2003
03/6/27
ものの当たり外れ
(03/6/27)


 あ、先日の引っ越しでやはりどこも壊れていないステレオセットを部屋に放置する形(大家に後で精算するから業者に処理させてくれと頼んだ)で捨ててきた。レコードプレイヤーつきのセットだった。もうレコードは聞けない。あれも胸が痛んだものだ。それはそっちに書くとして。

03/11/12
キイボードのキー配列──ブラインドタッチの思い出


 先日読んだ雑学話にあった話。タイプライターのキー配列は、「あまり速く打つと当時発明されたばかりの機械がついてゆけず壊れてしまうので、速く打てないようわざと使いにくい配列にした」のだとか。その証拠、というか名残のひとつが、「最も多用するAを使いづらい左手の小指に配列したこと、たいして使わないJを(最も能力の高い)右手人差し指に配列したこと」なのだとか。なるほどね。
 ぼくはカナ入力なのであまり関係ないが、アルファベットもブラインドタッチできるから、この話の真実味は理解できる。このブラインドタッチってコトバももうすぐ日本語では使われなくなるな。今でもほとんどがタッチタイピングだ。この世にブラインドは存在しないらしい。

 日本語のカナの配列もかなりいいかげんだと、これはもう出たころから問題になっていた。現在の「JIS第一配列」があまりによくないと「第二配列」が発表されたが普及しなかった。その他にも「森田式」はPC-98を使っているころから話題になっていた。今話題なのはなんだっけ、ナライ式? とかそんな名前。JIS配列に不満を持ち、あたらしいもの大好きなぼくだったが、結局そっちに走ることなくフツーのキイボードに落ち着いてしまった。いろいろと缺陥はあろうが、慣れてしまえば必要にして充分だった。

 いまでもよかったと思うのは「富士通親指シフトキイボード」に走らなかったことだ。あれはたしかにすぐれていた。あまっている両手の親指の有効活用だ。ブラインドタッチは10本指ではなく8本指打法である。親指シフトは真の10本指打法だった。理論的に優れている点は一目瞭然だったし、打鍵も速いから覚えようかと思った。
 そのときぼくはすでにJIS配列でブラインドタッチが出来るようになっていた。と書くと簡単なようだが、シャープの『書院』を両手の人差し指という二本指打法でやっていた身に、それを習得するのはけっこうきつかった。今ならフリーでネットにあふれているタイピング練習ソフトをかなりの値段で買ってきて、指を引きつらせつつ練習した。ギタリストであるから小器用なほうではあるが、このときやはり左手の小指が担当するAやQには苦労した。不自然なキー配列だと痛感したものだった。しかしそれも慣れてしまえばなんてことはない。むしろぼくは今その不自然さに感謝している。

 右脳を鍛えるには左手を使うのがいい。指先はとくに効果的だ。右利きが左手の指に細かいことをさせるのは苦痛である。機会も少ない。最も使わないのが左手小指ではないか。それがキイボードなら簡単に出来る。多用する。せねばならない。せざるを得ない。今も左手小指を多用しながらタイピングしつつ、このことによる脳への効果は絶大なのではないかと思っている。寝転がっているだけで腹筋運動と同じ効果があるようなものだ。ぼくはいまだにケイタイでメイルをやっていないが、やるときは左手でやろうと思っている。右手のほうが何倍も速い。遅くて不器用な左手でやることは苦痛だけれどそのことで右脳に刺激を与えようと思っているのだ。と考えるほうなので、今では日本語キイボードの不自然な配列にも腹立たなくなった。

 そうそう親指シフトの話。そんなに優れている点を認めているのに、そういうものが大好きなぼくが、なぜ「走らなくてよかった」と思っているかの理由。
 まず情況は二十年前、ちょうど忙しくなってきて、いまさらそれを覚えている暇もなくなってきたからだった。それがおおきい。すでにJIS配列でブラインドタッチが出来るし必要にして充分だった。毎日それで書きまくっていた。それを振り出しにもどして覚えなおしている暇はない。そうして手を出すことなくきてしまった。出発点のワープロが、富士通のオアシスではなくシャープの書院だったこともおおきい。もしも暇だったなら、たいして変化のないパソコン小物を交換してはパソコン自体を動かなくするような改造ばかりしている凝り性である。「この世で最も優れた速くて機能的な方法は何か!?」の追求に走っていた可能性は高い。親指シフトはそれなりに普及していたし、キイボードも市販されていた。その最右翼だったろう。
 走らなかったのは単なる事実、結果である。「よかった」と思うのは、どうにもああいうものにこだわるヒトの性格性癖を見ていると、ねじれてしまい意固地になっているのだ。それを見て「ああ、フツーでよかった」と思ったのである。

 ぼくは頑固で頑迷でひねくれている。たとえば若い頃から「おれがもしも愛知県豊田市に住んだらぜったいニッサンのクルマに乗ろう」なんて思っていた。豊田市でニッサン車を乗りまわすことを夢見た。「世界で一番売れているカローラだけにはぜったいに乗らない」とも思っていた。そんな目立ち根性とかひねくれ根性をかっこいいと思っていたのである。一方でぼくはまたスター大好きなミーハーでもあった。プロレスでも競馬でも強いチャンピオンが大好きだった。負け続けている穴馬を追いかけるなんて趣味はなかった。いつでも最強馬を素直に賛美するほうだった。弱いレスラ、かっこわるいレスラは嫌いだった。
 すなおな礼賛感覚とひねくれ根性は誰でももっている。大事なのは、それをどのようにのばし、バランスよく成長させ、歪まないようにするかだ。このとき大切なのは影響を与える父母であり教師であり友人になる。
 もしもぼくが親指シフトに走りその愛好者だったなら、すぐれているそれが少数派になり、キイボードを手に入れることすら困難になってゆくという迫害(?)された情況の中で、愛情とこだわりは益々燃え上がり、サヨク闘士のようなヒステリックな親指シフト礼賛運動を続けていたろう。このホームページも「親指シフト普及運動」をメインテーマにしていたかもしれない。なにしろすぐれている。なのに世の中に認められず絶滅しそうなのだ。ヒトが最も燃え上がるシチュエーションである。そういうことからは、絶滅寸前の社民党支持者が燃えている気持ちもわかるのである(笑)。

 親指シフトほどマイナではないが、同じようなことを「マック愛好者」に感じる。
 マック愛好家には、マッキントッシュという最高に優れた先進的なパソコンを使っているのだという誇りと、なのにその優れているものが、マックの猿まねの唾棄すべき(おお、「書き屋のためのATOK辞書」によるとこの表現はダメだそうな。「軽べつすべき」と「べつ」をひらがなにして書くのだとか。あほらしい)WINDOWSなんてくだらないものにシェアで圧倒され凌駕されているという不愉快な現実のはざまで、バランスを崩したヒステリックなヒトが多いのである。
 これも社民党や共産党に似ている。彼らは「世界で唯一の平和憲法」を護り、「戦前の暗黒の時代にもどってはいけない」と主張する唯一正しい自分たちが、「今の悪い世の中で受け入れられず少数派になっている」から、益々燃え上がってゆくのである。
 いやもちろん共産党や社民党よりもマックはすばらしい。かつて音楽や画像処理をやるとしたらマックしかなかったし、日本にNECのPCしかいなかった時代、それがどんなにすぐれていたかはわかっているつもりだ。高かったけど。
 ただしマックユーザーが、そういう困った性癖に走ってしまっているのは確かだろう。それはしょうがない。「優れているけど少数派」になったなら、ヒトはそうなるものである。
 一例として『美味しんぼ』の原作者・カリヤテツがいる。Mac使いで社民党の彼は、『美味しんぼ』の中で主人公ヤマオカシローに口汚くWINDOWSを罵らせていた。アサヒシンブン(劇中では東西新聞)に勤めるヤマオカはぐうたら社員でパソコンなど触りもしないのに、MacとWindowsの話になると雄弁にMacの肩を持って一席ぶちはじめる。つまり劇中登場人物に代わって原作者が前面に出てきてしまうのだ。笑える部分である。それにしてもキョセンにしろカリヤにしろあの種の思想のヒトはどうしてあんなにオーストラリアが好きなのか(笑)。バックパッカーの名言じゃないけど「問題外のオセアニア」ですぜ、あそこは。

 親指シフトでもマックでも、それに走っていたなら、ぼくは典型的な心の偏った過激なユーザーとなり、その価値を正当に判断できない連中を口汚く罵っていた可能性が高い。それを思うとき、大勢の側にいてよかったと思うのである。サヨクの運動に走り、そこでいじめぬかれたら、いじめられたという復讐心のみが肥大して世の中が見えなくなる。知り合いの競馬評論家の弟に、学生運動をやっていたために公安と警察にいじめられて一週間で大学を退学になり、その後ひねくれた人生を送った人がいる。彼はオウム真理教の地下鉄サリン事件も、「あれは公安が仕組んだ事件でオウムはやっていない」と本気で今も主張している。こうはなりたくないものだ。

 大勢の側から客観的に物事を見てきたから、今では「死んでも乗らない」とまで思っていたカローラを、「世界で一番売れているクルマだからこそ、多くの改良をして磨き抜かれてきた名品。量産することによってコストが下がり、値段よりもずっと品質がよいすぐれたクルマ」とすなおに認められる。よかった。一歩間違うと「地下鉄サリン事件は公安のしわざ」と言っていた可能性もあったのだ。そういう生き方をしているから、本人としては、なにも考えずカローラを買っておけば間違いあるまいと購入するヒトよりもカローラのことをわかっているつもりでいる。

 自公保連立が保守新党消滅により自公連立になった。もともと保守新党なんてちいさな政党だしたいした価値はあるまいと思うのだが、当事者識者によると、自民党と公明党のあいだに保守新党があることによって緩衝剤となっていた価値は大きいのだそうな。自公と二党の連立になり、公明党の発言力がウンヌンと懸念されている。そういうものなのかね。なにごとも獨占になったら腐るのはたしかだ。水はよどんではいけない。
 NEC寡占状態の時代にはNECの互換パソコンを作っていたためにたびたび訴えられているEPSONを応援していた。IntelのCPUだけになっちゃつまらないとAMD(Athlon)を応援してきた。そしたら消えるどころか一足早く64bitを発売して大健闘している。MacもG5を発売して意気軒昂だ。これが正しい。獨占になってはつまらない。ライバルがいてこそ発展する。これからも健全な競争社会であって欲しい。といって社民党の存在価値は認めないが(笑)。
11/23 こだわりの度合い
 このごろ秋葉原ではなく新宿の西口でパソコンを見ることが多い。理由は単純で田舎からの日帰り上京だから、府中からの帰りに秋葉原まで回らず手軽に新宿ですませているだけだ。それ以前に懐具合が大きいか(笑)。しみじみ思うのだが、金がないのに欲しいものを見て歩いてもすこしも楽しくない。競馬の帰りには金がないと決まっている。行くときは30万儲かったらあれを買おう、100万儲かったらあれを買おうと計算している。きちんと妥協もしていて、運悪く大穴が出ず3万円しかもうからなかったら、そのときはしかたないからアレだけで我慢しようなんても思ったりする。思えばこのときがいちばん楽しい。しかし現実はプラスどころか有り金全部取られて、先日なんか250円しかサイフになかった。250円しかない状態でヨドバシカメラの店内を歩いていてもまったくつまらないのだと知った。

 そんな中、物の欲しがり度合いで考えることがあった。ヴィデオデッキである。
 今まともに動くヴィデオデッキが四台ある。みな古い型だ。いちばん新しいのでもS-VHSの初期の物になる。高かったなあ、15万円した。それだけS-VHSがすばらしかったかというと疑問だ。その中から今、もともと田舎に置いてあった古い型のを一台だけ使っている。あとは物置きだ。リモコンの液晶が薄くなってきて見にくい。めがねを外して、斜めにかざしたりすることもある。これも10万円ぐらいした。いまは1万数千円で売っている。こういうことに関しては確実に時代はよくなった。これで政治、旅行、ヴァラエティ番組等を録画し、時間の出来たときにCMを飛ばしつつまとめ見している。DVDプレイヤは再生専用の安物を使っている。これはパソコンでも見られるがまず使わない。

 新宿西口ヨドバシカメラ店内を歩いていると、秋葉原のパソコン専門店とは違うから、いつの間にか家電フロアに行ってしまい、ついでだからと自然に見ていることがある。最新型のハードディスクレコーダと録再型DVDを同時搭載した機種が8万円台で買えるようになった。安いものである。欲しいな、そのうち買おうと思いつつ見ていて、自分の嘘に気づいた。
 ぼくは欲しい物があると無理をしても買ってしまう。子供の時からお年玉なんてもらうそばから使ってしまったし、学生時代も払うべき家賃で電化製品を買ってしまい大家に叱られるなんてのは日常茶飯事だった。二十代の頃もシンセサイザや電子楽器を月賦で買っていて、いつもマルイの支払いに追われていた。それが今のパソコンや馬券に続いている。そんな我慢の出来ない性格のぼくが「HDDレコーダが欲しい」といったいいつから言っているのか。何度この欄に書いたことか。
 それぐらいの金はあった。でもそれで違う物を買っている。欲しいと思ったことも書いたこともなくても、目に附くと欲しくなってしまい買ってしまったパソコン周辺機器が山とある。それらの金があればHDDレコーダなんて何台も買えていた。つまりぼくはあたらしいヴィデオデッキなどべつに欲しくなかったのだ。それは結婚しない男と同じで、だらだらとしないのはじつはしたくないのである。する気がないのだ。ぼくの言っていたHDDレコーダが欲しいは、ぜんぜん結婚する気などない男が、そろそろおれもしないとと適当に口にしているのと同じような真実味のないものだった。

 ぼくにとってのヴィデオデッキの用途は今の古い機種で必要充分である。なぜかつては5台も使用していたのかと言えば、それは「そういうことをせねばならない。しないと時代に遅れてしまう」との怯えがあったからだろう。今はそれがない。テレビなど見なくても人生になんの影響もない。適当に興味のある番組を録画し空いている時間に見る。それで充分だ。それすら見ないままのテープが次第に増えつつある。  二十数年間形式的に録画してヴィデオテープはかなりたまっているが、それらを見ることすらないぼくが(果たしてテープは無事なのだろうか)記録するための最新型機械を本気でほしがっているわけがないのだった。そんな自分の嘘に気づいた。もちろん金がありあまっていれば便利なのは間違いないから買うだろうけど、今は優先順位と逼迫度合いの話だ。

 同じく「ぼくはロバート・ジョンソンを聴いたことがなかった。ただのロックキッズだった」なんていかにも反省っぽいのも嘘。聴く気なら今すぐにでも聴ける。でも聴こうとはしない。それでいてJ-pop(?)だかなんだかの若いネーチャンの新作CDは何枚も買って聴いている。こういうのもいかにもほんとっぽいけど嘘なのである。
 ぼくの「萬葉集を勉強しなきゃ。せめて百人一首ぐらいそらんじられるようならないと」なんてのも嘘。する気がないから無知のままで来た。きっと死ぬまでこのままだろう。仕事関係で緊急にせっぱ詰まることでもない限り。
 誰もがほんとだと思い込んでいる嘘をもっている。たとえば地方出身者の「たまには田舎に帰って親孝行したいと思うんだけど、なかなか時間がなくって」なんてのも嘘だ。その気になれば時間はいくらでも作れる。金だって何とかなる。田舎に帰って親孝行するより都会で遊んでいるほうが楽しいから帰らないだけだ。ぼくのなかなか買わないHDレコーダと同じである。親孝行したいと思う気持ちを嘘だとは言わないけど、かなりの部分、それは自己正当化のための欺瞞である。でもそれはそれで正しい。誰もがそうしてきた。親も若いときはそうだったろう。だからこそ「親孝行したいとき親はなし」が輝く。
 こういうふうに自分の嘘を正面から瞶めると落ち込んでくるからあまりしないほうがいい(笑)。

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