある。それでいうなら癌は誰の体にもあるから、なるほど出てくるか出てこないかの差、と解釈すれば理解しやすい。若くして出る人もいれば、出ないまま天寿を全うする人もいる。なにかのきっかけで突然出てしまう人もいる。オウムとか統一教会に染まってしまう人はそれになる。今の戦争も畢竟「キリスト教対イスラム教」と簡単にくくることが出来る。北アイルランドもプロテスタントとカソリックの争いだし。

 ところでワカムラマユミなどと書いてしまったが私はこの人を知らない。今回の(といってももう旧聞だが)ことで初めて見た。これが話題になったころに書こうと思ってメモしたことを書いておこう。
 この怪僧とワカムラマユミの結婚会見、政治家・後藤田(フルネーム失念)とミズノミキの結婚発表が同じ時期だったのである。ワイドショーでは並べて報じていた。するとテロップが錯そう(笑)して、怪僧とワカムラマユミの下に「新居は議員宿舎です」と出たのである。これには笑った。あの150キロの怪僧が議員宿舎から出てきたらおどろく。

 この「怪僧」ってのも辞書になく作った。「怪僧ラスプーチン」他、一般的なことばのはずだが、坊主関係に気を遣っているのだろうか。見たこともなく、一生使うこともないことばが山ほどあるのに、奇妙である。

 「山ほどある」と言えば、イラクで保護されたあのタカトーとかいうバカ女が、「言いたいことは山ほどありますが」と、まるで自制しているかのように大見得を切っていた。おまえに対し言いたいことが山ほどあるのは善良な日本国民のほうだ。
04/4/21
ビリヤードの綴り


 きょうビリヤードのことを書いた。ファイルを保存するのにビリヤードという英名を附けようとして、「さて、ビリヤードってどんな綴りだ?」と考えた。biliyardか? 日本人の常識だとこうなる。
 しかし辞書を引いたらbillardsなのだった。ビルアーズ、ビラーズ? 「ヤ」の音はない。しかもsの附く複数形。それでいて単数扱い。「ハスラー」を始めビリヤード物は映画をずいぶん見ているのにこの綴りにはまったく記憶がない。いやはやなんとも。
 ここまで無知なのも困ったものだなあと古い辞書を引いたらしっかり赤線が引いてあった。きっとそのときも「えっ! Yはないんだ。末尾にSが附くんだ。それでいて単数扱いなのか」と同じ事を思ったのだろう。おめでたい話だ。でも人生こんなもん。
04/4/27
Classic Rock


 インターネットを始めたころの恥話。思い出したのでメモのつもり。
 インターネットラジオに繋いだ。アメリカの局。
 私はこの「Classic Rock」という音楽を流している局を多数見つけて自分好みと喜んだ。そこで流している音楽はClassicとRockだと思ったのである。嘘のようなバカ話だが本当だ。そんなものあるはずもない。「Roll Over Beethven」に代表されるように野放図なRockと学術的(?)なClassicは対立構図ではないか。そんな発想をした私がおかしい。
 でもだからこそまさか古いRockをClassic呼ばわりしているとは思いつかなかった。Classic音楽とRock音楽を二本立てで流しているアメリカのミニFM局なんてのがあるはずはないのだ。そんなとんでもない誤解をしたのはRockに対する形容詞としてClassicなんて言うはずがないとの思いこみだった。そしてそれは自分にとってすこしも古くない音楽だったからますますこんがらがった。この英語の奇妙さは日本語ならなんだろう。若年寄、とかそんなたぐいか。
 しかしやっぱり、たかだか30年程度前の音楽に「古典」とくっつけるのはおかしい。歴史のない国アメリカの最大の劣等感は古いものへのあこがれだというが、それをここに当てはめたら失礼だろうか。それとも50年代、60年代のポップスにオールデイズと使ってしまったのでこういう言いかたしかなかったのか。

 アナログ回線ではインターネットラジオは無理だった。ブツ切れになってしまう。速い回線にしたらその楽しみも増えるのか。

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